現象学って 2

[以下は、ミクシイの日記からの再録です。]
フッサールについて
(1)フッサールは、現象学を他の哲学の基礎となる「第一哲学」に仕立てようとした。そのためには、現象学が厳密な学となる必要があった。
(2)他の実証科学は、根本に「心理主義」もしくは「自然主義」を置いているが、フッサール現象学を厳密な学にするため、「心理主義」もしくは「自然主義」すらも疑った。
心理主義」とは、われわれが”あるもの”を意識する場合、当然のように”あるもの”が、意識の外界にあるとする立場であり、無前提に人間の心理法則を信用しているといえる。
自然主義」とは、数学や論理学などにおけるアプリオリな意味の統一や法則を、自然で当たり前なこととして扱うことを指す。
(3)われわれが”あるもの”を意識する場合、当然のように”あるもの”が、意識の外界にあるとする立場(心理主義)の根底には、意識のうちに”あるもの”があるという「原信憑」が隠されているからである。
フッサールは、意識の「原信憑」に疑問を投げかけ、意識の外界にあるという”あるもの”を、いったん「括弧にくくる」、そして意識が自然に行っている働きに対し「判断停止(エポケー)」を行う。
こうして「純粋意識」(=「先験的主観性」)だけを取り出すことができる。
(4)「純粋意識」は、流動する現象をいかに認識するか。例えば、われわれが色や音を認識する際、われわれは現象のうちに色や音のイデアもしくは形相(エイドス)を本質直観しているからだと、フッサールはいう。
つまり、フッサールの本質直観は、別に特別なことでも、神秘的なことでもないのである。
(5)「現象学的還元」には、「先験的還元」と「形相的還元」がある。
「先験的還元」とは、当たり前のように意識の外界に”あるもの”があるという自然的見方から「純粋意識」に還元することである。
「形相的還元」とは、「先験的還元」によって得られた「純粋意識」(=「先験的主観性」)を、記述し、分析する方法を指す。
(6)フッサールは、われわれの意識は、つねになにものかについての意識である(意識の志向性)とし、すべての現象は、意識の志向性によって構成されているとする。
意識の志向性は、ブレンターノから受け継いだ考えであるが、フッサールが深化させた概念である。(ブレンターノにおいては、心的現象と物的現象を区別する特徴として、心的現象には意識の志向性があるとしたのである。)

現象学の系譜
(1)ハイデッガーは、フッサールの弟子であるが、恩を仇で返すことをやっている。
ハイデッガーは、ナチス党員だったが、フッサールユダヤ系であったために、社会的に厳しい立場に追いやられたのである。
また、ハイデッガーの『存在と時間』は、現象学を基礎的存在論の構築のための手段として使用しているが、現象学を目的としていなかった。
(2)フランスの実存主義者、サルトルメルロ=ポンティも、現象学的手法を用いて存在論を構築した。
しかし、ハイデッガーサルトルメルロ=ポンティの実存概念は、一枚板ではない。
ハイデッガーの実存は、現存在(ダーザイン)、または「世界−内−存在」として言い表されるが、死を前に自覚的存在(覚存)として<存在(ザイン)>に覚醒するようになっている。これは政治的には、ナチスのSSの精神と対応している。
一方、『存在と無』で示されたサルトルの実存は、無であり、偶然的なものであり、世界に無根拠に投げ込まれて(被投性)として存在する対自存在である。ハイデッガーのように、実存を根底から支える<存在(ザイン)>などというものはない。対自存在(ひと)と即自存在(もの)を区別するものは、対自存在はあらぬところにあり、あるところにあらぬ存在であるということである。サルトルの実存は、根なし草の存在様式をとっている。
一方、『知覚の現象学』のメルロ=ポンティは、サルトル的な独我論を乗り越えるためには、精神と物質の二元論ではだめだと考え、身体のうちに両者の絡み合いを見出す。サルトルの「世界−内−存在」が被投性を強調し、他の存在者と無縁であるニュアンスを与えるのに対し、メルロ=ポンティのそれは他の存在者の間に組み込まれてあることを強調する。そして、晩年、フッサールの読み直しを行い、精神と物質の出会う「肉」の存在論を構築しようとする。
サルトルメルロ=ポンティにおける「世界−内−存在」の意味合いの違いは、サルトルは初期のフッサールの影響を受けているのに対し、メルロ=ポンティは晩年のフッサールの影響を受けていることもあるのではないか、という説がある。

現象学研究会?
竹田青嗣は、かつてフッサールの生まれ変わりと称したことがある。しかし、同じフッサールでも、初期と晩年は違うのだ。彼はどのフッサールの生まれ変わりなのか。
そもそも、フッサール自身のテクストは、実にわかりにくい(というか、同じことを違う言葉で無限に言い直しているようなところがある)のだが、竹田青嗣が書くと、なぜ、わかりやすくなってしまうのか。本当に、フッサールは、竹田青嗣の言っているのと同主張をしているのか?竹田青嗣が判りやすいのは、実存主義を通過した現象学を語っているからではないのか。さらにいえば、サルトルメルロ=ポンティの差異も露出しないような実存主義者の共通認識のレベルで、議論を止めているせいではないのか。

ところで、竹田青嗣×西研は、現象学研究会をつくった。
http://www.phenomenology-japan.com/
西研というのは、『実存からの冒険』(ちくま学芸文庫)を読んだだけだが、要するに実存主義現象学をやっている人である。
現象学研究会ときいて、腑に落ちないものを感じた。
現象学といえば、日本現象学会というところがあったのではないか。
検索すると、あった。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/paj2/
日本現象学会があるのに、なぜ現象学研究会が必要なのか。
ここで、別の例が浮かぶ。
竹田青嗣のお友だちの笠井潔に注目してみる。
日本推理作家協会があるのに、本格ミステリ作家クラブをつくる。
http://www.mystery.or.jp/
http://honkaku.com/
似ている。あまりに似ている……。
だが、ここには別の事情があるのかも知れない。日本現象学会と彼らは実は会話が噛み合わないのではないか、ということである。
さらに丁寧に、竹田青嗣を読み、本当にフッサールの言わんとしていることを正しく伝えているのか検証せねばならない。一応、公平のため、にせものをつかまされているかもしれないという「信憑」は、「判断停止」して、テクストそのものに迫ってみよう!

※ちなみに竹田青嗣西研の『よみがえれ、哲学』(NHKブックス)というのを、本屋で立ち読みしたことがある。
そこでの会話は、東浩紀を高く評価していた。
現象学実存主義パラダイム」の竹田青嗣西研が、「ポスト構造主義(郵便的脱構築派)パラダイム」の東浩紀を評価するのは、思想的な一致のせいではありえない。
おそらく、批評空間グループから離脱した東浩紀を、オルグしようとする政治的なものだろうと推測できる。
ちなみに、東浩紀は、ミステリー・ジャンルの法月綸太郎から(『不可視なものの世界』)、笠井潔から(『動物化する世界の中で』)からも、回収されかかったが、この試みは失敗に終わっている。
常識的にいえば、思想的に不一致な人を仲間うちにしても、勝利に繋がらないとおもうのだが、彼らは勝利に繋がってしまう思想のよしあしとは別の次元で、闘っている人たちなんだろうと思う。私には想像もつかない次元の話である。