平和主義・人道主義は、今?

文学の世界で、平和主義・人道主義というと、レフ・トルストイロマン・ロランの名が浮かぶ。政治・思想で、平和主義・人道主義(非暴力・無抵抗主義)というと、マハトマ・ガンジーの名が浮かぶ。
しかし、平和主義・人道主義の観点から最も先鋭的に、法律として具現化してしまっているのが、日本国憲法であると考える。
私の中では、日本国憲法の第九条というのは、ジョン・レノンの「イマジン」級の価値を持っている。
日本国憲法に関して、あれはGHQ統治下での押し付け憲法であるという論法がよく聴かれる。歴史的経緯からすれば確かにそうなのだが、私に言わせれば「押し付け憲法」ではなく「棚ぼた(棚から牡丹餅)憲法」である。
連合軍のモダンな国家概念の信望者たちは、あの時日本を二度とまっとうな主権国家として一本立ちできないように、骨抜きにしたつもりだったと思う。しかし、骨抜きにした結果、世界的に最もラディカルな主権在民で、男女平等で、平和主義的な憲法が出来上がってしまった。
9・11以降、改憲論議が盛んで、自民党のみならず、民主党日本国憲法にメスを入れようとしている。見えないテロリズムの脅威や、いつ暴発するかも分からない北朝鮮への不安を大義名分にして。
しかし、日本国憲法は本当に時代遅れになってしまったのだろうか。
私はそうは思わない。
時代遅れと感じているのは、モダンな国家概念の信望者たちだけである。彼らの理想型は、強力な国家主権を確立し、正式に軍隊を持つと内外に宣言し、国際的なリーダーシップを取ることである。彼らは、国の内と外の境界線を、強固な目に見える形にしようとしているのである。これは、あたかも免疫系のシステムに似ている。
しかし、東西の冷戦が終焉した現在、彼らのモダンな国家概念こそ、時代遅れになりつつあるのではなかろうか。
私には、日本国憲法が予告する世界像は、モダンな国家概念という前提を踏み越え、境界がなく、相互浸透するような世界を要請しているように思えるのだ。
では、現在の日本をとりまく状況に対して、護憲論の立場からどういう見解を示せるのか。日本国憲法は、弱腰ではないか、と改憲論者は言うであろう。
しかし、弱腰に見えるのは、日本政府が日本国憲法のポリシーを、国際的にしっかりと主張して来なかったからに過ぎない。
日本国憲法を振りかざして、「私たちは憲法に明示しているように、徹底的な平和主義を唱えているのに、軍隊どころか、核の軍事利用をするとは、人間をなんだと思っているのか。」と世界を一喝したり、「中国では天安門事件の際に、民衆を弾圧したが、私たちの国は、日本国憲法に基づく国民主権が当たり前で、あのような人権蹂躙は野蛮だと思う」と意見を述べ、平和主義・人道主義の立場からの論戦を行っても良かったのではないか、と考える。
ところが、日本政府が今まで行ってきたことは、日本国憲法のポリシーを貫くことではなく、アメリカの都合に合わせて、場当たり的な解釈改憲であった。
日本国憲法を、世界の遅れた憲法の水準に後退させることを回避するためには、国際連邦(世界政府)運動と手を結ぶ必要があるかも知れない。国外の情勢を、理想に近づけないことには、現実原則によって理想がゆがめられる可能性があるからである。常任理事国である大国の拒否権によって、しばしば重要なことが決められない現在の国際連合に代わって、大国による戦争すら議決によって停止可能な国際連邦(世界政府)を作るのである。
(注)人間中心的な考え方は、現在では傲慢すぎて出来ないが、人道主義は捨てることはできないと考える。