階層秩序(再録)

薔薇十字制作室の次回転送用のデータを完成させた。あとは転送するだけである。
teacup出張所と、薔薇十字日記は、やはり廃止することにした。枝葉を切ることにより、一本一本を強くすることをねらいとした措置である。
そのため、teacup出張所に書いた原稿を、こちらに再録することにする。

「階層秩序 I」2004/10/7
 カール・ヤスパースの哲学を参考に、価値の階層秩序というものを考える。
 各レベルには、限界があり、人間は限界状況に直面すると、より高いレベルに超越を図る。
(1)動物的個我……まず、最初は利己主義的な動物的個我のレベルである。この段階において、人は自分の利益のためだけに生きる。しかしながら、他者との利害対立によって、このような快楽原則を貫くことは難しいと悟る。ここから、次のレベルにジャンプする。政治哲学的にみるならば、狼と狼の闘争のごとき世界といえる。
(2)意識一般……イヌマエル・カントによって示されたレベルである。カントの認識論は、科学的合理主義のエッセンスを指し示す。この段階において、人はなにが正しいか、間違っているかを客観的に知ることができる。客観知を基に、法というものが成り立つ。これは、物事を平等に見る見方をもたらす。人は、社会生活を営む上で、このような基礎が不可欠である。政治哲学的にみるならば、これは社会契約論による平等社会の実現とリンクしている。また、カントの恒久平和の思想は、今日的観点から見ても重要である。
(3)絶対精神……ヘーゲルによって示されたレベルである。ヘーゲルは精神の弁証法的な発展によって、人が超越的なものへ発展してゆくとする。その彼方にあるものが、絶対精神である。これは哲学的に考えられた神、メタレベルである。政治哲学的に見るなら、国家の絶対的価値を認める立場に相当する。
(4)実存……しかしながら、思弁的に考えられた神は、抑圧的な観念に過ぎない。また、国家の絶対的価値を認めることは、政治的に考えると、全体主義の肯定に直結する。ヘーゲルは無限の自由の探求からはじまり、無限の専制の肯定に論理的な帰結をする。実存もしくは単独者の視点は、再び個人のもとに生きられた人生の意味を奪還することをもたらす。

「階層秩序 II」2004/10/12
心理学者A・マズロー(翻訳者によりマスローとも表記される)は、欲求の五段階説を打ち出した。これは人間の欲求の基底には、生物としての生理的欲求があるが、それが達成されると、欲求が高次化し、人間としてレベルアップするというものである。マズローの心理学は、人間性心理学と呼ばれ、実存主義との親近性を持っている。
(1)生理的欲求
(2)安全的欲求
(3)社会的欲求
(4)自我の欲求
(5)自己実現の欲求
ヤスパースの哲学との共通点をみていくことにしよう。
ヤスパースは、他者との交わり(コミュニケーション)を重視するが、マズローも社会的欲求の達成の後に、自己実現への道を探ろうとしている。
マズロー自己実現のレベルは、ヤスパースにおける実存のレベルと類似している。
ヤスパースは、「人間であるとは、人間になることである」と説き、人は先天的に人間であるのではなく、限界状況に直面し、それを超越し、より大きな人間として成長すると考える。そして、成長の過程で、他者との交わりの大切さを説き、互いに自己を高めあう愛の闘いが必要であると説く。
マズローもまた、生理的欲求から自己実現に至る階層秩序を考え、徐々に人間は成長し、レベルアップすると考える。

