『ともだち刑』における実存的な欲望

雨宮処凛の小説の主人公は、常に誰かに評価され、かけがえのない存在として、世界に受け入れられたいという実存的な欲求を抱えている。
『ともだち刑』の主人公浜田もまた、そういう欲求をかかえた学生である。

ともだち刑

ともだち刑

しかしながら、その欲求はかなえられることはない。バレー部に入部するが、バレーが上手くないことが原因で、最も自分を評価して欲しいと願っている相手の今井から、いじめの対象にされ、他のメンバーもそれに同調する。一時的に、同じバレー部の紺野が浜田に好意を持っていることを今井にばらし、紺野をいじめの標的にするが、しばらく後には、ふたたび今井から、ともだちだったら今度のテストを白紙でだせるよねと言われ、その通りにしたおかげで馬鹿にされ、二度といじめ対象から逃れることも出来なくなる。
顧問の教師もいじめの共犯者であり、バレー部全員の前で浜田がいじめを訴えているぞとさらしものにする。
この構造から抜け出し、誰かに評価され、かけがえのない存在として世界に受け入れられることができるのか。この小説はその主題からぶれることなく、突き進む。
浜田が疑問を抱くのは、いじめ問題だけじゃない。本来芸術の核心はなにかを表現することであるはずなのに、美大受験で技術だけを問う入試が科せられていることにも、浜田は懐疑する。
雨宮処凛の小説は、実存的である。つまり、実存論的ではないということだ。読者は、浜田として浜田の体験する苦しみを体験し、そこからの脱出口を模索するしかない。浜田はいいやつだが、そこからの脱出方法は、決して奇麗事では終わらない。
言明するが、ニセモノの文学もどきが多い中で、雨宮処凛の小説は本物である。読みながら、視覚だけでなく、事物の匂いまで立ち上がってくる。主人公の心の痛みも、鋭く迫ってくる。こんな文章を書ける雨宮は、凄いとつくづく思う。

(初出:薔薇十字制作室SIDE B <> 2004/09/01(Wed) 10:24  http://bbs1.fc2.com/php/e.php/3417/ 、再編集版:ミクシィ内レビュー)