反世界から

倉橋由美子について、反応があったので、引き続き書くことにします。
jituzon さんから「倉橋由美子ほど自分の思想を確立している小説家もいないのではないか」というコメントを貰いましたが、これは倉橋由美子が自分のstyleを持っていることと無縁ではないように思います。
今度、文庫化された『あたりまえのこと』(朝日文庫)134ページには、次のようなくだりがあります。「……(前略)……それは多分、文学関係の「学会」のようなものなのでしょう。作家はこの学会の会員で、その研究成果である論文、いやこの場合は小説作品を、「学会誌」と目されるいくつかの雑誌に発表したり、……(中略)……単行本にして出したりする義務があり……」(詳細は現物でお確かめください。)
この記述を読んだとき、『パルタイ』や『スミヤキストQの冒険』を連想しました。倉橋は、ここで文壇を「学会」と言い換えることで、この組織は<バルタイ>の如き、訳のわからない複雑な官僚機構に変貌し、その組織のために必死で努力する会員が、<苦力(クーリー)>に見えてきます。結果として、妙なおかしみが生じます。
倉橋のstyleから、精神の自由自在な運動をかんじとることが出来ます。
初期の倉橋由美子の小説は、大きくふたつのタイプに分かれます。
(1)迷路のような訳のわからない世界のロジックが登場し、その謎を解くために、アルファベットの主人公(普通はカフカに由来するK、植物的な女性になるとL、グラマラスな女性になるとM、革命家になるとQ)が代入されます。アルファベットの主人公は、ドタバタ喜劇を繰り返しますが、そのドタパタによって、その迷路の性質が明らかになってゆきます。ここで、主題となっているのは、迷路の方であり、主人公の肉付けではありません。
(2)意識の地層にドリルで風穴を開け、無意識を掘り出そうとするシュルレアリスティックな作品。
初期の中で、一番倉橋の世界を鮮烈に打ち出したのは、「どこにもない場所」だと思います。この作品は『婚約』(新潮文庫)の中に収録されています。
http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/page018.html
この作品の背景にあるのは、サルトルの『聖ジュネ』(新潮文庫)の存在論です。「どこにもない場所」には、革命家と、自身の考えを体現する芸術家が登場します。革命家は、この世界Aを、A’に変えようとしますが、芸術家はAでもA’でもないどこにもない場所、存在の世界ではない無の世界を志向します。
この後、倉橋は現実レベルでは禁忌とされる醜悪な事柄を、虚構の世界で聖化する作業に取り掛かります。『聖少女』(新潮文庫)然り、『夢の浮橋』(中公文庫)然り、『城の中の城』(新潮文庫)然り。
倉橋は、それまで自身の<反世界小説>について、小説は贋物の世界を描くとするなら、私の小説は小説の贋物なので、贋物の贋物であるとしてきましたが、『城の中の城』ではさらに手の込んだことをします。この小説には、外枠があり、中身は普通の小説らしい体裁をした贋物の贋物(つまり贋物の贋物の贋物)であり、外枠ではそういういかがわしさを読み手に承知させたうえで読ませる、つまり毒だとわかっているのに摂食させるわけです。