「階層秩序 III」2004/10/12
マズローのいう生理的欲求とは、ジークムント・フロイト精神分析学におけるリビドーを指している。フロイトは、神経症の原因をリビドーという性的な欲動の抑圧に見出した。しかしながら、マズローが欲求の五段階説の底辺に、生理的欲求を置いたことは、フロイトの重視した性的な要素を無視しないが、自身の理論体系のなかでは一部にすぎないという態度表明と見ることが出来る。
ロシアの文豪レフ・トルストイは、『生命について』(「人生論」と翻訳されてきたもの)の中で、利己的な動物的個我と、利他的な理性的個我を対立させる。前者は、死によって滅びる「生存」であるが、後者は永遠の「生命」を生きるとする。そして、キリストや仏陀らが語ってきた永遠の「生命」とは、理性的個我のことであるという。
果たして、ヤスパースなり、マズローなりの示す階層秩序の底辺にあるのは、動物的個我であることは間違いない。では階層秩序の頂点にあるのは、理性的個我なのだろうか。
キリスト教的実存哲学者のヤスパースには、それに近いニュアンスが認められるが、ヤスパースキルケゴールニーチェを読んできた20世紀の哲学者であることを忘れてはならない。
サルを使った実験を重視するマズローに至っては、トルストイのようなナイーブな考えは微塵もないと言わねばならない。

「階層秩序 IV」2004/10/12
空海の十住体系について考えてみよう。
空海は心が住まう、要するに拠って立つパースペクティヴを10種類にわけ、第六住心に法相宗、第七住心に三論宗、第八住心に天台宗(天台法華一乗)、第九住心に華厳宗を置き、第十住心に自身の説く真言密教を置く。数字が大きくなるごとに、より高次の教えになってゆくが、下の階がないと上位の階が成り立たないように出来ている。

(1)第一住心 異生羝羊心……食と性のみに耽る凡夫、愚かな者。善悪の区別のわきまえがない状態。
(2)第二住心 愚童持斎心……倫理道徳に目覚めた段階。
(3)第三住心 嬰童無畏心……死後、天界に生まれることを願う段階。宗教心のはじまり。
(4)第四住心 唯蘊無我心……五蘊があるだけで、実体的な自我がないことを悟る段階。小乗仏教の空の哲学。初期仏教、アビダルマ仏教などの声聞乗の段階。
(5)第五住心 抜業因種心……ふとしたきっかけで自身の解脱のために仏道の修行をする小乗仏教の段階。
(6)第六住心 他縁大乗心……法相宗唯識派の段階。利他行が含まれるようになる。大乗仏教の始まり。
(7)第七住心 覚心不生心……三論宗中観派の段階。あらゆるものが不生であることを悟る段階。
(8)第八住心 一道無為心……天台宗(天台法華一乗)の段階。最澄は認識の対象と主観の対立を超えた真実の心の世界を説いた『法華経』に基づき、論書を教理にした他宗とは異なり仏説を基にしている天台宗が優位であるとした。
(9)第九住心 極無自性心……華厳宗の段階。もっとも深遠な哲学的世界観を示しているが、観照に留まり、密教の実践にまで至らない。
(10)第十住心 秘密荘厳心……真言密教の段階。第一住心から第九住心は顕教だが、第十住心から密教に突入する。顕教は塵を払うだけだが、密教曼荼羅という宝庫を開示して、究極のさとりにダイレクトに導く。

