まだまだ幸せ者だと思わなくては

アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648 でのコメント参照)を読みました。この文章は、私にとって痛い文章ですが、そうであるがゆえに、深い厚情を感じずにはいられない文章です。ひょっとして、私は幸せ者かもしれません。 
 ここで書かれた私の性格に関する分析、例えば、
>(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている
権威主義
>本人の見識らしき見識など、実際にはほとんど存在(しない)
>(2) 批評が、恣意的であり、公正さ誠実さに欠け、感情的である。
は、まったく的確な指摘だと思います。 
 強いて言えば、アレクセイ氏のはらぴょん批判は、まだまだ寛容すぎ、評価が高すぎるように思われます。
 「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」ですと、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに追い詰められて、「BBSアレクセイの花園」で、あら探しをしたように取れますが、実際のところはアレクセイ氏と近づきになった時から「BBSアレクセイの花園」の過去ログも含めて、あら探しをしていました。あら探しというと、マイナス面のみを探すととられるかも知れませんが、私の場合、もっとたちが悪く、プラスの面も盗むことを考えていました。だから、今以上に評価を落とさないと、真実とは言えないと思われます。
 また、(1)の有名人好きということに関して、アレクセイ氏が、おそらくは見落としているであろう点があります。私にとって、アレクセイ氏自身もまた、有名人であり、その評価もまた恣意的かつ感情的評価になりがちであるということです。
 例えば、アレクセイ氏の書かれた「さかしまのオマージュ――西尾維新DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746)では、
『 シャーロック・ホームズを読んだことのある者なら、かの名探偵の印象的な振る舞いの一環として、虫眼鏡を使って部屋中を這い回るというあの行動を、挙げることができるだろう。あれこそまさに古きよき時代の探偵小説の象徴とでも表現するべき行いであって、今時の探偵小説で、そんなことをする名探偵は登場しない。大体、探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。推理という行動には、幾許かの努力という要素が含まれてしまうからだ。――天才は努力なんてしない。世界中で流行っている日本の少年漫画と同じだ。人気が出るためには主人公は超人の方がいい。』(西尾維新DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』P48)の箇所が、西尾維新笠井潔の探偵小説観との乖離を示す論拠として示されるわけですが、果たしてこの箇所が作者自身の考えを、ダイレクトに反映したものなのか、また文中の「探偵小説」と「推理小説」の区別が、笠井潔の探偵小説観と、そうでないミステリ観の差を踏まえた上での発言なのか、批評眼のない私には自信を持って判断できませんでした。ですから、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに対して、(1)の有名人好きの傾向がある私は、小森氏とアレクセイ氏の双方を傷つけまいとするあまり、思考が二重拘束の金縛りになったということを告白せねばなりません。
 『キララ、探偵す。』の「かくかくしかじか」の件と、『構造と力』P134の件を書いた件について、アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648)では、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントへのはらいせにやった嫌がらせと解釈されますが、確かに出来事の推移や私の表現の仕方からすると、確かにそう解釈されても仕方がないように思われます。ただ、前者に関しては、いささか手の込みすぎた悪戯であり(ですから、これに関する言及は一度限りでひっこめました。)、後者に関しては『テロルの現象学』で批判の対象となった対極的な本であり、笠井潔の専門家であるアレクセイ氏ならば専門領域であると考え、再三にわたり、言及した次第です。「はらぴょん論・序説」を読むまでは、アレクセイ氏は神聖にして侵すべからずの無誤謬主義ではないかと義憤に駆られていましたが(これなども、感情的な判断しかできない証拠といえます。)、冷静になって自分の文章を改めて読み直してみると、悪意を持った中傷と受け止められて、批判を受けるのは当然の、つたない表現だと気づきました。
 このように、私は大馬鹿者です。馬鹿は死ななきゃ直らないといいますが、たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。この大馬鹿者の部分を克服しようとした時もありましたが、たぶん、しばらくすると失敗を忘れて、また醜態をさらすのでしょう。勝手なことをいえば、失敗を思い出させるために、断続的に(教訓を忘れたころに)苦よもぎのような「はらぴょん論・序説」の続きを読ませていただければと思いますが、無論、こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。