『探偵小説と二〇世紀精神』

笠井潔の『探偵小説と二〇世紀精神〜ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つか?』は、前半が「1 形式体系と探偵小説ロジック」、後半が「第三の波とポストモダニズム」となっている。
前半は法月綸太郎の言う<後期クイーン的問題>に呼応した内容を扱っており、エラリー・クイーンの『ギリシア棺の謎』と『シャム双生児の謎』が標的にされている。
これに対し、後半は巽昌章の「論理の雲の巣の中で」にインスパイアされており、笠井独自の大量死・大量生理論に加え、大澤真幸の「理想の時代/虚構の時代」という概念を「人間の時代/人形の時代」に対応していると解釈し、これをもとに「タコ足型の「自己消費」派」を批判しようとするという理論構成になっている。ここで、「タコ足型の「自己消費」派」の起源を辿り過去に遡ると、中井英夫竹本健治清涼院流水→脱格系ミステリ作家となり、とりわけ竹本健治がその後の世代に与えた影響ゆえに、最大の標的となっている。
さて、前半のミステリにおける<後期クイーン的問題>は、以前思想分野で柄谷行人が言っていた<ゲーデル的問題>と呼応しているのは間違いない。本格ミステリは、論理を突き詰めてゆくと、「形式化」が徹底され、ロジカルタイピングの矛盾が露呈してくるというわけである。ここで問題となるのは、エラリー・クイーンであり、笠井は『九尾の猫』『十日間の不思議』といった後期作品への以降期の作品、すなわち国名シリーズの『ギリシア棺の謎』と『シャム双生児の謎』における推理を詳細に検証してゆく。エラリー・クイーンはこれらの作品で、探偵の推理を誤導するために真犯人が仕掛ける「操り」の主題を取り上げる。(この「操り」に関しては、クイーンの作品を追うごとに、次第に「複雑系」の色彩を帯びてゆく。これについては、小森健太朗が「エラリイ・クイーンと攻殻機動隊」<ユリイカ十月号「攻殻機動隊」特集>で、複雑化の一途を辿るクイーン「操り」をパターン分類し、さらにアニメ「攻殻機動隊」にその「操り」の全パターンを見出すということをやっている。)しかし、この「操り」を作中に取り入れたことで、ミステリとしての危機が発生する。つまり、一切のデータは作品内部の情報だけでは、究極的に正誤が判定できないということに陥るのである。ここで、笠井潔は、エラリー・クイーンの『ギリシア棺の謎』と『シャム双生児の謎』のロジックが破綻していることを証明するというショッキングなことをやっている。
さて、後半に移る。ここで、笠井は「タコ足型の「自己消費」派」ミステリを、ポストモダニズムに対応するものと看做す。そして、「謎」の「解明」をもって、物語を終わらせる探偵小説的形式を、「タコ足型の「自己消費」派」ミステリはポストモダニズム流に中心願望の罠を批判し、終わりへの願望を拒否し、ミステリの形式を壊してしまうとして批判するのである。
こうして笠井潔によって 「タコ足型の「自己消費」派」ミステリは、ミステリの形式を破壊した罪で悪者に仕立て上げられるわけであるが、なぜミステリの形式を破壊することが犯罪なのか。
笠井潔は、『探偵小説論』において、探偵小説は大量死の時代に抗して、フィクションの世界で固有の人間の死を復権させる試みであり、そこで死者は犯人による巧緻を極めた犯行計画という第一の光輪と、それを解明する探偵による精緻な推理による第二の光輪によって、世界大戦で塹壕に積まれた無数の死体の山と比較して、二重の光輪で選ばれた者となるとした。(しかし、このような探偵小説特有の死体粉飾は、死者にとっては大きな迷惑であり、死体冒涜的なのではなかろうか?また、『哲学者の密室』で笠井潔は、密室の本質直観を「特権的な死の封じ込め」ではなく、「特権的な死の夢想の封じ込め」であるとし、探偵小説によってもたらされる特権的な死とは、自己欺瞞的な夢想であると看做していたのではなかったか。そういう点から言えば『探偵小説論』は『哲学者の密室』より、哲学的に後退しているといえるのではないか。)笠井潔の大量死理論は、多分に自己中心主義的な思い込みの世界だが、とにかくこの思い込みに基づき、笠井は「タコ足型の「自己消費」派」ミステリは、大量死の時代に抗する立派な目的をなしくずしにする悪を犯したと看做すのである。
ところで笠井潔にとって、<悪>の中の<悪>とは、連合赤軍事件、またそれを引き起こした永田洋子である。『テロルの現象学〜観念批判論序説』で、笠井潔は彼らの陥った<悪>を、観念の倒錯として把握しようとする。
その笠井潔が、この著作のなかで「赤軍派の活動家の感覚には『匣の中の失楽』で竹本健治が描いたところの、濃霧の底に閉じ込められて鬱屈し、不連続線を超える可能性を夢見る不幸な青年と共通するところがある。」(165頁)と書いている。さらに続けて笠井は、戦後の政治青年は北朝鮮パレスチナに向かったが、そこに「冒険」や「越境」を夢見ることができなくなった後の世代に竹本健治がおり、竹本はリンチ殺人の代わりに「抽象的な殺人をめぐる物語を書くことになる。」(166ページ)と書く。
こうして、世代こそ違えども、笠井潔竹本健治を非政治的な永田洋子に、『匣の中の失楽』を紙の上の連合赤軍事件にイメージを重ね合わせ、読者に悪い印象を植え付けようと努力する。
笠井潔は、竹本健治に起因する「タコ足型の「自己消費型」」(『ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つか』「26 『大量生産』と『自己消費』の二重構造」)のミステリを、新本格派ブームに先立つところの浅田彰らのニューアカデミズム(日本のポストモダニズム)のブームと重ね合わせており、結局、論点をまとめると以下のようになる。

