『テロルの現象学』について

アレクセイこと田中幸一氏との論戦は、次のような経過から始まった。
(1)ミクシィで、2007年02月01日 00:16に私が書いた竹本健治氏の小説『キララ、探偵す。』のレビュー中に、53ページの「かくかくしかじか」から、作者のメタ・フィクション指向を指摘する記述を行った。
これに対し、アレクセイこと田中幸一氏は、自身の運営する「BBSアレクセイの花園」にて、2月11日(日)01時01分22秒に、同様のことを指摘する記述を行った。
このことを、私はミクシィでの私の日記(2007年02月11日08:52)に書いたところ、アレクセイこと田中幸一氏の反感を買った。
時間の流れからすれば、私が書いたのが先であり、これに関してとやかく言われる筋合いはない。
また、「かくかくしかじか」は、読めば誰でも気づくところであり、私の指摘もたいしたことはない。人によっては「スボラ流省略の極意」という人もあれば、「メタ・フィクション」傾向を見出す人もいるだけだと思う。また、アレクセイ氏の指摘が遅れたのも、単に『キララ、探偵す。』の表紙のメイドの絵に、羞恥を覚えて購入が遅れただけだと思う。
アレクセイ氏によると、アレクセイ氏の書いた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューでも、「メタ・フィクション」的手法を指摘した部分があり、私がそれを読んだがゆえに、このような指摘が出来たのだという。
ちなみに、アレクセイこと田中幸一氏と私は、現在のところミクシィでマイミク(友人)関係にあり、各自が日記やレビューを書くと、自身のページにも表示されるようになっている。
しかし、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの件をいうのならば、アレクセイこと田中幸一氏が『キララ、探偵す。』を読む前に、私のレビューを読んで「メタ・フィクション」傾向を示す「かくかくしかじか」という箇所が53ページにあることを知りえたわけで、先に述べたように、私の方が先に書いたのであるから、これについてとやかく言われる筋合いはないのである。
それとも、アレクセイこと田中幸一氏は、竹本健治氏の本については、自分が先に言う権利があるとでも考えているのだろうか。とすれば、批評家として、なんたる傲慢なことであろうか。

(2)前述の『キララ、探偵す。』を巡って起きた不協和音は、私が「批評におけるパラダイムの混在」という文章を、2007年02月15日01:48、ミクシィにアップしたことから激化して、今日に至るまでの議論となった。
「批評におけるパラダイムの混在」には、次のような記述がある。
※以下は、引用です。
>例えば浅田彰の『構造と力』のように、さまざまなパラダイムを取り上げては、それを斬り、より有効なパラダイムを目指すような本の場合、途中の一箇所だけを抽出すると、奇妙なことが起きてしまう。
>これは、「アレクセイの花園」で起きた事だが(これは既に書いたことのある例で、周知の事実かもしれないが、一番判り易い例なので取り上げることにする。別にホランド氏に悪意はないので、誤解なきよう。) 1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みで、
>>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                   「構造と力」(勁草書房P134)
>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。
>というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例である。この場合、浅田批判をするのであれば、浅田説の表現されたところをピックアップして、やり直さないといけないことになる。
この指摘に対して、現在のところホランド氏あるいはアレクセイこと田中幸一氏からの見解表明はなされていない。
では、今日まで至る論争の中身はなにかといえば、私の人格や、今回の行動に至る動機への攻撃や罵倒の類いばかりである。
アレクセイこと田中幸一氏は、常日頃から自分の敵と味方の二分法を駆使しており、敵は笠井潔氏であり、笠井派である探偵小説研究会であるということになる。私は、ミクシィ探偵小説研究会に属する小森健太朗氏ともマイミク関係(「コリン・ウィルソン情報」というサイトで知り合ったのである)あることから、私の行動の背景には探偵小説研究会への配慮が働いたというのである。自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏に対しては、いかなる議論も水掛け論に終わり、アレクセイ氏の考えを変えさせることはできないであろう。アレクセイ氏が一旦思い込んだものは、未来永劫、悪の勢力であるということになる。
問題は、論戦の火種となった浅田彰の『構造と力』の解釈問題が、一向に取り上げられないことにある。
ところで、アレクセイこと田中幸一氏は、「笠井潔葬送派」を標榜する文芸評論家ということになっている。ということは、笠井潔氏の事柄に関しては、専門家であるということになる。
私の見るところ、笠井氏の代表的著作は、ミステリでは『バイバイ、エンジェル』であり、評論では『テロルの現象学』であると思う。批評では『探偵小説論』があるのではないか、という論者がいるかも知れないが、基本的な思考のパターンは『テロルの現象学』に現れていると考える。

『テロルの現象学』は、連合赤軍事件を契機とするマルクス主義テロリズム批判を思考した著作である。だから、第一の批判対象は、マルクス主義弁証法的権力である。しかし、笠井潔氏は、マルクス主義の党派観念を内部から粉砕するために、ジョルジュ・バタイユの考えからヒントを得た集合観念を持ってきた。だから、バタイユは、笠井潔氏にとって重要な思想家であった。
しかしながら、『テロルの現象学』が発表された1984年は、ニューアカデミズム全盛期であり、浅田彰氏の『構造と力』は、バタイユを「終局=目的なき弁証法過程」(117ページ)として、構造とその外部の弁証法のパターンとして批判していた。
構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

そうであるがゆえに、笠井潔は『テロルの現象学』の「第七章 観念の対抗」で、バタイユを「弁証法を廃滅する弁証法」(ちくま学芸文庫版231ページ)、つまり反弁証法として捉え直し、『構造と力』への異議を唱えたのである。
『テロルの現象学』で取り上げられている他の文学作品や哲学書は、笠井説の例証や補強材料であるが、『構造と力』は違っている。つまり、第二の批判対象は、『構造と力』ということになる。
ちなみに、『テロルの現象学』に続いて笠井潔氏が刊行した批評集は、『「戯れ」という制度』であり、ここでは蓮實重彦氏への批判を主題とした表題作のほか、当時のニューアカデミズム=日本型ポストモダニズムへの批判がなされている。つまり、『テロルの現象学』の第二の批判対象が、評論二冊目で主題に浮上しているということになる。
笠井潔氏のその後のミステリ評論は、『テロルの現象学』での浅田彰氏が占めていた位置xに、竹本健治氏、清涼院流水氏(なお、清涼院氏に対する批判を、最近の笠井潔氏は取り下げている。)を代入することで、図式が出来上がると私は考える。
したがって、笠井潔氏の代表作である『テロルの現象学』を、真の意味で理解するためには、その批判対象である『構造と力』も、押さえておく必要があると考える。逆からいえば、そこを理解しなかったら、『テロルの現象学』で笠井氏が言いたかったことを充分押さえるには至っていないということになる。
アレクセイ氏の件に話を戻そう。『構造と力』の解釈に関する私の疑問に、すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返しているアレクセイ氏とは、一体何者なのか。本当に「文芸評論家」と呼べるに値するのか。あるいは、本当に笠井潔氏の思想を充分理解した上で、笠井潔氏批判をしているのだろうか。(ちなみに、このような議論をミクシィで始めてから、私のページに笠井潔氏の足あとが数回あった。だから、笠井氏はアレクセイ氏が議論のきっかけとなった『構造と力』に言及しないという不可思議な行動を認識した可能性がある。)『構造と力』は、一昔前とはいえ、ブームとなった本であり、批評の上でベーシックな本である。批判するにせよ、肯定するにせよ、仮にも評論家を名乗る以上、一応は押さえておくべき本であると思う。しかしながら、こうした議論に、アレクセイ氏は、今尚、沈黙したままである。