小説『天啓の骸』~「薔薇十字制作室」アーカイヴ

<ウロボロス>の反転としての<天啓>を、<天啓>自体によって反転させるために。
RKを葬送したKKを、RK'によって葬送するために。

死國より、黒い薔薇を添えて。

 

 編集者の美加佐慶介が、八ヶ岳の棟方邸を訪れたのは、夕暮れ押し迫る4時半頃であった。
 美加佐は今度講壇社ノベルスから刊行予定の『ウロボロス超ひも理論』のゲラをとりだし、次の書評の対象にしてはどうかと持ちかけた。
 棟方は昨年の10月から「ポストモダニズム文学批判」と題し、講壇社の『メフィストフェレス』誌に連載を行っていた。
「棟方さんに、これを書評してほしいと願うのは、今度講壇社で<ウロボロスTRIBUTE>として、若手作家による天藤尚巳君のウロボロスシリーズを次ぐ作品を出そうと思うんだよ。天藤氏の天敵といえば棟方さんだから、まず棟方さんに読んでもらって、どう思われるのか、なかなか興味深くてね。」
 棟方は軽く笑みを浮かべながら、「天敵だなんて、僕はただウロボロスのような試みが、このように若手に引き継がれるとき、ミステリーの構築性が軽んじられて、ミステリー文化の水準が低下するのを危惧しているだけであってね。」といいながら、手渡されたゲラをぱらぱらとめくっていたが、ふっと手の動きを止めた。
「ところで、美加佐さん、この作者は名前を明記していませんが…。」
「そうなんだよ。これは作者不詳のままで出そうと思うのだよ。作者不詳のままで出すというのは、別に珍しいものではない。ポーリーヌ・レアージュだって偽名だし、バタイユもロード・オッシュという名前で、エロティシズム文学を出していた。この作者は大文字の作者を消すため、作家活動の初めから最後まで、名前は出さないし、顔写真も出さないと言っている。なにかしら神秘めいて、それ自体、売りの材料になると思うんだが。」
「だめですね。」棟方はにべもなく否定した。
「名前を出さないというのでは、批評における相互批判が不可能になる。僕は自分の名前を隠蔽して、陰に隠れて、他人を攻撃するような卑劣にして、弛緩した精神の持ち主など認めませんよ。」
 棟方はそういって、手元にあった水割りで喉を湿らせた。
「で、<ウロボロスTRIBUTE>ということは、こういう屑のような作品を他にも出すということですね。美加佐さん、現在のミステリー批評の世界で、私を敵に廻すということがどういうことか判っていますか。」
 美加佐は、棟方の機嫌を損ねたことに困惑しながらも、しぶしぶ<ウロボロスTRIBUTE>をシリーズ化することを認めたのである。
 それによると『ウロボロス超ひも理論』以外にも『ウロボロスの統一場理論』だの『ウロボロス不確定性原理』だのが予定されており、いずれも無名の新人が匿名で出すのだという。そして、その企画は小説にとどまらず、メフィストフェレスコミックスの新刊としても予定しているという。
「実はね。ここだけの話なんだが、作者不詳にするというのは、他に理由があってね。講壇社の文才のある複数名のプロジェクトチームの共同作品なんだよ。ウィリアム・S・バロウズのカット・アップ/ホールド・イン・メソッドによって、ドクター・バロウズというパソコン・ソフトが生まれ、素人でも既成のテキストをぶち込めば、バロウズ級の文学を大量生産できる時代になってしまった。無論、仲伊さんの文学に親しんできた私にはそのようなところまで認める気にはならないがね。あっは。それでも、自分と同じように文学とは何かがまがりなりにもわかっている者のプロジェクトチームならば、ある水準はクリアできるはずだ。トマス・ピンチョンだって一時は少数精鋭の共同チームではないかといわれていた時期があったし、文学以外では数学者のプリバキだってそんなことをいう人があったものだ。とりあえず、先入観はなしにして、だまされた
つもりで読んでほしい。編集者としての私の眼に狂いはない。棟方くんだって、それは認めているはずだ。」
 次第に美加佐は、いつもの強引なペースを取り戻してきた。美加佐の手元のグラスは、空になっていた。
「この作品は、ミステリーとして、極めてエレガントなトリック解明を行っているばかりか、私の眼に狂いがなければ、普通小説としても三嶋の『マスクの告白』に匹敵する作品だと思うんだよ。共同作品としては、奇跡的なレベルの達成だと思う。この調子で、第二作、第三作といけば、究極の作品も夢ではないと思う。」
「究極の作品?」その瞬間、棟方の眼に、憎悪の感情が走ったのを、美加佐は見逃さなかった。

 いつから<究極の作品>という言葉に、棟方が過剰反応するようになったのか。
 棟方は日本を離れ、パリのサン・ジェルマン・デ・プレで生活していたことがある。
 棟方はそのデビュー作品『暗い天使』の中で、主人公の生活を<簡単な生活>として表現した。<簡単な生活>とは批評家明山舜の文章から借用してきた言葉で、最低限の命をつなぐだけための食事場所と寝場所の機能をはたすだけの屋根裏部屋生活を、そう表現したのである。それは、観念的思考を削ぎ落とし、存在の根底を見つめなおそうとする主人公の姿勢を表現していた。
 サン・ジェルマン・デプレでの棟方の生活は、その主人公の<簡単な生活>を地で行くような生活であった。
 日本にいた頃、棟方は「黒樹龍思」と名乗り、新左翼の活動家・理論家として活動を行っていた。
 棟方の所属した党派は、反安保を唱えていたが、棟方はその闘争を通じて<究極の革命>を志向していたのだと思う。
 棟方は幻想としての国家の死と、共同体の死を望んでいた。それが彼自身が生まれてきた意味を与えてくれるように感じていたからである。
 しかし、反安保の烽火は潰され、新左翼は日本での革命の不可能性から、第三世界革命論が議論され、阿達征雄により『赤軍~PFLF・世界革命宣言』が撮られ、あるものはパレスチナ解放戦線の彼方に飛び立っていった。
 そして日本に残った棟方らの党派は際限のないテロリズム内ゲバの中に突き進んでいった。
 棟方の所属する党派は、硝酸、硝酸カリウム、修酸塩アンモニウム、硫黄、活性炭といったものを入手しては、なにやら組み立て始めた。
 棟方は党の理論家として、そのような汚れ仕事には手を出さず、ひらすら黙示録的なディスクール(言説)で、真の革命家は極限の死と破壊の徹底の果てに誕生することを予言し、扇動活動を行っていた。
 だが、その果てに現れたのは、未来のヴィジョンなき一切の総破壊であり、血で血を洗う査問と殺戮であつた。
 棟方が日本を離れたのは、新左翼の活動に限界を感じたためであった。
 そのとき、彼は「黒樹龍思」という名前を棄てることにした。正確に言えば「黒樹龍思」という名前を私に譲ってくれたのだ。
 棟方はバリの屋根裏部屋で「観念論」という完成の見込みのない論文を書いていた。
 近代における共同観念からの乖離による自己意識の発現と、さらなるラディカルな観念の徹底化による党派観念の誕生。だが党派観念の背後には、現実の生活や肉体に関するルサンチマンの膿が隠されており、それゆえ民衆のための革命が、民衆の大量殺戮を正当化する観念の倒錯を生み出してゆく必然性がある。
 こうして、アンドレ・グリュックスマンに相当する仕事を、棟方は行いつつあったのである。
 棟方の理論では、観念のラディカル化の徹底をさらに進めると、党派観念の内部から集合観念がマグマのように噴出するという。集合観念とは何か。それは観念による観念の浄化。観念による観念の脱構築であり、反観念なのである。
 棟方は<究極の革命>という観念を棄てたわけではなかった。
 棟方は<究極の革命>にいたるすべての道を完全否定しただけである。
 埴輪豊の『至霊』は存在の革命を目指す小説である。
 埴輪もまた既成のマルクス主義の党派が、究極的に密告と査問、そして虐殺に至ることを知っていたが、<存在の革命>には別の道があると考え、<虚体>という奇想を編み出したのだが、棟方はそのような別の道の可能性をも否定した。
 棟方の集合観念論とは、革命を内部から阻止しうるということ、革命をぶち壊す際限のない暴力を肯定せよ、ということであって、マルクス主義とは別な革命の道を提示するものではなかった。
 たとえ、棟方が集合観念を電光石火のような革命であると強く言い張ろうとも。
 繰り返し、言おう。
 棟方は<究極の革命>という観念を棄てたわけではなかった。
 棟方は<究極の革命>にいたるすべての道を完全否定しただけである。
だからこそ、棟方はパリ在住時、マルクス主義とは別な方法で<究極の革命>は可能として、天使的交換による生成変化を語る秘密結社<赤い生>の女性指導者と、その使徒で生前離脱を遂げたという中性的な印象のある青年を、理解不能の現前ということだけで死の世界に葬送することができたのである。
 棟方はサン・ジェルマン・デ・プレでの生活の中で、他人との接触を最低限度にしようとしていた。
 後年、精神医学の西塔玉樹が<共同体からのひきこもり>を主題にし、棟方の評論における師匠格にあたる東京の経堂に住む経堂源蔵が人は自立のため、自己を創るためにひきこもりが必要であると主張すると、棟方は自分もまたサン・ジェルマン・デ・プレの孤独な生活の中で、新しい自分を創り上げたと語った。
 棟方はルーマニアのミルチャという宗教学者を引用しながら、新しい自己の創造には、象徴的レベルでの死と再生が必要なのだと語ったのだ。
 サン・ジェルマン・デ・プレを居住地にしたのは、棟方も影響の受けたサルトリという哲学者の暮らす街であり、友人の富士田芳次が暮らす街だったからである。
 この友人と会う以外は、極端に他人と会うのを避けた。棟方はかつての会田林伍率いる政治的党派と完全に繋がりを絶つためであった。
 棟方のSF伝奇小説『超人伝説』で、後に魔流屈巣賊として描いたのは、会田林伍がモデルである。
 棟方はかつての仲間から完全に姿をくらました。
 姿をくらましただけでなく、かつての名前「黒樹龍思」を棄てた。
 こうして、棟方は自分の顔を消去した。
 ちょうどその頃、人類学者のカルタネタは、南米の呪術師ドン・ジュアンに呪術の修行を入門するにあたって、過去の自分の名前を棄てることを命じられていた。  
 ドン・ジュアンによると、現代社会での人々のアイデンティティは、本人の名前をキーにして社会的に登録されている。呪術師として生まれ変わるためには、この登録を抹消することが必要であり、根本デリートのためには、本人の名前を消すことが必要だという。
 棟方が行ったのは、過去のアイデンティティの抹消だったのである。
 ドス氏描く「地下生活者」同様、サン・ジェルマン・デ・プレのアパルトマンの屋根裏部屋で、棟方は泥のような孤独に自分を沈めていった。   
 棟方は自分が許せなかった。
 自分は直接手を汚さなかったが、他人に手を汚すように扇動したのである。
 その果てが、テロリズムであり、仲間同士での殺し合いであった。
 しかも、かつての仲間から逃れるために、棟方はかつての仲間を売ったのである。
 棟方は、自分が最低の卑劣漢であると思った。
 そして、自分自身を仮想敵にして、思考のシャドゥ・ボクシングを何度も繰り返した。
 それでも棟方が自殺を選らばなかったのはなぜか。
 棟方は、徹底した自虐にふけりつつも、自分の奥深くに際限のない<超越>への欲望が死に絶えることなく、とぐろを巻いているのを感じていた。
 それは恐るべき巨大な欲望であった。
 棟方は徹底した否定の果てに、否定できない「本当のわたし」を発見しようとした。
 棟方のオカルトへの関心は、「本当のわたし」探しを目的にしていたように思う。
パリで、私が棟方と知り合ったのは、隠秘学中心の「東方書店」に置いてであった。
東方書店」では、パルケルススやアグリッパ、サン・ジェルマンにエリファス・レヴィ(アルフォンス・ルイ・コンスタン)の著作や、『レゲメトン』、『ソロモンの大いなる鍵』、『ソロモンの小さき鍵』、『アブラメリンの魔術』、マクレガー・メイザースの『ヴェールを脱いだカバラ』などが並べられた古書店のフロアと、シュルレアリスム実存主義を中心とした新刊書のフロアからなり、オカルティズムと現代思想の探求者には、よく知られた書店であった。
 私はその当時、日本を離れ、バリで異端カタリ派の研究を続けており、「東方書店」の主人とは懇意であった。
 棟方の姿は「東方書店」によく現れる謎の日本人ということで、気になってはいたが、その当時の棟方は厭人症であったし、私も個人主義による自由を満喫していたから、お互い声をかけることもなかった。
 あるとき、棟方は探し物をしていて、「東方書店」の主人をアルビジョワ十字軍とカタリ派のことで、質問攻めにしていた。
 そのとき、「東方書店」の主人からカタリ派のことなら、この人の専門だと、棟方にたまたま居合わせた私を紹介したのであった。
 棟方はシモーヌ・ヴェイユのことを調べていて、ヴェイユグノーシス主義を肯定していたことを立証しようと考えたのだという。
 ヴェイユカタリ派に関心を寄せていたことは判っているため、カタリ派グノーシス主義が影響していることが証明できれば、ヴェイユグノーシス主義に肯定的な意見を持っていることが立証できるというのである。
 棟方がグノーシス主義に関心を持ったのは、それが「本当のわたし」を引き出し、全面肯定する思想だからだそうである。
 棟方はあまりはっきりと自分のことを語らなかったが、ヴェイユを非暴力による<絶対の革命>の探求者と見ているようだった。
 そのことから考えて、私は棟方がなんらかの暴力的な政治運動に関係した過去を持つ人間であることを嗅ぎ取った。
 私はアルビジョワ十字軍とカタリ派に関する参考文献を何冊か棟方に紹介するとともに、現在入手不可能な文献を持っているので貸し出してもよいことを伝えた。
 こうして、棟方は私の研究室に訪れることになったが、これは大きな間違いのはじまりだった。
 あのとき、私の研究室に出入りしていた2人の生徒、ルナールとジベールに引き合わせなければ…。
 棟方と私の運命は、大きく狂い始めていた。

