『カラマーゾフの兄弟』、或いは神の<あり>と<なし>の間で

[以下は、ミクシイのレビューからの再録です。]
ドストエフスキーは、『白痴』第四部執筆中の1968年12月11日に書かれたA・N・マイコフ宛の書簡のなかで、『無神論』という長編の構想を語っている。
「当地でいま私の頭にあるものは、(1)『無神論』という題の膨大な長編です(お願いですから、二人だけの話にしておいてください)。しかしこの長編にかかるためには、その前に、無心論者や、カトリックや、正教信者の本を、それこそ一蔵書分も読破しなければなりません。…(中略)…われわれの階層に属するロシア人で、かなりの年配、それほど教養はないけれど、無教養というのでもなく、ある程度の官位ももっているのですが、それが突然、もうかなりの年になってから、神への信仰を失ってしまうのです。。…(中略)…彼は新しい世代、無神論者、スラヴ派、西欧派、ロシアの狂暴な狂信者、隠者、聖人たちを訪ねて放浪します。ときにはジェズイットのポーランド人、挑発者のわなにかかりもします。そこから鞭身派(フルイスト)の深みへ降りてもいきます。そして最後にはキリストを、ロシアの大地を、ロシアのキリストとロシアの神を獲得することになるのです。(お願いですから、だれにも言わないでください。私にとっては、この最後の長編を書きあげたら、死んでも悔いはないほどで、なにもかも言ってしまうつもりです。ああ、友よ、私が現実とリアリズムについて抱いている観念は、わが国のリアリストや批評家たちのそれとはまったく異なるものなのです。私のイデアリズムは、彼らのリアリズムよりもさらにリアルなのです。ああ!われわれロシア人がこの十年間、われわれの精神的発達のうえで体験したことを筋道たてて話してみるだけでも、リアリストたちは、そんなことは空想だ!と叫びだすにちがいありません。ところが実はそれが本来的な、真のリアリズムなのです。これこそがリアリズムなのですが、浅いところを泳いでいる彼らのとはちがって、より深いリアリズムなのです。(後略)」(新潮社版『決定版ドストエフスキー全集』27巻創作ノート(II)江川卓訳「大いなる罪人の生涯」253頁〜254頁)
ドストエフスキー研究者のあいだでは、この長編『無神論』が、『大いなる罪人の生涯』の構想となり、さらに3つの大作『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』に変貌していたと考える説が有力である。
この『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーを生涯悩ました<はたして神はあるのか、否か>という難問にこたえるために書かれた作品であり、魂のリアリズムとでもいうべき姿勢で書かれた大作である。
登場人物は、欲望の塊のような父フョードル・カラマーゾフとその血を受け継いだ三兄弟(情熱的な無頼派ドミートリイ、無神論者で知性派のイワン、敬虔な信仰者アリョーシャ)。
物語は、父親殺しによって急展開し、まずドミートリイに嫌疑がかけられ、ここにフョードルの私生児スメルジャコフが登場し…という具合に、探偵小説仕立てで展開される。(ちなみに、ドストエフスキーの父親自身も、農民により殺されているいる。)
しかし、この作品の核心部分は第五編「プロとコントラ」で、イワンが展開する無神論と「大審問官」の物語にある。
イワンは、自説を展開するにあたり、罪なき子供の死を掲げる。たとえ未来において永遠の調和が約束されようとも、そこに罪なき子供の死が必要とされるのならば、未来への切符は突きかえすというのである。これは、世界と自己との不協和音であり、反宇宙的な齟齬を示している。
さらには、「大審問官」において、地上における権力と信仰の問題が扱われる。大審問官は、地上における教会権力を具現化した人物であり、ローマ・カトリックの無誤謬主義を暗示させる人物である。異端審問の時代、この大審問官の前に、キリストが連れてこられる。大審問官は「人はパンのみによりて生きるにあらず」としたキリストを糾弾し、人間は自由な選択など重荷にすぎず、奇蹟の力によってひれ伏す方が幸福なのだとし、私は人間を苦悩から救うために、人間の自由を奪ったのだとキリストに語る。これに対し、キリストは終始沈黙を守ったままで、最後に大審問官に口づけをするのである。
このイワンの無神論を覆すために、ドストエフスキーが書いたのが、ゾシマ長老の逸話である。しかし、ドストエフスキーは「大審問官」を一気に書いたのに対し、それを覆すだけの説得的な有神論にしようと、相当苦吟したようだ。ドストエフスキーは、<神はある>としたかったが、最後まで神のあるとなしの間で、苦悩の深淵に引き裂かれていたと私は考える。
ドストエフスキーの預言的で、黙示録的な書き方は、後の現代文学にも深刻な影響を与えている。例えば、この「大審問官」の部分は、埴谷雄高が『ドストエフスキー』(NHKブックス)で、この教会権力のあり方が、ソ連の権力構造に似ていることを指摘しているのである。
ちなみに具現化した『カラマーゾフの兄弟』は、父親殺しのパートで終わっているが、構想段階ではさらに第二部があり、ここではアリョーシャによる皇帝(ツァー)殺しが展開される予定だったようである。とはいえ、現在の『カラマーゾフの兄弟』だけで完結しているし、世界文学の頂点に立つ完成度を持つ作品であることに変わりはない。