トランプ殺人事件

『トランプ殺人事件』は、『囲碁殺人事件』、『将棋殺人事件』に続く「ゲーム殺人事件」三部作の掉尾を飾る作品である。
1992年に発行された『[定本]ゲーム殺人事件』では、短編「チェス殺人事件」が書かれているが、これはファン・サービスと解すべきで、「ゲーム殺人事件」三部作だけで、ひとつのテーマとそれを表現するにふさわしい装置を形成していると考える。(この他にも、綾辻行人との共著で「麻雀殺人事件」を書くプランもあるとかで、それはそれで具体化すれば、楽しい企画ではあるが……。)
匣の中の失楽』の発表後、次に竹本健治は『囲碁殺人事件』を世に問うている。『匣の中の失楽』が、アンチ・ミステリであり、すべての探偵小説的要素を綜合させようとした作品であるとすると、『囲碁殺人事件』は一見、端正な本格ミステリのスタイルで書かれている。しかし、『囲碁殺人事件』に盛り付けられた犯行動機を考え合わせると、これまた一筋縄ではいかない作品であることがわかる。『囲碁殺人事件』は、普通の本格ミステリを読んでいる人でも、すっと入ってゆけるように書かれているが、その先にあるものはタケモト的迷宮世界なのである。
「ゲーム殺人事件」三部作を貫くテーマは、<狂気>なのである。しかも、『囲碁殺人事件』→『将棋殺人事件』→『トランプ殺人事件』と話が進むうちに、その<狂気>の捉え方が変貌を遂げてゆくのである。
竹本作品に特徴的なのは、世界を暗号文字として捉え、そこに投げ込まれて存在する人間を暗号解読者としての探偵と看做すことにある。このような設定が成り立つ背景には、世界と自己とのあいだにずれがあるからで、このずれを鋭く意識しているからこそ、作品のなかに<狂気>の問題が浮上することが多いと考えられる。
ここで、少し視点を変えよう。かつて廣松渉という哲学者は、「物的世界観」から「事的世界観」へのパラダイム・シフトを唱えた。「物的世界観」は実体論、「事的世界観」は関係論である。こう表現すると非常に難しく思われるかも知れないが、日本文化の場合、仏教の因縁論によって、すべての事象は因縁から生じ、それ自体としての実体はなく、空であるという「事的世界観」に、古くから親しんできたといえる。廣松の唱えた「事的世界観」は、西欧哲学では物事を諸関係のネットワークで把握しようとする構造主義に対応している。
こういった哲学思潮は、心理学の分野にも波及していて、木村敏という学者は『自己・あいだ・時間』などの著作で、精神病を人と人のあいだの諸関係によって捉えなおそうとしている。
さて、「ゲーム殺人事件」に話題を戻そう。結論から言う。(この結論を読んだせいで、ミステリの解法がわかることはあるまい。)第一作『囲碁殺人事件』は、「物的世界観」によって捉えられた狂気が、この悲劇の底流を流れている。第二作『将棋殺人事件』は、狂気を「理的世界観」によって操作しようする企ての顛末が描かれている(理と事の区別については『華厳経』を見よ)。そして、最終作『トランプ殺人事件』は、「事的世界観」によって狂気が捉えなおされている。
そして、これらの主題に合うように、ミステリのフォーマットが選択されている。第一作『囲碁殺人事件』は本格ミステリ、第二作『将棋殺人事件』は変格ミステリ、最終作『トランプ殺人事件』はアンチミステリである。
要するに、第一作『囲碁殺人事件』はタケモト的迷宮世界の初級篇、第二作『将棋殺人事件』は中級篇、最終作『トランプ殺人事件』は上級篇となっており、『囲碁殺人事件』からするするっと入った読者は、最終作まで読み進めると、容易に元に戻れなくなる仕組みになっているのである。
ちなみに、『トランプ殺人事件』は、三回文庫化されている。最初が1986年に刊行された新潮文庫で、解説は笠井潔、次に出たのが1994年に刊行された角川文庫で、解説は田中幸一、そして最も新しいのが2004年の創元推理文庫で、解説が大内史夫となっている。迷宮にはまり込んだ方は、これらの解説を読み比べてみるのもいいだろう。
ただ、竹本健治の本を薦める際に、唯一危惧することがある。それは「こんなの読んだら、他のミステリじゃ満足できなくなる。」ということなのである。