プレカリアート革命と反戦平和

本日の中日新聞朝刊(東京新聞にも同記事が載っている。http://www.sanctuarybooks.jp/sugoi/blog/index.php?e=49)の「8・15終戦の日特集」で、「作家・元新右翼メンバー」の雨宮処凛さんと、「反骨のジャーナリスト」むのたけじさんが対談を行っている。
むのさんは、ポツダム宣言の受諾の情報が流れると、勤めていた朝日新聞を退職したという。これまで、読者を欺き、事実と異なる報道をしたこと(たとえば五万人の死者が出た空爆の報道で、大本営の被害が軽かった場合、一面に大本営の被害が軽かったことを載せ、五万人の死者のことは社会面に載せなかったという)の責任が問題になり、そのため編集局をまったく新しい人に刷新すべきだと提案したところ、異議は出なかったが、黙ったままだったという。そこで、むのさんは「辞める」といったのだという。
その後、琉球新聞が戦争中に新聞社が正しい判断で新聞を発行していたら、このような誌面になったという沖縄戦を報道した新聞を十四回つくったことを知り、「辞める」よりももっと適切な選択肢があったと思うようになったという。
むのさんは、朝日新聞退社後、故郷の秋田県に戻り、「たいまつ新聞」を創刊し、GHQの検閲に屈することなく、教育や農業問題を報道した。(この「たいまつ新聞」は1978年1月で休刊した。)その後、旧ソ連・東欧・米国・中国の実情を見て廻り、著述活動を行っているという。
この対談で、雨宮さんは、むのさんに、戦争当時、事実を報道できなかった理由として、どんな圧力があったのかと問いかけているが、むのさんは「そんなものはなかった」とし、「それでもこっちが動けなくなっちゃうの。まひしちゃうの。これが戦争の怖いところ。当局の圧力より、周りだな。隣近所。」といい、新聞もまた社内検閲で自主規制であったというのである。
もう一度、同じ状況になった場合、むのさんは「戦争は間違いだ」というガリ版を刷って、銀座の街で配るという。あの当時、それをしていたら、当局が来ない代わりに、民衆から非国民呼ばわりされて八つ裂きにあっていただろうというのである。
雨宮さんは、自身がフリーターで生きづらさを感じていたときに、愛国に走ったように、今日、世の中が右傾化している背景には雇用の問題があるのではないかと考える。(この点、むのさんも同意し、経済的要因は大きいとし、「大学は出たけれど」というのが流行語になる時代で、それから一気に戦争の時代になっていたという。つまり、現在の状況は、戦争前夜の状況に酷似してきているということである。)
フリーターにしかなれない労働環境、正社員になっても過労死や過労自殺に追い込まれる職場、不安定さを強いられている若者たち。このようなプレカリアートと連帯し、社会変換を求める最近の雨宮さんの活動が、反戦平和の問題とも繋がることが、この対談からわかるのである。