『ウロボロスの純正音律』

 『ウロボロスの純正音律』は、『ウロボロス偽書』『ウロボロスの基礎論』に続くウロボロス・シリーズの掉尾を飾る作品であり、前2作と比較して、より本格ミステリ的構築性・求心性の高い作品となっている。

ウロボロスの純正音律

ウロボロスの純正音律

ウロボロスの偽書 (講談社ノベルス)

ウロボロスの偽書 (講談社ノベルス)

ウロボロスの基礎論 (講談社ノベルス)

ウロボロスの基礎論 (講談社ノベルス)

 物語の進行とともに、謎が増殖してゆくが、これはたったひとつの事実が見えていないがために起きた現象なのである。物語の舞台である玲瓏館はマシーンであり、最後の電子プロックを埋め込むと、低周波を発生させ、謎が氷解するようになっている。この欠けたピースが何かということは、数々の謎から論理的に導き出せるようになっている。読者は物語の最後までに、この最後のピースを探し当てればよい。物語の終焉までに探り当てれば、貴方の勝ち。探り当てることが出来なければ、作者の勝ち。
 このように、『ウロボロスの純正音律』は、「謎−解明」から成る本格ミステリのコードに沿った作品である。しかしながら、これを普通のミステリと受け取ればいいかというと、早計である。
 ポイントは、3点である。
(1)本書には、尋常ではない過剰な知(本格ミステリ音楽学囲碁天文学と暦・図像学など)が投入されており、複雑系ミステリとしての特色があること。このことは、本書を繰り返し読むことに値するものにしている。(注1)
(2)玲瓏館で起きる連続殺人に対してミステリ作家・評論家らが探偵役として対峙し、複数のパースペクティヴに立った重層的な解釈を行っていること。
(3)『ウロボロスの純正音律』自体が、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』に対するオマージュとして書かれていて、玲瓏館で起きる殺人も、古典ミステリの見立て殺人であり、先行する諸ミステリに対するメタ性を持たされていること。
 このように『ウロボロスの純正音律』は、一冊でありながら、数冊分のミステリに匹敵することをやっているのである。
 『ウロボロス偽書』は、3つのパートから成る作品で、物語の進行とともに、それらが相互貫入し、現実と虚構の境界線が崩壊する作品であり、『ウロボロスの基礎論』もまた、2つのパートから成る作品てあったことを考えれば、『ウロボロスの純正音律』は一貫してひとつの事件を追いかけており、ストレートな本格であるかのように見えるが、先行するウロボロス・シリーズがそうであるように、『ウロボロスの純正音律』もまた書くことと読むことの謎が、主題としてあり、あたかも普通の本格ミステリであるかのように偽装されたミステロイド(擬似ミステリ)、すなわち一層手の込んだミステロイドと看做すべきではないかと考える(注2)。

(注1)『ウロボロスの純正音律』は、このような過剰な知の集積から成り立っており、その象徴が知のアルシーヴとしての玲瓏館の図書室である。このような知の集積が何をもたらすかといえば、ホログラムのように多種多様な読み取りを可能にする場を具現化させることに繋がり、ひいては流動的な知が息づくことを可能にする。このような流動的な知は、非対称的世界の分析的理性によってトゥリー型の知の体系のなかに捕捉しようとしても捉え切ることができない。
 『ウロボロスの純正音律』のホラー的部分は、われわれの住む非対称的世界から見ると、おぞましくも美しい対称的世界=純正音律が具現化された理想世界が、非対称の現実原則に直面して崩壊する悲劇にあり、このような主題を表現するためには混沌とした情報の渦巻く無意識のプールを描き、あらかじめ読者の世界観をこじ開けておく必要があったのである。

(注2)反リアリズム的観念小説を書いてきた倉橋由美子に、『城の中の城』という作品があり、この物語は、あたかもリアリズム(写実主義)に沿ったもののように見えるが、物語の初めと終わりにaとbという章があり、実はリアリズムであるかのように偽装した、一層手の込んだ反リアリズム作品であることが判る。竹本健治の今回の作品が、あたかも本格ミステリであるかのように偽装したミステロイドではないかという解釈は、『城の中の城』が念頭にあったことを白状しよう。
なお、『ウロボロスの純正音律』は、第一の被害者が出たあたりまでは、倉橋の『アマノン国往還記』を想起させた。アマノン国を玲瓏館に置き換え、オッス革命を企てるモノカミ教の宣教師Pを、ミステリ作家たちに置き換える。倉橋自身はアマノン国に否定的なようだが、それと同時にPをも相対化して、俯瞰的な視点からPの冒険をどたばた喜劇に仕立てる。『ウロボロスの純正音律』では、第一の被害者が出た後、モノカミ教ならぬミステリ・マニア特有の思考傾向を持つミステリ作家たちが、第一の被害者に誰々を選ぶとはそれだけで事件の格が落ちるなどと言いながら、嬉々として推理に興じるのである。これは、お笑い風どたばた喜劇の描き方である。