「先生のお会いになられた棟方さんという方は、カタリ派グノーシス主義と結びつけて考えられたわけですね。13世紀から14世紀のカタリ派は、10世紀のボゴミール派の影響を受けていますが、ボゴミール派に影響を与えたのが何なのかが問題ですね。有力候補としては、マニ教が挙げられますが、マニ教は4世紀から8世紀、この間には明らかなミッシング・リンクがあります。」
「で、君はその間をどう繋げる考えなのかな。」
アルメニア教会派の一つがゾロアスター教と習合してできたパウロス派が有力とは思うのです。でも、仮説の域を出ませんが。」ルナールは、そこで言いよどんだ。
「それよりも、先生。その棟方さんは何時ごろ、いらっしゃるのでしょうか。」ジベールが二人の会話に口を挟んだ。
私は「そうそう、そろそろだと思うんだがね。」といって立ち上がろうとしたとき、ノックの音がした。
「失礼致します。棟方です。」
 棟方は紺のブレザーに、白のスラックスという姿で立っていた。
「ちょうど、君を待っていたところだよ。」といって、私は棟方を研究室に招きいれた。
 そして、棟方に私の生徒のルナールと、ジベールを紹介した。
「ルナールは、私の生徒で、カタリ派テンプル騎士団を研究している。私のゼミでは、『赤と黒』に出てくるルナールよりも、マチルドに似ていると言われているが。否、これは聡明なという意味であって、高慢なという意味ではないのだが。」と言うと、私のことをルナールは一瞬にらみ付けた。
「そして、ジベール。彼はレンヌ・ル・シャトーと聖杯伝説について研究している。ルナールの弟分のように、いつでもルナールの後をついて廻る。ジベールはルナールを義姉さんと呼んでいるようだが、二人は他人だ。誤解のないように。」
 ジベールは、紹介されても、あたかも非在であるかのように透明な不思議な存在だ。
「棟方さんはシモーヌ・ヴェイユに関心をお持ちとか。」
「ええ、ヴェイユバタイユに…。」
バタイユですって?」ルナールの眼が輝いた。
「興味深いですわ。バタイユと秘密結社<アセファル>、そして<社会学研究会>。私はバタイユよりも、クロソウスキーの方に現代的な意味を感じてますが。」
 ルナールは明らかに棟方に関心を持ったようであった。
 私は机の中から、オク語で書かれた文献をとりだして、棟方に示した。
「これはコピーだから、返却は不要だ。これはオク語で書かれたカタリ派の文献だが、そこにカタリ派の二元論の性質に関する説明が詳細になされている。周知のとおり、各宗教の二元論は、それぞれ性格を別にしている。霊と肉、光と闇、物質世界と精神世界、善神と悪神、宗教によって二元論の色彩が微妙に異なる。だが、カタリ派と、グノーシス主義の関連を問題にするなら、現状ではこの二元論の仕分け作業を通じて行うしかない。この仕分け作業は専門家でも困難な作業だが。オク語については、ルナール君が詳しい。必要とあらば、ルナール君に協力させてもいい。ルナール君、いいね。」
「いいですわ。オク語によるカタリ派文献でしたら、私の研究にも必要ですし。」ルナールは棟方に微笑んだ。
「ルナールさんはカタリ派テンプル騎士団が専門ということですが、それに関しては、私も関心があります。カタリ派カトリックに異端として断罪され、1207年にアルビジョワ十字軍によって虐殺され、殲滅した後、カトリックカタリ派の聖地ラングドック地方に踏み込むと、そこにはカタリ派の財宝がなかったといいます。そこで、事前にテンプル騎士団が、財宝を安全な場所に移動したのではないか、と疑われているわけです。そこで、移動先として可能性のあるのが、レンヌ・ル・シャトーということになります。」
 さらに棟方は続けた。
「そこで問題となるのがベランジュ・ソニエールという人物なのですが、彼は1885年レンヌ・ル・シャトーの神父となりますが、教会は老朽化しており、6年間極貧と飢餓と闘いながら、教会の改修を行おうとしたといいます。ところが、彼に転機が訪れます。教会の古代西ゴート族から続く柱のくぼみに、4枚の羊皮紙を発見します。2枚に家系図、もう1枚にギリシア語で書かれた聖書の文字、さらに1枚に教会のかつての神父ビグーの告解の言葉。ソニエールからこの発見を知らされた司祭は、3週間ソニエールをパリに派遣します。ソニエールはある種の秘密結社の人物と接触を図り、さらにルーブル美術館である絵を模写したといわれます。3週間後、帰郷したソニエールは変貌を遂げていました。彼は自分と家政婦のための別荘をつくり、谷を見下ろす塔を立て、街に道路や水路をつくり、教会を豪奢に改築しました。しかし、この資金源はどこから来たものでしょうか。地区の教会は彼を追及し、罪に陥れようとしましたが、彼の行動はすべてローマ教皇により許諾され、無罪となります。彼は古くからの墓地の墓石や、古代
の碑文を破壊し、秘密を独占しようとします。彼のもとには、フランス文化相、オーストリア皇帝ヨーゼフの従兄弟ヨハン・ハプスブルグ大公といった人物が訪れたといい、底知れぬ力の所在を暗示します。また、銀行とも怪しげな取引を行っていたふしがあります。」
 一同は、棟方のよどみない説明に魅了されていった。
「ソニエールは、秘密を明かすことなく、この世を去り、ソニエールの財産を継承した元家政婦のマリー・デナルノーも、同じく秘密を明かすことなく、この世を去ります。したがって、これからの話は推定の域を出ないのですが、ソニエールの資金源はカルカソンヌの秘宝を探し当てたか、家系図をもとにイエスキリスト教の根源に関わる秘密を嗅ぎ出し、ローマ教皇と取引をしたか、どちらかと推測されます。」
いったん、言葉を止めた後、棟方は最後に自分の推論を述べた。
 自分としては、先ほどのテンプル騎士団によるカタリ派の財宝の移動という仮説と結びつけると、カルカソンヌの秘宝をソニエールが発見したとする方が整合性があるのですが。」
 そして、静かに棟方が微笑むと、ルナールもまた信頼の微笑みを返した。二人の間に、初めて魂のコミュニカシオンがなされた瞬間であった。

 ルナールの疑惑に満ちた不審な死と、ルナールの手帳の入手以来、日増しに私の中で棟方への疑いが深くなっていった。
私は実名で『カタリ派とリインカーネーション』や、記号分析学に関する翻訳を行いながら、「黒樹龍思」の筆名で創作活動にも手を染め始めていたが、今回『天啓の骸』というタイトルで棟方に関する小説を書き始めたのには理由がある。
 周知のように棟方には『暗い天使』から始まる代表作となるシリーズと、「天啓」シリーズという第二のシリーズがある。「天啓」シリーズは情況論的には天藤尚巳のウロボロスシリーズの向こうを張って出された作品だが、あくまで主題は<絶対の小説>、<究極の小説>に関する探求が主題となっている。
 私はタイトルを『天啓の骸』とすることで、棟方に関する<魂の解剖学>を企てようとしたのである。
 完成された段階で『天啓の骸』には、次のようなエピグラムがつけられる予定である。
「<ウロボロス>の反転としての<天啓>の、<天啓>によるさらなる反転のために。死國より、黒い薔薇を添えて。」
 無論、『天啓の骸』は、棟方による「天啓」シリーズのまがいものであり、その意味でパロディ小説と受け取られる可能性がある。私はカタリ派の問題を通して、棟方に知り合って以来、棟方が関心を寄せるミステリーに関しても、さまざまな議論を交わしたことがあるから、ミステリーが先行する作品に言及し、メタ・ミステリー化してゆく特性を持っていることは理解しているし、その過程で無数のパロディ小説が生み出されるのも必然性があると考えている。だが、『天啓の骸』は所謂キャラ萌えでもないし、やまなし・おちなし・意味なしのやおいでもないといっておきたい。『天啓の骸』は、もっと不快な、忌むべき小説なのである。ちょうど屍体の臭いを嗅いだ人間が本能的に顔をそむけたくなるような…。なぜなら『天啓の骸』は完成した段階で、棟方の思想の可能性の中心を明らかにすると同時に、コインの裏表のように、その限界をも測定してしまうからである。
 私はルナールの手帳をもとに、ルナールの謎に満ちた死に至るまでの棟方との交流を再構成し、その死に対してある仮説を提示しようと思う。
 これはルナール、そしてジベールの死に関する告発だが、単なる告発ではなく、その死の理由を考えるとき、棟方の思想的限界点が浮かび上がるようになっている。そうしてこそ、二人の弔いのための闘争として成立するのだ。

