中沢新一著『芸術人類学』を読む (その1)

芸術人類学

芸術人類学

※読書ノートです。私固有の考えのところには、<>がついています。『芸術人類学』に触発されて、他の事を考えたりしていますので、何かの参考になるかもしれません。
なお、ここに書かれた内容は、自分の関心事に引っかかった箇所だけを圧縮した覚え書きに過ぎません。必ず、各人『芸術人類学』の原文にあたられますようにお願いいたします。

【はじめに】
・芸術人類学は、対称性人類学を基礎とする。それは認識の刷新だけでなく、実践を伴う。<実践までいかないと本物ではない。>
坂本龍一からの質問。対称性の思考の復権は可能か。その手段は如何に。
・人間の心の基体は、いまでも対称性の原理で動いている。<ここで言わんとしていることは、人間の心の根底には、対称性の思考があるが、表面は非対称の思考が圧倒的に優位にあるということである。人間の心の基底以外に、もうひとつ、対称性の原理が残っているところがある。それは、精神の考古学(吉本隆明)を通じて得られる十万年前から脈々と続く叡智である。十万年前からの叡智とは、ホモサピエンス・サビエンスとしての叡智と言い換えることができる。この考えは突飛なものではない。ゾクチェンは、生命体の存在する他の星にも存在する可能性があるのだから。>
・近代革命以降の西欧社会を突き動かしてきたものは、直線的に進んでゆく時間の観念であり、それはキリスト教と関わりがある。<これは、エリアーデの考え方である。『聖と俗』(法政大学出版局)にみられる直線的時間概念も、キリスト教と繋がりがあるとされていた。>
・対称性の思考は、直線の思考より、環の思考の方がフィットしている。<エリアーデでは、円環的時間概念という術語になる。円環的な時間は、山口昌男の「中心−周縁」理論でも説明しやすい。>
・直線的な時間の観念や拡大する世界という考えのなかで行われた対称性の原理の復権は、全体主義に転化した社会主義やナチズムというかたちで失敗に終わった。<この考えは、対称性の原理の復権が、リスクを伴うことを言っている。取り扱いを誤ると、恐るべきテロリズム全体主義的統制を現出する危険性があるということだ。真実の持つ両義性は、『とびきりの黄昏』(未刊)で展開されたファルマコン(薬にして毒薬)を巡る理論とも通じる。>
オルタナティヴな思考、<宇宙船地球号あるいはガイアの思考>、エコロジー、多様性の思考、自分と異なる他者を受け入れる思考、これらの意識変革が、対称性思考の復権による新しい未来を用意する。<この種の意識変革は、SF作家イアン・ワトスンが『ヨナ・キット』や『マーシャン・インカ』(ともにサンリオSF文庫)等で繰り返し書いている。>
・対称性思考と非対称性思考の複論理(バイロジック)で働く「二分心」の時代から、左脳と非対称性思考の優位の時代に、三、四千年前にシフトしたとジュリアン・ジェインズは言っている。<そのため、現代社会は、利益優先の経済や環境破壊、人間の心の荒廃などさまざまな問題を抱えており、再び右脳を働かせて、左右のバランスをとることが必要だということだ。これはコリン・ウィルソンの『右脳の冒険』(平河出版社)を想起させる議論である。>
・対称性思考と非対称性思考の複論理(バイロジック)が重要。それを取り戻すための巨視的なヴィジョンは、経済における贈与論的思考の復活、宗教の「宗教を超えた宗教」への飛躍とそれによる人間と動物は兄弟であったという神話的思考の復活、さらには芸術家個人の幻想を超えた巨視的ヴィジョンによってもたらされる。この芸術と、「アフリカ的段階」(春秋社刊の吉本隆明の同名の思想書から)を探る人類学が結びついて、芸術人類学(Art Anthropology)は誕生した。
【芸術人類学とは何か】
・十万年前のアフリカ、新人=ホモサピエンス・サピエンスの誕生。→コーカサス山脈方面へ移動。→3ルートに分かれて移動。(1)南ルート。インド、ヒマラヤ、東南アジア方面。(2)北方ルート。シベリア方面。(3)西方ルート。西ヨーロッパ方面。四万年前、ピレネー山脈方面にて、旧石器文化発生。ラスコー洞窟の壁画を残す。
