天啓の涛 (うねり) I

以下は、ミクシィに発表された笠井潔に対する『天啓の宴(うたげ)』、『天啓の器(うつわ)』のレビューです。
このレビューは、小説形式を採用しており、HP「薔薇十字制作室」で公開している小説『天啓の骸(むくろ)』の全面改稿版となっています。

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ウロボロスの純正音律』の単行本化を前に刊行された『ウロボロスIII』、それが『天啓の器』である。
笠井潔の『天啓』シリーズは、三部作であり、『天啓の宴(うたげ)』、『天啓の器(うつわ)』、『天啓の虚(うつろ)』と続く。三作目にあたる『天啓の虚(うつろ)』だけが、現段階では単行本化されていない。なお、『天啓の器』が双葉文庫に収録された際には、鷹城宏によって書かれた「天啓の写(うつし)」という解説がついていた。つまり、笠井潔のこのシリーズは「てんけいのう」までが同じであり、解説もそれを踏襲したというわけである。
ところで、今、私の眼の前に、奇妙な表題のテクストがある。『天啓の濤(うねり)』。著者は黒樹龍思。なんでもネット上に先行公開された『天啓の骸(むくろ)』の全面改稿版だという。黒樹龍思は、勿論ペンネームである。私がそう断定できるのは、笠井潔がかつて全共闘のイデオローグだったころ、黒木龍思というペンネームを使用していたという知識があるからである。黒樹龍思は、笠井潔のかつてのペンネームのパロディとして考えついたものであることは、容易に推測できる。『天啓の濤(うねり)』は、さしずめ『天啓の虚(うつろ)』が出る前に発表された『天啓III』ということになる。濤をうねりと読ませるのは、多少無理があるようにも思えるが、著者は『婦人家庭百科辞典』(ちくま学芸文庫)に載っているから、間違いではないと言っているそうだ。
当初『天啓の器』のレビューを書こうと思ったが、この『天啓の濤(うねり)』を載せた方が、この作品の本質を突いていると考え、方針を変えることにした。というわけで、以下は黒樹龍思著『天啓の濤(うねり)』からの引用である。なお、引用にあたっては、黒樹龍思氏本人から直接承諾を得たことを、ここに言明しておこう。

『天啓の濤(うねり)』  黒樹龍思著 <ウロボロス>の反転としての<天啓>を、<天啓>自体によって反転させるために。
RKを葬送したKKを、RK'によって葬送するために、
黒い薔薇を捧ぐ。

編集者の美加佐慶介が、八ヶ岳の棟方邸を訪れたのは、夕暮れ押し迫る4時半頃であった。
美加佐は今度"講壇社ノベルス"から刊行予定の『ウロボロス超弦理論』のゲラをとりだし、次の書評の対象にしてはどうかと持ちかけた。
棟方は昨年の10月から「ポストモダニズム文学批判」と題し、講壇社の『メフィストフェレス』誌に連載を行っていたからである。
「今度、講壇社で<ウロボロスTRIBUTE>として、若手作家に天藤尚巳君のウロボロスシリーズを継承する作品を書かせる企画があってね、天藤氏の天敵といえば棟方さんだから、まず棟方さんに読んでもらって、どう思われるのか、まず知りたいと思いましてね。」
棟方は軽く笑みを浮かべながら、「天敵だなんて、僕はただウロボロスのような試みが、このように若手に引き継がれるとき、ミステリーの構築性が軽んじられ、構築なき脱構築的戯れとなり、ミステリー文化の水準が低下するのを危惧しているだけであってね。」といいながら、手渡されたゲラをぱらぱらとめくっていたが、ふっと手の動きを止めた。
「ところで、最近『メフィストフェレス』の姉妹誌『ドクトル ファウスト』は、私の批判する構築性を欠いたミステリばかりを載せているようですね。我妻宏樹はなんと言ってるのですか。」
棟方に詰め寄られて、美加佐は一瞬絶句した。
「だめですね。どうも『宇宙的=道化』以来、構築性が二の次となり、これまで築きあげてきたミステリの遺産を一気に消費させようとしているように見える。『宇宙的=道化』などというふざけた作品が出てきたこと自体、天藤尚巳君のウロボロスシリーズの悪しき影響ですよ。そして、『宇宙的=道化』以降の若手作家を、批評家の我妻宏樹は高く評価しようとしているようだ。
私は、彼が『クリティカル・スペース』の連中と離反したことを期に、見込みのある批評家として認め、八ヶ岳のスキー合宿にも誘ったのだが、彼はミステリをわかっていない。彼はミステリをダメにする。」
棟方はそういって、手元にあった水割りで喉を湿らせた。
「はっきり言って<ウロボロスTRIBUTE>も、あなたの部下の大田がやっている『ドクトル ファウスト』も、日本のミステリを終わらせることに繋がる。ななたもミステリで食っている人間なら、現在のミステリー界の世界で、私を敵に廻すということがどういうことか判っているでしょうね。」
美加佐は、棟方の機嫌を損ねたことに困惑しながら、「では、どうすれば宜しいので。」とおずおずと聞いた。
本格ミステリというジャンルを防衛する強固な組織づくりと、新しいマーケティング戦略がひつようでしょうね。私が近年やってきた本格探偵小説作家倶楽部は、作家と批評家が手を取り合って新本格派の運動を推進するものだったが、それに加えて新規の市場開拓も必要だと思う。私は我妻宏樹が評価するような若手作家ではなく、ジャンル外の、例えばゲーム業界のクリエーターを、この業界に招きいれ、彼らのファンを一部失敬して、新本格派の牙城を固めるべきだと思う。」
そういう棟方に美加佐は、
「そういえば、棟方さんは若い頃、究極の絶対的な作品を書こうとしていたように見えたけれども、最近は新本格派の理論的指導者として 究極の絶対たらんとしているようですね。三嶋幸雄の死に際して、澁佐和が「絶対を垣間見んとして…」というのを書いていましたが、棟方さんは三嶋さんと似通ったところがありますね。」とぽつりといった。
「絶対を垣間見ん?」その瞬間、棟方の眼に、憎悪の感情が走ったのを、美加佐は見逃さなかった。