 ルナールの手帳は、極私的な内容から始まっていた。それを公開することは、躊躇がないわけではなかった。
 だが、棟方の思想の全体像を考えるとき、欠かすことのできない要素と考えられた。
 棟方は私と知り合いになった後も「観念論」を書き続けていたが、その内容は美的・エロス的・革命的次元において、現象学の方法を適用しながら、観念の倒錯を叩くという方向性を持っていた。だから、棟方の思想を問題にするとき、美的・エロス的・革命的次元にわたって考察を展開せねばならない。
 ルナールの記録は、ギリシア旅行(これは私やジベールも一緒だった南仏旅行に続き、二人にとって二度目の旅行にあたる)から始まっていた。

 ルナールはベッドの中で首筋を噛む癖があった。
「まるでヴァンパイアーのようだ。」棟方の口から言葉が漏れた。
 何度、苦痛と喜悦、天国と地獄を往還しただろうか。
 棟方はルナールの肩から背中を指先でなぞりながら、ルナールの中に<黄金の女>を見出していた。
 後年、棟方は『吸血鬼戦争』連作で、<黄金の女>を登場させることになる。
 棟方にとって、セックスとは超越的なものへの扉であり、至福への扉であった。
 棟方は学生のころに読んだC・Wの著作を思い出していた。C・Wは評論『局外者』で知られる新実存主義者で、その著作『性衝動のオリジン』の中で、C・Wはオルガスムに至る寸前で止めることを進めていた。天井桟敷の劇作家は、性解放の立場からC・Wのこの考え方に反発したものだが、棟方はC・Wのこの考え方は旧態依然のモラリスムからではなく、オルガスムに至る寸前で何度でも回避することで、極限的な悦楽が無限に持続するプラトーに到達することを示唆していると考えていた。したがって、棟方のセックスは、延々と執拗であった。
 棟方はアメリカのヘンリー・ミラーにも影響を受けていた。だから、あらゆるタブーは、踏み越えられるためにあると考えていた。だから、棟方はルナールとの間でも、さまざまな実験を行った。ソドミーもそのひとつであった。
 但し、棟方はライヒのように、あらゆる禁制の撤廃は考えていなかった。あらゆるタブーはタブーであるがゆえに、それを侵犯する価値があると棟方は考えていた。
 そして、最後に棟方はバタイユの思想の体現者となろうとしていた。
 極限的な悦楽が持続するプラトーのなかで<私>は崩壊する。オルガスムが「小さな死」と言われるのはそのせいである。
「エロティシズムは死に至るまでの生の高揚である。」棟方はバタイユのこの言葉を金科玉条にして生きた。
「あなたはベッドの中でも哲学を語る人なのね。」ルナールは呆れたようにつぶやいた。
 陽の光が射してきた。緑の中をすり抜けてきた光は、ルナールの裸身を浮かび上がらせた。
 時計は10時をすでに超えている。
 初めての出会いから、すでに9箇月を過ぎようとしている。
 棟方とルナールは、誰にも知られず、ギリシアを訪れていた。ルナールがギリシアの海が見たいと言ったからである。
「海を見ると、生命の流れということを感じるの。私の中を流れる古代からの生命の流れを。」
「綺麗だ。青い海も、光る風も、そして君も。」棟方はルナールを後ろから抱きしめた。
 棟方は、心の中のわだかまりが癒されるのを感じていた。
 いつしか棟方はルナールの前でだけは、心を開くようになっていた。

 しかし、棟方とルナールは、知れば知るほど、お互いのポジシオンの違いに気づき始めていた。
 出逢いの段階からして、その予兆はあった。棟方はバタイユを評価したのに対し、ルナールはクロソウスキーを評価したのだ。
 ジョルジュ・バタイユピエール・クロソウスキーは、ともにシュルレアリストの異端グループに位置し、ナチズムやファシズムが自分たちの野蛮な行為を正当化するのにニーチェの哲学を利用しはじめたとき、コントル・アタック(反攻)を組織し、アセファル(無頭人)を創刊し、ニーチェを頭(それは神学における神であり、国家にとっての総統のメタファーでもある)を切断する反哲学であると主張したのである。
 だが、同じ無神論とはいっても、バタイユが反「有神論」という形で、正面からの転覆を図るのに対して、クロソウスキーは神を複数化させ、「多神教」を導入するのである。(さらにいえば、そのころ注目されていたモーリス・ブランショは、神学の零神化を図るのである。)
 バタイユクロソウスキーも、ともにポルノグラフィーを書いたが、バタイユは正攻法で禁制を侵犯する非合法的な作品を書いてゆくのに対し、クロソウスキー貞淑な妻に不貞をさせ、自分はそれを覗き見るというような倒錯を描き、しかも、それを絵画や映画で反復して描くことで、いかがわしいシミュラクルを増殖させ、複数化させてゆくのである。
 棟方とルナールが完全に意見を別にしたのは、ヌーヴォー・フィロゾフ(新哲学派)をめぐってであった。
 棟方が日本にいたころ、新左翼系の党派に所属していたことは以前述べた。
 だが、ルナールもまた、68年の五月革命を経験した存在だった。五月の嵐は終息をし、時代は冬の時代を迎えつつあったけれども、ルナールは五月革命を通じて、友愛と平和を理想とする新しい哲学を持っていた。
 棟方はかつての学生運動について、その運動が連合赤軍事件に転化してしまうような必然性に気づき、マルクス主義を断罪したのだが、ルナールは五月革命を経て、ポスト・マルクス主義的な別な形の革命を志向するようになっていた。
 棟方にとっての連合赤軍事件にあたるものは、ルナールにとってはソルジェニーツィンの『収容所群島』の刊行だった。
 そのころから、<マルクス・レーニン主義ラーゲリ(収容所)の思想である>というヌーヴォ・フィロゾフの主張が、マスコミでも取り上げられるようになっていた。
 そして、哲学者のジル・ドゥルーズはヌーヴォ・フィロゾフの成功は、マーケティング戦略の成功を意味するだけで、彼らの哲学は二項対立に基づいており、哲学的に無意味であるとこき下ろしていた。
 ルナールの立場は、完全にドゥルーズ、そしてその協力者ガタリの立場に一致していた。
『アンチ・エディプス』が出たころから、ルナールはジベールとともに読書会を開き、討議を行ってきた。ドゥルーズガタリによる『アンチ・エディプス』は、世界を欲望する諸機械として捉え、欲望する機械同士の異種結合からなる連結から気狂いベクトルのような効果が発生すると説き、社会をアントナン・アルトーの『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』の物語をなぞりながら、原始土地機械、野蛮なる専制君主機械、公理系に縛られた資本主義機械として捉え、多種多様な方向に欲望を走らせ、トゥリー(樹木)状の権力装置を解体させ、リゾーム(根茎)状のネットワークでつなごうとするものであった。
 一方、棟方はもはやあらゆる革新思想が信じられないと語り、ヌーヴォー・フィロゾフの主張には正当性があると語った。
「では、権力に虐げられた人々を、あなたは見殺しにせよ、というの。そんなことに、私は耐えられないわ。確かに国家装置に対抗する革新勢力が権力を握ったとき、それが新たな国家装置に転化したり、独裁的な専制に転化したり、テロリズムニヒリズムが蔓延するかもしれない。でも、すべての革新勢力が、変質するとは思わないわ。仮に、すべての革新勢力が収容所群島を作り出してしまう理論的必然性があるとしても、罪のない子供たちが殺されたり、暴力で踏みにじられたりする社会を、私は受け入れることはできない。革新思想に問題があるのなら、問題箇所をフィードバックして修正すればいいのであって、あなたのように権力に虐げられた人々がいても、黙殺するというのでは、権力に魂を売ったのも同然だわ。」
「君はいまでもバスク解放問題に同情的だし、フランスで進められている原子力政策に反対する運動の指導者でもあるわけだが、バスク解放戦線が爆弾事件を起こして、罪のない人間を殺傷しているのをどう考えるのか。また、そういったテロリズムは最終的に無限の専制の方を志向しているとは思わないのか。君は権力に虐げられた人間がいるとき、同情するのがヒューマンだと考える。しかし、僕にはそういったモラルが信じられない。そういうモラルは、弱者の強者に対するルサンチマンだし、君のそういう同情心が君をテロリズムに近づけてゆくことがわからないだろうか。」

「わたしはテロリズムに反対だし、それが無差別に人を殺傷することに強く反対します。しかし、そういった暴力が発生するところには、不正や抑圧があるのだし、不正や
抑圧をなくさないかぎり、根本的な解決にならないと思うのです。わたしが関わっている政治運動は、暴力やテロルではなく、理性とコミュニケーションを通じて段階的に問題を解決してゆくグループだけです。」
 棟方は前髪をいじりながら、黙り込んだ。棟方は考え始めると、周りの喧騒すら耳に入らなくなる。完全な精神集中が行われるのである。
「君は<天使会>という秘密結社のことを聞いたことはないか。」棟方はそうぽつりと言うと、今度はルナールが驚いたように見開くと、今度は押し黙ってしまった。
 そして、ルナールもどうすればいいかと思案するように、天井を見上げたのである。

 あれは一体なんだったのだろう。
 空を見上げる棟方の顔に、五月の冷たい雨が降りかかった。
 自分が追い求めてきたもの、そして死と血の匂いのする革命を通じても達することのできなかったもの、それに至る糸口をあの女は知っている。
聖性について、思弁的に語ることならば、ある程度の練習をつめば、誰でもできる。
だが、体験として聖なるものに届くには…。

 <天使会>について問いただした後、ルナールは思案した後、「いいでしょう。貴方にもいつか話すべきと考えていましたから。ただ、今直ちにではなく、ジベールとともに。なぜなら、わたしたちにとって、ジベールは特別な存在なのですから。」と語った。
 ルナールは、告白に相応しい特別な聖域を指定した。
 俗なる世間から隔絶し、聖なるものを結界で封じ込めた異次元。
 だが、その場所を明かそうとはしなかった。
 棟方はいつものようにルナールのアパルトマンを訪れるだけで良かった。
 だが、いつもと違い鍵はかかっておらず、ルナールの姿はなかった。
 茫然としてたたずむ棟方の背後に、いつの間にか黒服の二人の男が立っていた。
 黒服の男は、恭しく一礼し、ルナールに頼まれてきた者であることと、これからルナールの待つ森に案内するので、アイ・マスクをつけて欲しいといった。
 棟方は黒服の男の殺気から、抵抗することは無駄であると判断した。
この男たちは、時と場合によっては棟方を気絶させてでも、ルナールの待つ場所に連れてゆくに違いない。
 棟方は左翼活動を通じて、訓練された武闘派の持つ独特の雰囲気を知っていた。
 彼らには何かしら鉄の匂いがするのだ。
 棟方は言うがままにアイ・マスクをつけさせられ、マンションの前に止められた車に押し込められた。
 マンションを出たとき、ぎらつく太陽の日差しが当たり、じっとりと汗がにじんだ。
 車の中でも、棟方は冷静さを失わなかった。
 車両の傾きや、音から、棟方はカーブをどちらにまがったか、必死で考えようとした。
 だが、道が解らないようにわざと迂回するのか、しまいに分からなくなってしまった。
 ぎらつく太陽だけが、容赦なく、照りつけ、次第にどこまでが現実か、どこからが夢なのかすら、分からなくなってしまった。

