「批評におけるパラダイムの混在」に激怒した田中幸一氏に答える

 私の理解することころでは、アレクセイ氏は、「批評におけるパラダイムの混在」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648で私が提示した分類、すなわち

1.現象学実存主義パラダイム
2.構造主義パラダイム
3.文化記号論パラダイム
4.ポスト構造主義パラダイム

でいえば、地に足のついた"1あるいは合理主義"に沿って発言する人であって、2〜4に属する思想家について発言するときも、"1あるいは合理主義"から納得のいく領域だけを限定的に評価して利用しているおり、自分の納得のいかないことには言及しないことが、アレクセイ氏の強みであると考えてきました。
 ですから、「批評におけるパラダイムの混在」に関して云えば、アレクセイ氏に「批評におけるパラダイムの混在」が起こりようがなく、文中指摘した『構造と力』に関するどうみてもミスリーディングの箇所を、同居人(なのかな。まぁ、そこのところはよくわかりませんが。)のホランド氏に伝えて、問題のテキストを確認された上で、部分的に軌道修正すればいいだけの話であって、こんなところで怒ると「あれれ、どこかで批評におけるパラダイムの混在をやっている自覚があるんだろうか。」と邪推してしまいます。
 (ちなみに、この箇所の指摘は、「批評におけるパラダイムの混在」より前の日記ですでに書いていますが、見事に無視されましたので、だんだんくどく指摘しております。原文を読めば納得いただける箇所だと思いますので、ご検証をお願いします。なお、この箇所に見られるような適切でない批判は、今回、ホランド氏が原文全体を読んでいなかったためだと考えますので、訂正するのはホランド氏の方であり、私が陳謝するのは納得いきませんで、致しかねます。)
 「批評におけるパラダイムの混在」を読んだら、「そうそう、バタイユ主義者の笠井潔氏は、<栗本慎一郎は○で、山口昌男は×>の原則だったのに、なぜか『空の境界』の巻末解説では、山口評価をしてますからねぇ」といったようなコメントが返ってくると思ったのですが、的中しませんでした。
 それにしても、アレクセイ氏の啖呵って、凄いですねぇ。しかしながら、これでは論争に強いアレクセイ氏の勝利の秘訣は、ヤクザ調の脅しのせいであったと勘違いされてしまうのではないか、と心配してしまいます。あくまで、脅しではなく、理で強いのですから、ね。折角の利点が相殺されてしまうように思えるのです。
 ところで、ここの日記を見ている人は、どちらかが死に至るまで続く「アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル」を愉しみにしているのでしょうか。世紀末じゃないんですが、ねぇ。純粋なゲームとしては、なかなかの趣向だとは思うのですが、何分、はなはだ散文的な理由で申し訳ないですが、そんなバトルを継続して行えるほどの暇はないものですから、あまり望んでおりません。