ジョルジュ・バタイユ『ラスコーの壁画』(二見書房)。ラスコー洞窟の暗闇のなかで、なにが行われていたか。<暗闇というのは、一種の感覚遮断状態と看做してよい。ジョン・C・リリー博士によるアイソレーション・タンクが連想される。アイソレーション・タンクのなかで、体を液体に浸し、外界からの光や音など一切の感覚を遮断し、無重力に近い状態になった場合、何が起きるかを、リリー博士は研究している。詳しくはジョン・C・リリー『サイエンティスト』(平河出版社)参照のこと。>
・暗闇の洞窟のなかで「共同体」と異なる「組合」<=男性結社>による「増殖儀礼」が行われていたと、中沢は推定する。赤い顔料を主に使用し、動物や人物が描かれる。これがはじまりの芸術である。
・「組合」<=男性結社>なので、当然結社員になるためには、イニシエーションがある。<このイニシエーションというのは、それまでの自分の死と、結社員としての新生を、象徴的レベルにおいて行うことを言う。澁澤龍彦『秘密結社の手帖』(河出文庫ほか)などを参照のこと。それまでの自分は、俗世間における秩序(地位や肩書きなど)に縛られているが、結社参入後は結社独自の秩序に従うことになる。>
・大脳におけるニューロンの新しい接続により、<脳が小型化しても>「心の流動体」が出来上がった。これが、旧人と新人(ホモサピエンス・サピエンス)の違いである。
ホモサピエンス・サピエンスは、「心の流動体」を持つ代わりに、妄想傾向を持つに至った。ホモサピエンス・サピエンスにおいては、外界と頭の中で考えた世界が一致していない。これに対し、他の動物はほぼ一致しており、妄想が起きることはない。<生物が考える世界像については、ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』(岩波文庫)を参照。そこでは、環世界=生物から見た世界によって、生物が行動するとされている。>
・暗闇のなかに長時間いると、「内部視覚(エントプティック)」という現象が起き、視神経が振動し、さまざまな光が見える。ラスコー洞窟で見たものは、このような現象ではないかと中沢は推測する。<中沢は、チベットで暗闇のなかに長時間いるという修行をしている。ちなみに私の場合、子供の頃から、夜寝る前に、目をこらして闇を見たり、目を閉じて軽くまぶたを押さえたりして、いろんな光が幾何学模様を描いたり、稲妻のように走ったりするのを見たりしていた。但し、まぶたを押さえすぎると、目に悪いので注意。)この「内部視覚(エントプティック)」によって、ホモサピエンス・サピエンスは「超越的なもの」を感じ、そこから宗教や芸術を作り出していった。
ホモサピエンス・サピエンスには、「流動的な心」ゆえの妄想傾向があり、それを制御するために社会的な法・掟が必要となる。<浅田彰ならば、人間存在はピュシス(自然)から本質的なズレがあり(その原因として、アドルフ・ポルトマンの早産説、またはL・ボルクの幼体成熟=ネオテニー説があげられるだろう。)、そうであるがゆえにエドガール・モランは、人間をホモ・デメンス(狂ったヒト)として規定した。このホモ・デメンスが社会生活を営むためには、文化=象徴秩序が要請される、と言うだろう。>
ホモサピエンス・サピエンスの妄想傾向は、バタイユの言葉で言い表すと「呪われた部分」ということになる。この「呪われた部分」をコントロールし、合理的な行動を取らせるために、人間は言語構造を使用する。言語構造は、世界中同じ基本構造をもっている。<『雪片曲線論』では、この基本構造が[S+V]構造(主語+動詞構造)であり、中観仏教、特に竜樹の『中論』は、言語の[S+V]構造によって、この世界の事物に実体があるかのような幻想を発生させるとして、[S+V]構造に潜むニヒリズムを批判し、流体論的なあるがままの世界へと導くものと解している。>
