ケイト・ブッシュ『Whole Story』

Whole Story

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ケイト・ブッシュ・ストーリー

ケイト・ブッシュ・ストーリー

『Whole Story』は、Kate Bushの魅力がぎっしりつまったペスト版である。
嵐ヶ丘’86」は、1977年にイギリスでリリースされた曲のリメイクである。題材は、エミリ・プロンテの『嵐ヶ丘』に拠るものであり、ヒースクリフに向かって叫ぶキャシーの「let me grab your soul away」というさびの部分は、深く聴く者の魂に突き刺さることだろう。
ジョルジュ・バタイユのエミリ・ブロンテ論は、『文学と悪』に収録されており、彼は『嵐ヶ丘』が「死を賭するまでの生の讃歌」であるとしているが、音楽の世界で『嵐ヶ丘』の持つ過剰な生命の奔流という特徴を表現した者は、Kate Bush以外にいないように思う。
クラウドバスティング」は、ウィルヘルム・ライヒクラウドバスターのことを歌っている。ライヒは、『セクシュアル・レヴォリューリョン』を書いたフロイト左派の心理学者で、次第にリビドーの実体視に向かい、オルゴン・エネルギーを発見したと主張するようになる。オルゴンとは、東洋では「気」、西欧では「オド力」「動物磁気」と呼ばれたものに近い概念である。クラウドバスターは、オルゴン・エネルギーを利用し、雨を降らせる装置である。「クラウドバスティング」で「I can't hide you from the government」と歌われているのは、FDA(米国食品医薬品局)の摘発で投獄されたライヒそのひとを指している。
「呼吸」は、放射能汚染にさらされた核戦争後の地球を歌った作品である。彼女は「Life is breathing」とし、この生命の立場から、核の問題を思考するのである。どんなにプルトニウムで汚染されていても、呼吸するしかない、これは政治的文脈の中で発せられる言語よりも、遥かに説得力があり、重い。
「神秘の丘」は、神と取引きするために、丘を駆け上がるという歌詞がみられる。Kate Bushの音楽は、生命を基点としながら、超越的なものを志向するものが多い。
「サット・イン・ユア・ラップ」は、そういった超越的なものへの衝動が、非常に性急で、鬼気迫るものとなっている。"悩みのドームの中で、行動の家の中で、答えがすぐほしい"と歌われ、この救済を求める志向は、砂漠や嵐、海をも越えて、世界を駆け巡るのである。
「エクスペリメント IV」は、軍事目的の極秘実験の話が展開される。”遠くからでも死に至らしめる音楽をつくれ”というのが、ファシストの命令なのだ。これは、寓話なのだが、Kate Bushがこの話を考え付いたのは、おそらくグルジェフ絶対音楽の考え方だと考える。グルジェフは、完璧な音楽が具現化すれば、遠くからでも石を破壊することすら可能だと言ったという。しかし、このような音楽が、もしも本当にあったら、竹本健治の『闇に用いる力学』の世界が現実となってしまうことになる。
「ドリーミング」は、領土戦争を繰り返す文明人と、オーストラリアのアポリジニ(原住民)のドリーム・タイムの世界を対比している。(ドリーム・タイムについては、中沢新一の『イコノソフィア 聖画十講』の第八講を参照のこと)この作品のKate Bushの歌詞は、錯乱気味で、見えないものまで幻視しているようである。
「パブーシュカ」は、夫を試そうとバブーシュカに変装する妻と、バフーシュカの内に、かつての妻の面影(何もかも捧げつくす無償の愛!)を見出してしまう夫との悲劇を歌った作品であり、その完成度の高さは絶品である。