海老坂武の『サルトル』(岩波新書)の影響なのか、急にサルトルが読みたくなった。

[この原稿は、はてな出張所掲載後、ミクシィに再掲示されました。]
海老坂は、デリダのことを嫌いだと語る。サルトルを褒めちぎりながら、一筋縄で割り切れないことを言うからだという。海老坂の語っているのは、デリダの『パピエ・マシン』に収録された『「彼は走っていた、死んでもなお」やあ、やあ』のことを言っているのだと思う。海老坂は、デリダの本音は、アンチ・サルトルにあるのではと邪推する。
デリダの論調というものは、方向としてはわからなくはない。彼はわざとわかりにくい書き方をして、意味を脱臼させ、多義的なテクストにつくりかえようとしている。
しかし、彼の脱構築は、テクストあっての脱構築である。われわれがデリダを真似るとすると、テクストに埋もれて、一生が終わることになる。
<書を捨てよ、町に出よう!(寺山修司)>
私がデリダより、ドゥルーズ=ガタリの方に好感を抱いているのは、彼らがテクストの外に読者を連れ出そうとしているからである。
そのドゥルーズが、クレール・パルネとの対話の中で、サルトルのことを、哲学の<戸外>を語ってくれた、<裏庭の涼風>だったと語っている。
例えば『聖ジュネ』。サルトルのこの大著は、かなり型破りなものだ。延々と(こてこてとというべきか!)悪と裏切りと密告について語りながら、どん底の中で押し開く自由の空間を語っているのだ。
なんとか主義者としてではなく、悪人として語る哲学書(!)なのである。大事なことは、悪人について語るのではなく、悪人として、ジュネと一体化して語るということである。
<善人なほもつて往生をとぐ、況や悪人をや(親鸞)>
確かにデリダも『弔鐘』において、またジュネについて語り、サルトルが語る聖と俗の弁証法の更なる外へ向かおうとする。この方向は正しいけれども、未だ頭脳ゲームの内にあって、この思考が具体的な生とどう切り結ぶのか、見えてこないところがある。
この面がクリアされない限り、ポストモダンは、毒にも薬にもならない思想として終わる危険性がある。たとえ、ロジックの面で優れていても、だ。
少なくとも、新帝国主義の台頭など、閉塞してゆく世界状況のなかで、デリダから勇気を得ることはありえない。むしろ、サルトル大江健三郎の方が、元気を与えてくれるのだ。
状況と対峙し、世界を変革するために発言をする、このスタイルは、サルトルから始まったといっても過言ではないのである。