いつから<絶対>という言葉に、棟方が過剰反応するようになったのか。
棟方は日本を離れ、パリのサン・ジェルマン・デ・プレで生活していたことがある。
棟方はそのデビュー作品『暗い天使』の中で、主人公の生活を<簡単な生活>として表現した。<簡単な生活>とは批評家明山舜の文章から借用してきた言葉で、最低限の命をつなぐだけための食事場所と寝場所の機能をはたすだけの屋根裏部屋生活を、そう表現したのである。それは、観念的思考を削ぎ落とし、存在の根底を見つめなおそうとする主人公の姿勢を表現していた。
サン・ジェルマン・デプレでの棟方の生活は、その主人公の<簡単な生活>を地で行くような生活であった。
日本にいた頃、棟方は「黒樹龍思」と名乗り、新左翼の活動家・理論家として活動を行っていた。
棟方の所属した党派は、反安保を唱えていたが、棟方はその闘争を通じて<究極の革命>を志向していたのだと思う。
棟方は幻想としての国家の死と、共同体の死を望んでいた。それが彼自身が生まれてきた意味を与えてくれるように感じていたからである。
しかし、反安保の烽火は潰され、新左翼は日本での革命の不可能性から、第三世界革命論が議論され、阿達征雄により『赤軍〜PFLF・世界革命宣言』が撮られ、あるものはパレスチナ解放戦線の彼方に飛び立っていった。
そして日本に残った棟方らの党派は際限のないテロリズム内ゲバの中に突き進んでいった。
棟方の所属する党派は、硝酸、硝酸カリウム、修酸塩アンモニウム、硫黄、活性炭といったものを入手しては、なにやら組み立て始めた。
棟方は党の理論家として、そのような汚れ仕事には手を出さず、ひらすら黙示録的なディスクール(言説)で、真の革命家は極限の死と破壊の徹底の果てに誕生することを予言し、扇動活動を行っていた。
だが、その果てに現れたのは、未来のヴィジョンなき一切の総破壊であり、血で血を洗う査問と殺戮であつた。
棟方が日本を離れたのは、新左翼の活動に限界を感じたためであった。
そのとき、彼は「黒樹龍思」という名前を棄てることにした。正確に言えば「黒樹龍思」という名前を私に譲ってくれたのだ。
棟方はバリの屋根裏部屋で「観念論」という完成の見込みのない論文を書いていた。
近代における共同観念からの乖離による自己意識の発現と、さらなるラディカルな観念の徹底化による党派観念の誕生。だが党派観念の背後には、現実の生活や肉体に関するルサンチマンの膿が隠されており、それゆえ民衆のための革命が、民衆の大量殺戮を正当化する観念の倒錯を生み出してゆく必然性がある。
こうして、アンドレ・グリュックスマンに相当する仕事を、棟方は行いつつあったのである。
棟方の理論では、観念のラディカル化の徹底をさらに進めると、党派観念の内部から集合観念がマグマのように噴出するという。集合観念とは何か。それは観念による観念の浄化。観念による観念の脱構築であり、反観念なのである。
棟方は<究極の革命>という観念を棄てたわけではなかった。
棟方は<究極の革命>にいたるすべての道を完全否定しただけである。
埴輪豊の『至霊』は存在の革命を目指す小説である。
埴輪もまた既成のマルクス主義の党派が、究極的に密告と査問、そして虐殺に至ることを知っていたが、<存在の革命>には別の道があると考え、<虚体>という奇想を編み出したのだが、棟方はそのような別の道の可能性をも否定した。
棟方の集合観念論とは、革命を内部から阻止しうるということ、革命をぶち壊す際限のない暴力を肯定せよ、ということであって、マルクス主義とは別な革命の道を提示するものではなかった。
たとえ、棟方が集合観念を電光石火のような革命であると強く言い張ろうとも。
繰り返し、言おう。
棟方は<究極の革命>という観念を棄てたわけではなかった。
棟方は<究極の革命>にいたるすべての道を完全否定しただけである。
だからこそ、棟方はパリ在住時、マルクス主義とは別な方法で<究極の革命>は可能として、天使的交換による生成変化を語る秘密結社<赤い生>の女性指導者と、その使徒で生前離脱を遂げたという中性的な印象のある青年を、理解不能の現前ということだけで死の世界に葬送することができたのである。
棟方はサン・ジェルマン・デ・プレでの生活の中で、他人との接触を最低限度にしようとしていた。
後年、精神医学の西塔玉樹が<共同体からのひきこもり>を主題にし、棟方の評論における師匠格にあたる東京の経
堂に住む経堂源蔵が人は自立のため、自己を創るためにひきこもりが必要であると主張すると、棟方は自分もまたサン・ジェルマン・デ・プレの孤独な生活の中で、新しい自分を創り上げたと語った。
棟方はルーマニアのミルチャという宗教学者を引用しながら、新しい自己の創造には、象徴的レベルでの死と再生が必要なのだと語ったのだ。
サン・ジェルマン・デ・プレを居住地にしたのは、棟方も影響の受けたサルトリという哲学者の暮らす街であり、友人の富士田芳次が暮らす街だったからである。
この友人と会う以外は、極端に他人と会うのを避けた。棟方はかつての会田林伍率いる政治的党派と完全に繋がりを絶つためであった。
棟方のSF伝奇小説『超人伝説』で、後に魔流屈巣賊として描いたのは、会田林伍がモデルである。
棟方はかつての仲間から完全に姿をくらました。
姿をくらましただけでなく、かつての名前「黒樹龍思」を棄てた。
こうして、棟方は自分の顔を消去した。
ちょうどその頃、人類学者のカルタネタは、南米の呪術師ドン・ジュアンに呪術の修行を入門するにあたって、過去の自分の名前を棄てることを命じられていた。
ドン・ジュアンによると、現代社会での人々のアイデンティティは、本人の名前をキーにして社会的に登録されている。呪術師として生まれ変わるためには、この登録を抹消することが必要であり、根本デリートのためには、本人の名前を消すことが必要だという。
棟方が行ったのは、過去のアイデンティティの抹消だったのである。
ドス氏描く「地下生活者」同様、サン・ジェルマン・デ・プレのアパルトマンの屋根裏部屋で、棟方は泥のような孤独に自分を沈めていった。
棟方は自分が許せなかった。
自分は直接手を汚さなかったが、他人に手を汚すように扇動したのである。
その果てが、テロリズムであり、仲間同士での殺し合いであった。
しかも、かつての仲間から逃れるために、棟方はかつての仲間を売ったのである。
棟方は、自分が最低の卑劣漢であると思った。
そして、自分自身を仮想敵にして、思考のシャドゥ・ボクシングを何度も繰り返した。
それでも棟方が自殺を選らばなかったのはなぜか。
棟方は、徹底した自虐にふけりつつも、自分の奥深くに際限のない<超越>への欲望が死に絶えることなく、とぐろを巻いているのを感じていた。
それは恐るべき巨大な欲望であった。
棟方は徹底した否定の果てに、否定できない「本当のわたし」を発見しようとした。
棟方のオカルトへの関心は、「本当のわたし」探しを目的にしていたように思う。
パリで、私が棟方と知り合ったのは、隠秘学中心の「東方書店」に置いてであった。
東方書店」では、パルケルススやアグリッパ、サン・ジェルマンにエリファス・レヴィ(アルフォンス・ルイ・コンスタン)の著作や、『レゲメトン』、『ソロモンの大いなる鍵』、『ソロモンの小さき鍵』、『アブラメリンの魔術』、マクレガー・メイザースの『ヴェールを脱いだカバラ』などが並べられた古書店のフロアと、シュルレアリスム実存主義を中心とした新刊書のフロアからなり、オカルティズムと現代思想の探求者には、よく知られた書店であった。
私はその当時、日本を離れ、バリで異端カタリ派の研究を続けており、「東方書店」の主人とは懇意であった。
棟方の姿は「東方書店」によく現れる謎の日本人ということで、気になってはいたが、その当時の棟方は厭人症であったし、私も個人主義による自由を満喫していたから、お互い声をかけることもなかった。
あるとき、棟方は探し物をしていて、「東方書店」の主人をアルビジョワ十字軍とカタリ派のことで、質問攻めにしていた。
そのとき、「東方書店」の主人からカタリ派のことなら、この人の専門だと、棟方にたまたま居合わせた私を紹介したのであった。
棟方はシモーヌ・ヴェイユのことを調べていて、ヴェイユグノーシス主義を肯定していたことを立証しようと考えたのだという。
ヴェイユカタリ派に関心を寄せていたことは判っているため、カタリ派グノーシス主義が影響していることが証明できれば、ヴェイユグノーシス主義に肯定的な意見を持っていることが立証できるというのである。
棟方がグノーシス主義に関心を持ったのは、それが「本当のわたし」を引き出し、全面肯定する思想だからだそうである。
棟方はあまりはっきりと自分のことを語らなかったが、ヴェイユを非暴力による<絶対の革命>の探求者と見ているようだった。
そのことから考えて、私は棟方がなんらかの暴力的な政治運動に関係した過去を持つ人間であることを嗅ぎ取った。
私はアルビジョワ十字軍とカタリ派に関する参考文献を何冊か棟方に紹介するとともに、現在入手不可能な文献を持っているので貸し出してもよいことを伝えた。
こうして、棟方は私の研究室に訪れることになった。
たが、これは大きな間違いのはじまりだった。
あのとき、私の研究室に出入りしていた2人の生徒、ルナールとジベールに引き合わせなければ…。
棟方と私の運命は、大きく狂い始めていた。

「先生のお会いになられた棟方さんという方は、カタリ派グノーシス主義と結びつけて考えられたわけですね。13世紀から14世紀のカタリ派は、10世紀のボゴミール派の影響を受けていますが、ボゴミール派に影響を与えたのが何なのかが問題ですね。有力候補としては、マニ教が挙げられますが、マニ教は4世紀から8世紀、この間には明らかなミッシング・リンクがあります。」
「で、君はその間をどう繋げる考えなのかな。」
アルメニア教会派の一つがゾロアスター教と習合してできたパウロス派が有力とは思うのです。でも、仮説の域を出ませんが。」ルナールは、そこで言いよどんだ。
「それよりも、先生。その棟方さんは何時ごろ、いらっしゃるのでしょうか。」ジベールが二人の会話に口を挟んだ。
私は「そうそう、そろそろだと思うんだがね。」といって立ち上がろうとしたとき、ノックの音がした。
「失礼致します。棟方です。」
棟方は紺のブレザーに、白のスラックスという姿で立っていた。
「ちょうど、君を待っていたところだよ。」といって、私は棟方を研究室に招きいれた。
そして、棟方に私の生徒のルナールと、ジベールを紹介した。
「ルナールは、私の生徒で、カタリ派テンプル騎士団を研究している。私のゼミでは、『赤と黒』に出てくるルナールよりも、マチルドに似ていると言われているが。否、これは聡明なという意味であって、高慢なという意味ではないの
だが。」と言うと、私のことをルナールは一瞬にらみ付けた。
「そして、ジベール。彼はレンヌ・ル・シャトーと聖杯伝説について研究している。ルナールの弟分のように、いつでもルナールの後をついて廻る。ジベールはルナールを義姉さんと呼んでいるようだが、二人は他人だ。誤解のないように。」
ジベールは、紹介されても、あたかも非在であるかのように透明な不思議な存在だ。
「棟方さんはシモーヌ・ヴェイユに関心をお持ちとか。」
「ええ、ヴェイユバタイユに…。」
バタイユですって?」ルナールの眼が輝いた。
「興味深いですわ。バタイユと秘密結社<アセファル>、そして<社会学研究会>。私はバタイユよりも、クロソウスキーの方に現代的な意味を感じてますが。」
ルナールは明らかに棟方に関心を持ったようであった。
私は机の中から、オク語で書かれた文献をとりだして、棟方に示した。
「これはコピーだから、返却は不要だ。これはオク語で書かれたカタリ派の文献だが、そこにカタリ派の二元論の性質に関する説明が詳細になされている。周知のとおり、各宗教の二元論は、それぞれ性格を別にしている。霊と肉、光と闇、物質世界と精神世界、善神と悪神、宗教によって二元論の色彩が微妙に異なる。だが、カタリ派と、グノーシス主義の関連を問題にするなら、現状ではこの二元論の仕分け作業を通じて行うしかない。この仕分け作業は専門家でも困難な作業だが。オク語については、ルナール君が詳しい。必要とあらば、ルナール君に協力させてもいい。ルナール君、いいね。」
「いいですわ。オク語によるカタリ派文献でしたら、私の研究にも必要ですし。」ルナールは棟方に微笑んだ。
「ルナールさんはカタリ派テンプル騎士団が専門ということですが、それに関しては、私も関心があります。カタリ派カトリックに異端として断罪され、1207年にアルビジョワ十字軍によって虐殺され、殲滅した後、カトリックカタリ派の聖地ラングドック地方に踏み込むと、そこにはカタリ派の財宝がなかったといいます。そこで、事前にテンプル騎士団が、財宝を安全な場所に移動したのではないか、と疑われているわけです。そこで、移動先として可能性のあるのが、レンヌ・ル・シャトーということになります。」
さらに棟方は続けた。
「そこで問題となるのがベランジュ・ソニエールという人物なのですが、彼は1885年レンヌ・ル・シャトーの神父となりますが、教会は老朽化しており、6年間極貧と飢餓と闘いながら、教会の改修を行おうとしたといいます。ところが、彼に転機が訪れます。教会の古代西ゴート族から続く柱のくぼみに、4枚の羊皮紙を発見します。2枚に家系図、もう1枚にギリシア語で書かれた聖書の文字、さらに1枚に教会のかつての神父ビグーの告解の言葉。ソニエールからこの発見を知らされた司祭は、3週間ソニエールをパリに派遣します。ソニエールはある種の秘密結社の人物と接触
を図り、さらにルーブル美術館である絵を模写したといわれます。3週間後、帰郷したソニエールは変貌を遂げていました。彼は自分と家政婦のための別荘をつくり、谷を見下ろす塔を立て、街に道路や水路をつくり、教会を豪奢に改築しました。しかし、この資金源はどこから来たものでしょうか。地区の教会は彼を追及し、罪に陥れようとしましたが、彼の行動はすべてローマ教皇により許諾され、無罪となります。彼は古くからの墓地の墓石や、古代の碑文を破壊し、秘密を独占しようとします。彼のもとには、フランス文化相、オーストリア皇帝ヨーゼフの従兄弟ヨハン・ハプスブルグ大公といった人物が訪れたといい、底知れぬ力の所在を暗示します。また、銀行とも怪しげな取引を行っていたふしがあります。」
一同は、棟方のよどみない説明に魅了されていった。
「ソニエールは、秘密を明かすことなく、この世を去り、ソニエールの財産を継承した元家政婦のマリー・デナルノーも、同じく秘密を明かすことなく、この世を去ります。したがって、これからの話は推定の域を出ないのですが、ソニエールの資金源はカルカソンヌの秘宝を探し当てたか、家系図をもとにイエスキリスト教の根源に関わる秘密を嗅ぎ出し、ローマ教皇と取引をしたか、どちらかと推測されます。」
いったん、言葉を止めた後、棟方は最後に自分の推論を述べた。
「自分としては、先ほどのテンプル騎士団によるカタリ派の財宝の移動という仮説と結びつけると、カルカソンヌの秘宝をソニエールが発見したとする方が整合性があるのですが。」
そして、静かに棟方が微笑むと、ルナールもまた信頼の微笑みを返した。
二人の間に、初めて魂のコミュニカシオンがなされた瞬間であった。

