中沢新一 VS 中沢新一

[以下は、ミクシィに書いた中沢新一の『はじまりのレーニン』のレビューに基づいています。]
ふたりの中沢新一がいる。
中沢新一I は、癒し志向で、ソフトな予定調和のヴィジョンを求めている。
もうひとりの中沢新一II は、破壊的で、想像界の向こう側にあるリアルに到達しようとするマテリアリストである。
チベットモーツァルト』の中沢新一は、構造主義記号論ポスト構造主義という浅田彰が『構造と力』で示した三段階図式を踏襲していた。例えば「丸石の教え」で中沢は、丸石について共同体の「内と外という存在論的二元論」はないとし、「自己生成する非=中心化システム」であると説く。これは、記号論に特徴的な二元論を超えることを示している。
ところが『雪片曲線論』では、レヴィ=ストロースの解明した「野生の思考」を擁護する立場が示される。三段階図式ならば、ポスト構造主義構造主義の共存はありえないのだが、予定調和のヴィジョンを志向する中沢新一I が、そうさせているのである。
中沢新一Ⅰ は、部分の中に全体の設計図を織り込んだ密教曼荼羅を擁護し、『観光』では自然発生的な神道を愉しみ、『森のバロック』では南方熊楠の<南方マンダラ>に、日本思想の可能性の中心を見出し、『ポケットの中の野生』ではポケモンに「野生の思考」を見出し、河合隼雄に接近しユングの心理学を肯定し、『アースダイバー』では皇居をアジールを守るものとして評価するのである。
しかし、中沢新一II は、『imago 総特集 オウム真理教の深層』に収められた「「尊師」のニヒリズム」で、「マンダラを裂く」ことを説いた浅田彰に共感を示し、『リアルであること』では想像界の向こう側のリアルに到達することを説き、『三万年の死の教え』では『チベット死者の書(バルドゥ・トゥドル)』の説く死の側から、今日の死を隠蔽した文化状況を裂こうとし、本書『はじまりのレーニン』や『文藝1994春季号 特集毛沢東百年の孤独』に収められた「造反有理」では共産主義の側から資本主義というシステムに解体の刃をつきつけようとするのである。
中沢新一II は、その破壊衝動ゆえに、反宇宙的二元論に傾きやすく、グノーシス主義的になっている。しかしながら、グノーシス主義的な善悪二元論は、記号論パラダイムに属するものであって、二元論を超えようとするポスト構造主義とのあいだで論理的不整合を生じる危険性がある。
例えば、中沢新一は、蓮實重彦の『小説から遠く離れて』の解説で、グノーシスが「「物語」への衝動を引き寄せていた」(河出文庫、296頁)と書いている。この「物語」とは、「未出現の、あるいは隠されてある「真実」や「宝物」への探求へと、むかおう」(同、296頁)とするものであるとし、ポスト構造主義的視点から、蓮實重彦の「物語」批判に賛意を示すのである。つまり、この文庫解説では、中沢新一グノーシス批判の立場だが、『リアルであること』や『はじまりのレーニン』ではグノーシス擁護なのである。これは、理論的不整合ではないのか。
『東方的』でロシアの四次元思想に接近したのも、『哲学の東北』で宮澤賢治を媒介にしながら、魂の東北を志向したのも、中沢新一IIのグノーシス的破壊衝動のためである。ロシアや日本の東北の過酷な自然状況が、リアルな自己を覚醒させてくれるという直感があったに違いない。
本書『はじまりのレーニン』は、中沢新一II による独自のレーニン像を提出している。中沢は、レーニンは笑う人であったと指摘する。レーニンは、釣りや猫を触るときなど、体を震わせて、全身で波打つように笑ったという。これは、リアルなものとの接触から生じる笑いであるというのが、中沢の読みである。ここから、初期の論文『唯物論と経験批判論』の解釈に移る。この論文は、関係論的な見方をするマッハ主義を攻撃するためのものである(ここで中沢は、関係論的な見方をする現代思想を重ね合わせている)。マッハ主義では、想像界の外側のマテリアルというリアルに接触できない。これでは、笑えない!というのが、レーニンの批判の要点であると中沢は考える。
しかし、『哲学ノート』の段階になると、レーニンの視点は、さらに移動し、ヘーゲル弁証法を相当評価するようになっていると、中沢は考える。ヘーゲルの絶対弁証法というものは、リアルに接近しようとする精神の運動を示しており、ここから唯物弁証法はあと一歩であるという。
こうして、レーニン像を刷新した中沢新一は、レーニンの思想の源流が、古代唯物論グノーシス主義、東方的三位一体論であるという。
さて、ここまで中沢の思考を追ってきたわけだが、様々な疑問が起きる。
なるほど、『精神現象学』で示されたヘーゲル弁証法は、リアルなものを露呈させることによって、人間に絶対的な自由をもたらそうとするものであったかもしれない。しかし、ヘーゲル弁証法というものは、完成とともに無限の専制の肯定で終わるのではなかったか。
また、レーニンの党は、発端として東方的なグノーシス主義傾向を持っていたかも知れないが、党がもたらした帰結は、収容所群島(ソルジェニーツィン)ではなかったか、ということである。
このように『はじまりのレーニン』には、疑問点が多いのだが、中沢新一II の破壊的な面が如実に出ており、これを基に、さまざまな問題を考えることが出来ることは間違いない。
ちなみに、私はこうした矛盾や理論的不整合を承知の上で、中沢新一を高く評価している。こういった矛盾や理論的不整合は、現代思想の抱えている困難さの現われなのである。未来の哲学の扉を開くためには、こういった矛盾や理論的不整合の問題をさらに考えぬくことから、始めるしかないのである。