「降りる自由」は存在しない〜 『波状言論S改』について

東浩紀編著『波状言論S改〜社会学・メタゲーム・自由』について考えてみよう。この本は、東浩紀鈴木謙介が聞き役であり、「第一章 脱政治化から再政治化へ」のゲストは宮台真司、「第二章 リベラリズム動物化のあいだで」のゲストは北田暁大、「第三章 再び「自由を考える」」のゲストは大澤真幸となっている。

「第三章 再び「自由を考える」」は、東浩紀大澤真幸の共著『自由を考える 9・11以降の現代思想』の続きであり、再び管理社会に関する論考がなされている。
自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

これは『自由を考える 9・11以降の現代思想』でも、すでに言及されていたことだが、ポストモダニズムの哲学の失墜以降、社会学と心理学に人々の関心が向かうようになり、これらふたつの学問が明らかにする現実とのフィードバックを内蔵しない現代思想は、意味を成さないということが冒頭で示される。これは正しい指摘である。
気になる点を述べておこう。
第一章から、何度か東浩紀が、浅田彰ハイカルチャーにしか関心を示さず、サブカルチャー(東の好きなアニメなど)を問題にしない人だったとか(せいぜい関心を示すのは、建築の話だけであるとか)、柄谷行人カルチュラル・スタディーズ(あるいは社会学)を侮蔑し、浅田彰が止めなかったから『批評空間』グループはダメになったといった趣旨の発言が見られる。このことは、『批評空間』グループは、現実とのフィードバックを内蔵しない現代思想に陥ったということを言わんとしている。
ところで、私はジュリーが表紙の『宝島』1984年6月号という雑誌を持っていて、戸川純とかの名前と一緒に浅田彰の名前が記載されていて、インタビュー記事が載っていたりするのだが、こういった芸能誌ハイカルチャーなのだろうか?
あるいは、戸川純が表紙の『Fool's Mate』1984年3月No.35にも、浅田彰北村昌士の対談「ポスト・モダニズムの為に」が載っているから、戸川純ハイカルチャーなのかも知れない。確かに戸川純ならば、コリン・ウィルソンの『殺人百科』とかを愛読書に挙げている人だし、そういえるのかも知れないが。
では、とんねるず浅田彰が対談している『広告批評』1987年3月No.92はどうか。とんねるずハイカルチャーなのか?あるいは、福武書店(現ベネッセ)の学童向けの『プレイバック高校時代2』で、浅田彰萩尾望都の『ポーの一族』とか大島弓子の『ミモザ館でつかまえて』とかをベタ褒めしているのだが、少女マンガがハイカルチャーなのか?確かに、完成度の高さからして相当なものであることは間違いないのだが。私にはハイカルチャーの定義が判らなくなってきた。
ポーの一族 (1) (小学館文庫)

ポーの一族 (1) (小学館文庫)

例えば、浅田彰田中康夫の新刊『ニッポン解散 続・憂国呆談』を見ると、浅田彰が「パッチギ!」やマイケル・ジャクソン、「タイガー&ドラゴン」とかの話をしている。東浩紀によると「タイガー&ドラゴン」がハイカルチャーということになる。
ニッポン解散 続・憂国呆談

ニッポン解散 続・憂国呆談


東の著書『郵便的不安たち♯』なんかでは、アニメのジャンルと、哲学のジャンルの間の壁が問題視されたが、それより前に、誰々はサブカルに疎いと勝手に決めつけ、そんな人間とはコミュニケーションを取りたくないとシャトアウトをする人間の心自体に幼稚な壁はないのか?といぶかしんでみたりする。
郵便的不安たち# (朝日文庫)

郵便的不安たち# (朝日文庫)

波状言論S改』で、東浩紀は、ポストモダンに対応した仕事をした人物として、宮台真司大塚英志が挙げる。
宮台真司は、「性の自己決定」を擁護し、援助交際ブルセラに言及した。(この立場は、人間存在自体を根こそぎ消費するという資本主義の暴力を軽く見すぎていると思う。)
「性の自己決定」原論―援助交際・売買春・子どもの性

「性の自己決定」原論―援助交際・売買春・子どもの性

大塚英志は、「物語消費」を主張し、ボードリヤールの理論をさらに推し進めた。
定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

いささか乱暴な議論だが、どちらもポストモダン的な自由を主張する論者ということになる。
ところが、近年、宮台真司大塚英志は緊迫する情勢の中、55年体制を髣髴とさせるような立場を鮮明にする。宮台真司は、「あえて」天皇制を肯定する立場を鮮明にし、大塚英志は、戦後民主主義の再生を選択する。
援交から天皇へ―COMMENTARIES:1995‐2002 (朝日文庫)

援交から天皇へ―COMMENTARIES:1995‐2002 (朝日文庫)

保守派は、モラルハザードが進行し、少年犯罪が増加し、公の統率が失われることに危機意識を持っているし、民主派は民族紛争の激化や、見えないテロリズムの脅威、北朝鮮の脅威等によって日本の改憲派の動きが活発化し、国民の危機感を煽りながら、憲法9条改憲にまで持っていこうとしている動きがあることに危険性を感じる。こうして、ポストモダン的自由を謳歌する時代から、政治選択を迫られる切迫した状況に変容してきたというわけだ。
これに対し、東はあくまでポストモダン的自由にこだわり、「降りる自由」の権利を主張し、相対照的なふたりのようにポストモダン的自由からの脱落をしないように試みる……。
さて、このような議論を眼にすると、連想するのはサルトルVSカミュ論争のとき、サルトルが持ち出した論法である。サルトルは、カミュの『ドイツ人の友への手紙』の中から、かつて小鳥のさえずりを愉しむ自由があったのに、いまや(戦争と激動の)歴史の中に入ってしまったという趣旨の記述を見つけ、これをもとにカミュ歴史観には、歴史に入ったり、出たりするという誤った考えがあることを指摘する。サルトルによれば、人間は歴史のなかにどっぷりと漬かっているのであり、好き好みによって出たり、入ったりすることはできないというのだ。
革命か反抗か―カミュ=サルトル論争 (新潮文庫)

革命か反抗か―カミュ=サルトル論争 (新潮文庫)

私はサルトルのようにマルクス主義を信用しているわけではないので、カミュに同情的だが、それでもこの歴史観の議論ではサルトルの主張に説得力を感じる。
つまり、サルトルは「降りる自由」など<ない>ということを言っているのだ。降りる、降りないは自由、でも降りること自体が、すでにひとつの政治選択なのだ、ということなのである。つまり、「降りる」ことは、現状肯定のイデオロギーに一票を投じたことになるということである。
ここで、メタファーとしてシュレディンガーの猫を持ち出してもいい。量子力学的に死か生かを確率論的にしか判定できないのは、猫の入った函の中だけの議論である。函から出てしまえば、死か生かどちらかである。死であり、生であるという半端な状態は存在しない。切迫した現実の状況下では、死か生か、殺人肯定か殺人否定か、どちらかしかない。スターリン主義的な倫理の強制に対し、「降りる自由」という対抗概念を持ち出す意義はわかるが、それは函の中の議論。現実としては、人間は不可避的に手を汚さずには生きていられない。そう思うが、如何か。