杉澤鷹里著『射玉行』を読む

杉澤鷹里著『射玉行』は、決定的に新しいスタイルで書かれた小説である。
著者は、「笠井潔さんを父と仰ぎ、竹本健治さんを母と慕う」(http://haruka.fool.jp/cgi/bbs2/light.cgi  投稿日:2005/09/27(Tue) 14:37参照)と書いているが、この小説はミステリでも、ミステロイドでもない。
また、この小説は、一見小野不由美の『十二国記』のようなファンタジーにも見えるが、それはこの小説で描かれたフィジカルな部分について言えるだけで、この小説は終始メタフィジカルな部分と連動しているのである。
『射玉行』には、青都という舞台設定が出てくるが、著者のHPも青都探となっており、著者における青都という舞台設定の重要度が伺われる。おそらくは、『射玉行』は青都を舞台とする連作のひとつであり、徐々に青都サーガとしての全貌を現すようになると推察される。
青都は、著者にとって、ものを考える上での装置なのである。著者のサイトを見ると、トップページに青都の見取り図が現れるが、それぞれに振られた色彩を見ると、これは風水とは関係のない位置関係である。
おそらくは、青都という舞台設定には、Michael Vindingの『THE THAKALI〜A HIMALAYAN ETHNOGRAPHY』あたりの民族誌が生かされているのではないか、と推察される。
なぜ、私が青都という舞台設定に注目するかというと、この著者においてはシステム論的思考が見られるからである。
著者の思考システムの中心には、青都があり、『射玉行』がある。著者はこれまでインターネットを中心に様々な発言をしてきたが、これらの発言は青都サーガ、もしくは『射玉行』を踏まえたものであり、『射玉行』の脚注ではなかったかと思われる。(特に http://www5.rocketbbs.com/151/yurufra2.html での発言。)読者は『射玉行』を読むことで、いっそう深く著者の考えに触れることができる。
冒頭で私は、この作品を決定的に新しいスタイルであると書いた。
『射玉行』の文体は、フランツ・カフカの報告調で、冷静な筆致を想起させるが、『射玉行』は実存主義とは関係がない。巻末の参考文献を見ればわかるように、著者の関心は大澤真幸であり、廣松渉の方に向かっている。『射玉行』の事象(この場合、王権論であるが)へのアプローチは、関係論的である。
あるいはまた、森敦の『意味の変容』を想起する。森敦の『意味の変容』は、数学、それもトポロジー変換に関係があり、具体的なことを語りながら、それでいて抽象度の高いことを考えている。この特質は、『射玉行』に近い。
著者は、この作品を「SF(Science Fiction=科学に基づく虚構)に対する、SSF(Social Science Fiction=社会科学に基づく虚構)」として位置づける。
これにより、この作品が先行するどの小説にも似ていない理由が理解できる。
これはミステリでも、SFでも、歴史小説でも、単なるファンタジーでもない。SSFなのである。
この作品が成功するかどうかは、このジャンルの確立にかかっている。ミステリにおけるエドガー・アラン・ポー、SFにおけるジュール・ベルヌのような位置を、SSFの杉澤鷹里はしめることができるのだろうか。
既成のジャンルの小説ならば、同じジャンルの他の作品と比較して、いいとか、悪いとかいえるのだろうが、これは同じジャンルの作品がまだないので、比較による判定ができない。
しかし、似たような問題群を扱った作品ならある。大江健三郎の『同時代ゲーム』である。『同時代ゲーム』は、山口昌男の中心−周縁理論にインスパイアされて書かれた作品であることはよく知られている。中心−周縁理論の射程圏内には、当然王権論がある。これは『射玉行』が扱っているテーマでもある。
大江健三郎は、山口昌男の『文化と両義性』に影響を受けて、『同時代ゲーム』を書いたといっている。しかしながら、山口昌男が好んで取り上げるテーマ、すなわち、トリックスターによる文化のかく乱が、実は文化を活性化することに繋がるのだ、とか、スケープゴートを仕立てて、全員一致で供犠を行うことにより、共同体の結束ができるとか、共同体の中で、攻撃を受けるのはヴァルネラビリティーがある者であるといったテーマは、大江作品において、実は『同時代ゲーム』より以前の『万延元年のフットボール』で既に顕在化してきているテーマなのである。つまり、大江文学においては、山口理論が先ではなく、小説家の直観の方が先なのである。ただ、作家自身はどうしたわけか、気づいていないのである。
では、杉澤鷹里の『射玉行』はどうか。この小説は、一種の武芸小説としても読める。つまり、理論偏重とはいえない。ただし、ある種のプレモダンな社会において、王権の持つ超コード化機能を析出するという主題から外れるエピソードはないことから、著者はこの作品を書くにあたって、社会科学的な理論からインスパイアされて書かれたのではないか、と推察できる。
文学的イマージュが先か、理論が先か、という問題は、理論が先の作品の場合、読者を引き込む魅力の点でマイナスに傾きやすいリスクがある。先ほどの大江作品についても、文学的イマージュが先の『万延元年のフットボール』と比較して、理論が先の『同時代ゲーム』は、理論の絵解き、理論に対するプロットの当てはめという印象がぬぐえず、生硬な印象を読者に与えてしまっているように見受けられる。
物語が成功するかどうかは、描きこまれたディテールに左右される。『射玉行』は、理論先行型ゆえの生硬さを打開すべく、さまざまなエピソードを加え、物語に彩りを加えようとする。
ここで突出してくるのが、個性的な登場人物である。姫領、神箭、書禿、岩黒、娘舌……。物語のメインは、姫領を頂点とする戦いの物語であるが、私が注目するのは緑人に関する哀しいエピソードである。物語の内容に触れるため、ここでは詳細を語ることが出来ないが、テクノロジーによる人間身体の改変の問題、権力による人間の抑圧の問題が、緑人のエピソードには込められている。人類の未来に関する深い関心と、人間そのものに対する愛がなければ、このような告発、怒り、嘆きは描かれるはずのないものである。
私は理論に基づく理詰めの作品になど驚きはしない。そんなものならば、理論自体を読む方が健全だ。だが、物語の書き手は、単に理論に納まりきらない過剰なものを抱えているから、物語を語らずにはいられない。『射玉行』には、その過剰なものが描きこまれている。その最たるものが、緑人のエピソードに込められている。
私はこの部分を読みながら、唸らずにいられなかったのである。

★ここで論評している『射玉行』は、以下のサイトにて購入可能です。
・ザウルス文庫
http://www.dbook.co.jp/spacetown/zero-books/index.jsp
・神保町ゼロ丁目書店
http://www.zero-books.com/top.html
★杉澤鷹里氏の略歴
創作系掲示板「破壊者の幻想譜 http://www4.rocketbbs.com/141/ouro.html 」主宰。
HP「青都探 http://www.geocities.jp/sugisawathakali/index_blue.htm 」管理人。