後続の走者

 某国立大の理系の院生から、指導教官のもとで論文を書いて、いい出来であると、指導教官が自分の名前に書き換えて、学会に論文を提出してしまうという話を聞いた事がある。指導教官の研究成果を踏まえ、指導教官のメソッドを使って、研究を推し進めたというわけである。
 ミクシィで、2007年02月01日 00:16に私が書いた竹本健治氏の小説『キララ、探偵す。』のレビュー中に、53ページの「かくかくしかじか」から、作者のメタ・フィクション指向を指摘する記述が含まれている件が、先般からアレクセイ氏との間のトラブルの火種のひとつになっているが、この件に関して、私はアレクセイ氏による2月11日(日)01時01分22秒の「BBSアレクセイの花園」での同様の指摘よりも、時間が早いという事実確認が行ったが、特に第一発見者だからどうのこうのといった権利を主張するつもりは全くない。
 この種のメタ・フィクション性の指摘は、アレクセイ氏によって書かれた竹本健治氏の『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューで(これが掲載されたのは、私の『キララ、探偵す。』のレビューに先立っている)すでに為されており、ここで竹本作品においては、『匣の中の失楽』や『ウロボロス』シリーズなど通常誰もがメタ・フィクション性を認める作品以外でも、メタ・フィクション性が認められることもあるという<一般解>が確立された。したがって、その後の『キララ、探偵す。』でメタ・フィクション性が認められることもあるという私の指摘は、前述した<一般解>に含まれる<特殊解>に過ぎず、すでに前作『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』の段階で、アレクセイ氏によって予見されていた、ということでよい。そもそも、このような発見の類いは、文芸評論家であるアレクセイ氏にとっては意味があることだが、公正な判断も出来ず、偏向した放言に終始している一介の市民に過ぎない私には、何の意味もないことである。
 とはいえ、竹本健治氏のコアな読者は、「少年回廊」だけでなく、「アレクセイの花園」もチェックする可能性は高く、そういった中から、私とは違って文芸評論家を目指す高い志のある人が出てくるかも知れない。そういった人が、竹本作品の新作を読んで、この箇所は作者のメタ・フィクション性を示すものだと指摘することもあるかも知れない。その場合も、すでに『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』の段階で、アレクセイ氏が<一般解>として示したものであり、アレクセイ氏の予見の後に登場した二番煎じであるということになるのだろうか。
 『匣の中の失楽』や『ウロボロス』シリーズなど通常誰もがメタ・フィクション性を認める作品というと、どこまでを指すのか、境界線が私には判らない。ミステリは、メタ化傾向の強いジャンルであり、ことに竹本作品では顕著であるといえる。だから、『トランプ殺人事件』の文庫解説で、笠井潔氏がメタ・ミステリ談義をしているし、確か日下三蔵氏も『兇殺のミッシング・リンク』でのメタ・フィクション的遊戯について指摘したことがあるはずである。
 思うに、ミステリとミステリ評論は、その愛好家によって、精神のリレーを引き継ぐように書き綴られてきた趣味的なジャンルである。果たして、アレクセイ氏による『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの後で、後続の走者はいるのだろうか。