ルナールの疑惑に満ちた不審な死と、ルナールの手帳の入手以来、日増しに私の中で棟方への疑いが深くなっていった。
私は実名で『カタリ派とリインカーネーション』や、記号分析学に関する翻訳を行いながら、「黒樹龍思」の筆名で創作活動にも手を染め始めていたが、今回『天啓の濤』というタイトルで棟方に関する小説を書き始めたのには理由がある。
周知のように棟方には『暗い天使』から始まる代表作となるシリーズと、「天啓」シリーズという第二のシリーズがある。「天啓」シリーズは情況論的には天藤尚巳のウロボロスシリーズの向こうを張って出された作品だが、あくまで主題は<絶対の小説>、<究極の小説>に関する探求が主題となっている。
私はタイトルを『天啓の濤』とすることで、棟方の創作にまつわる<魂の解剖学>を企てようとしたのである。
完成された段階で『天啓の濤』には、次のようなエピグラムがつけられる予定である。
「<ウロボロス>の反転としての<天啓>の、<天啓>によるさらなる反転のために。黒い薔薇を捧ぐ。」
無論、『天啓の濤』は、棟方による「天啓」シリーズのまがいものであり、その意味でパロディと受け取られる可能性がある。私はカタリ派の問題を通して、棟方に知り合って以来、棟方が関心を寄せるミステリーに関しても、さまざまな議論を交わしたことがあるから、ミステリーが先行する作品に言及し、メタ・ミステリー化してゆく特性を持っていることは理解しているし、その過程で無数のパロディが生み出されるのも必然性があると考えている。だが、『天啓の濤』は所謂キャラ萌えでもないし、やまなし・おちなし・意味なしのやおいでもないといっておきたい。『天啓の
濤』は、もっと不快な、忌むべき小説なのである。ちょうど屍体の臭いを嗅いだ人間が本能的に顔をそむけたくなるような…。
なぜなら『天啓の濤』は完成した段階で、棟方の思想の可能性の中心を明らかにすると同時に、コインの裏表のように、その限界をも測定してしまうからである。
私はルナールの手帳をもとに、ルナールの謎に満ちた死に至るまでの棟方との交流を再構成し、その死に対してある仮説を提示しようと思う。
これはルナール、そしてジベールの死に関する告発だが、単なる告発ではなく、その死の理由を考えるとき、棟方の思想的限界点が浮かび上がるようになっている。そうしてこそ、二人の弔いのための闘争として成立するのだ。

ルナールの手帳は、極私的な内容から始まっていた。それを公開することは、躊躇がないわけではなかった。
だが、棟方の思想の全体像を考えるとき、欠かすことのできない要素と考えられた。
棟方は私と知り合いになった後も「観念論」を書き続けていたが、その内容は美的・エロス的・革命的次元において、現象学の方法を適用しながら、観念の倒錯を叩くという方向性を持っていた。だから、棟方の思想を問題にするとき、美的・エロス的・革命的次元にわたって考察を展開せねばならない。
ルナールの記録は、ギリシア旅行(これは私やジベールも一緒だった南仏旅行に続き、二人にとって二度目の旅行にあたる)から始まっていた。

ルナールはベッドの中で首筋を噛む癖があった。
「まるでヴァンパイアーのようだ。」棟方の口から言葉が漏れた。
何度、苦痛と喜悦、天国と地獄を往還しただろうか。
棟方はルナールの肩から背中を指先でなぞりながら、ルナールの中に<黄金の女>を見出していた。
後年、棟方は『吸血鬼戦争』連作で、<黄金の女>を登場させることになる。
棟方にとって、セックスとは超越的なものへの扉であり、至福への扉であった。
棟方は学生のころに読んだC・Wの著作を思い出していた。C・Wは評論『局外者』で知られる新実存主義者で、その著作『性衝動のオリジン』の中で、C・Wはオルガスムに至る寸前で止めることを進めていた。天井桟敷の劇作家は、性解放の立場からC・Wのこの考え方に反発したものだが、棟方はC・Wのこの考え方は旧態依然のモラリスムから
ではなく、オルガスムに至る寸前で何度でも回避することで、極限的な悦楽が無限に持続するプラトーに到達することを示唆していると考えていた。したがって、棟方のセックスは、延々と執拗であった。
棟方はアメリカのヘンリー・ミラーにも影響を受けていた。だから、あらゆるタブーは、踏み越えられるためにあると考えていた。だから、棟方はルナールとの間でも、さまざまな実験を行った。ソドミーもそのひとつであった。
但し、棟方はライヒのように、あらゆる禁制の撤廃は考えていなかった。あらゆるタブーはタブーであるがゆえに、それを侵犯する価値があると棟方は考えていた。
そして、最後に棟方はバタイユの思想の体現者となろうとしていた。
極限的な悦楽が持続するプラトーのなかで<私>は崩壊する。オルガスムが「小さな死」と言われるのはそのせいである。
「エロティシズムは死に至るまでの生の高揚である。」棟方はバタイユのこの言葉を金科玉条にして生きた。
「あなたはベッドの中でも哲学を語る人なのね。」ルナールは呆れたようにつぶやいた。
陽の光が射してきた。緑の中をすり抜けてきた光は、ルナールの裸身を浮かび上がらせた。
時計は10時をすでに超えている。
初めての出会いから、すでに9箇月を過ぎようとしている。
棟方とルナールは、誰にも知られず、ギリシアを訪れていた。ルナールがギリシアの海が見たいと言ったからである。
「海を見ると、生命の流れということを感じるの。私の中を流れる古代からの生命の流れを。」
「綺麗だ。青い海も、光る風も、そして君も。」棟方はルナールを後ろから抱きしめた。
棟方は、心の中のわだかまりが癒されるのを感じていた。
いつしか棟方はルナールの前でだけは、心を開くようになっていた。

