あたりまえのこと

倉橋由美子の『あたりまえのこと』(朝日文庫)を読む。

あたりまえのこと (朝日文庫)

あたりまえのこと (朝日文庫)

本書は、倉橋の小説論である。
倉橋由美子は、<サルトルカミュカフカの三位一体>を目指した『バルタイ』を「明治大学新聞」に書き、平野謙の評価を得て、デビューした。<バルタイ>とは、党のことであり、主人公は<パルタイ>に所属しようと努力してみるが、結局は所属すると同時に<パルタイ>から出る意思を固める。主人公が党員や党の組織にかんじるのは、<オント(恥)>である。主人公は、自分が<バルタイ>に取り込まれ、水いらずの関係になることに、<オント(恥)>をかんじるのである。
倉橋が、『バルタイ』で多用した<オント(恥)>ということばは、外的世界に融和することへの嫌悪のことである。こういう意味合いでは、他の実存主義文学との共通点を持っている。たとえば、埴谷雄高は<自同律の不快>ということばを多用するが、これは「私が私である」ということへの嫌悪を示す。また、初期の大江健三郎には、恥辱や嫌悪という世界と私のあいだのズレを意識させることばが頻出する。
しかし、倉橋由美子の場合、世界と私のズレを際立てることばが、羞恥(オント)であったことに注目したい。この羞恥は、彼女の正統性やあたりまえのことに対する信頼のもとに発せられたことばであり、美意識の現われなのである。そして、この性質が倉橋を三島由紀夫澁澤龍彦に近づけるものなのである。
倉橋は、埴谷雄高に対し「反<埴谷雄高>論」を書き、その妄想への嫌悪感を表明し、大江健三郎に対しては小説は読めるが、その進歩的知識人・戦後民主主義者の立場から書かれたエッセイの類いは、読むに耐えないとする。
パルタイ』や『スミヤスキトQの冒険』というタイトルから、倉橋を極左と勘違いする人がいるようだが、とんでもない誤解である。倉橋は、保守主義者で、貴族主義的な王朝文学を理想とし、「歴史的かなづかひ」を尊重する人物なのであり、そういった意識のもとに、<バルタイ>や<スミヤキズム>、果ては<アマノン国>の価値観を、徹底的に風刺するのである。
『あたりまえのこと』においても、その意識は変わらない。世に蔓延る幼稚な精神や、病的な精神を斬り、正義を信頼せずニヒリズムを蔓延させる進歩思想も絶つ。彼女は、閉じた内輪だけで通用するような文学に、自己満足の退廃を見、返す刀で現在売れているだけで、将来残らないような文学も斬る。
その斬り方は、鮮やかで、小気味良いのだが、はて、そのような厳しい条件をクリアできる作品は、倉橋の作品も含めてどれだけあるのか、とも思う。多分、この見方でいけば、「あたりまえ」のことを自明のこととせず、まず疑ってかかる私は、倉橋の敵なのだと思う。しかしながら、それを承知で読んでいるのは、倉橋という<毒薬としての文学>は、私の毒を中和し、自家中毒に陥るのを防いでくれるからだ。私は私を疑うために、私のアンチ・テーゼを必要とする。