<ルナールについて私が知っている二、三の事実とは…>
夢とも現実とも区別のつかない曖昧な世界の中で、棟方の意識は同じ質問を反芻し続けた。
<ルナールについて私が知っている二、三の事実とは…パリ第一大学の学生であり…『カタリ派とリインカーネーション』や、『プルースト論~欲望機械と同性愛』でしられるH教授の門下生であり…ゴダールの『中国女』を見て「ヴェロニクは私だ」と叫んだマオイスト(毛沢東主義者)であり…好きな言葉はええと、なにだっけ…そうそう、「造反有理(反逆は正しい)」であり、常に教条主義と修正主義の二つの戦線で戦っている学生運動家であり、『資本論』を第二章から読めといったアルチュセールをも修正主義者として、斬り捨てていた。彼女は闘士…ヴェトナム反戦平和運動にも深くコミットしており…反核エコロジストでもあった。現在、ラングドッグで進められている原子力発電所計画にも、反対の論陣を張っていた。オルタナティヴ運動の某機関紙で発表されたルナールの論文は、「核廃棄物の処理方法の問題点を鋭くついたもので、現在、核廃棄物の安全な処理方法が確立されていない以上、将来的に安全な処理方法が確立されることを前提に話を進めるのは、将来の技術の進歩に対する妄信であり、科学的な議論
とはいえない」というもので、核開発をすすめる保守派や産業界の神経を逆なでするものだった。ルナールはベナールとともに行動しており、ベナールの他にも幾人かの熱心なシンパを引き連れていた。彼らの名称は、それは公然としたものではないのだが…私はシンパの中の一人から聞き出すことができた。その名はア・ヴィ・ルージュ…赤い生…ルナールの生きた鮮烈な赤…『毛沢東語録』のペーパーバックの赤…愛と革命と…そして、なによりも生命の赤…ルナールは愛していた…その赤を…そして、私はルナールを愛していた…愛していたかった…だが。>
 棟方の前に、ルナールの姿があった。だが、赤い炎で、その顔は揺らめき、いつもとは違う顔があった。棟方には、それがなにかしら底知れぬ深淵をたたえているように思われた。
「お待ちしておりましたわ。」なにか車の中で嗅がされたのか、頭がずきずき痛んだ。
「貴方が<赤い生>の存在に気づいたことは判っていました。いずれ、この日が来ることも。貴方は独自の調査で<赤い生>は歴史の表面に浮かび出た結社の政治的部分に過ぎず、その実体が<天使会>にあることを知りました。しかし、<天使会>はうわさ話に現れる俗称に過ぎず、<天使会>を追いかけても、貴方の追い求める<天使会>とはまったく異なる無数の個人サークルや愛好会にしか届かないようになっています。いずれ、テクノロジーの進歩によって、私たちは電視的なハイパーテクストを共有するかたちになるでしょう。しかし、ホログラムのような電視的ハイパーテクストをさまざまな形で検索しても、ニセの情報しかつかめないようになっているのです。はっきり言っておきましょう。<天使会>という名称は、探求者のミスディレクションを誘発するために撒き散らされたデマに過ぎません。」
 ルナールは、蝋燭の灯る祭壇から、棟方に歩みよった。
「だから、私は<天使会>と言い出した貴方を完全に無視することもできたのでした。それをしなかったのは、貴方もこのプロジェクトに参加して欲しいと願ったからです。」
 ルナールは優しく微笑んだ。
「貴方は昔から<絶対>の彼方にダイビングすることを夢見た人です。貴方は政治的な人ですが、政治的である前に、一種宗教的な方です。それは、キリスト教などの既成宗教への帰属を意味しません。貴方が獣のように、制度や権力を嫌い、キリスト教を牧人=司祭制権力と呼んで、毛嫌いしていたのを知っています。貴方の関心は、秘教に向かっていました。エッセネ派精神主義グノーシス主義キリスト教イスラムスーフィーの教え、道教に伝わる練丹術、チベットの金剛乗仏教…制度化した公教の表面的な違いとは別に、貴方は秘教のうちに人類共通の魂のアールを見出せると考えていました。」
 そこまで言うと、ルナールは表情を硬くした。
「しかし、貴方は<絶対>の彼方にたどり着いてはいないし、貴方のような思考では<絶対>に永久に達することはない。」ルナールの表情は、哀しさを帯びていた。
「貴方は性急すぎるのです。<絶対>にたどり着くには、<絶対>の彼方にダイビングしたいという渇望自体を棄てなければ。私は貴方を救いたいのです。<絶対>に恋焦がれながら、<絶対>にたどり着けず、自分を傷つけている貴方を救いたいのです。だから…私は貴方を迎え入れたいのです。<天使会>というダミーの世界でなく、<薔薇十字啓明会>へ。」
「薔薇十字啓明会?」棟方は混濁した意識の中でつぶやいた。
「そうです。<薔薇十字啓明会>です。政治的秘密結社<赤い生>は、その理念を表現した行動的部分に過ぎず、<薔薇十字啓明会>の認識にたって魂の学びをしないと意味がないのです。今世紀はマルクスによって経済的存在としての人間像が、フロイトによって無意識まで広がる性的存在としての人間像が注目されましたが、これらの認識は一面的なもので、これらの認識をもとに革命をはかっても、ゲーテスピノザのような人間は誕生しません。薔薇十字とは、いうまでもなくクリスティン・ローゼンクロイツによって始められたfraternitatis rosae crucisのことであり、キリストの十字とパラケルススの薔薇の結合体のことです。私は<薔薇十字啓明会>のもとに、今世紀中に大きく三つに分裂している霊統をひとつにまとめ、魂の本質に沿った文学や芸術を開花させるとともに、政治や経済の構造も変えてゆきたいのです。私が注目している霊統とは、第一にロシアの東方的グノーシス主義であり、ここにはグルジェフウスペンスキーが該当します。場合によってはラスプーチンの例も参照する必要があります。第二に、マダム・ブラバツキーの始めた神智学の霊統があります。ここにはルドルフ・シュタイナー人智学の
流れも含まれ、仏教に人智学アプローチをしたヘルマン・ベックの研究にも注目しないといけません。第三に、英国黄金の暁会の儀礼魔術の霊統があります。ここにはマクレガー・メイザースや、クロウリーダイアン・フォーチュンがいますし、なにより儀礼魔術のすべてを公開したイスラエル・リガルディーがいます。私はこれらを統合し、秘境的なスクールをつくろうと考えています。」
「そして…」ルナールのそばにジベールが音もなく近づいた。
「私たちの成果が、ジベール。生前離脱を遂げた来るべき天使なのです。」
 ジベールは身にまとっていた白い布を脱ぎ落とし、上半身をあらわにした。
 そこに現れたものは、日に焼けていない白い肌。
 胸には、巨大な鷹の刺青で血がにじんでいた。
「キング・フェニックスは、今ここから飛び立つのです。」
 その瞬間、胸の刺青が羽ばたくように浮かび上がった。

