フリードリヒ・ニーチェの孤独

『アンチ・クリスト』を書いたニーチェの周りは、キリスト教徒に囲まれていたわけで、それは日本でニーチェを論ずるのと、まったく違う意味合いがあるように思われる。

西尾幹ニ訳の『アンチ・クリスト〜キリスト教呪詛』(潮文庫)を紐解きながら、そんなことを考える。
ちなみに、西尾幹ニという人は、新しい歴史教科書をつくる会の名誉会長である。つまり、ニーチェは、キリスト教道徳という公の美徳に対して、孤立無援の叛逆をしたわけだが、この訳者は日本の公の美徳にべったりな人というわけである。これは、彼に限ったことではなく、ニーチェ学者には右派が多いのである。
キリスト教=弱さのニヒリズム
マルクス主義→天国を地上に引きずりおろし、無神論的に実現させようとする。キリスト教の亜種。
右派のニーチェ学者は、上記2種の思想への反発ゆえに、ニーチェに近づいた人と考えられる。
ところで、日本においてキリスト教マルクス主義を批判しても、命にかかわる危険にまでさらされることはない。これが、キリスト教国であれば、それなりの覚悟が必要である。
むしろ、日本において、これらを批判することは、日本の公の美徳(皇国史観)に照らして「模範的なまっとうな人間」であると看做されることが多い。
高橋哲哉の『靖国問題』を読み始めた。滅法面白く、かつ深く考えさせられる本であり、没入したせいか、短時間ですでに半分読了した。

靖国問題 (ちくま新書)

靖国問題 (ちくま新書)

この本は、繰り返し、身内の戦士を嘆く親族が、靖国神社による国家的な顕彰によって、喜びに転化してゆく事例をあげてゆく。
それを眼にしながら、かつての日本において、ほぼすべての国民を巻き込んだ国家規模の大量虐殺称揚カルトへの異和を強く覚えた。これは、大日本帝国という全体社会が望み、承認を得たとはいえ、他民族を虐殺し、かつ虐殺遂行のための自死に美とエクスタシーを感じ、さらには身内の戦没によって、晴れがましい栄誉の喜悦を感じる点で、異常なカルトと言い切ってしまってもいいだろう。
この宗教の悲しみを喜びに転化する心理的カニズムを、次の観点から明らかにすることができないだろうか。
ひとつは言語のレベルにおけるイデオロギー的洗脳という観点から。もうひとつは脳内麻薬物質による殺人と快楽の結合という観点から。
さらに、靖国の信者は、身内の死や、自死という苦痛や悲しみを、魂を震わすような快楽に転化できることから、宗教的・道徳的マゾヒズムという観点からも探求できるかも知れない。しかし、その快楽の頂点で、信者たちは優越性にひたるわけであるから、この宗教的・道徳的マゾヒズムは真性ではない。とすれば、真性をぶつけてやれば、或る程度のダメージを与えてやることが可能かもしれない。日本列島『Y計画』……。
しかし、『靖国問題』の冒頭で挙げられている岩井益子の発言「靖国神社を汚すくらいなら私自身を百万回殺してください。」は強烈なものがあった。それを読んで、今後、この教団を徹底的に穢す必要があると考えた。なぜなら、この発言が明らかにしていることは、この教団は人間を殺人マニヤに変える凄みがあるということであり、普通の神道ではなく、神道のブラック・マジック的領域をカバーしているということだからだ。
この教団は、笠井潔より手強そうなところも、気に入った。一生かけて戦うに申し分ない敵である。
それにしても、だ。敵を殺せ、しかも、自分の命も捨てろ、などという権力者が、いいやつであるはずがないではないか。問答無用で、悪だ。で、敵を殺すための武器を与えられ、じたばたしようと自分には死しか残されていない。としたら、選択肢は、ただひとつ。敵を殺すのではなく、自身に命令を下している権力の中枢の方に、その武器を行使するしかないではないか。
これは、現在のアメリカ軍についてもいえる。彼らは劣化ウラン弾の危険性を知らされておらず、劣化ウラン弾がごろごろ転がる中に配備されている。つまり、彼らの命は消費財と看做されているということだ。で、彼らには武器が渡されている。としたら、やることはひとつではないか。
どいつもこいつも、なぜ自分の命を奪うものに忠誠を尽くすのか。まったく解せないやつらだ。