乙一著 『GOTH モリノヨル』

例えば、ある種の神秘体験を得て、それを言語化して、他者に伝えようとするケースを考えてみよう。言語化に成功した途端に、その体験のヴィヴィッドさは喪われ、ピンで留められた蝶のような空々しさが生まれるだろう。
 そこには、全宇宙を包み込むような拡大された意識の感覚もなければ、マクロコスモスとミクロコスモスが(ミクロコスモスの内に、マクロコスモスに繋がる法則性を含んでいるがゆえに)一致しているという感覚もない。勿論、事実性の地平を越える超越的なもの、絶対的なものへの希求も見出せない。あるのは、平版な事実の羅列だけといった状態になるだろう。
 このような言語化に成功した世界認識は、学問という知識体系に組み込むにはうってつけである。しかしながら、そこには生き生きとした世界の認識は失われてしまっている。
 ここで再び、鮮烈な神秘体験を得るためには、知のシステムの外部に向かうしかない。しかし、外部に出るためには、徹底的な削ぎ落としが必要である。知的体系を構築しようとする誘惑を切断し、世間的な評価を得ようとする欲望を切断し、さらには自分のエゴを否定し、それ以上削ぎ落とし不可能な底辺に堕ちることが必要である。
 しかしながら、再びその体験が甦っても、言語化とともにその体験は死ぬのであるから、外部に向かう運動は、不断の、敗戦覚悟の闘争でなければならない。
 さて、本筋に移る。この『GOTH モリノヨル』の主人公は、ある種の至高体験を得るために、犯罪に寄らずして到達できないという不幸な性向を持つ人物として設定されている。
 キーワードは、ロザリア・ロンバルドの死体写真と(球体関節)人形である。主人公にとって、ロザリア・ロンバルドの死体写真の如き美少女を被写体として選び、写真に撮るという行為が、ある種の至高体験に到達するための必須儀礼となっている。そこには、(嘘をついたり、虚勢を張ったりする)人間らしさとか、自己主張するおしゃべりな主体は不要であって、人形のように完全なる被写体とすべく、余分な挟雑物は取り除いてやらねばならない、というわけである。
 細かなことだが、作中に『眼球譚』の文庫本が出てくる。主人公が狙ったターゲットの落し物である。バタイユのこの本は、角川文庫ならば、表題が『マダム・エドワルダ 他四編』で、表紙は旧版は金子國義、新版は池田満寿夫光文社古典新訳文庫ならば『マダム・エドワルダ、目玉の話』である。しかしながら、表題が『眼球譚』なのだから、講談社文庫の『眼球譚、マダム・エドワルダ』の可能性が高い。この現在絶版の講談社文庫の表紙は、ハンス・ベルメール球体関節人形の作家である!
 私が考えるには、主人公は、美少女の死体写真を見ると、A10神経からドーパミンが出るように、条件づけ(プログラミング)されているのではないかと思う(殺人にではなく、あくまで写真を見ることで、快楽を得ているというわけだ)。
 主人公の犯罪は、一見ディオニュソス的狂乱とは遠くかけ離れており、終始クールであるようにみえる……が、主体性を喪った完全な客体としての写真にとり憑かれている彼の内部には、死とのせめぎあいのなか、静かな息遣いが起きているのではないか。
 犯罪にまで至る病的な内的世界を暴いた心理小説の傑作である、と同時に、後半の展開は論理的な駆け引きがみられ、ミステリの要素も隠し味として入っているように思う。