「君は私のような思考では、<絶対>に到達することはないという。では、私のような思考の陥穽とはなんだろう。」
 棟方は声を搾り出すように、ルナールの眼を見て語った。
「貴方は黒樹龍思という名前で活動していた頃、大衆叛乱と結合した持久的権力闘争としての人民戦争に賭けようとした。そして、資本主義という巨大なシステムの外部に立つ怪物として、自己規定しようとした。だが、この企ては、マルクス主義的解放戦線が、無際限のテロリズムを正当化し、無限の抑圧体系を造りだしてしまうというパラドックスに直面する。そのため、貴方はマルクス葬送派として転向し、黒樹龍思というペンネームを棄てるに至る。今度は恥辱にまみれた存在の根底に降りてゆき、現象学オントロジーに立って、空中に浮かぶ観念の伽藍を壊そうとしはじめる。貴方の頭の中は、マルクスに変わって、今度はバタイユが占領するようになる。だが、巨大な社会システムの外部に立つ怪物として自己規定するスタンツだけは変わらない。貴方はバタイユの普遍経済学の理論を、構造とその外部の弁証法に立つ理論であるとする解釈を拒否し、バタイユ弁証法を廃滅してゆく反弁証法だと主張し始めた。確かに、バタイユのねらいはそこにあったかも知れない。しかし、客観的な社会学的な視点からみるならば、貴方の理論は資本主義の外に立っている怪物を気取るロマンティストに過ぎない。その理論は<物自体>の根底、ラカンのいうところの<現実界>に到達することはない。せいぜい<想像界>をかき回す程度にすぎない。資本主義というシステムは、システムとしての自己を解体してゆくシステムなのだから、貴方の異端的ロマンティシズムもまた単なる消費財でしかない。怪物であることは、自己の差異化をつきつめることであり、結局は消費財としての自己の付加価値を高めるにすぎない。怪物であるという質的な価値は、資本主義の前では直ちに貨幣という量的価値に翻訳され、無毒化する。だから、貴方が外にいると主張するとき、貴方は中にいることになる。そして、資本主義は無傷のままに残り、資本主義の公理系は維持される。こうして、利益と結びつく行為だけが評価され、そうでない行為は無価値で意味がないとされ、嘲りの対象となる。はたして資本主義の前でも、徹底した外部に立つことは可能なのか。徹底した外部とは、内部と外部の二項対立のさらなる外部なのだから。」
 さらにルナールは、棟方の問題点を突く。
「貴方は怪物になることは出来ても、天使になることはできない。天使とは怪物を超えた怪物なのだから。つまり、天使は差異の体系からなる意味のマトリックスをすり抜けてしまう特性がある。私たちは天使教育を行い、メンバーひとりひとりを天使にすることで、自己解体する資本主義という巨大なシステムをすり抜けることができると考える。資本主義の公理系は、利益と結びつくという一定方向の生成しか認めない。しかし、私たちは各人に天使教育を施し、個人の特性を生かし、伸ばすことで、多種多様な生成を肯定し、最終的に資本主義の方向性を多方面に広げることができると考える。天使は媒介者であり、神と人を繋ぐ中間者である。天使の位置は、仏教で言えば菩薩と人の間を媒介する阿弥陀如来の位置に相当する。天使という媒介者をつうじて、人は神に近づくことができる。天使は、錬金術でいえば、金と鉛をつなぐ賢者の石に相当する。貴方は私たちの催眠誘導によって、ドラッグによらずして、変性意識状態にある。私たちは催眠誘導を蝋燭の炎や、お香の香り、そして揺らめく図形などを使う。こうして、
貴方は<夢>と<現実>の狭間に置かれている。チベットの導師は、こういった中間状態をバルド、中有と呼んでいる。人間が死んで、生まれ変わるまでがバルドであり、さらにいえば人が生まれてから、死ぬまでもバルドに該当する。貴方がいま置かれている<夢>と<現実>の狭間もバルドである。バルドは<存在>と<非在>の中間であり、天使もまた<存在>と<非在>の中間である。しかし、今の貴方には「中間性の知性」がないから、<存在>と<非在>の間を捉えることができない。だから、私たちの天使教育の成果であるジベールの奇蹟も、貴方は<見る>ことができない。貴方は固定観念に縛られており、貴方が見るものは<存在>か、<無>か、どちらかである。私たちは、催眠誘導で得られる向こう側の世界がリアル・ワールドだとは思わない。かといって、私たちが今いるこの世界だけが唯一のリアル・ワールドであるとも思わない。私たちの教えは、それらに釘づけにならないこと。着地しないことなのです。」
 ルナールの議論は、棟方のウラ日本史観にも及んだ。
「貴方は日本の歴史についても、独特の史観を語ってくれたことがあった。それは縄文人解放闘争を軸とするウラ日本史観だった。これは皇国史観の陰画であり、黒い日の丸を基にしたもうひとつの史観であった。そして、それをもとにSF伝奇小説を書きたいという夢も聴いた。貴方の史観はとても興味深いものだったが、皇国史観がだめなのと同じく、ウラ日本史観も、正統の考えを反転しただけで、そこに釘さされている限りにおいて、全然思想的には評価できない。弥生人の侵略やATL(成人性T型白血病)によって滅びの道をたどった縄文人に味方しても、彼らが権力を握ったとたんに、全くの別物になるでしょう。また、彼らが権力の奪取に至らなくても、小型の国家装置をつくり、小さなカルトやセクトを作ったならば、きっとそこで虐殺や拷問が行われるでしょう。私は予言します。貴方はマルクス主義の地獄のようなテロルから逃れるようにバリにきたけれども、貴方の縄文人解放闘争を描いた小説を読んだ日本人は、やはり間違ったカルトを築き、犯罪を行うということを。」
「貴方の思想のバックボーンにあるジョルジュ・バタイユは、マルキ・ド・サドの同様のヴィジョンをもとに議論を展開している。マルキ・ド・サドの場合、正常な社会というものがきっちりとあって、それを侵犯するものとして反キリスト的な倒錯的世界があり、正常と異常の境界線がはっきりしている。マンディアルグもサドのヴイジョンをもとに、『城の中のイギリス人』を書いているけれど、これもまた倒錯的な行為を展開するために、正常な社会と断絶した城の中という異空間を設定している。しかし、正常に対する異常ということで二項対立の図式が出来てしまうと、そこから先は退屈な反復しかない。悦びとは別な苦力のノルマのように。そして、その退屈な反復を見据えていると、マルキ・ド・サドの反キリストは、確かにその当時の啓蒙思想リベルタンの影響を受けた無神論を標榜しているけれど、実は反有神論であることが理解されてくる。つまり、眠れる神をたたき起こすために、反逆する偽悪人であるということが。だから、私の眼からは、バタイユもサドも、過激なようにみえて、人間の欲望を安全な図式に回収してしまう文学機械にみえる。」
 ルナールの文学論は、H教授の影響を受けていて、文学作品を文学機械と見做し、文学機械との読者の異種結合から、意味が産出されると考えている。
「それに対して、私の思想のバックボーンには、ピエール・クロソウスキーがいて、シャルル・フーリエのヴィジョンをもとに議論を展開している。フーリエは貴方のような元マルキストには、空想的社会主義者として捉えられていると思うのですが、シュルレアリストに注目されたような奇想を持っていた。フーリエマルキ・ド・サドとは違い、正常と異常の二項対立がない。すべては異なる嗜好を持つ秘密結社で作られていて、倒錯と倒錯が競い合い、さらなる異常な例外を生み出し、加速させる世界になっている。シャルル・フーリエは『四運動の理論』を書いていて、社会的、動物的、有機的、物質的の四つの運動から、宇宙の始まりから終末までを途方もない運命計算を展開させながら描き出し、文明のはじまりの未開のうちに、その後展開される未来や終末を幻視している。そこでは、異なるもの同士が異種結合を繰り返し、ほどんど荒唐無稽に近い偏奇を誕生させてゆく。最終的には惑星間の性愛でらくだが生まれるに至ってしまう。フーリエは自給自足の農村家庭組合(ファランジュ)を考え出した人だけれど、弟子たちはフーリエの奇想を理解せず、もっと変な『愛の新世界』を隠してしまった。しかし、強度(アンタンシテ)をはらんだ幻想の無限増殖を図るフーリエの理論こそ、システム論的に開かれたものだと思う。少なくとも、マルキ・ド・サドのように、悪の倒錯行為を為す悦びを延命させるために、神学システムの延命を裏で期待するような思考はしない。」
「だから…」ルナールは棟方の思想に、容赦ない断罪を行おうとしていた。
「貴方の思想は、プレモダンな超コード化された専制君主社会に対してならば、ある程度のインパクトがあったかも知れない。しかし、共同主観的存立構造を支えるゼロ記号がない資本主義という脱コード化社会に対しては、その反抗はなし崩し的に無害化されてゆくし、下手をすると資本主義のモダンに対して、ブレモダンな超コード化を要求することになりかねない。つまり、貴方の思想は、意味がないばかりか、愚昧ですらある。」
 そして、ルナールは現在の自分の立場について語り始めた。
「私は<薔薇十字啓明団>を、小型の国家装置にする意志がない。あくまでも戦争機械として、国家装置や、心の中の抑圧装置に対して闘うための拠点になればいいと考えている。無論、秘密結社の指導者には、権力志向の者もいるし、政治的な圧力団体を目指すフリーメイソンのような秘密結社もあれば、暴力革命をも肯定するイリュミナティーのような党派もある。しかし、それらは私の目指すものではない。<薔薇十字啓明団>は、昔フリーメイソンから本来の薔薇十字団のあり方に戻ろうというスローガンのもとに再度分化した団体なの。だから、フリーメンソンの位階制がまだ残っている。私は、この位階制を民主化すべきだと考えている。もちろん、薔薇十字の精神的理想は、崩すことはできませんが。そして、貴方が望むならば、私たちのために再度新しい貴方を見せてくれるというのならば、仲間として迎え入れようとおもうのです。」
 棟方はゆるゆると頭を上げた。
 今までどうしていたのだろう。世界がはっきりとした輪郭を描かない。なぜかそらぞらしくみえる。
 あたりを見廻してみる。
 机の上にはぼろぼろになるまで読み込んだ『無神学大全』、そして未だ執筆中の「観念論」の草稿。
 いつもどおりの屋根裏部屋ではないか。
 あれはなんだったのだろう。夢か現実(うつつ)か。
 なぜか手のひらがずきずきする。
 おそるおそる手のひらをひろげてみる。
 手のひらには十字の聖痕が。
 ああ。嗚咽とともに棟方は絶叫した。

 いつから<絶対>ということを意識するようになったのか。
 ドス氏の『黒塗家の兄弟』の無神論をめぐるプロとコントラの格闘のせいか。然り。
 三嶋幸雄の『豊饒の湖』における<絶対の小説>という観念のせいか。然り。
 埴輪豊の『至霊』における<究極の革命>という観念のせいか。然り。
 だが、それだけではないと考える。
 棟方が今まで親しんできた文学者サルトリ、カムュ、そして棟方はどうしたわけか幼い段階で父と死別している。
 このことはなにをもたらしたか。
 ひとつにはサルトリが『ことば』で述べているように<超自我>がないということをもたらした。
 父親とは家庭内で神や法の役割を果たす。
 これがないということは、自分が立法者になり、自分がそれを遵守するということを意味する。
「人間は自由の刑に処せられている」というサルトリの言葉は、ソルトリにこそあてはまる。
 第二に、カムュの場合、父の不在というテーマは最晩年の著作まで運命づけた。
 カムュは若くして交通事故死を遂げたが、最期の執筆中の作品は「はじまりの人」といい、父親のことを指している。カムュの場合、父親の死は幼い段階からニヒリズムとの精神的緊張を強いた。
 棟方の場合、この二つの問題が同居していた。
 実は、この物語の話者である黒樹もだが。
 棟方に対する愛憎の混じった感情はこんなところにもあるのかも知れない。
 三嶋が自衛隊本部で霊的かつ文化的国家防衛を訴えて自決したとき、三嶋の盟友澁佐和辰彦は「<絶対>を垣間見んとして…」というエッセイを書いた。渋佐和は、三嶋が関の孫六を自分に突き刺したとき、生と死を超える<絶対>を見ようとしたのだと断じた。もしも、生と死を超える<絶対>を見ることができるならば、そのとき死は脅威ではなくなり、ニヒリズムの冷たい調べを聴くこともなくなるだろう。そして、そのことを胸に抱いて、生きることも、死ぬこともできるはずである。
 キルケゴールは「自分がそのために生き、かつ死ぬことのできるイデー」を探求した。棟方も同じイデーを頭を壁にぶつけながら探求したのだ。
 棟方にとって、革命も小説も、そういった<絶対>に到達するための必要経路と思われた。
 神経とは、神の経路である。
 ドーパミンA10神経を流れるとき、われわれの身体は快楽を感じる。
 そして、棟方にとって<絶対>という観念こそ、興奮させるものはなかったのである。
 (このことは、今日の観点からすると、重要な問題を派生させる。「生と死を超える」とは、サリン等の化学兵器ニコラ・テスラ地震兵器による人類の滅亡を企てようとした忌まわしきカルトの教祖の著作と同じではないかということである。事実、棟方の縄文民族解放闘争を扱った伝奇小説群を読んだ人間で、そのカルトに入信したものは存在している。後年、棟方は自分の小説以上に読まれたという別の著作の著者を攻撃しているのだが。)

 棟方は翌日から精力的に<薔薇十字啓明会>について調査を始めた。
 国立の図書館で<思弁的フリーメイソン>とその分派活動に関する文献をあさり、東方書店でもさまざまな資料を入手した。
 また、<フリーメイソン>系の某フランス・ロッジにコンタクトを取ろうとした。その団体は、当方は各界で活躍する人々の横のつながりを大切にする社交団体であり、異端的な神秘思想を受け継ぐ秘密結社であるとか、なんらかの社会的革命をめざす政治結社というのは、興味本位なジャーナリズムが描いたデマであるとの公式見解を棟方に告げ、調査への協力はできないとした。棟方は<薔薇十字啓明会>の現在の首領の名前を知っていると告げたのみで、引き下がる他はなかった。
 変化が訪れたのは、数日後からであった。
「<薔薇十字啓明会>について知りたいことがあるのならば、来週の木曜日、<地下回廊>というバーに一人で来るように。目印は胸に金の羽のバッヂ。」とだけ書いたメモが郵便受けに入っていた。
 棟方は木曜が来るのを待ち、<地下回廊>に降りていった。
 薄暗がりを抜けると、まばゆいばかりの光があふれる赤い絨毯の世界があった。
 胸に金の羽をつけた男は、その店の片隅にいた。
 静かに目が合うと、その男は黙ったまま、視線で座るようにうながした。
 男は白い口ひげを生やしていたが、変装のようでもあり、棟方にはうさんくさく見えた。
 男は<薔薇十字啓明会>の現在の首領の名前を言うように、棟方に告げたが、棟方は拒否した。
 男は「只でとは言わない。いくらでだ。」と取引を持ちかけた。
 棟方が言うつもりがないことを知ると、男は別の取引を持ちかけた。
 その話によると、<薔薇十字啓明会>は、エノク語で書かれた<飛翔する巻物>という書物を所有しており、それは本来<フリーメイソン>が秘密の首領から与えられたものとして継承してきたものだという。ところが、第二次世界大戦中、<薔薇十字啓明会>が独立して分派活動をし始めたとき、裏切り者のジャン・ギベールが勝手に盗み出していったという。
 <飛翔する巻物>には、霊視・霊聴の方法や、アカシック・レコードの解読記録、召還魔術の方法、読心術と他人の思考を支配する方法、心霊的自己防衛、ジジル・マジック、タットワを用いた他界へのアストラル転移について書かれており、この書を所有するならば<絶対>の彼方に行くことができるという。
 男の取引内容は、<飛翔する巻物>を取り戻してくれるならば、一生遊んで暮らせるだけの財宝を提供するというものだった。
 棟方は、もはや男の話を聴いていなかった。
 男が提供するという億万長者の生活など、どうでもよかった。
 そのとき、棟方に<飛翔する巻物>という魔が憑いたのである。
 棟方は男と別れると、帰り道、ふらりと映画館に入った。
 映画のタイトルは、ホドロフスキー監督による『ホーリー・マウンテン』といった。
数人の物欲に憑かれた登場人物たちが、やがて聖なる山をめざすというもので、聖なる山には賢者が住むという。登場人物たちは、聖なる山の頂上を目指し、賢者を殺害し、聖なる知識を奪おうとする。映画は意外な結末を迎える。登場人物たちが、聖なる知識を奪おうとしたとたんに、これはつくり話であり、映画であるとして、映画のセットが暴露される。こうして、映画の中と、客席の境界がなし崩しにされ、主人公たちの問題は、わたしたちの問題であると判る。
 あとでわかったことだが、これはルネ・ドーマルの『類推の山』の映画版であるという。棟方の目指す類推の山は、ルナールが掌握していた。

