ある論点

少し前の中日新聞の朝刊に載った記事ですが、靖国神社に取材をしたところ、靖国神社A級戦犯分祀を拒否し、戦争犯罪ということ自体をも、全く認めず、一宗教法人の扱いを受けている現在に不満を持ち、国家は靖国神社に対し特別扱いの優遇措置をすべきであるという見解を述べたというのです。
(この記事は、下のURLで読むことができます。)
私は、なんという厚かましい態度であることか、と考えると同時に、こう考えると靖国神社の態度の理由が見えてくるように思いました。
例えば、金正日は日本人の拉致という犯罪について、なんら反省の態度を見せず、憮然として解決の糸口すら未だ見えてこないわけですが、彼の頭の中では未だ朝鮮戦争および抗日戦争が持続しており、対米・対日の革命戦争が続行しており、戦争の手段として非道が非道と思われなくなっているせいなのだと……それと同様に、靖国神社もまた、その運営者の頭の中で未だ大東亜戦争が続行しており、ポツダム宣言を受諾した日本など認めていないのだと……実にとんでもないことですが、それが彼らの非常識の根拠なのではないかということです。
つまり、靖国神社という閉鎖空間の内側にだけ、まだ戦後が来ていないのであり、この異常なひずみを持った空間が、私たちの住む空間の隣に、パラレル・ワールドのように並存しているということです。そのため、靖国神社は、戦後の日本国憲法の精神など全く理解出来ておらず、これっぽっちも認めていないのではないか、ということです。
その結果、未だ戦前の思考をする靖国神社の視点から、日本人を見ると、実質的な信教の自由はないのであり、形式的なレベルであるとしても、靖国という超宗教の範囲内での自由に制限されているということです。だから、一旦靖国神社に合祀されてしまったら、反国家神道の立場のキリスト教徒だろうと、日本の展開した植民地戦争の犠牲となったアジア近隣諸国の人々であろうと、靖国の外に出ることは認めないのです。
無論、これは人権蹂躙である。しかし、人権という概念もまた、靖国神社の運営者には全く理解できない概念であり、戦後日本の空間の常識的概念であるというのに、靖国の敷地内だけはまだ戦後が訪れていないために、共通の常識を持ち得ないということです。
とすれば、靖国が現実を直視するためには、本当の「敗戦」を直視させるしかないように思われます。彼らは既に戦後の民主主義の空間の中では、存命の可能性のない概念にすがって生きているわけです。それは、彼ら自身が既に死んだ過去の残骸に過ぎないことが見えていないがゆえの行動と考えられます。彼らの頭脳には、個人に自由はなく、個人の命すら、国家のために接収されるべきであるという妄想が取り付いており、そうであるがゆえに戦後の現実が見えなくなっていると考えられます。
靖国神社は、「宗教法人」であることを止め、あらゆる宗教の上位に立つ「超宗教」になろうとしています。そして、戦前と同じように、国家と繋がり、さらに天皇制と結びつき、再度「国家神道」の姿に戻ろうとしているのです。
靖国神社の問題を克服するためには、日本国憲法第9条の精神を具現化する方向に政策変換をし(現在の政府は、これを解釈改憲で空洞化し、さらに抜本的な憲法改正にまで推し進めようとしています。)、恒久平和主義の観点から、靖国神社を危険な大量殺人教唆宗教として認定し、これを解体する法律を制定し、靖国神社を地上から完全消去するしかないのですが、実現は不可能に近いといわざるを得ません。
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20050605/mng_____sya_____000.shtml