しかし、棟方とルナールは、知れば知るほど、お互いのポジシオンの違いに気づき始めていた。
出逢いの段階からして、その予兆はあった。棟方はバタイユを評価したのに対し、ルナールはクロソウスキーを評価したのだ。
ジョルジュ・バタイユピエール・クロソウスキーは、ともにシュルレアリストの異端グループに位置し、ナチズムやファシズムが自分たちの野蛮な行為を正当化するのにニーチェの哲学を利用しはじめたとき、コントル・アタック(反攻)を組織し、アセファル(無頭人)を創刊し、ニーチェを頭(それは神学における神であり、国家にとっての総統のメタファーでもある)を切断する反哲学であると主張したのである。
だが、同じ無神論とはいっても、バタイユが反「有神論」という形で、正面からの転覆を図るのに対して、クロソウスキーは神を複数化させ、「多神教」を導入するのである。(さらにいえば、そのころ注目されていたモーリス・ブランショ
は、神学の零神化を図るのである。)
バタイユクロソウスキーも、ともにポルノグラフィーを書いたが、バタイユは正攻法で禁制を侵犯する非合法的な作品を書いてゆくのに対し、クロソウスキー貞淑な妻に不貞をさせ、自分はそれを覗き見るというような倒錯を描き、しかも、それを絵画や映画で反復して描くことで、いかがわしいシミュラクルを増殖させ、複数化させてゆくのである。
棟方とルナールが完全に意見を別にしたのは、ヌーヴォー・フィロゾフ(新哲学派)をめぐってであった。
棟方が日本にいたころ、新左翼系の党派に所属していたことは以前述べた。
だが、ルナールもまた、68年の五月革命を経験した存在だった。五月の嵐は終息をし、時代は冬の時代を迎えつつあったけれども、ルナールは五月革命を通じて、友愛と平和を理想とする新しい哲学を持っていた。
棟方はかつての学生運動について、その運動が連合赤軍事件に転化してしまうような必然性に気づき、マルクス主義を断罪したのだが、ルナールは五月革命を経て、ポスト・マルクス主義的な別な形の革命を志向するようになっていた。
棟方にとっての連合赤軍事件にあたるものは、ルナールにとってはソルジェニーツィンの『収容所群島』の刊行だった。
そのころから、<マルクス・レーニン主義ラーゲリ(収容所)の思想である>というヌーヴォ・フィロゾフの主張が、マスコミでも取り上げられるようになっていた。
そして、哲学者のジル・ドゥルーズはヌーヴォ・フィロゾフの成功は、マーケティング戦略の成功を意味するだけで、彼らの哲学は二項対立に基づいており、哲学的に無意味であるとこき下ろしていた。
ルナールの立場は、完全にドゥルーズ、そしてその協力者ガタリの立場に一致していた。
『アンチ・エディプス』が出たころから、ルナールはジベールとともに読書会を開き、討議を行ってきた。
ドゥルーズガタリによる『アンチ・エディプス』は、世界を欲望する諸機械として捉え、欲望する機械同士の異種結合からなる連結から気狂いベクトルのような効果が発生すると説き、社会をアントナン・アルトーの『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』の物語をなぞりながら、原始土地機械、野蛮なる専制君主機械、公理系に縛られた資本主義機械として捉え、多種多様な方向に欲望を走らせ、トゥリー(樹木)状の権力装置を解体させ、リゾーム(根茎)状のネットワークでつなごうとするものであった。
一方、棟方はもはやあらゆる革新思想が信じられないと語り、ヌーヴォー・フィロゾフの主張には正当性があると語った。
「では、権力に虐げられた人々を、あなたは見殺しにせよ、というの。そんなことに、私は耐えられないわ。確かに国家装置に対抗する革新勢力が権力を握ったとき、それが新たな国家装置に転化したり、独裁的な専制に転化したり、テロリズムニヒリズムが蔓延するかもしれない。でも、すべての革新勢力が、変質するとは思わないわ。仮に、すべての革新勢力が収容所群島を作り出してしまう理論的必然性があるとしても、罪のない子供たちが殺されたり、暴力で踏みにじられたりする社会を、私は受け入れることはできない。革新思想に問題があるのなら、問題箇所をフィードバックして修正すればいいのであって、あなたのように権力に虐げられた人々がいても、黙殺するというのでは、権力に魂を売ったのも同然だわ。」
「君はいまでもバスク解放問題に同情的だし、フランスで進められている原子力政策に反対する運動の指導者でもあるわけだが、バスク解放戦線が爆弾事件を起こして、罪のない人間を殺傷しているのをどう考えるのか。また、そういったテロリズムは最終的に無限の専制の方を志向しているとは思わないのか。君は権力に虐げられた人間がいるとき、同情するのがヒューマンだと考える。しかし、僕にはそういったモラルが信じられない。そういうモラルは、弱者の強者に対するルサンチマンだし、君のそういう同情心が君をテロリズムに近づけてゆくことがわからないだろうか。」
「わたしはテロリズムに反対だし、それが無差別に人を殺傷することに強く反対します。しかし、そういった暴力が発生するところには、不正や抑圧があるのだし、不正や抑圧をなくさないかぎり、根本的な解決にならないと思うのです。わたしが関わっている政治運動は、暴力やテロルではなく、理性とコミュニケーションを通じて段階的に問題を解決してゆくグループだけです。」
棟方は前髪をいじりながら、黙り込んだ。棟方は考え始めると、周りの喧騒すら耳に入らなくなる。完全な精神集中が行われるのである。
「君は<天使会>という秘密結社のことを聞いたことはないか。」棟方はそうぽつりと言うと、今度はルナールが驚いた
ように見開くと、今度は押し黙ってしまった。
そして、ルナールもどうすればいいかと思案するように、天井を見上げたのである。

あれは一体なんだったのだろう。
空を見上げる棟方の顔に、五月の冷たい雨が降りかかった。
自分が追い求めてきたもの、そして死と血の匂いのする革命を通じても達することのできなかったもの、それに至る
糸口をあの女は知っている。
聖性について、思弁的に語ることならば、ある程度の練習をつめば、誰でもできる。
だが、体験として聖なるものに届くには…。 <天使会>について問いただした後、ルナールは思案した後、「いいでしょう。貴方にもいつか話すべきと考えていましたから。ただ、今直ちにではなく、ジベールとともに。なぜなら、わたしたちにとって、ジベールは特別な存在なのですから。」と語った。
ルナールは、告白に相応しい特別な聖域を指定した。
俗なる世間から隔絶し、聖なるものを結界で封じ込めた異次元。
だが、その場所を明かそうとはしなかった。
棟方はいつものようにルナールのアパルトマンを訪れるだけで良かった。
だが、いつもと違い鍵はかかっておらず、ルナールの姿はなかった。
茫然としてたたずむ棟方の背後に、いつの間にか黒服の二人の男が立っていた。
黒服の男は、恭しく一礼し、ルナールに頼まれてきた者であることと、これからルナールの待つ森に案内するので、アイ・マスクをつけて欲しいといった。
棟方は黒服の男の殺気から、抵抗することは無駄であると判断した。
この男たちは、時と場合によっては棟方を気絶させてでも、ルナールの待つ場所に連れてゆくに違いない。
棟方は左翼活動を通じて、訓練された武闘派の持つ独特の雰囲気を知っていた。
彼らには何かしら鉄の匂いがするのだ。
棟方は言うがままにアイ・マスクをつけさせられ、マンションの前に止められた車に押し込められた。
マンションを出たとき、ぎらつく太陽の日差しが当たり、じっとりと汗がにじんだ。
車の中でも、棟方は冷静さを失わなかった。
車両の傾きや、音から、棟方はカーブをどちらにまがったか、必死で考えようとした。
だが、道が解らないようにわざと迂回するのか、しまいに分からなくなってしまった。
ぎらつく太陽だけが、容赦なく、照りつけ、次第にどこまでが現実か、どこからが夢なのかすら、分からなくなってしまった。 <ルナールについて私が知っている二、三の事実とは…>
夢とも現実とも区別のつかない曖昧な世界の中で、棟方の意識は同じ質問を反芻し続けた。 <ルナールについて私が知っている二、三の事実とは…パリ第一大学の学生であり…『カタリ派とリインカーネーション』や、『プルースト論〜欲望機械と同性愛』でしられるH教授の門下生であり…ゴダールの『中国女』を見て「ヴェロニクは私だ」と叫んだマオイスト(毛沢東主義者)であり…好きな言葉はええと、なにだっけ…そうそう、「造反有理(反逆は正しい)」であり、常に教条主義と修正主義の二つの戦線で戦っている学生運動家であり、『資本論』を第二章から読めといったアルチュセールをも修正主義者として、斬り捨てていた。彼女は闘士…ヴェトナム反戦平和運動にも深くコミットしており…反核エコロジストでもあった。現在、ラングドッグで進められている原子力発電所計画にも、反対の論陣を張っていた。オルタナティヴ運動の某機関紙で発表されたルナールの論文は、「核廃棄物の処理方法の問題点を鋭くついたもので、現在、核廃棄物の安全な処理方法が確立されていない以上、将来的に安全な処理方法が確立されることを前提に話を進めるのは、将来の技術の進歩に対する妄信であり、科学的な議論とはいえない」というもので、核開発をすすめる保守派や産業界の神経を逆なでするものだった。ルナールはベナールとともに行動しており、ベナールの他にも幾人かの熱心なシンパを引き連れていた。彼らの名称は、それは公然としたものではないのだが…私はシンパの中の一人から聞き出すことができた。その名はア・ヴィ・ルージュ…赤い生…ルナールの生きた鮮烈な赤…『毛沢東語録』のペーパーバックの赤…愛と革命と…そして、なによりも生命の赤…ルナールは愛していた…その赤を…そして、私はルナールを愛していた…愛していたかった…だが。>
棟方の前に、ルナールの姿があった。だが、赤い炎で、その顔は揺らめき、いつもとは違う顔があった。棟方には、それがなにかしら底知れぬ深淵をたたえているように思われた。
「お待ちしておりましたわ。」なにか車の中で嗅がされたのか、頭がずきずき痛んだ。
「貴方が<赤い生>の存在に気づいたことは判っていました。いずれ、この日が来ることも。貴方は独自の調査で<赤い生>は歴史の表面に浮かび出た結社の政治的部分に過ぎず、その実体が<天使会>にあることを知りました。しかし、<天使会>はうわさ話に現れる俗称に過ぎず、<天使会>を追いかけても、貴方の追い求める<天使会>とはまった
く異なる無数の個人サークルや愛好会にしか届かないようになっています。いずれ、テクノロジーの進歩によって、私たちは電視的なハイパーテクストを共有するかたちになるでしょう。しかし、ホログラムのような電視的ハイパーテクストをさまざまな形で検索しても、ニセの情報しかつかめないようになっているのです。はっきり言っておきましょう。<天使会>という名称は、探求者のミスディレクションを誘発するために撒き散らされたデマに過ぎません。」
ルナールは、蝋燭の灯る祭壇から、棟方に歩みよった。
「だから、私は<天使会>と言い出した貴方を完全に無視することもできたのでした。それをしなかったのは、貴方もこのプロジェクトに参加して欲しいと願ったからです。」
ルナールは優しく微笑んだ。
「貴方は昔から<絶対>の彼方にダイビングすることを夢見た人です。貴方は政治的な人ですが、政治的である前に、一種宗教的な方です。それは、キリスト教などの既成宗教への帰属を意味しません。貴方が獣のように、制度や権力を嫌い、キリスト教を牧人=司祭制権力と呼んで、毛嫌いしていたのを知っています。貴方の関心は、秘教に向かっていました。エッセネ派精神主義グノーシス主義キリスト教イスラムスーフィーの教え、道教に伝わる練丹術、チベットの金剛乗仏教…制度化した公教の表面的な違いとは別に、貴方は秘教のうちに人類共通の魂のアールを見出せると考えていました。」
そこまで言うと、ルナールは表情を硬くした。
「しかし、貴方は<絶対>の彼方にたどり着いてはいないし、貴方のような思考では<絶対>に永久に達することはない。」ルナールの表情は、哀しさを帯びていた。
「貴方は性急すぎるのです。<絶対>にたどり着くには、<絶対>の彼方にダイビングしたいという渇望自体を棄てなければ。私は貴方を救いたいのです。<絶対>に恋焦がれながら、<絶対>にたどり着けず、自分を傷つけている貴方を救いたいのです。だから…私は貴方を迎え入れたいのです。<天使会>というダミーの世界でなく、<薔薇十字啓明会>へ。」
「薔薇十字啓明会?」棟方は混濁した意識の中でつぶやいた。
「そうです。<薔薇十字啓明会>です。政治的秘密結社<赤い生>は、その理念を表現した行動的部分に過ぎず、<薔薇十字啓明会>の認識にたって魂の学びをしないと意味がないのです。今世紀はマルクスによって経済的存在としての人間像が、フロイトによって無意識まで広がる性的存在としての人間像が注目されましたが、これらの認識は一面的なもので、これらの認識をもとに革命をはかっても、ゲーテスピノザのような人間は誕生しません。薔薇十字とは、いうまでもなくクリスティン・ローゼンクロイツによって始められたfraternitatis rosae crucisのことであり、キリストの十字とパラケルススの薔薇の結合体のことです。私は<薔薇十字啓明会>のもとに、今世紀中に大きく三つに分裂している霊統をひとつにまとめ、魂の本質に沿った文学や芸術を開花させるとともに、政治や経済の構造も変えてゆきたいのです。私が注目している霊統とは、第一にロシアの東方的グノーシス主義であり、ここにはグルジェフやウ
ペンスキーが該当します。場合によってはラスプーチンの例も参照する必要があります。第二に、マダム・ブラバツキーの始めた神智学の霊統があります。ここにはルドルフ・シュタイナー人智学の流れも含まれ、仏教に人智学アプローチをしたヘルマン・ベックの研究にも注目しないといけません。第三に、英国黄金の暁会の儀礼魔術の霊統があります。ここにはマクレガー・メイザースや、クロウリーダイアン・フォーチュンがいますし、なにより儀礼魔術のすべてを公開したイスラエル・リガルディーがいます。私はこれらを統合し、秘境的なスクールをつくろうと考えています。」
「そして…」ルナールのそばにジベールが音もなく近づいた。
「私たちの成果が、ジベール。生前離脱を遂げた来るべき天使なのです。」
ジベールは身にまとっていた白い布を脱ぎ落とし、上半身をあらわにした。
そこに現れたものは、日に焼けていない白い肌。
胸には、巨大な鷹の刺青で血がにじんでいた。
「キング・フェニックスは、今ここから飛び立つのです。」
その瞬間、胸の刺青が羽ばたくように浮かび上がった。