 ルナールは大学内で<現代思想研究会>というサークルを開いていた。サークルは週に一回、木曜に開かれていた。
 ルナールとジベールは、それを<木曜クラブ>と名づけていた。
 <現代思想研究会>が、ルナールによるオルタナティヴな社会的実践活動の場である<赤い生>と、秘教的な結社<薔薇十字啓明会>のオルグの場に使われたことは、想像に難くない。<現代思想研究会>は、定期的に読書会を開いており、その日もルナールの提案でミシェル・フーコー編集の『エリキューヌ・バルバンの手記』が選択されていた。
 ルナールは<現代思想研究会>の場でも、挑発的かつ攻撃的であり、ゴダールの『中国女』でアンヌ・ヴィアゼムスキーが赤い『毛沢東語録』を振りかざし、アジテートするように、ルナールは『エリキューヌ・バルバンの手記』を振りかざし、以下のように語ったのである。

 「エリキューヌ・バルバンは、実在した両性具有者(アンドロギュヌス)であり、その特異性から惨めに打ち棄てられた生涯を送り、死後も医学によって注目すべき畸形として研究対象にされたのです。
 文学をひもとくならば、バルザックの『セラフィタ』のように、両性具有を聖化し、天使として描いたものがありますが、現実に地上を生きる天使は、人々の認識を揺るがす危険な存在として、常に排除の対象となります。
 私たちは日頃「男性/女性」という二項対立を軸にした認識方法をしていますが、ドゥルーズ=ガタリにならってn個の性という考え方を導入しなければなりません。
 前衛音楽家ジョン・ケージは、その著書『小鳥たちのために』の中で、きのこについて語っています。ケージは、きのこについてくわしくなればなるほど、わからなくなると語り、リンネに始まる系統樹による分類をすり抜けてしまうと言っています。
 リンネに始まる系統樹による分類方法は、onとoffの二項対立に基づいており、これをドゥルーズ=ガタリに習って、トゥリー(樹木)型の認識方法と呼ぶことができるでしょう。ところが、きのこや菌類は、トゥリー状の認識システムには収まらない複雑さを持っています。それは多種多様なだけではなく、常に生成変化する世界なのです。
 粘菌を例にとって考えて見ましょう。粘菌は胞子で増えるという植物の性質と、アメーバのように移動するという動物の性質を兼ね備えています。また、胞子状態ならば水分がなくとも生命活動をほとんど停止した状態でしばらく維持できますので、静と動、死と生の中間状態にある存在でもあります。このような動物と植物の中間状態にあるような存在は、トゥリー型のシステムからは常に排除されます。
 ドゥルーズ=ガタリは、トゥリー(樹木)状の認識システムに代えて、リゾーム(根茎)状のモデルを提示します。これは、中心がなく、二項対立による枝分かれもなく、菌糸のように絡まりあう世界です。しかし、こういった認識のパラダイムにこそ、エリキューヌ・バルバンのような存在が排除されることなく、生きられると考えます。
 トゥリー型の認識システムは、常に権力と結びついてきました。白人/黒人、理性/狂気、適法性/違法性…という具合に。
 ミシェル・フーコーは、『狂気の歴史』の中で理性と狂気の境界線について思考し、歴史的に狂気はそれ自体として実体を持って存在するものではなく、正常な社会を乱すものとして排除されて始めて存在するとして、理性と狂気の境界線の恣意性を明らかにしました。狂気の定義は歴史によって変動しますが、社会システムの維持と再生産に反するものが、常に狂気として排除されます。再生産とは、次世代に渉って同じ社会システムを作ることであり、出産と育児と教育を指します。特異な言語を操る詩人や、社会の再生産に貢献しない独身者の機械も、時代によっては排除の対象になります。
 ここで、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を想起してもいいかも知れません。そして、われわれの社会が、狂気や痙攣的な美を弾圧していないか、問いかけてみる必要があります。
 フーコーは解放療法を始めたピネルという精神医学者について語り、精神医学の完成によって、狂気の排除は一層人々の精神の中に組み込まれ、内面化されたと語ります。
 いまや、精神病院の内と外を反転させる思考が必要なのかもしれません。精神病院の外にいる一般人こそ、解放療法をほどこされている精神病患者であると。
 先程、トゥリー型の認識システムが、権力と共犯関係にあることを述べましたが、権力は誰が握っているかでなく、どのように機能しているかを問わなければなりません。権力は、社会をどのように効率よく管理できるかというエコノミーの原則に立って機能します。フーコーは『監獄の誕生』において、パノプティコン(一望監視体制)を取り上げます。これは囚人たちを管理するのに、最も効率的な方法です。しかし、さらにいえばもっと効率的な方法があります。権力の持つ監視の眼を、人々の精神の中に埋め込み、内面化し、自己を監視する自己という形にすることです。フーコーは、これを奇
妙な経験的二重体として捉え、これによって権力は省力的に人々を管理することができると考えます。
 アルチュセールは、超コード化モデルで考えているのですが、主体の形成には呼びかけが重要であると指摘しています。まず、メタレベルの君主からオブジェクトレベルの臣下への呼びかけ、次に臣下同士の呼びかけ、最後に臣下の自身への呼びかけ。こうして主体化=内面化=隷属化は完了します。
 資本主義の競争原理は、主体に立ち止まると追い抜かれるという疚しさを植え付け、内面化させます。資本主義は利潤の追求という一定方向の生成しか認めておらず、それに相応しい主体をつくり、社会を再生産するために学校が機能し、道から逸れるものを精神病院や監獄が矯正するようになっています。
 欲望は禁圧されているというより、むしろ常にかきたてられているというべきでしょう。しかし、その欲望は一定方向に流れるように、国家装置とそのイデオロギー装置によって、整流化されています。
 資本主義によって欲望が開発=利用=搾取されてゆく世界において、わたしたちは国家装置とそのイデオロギー装置に対抗して、ノマディック(遊牧的)な革命的戦争機械を組み立て、リゾーム状に多種多様な方向に欲望が流れるように戦闘を開始しなければならないでしょう。
 ここで、バタイユの『呪われた部分~普遍経済学の試み』について考えることは無駄ではないでしょう。再三繰り返してきたように、バタイユの理論は鍋蓋理論であり、システムという鍋蓋の下に、ぐつぐつと煮えたぎっているカオスがあるという考え方です。しかし、今述べたように、資本主義は欲望を禁圧しているのではなく、欲望を一定方向に整流化しているわけです。仮に超コード化された専制君主社会であれば、バタイユ理論はインパクトがありますが、資本主義下これを行うことは、逆にアルカイックな英雄崇拝待望論を招き寄せることになる反動的な考え方です。
 ここで『呪われた部分』に代えて、クロソウスキーの『生きた貨幣』を提示しておきましょう。ゴダールの『彼女について知っている二、三の事実』を待つまでもなく、わたしたちは、多かれ少なかれ、したくないことをして、生活費を稼いでいます。いわば自分を売って、死んだ貨幣と交換しているわけです。
 ところが、クロソウスキーは誰もが生きた貨幣となり、互いに交換しあえばいいと説きます。この考えは、インモラルですが、資本主義の彼方まで射程が届いています。欲望と価値とシミュラークルから成るこの教説は、未来の経済学の方向を、やがて規定するようになるでしょう。
 今日はどうもありがとう。次週は、現象学ジャック・デリダについて語り合いましょう。」

 棟方は<現代思想研究会>の後、ルナールと会う約束になっていた。
 今日のテーマは、フーコーらしい。現存在分析のビンスワンガーの著書の序文も書いているフーコーならば、ドゥルーズよりはまだ判る部類の思想家といえる。「外の思考」というフーコーのテーマは、自分と問題を共有するところがある、とさえいえる。
また、マルクス主義を始末するという方向性も、自分と一致している、と思う。しかし、通時態よりも共時態を重視し、エピステーメー地殻変動をもとに、マルクス主義と人間中心主義を始末するフーコーの方法は、自分とあまりに違いすぎる方法であった。

 自分の方法は、あくまでも現象学を基盤にした観念批判論にある、と棟方は考えていた。
 ルナールは部外者の自分にも、参加を認めていたが、気乗りがせず、今日は辞退することにした。
 退屈そうに大学構内を歩いていると、薬理学教室のドアが半開きになっていた。無用心なことだが、誰もいないようだ。茶色や緑の小瓶が、所狭しと並んでいる。この部屋の人は、食事にでも出かけてしまったのだろうか。棟方は薬理学教室の中に入っていった。窓ガラスから、大きな菩提樹が見える。
 棟方は何を考えるわけでもなく、ぼんやりと白いテーブルに射した光を見つめていた。

