『マルチチュード ~時代の戦争と民主主義』

マルチチュードとはなにか。

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

現在、地球上は米国の単独行動主義によって長期にわたる政治的・軍事的危機が続いている。今もイラクでは戦闘が絶えず、バグダッドでの勝利宣言から相当な年月が経過しているにも関わらず、安定した市場が出来ていない。
また、津波被害を受けたインドネシアスリランカ、あるいはハリケーンの被害のあった米国で、新自由主義的政策に沿って経済再建が図られようとしているが、貧困層と富裕な層の格差が露呈するばかりだ。
このように帝国主義的な旧権力はうまく機能しなくなり、代わりに全世界をグローバルに覆い尽くすネットワーク状で、超国家的な<帝国>的新秩序が生まれようとしていると、ネグリとハートは考える。
この<帝国>という権力に対抗するために、ネグリとハートが持ち出してくるのが、マルチチュードという新たな革命的主体である。このマルチチュードは、多数多様態であり、マルチチュードの構成員の特異性と複数性は失われていない。つまり、これまでの人民や階級より範囲が広く、かつひとつの共同体の創出のために、構成員の特異性と複数性を潰してしまうということもない。
ネグリとハートは、旧権力が瓦解し、<帝国>という新しい権力が生み出されようとしている現在の危機的状況こそが、同時にマルチチュードを主体とする絶対的民主主義を実現するチャンスであると考える。
マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)


本書の思想史的位置づけを考えてみよう。
本書は、エピクロススピノザマルクスアルチュセールドゥルーズ=ガタリの後を継ぐマテリアリズムの系譜に立つ革命的政治哲学の書であると捉えることができる。
なぜスピノザなのかといえば、スピノザは「神に酔える哲人」と評され、その哲学は汎神論と呼ばれているが、この汎神論は内在の哲学であって、超越論ではない。(これについては『現代思想』2002.8.「特集ドゥルーズの哲学」青土社に収録されたジョルジョ・アガンベンの論文「絶対的内在」88頁を参照せよ。)つまり、スピノザの神をマテリアルと看做し、『エチカ』を無限の力動的プロセスを明らかにした書として読むことが可能であるということになる。こうして、スピノザの『神学・政治論』もしくは『国家論』を機軸に、『エチカ』を政治哲学と読み、これをマルクスの先駆として捉えることができる。これにより、収容所群島の無限肯定に帰結する抑圧の弁証法に転化したかつてのロシア・マルクス主義への反措定・異議申し立てを行うことができる。
スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))

スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))

こうしたスピノザの読み替えは、ドゥルーズの『スピノザと表現の問題』や『スピノザ〜実践哲学』、マシュレーの『ヘーゲルスピノザか』などで行われており、ネグリの『野生のアノマリー〜バルーフ・スピノザにおける力と権力』もその方向性に沿った著作といえる。
構成的権力―近代のオルタナティブ

構成的権力―近代のオルタナティブ

ヘーゲルではなく、スピノザからマルクスへの流れを強調することにより、ネグリオートノミー(自律性)を強調したマルクスの新しい読み方を行った。『マルクスを超えるマルクス』は、マルクスの『グルントリッセ』に注目し、革命的主体性を強調する著作である。
ネグリとハートによる合作『マルチチュード』は、『<帝国>』に続く著作であり、<帝国>を覆す革命の主体のありかを探る著作であった。この後、マルチチュードを主体とする愛の革命を展開する『革命(仮題)』を予定しているという。
ところで、新しい<帝国>という権力システムが浮上しつつある激動の時代である今こそ、絶対的民主主義を実現する機会であるとするネグリとハートのオプティミズムはどこから来るのであろうか。
それは<帝国>を招きよせるのも、絶対的民主主義を実現するのも、マルチチュードがなにを欲するかによるからである。われわれがファシズムの速度の美学に酔いしれたり、一なる共同体に埋没することに安息を見出したり、民族的・宗教的な熱狂のなかで異分子を殺戮することに快感を覚えたりすれば、<帝国>が実現するであろうし、それらを回避して、互いの多数多様性・特異性を尊重し合い、<共(コモン)>として生きることを欲すれば、ユートピアが近くなるということなのであろう。
ポストモダニズムの嵐の後で、私たちは地球規模で広がる殺戮を伴う政治的な亀裂と経済的な格差の拡大、さらには環境問題など様々な危機に直面しているにもかかわらず、これに対抗する言説を打ち出し得ないでいた。ネグリとハートの議論に注目が集まるのは、これらの閉塞状況を打開するのではないかという期待があるからである。
とはいえ、ネグリとハートの議論は、煽動的なアジテーションとしては有効であるが、依然、問題点は山積しているのである。
<帝国>/マルチチュード、あるいは抑圧的国家装置/革命的戦争機械という二項対立図式を作り、後者の側に立って前者を転覆させるというのが、彼らの要旨であるが、両者の間には共犯関係があり、戦争機械が平滑空間を創出し、それにより世界的な軍事活動ができるという面がある。彼らの議論には、ドゥルーズ=ガタリが問題にした機械的アレンジメントと集団的アレンジメントの結びつきが見えてこないし、無意識の欲望の問題も欠落している。物事は単純ではない。
また、ネグリは『グルントリッセ』を重視し、革命的主体性の叫ぶが、そこには『ドイツ・イデオロギー』を契機として、初期の人間主義的なマルクスから、『資本論』を書いた後期の理論的なマルクスとの間に「認識論的断絶」が発生しているとしたアルチュセール派のような問題意識はない。これでは『資本論』第一巻の「価値形態論」のような仕事を、なぜ後期マルクスが必要としたのかが了解されない。
ネグリとハートは、閉塞した政治的・経済的状況へのプロテストを行ったことは評価されるが、さらに一歩前進するためには、二歩後退し、これまでの学問的成果を綜合することも必要ではないだろうか。