「君は私のような思考では、<絶対>に到達することはないという。では、私のような思考の陥穽とはなんだろう。」
棟方は声を搾り出すように、ルナールの眼を見て語った。
「貴方は黒樹龍思という名前で活動していた頃、大衆叛乱と結合した持久的権力闘争としての人民戦争に賭けようとした。そして、資本主義という巨大なシステムの外部に立つ怪物として、自己規定しようとした。だが、この企ては、マルクス主義的解放戦線が、無際限のテロリズムを正当化し、無限の抑圧体系を造りだしてしまうというパラドックスに直面する。そのため、貴方はマルクス葬送派として転向し、黒樹龍思というペンネームを棄てるに至る。今度は恥辱にまみれた存在の根底に降りてゆき、現象学オントロジーに立って、空中に浮かぶ観念の伽藍を壊そうとしはじめる。貴方の頭の中は、マルクスに変わって、今度はバタイユが占領するようになる。だが、巨大な社会システムの外部に立つ怪物として自己規定するスタンツだけは変わらない。貴方はバタイユの普遍経済学の理論を、構造とその外部の弁証法に立つ理論であるとする解釈を拒否し、バタイユ弁証法を廃滅してゆく反弁証法だと主張し始めた。確かに、バタイユのねらいはそこにあったかも知れない。しかし、客観的な社会学的な視点からみるならば、貴方の理論は資本主義の外に立っている怪物を気取るロマンティストに過ぎない。その理論は<物自体>の根底、ラカンのいうところの<現実界>に到達することはない。せいぜい<想像界>をかき回す程度にすぎない。資本主義というシステムは、システムとしての自己を解体してゆくシステムなのだから、貴方の異端的ロマンティシズムもまた単なる消費財でしかない。怪物であることは、自己の差異化をつきつめることであり、結局は消費財としての自己の付加価値を高めるにすぎない。怪物であるという質的な価値は、資本主義の前では直ちに貨幣という量的価値に翻訳され、無毒化する。だから、貴方が外にいると主張するとき、貴方は中にいることになる。そして、資本主義は無傷のままに残り、資本主義の公理系は維持される。こうして、利益と結びつく行為だけが評価され、そうでない行為は無価値で意味がないとされ、嘲りの対象となる。はたして資本主義の前でも、徹底した外部に立つことは可能なのか。徹底した外部とは、内部と外部の二項対立のさらなる外部なのだから。」
さらにルナールは、棟方の問題点を突く。
「貴方は怪物になることは出来ても、天使になることはできない。天使とは怪物を超えた怪物なのだから。つまり、天使は差異の体系からなる意味のマトリックスをすり抜けてしまう特性がある。私たちは天使教育を行い、メンバーひとりひとりを天使にすることで、自己解体する資本主義という巨大なシステムをすり抜けることができると考える。資本主義の公理系は、利益と結びつくという一定方向の生成しか認めない。しかし、私たちは各人に天使教育を施し、個人の特性を生かし、伸ばすことで、多種多様な生成を肯定し、最終的に資本主義の方向性を多方面に広げることができると考える。天使は媒介者であり、神と人を繋ぐ中間者である。天使の位置は、仏教で言えば菩薩と人の間を媒介する阿弥陀如来の位置に相当する。天使という媒介者をつうじて、人は神に近づくことができる。天使は、錬金術でいえば、金と鉛をつなぐ賢者の石に相当する。貴方は私たちの催眠誘導によって、ドラッグによらずして、変性意識状態にある。私たちは催眠誘導を蝋燭の炎や、お香の香り、そして揺らめく図形などを使う。こうして、貴方は<夢>と<現実>の狭間に置かれている。チベットの導師は、こういった中間状態をバルド、中有と呼んでいる。人間が死んで、生まれ変わるまでがバルドであり、さらにいえば人が生まれてから、死ぬまでもバルドに該当する。貴方がいま置かれている<夢>と<現実>の狭間もバルドである。バルドは<存在>と<非在>の中間であり、天使もまた<存在>と<非在>の中間である。しかし、今の貴方には「中間性の知性」がないから、<存在>と<非在>の間を捉えることができ
ない。だから、私たちの天使教育の成果であるジベールの奇蹟も、貴方は<見る>ことができない。貴方は固定観念に縛られており、貴方が見るものは<存在>か、<無>か、どちらかである。私たちは、催眠誘導で得られる向こう側の世界がリアル・ワールドだとは思わない。かといって、私たちが今いるこの世界だけが唯一のリアル・ワールドであるとも思わない。私たちの教えは、それらに釘づけにならないこと。着地しないことなのです。」
ルナールの議論は、棟方のウラ日本史観にも及んだ。
「貴方は日本の歴史についても、独特の史観を語ってくれたことがあった。それは縄文人解放闘争を軸とするウラ日本史観だった。これは皇国史観の陰画であり、黒い日の丸を基にしたもうひとつの史観であった。そして、それをもとにSF伝奇小説を書きたいという夢も聴いた。貴方の史観はとても興味深いものだったが、皇国史観がだめなのと同じく、ウラ日本史観も、正統の考えを反転しただけで、そこに釘さされている限りにおいて、全然思想的には評価できない。弥生人の侵略やATL(成人性T型白血病)によって滅びの道をたどった縄文人に味方しても、彼らが権力を握ったとたんに、全くの別物になるでしょう。また、彼らが権力の奪取に至らなくても、小型の国家装置をつくり、小さなカルトやセクトを作ったならば、きっとそこで虐殺や拷問が行われるでしょう。私は予言します。貴方はマルクス主義の地獄のようなテロルから逃れるようにバリにきたけれども、貴方の縄文人解放闘争を描いた小説を読んだ日本人は、やはり間違ったカルトを築き、犯罪を行うということを。」
「貴方の思想のバックボーンにあるジョルジュ・バタイユは、マルキ・ド・サドの同様のヴィジョンをもとに議論を展開している。マルキ・ド・サドの場合、正常な社会というものがきっちりとあって、それを侵犯するものとして反キリスト的な
倒錯的世界があり、正常と異常の境界線がはっきりしている。マンディアルグもサドのヴイジョンをもとに、『城の中のイギリス人』を書いているけれど、これもまた倒錯的な行為を展開するために、正常な社会と断絶した城の中という異空間を設定している。しかし、正常に対する異常ということで二項対立の図式が出来てしまうと、そこから先は退屈な反復しかない。悦びとは別な苦力のノルマのように。そして、その退屈な反復を見据えていると、マルキ・ド・サドの反キリストは、確かにその当時の啓蒙思想リベルタンの影響を受けた無神論を標榜しているけれど、実は反有神論であることが理解されてくる。つまり、眠れる神をたたき起こすために、反逆する偽悪人であるということが。だから、私の眼からは、バタイユもサドも、過激なようにみえて、人間の欲望を安全な図式に回収してしまう文学機械にみえる。」
ルナールの文学論は、H教授の影響を受けていて、文学作品を文学機械と見做し、文学機械との読者の異種結合から、意味が産出されると考えている。
「それに対して、私の思想のバックボーンには、ピエール・クロソウスキーがいて、シャルル・フーリエのヴィジョンをもとに議論を展開している。フーリエは貴方のような元マルキストには、空想的社会主義者として捉えられていると思う
のですが、シュルレアリストに注目されたような奇想を持っていた。フーリエマルキ・ド・サドとは違い、正常と異常の二項対立がない。すべては異なる嗜好を持つ秘密結社で作られていて、倒錯と倒錯が競い合い、さらなる異常な例外を生み出し、加速させる世界になっている。シャルル・フーリエは『四運動の理論』を書いていて、社会的、動物的、有機的、物質的の四つの運動から、宇宙の始まりから終末までを途方もない運命計算を展開させながら描き出し、文明のはじまりの未開のうちに、その後展開される未来や終末を幻視している。そこでは、異なるもの同士が異種結合を繰り返し、ほどんど荒唐無稽に近い偏奇を誕生させてゆく。最終的には惑星間の性愛でらくだが生まれるに至ってしまう。フーリエは自給自足の農村家庭組合(ファランジュ)を考え出した人だけれど、弟子たちはフーリエの奇想を理解せず、もっと変な『愛の新世界』を隠してしまった。しかし、強度(アンタンシテ)をはらんだ幻想の無限増殖を図るフーリエの理論こそ、システム論的に開かれたものだと思う。少なくとも、マルキ・ド・サドのように、悪の倒錯行為を為す悦びを延命させるために、神学システムの延命を裏で期待するような思考はしない。」
「だから…」ルナールは棟方の思想に、容赦ない断罪を行おうとしていた。
「貴方の思想は、プレモダンな超コード化された専制君主社会に対してならば、ある程度のインパクトがあったかも知れない。しかし、共同主観的存立構造を支えるゼロ記号がない資本主義という脱コード化社会に対しては、その反抗はなし崩し的に無害化されてゆくし、下手をすると資本主義のモダンに対して、ブレモダンな超コード化を要求することになりかねない。つまり、貴方の思想は、意味がないばかりか、愚昧ですらある。」
そして、ルナールは現在の自分の立場について語り始めた。
「私は<薔薇十字啓明団>を、小型の国家装置にする意志がない。あくまでも戦争機械として、国家装置や、心の中の抑圧装置に対して闘うための拠点になればいいと考えている。無論、秘密結社の指導者には、権力志向の者もいるし、政治的な圧力団体を目指すフリーメイソンのような秘密結社もあれば、暴力革命をも肯定するイリュミナティーのような党派もある。しかし、それらは私の目指すものではない。<薔薇十字啓明団>は、昔フリーメイソンから本来の薔薇十字団のあり方に戻ろうというスローガンのもとに再度分化した団体なの。だから、フリーメンソンの位階制がまだ残っている。私は、この位階制を民主化すべきだと考えている。もちろん、薔薇十字の精神的理想は、崩すことはできませんが。そして、貴方が望むならば、私たちのために再度新しい貴方を見せてくれるというのならば、仲間として迎え入れようとおもうのです。」
棟方はゆるゆると頭を上げた。
今までどうしていたのだろう。世界がはっきりとした輪郭を描かない。なぜかそらぞらしくみえる。
あたりを見廻してみる。
机の上にはぼろぼろになるまで読み込んだ『無神学大全』、そして未だ執筆中の「観念論」の草稿。
いつもどおりの屋根裏部屋ではないか。
あれはなんだったのだろう。夢か現実(うつつ)か。
なぜか手のひらがずきずきする。
おそるおそる手のひらをひろげてみる。
手のひらには十字の聖痕が。
ああ。嗚咽とともに棟方は絶叫した。