 時は満ち、まもなく決着が着くだろう…彼がわたしたちの運動に加わることはない…断じてありえない…彼は語った…自分の過去について…そして、二度と誤りたくはないのだと…わたしたちは近いうちに、大規模のデモを組織する…それは脱属領的なものになるだろう…立場を超えて、わたしたちはひとつになる…しかし、彼は加わろうとはしない…世界が冷戦で分裂しているときに、反核を唱えることは、片方の利益と、片方の不利益をもたらすという彼の指摘は正しい…だから、わたしたちはすべての権力に抵抗する…彼の考えからすれば、両方にアンチをとなえればいいはずだ…だが、彼はそれをしない…彼は逃げている…何から…過去から…そして、いつまでも無傷でありたいと願う…わたしは彼を卑怯だとなじった…わたしたちは終わりに近づいている…彼は政治を遠ざけようとする…だが、政治は国政や選挙の中にだけあるのではない…愛し合うとき、わたしは彼の顔の輪郭を指先でなぞる…しかし、わたしは指先に至るまで、政治的だ…政治的でないものなどない…わたしたちのライフスタイル…わたしたちの趣味…わたしたちの愛し方…これらは、十分政治的だ…権威主義的で道徳主義的な人々は、わ
たしたちのように、自由奔放に愛し合うことがない…なぜ、先程からわたしは愛についてばかり考えているのか…たぶん、わたしたちの愛は終わった…たぶん、ではない…確実に、終わった…彼がわたしに今なおつきまとうのは、愛とは別の何かのためだ…それが、何なのか、わたしにはわかっている…薔薇十字の秘密のためだ…それは、エソテリックなものだから、誰にも教えるわけにはいかない…それは秘中の秘なのだ…あなたはイニシエーションすら受けていない…結社員ですら、ほとんどの者が知らないのだ…彼は秘密にするのはおかしいという…だが、あれが世界に流出したならば、地上の権力のために使うものが出るにちがいない…わたしは拒否した…彼は怒りにこぶしが振るっていた…彼は、自分のことしか考えない…彼は独善的だ…彼は自分の否を認めたことがない…あなたが熟読しているコリン・ウィルソンがヴァン・ヴォークトについて語っているように、あなたはヴォークトの「ライト・マン」という定義にぴったりだ、といってやった…彼は、わなわなと震えていた…あなたは、いつも自分が正しい…あなたは、
いつも自分が権威だ…そして、他人をやり込めることに無上の喜びを覚えている。
わたしたちは決裂した。
 来週、わたしたちの研究会ではジャック・デリダ脱構築を扱うのよ…そのため、今日は予習をしなければならないの…ジャック・デリダは、フッサール現象学を批判しているの…フッサール、貴方のお友達のムッシュー・タケダの好きなエグムント・フッサールフッサールは厳密な学としての現象学を打ち立てた…どのようにして?…それはね、認識と対象は一致するかどうかの近代哲学の問題を、いったんかっこでくくり、対象がどうのこうのではなく、わたしたちの意識がどう経験しているかは、ありのままに言い当てられるとした…あなたは、いつか言ったわ…「観念論」が完成したら、いつかSF小説を書きたいって…それは、トランシルヴァニア産の吸血鬼が出る話だって…人間たちは、吸血鬼なんているわけないからといって笑うけど、それが自分たちの命に関わると知ってからは、吸血鬼を存在するものとして行動せざるを得なくなるって…ここでも対象の存在証明は後回しで、とりあえず「いる」という実在感覚で話を進めざる
を得ない…でも、意識のありのままを言い当てるのに「言葉」を使うとき、ありのままと「言葉」の間にズレが生じるはずなのに…デリダはこういう「音声文字中心主義」を批判していて、われわれの形而上学は、「言葉」によって真実がぴたりと言い当てられるという無根拠な信仰に支えられていることを暴露してしまったの…だけど、わたしたちのパロール(話ことば)は、わたしたちの言おうとしている心をすべて言い当てているかしら…それは、ありえないこと…そして、わたしたちのエクリチュール(書くこと)は、わたしたちのパロールをぴたりと言い当てているかしら…だから、「言葉」によって世界のすべてを獲得しようとするあなたの夢も、すでに挫折が運命づけられている…あなたは、あなたの語ることばを自身で聴くだけ…あなたは現象学という土台に立って、マルクス主義の観念の空中楼閣を撃とうとした…あなたは「私は私である」とい
う確信のもとに、観念の伽藍を撃とうとする…だけど、デリダの考えを推し進めてゆけば「私は私である」という確信は、ゆらゆらと揺らぎ始める…「私」と「私となる私」の間にある差延のせいで、「私」を確定させたとき、「私となる私」はすでに「私」ではなく、「私となる私」を確定されたとき、「私」は「私」でない…こうして、世界はたえず生成変化しつづけ、その手のなかにつかむことなど永遠にできるはずがない…あなたの「観念論」は瓦解する

 彼と別れたあとで、わたしはひとりきり自分の部屋でタロー・カードを広げた。
「吊るし人…そして死神。なぜ?」
 指先がかたかた震えた。『Tの書』のもとに、わたしは自分の運命を洞察した。
 彼は再生するだろう。だが、そのために犠牲者が必要となる。
 わたしは彼が再生するために死ぬ運命にある。
 オカルティストとして、わたしは再度占うことを自らに禁じた。

 ルナールは、怯えていた。
 棟方の自尊心を完全に打ち砕いてしまった。それも容赦ない、逃げ口をふさぐやり方で。
 おそらく棟方は、自身の挫折を他人に見せないタイプである。<連合赤軍事件>が彼に崇高な理想が極限の悪に必然的に転化するアボリアを突きつけたときも、彼は堕落した革命家を糾弾するファイターとして振る舞い、自分の弱さを見せなかった。本当はしばらくサン・ドニ街で、地獄の底を嘗め尽くしていた時期があるのだが。
 棟方は決して自分を許さないだろう。
 棟方の理解は実存主義系の思想家どまりだったし、フーコーに関心があるといっても断片的な評価で、全体的な理解ではなかった。
 ポストモダニズムについて語る私を、棟方は微温的な左翼感情の隠れ家と評した。
しかし、棟方の批判は自分の政治的ポジシオンからのもので、ロジカルにわたしを説得させるものではなかった。
 棟方は<薔薇十字>のシークレット・ドクトリンを求め、わたしがそれを拒否したことも、怒りを買った。
 彼はそれを通じて、生と死を超えようとしたのだが、そのようにラディカルに救済を求める飢えた魂自体を棄てなければ、貴方は救われないとわたしは拒否した。
 棟方は<天使>についても理解していなかった。彼は全か無かであり、世界を手に入れることがすべてだった。そこには<天使>の持つ中間性の理解などなかった。彼の思考を占めるものは、世界に抗する怪物であり、否定のおぞましき力だった。それゆえ、彼の心には<天使>ではなく、吸血鬼が住まうようになったのだ。彼の世界においては、<天使>は常に到達不能な理解不能なものとして現れるだろう。

 その日、ルナールは政治結社<赤い生>を打ち合わせを行った。間近に迫ったラングドッグでの超党派原発反対闘争のためである。ルナールは、内外の政治団体やエコロジスト・グループにも賛同を求め、大きな運動に変えていこうとしていた。議論が紛糾したせいか、<赤い生>での会合が長引き、ルナールが家路についたときには、あたりは青い闇に包まれ、静けさが街を支配していた。
 あたりには人影はない。
 だが、ルナールの足音以外に、誰かの足音がするような気がした。
 これは幻聴?

 ルナールは背筋が寒くなる想いで、後ろを振り返ったが、あたりは街灯の光があるだけで、人影などなかった。
 突風のせい?
 ルナールはいざというときのためにハンドバックの中に武器を探した。
 冷たい感触がする。

 鋼鉄の短銃である。

 普段なら、ルナールはそのような武器を所持することはなかった。だが、最近のルナールは完全に警戒をしていた。部下に依頼して、護身用の短銃を用意させたのだ。
 曲がり角をぬけると、湖畔が見える。ルナールのアバルトマンがみえた。
 良かった。気のせいか。
 部屋の前までくると、鍵をドアに差し込んだ。ドアの鍵も、万一のために、内側からかかる鍵をもうひとつ付けたばかりだ。
 部屋の中に入れば、安心。
 部屋の明かりのスイッチに手を伸ばす。
 これで大丈夫。念のため、窓の外を見下ろしてみる。
 ルナールの部屋は3階にある。湖畔の近くの舗道は、青い光に照らされ、なにひとつ遮るものがない。
 大丈夫。気のせいだったのだ。外にはだれもいない。
 安堵の吐息が漏れる。
 がさっ、その瞬間、後ろで物音がした。
 振り返ったときには遅すぎた。男の腕がルナールに向かって伸び、ルナールの口と鼻を布がふさいだ。
 これは…。
 意識が遠のいてゆく。その布に含まれていたのはクロロフォルムだった。

 

