『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズム』を読む(1)

dzogchen2007-04-07

【序論】
島田裕巳著『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズム』(亜紀書房)を読み終えました。
批判の根拠となっている中心的な資料は、『宝島30』の記事でした。
(1)『宝島30』1996年1月号「僕と中沢新一さんのサリン事件」より、オウム脱会信者・高橋英利氏からの伝聞情報で、中沢氏に「ね、高橋君。オウムのサリンはどうして(犠牲者が)十人、二十人のレベルだったのかな。もっと多く、一万人とか、二万人の規模だったら別の意味合いがあったのにね……」と云われたということ。
(2)『宝島30』1996年6月号より、岩上安身・宮崎哲弥の対談「ぼくらの『オウム』戦争」中の編集部からの発言で、オウム元信者より中沢氏から「一万人、二万人規模の人間が死ねば、東京の霊的磁場が劇的に変化する」と云われたとの情報が入ったとのこと。
いずれも、伝聞情報ですが、島田氏はこのふたつを中沢氏の公式発言には見られない本音であると看做し、その全活動目的はそこにあるとして、論を組み立てています。
あと、サリン事件前後の週刊誌等での中沢氏の発言も参照されていました。
実のところ、私にとって、新情報だったのは、島田氏と中沢氏のプライベートな繋がりについて書かれた部分(柳川ゼミの話とか、ネパールに行く前に、中沢氏が同棲していたとかといった情報)のみでした。しかし、非公式の場で聞いたという伝聞情報とはいえ、上記(1)(2)をこの本で初めて知る読者のうち何割かは、中沢氏離れを起こすかも知れません。
一方、これらの情報を知りつつ、一貫して中沢氏の著作を読んできた筋金入りの読者は、この本によって批判されているのは自分自身も含めてであると自覚するでしょう。(私も筋金入りの中沢読者のひとりですが、論理的整合性では浅田彰氏の方が上であると云ったりしていますから、中沢信者とはいえないでしょう。)上記(1)(2)の情報を知りつつ、なぜ一貫して中沢読者足りえるのかという問題については、今後さらに追及されなければならない問題として残るでしょう。
中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズム』で、島田氏はオウム事件に『虹の階梯』のグルイズムが影響を与えたにも関わらず、中沢氏がそのことを考慮した改訂を行わず、影響関係について気にしないという態度を取っていることを糾弾し、アーレフから新団体をつくろうとしている上祐史浩氏にとっても、依然として影響力のある『虹の階梯』という本は障害になっているという言い方をしています。
しかしながら、このようなレトリックは、あたかも中沢氏よりも、上祐氏の方が良心的に悩んでいるかのような誤解を招くと考えます。
【観点1】『とびきりの黄昏』とファルマコン
中沢新一氏は、オウム真理教による一連のテロ事件を総括するために、中沢版『邪宗門』にあたるものを書こうとしていました。

証拠資料1「この問題の本質は学問や評論では書けないと思う。高橋和巳が『邪宗門』を書いたように、文学じゃないと表現できないほど複雑な世界です。だから、いずれ僕は『邪宗門』にあたるものを書きます。」(『週刊プレイボーイ』1995.4.18、中沢新一インタビュー「『宗教』と『邪宗』の間で」52頁)

この中沢版『邪宗門』は、岩波書店刊の『へるめす』誌の「文化時評」枠で、1996年5月号より連載された『とびきりの黄昏』のなかで、その片鱗を見せようとしていました。
この『とびきりの黄昏』は、1984年の「青土社 刊行案内 No.12」の近刊予告に掲載されたことがありますが、このときは『雪片曲線論』という表題に直されて刊行されたという経緯があります。

証拠資料2 「青土社 刊行案内 No.12」
http://acephale.e-city.tv/page004.html

『とびきりの黄昏』で、中沢氏が取り上げたのは「ファルマコン」の問題です。ファルマコン[pharmakon]とは、毒と薬の両義を持つギリシャ語であり、転じて、既成秩序から排除されるもの、あるいは排除される観念が持つ性質を指すようになりました。
『とびきりの黄昏』は、掲載誌の終刊とともに未完に終わりましたが、そこで中沢氏が何を云わんとしたかは、ある程度推定できます。
オウム真理教(現アーレフ)と『虹の階梯』に関する難問が、何ゆえに「ファルマコン」と関わりがあるかといえば、『虹の階梯』が「毒にして薬」だからです。
『虹の階梯』が注目されたのは、チベット密教ニンマ派の最奥義ゾクチェンという人間の魂を解脱に導くテクネー(技法)を公開し、その内的体験を極めてヴィヴィッドに描いたからです。
『虹の階梯』は、その画期性ゆえに亜流を生み出すこととなりました。オウム真理教もまた、『虹の階梯』から影響を受けており、その教えを恣意的に解釈することによって、大量殺人をも肯定するような悪の教義を造り変えました。
しかしながら、オウム真理教が勝手な解釈で(例えば、『虹の階梯』では「ポア」という言葉は、魂の転移を意味しますが、オウム真理教では殺人を意味するように変貌を遂げています。)無差別テロを行ったからといって、せっかく日本に導入されたチベット密教ゾクチェンという赤子自体を流産させていいものなのでしょうか。この不寛容さは、今では使用されなくなった過去の仏教遺跡を破壊すること以上に、今を生きる精神の殺害だけに、見方を変えれば、より残酷なのではないか、と見ることもできるはずです。
例えば『虹の階梯』の中公文庫版55ページには「心がまえ」として「十の善なる行為」として筆頭に「殺すことなく生命をいつくしむ」とあります。また、57ページには、「利他心という菩薩の心がまえが欠けていれば、どんなに教えを聞いてそれを修行したとしても、あなたのしていることは修行のまねごとにすぎない。」とあります。このように、『虹の階梯』には、至るところに不殺生、利他心、慈悲の教えの言葉が、散りばめられています。この本自体が、ダイレクトに無差別テロに結びつくものではないし、寧ろ丹念に読むことによって、無差別テロを肯定するような教義を、深いレベルで解体する力さえ潜在していることがわかるはずです。
島田裕巳氏の『中沢新一批判、あるいは宗教的テロについて』243頁では、脳機能学者・苫米地英人氏のブログ(2005.3.22)を引用しています。「オウム事件に、内乱予備罪や破防法が適用されていたら、十分彼[中沢]も容疑者の一員になってもおかしくないと思っているからだ。」
島田氏は、「中沢氏には、たんに宗教学者としての責任があっただけではなく、宗教家として、あるいは政治的なアジテーターとしての責任がある。」とし、その直後に、この引用を行っているのである。島田氏は、内乱予備罪や破防法の適用に関して、どのような人権意識を持っているのか伺いたいところです。
『とびきりの黄昏』で中沢氏が告発しようとした現代社会の不寛容さ、「イニューマン(非人間的なもの)」への過剰な拒否反応は、ますますエスカレートし、ついには想像だけで逮捕される日を待望する学者が現れたということなのでしょうか。