いつから<絶対>ということを意識するようになったのか。
ドス氏の『黒塗家の兄弟』の無神論をめぐるプロとコントラの格闘のせいか。然り。
三嶋幸雄の『豊饒の湖』における<絶対の小説>という観念のせいか。然り。
埴輪豊の『至霊』における<究極の革命>という観念のせいか。然り。
だが、それだけではないと考える。
棟方が今まで親しんできた文学者サルトリ、カムュ、そして棟方はどうしたわけか幼い段階で父と死別している。
このことはなにをもたらしたか。
ひとつにはサルトリが『ことば』で述べているように<超自我>がないということをもたらした。
父親とは家庭内で神や法の役割を果たす。
これがないということは、自分が立法者になり、自分がそれを遵守するということを意味する。
「人間は自由の刑に処せられている」というサルトリの言葉は、ソルトリにこそあてはまる。
第二に、カムュの場合、父の不在というテーマは最晩年の著作まで運命づけた。
カムュは若くして交通事故死を遂げたが、最期の執筆中の作品は「はじまりの人」といい、父親のことを指している。
カムュの場合、父親の死は幼い段階からニヒリズムとの精神的緊張を強いた。
棟方の場合、この二つの問題が同居していた。
実は、この物語の話者である黒樹もだが。
棟方に対する愛憎の混じった感情はこんなところにもあるのかも知れない。
三嶋が自衛隊本部で霊的かつ文化的国家防衛を訴えて自決したとき、三嶋の盟友澁佐和辰彦は「<絶対>を垣間見んとして…」というエッセイを書いた。
渋佐和は、三嶋が関の孫六を自分に突き刺したとき、生と死を超える<絶対>を見ようとしたのだと断じた。
もしも、生と死を超える<絶対>を見ることができるならば、そのとき死は脅威ではなくなり、ニヒリズムの冷たい調べを聴くこともなくなるだろう。
そして、そのことを胸に抱いて、生きることも、死ぬこともできるはずである。
キルケゴールは「自分がそのために生き、かつ死ぬことのできるイデー」を探求した。棟方も同じイデーを頭を壁にぶつけながら探求したのだ。
棟方にとって、革命も小説も、そういった<絶対>に到達するための必要経路と思われた。
神経とは、神の経路である。
ドーパミンA10神経を流れるとき、われわれの身体は快楽を感じる。
そして、棟方にとって<絶対>という観念こそ、興奮させるものはなかったのである。
(このことは、今日の観点からすると、重要な問題を派生させる。「生と死を超える」とは、サリン等の化学兵器ニコラ・テスラ地震兵器による人類の滅亡を企てようとした忌まわしきカルトの教祖の著作と同じではないかということである。事実、棟方の縄文民族解放闘争を扱った伝奇小説群を読んだ人間で、そのカルトに入信したものは存在している。後年、棟方は自分の小説以上に読まれたという別の著作の著者を攻撃しているのだが。)

棟方は翌日から精力的に<薔薇十字啓明会>について調査を始めた。
国立の図書館で<思弁的フリーメイソン>とその分派活動に関する文献をあさり、東方書店でもさまざまな資料を入手した。
また、<フリーメイソン>系の某フランス・ロツジにコンタクトを取ろうとした。その団体は、当方は各界で活躍する人々の横のつながりを大切にする社交団体であり、異端的な神秘思想を受け継ぐ秘密結社であるとか、なんらかの社会的革命をめざす政治結社というのは、興味本位なジャーナリズムが描いたデマであるとの公式見解を棟方に告げ、調査への協力はできないとした。棟方は<薔薇十字啓明会>の現在の首領の名前を知っていると告げたのみで、引き下がる他はなかった。
変化が訪れたのは、数日後からであった。
「<薔薇十字啓明会>について知りたいことがあるのならば、来週の木曜日、<地下回廊>というバーに一人で来るよう
に。目印は胸に金の羽のバッヂ。」とだけ書いたメモが郵便受けに入っていた。
棟方は木曜が来るのを待ち、<地下回廊>に降りていった。
薄暗がりを抜けると、まばゆいばかりの光があふれる赤い絨毯の世界があった。
胸に金の羽をつけた男は、その店の片隅にいた。
静かに目が合うと、その男は黙ったまま、視線で座るようにうながした。
男は白い口ひげを生やしていたが、変装のようでもあり、棟方にはうさんくさく見えた。
男は<薔薇十字啓明会>の現在の首領の名前を言うように、棟方に告げたが、棟方は拒否した。
男は「只でとは言わない。いくらでだ。」と取引を持ちかけた。
棟方が言うつもりがないことを知ると、男は別の取引を持ちかけた。
その話によると、<薔薇十字啓明会>は、エノク語で書かれた<飛翔する巻物>という書物を所有しており、それは本来<フリーメイソン>が秘密の首領から与えられたものとして継承してきたものだという。ところが、第二次世界大戦中、<薔薇十字啓明会>が独立して分派活動をし始めたとき、裏切り者のジャン・ギベールが勝手に盗み出していったという。 <飛翔する巻物>には、霊視・霊聴の方法や、アカシック・レコードの解読記録、召還魔術の方法、読心術と他人の思考を支配する方法、心霊的自己防衛、ジジル・マジック、タットワを用いた他界へのアストラル転移について書かれており、この書を所有するならば<絶対>の彼方に行くことができるという。
男の取引内容は、<飛翔する巻物>を取り戻してくれるならば、一生遊んで暮らせるだけの財宝を提供するというものだった。
棟方は、もはや男の話を聴いていなかった。
男が提供するという億万長者の生活など、どうでもよかった。
そのとき、棟方に<飛翔する巻物>という魔が憑いたのである。
棟方は男と別れると、帰り道、ふらりと映画館に入った。
映画のタイトルは、ホドロフスキー監督による『ホーリー・マウンテン』といった。
数人の物欲に憑かれた登場人物たちが、やがて聖なる山をめざすというもので、聖なる山には賢者が住むという。
登場人物たちは、聖なる山の頂上を目指し、賢者を殺害し、聖なる知識を奪おうとする。
映画は意外な結末を迎える。
登場人物たちが、聖なる知識を奪おうとしたとたんに、これはつくり話であり、映画であるとして、映画のセットが暴露される。
こうして、映画の中と、客席の境界がなし崩しにされ、主人公たちの問題は、わたしたちの問題であると判る。
あとでわかったことだが、これはルネ・ドーマルの『類推の山』の映画版であるという。
棟方の目指す類推の山は、ルナールが掌握していた。