「階層秩序 V」2004/10/20
宮坂宥洪の『真釈 般若心経』(角川文庫)では、サールナートの考古博物館にある仏陀の誕生・成道(修行)・初転法輪(初説法)・涅槃(入滅)を描いた石造のレリーフをもとに、仏教の修行の階梯について考察している。
 宮坂宥洪によると、
一階……釈尊誕生の図。幼児レベルのフロア(出発地点)を示す。
二階……釈尊修行の図。世間レベルのフロア(世間における自己形成のレベル)を示す。
三階……釈尊説法の図。舎利子レベルのフロア(無我を知る小乗レベル)を示す。
四階……釈尊入滅の図。観自在菩薩レベルのフロア(空を観る大乗レベル)を示す。
屋上……釈尊入滅の図。仏陀の居るところ(人知を超えたレベル)を示す。
という。
 舎利子とはシャーリプトラという名の長老の比丘、釈尊の弟子の中で知恵第一といわれた人物を指す。観自在菩薩とはアヴァローキテーシュヴァラのボーディサットヴァ、つまり観世音菩薩であり、『般若心経』はアヴァローキテーシュヴァラがシャーリプトラに対して、プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ(般若波羅蜜多心)のマントラ(真言)を授けるという形式で、仏教のエッセンスが語られるのである。
 『般若心経』の批判対象は、アビダルマ(阿毘達磨)仏教にあり、根本上座部の分派である説一切有部の教えである。
 アビダルマ(阿毘達磨)仏教では、人間の生老病死の苦は、色受想行識の五蘊が無常であるとするが、ダルマ(法)だけはそれ自体で存在するもの(任持自性)であるとし、すべてのダルマは過去・現在・未来の三世にわたって実在する(三世実有・法体恒有)とする。
 しかしながら、観自在菩薩はより高いレベルにおいて、そのようなダルマを永遠に存在するものとし、これに執着するのは誤りであるとし、諸法は空(くう、実体がないこと)であり、諸法は空を特徴としていることを説くのである。

「階層秩序 VI」2004/11/4
仏教の考えの道筋を、哲学に置き換えて考えてみよう。(なぜ、このような作業をするかといえば、いかなる宗教にも関係なく合意できる地点を探るためである。)
仏教は、四諦説をとっている。諦とはサンスクリット語のsatya、パーリ語のサッチャのことである。四つの諦は、
(一)苦諦…苦として確実なもの。(注…確実なもの=アリヤ・サッチャ)
(二)集諦…苦の原因として確実なもの。
(三)滅諦…苦の滅尽として確実なもの。
(四)道諦…苦の滅尽に至る道として確実なもの。
を指す。
まず、苦諦は、四苦八苦する現実を指す。四苦は生老病死の苦であり、八苦はそれに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の苦を加えたものである。
苦諦は、われわれのさまざまな限界状況を指している。限界状況は、前にも述べたように実存哲学者ヤスパースの術語である。
実存主義者たちは、生老病死愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の苦しみから、哲学することを始めている。
例えば、キルケゴールの『反復』は、レギーネオルセンとの愛別離苦が、ハイデッガーの『存在と時間』は、死の苦が、ボーヴォワールの『老い』は、老の苦が哲学することのきっかけとなっている。
では、集諦について、仏教はどのように考えているのか。苦の原因として、仏教は十二縁起説(十二因縁論)を取っている。
まず、「無明」があり、先行する項目が縁となり、次に「行・識・名色・六処・蝕・受・愛・取・有・生」の順で生起し、最後に「老・死・愁・悲・苦・憂・脳」に至るというのが、十二縁起説(十二因縁論)である。
「無明」から「老・死・愁・悲・苦・憂・脳」に至る苦の生起過程を観ることを順観といい、「老・死・愁・悲・苦・憂・脳」から「無明」に向けて苦の滅する過程を観ることを逆観と呼ぶ。
五蘊とは、「色・受・想・行・識」を指しているが、それは無常であり、苦そのものである。
因縁論とは、われわれの世界のすべてが、互いに縁を持って生起しているとするものであり、関係論的な見方を指す。これは、実体論的な見方の否定である。仏教は、なにかを実体視して、それに捕らわれることから、解脱することで、苦を滅しようとする。
哲学者の廣松渉は、物的世界観から事的世界観へのパラダイム・シフトを唱えたが、これは仏教によるアナロジーである。物的世界観は、実体論を指し、事的世界観は関係論を指す。関係論とは、因縁論のことである。
廣松渉は、構造主義的な哲学者であり、存在論マルクス主義の分野において構造主義的(事的世界観的)な変換を行おうとした哲学者である。
構造主義とは、部分を実体化するアトミズムや、全体を実体化するホーリズムを排し、関係論的にアプローチしようとする方法論や考え方を指す。
構造主義者といわれる人には、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロース、哲学者で歴史学者のミッシェル・フーコー精神分析ジャック・ラカンマルクス主義ルイ・アルチュセール、文芸評論のロラン・バルトらがいるが、その考えのもととなっているのは、ソシュール言語学である。
ソシュールは、あるシーニュ(記号)において、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の側面に注目し、シニフィアンシニフィエの結びつきは恣意的であり、あるシーニュシニフィアンは、他のシニフィアンとの差異があって、そのシニフィエが決まってくるとし、これらのシニフィアンの体系が共時的に一気に与えられなければならないとしたのである。構造主義者は、差異性・恣意性・共時性を重視するソシュールの関係論的アプローチに影響を受け、それらを応用しようとした人々である。
苦諦が、実存主義の深いところで繋がっていたように、集諦の根幹を成す因縁論は、構造主義と深いところでリンクしているというのが、私の説である。

