『アワーミュージック』、あるいは戦争の時代を超えて
ジャン=リュック・ゴダール監督作品『アワーミュージック(原題:Notre Musique)』のテーマは、戦争と分裂の時代にあって、わたしたちは世界中を包み込むわたしたちの音楽のような愛と調和を創造することができるかということに尽きる。
この作品は、三部構成になっており、【王国1 地獄】、【王国2 煉獄】、【王国3 天国】から成る。この三部構成は、ダンテの『神曲』を連想させる。この場合、ダンテはゴダール自身が演ずるゴダール監督であり、ベアトリーチェは女子学生オルガ・プロスキー(ナード・デュー)であり、オルガは現在の世界に偏在する恐るべき暴力と殺戮の存在をゴダールに指し示し、最後に"地上にひとつの場所(天国)"を創り出すことの必要性を示唆する。
【王国1 地獄】は、ありとあらゆる戦争映像をサンプリングして、あたかもこれでもか、これでもかと言わんばかりに、約10分間に集約しようとする。これを見た人は、これらの戦争に巻き込まれた場合、自身がサバイバルできる可能性は零に等しいと考えるだろう。この地獄篇は、海→ペンギン→川を渡るサル→ベトナム戦争の際に沼地を進む米軍の映像という具合に、映像=イマージュの連鎖から成り立っており、ナチス・ベトナム・ヒロシマ・騎兵隊とインディアン・パレスチナ……サラエボと、エスカレートしてゆく。そして、このモンタージュは、人類史は戦争の歴史であり、殺戮と暴力が脈々と続いてきたことを暴露する。
【王国2 煉獄】は、この映画の本編であり、煉獄という<いま、ここ>の認識から、戦争という地獄のアポリアも生まれて来るし、わたしたちがこの地上に創りあげねばならない天国の必要性も浮かび上がってくるという点で最重要部分となっている。物語は「テクストと映像」というテーマで学生に講演することを大学に依頼されたゴダールが、戦争の傷跡の残るサラエボに到着したときから始まる。戦争に関連して、エマニュエル・レヴィナスらの夥しいテクストが引用され、あるときは登場人物のセリフとして、あるときはナレーションとして挿入される。その結果、この映像はわたしたちにジェノサイドや民族浄化、全体主義の問題について思索を迫るものとなっている。
ゴダールが大学で話したことは、イスラエルとパレスチナなど世界の非対称性であり、映画の「切り返しショット」の手法を使って、世界を支配する二項対立の構造を暴露するということである。ここでなされたゴダールの複数のスチルを動かす手つきは、ゴダールの『映画史』を連想させるものである。こうして、ゴダールは、学生のひとりとしてオルガと出会う。
オルガのモデルは、ドストエフスキーの『悪霊』に出てくるキリーロフであり、真夜中のカフェのシーンで、虚無主義的な学生仲間に「自殺とは唯一の哲学的命題」というカミュの『シーシュポスの神話』の一節を口にし(カミュのこの書物にはキリーロフ的自殺について書かれた部分が含まれている)、キリーロフのセリフを引用する。端的に彼女がやろうとしていることは、大江健三郎の「生け贄男は必要か」をもじっていえば「生け贄女は必要か」ということであり、彼女はゴダールに接触を試み、彼女の創った映像を納めた一枚のDVDをゴダールに渡し(この内容が【王国1 地獄】であると推定される)、イスラエルに渡り、自爆テロと間違われて当局に射殺される。彼女は赤い鞄の中から爆弾ではなく、無数のテクストを取り出そうとしたのだが。彼女の訃報は、サラエボで通訳を務めたオルガの叔父から、庭いじりをしているゴダールのもとにもたらされる。

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煉獄と天国の境界を、アメリカ兵が管理しているというのは、示唆的である。わたしたちの資本主義社会は、物質文明をもとに、商品の差別化を図り、さらには商品にまつわる記号の差異化を図ることで、歴史を進めてきた。しかしながら、物質というものは所有の観念と分かちがたく存在し、富貧の格差を生み出し、世界の非対称をもたらし、この矛盾から際限のない暴力と紛争が派生するのである。
この作品は、世界の非対称ということ主題としている点で、中沢新一の『緑の資本論』を連想させる。『緑の資本論』は、9・11以降の世界の圧倒的な非対称を主題とし、世界を覆うグローバリズムの外への逃走線を描こうとしている。

- 作者: 中沢新一
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