ルナールは大学内で<現代思想研究会>というサークルを開いていた。サークルは週に一回、木曜に開かれていた。
ルナールとジベールは、それを<木曜クラブ>と名づけていた。 <現代思想研究会>が、ルナールによるオルタナティヴな社会的実践活動の場である<赤い生>と、秘教的な結社<薔薇十字啓明会>のオルグの場に使われたことは、想像に難くない。 <現代思想研究会>は、定期的に読書会を開いており、その日もルナールの提案でミッツェル・フーコー編集の『エリキューヌ・バルバンの手記』が選択されていた。
ルナールは<現代思想研究会>の場でも、挑発的かつ攻撃的であり、ゴダールの『中国女』でアンヌ・ヴィアゼムスキーが赤い『毛沢東語録』を振りかざし、アジテートするように、ルナールは『エリキューヌ・バルバンの手記』を振りかざ
し、以下のように語ったのである。

エリキューヌ・バルバンは、実在した両性具有者(アンドロギュヌス)であり、その特異性から惨めに打ち棄てられた生涯を送り、死後も医学によって注目すべき畸形として研究対象にされたのです。
文学をひもとくならば、バルザックの『セラフィタ』のように、両性具有を聖化し、天使として描いたものがありますが、現実に地上を生きる天使は、人々の認識を揺るがす危険な存在として、常に排除の対象となります。
私たちは日頃「男性/女性」という二項対立を軸にした認識方法をしていますが、ドゥルーズ=ガタリにならってn個の性という考え方を導入しなければなりません。
前衛音楽家ジョン・ケージは、その著書『小鳥たちのために』の中で、きのこについて語っています。
ケージは、きのこについてくわしくなればなるほど、わからなくなると語り、リンネに始まる系統樹による分類をすり抜けてしまうと言っています。
リンネに始まる系統樹による分類方法は、onとoffの二項対立に基づいており、これをドゥルーズ=ガタリに習って、トゥリー(樹木)型の認識方法と呼ぶことができるでしょう。
ところが、きのこや菌類は、トゥリー状の認識システムには収まらない複雑さを持っています。それは多種多様なだけではなく、常に聖性変化する世界なのです。
粘菌を例にとって考えて見ましょう。粘菌は胞子で増えるという植物の性質と、アメーバのように移動するという動物の性質を兼ね備えています。また、胞子状態ならば水分がなくとも生命活動をほとんど停止した状態でしばらく維持できますので、静と動、死と生の中間状態にある存在でもあります。このような動物と植物の中間状態にあるような存在は、トゥリー型のシステムからは常に排除されます。
ドゥルーズ=ガタリは、トゥリー(樹木)状の認識システムに代えて、リゾーム(根茎)状のモデルを提示します。これは、中心がなく、二項対立による枝分かれもなく、菌糸のように絡まりあう世界です。しかし、こういった認識のパラダイムにこそ、エリキューヌ・バルバンのような存在が排除されることなく、生きられると考えます。
トゥリー型の認識システムは、常に権力と結びついてきました。白人/黒人、理性/狂気、適法性/違法性…という具合に。
ミッシェル・フーコーは、『狂気の歴史』の中で理性と狂気の境界線について思考し、歴史的に狂気はそれ自体として実体を持って存在するものではなく、正常な社会を乱すものとして排除されて始めて存在するとして、理性と狂気の境界線の恣意性を明らかにしました。狂気の定義は歴史によって変動しますが、社会システムの維持と再生産に反するものが、常に狂気として排除されます。再生産とは、次世代に渉って同じ社会システムを作ることであり、出産と育児と教育を指します。特異な言語を操る詩人や、社会の再生産に貢献しない独身者の機械も、時代によっては排除の対象になります。
ここで、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を想起してもいいかも知れません。そして、われわれの社会が、狂気や痙攣的な美を弾圧していないか、問いかけてみる必要があります。
フーコーは解放療法を始めたピネルという精神医学者について語り、精神医学の完成によって、狂気の排除は一層人々の精神の中に組み込まれ、内面化されたと語ります。
いまや、精神病院の内と外を反転させる思考が必要なのかもしれません。精神病院の外にいる一般人こそ、解放療法をほどこされている精神病患者であると。
先程、トゥリー型の認識システムが、権力と共犯関係にあることを述べましたが、権力は誰が握っているかでなく、どのように機能しているかを問わなければなりません。権力は、社会をどのように効率よく管理できるかというエコノミーの原則に立って機能します。
フーコーは『監獄の誕生』において、パノプティコン(一望監視体制)を取り上げます。これは囚人たちを管理するのに、最も効率的な方法です。
しかし、さらにいえばもっと効率的な方法があります。権力の持つ監視の眼を、人々の精神の中に埋め込み、内面化し、自己を監視する自己という形にすることです。フーコーは、これを奇妙な経験的二重体として捉え、これによって権力は省力的に人々を管理することができると考えます。
アルチュセールは、超コード化モデルで考えているのですが、主体の形成には呼びかけが重要であると指摘しています。まず、メタレベルの君主からオブジェクトレベルの臣下への呼びかけ、次に臣下同士の呼びかけ、最後に臣下の自身への呼びかけ。こうして主体化=内面化=隷属化は完了します。
資本主義の競争原理は、主体に立ち止まると追い抜かれるという疚しさを植え付け、内面化させます。
資本主義は利潤の追求という一定方向の生成しか認めておらず、それに相応しい主体をつくり、社会を再生産するために学校が機能し、道から逸れるものを精神病院や監獄が矯正するようになっています。
欲望は禁圧されているというより、むしろ常にかきたてられているというべきでしょう。しかし、その欲望は一定方向に流れるように、国家装置とそのイデオロギー装置によって、整流化されています。
資本主義によって欲望が開発=利用=搾取されてゆく世界において、わたしたちは国家装置とそのイデオロギー装置に対抗して、ノマディック(遊牧的)な革命的戦争機械を組み立て、リゾーム状に多種多様な方向に欲望が流れるように戦闘を開始しなければならないでしょう。
ここで、バタイユの『呪われた部分〜普遍経済学の試み』について考えることは無駄ではないでしょう。再三繰り返してきたように、バタイユの理論は鍋蓋理論であり、システムという鍋蓋の下に、ぐつぐつと煮えたぎっているカオスがあるという考え方です。しかし、今述べたように、資本主義は欲望を禁圧しているのではなく、欲望を一定方向に整流化しているわけです。仮に超コード化された専制君主社会であれば、バタイユ理論はインパクトがありますが、資本主義下でこれを行うことは、逆にアルカイックな英雄崇拝待望論を招き寄せることになる反動的な考え方です。
ここで『呪われた部分』に代えて、クロソウスキーの『生きた貨幣』を提示しておきましょう。
ゴダールの『彼女について知っている二、三の事実』を待つまでもなく、わたしたちは、多かれ少なかれ、したくないことをして、生活費を稼いでいます。いわば自分を売って、死んだ貨幣と交換しているわけです。
ところが、クロソウスキーは誰もが生きた貨幣となり、互いに交換しあえばいいと説きます。
この考えは、インモラルですが、資本主義の彼方まで射程が届いています。欲望と価値とシミュラークルから成るこの教説は、未来の経済学の方向を、やがて規定するようになるでしょう。
今日はどうもありがとう。次週は、現象学ジャック・デリダについて語り合いましょう。