「階層秩序 VII」2004/12/22
構造主義は、差異性・共時性・恣意性を重視し、事象を関係のネットワークで捉えようとする。この場合、部分を実体化するアトミズムや、全体を実体化するホーリズムと鋭く対立する。つまり、構造主義は関係論であり、実体論ではない。
ところで、差異性・共時性・恣意性という特性を持った構造には、それを支える隠された支点が存在する。これは、ゼロ記号であり、大文字のSであり、サイファであり、ロゴスである。
ポスト構造主義は、このゼロ記号を批判し、スタティックな構造に変えて、動的に生成変化する機械や装置を問題にする。
これまで、仏教の哲学について、西欧哲学の側から読み直しを行ったが、ポスト構造主義のゼロ記号批判は、仏教の哲学のなかで、どのように位置づけられるのだろうか。
ここで問題になるのはアビダルマ仏教である。仏教は、そもそもはじめから事象の解明について因縁という関係論的なアプローチをしてきたが、根本上座部の分派である説一切有部は、三世実有・法体恒有を説いたのである。つまり、物事は関係論的に(因縁論的に)決まってくるが、それを支えるダルマは、過去・現在・未来の三世にわたって普遍的に実在するというのである。
彼らのいうダルマを、構造を支えるゼロ記号と見立てると、ゼロ記号批判をおこなったジャック・デリダ以降の思想と、アビダルマ仏教における恒久普遍的なダルマの実在を批判した般若心経における観自在菩薩がオーバーラップしてくることになる。
般若心経は、アビダルマ仏教の代弁者としてシャーリプトラが登場し、その上位のレベルに立つ観自在菩薩から、恒久普遍的なダルマの実在などなく、一切は空であると諭される様子を描いている。
こうして、実存主義から、構造主義(関係論)、そしてポスト構造主義(生成論)と、ひとつずつ階梯を上ってきたわけだが、上位の階に上るためには、下の階を通過する必要があり、また上位の階に上った後も、下の階は時と場合によって必要になるというのが、私の考えである。
まず、実存主義的な四苦八苦の認識がなければ、哲学のはじまりはない。苦の認識を経て、人はそこからの解脱の必要性を悟るのである。
また、一切は空で、ゆえに執着を否定し、所有を断ち切り、ひいてはあらゆる境界の思考(国境や人種、土地や血に縛られ、差別や断絶、争いを引き起こすといった思考)を否定したとしても、具体的な権力との闘いの際には、ひとりの実存者として闘わねばならないのである。
ポスト構造主義に移るからといって、それまでの過程を放棄するのではなく、それを構成する一部として、限定条件をつけて生かすことが必要なのではないか、と考えるのである。

「希望の灯」2005/1/21
世界が 終わる その前に
想いの すべて 伝えなければ
あなたへの 想い
いのち 尽きても
時を越えて 続いてく
Oh,my girl
崩れ行く世界のカオスの中に生きて
あなただけが 唯一の希望