善玉(笠井潔)
VS
悪玉(永田洋子<マルクス主義>、浅田彰<ポストモダニズム>、竹本健治<脱格系ミステリ>)

年を追うごとに、笠井潔善悪二元論は極端になってきており、ついに『探偵小説と二〇世紀精神』では、ミステリ作家を捕まえてきて、殺人テロリストと同一の範疇にぶち込むという手荒な論評をするようになったというわけである。
笠井潔は、日本のヌーヴォー・フィロゾフ(新哲学派)というべき存在だが、ドゥルーズは「ヌーヴォー・フィロゾフ 及びより一般的な問題について」(『現代思想1984.9特集ドゥルーズ=ガタリ)のなかで、ヌーヴォー・フィロゾフは哲学的にはまったく無価値であり、なぜかというと彼らは知のマーケティングを行うだけで、思想的には善と悪の二項対立を持ち出すだけだからという趣旨の発言をしたことがある。
笠井潔も、ドゥルーズの言った批判がぴったり当てはまるようになってきたといえる。笠井潔は、知のマーケティングの結果、TYPE-MOONの人気を利用して自分の売り上げを伸ばそうとし、自分の趣味に合わないものは、ことごとく「連合赤軍みたいだ」という。これは思想でも、批評でもない。単なる名誉毀損の言説を吐いているだけなのだ。
ところで「タコ足型の「自己消費」派」という表現には、多分に侮蔑的な感情が込められている。ここでの意味は、ミステリ形式自体の消費であるが、ポストモダニズムがバブル期と重なる時期に、モノの生産ではなく、記号の消費を賛美したということも念頭に置かれていると考えられる。しかし、笠井がこの派の筆頭に挙げる竹本健治が、売れるために大衆に媚びたことがあっただろうか。『殺人ライブにようこそ』のようなライトな作品でも、果月さんのようなキャラクターを登場させてしまうのだから。これは、資本主義によって消費されるようなキャラクターとは思われない。
ところで、前半で取り上げたような問題を突き詰めてゆけば、ポストモダニズム対応型の反ミステリに帰結するのは必然ではないかと思われる。だが、この論者は必然的に行き着く果てを拒否し、あくまで反動的に、過去のミステリ形式の遺産に固執するのである。
また、ミステリという謎に対し、笠井潔はいわば「探偵」として振る舞っているわけだから、ここでも<後期クイーン的問題>が発生し、「探偵」の推理した『匣の中の失楽』はダメだという結論も、真か、誤か、決定不能に陥るはずなのだが、なぜか常に真理を語るかのように断定を繰り返すのは、まだラディカルな形式化が彼において不徹底だからである。
本書は『ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つか?』(このときは早川書房)の続編であり、さらに清涼院流水および脱格系のミステリ作家を、アニメ・ゲームなどの領域も射程に収めながら論ずる予定だという。回を追うごとに、笠井潔は、批評家というより、自身の権力妄想に憑かれて、死刑を次々と言い渡す検事と化した観があり、実に気がかりである。