敵側の書物を

例えば、G・ルカーチの『實存主義かマルクス主義か』(岩波現代叢書・絶版・1976年第27刷刊行)という書物がある。

当時、実存主義にシンパシーを感じていた私は、これを敵側の書物ということで入手した。これは新刊の本屋の片隅に奇跡的に売れ残っていた本(950円)なのである。
ルカーチは『歴史と階級意識』を書いたハンガリーマルクス主義者である。ここの閲覧者からすると、笠井潔が『哲学者の密室』で、政治的には一見対極的だが、ハイデッガールカーチは同型の理論構成をしていると指摘したことで、記憶されている方がいるかもしれない。
ここで、ルカーチが言っているのは、「實存主義」(←字が古い!)は、帝国主義段階のブルジョワ思想であり、ドイツ観念論の危機に呼応して誕生したもので、資本主義側の思想だということである。「實存主義」は、「第三の道」を志向するが、これは危機に瀕した資本主義を救うためのものである。しかしながら、これは根本解決ではなく、人はマルクス主義の立場に立って、労働者階級を主体とする新しい民主主義を推進することでしか、抜本的な解決ではない、というのである。
こうして、ルカーチハイデッガーサルトルメルロ=ポンティらの哲学を取り上げ、彼らの虚無主義が、危機に直面した資本主義が「帝国主義段階」に到達し、悲鳴をあげているのだと実証しようとするのである。
ルカーチは、ソヴィエト流の公式マルクス主義とは異なる修正マルクス主義派だが、それでもこの実存主義理解は、まだ外面的で皮相すぎる見方であると思う。実存主義は、必ずしも帝国主義や資本主義とリンクしていないからである。
事実、その後メルロ=ポンティが『ヒューマニズムとテロル』を書き、左旋回し、サルトルもまた「共産主義者と平和」を書き、左側のシンパとなってゆく。メルロ=ポンティは、『弁証法の冒険』で非共産党的左翼になるが、サルトルに関しては『方法の問題』『弁証法的理性批判』で、自身をマルクス主義哲学に寄生するイデオローグとさえ規定するようになるのである。
笠井潔が、ハイデッガーの哲学をルカーチ・タイプとして同一視してから、叩くというやや強引とも言える戦略に出たのは、彼自身の過去がルカーチおよび後期サルトルの主体的マルクス主義だったことに由来すると考える。