現象学って?

以下はミクシィに書いた原稿の再編集版です。
竹田青嗣について
先日以来、竹田青嗣のことを考えています。
手元に竹田青嗣の本を用意しました。『わかりたいあなたのための現代思想・入門』(共著、宝島社文庫)、『現象学入門』(NHKブックス)、『陽水の快楽 井上陽水論』(河出文庫)、『世界という背理』(講談社学術文庫)、『現代思想の冒険』『意味とエロス』『自分を知るための哲学入門』『<在日>という根拠』(ちくま学芸文庫)。
こうしてみると、哲学に関する啓蒙的な書物が多いということがわかります。一時期、わかりやすいということもあって、まぁ、系統的に読んでいたということになります。最近の本がないのは、だんだん繰り返しに飽きてきたからです。

竹田青嗣の本の基本的パターン
(1)最近の現代思想の流れ(デリダからドゥルーズ=ガタリボードリヤール)に関するラフ・スケッチ
(2)フッサール現象学に関する論考。「主観−客観」という認識の図式に、フッサールはいかなる考えを示したかが解説される。そして、フッサールの観点から最近の現代思想ポストモダニズム)が否定される。
(3)各論。世界のエロス性について。井上陽水論も、この観点から捉えられている。
本によって、ウェイトが変わり、特に(3)は言及されないこともありますが、基本的にこのような主題の繰り返しです。
初期の『わかりたいあなたのための現代思想・入門』だけは、共著で、しかも思想史の流れを説明するという趣旨の本なので、フッサールは、現代思想の源流として扱われているに過ぎず、現代思想をなぎ倒す最強のカードという扱いにはなっていません。ここでは、むしろフッサールが後から出てきた哲学・思潮に、いかにボコボコに批判されたかが語られています。

笠井潔との違い
(1)竹田青嗣の『陽水の快楽 井上陽水論』にあたるものが、『象徴としてのフリー・ウェイ』(表題作は、松任谷由実論)。
(2)笠井潔は、コリン・ウィルソンの影響も受けており、オカルトに言及することが多々あるが、竹田青嗣の活動範囲は、哲学を一般の人にわかりやすく説明することだけに絞られている。

笠井潔との共通点
笠井潔は、『テロルの現象学』で、マルクス葬送派としての立場を表明した。これは、フッサール現象学という地面に立脚して、マルクス主義の観念の空中楼閣を撃つというものであった。笠井潔は、空中楼閣だからテロリズムの暴走が起きると考えたのである。(←以上、判りやすくするために、私の言葉で言い換えています。笠井的にいえば、空中楼閣ではなく、観念の倒錯です。)
一方、竹田青嗣の標的は、ポストモダニズムデリダドゥルーズ=ガタリボードリヤール他)にあり、フッサール現象学という地面に立脚して、ポストモダニズムの観念の空中楼閣を撃つというものであった。。(←以上、判りやすくするために、私の言葉で言い換えています。竹田的にいえば、空中楼閣ではなく、ニヒリズムです。)
笠井潔は、『<戯れ>という制度』で、ポストモダニズム批判を展開していることを考慮すれば、両者はほとんど同型の論理展開をしていることになります。

※<帝国>と闘う者が留意すべきこと
「<帝国>と闘うことはその錯乱に感染することにひとしい。これはパラドックスである。<帝国>の一部をくつがえす者は、誰であろうと<帝国>になる。<帝国>はウィルスのように急激に増殖し、その形態を敵に押し付ける。それによってみずからの敵となる。」(フィリップ・K・ディック「釈義」42、『ヴァリス創元推理文庫P391)

ディックの言葉から、こんなことを考えます。<帝国>をくつがえそうとしたマルクス主義が、教条主義スターリン主義に転化し、収容所群島という<帝国>をつくりあげたように、そのマルクス主義の<帝国>をくつがえそうとしたマルクス葬送派もまた、思想の敵対者に対し、<帝国>の如き権力的な威圧を加えるとしたら、そのマルクス葬送派としての笠井潔葬送派を標榜する我々も、いつ何時自身が<帝国>的な言説を振るうものに転化するかもしれず、とすれば<帝国>の一部をくつがえす者は、誰であろうと<帝国>になるというパラドックスを回避するために、この連鎖に対し決定的な断絶を図り、移動を遂げないといけないということです。

竹田青嗣現象学は、主として認識論的な還元の方に注目しているわけですが、笠井潔の場合、実存論的な還元を図ろうとします。矢吹駆初期三部作の頃は、特にそれが顕著で、笠井の理想とする人間像である矢吹は、自身の観念を削ぎ落とし、無駄なものを剥ぎ取り、実存の裸形に向かおうとします。
この実存論的な還元は、実存主義的な方法的懐疑であり、それ以上打ち消すことのできない零地点まで削ぎ落としたあと、そこから逆に世界を構築し始めます。
そこの時点で、エゴを肥大させる方向に進むと、最初は自分の世界という家を作るだけでは済まず、次に文壇ムラをつくり、ムラ人に対し権威的な振る舞いをするようになり、そのムラの中で安穏しようとするようになる危険性があります。

では、竹本健治のような人は、文壇との付き合いはあっても、そのなかでボスになる可能性がないのでしょうか。ひとつには、性格的なものもあるでしょう。単に自分の好きなことを夢中になってやっているだけだという性格的なものが。
それとは別に、考え方の基本に差異があるように思えるのです。竹本健治の場合、絶対的に疑うことのできない究極的なものへの志向はあるのですが、たどり着いたはずの「生活世界」が、実はたまねぎの皮を剥くように出来ていて、そこで終わらず、延々と続くように出来ているように思います。『匣の中の失楽』では、これが確かな「生活世界」と思っていると、章が変わると虚構の中だったのか、と思われてきます。また『腐蝕』でも、確かなはずの現実の基盤が、実はいくつかの仮定の上に成り立った脆弱なものであることが露呈してゆきます。
だから、いつまでも絶対的に信頼できる基盤に至ることはないし、基盤に安住し「俗情」に流される余裕もないわけです。

中沢新一が『チベットモーツァルト』の表題作で、世界のはじまりにおいて、基盤となる「点」が打たれるときに生じる<笑い>について語っています。この「点」は、無根拠の上に打たれるわけですが、それを軸にして世界がつくられてゆきます。それに対し、覚者は体を揺すらせて笑うというのです。
竹本作品における「生活世界」は、相対的・偶然的なものという認識に立っており、中沢の語っている世界のはじまりの「点」にユーモラスなものを感じる見方と通ずる考え方をしているように思われるのです。