『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』を読む(2)

dzogchen2007-04-14

中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』の論考が進まないままに、中沢新一著『ミクロコスモス I』および『ミクロコスモス II』(四季社)http://www.cloverbooks.com/mikrokozmosz/mikrocozmosz.html の方に話題は移りつつあるのだが、この機会にオウム真理教事件について、徹底的に考えておくことは良いことだと考え、さらに続行することにする。

【観点2】中沢新一氏ならばできる(中沢新一氏にしかできない)オウム真理教事件再発防止策
以下は、私が中沢氏の立場ならば、次のような措置を取るということである。中沢氏が、これらの措置に意義があると取るかどうかはわからない。

(1)『虹の階梯』の増補改訂問題〜「I 共通の加業」の冒頭で、小乗仏教大乗仏教の違いを説明できないか?

虹の階梯―チベット密教の瞑想修行 (1981年)

虹の階梯―チベット密教の瞑想修行 (1981年)

改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行 (中公文庫)

改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行 (中公文庫)

『虹の階梯』は、平河出版社版から中公文庫版に移行するにあたって、大幅な加筆・修正がなされている。それゆえ、中公文庫版には、タイトルに「改稿」の文字が見られる。
ここで、提案したいのは、さらなる改訂を加え、誤読を防止できないか、ということである。
オウム真理教事件が起きたとき、その原因として顕教をおろそかにして、すぐさまタントラ・ヴァジュラヤーナに向かい、安易な超能力崇拝に陥ったこと、仏教を恣意的な解釈でゆがめたということが云われた。
『虹の階梯』の場合、「I 共通の加業」が顕教にあたり、その上で「II 密教の加業」に入ってゆく構成を取っている。仏教のあらゆる宗派(チベット密教には、ニンマ派以外に、ゲルク派カギュ派サキャ派といった宗派がある)に共通な顕教をラマが弟子に伝授する「I 共通の加業」の頁は、文庫版で約200ページにも及び、『虹の階梯』の中で、軽視されているわけではない。
ここで、提案したいのは、「I 共通の加業」の冒頭で、小乗仏教大乗仏教の差異を解説し、大乗仏教では修行者が単に自身を救うのではなく、広く衆生を救うことを目的として行が為されるのであり、それゆえ衆生救済のための菩薩行が尊ばれるということを強調できないか、ということである。冒頭で、このように強調しておけば、他利・慈悲・仏の前での平等といった価値が輝きを増すはずである。現在、『虹の階梯』に、すでに他利や慈悲などの言葉が、詩句などのかたちで謳われているが、このようなかたちでの強調はなされておらず、瞑想修行の目的が自己の救済にあるのか、人々への慈悲心から発せられたものなのかが曖昧になっている。宗教現象において、この方向性の差異は、非常に重要なものだと私は考える。というのは、エゴからの脱却[解脱]ということと深く関わっているからである。『虹の階梯』のように、人間の心に関わるテクネー(技法)を公開する場合、方向性を間違えると、エゴからの脱却ではなく、逆にエゴの肥大をもたらしてしまうことになる。
「I 共通の加業」の冒頭で、小乗仏教大乗仏教の違いを強調することで、その後の導師(グル)と弟子の関係もまた、他利・慈悲・仏の前での平等といった価値を実現するための関係でなければならないという拘束が生まれることになる。つまり、エゴの肥大を目指す教祖は、教義の面からあってはならない存在になるだろう。
島田裕巳は、『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』において、『虹の階梯』におけるグルイズムの放棄を迫る。『虹の階梯』では、カギュ派におけるティローパとナローパ、マルパとミラレパの説話が語られ、いかなる状況にあっても、弟子は導師(グル)に絶対服従せねばならないと説かれる。マルパとミラレパに関して云えば、まずミラレパが不遇な境遇のため、復讐を企て、黒魔術に手を染めたという経緯があり、その前歴ゆえにマルパはより厳しい試練を与えたという理由があることを押さえておかねばならない。(ミラレパの生涯については、エヴァ・ヴァン・ダム著、中沢新一訳『チベットの聖者 ミラレパ』法蔵館刊参照。)また、チベット密教がその教えを、正確に次代に伝えるための厳しい戒律のひとつと解することができよう。
チベットの聖者ミラレパ

チベットの聖者ミラレパ

チベットという異文化を、修正を加えずに、そのまま伝える観点からすると、このグルとの関係をそのまま改竄せずに伝えることの意義は大きい。但し、ソギャル・リンポチェが『チベットの生と死の書』講談社刊を読むと、欧米に渡ったチベット僧は、死に行く者の魂の導きの際に、仏ではなく、キリスト教のマリア様を観想しても良いとしていることがわかる。とすれば、日本にチベット密教を導入するために、ある程度日本の実情に合わせて、グルとの関係を見直すことも必要かも知れない。しかしながら、知の商品化の進んでいる日本で、他の知識と同じように、この種の"知恵"(知識ではない、あえて知恵という言葉を使いたい)を、資本主義原理に従って流通させるわけにはいかない。チベット僧は、知恵の商人ではないので、この種の伝授の際には教える者への敬意が不可欠であると考える。
チベットの生と死の書

チベットの生と死の書

(2)中沢版『邪宗門』、あるいは『とびきりの黄昏』の完成に期待
依然として、オウム真理教事件の思想的総括の必要性は、失われていない。それゆえ、中沢版『邪宗門』は、やはり書かれるべきである。(それが『とびきりの黄昏』の完成版なのか、あるいは別の文学作品なのかは判らないが。)
この中沢版『邪宗門』について、中沢氏は事が複雑すぎるがゆえに、文学の形態を取らざるをえないという意味の発言をしたことがあり、学問や評論の範疇を逸脱する内容になることが予想される。
なお、私がここで書いている『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』も、今後は事の複雑さゆえに、単なる書評の範疇を越えて、ドストエフスキーの『大いなる罪人の生涯』やグノーシス主義との関連などと絡めて、考えてゆく必要を感じている。

(3)『虹の階梯』の続編(『仏教の完成』?)を待望
これは『ブッダの方舟』で、宮崎信也氏が言っていたことだが、『虹の階梯』の続編(宮崎氏は『仏教の完成』という仮題を考えていたが)が必要だということである。

ブッダの方舟

ブッダの方舟

このことが、なぜオウム真理教事件と関連してくるかといえば、『虹の階梯』は入門編に過ぎず、チベット密教ニンマ派のほんのイニシエーション(通過儀礼)を行っているに過ぎないからである。そうであるがゆえに、その通過儀礼の果てに何があるかという実存的な知の飢えが生まれ、あげくの果てにオウム真理教のようなまがい物を掴まされるといった悲劇が起きたのである。
その果てに何があるか、明示してしまえば、幻想は壊滅し、集団的エゴを肥大させた邪宗から正しい道に立ち直らせることができるはずである。