『英文学の地下水脈』

 小森健太朗著『英文学の地下水脈』は、大きく分けて3つのテーマを扱っている。
 第一に、黒岩涙香による翻案のうち、原典が不明だったものを明らかにする作業。この過程で浮かび上がるのは、バーサ・M・クレー、ヒュー・コンウェー、メアリ・ブラッドン、C・N・ウィリアムスン夫人といった現在、探偵小説史では取り上げられることの少ない作家たちであった。
 第二に、神智学ムーブメントに影響を受け『蓮華の書』を書いたメイベル・コリンズと、涙香と乱歩が翻案した『白髪鬼』の原書を書いたマリー・コレリ、編集者・批評家のA・R・オレージのグルジェフへの傾倒の評価を巡る否定派のG・K・チェスタトンと肯定派のC・D・キングを紹介した文章。
 第三に、アガサ・クリスティーの翻訳の問題点を突いた文章、ヴァン・ダインことウィラード・ハンティントン・ライトのニーチェ研究と美学研究にスポットを当てた文章、密室論や後期クイーン的問題を扱った文章。
第一のテーマに関して云えば、要するに国際版の本棚探偵である。黒岩涙香の翻訳の原書が判らないものについて、100年くらい前の英国の探偵小説の原書を取り寄せ、内容を確認し、それが原書であることを立証してゆくのである。一見、マニアックで、専門的な分野と思われるかも知れないが、この部分が真相を究明してゆく探偵小説の手つきを連想させて、私には一番面白く読めた。
 19世紀の英国探偵小説の古書のなかから、原書を探り当てる小森氏の探求は驚異的なのだが(欲を言えば、入手した古書の書影も、モノクロで良いので、資料図版として載せるべきであったと思う)、これを可能にしたのはインターネット検索の力である。しかし、インターネットのない文久2年から大正9年を生きた黒岩涙香はもっと驚異的であって、英文学のなかから面白いものを選び出し、場合によっては複数の原書を組み合わせたりして、日本人に探偵小説の面白さを判らせようとしたわけで、しかも本書が明らかにしているように『妾の罪』に至っては、高度で複雑な叙述トリックを使っているわけで、実にワンダフルとしか言いようがないことがわかる。江戸川乱歩は、EQMMなどで海外の動向情報を入手していたようだが、涙香はどうなのか。涙香は1918年にヨーロッパに行っているようだが、探偵小説を出していたのは1988年から92年である。
 神秘学に関連した第二のテーマは、ページ数としては多くないのだが、探偵小説と神秘学(本書で取り上げられているのは神智学とグルジェフ思想である)の双方に関心を持つ論者は少なく、本書に書かれているエピソードは貴重な情報である。
 最後に、黄金期の探偵小説作家や、探偵小説の原理論に触れた文章に関して云えば、クリスティーに関して述べた文章が興味深かった。原書には、翻訳ではうまく伝えられているとは言えないタブルミーニングやミスディレクションなどの仕掛けがあるというのである。最後の「クイーン論の断章」は、『探偵小説の論理学』のプレリュードとなっている。どうやら本書の刊行時期が遅れたために、『探偵小説の論理学』の方が先に刊行されたようである。
 兎に角、本書は文学上の新発見が目白押しの研究書である。19世紀の英国探偵小説に興味を持つ方は勿論、明治期の近代日本文学に関心を持つ人にも、一読の価値がある本である。