『存在と無』について

 ちくま学芸文庫版の『存在と無』(全3巻)が完結した。文庫版になったので、ポータブルに持ち歩けるようになった。

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

存在と無―現象学的存在論の試み〈2〉 (ちくま学芸文庫)

存在と無―現象学的存在論の試み〈2〉 (ちくま学芸文庫)

存在と無―現象学的存在論の試み〈3〉 (ちくま学芸文庫)

存在と無―現象学的存在論の試み〈3〉 (ちくま学芸文庫)

 サルトルの哲学は、あらゆる権威をぶち壊しであり、既成道徳に疑問符を投げつけ、一切の価値観を破壊する哲学であり、自分の生き方くらい自分で決めろ、その代わり自分の行動は最後まで責任を持て、という自由の哲学であるから、これをポケットにしのばせて歩くのは、爆弾を抱えて歩行するに等しい。
 第二巻で、他者のまなざしによって石化し、「対他存在」という疎外態になってしまった人間存在について、ねちねちと粘液的な文体で分析したサルトルは、最終巻で人間の自由を説き、自由の裏にある責任について語る。そして「実存的精神分析」を提唱し、フロイトの無意識を撃破すると同時に、人間は即自にして対自、すなわち神をめざして決死の投企をするが、即自にして対自などというものはありようがなく、空しい受難で終わると説く。
 問題は、今日におけるサルトルの哲学の位置づけである。前述したように、サルトルフロイト精神分析なんてものは認めない。当然、精神分析に影響を受けたシュルレアリスムなんてものも認めない。即自にして対自を目指しての命がけの飛躍とか、魔術的綜合なんてものも認めない。さらには、実存主義の後に登場した構造主義とも対立する。
 ここで話題を変える。ニュートン万有引力の理論の後に、アインシュタイン相対性理論が出てくる。さらには、統一場理論なんてものも出てくる。しかし、最先端の理論が出てきたとしても、リンゴと大地の間の関係だけを考える限りでは、ニュートンで必要十分である。ニュートンでは不十分になるのは、光は重力で曲がるか、といったレベルのことを考え始めたときである。
 別の事例を考えてみる。普通、平行線はどこまで延長しても交わらない。ユークリッドの世界ではそうだ。ところが、この前提条件をとっはらって、さらに広い視野で考えようとすると、非ユークリッド幾何学が必要になる。かといって、ユークリッド幾何学が無意味になったのかといえばウソで、これは、平行線はどこまで延長しても交わらないという条件下では有効なままだ。
 サルトルにしてもそうだ。サルトルは、行動しなければ、なんの価値もない。存在しないも同様だと考える。意識は、常になにものかについての意識である、ということは、なにものかに志向性を向けていない眠った意識なんてものは、まったくナンセンスである。こういう考え方ならば、例えば、選挙のとき、投票するとか、なんらかのアクションを起こすのが当然だということになる。なにもしないで、後で愚痴るのは、まったくナンセンスということになる。世の中のほとんどの行動様式は、サルトルの哲学だけで十分指針になる。それに同調するにせよ、反対するにせよだ。
 だが、物事を突き詰めて考えたあげく、この世界の事物に実体があると思い込んでいたのが、すべての錯誤の始まりだったと気づく。むしろ、関係論的に、すべては縁によって生成されるとみるべきではないかと考えはじめる。そうすると、サルトルの哲学では満足できなくなる。
 とはいえ、サルトルの哲学が無意味になったというわけでは、まったくない。対人、対物、対国家……人がなにかとぶつかるときには、かなり効力を有する哲学である。なにより、読むものを元気づける哲学であるという点が嬉しい。それは、権威や常識にとらわれず、零から根底的に考えようとする志向を持っているからである。実をいうと、このような破壊的な哲学は、めったにない。