棟方は<現代思想研究会>の後、ルナールと会う約束になっていた。
今日のテーマは、フーコーらしい。現存在分析のビンスワンガーの著書の序文も書いているフーコーならば、ドゥルーズよりはまだ判る部類の思想家といえる。
「外の思考」というフーコーのテーマは、自分と問題を共有するところがある、とさえいえる。
また、マルクス主義を始末するという方向性も、自分と一致している、と思う。
しかし、通時態よりも共時態を重視し、エピステーメー地殻変動をもとに、マルクス主義と人間中心主義を始末するフーコーの方法は、自分とあまりに違いすぎる方法であった。
自分の方法は、あくまでも現象学を基盤にした観念批判論にある、と棟方は考えていた。
ルナールは部外者の自分にも、参加を認めていたが、気乗りがせず、今日は辞退することにした。
退屈そうに大学構内を歩いていると、薬理学教室のドアが半開きになっていた。
無用心なことだが、誰もいないようだ。
茶色や緑の小瓶が、所狭しと並んでいる。
この部屋の人は、食事にでも出かけてしまったのだろうか。
棟方は薬理学教室の中に入っていった。
窓ガラスから、大きな菩提樹が見える。
棟方は何を考えるわけでもなく、ぼんやりと白いテーブルに射した光を見つめていた。

時は満ち、まもなく決着が着くだろう…彼がわたしたちの運動に加わることはない…断じてありえない…彼は語った…自分の過去について…そして、二度と誤りたくはないのだと…わたしたちは近いうちに、大規模のデモを組織する…それは脱属領的なものになるだろう…立場を超えて、わたしたちはひとつになる…しかし、彼は加わろうとはしない…世界が冷戦で分裂しているときに、反核を唱えることは、片方の利益と、片方の不利益をもたらすという彼の指摘は正しい…だから、わたしたちはすべての権力に抵抗する…彼の考えからすれば、両方にアンチをとなえればいいはずだ…だが、彼はそれをしない…彼は逃げている…何から…過去から…そして、いつまでも無傷でありたいと願う…わたしは彼を卑怯だとなじった…わたしたちは終わりに近づいている…彼は政治を遠ざけようとする…だが、政治は国政や選挙の中にだけあるのではない…愛し合うとき、わたしは彼の顔の輪郭を指先でなぞる…しかし、わたし
は指先に至るまで、政治的だ…政治的でないものなどない…わたしたちのライフスタイル…わたしたちの趣味…わたしたちの愛し方…これらは、十分政治的だ…権威主義的で道徳主義的な人々は、わたしたちのように、自由奔放に愛し合うことがない…なぜ、先程からわたしは愛についてばかり考えているのか…たぶん、わたしたちの愛は終わった…たぶん、ではない…確実に、終わった…彼がわたしに今なおつきまとうのは、愛とは別の何かのためだ…それが、何なのか、わたしにはわかっている…薔薇十字の秘密のためだ…それは、エソテリックなものだから、誰にも教えるわけにはいかない…それは秘中の秘なのだ…あなたはイニシエーションすら受けていない…結社員ですら、ほとんどの者が知らないのだ…彼は秘密にするのはおかしいという…だが、あれが世界に流出したならば、地上の権力のために使うものが出るにちがいない…わたしは拒否した…彼は怒りにこぶしが振るっていた…彼は、自分のことしか考えない…彼は独善的だ…彼は自分の否を認めたことがない…あなたが熟読しているコリン・ウィルソンがヴァン・ヴォークトについて語っているように、あなたはヴォークトの「ライト・マン」という定義にぴったりだ、といってやった…彼は、わなわなと震えていた…あなたは、いつも自分が正しい…あなたは、いつも自分が権威だ…そして、他人をやり込めることに無上の喜びを覚えている
わたしたちは決裂した。
来週、わたしたちの研究会ではジャック・デリダ脱構築を扱うのよ…そのため、今日は予習をしなければならないの…ジャック・デリダは、フッサール現象学を批判しているの…フッサール、貴方のお友達のムッシュー・タケダの好きなエグムント・フッサールフッサールは厳密な学としての現象学を打ち立てた…どのようにして?…それはね、認識と対象は一致するかどうかの近代哲学の問題を、いったんかっこでくくり、対象がどうのこうのではなく、わたしたちの意識がどう経験しているかは、ありのままに言い当てられるとした…あなたは、いつか言ったわ…「観念論」が完
成したら、いつかSF小説を書きたいって…それは、トランシルヴァニア産の吸血鬼が出る話だって…人間たちは、吸血鬼なんているわけないからといって笑うけど、それが自分たちの命に関わると知ってからは、吸血鬼を存在するものとして行動せざるを得なくなるって…ここでも対象の存在証明は後回しで、とりあえず「いる」という実在感覚で話を進めざるを得ない…でも、意識のありのままを言い当てるのに「言葉」を使うとき、ありのままと「言葉」の間にズレが生じるはずなのに…デリダはこういう「音声文字中心主義」を批判していて、われわれの形而上学は、「言葉」によって真実がぴたりと言い当てられるという無根拠な信仰に支えられていることを暴露してしまったの…だけど、わたしたちのパロール(話しことば)は、わたしたちの言おうとしている心をすべて言い当てているかしら…それは、ありえないこと…そして、わたしたちのエクリチュール(書くこと)は、わたしたちのパロールをぴたりと言い当てているかしら…だから、「言葉」によって世界のすべてを獲得しようとするあなたの夢も、すでに挫折が運命づけられている…あなたは、あなたの語ることばを自身で聴くだけ…あなたは現象学という土台に立って、マルクス主義の観念の空中楼閣を撃とうとした…あなたは「私は私である」という確信のもとに、観念の伽藍を撃とうとする…だけど、デリダの考えを推し進めてゆけば「私は私である」という確信は、ゆらゆらと揺らぎ始める…「私」と「私となる私」の間にある差延のせいで、「私」を確定させたとき、「私となる私」はすでに「私」ではなく、「私となる私」を確定されたとき、「私」は「私」でない…こうして、世界はたえず生成変化しつづけ、その手のなかにつかむことなど永遠にできるはずがない…あなたの「観念論」は瓦解する

彼と別れたあとで、わたしはひとりきり自分の部屋でタロー・カードを広げた。
「吊るし人…そして死神。なぜ?」
指先がかたかた震えた。『Tの書』のもとに、わたしは自分の運命を洞察した。
彼は再生するだろう。だが、そのために犠牲者が必要となる。
わたしは彼が再生するために死ぬ運命にある。
オカルティストとして、わたしは再度占うことを自らに禁じた。

ルナールは、怯えていた。
棟方の自尊心を完全に打ち砕いてしまった。
それも容赦ない、逃げ口をふさぐやり方で。
おそらく棟方は、自身の挫折を他人に見せないタイプである。 <連合赤軍事件>が彼に崇高な理想が極限の悪に必然的に転化するアボリアを突きつけたときも、彼は堕落した革命家を糾弾するファイターとして振る舞い、自分の弱さを見せなかった。
本当はしばらくサン・ドニ街で、地獄の底を嘗め尽くしていた時期があるのだが。
棟方は決して自分を許さないだろう。
棟方の理解は実存主義系の思想家どまりだったし、フーコーに関心があるといっても断片的な評価で、全体的な理解ではなかった。
ポストモダニズムについて語る私を、棟方は微温的な左翼感情の隠れ家と評した。
しかし、棟方の批判は自分の政治的ポジシオンからのもので、ロジカルにわたしを説得させるものではなかった。
棟方は<薔薇十字>のシークレット・ドクトリンを求め、わたしがそれを拒否したことも、怒りを買った。
彼はそれを通じて、生と死を超えようとしたのだが、そのようにラディカルに救済を求める飢えた魂自体を棄てなければ、貴方は救われないとわたしは拒否した。
棟方は<天使>についても理解していなかった。
彼は全か無かであり、世界を手に入れることがすべてだった。
そこには<天使>の持つ中間性の理解などなかった。
彼の思考を占めるものは、世界に抗する怪物であり、否定のおぞましき力だった。
それゆえ、彼の心には<天使>ではなく、吸血鬼が住まうようになったのだ。
彼の世界においては、<天使>は常に到達不能な理解不能なものとして現れるだろう。

その日、ルナールは政治結社<赤い生>を打ち合わせを行った。間近に迫ったラングドッグでの超党派原発反対闘争のためである。ルナールは、内外の政治団体やエコロジスト・グループにも賛同を求め、大きな運動に変えていこうとしていた。議論が紛糾したせいか、<赤い生>での会合が長引き、ルナールが家路についたときには、あたりは青い闇に包まれ、静けさが街を支配していた。
あたりには人影はない。
だが、ルナールの足音以外に、誰かの足音がするような気がした。
これは幻聴?
ルナールは背筋が寒くなる想いで、後ろを振り返ったが、あたりは街灯の光があるだけで、人影などなかった。
突風のせい?
ルナールはいざというときのためにハンドバックの中に武器を探した。
冷たい感触がする。
鋼鉄の短銃である。
普段なら、ルナールはそのような武器を所持することはなかった。
だが、最近のルナールは完全に警戒をしていた。
部下に依頼して、護身用の短銃を用意させたのだ。
曲がり角をぬけると、湖畔が見える。
ルナールのアバルトマンがみえる。
良かった。気のせいか。
部屋の前までくると、鍵をドアに差し込んだ。
ドアの鍵も、万一のために、内側からかかる鍵をもうひとつ付けたばかりだ。
部屋の中に入れば、安心。
部屋の明かりのスイッチに手を伸ばす。
これで大丈夫。念のため、窓の外を見下ろしてみる。
ルナールの部屋は3階にある。
湖畔の近くの舗道は、青い光に照らされ、なにひとつ遮るものがない。
大丈夫。気のせいだったのだ。外にはだれもいない。
安堵の吐息が漏れる。
がさっ、その瞬間、後ろで物音がした。
振り返ったときには遅すぎた。
男の腕がルナールに向かって伸び、ルナールの口と鼻を布がふさいだ。
これは…。
意識が遠のいてゆく。
その布に含まれていたのはクロロフォルムだった。

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