『パピエ・マシン 下 パピエ・ジャーナル』

ジャック・デリダの『パピエ・マシン 下 パピエ・ジャーナル』(ちくま学芸文庫)が刊行された。このなかで、巻頭論文『「彼は走っていた、死んでもなお」やあ、やあ』が注目されます。
彼とは、ジャン=ポール・サルトルのことです。この巻頭論文はサルトルが編集主幹を務め、サルトルの死後、クロード・ランズマン(映画「ショア」の監督でもある)が編集主幹を務めるようになった雑誌『レ・タン・モデルヌ』の50周年記念に書かれたものです。
「彼は走っていた、死んでもなお」とは、デリダが幼年期に見たユダヤ教の購いの日での鶏のイメージに拠っており、その鶏は生贄にされ、首を切断された後も、走り出したというのです。
デリダは、自身の哲学はサルトルとは異なること、『レ・タン・モデルヌ』には関わってこなかったことを繰り返し言明しながらも、自分がサルトルから得たものが多いこと、アルジェリア時代から『レ・タン・モデルヌ』を読んできたこと、この雑誌がフランス中心主義的ではなく、公平な見方を示してくれたこと、自分は終始サルトル側にいたということ、そして、自分をサルトルの後継者と考えていることを表明するのです。
デリダの手法もまた、サルトルとは異なり、彼はサルトルエクリチュールを引用しながら、そこに使われている「救済」「救う」という言葉に着目して、サルトルを読み込んでゆくわけです。
サルトル実存主義の直後に現れた構造主義は、科学的厳密さの立場からサルトルへの異議を申し立てていたわけですが、ポスト(後期)になると、再度構造はどのように変動するかが問われ、もう一度科学的慎重さを考慮しながら、サルトルのやったことを再確認しつつある印象があります。デリダにせよ、クリステヴァにせよ、サルトルから得ているものの大きさを隠そうとしていません。
日本では実存主義ポスト構造主義という括りで、ジャーナリスティックに見る傾向が強く、両者の繋がりに余り注目する人が少ないのですが、前のめりになにかをしなければと考えている人にとって、サルトルは死んだあとも併走すべき人であって、過去の人ではないのでしょう。
ともすれば、前期構造主義は、歴史は変わらないとして、なにもせずあぐらをかいている人に利する性格を持っていました。それが、後期になると、再び倫理的な観点からアンガージュマンの意義が唱えられるようになります。(デリダも、この論文でアンガージュマンを軽視する最近の論調を批判しています。)