ストロベリーソングオーケストラによる演劇公演「密室のテキスト」に

ツイッターでの書き込みは、セリフだけでした。
誰が、どのセリフをしゃべるかがありませんでした。
結果的に、男性がしゃべるか、女性がしゃべるのか、私が想定していたものと違う場合が多々ある結果になりました。
まぁ、ツイッター劇の魅力は、こういう偶然性の要素を極限にまで高めるということなので、想定から外れることで、別の魅力が生じる結果となりました。

<いつからなのか。他人の視線を怯えるようになったのは……。闇のなかで光る瞳は、幻覚なのか。トラウマなのか。逃避のなせるわざだろう。私はいつしか見られることなく、見る存在になろうとしていた。屋根裏の散歩者、然り。箱男、然り。>
#15secretroom 2010年10月7日 22:28:33 webから
 
「屋根裏の散歩者」は、もちろん江戸川乱歩の作品です。ストロベリーソングオーケストラによる演劇だから、乱歩を投入することにしました。「箱男」は安部公房ですね。一度、mixiでの座長さんとのやり取りで、安部公房の話が出たように記憶します。
両者の共通点は、見られることなく、見るという点ですね。<他人のまなざし>ということで、共通項を考えるとき、サルトルの哲学を意識しています。サルトルですと、「他人のまなざしによって、石のように固まる。これは、疎外態(対他存在)ですね。」というようなことになります。
これだけ意識した上で、不安神経症的に、ホラーっぽく表現する。これですね。<逃避>と書いたとき、碇シンジくんを意識したかな。
と、書くと、私の作法が解りますね。ありとあらゆるものをシャッフルして、接合するやり方です。


時間は円を描いている。生成から始まり、祝祭を経て、やがて終焉へと向かう。しかし、全くの暗黒のなかには、純白のはじまりが胚胎されている。新しい再生を得るためには、完全なる死を経なければならない。そんなことを、この時計を見ながら、考えていたのさ。 #15secretroom 2010年10月7日 22:34:47 webから

大学生のとき、AOというフェミニスト理論家から宗教学を学んだのですが、そのときのテキストが、ミルチャ・エリアーデの『聖と俗』でした。
SF好きの人ですと、フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』に言及があったはずですし、笠井潔の『ヴァンパイヤー戦争』に、ルーマニア人の宗教学者として言及があります。
エリアーデは、宗教的人間と俗なる人間を区別し、俗なる人間は、それこそデジタル時計でもいいような俗なる時間を生きているけれども、宗教的人間は聖なる時間を生きているとして、時間の感じ方が違うというのですね。
で、キリスト教徒は、初めに天地創造があって、最後の審判に至るまで直線的に時間が進むと考えているけれども、それ以外の宗教では、円環的に進むと考えるのが多いというのですね。
例えば、わかりやすく春夏秋冬を例にとると、まず春がはじまり、次に夏にお祭り、秋になると枯れてきて、冬になると生命としては死に至るのですが、死を通過すると、再び春に芽が出て、見事再生するわけです。
円環的な時間のなかに住む人は、暗黒の死というのは、終わりではないのです。死は通過地点で、それを越えると再生がある。
私、神秘学マニアなのですが、秘密結社の入社儀礼もまた、死と再生を象徴的に演じます。一般社会を生きているときは仮の姿である。これから、結社員として聖なる時間を生きてゆくにあたって、一般人としての私は、象徴的に死ななければならない。と、お芝居なんですが、ナイフを突き立てたりして、部外秘の誓約をさせられたり、血の署名をさせられたりするらしい。知らないですよ。伝聞情報では、そうらしい。
こういった宗教学とか、神秘学での、特別な時間の感じ方というのは、文化人類学とか、記号論とかにも取り入れられて、一般化されています。日本でいうと、山口昌男さんとか栗本慎一郎さんとかがやっていたような学問ですね。
山口昌男さんですと、中心があって、周縁(マージナル)なものがある。周縁からはトリックスターが現れ、周りを攪乱してゆく。これが発展して、祝祭になる。結果的に、この祝祭は衰えゆく共同体に、活を入れ、再生させることに繋がる。
このセリフを書いたときは、こんなことを考えていました。



……と、まだ2つのセリフの解説しかできていないことに気づき、愕然。
今日はここまで。