宮村優子 『魂』、『鶯嬢』、『大四喜』

鶯嬢

鶯嬢

 1998年に発表された『魂』、1999年に発表された『鶯嬢』、そして『大四喜』と、みやむーの曲を続けて聴くと、もはや「アイドル声優」の領域を超えていて、演技の極みに到達しようしているように感じられる。この時期のみやむーの曲は、通常の「J−POP」では歌われない実験的な主題を扱っていて、非常に興味深いものがある。
大四喜

大四喜

 順を追ってみていこう。まず、ミニアルバム『魂』は、「Mother」という曲から始まっているが、ここで歌われているのはテラ(地球)を包み込むような母性のことである。途中、「みやむらゆうこ」作詞の「あなたは神を信じますか」というストレートな魂の叫びがあり、「MOON」という曲に入る。ところで、月と言うと、私はコリン・ウィルソンの『オカルト』のなかの「月の暗い側」の章を連想する。「MOON」で歌われているのも、単なる月ではなく、こころの闇や死の側からの視線を暗示しているように思われる。このことは、次の「タマシー」によって裏付けられる。(このミニアルバムはコンセプトアルバムでもある。)大槻ケンヂ作詞によるこの曲は、エジソンの作った霊界ラジオのことが歌われていて、あの世の少女がこの世の少年にコンタクトをとるために、空手の修行をしているとされる。ここで、空手が出てくるのは、魂の集中と、壁を越えるためには血を流されねばならないということを言いたいがためである。そのような不条理なパッションこそが、輪廻を超えることができるのである。
 『鶯嬢』は、ビゼーの曲に「みやむらゆうこ」が歌詞をつけた「女のGO!」から始まっており、白い錠剤を飲もうとする女の業のことが歌われる。こうして尋常でない禁断の愛の世界に、聴くものを誘うのである。2曲目は、大槻ケンヂ作詞の「〜ed(受動態)」であり、ここでは「恥の女」になること、つまり徹底的な受動態となる試みが語られる。これは主体化を目指すボーヴォワールとはまったく別のベクトルを持った試みであり、『O嬢の物語』すら連想させるのである。決定的なのは、3曲目の戸川純作詞の「女性的な、あまりに女性的な」である。これは音楽による犯罪心理学の試みである。殺人者となった女性の心理を、徹底的に描写することに成功している。その水準は、ドストエフスキーの『罪と罰』や、コリン・ウィルソン殺人研究に匹敵するだろう。
 『大四喜』もまた、尋常ではない曲が含まれている。死の終末論を前に歓喜を覚える「みやむらゆうこ」作詞の「ノストラちゃんまつり」から始まり、戸川純作詞の「秘密結社〜金曜日の黒ミサ」で、向こう側への超越が語られ、途中「12歳の旗」や「途中でねるな」など性を連想させる曲が挿入され、三柴理作詞の「山道と観世音」に到達し(私は観世音菩薩のことを歌ったJ−POPを知らない。このことだけでも、みやむーのやったことの過激さが判るだろう。)、最終的に「僕の体温は37.5℃」で、”暗黒のまつり”となるのである。
 この時期の宮村優子の曲は、バタイユとおなじことを伝えようとしているのである。つまり、死を前にしての歓喜の実践としての音楽が、ここにあるのである。私は音楽と比較して、文学や哲学が上位であるとは考えない。私にとって、これらは等価である。ただ、出来のいいものと、悪いものがあるだけだ。そして、この時期の宮村優子の曲は、バタイユと比較しても遜色はないと確信している。それだけのことだ。