・人間の持つ本質的狂気を洞察した先人として、パスカルドストエフスキーフーコーらがいる。レヴィ=ストロースもまた、文化人類学の立場から、人間の文化の本質に鋭く迫った一人である。<レヴィ=ストロースは、ヨーロッパの自民族中心主義から遠く離れた外部に立つことによって、ヨーロッパの世界観を客観視することができたのである。>
・「対称性思考」や「対称性論理」は、精神医学者マッテ・プランコから借用した言葉で、中沢はそこから「対称性人類学」を築いた(『対称性人類学講談社メチエ参照)。人間は社会生活をするために、アリストテレス論理=合理的判断を可能にする非対称的な論理に従っているが、無意識の根底には言語の基本構造に従わない「流動的な心」があり、これは対称性の論理で動いている。つまり、人間はアリストテレス論理と対称性の論理という複論理=バイロジックによって動いている。
・対称性の論理で作動する「流動的な心」によって、意味の重層化・音楽化が起きる。詩的表現や野生の思考は、対称性の論理から生まれる。<アリストテレス論理と対称性の論理は、ジュリア・クリステヴァのル・サンボリックとル・セミオティックの関係に対応しているように思われる。>
・「野生の思考」を解明しようとしてきたレヴィ=ストロース文化人類学と、芸術と宗教の起源について洞察をめぐらしてきたバタイユの非知の論理が結びつくことによって、芸術人類学が誕生する。<他の章を検討するとさらに鮮明になることだが、バタイユ縄文文化旧石器文化が、中沢の理論の中で占める位置が重要なものになってきている。それに連動して、バタイユのかつての盟友であり、縄文文化旧石器文化を高く評価した岡本太郎への評価も高くなってきている。(例えば『arc No.9 Summer 2005 特集 岡本敏子追悼号』レイライン刊行のインタビュー記事を参照されたい。)これまでの中沢によるバタイユ評価を振り返ってみよう。まず、バタイユの普遍経済学を資本主義の解釈に適用しようとする経済人類学の動きに対して、記号論的な二元論として批判する浅田彰の見解があった。これと歩調をあわせるように、中沢も「バリ島のジョルジュ・バタイユ」(『野ウサギの走り』に収録)で、バタイユユダヤキリスト教の超越性の宗教のなかに生まれたローカルな異端として理解しようとし、浅田彰の『20世紀文化の臨界』(青土社)に収録された対談「ジョルジュ・バタイユ 不可能な侵犯」でも、バタイユを禁制と侵犯の弁証法として読み取る動きを批判することで両者の意見が一致している。しかしながら、ここに来て中沢が変貌を遂げたとするには速断すぎるだろう。日本におけるバタイユの受容史を振り返ると、まず澁澤龍彦生田耕作による『エロティシズム』や『マダム・エドワルダ』など異端的エロティシズム文学として注目され、続いてポランニー派経済人類学のなかに、バタイユの『呪われた部分』における普遍経済学の原理を導入しようとする栗本慎一郎の試みがあった。中沢が今回導入しようとしているのは、『ラスコーの壁画』や『宗教の理論』のバタイユであり、これをはじまりの宗教と芸術を解明するのに適用しようとしているのであって、着眼点が異なっている。また浅田彰は、クラインの壺と化したモダンな資本主義社会の解明には、バタイユのような構造とその外部の弁証法は不適(というのは、資本主義は商品の質的差異を、貨幣の量的差異に変換させエクスプロイットする特質があり、いわばシステムを解体すること自体をシステム化したものだからである。クラインの壺というモデルで表現される資本主義は、内と外、構造とその外部をなし崩しにする怪物的システムであり、バタイユのような構造とその外部の弁証法を基にした叛逆をも商品化してしまい、その毒を無毒化してしまうだろう。) と言っているが、プレモダンな専制君主制の解明にバタイユを適用することまでも否定しているわけではない。中沢が今回適用使用しているのは、「アフリカ的段階」の文化なのであるから、浅田理論とも矛盾は生じないと考えられる。>