ジベールの手記から
11月2日
 <赤い生>の会合に、ルナール姐さんの姿はなかった。
 大掛かりなデモを直前にひかえ、連日重要な打ち合わせを行っていたのだが…風邪でもひいたのだろうか。こんなことはなかったのに。
 気がかりで、電話を掛けてみる。しかし、電話はつながらない。
 万が一のために、ルナール姐さんから知らされたルナールのアパルトマンの管理室に電話をする。なにか伝言でも預かっているかもしれない。
 しかし、管理人に電話したところ、ルナールが本日外出した形跡はないという。
 それにしては、電話に出ないのはなぜなのか。
 念のため、帰りに同じ<赤い生>に所属するアルベールと連れ立って、ルナールの自宅を訪ねることにする。
 ルナールのアパルトマンは、パリ郊外の湖畔の見える閑静な住宅街にあり、木造の3階建てだった。ルナールの部屋は、3階の306号室であった。3階は廊下を隔てて、偶数の部屋と奇数の部屋が3つづつ並んでいるのだが、ルナールの部屋は一番奥の部屋であった。予想通り、ルナールの部屋は鍵がかかっており、大きな声で呼んでも応える気配がない。
 事情を話し、管理人のお婆さんにマスターキーで部屋を開けてもらう。
 しかし、ドアは依然開かない。そういえば、ルナール姐さんは、最近鍵を余分に付けたといっていた。
 仕方なく、アルベールに頼んで、ドアに体当たりしてもらう。アルベールは剛健で、肩幅も広く、こういうことには適任だった。ドアを内側から止めていたもうひとつの鍵が、衝撃で弾けとんだ。
 やはり、ルナールは鍵をもうひとつ余分に内側からつけていた。
 部屋の中を覗き込む。
 いすの陰に、足が見えた。
 誰かが倒れている。
 思わず駆け寄ると、それはルナールの無残な姿であった。右手には小銃が握り締められており、右側の頭から左側に弾丸が貫通している。ルナールの左側にあった窓のカーテンには血しぶきがかかっている。
 管理人は「ひぃ」と小さく叫んだ後で、その場に倒れこんでしまった。
 ルナールの右手には、わずかだが血の飛沫がついていた。思わずルナールの身体に触れようとしたとき、アルベールが制止した。アルベールは現場は保全につとめ、直ちに警察を呼ぶといい、といった。
 あたふたしている私とは別に、アルベールは冷静沈着だった。アルベールは管理人に、警察に連絡を頼むとともに、私と二人になると「さてと…」と腕まくりをして、腕を組むと、「この部屋には問題が山積しているな。」といった。
「現場にあるものには触れないように、警察が来るまでの間、ひとつひとつ検証しよう。まず、入り口のドアなんだが、まずこの部屋が出来たときからあったドアノブについてだが、これは外からも中からもかかる錠になっている。外からはキーか、マスターキーを使って鍵がかかるし、中からはキーなしでつまみをひねるだけで鍵がかかるようになっている。しかし、中からの鍵は、キーか、マスターキーがあれば、外から開錠できる。そして、君も確認したように、この鍵はかかっていた。」
 アルベールは、確かめるように私の眼をみると、さらに続けた。
「そして、このドアノブの鍵とはべつに、後から取り付けられた鍵があり、これは内側から掛ける様になっており、外から鍵があることも見えないし、またこうして押し破らない限り、開錠できないようになっている。」
「そして、窓についてだが、この部屋は3LDKで、ベランダに出るための窓がついている。これらは内側に鍵がついており、もちろん外から鍵を掛けることはできない。そして、見たところ、現在、どの窓も内側から鍵が掛けられている。しかも、ベランダから、隣の部屋のベランダへ飛び移るのは、かなり離れており、常識的に考えて無理がある。また、ここは3階であり、いきなり下に飛び降りるのは危険すぎる。窓の側には飛び移れるような樹すらない。」
「この部屋の外に出る出口は、以上だ。それらはすべて内側から鍵が掛けられている。つまり…。」
「つまり…なんだね。」私は次の言葉が聞きたかった。
「常識的に考えて、これは自殺とみるのが正しい。しかし、僕たちは彼女の自殺の動機などまったく思いつかない。」
 アルベールは天井を見上げた。私もルナール姐さんが自殺する動機なんて、想像もつかなかった。
「自殺の理由が思いつかないだけに、もう少し、他殺説について考えてみよう。僕たちが入ってくるときに、他に人影はなかったよね。僕とジベールと管理人さんだけだ。例えば、僕がドアを押し破る際に、ドアの影に犯人が立っており、僕たちが死体に眼が釘付けになっている間に、堂々と玄関から出て行ったという可能性はどうだろう。」
「そんなことは有り得ないよ。ドアを押し破ったとたんに、暗かったから、蛍光灯のスイッチを探したんだけど、そのときドアの影も見たもの」と私はかぶりをふる。
「可能性が低いことも、すべて潰しておく必要がある。後で、このことは重要になるかも知れないから。ドアの物陰にというのは、推理小説の古典にある方法なんだよ。リスクは高いが、簡単にできる。もうひとつ、機械的トリックについて、考えてみよう。犯人が外からドアや窓の鍵をかけることができるかどうかだ。玄関のドアについては、初めからついている鍵は、犯人が以前から計画を立てていれば、鍵穴から型をとるなり、ルナールの鍵を一旦失敬して、合鍵をつくり、あとで元の鍵を戻しておくことも可能だ。また、こうして鍵穴を覗いてみると…どうやら、それほど複雑なものではなく、空き巣の常習犯ならば、針金でなんとかできなくはない。やっかいなのは、あとから付けられた鍵だ。これは、内側からつけられており、鍵の掛け方も、単にひねるだけだ。しかし、外から操作できるものではない。仮に、この後からつけられた内側の鍵に糸かピアノ線をくくりつけたとしても、このドアはぴったりとして隙間がないから、外から操作するのは無理だ。次に窓を見てみよう。」
 アルベールは窓に近づいた。
「窓の鍵も、内側からひねるかたちになっている。窓枠は、サッシだし、頑丈で、隙間もない。こちらも、外から糸などで操作する手は難しいといわざるをえない。」
 アルベールは、ポケットからハンカチを取り出すと、指紋がつかないようにして、窓を開けた。
「うーん、このベランダは相当老朽化しているねぇ。」
鉄網で出来たベランダの床は、さびが進んでおり、もせていた。気をつけながら、外に出たが、見下ろすと思いのほか、ここは高く、飛び降りるのは不可能であった。また、隣のベランダとの間には、コンクリートの柱があり、配水管が中を走っていると思われた。隣のベランダとは、距離がある上に、この柱のせいで、仮にロープを繋いでも移ることは無理だった。
「仮に出たとしても、この部屋からの脱出は無理だ。」
 アルベールは、再びハンカチを使い、慎重に窓を閉めた。
「後は、人が入れそうなところだ。」
 アルベールは、たんすの中、キッチンの下、冷蔵庫の中、押入れの中などに、いまなお犯人が潜んでいる可能性を挙げた。
 そんなはずはないとは思ったが、開ける段になると、心臓が波打った。
 自殺でないとしたら、他殺であり、ここは密室で、外に出ることができないとしたら、犯人は息を潜めて隠れている可能性がある。
 アルベールの考えは、合理的で、私もその考えに傾きつつあった。
「ちょっと、待って。気になることがあるから。」私は、柱にかかった振り子時計の振り子部分の硝子の扉を開き、その中に手を伸ばした。
「あった。」私は小さくつぶやいた。私の手には、鍵があった。
 私はルナールの机の一番上の引き出しを、その鍵を使って開けた。引き出しには、別の鍵が入っていた。
 今度は、柱時計の下の壁を触った。壁は木製の板で敷き詰められており、そのうちひとつをスライドさせると、板が外れた。
 板の下に、小型の金庫が現れた。
 金庫の鍵穴に、机の中の鍵を差し込み、ダイアルを暗証番号どおりに廻すと、扉を開いた。
「ない。」なんということだ。ここにあれがないということは。
「どうしたんだい。お金かい。」アルベールが聞いてきた。私はかぶりをふった。
 私は、ひどく狼狽していた。あれがないということは、ここに誰かが忍び込んだのだ。
 そして、ルナールの死は、自殺では有り得ない。私の中で、疑いは確信に変わった。
ルナールは、間違いなく殺されたのだ。
放心している私に、アルベールはまもなく警察が来るから、金庫の鍵をもとに戻そうといった。
 アルベールは、鍵についた私の指紋をぬぐいながら、元に戻した。
「ルナールの指紋も消すことで不自然になるかもしれないが、君が疑われるのは避けたいからな。このことは警察には知らぬ存ぜぬで通そう。」
 私は、金庫にあれがないならば、警察が金庫に気づいても問題はないだろうと考えていた。私は、あれがあるのならば、警察が発見する前に隠そうと思ったのだ。
 アルベールは、たんすの取っ手などに、犯人の指紋がついている可能性を指摘し、ここは警察に任せようといった。
 私は犯人が飛び出してきて、襲い掛かってくる可能性を思い、びくびくしながら、警察を待った。
 まもなく、管理人が警察を引き連れて、3階まで上がってくる足音がした。

 

「ガイシャの死亡推定時刻は、11月1日の20:00から20:30ごろでしょうな。」と監察医ラフォルグは語る。
「間違いないだろうな。」マサール警視は、可能性のひとつひとつをすべて潰してゆくタイプであった。
「間違いはないでしょうよ。30年以上になる経験が、その真実を告げているんでさぁ。この室温と、ガイシャの硬直状態から、21時間から20.5時間の経過が読み取れるんでさぁ。無論、さらに詳細なデータは、胃の内容物などを見てみないことには。で、警視にお願いしたいのは、ガイシャの最後の食事の時間でして。」
監察医ラフォルグは、死体解剖を趣味としているだけあって、かなり嬉しそうだ。
 そのとき、キャレ警部が、マサール警視の耳元に告げた。
 マサール警視は、管理人の方を向いた。
「ルナールさんが1階を通り過ぎたのが、20:10頃だというんだね。」
管理人は、このアパルトマンの101号室に居住しており、17時まで管理室にいるが、それ以降は101号室にいるという。ルナールが1階を通り過ぎる際に、管理室に置き忘れた新聞を取りに行く際に、たまたま後ろ姿を見かけたという。つまり、管理人は、ルナールが帰宅した前後の人の出入りは、管理室でチェックしていない。
「つまり、ルナールは帰宅直後に、拳銃の引き金を引いたことになる。ルナールの死亡推定時刻は、11月1日の20:10から20:30ということになる。」
 マサール警視は、この306号室のドアの鍵について調べた。
 管理人によると、ドアノブの鍵は、もともと着いていた鍵であり、ドアノブの下の内側からつけられた鍵は部屋の借用者のルナールが付けたものだという。
マサール警視が見たところ、ドアノブと一体化した鍵は、旧式のもので、熟練した人間ならば、外から道具を使えば、開閉が可能なように思われた。鍵穴から覗くと、中のカットはそれほど複雑ではなく、鍵師ならば専用の金属にやすりでカットを入れて、鍵の代用品を作るだろうし、針金を上手に曲げて、カットに当たるようにすれば、中の仕掛けを解除したり、鍵がかかるようにすることは可能なように思われた。
 問題は、ルナールが後からつけた鍵の方である。仮に、この事件が他殺とするならば、犯人が中にいないと実行できないタイプのものである。そして、犯人がこの玄関から出たとするならば、あらかじめルナールのつけた鍵のほうに、糸をくくりつけたピンセットかなにかをつけておき、外からその糸を引っ張るということが考えられるが、このドアには隙間がほとんどなく、ピンセットはおろか、糸で外から操作すること自体が無理に思われた。
 その間にも、キャレ警部とその配下の部下たちは、ルナールの部屋の中の人が隠れる余地をひとつづつ潰していった。マサール警視は、この事件は十中八九、自殺と看做すのが普通であるが、多少であれ、他殺の可能性があれば、すべての可能性を潰す必要があるとのことだった。キャレ警部とその配下の部下は、いつ何時犯人が出てくる可能性がないとも言い切れず、拳銃を手に身構えながら、洋服ダンスの中や、キッチンの足元の開き戸、ベッドの下、クローゼットの中などを開けてみたが、犯人の影は見当たらなかった。」
 キャレ警部の部下は、物入の天井に、四角い枠があるのを見つけた。これは、電気の配線工事のためのもので、工事の際に天井に上がるためのものだった。部下が枠の中の板を動かすと、相当な埃が舞い降りて来た。
 キャレ警部は「現場に埃を撒き散らすな。埃が舞い立つということは、最近誰もその板を動かしていない証拠だ。」と部下を叱りとばした。
 キャレ警部自身は、台所の上にある排気口が気になっていた。コンロの上にあり、鉄板料理をしたときなどの煙を逃がす穴である。この排気口には、鉄の網がかけられていたが、その網は油で汚れているものの、はずすことができることがわかった。排気口は、蛇行して、天井に上がり、建物の外に出るようになっていた。外の出口にも、鉄の柵がついており、窓の外から確認すると、その取り外しには、工具が必要であることがわかった。
 ただ、その排気口を大人が通過するのは、無理なように思われた。
 キャレ警部は、ミステリーの愛読者であったから、意外な犯人の可能性はないか、検討し始めた。
<仮に、ルナールの死亡が他殺であるとすると、あらかじめ昏睡状態にしておき、右手に拳銃を握らせ、ルナールの指を使って、拳銃を発射する必要がある。仮に第三者がルナールを射殺したあとで、ルナールの右手に拳銃を握らせるとしたら、ルナールの右手に、返り血と思われる血の飛沫が付くことはありえない。とすれば、犯人の行動は、かなり高度なものであり、芸当を仕込まれたサルや、大人に入れ知恵された子供にも、無理と考えられる。>
<では、犯人ではなく、ドアを閉じるトリックに使った道具を使ったとしたらどうなのか。>キャレ警部は自問した。
 ルナールの部屋の玄関から、犯人が出たとするならば、後からルナールがつけた鍵を閉じるトリックの説明が困難という問題が残る。それは、後からつけた鍵に、ピンセットのような金具をつけて、糸状のものでドアの外から引っ張るにせよ、隙間がほとんどなく、困難ということであった。だが、この糸のルートを排気口を通すとしたらどうなのか、ということである。まず、蛇行して外に出ている排気口に糸を通す方法が問題になる。なぜなら、この狭い排気口を犯人が通過することは不可能だからである。これは、糸の先に黄金虫をくくりつけて、放してやれば、戸外まで糸をつけたまま羽ばたいてゆくから、その方法か、それに似た方法でクリアできるだろう。もうひとつの問題は、排気口の入り口の鉄の網である。この鉄の網は、おそらく外から蚊や蝿が入ってくるのを防ぐために取り付けられていると思われた。戸外に出ている排気口の出口についている鉄の柵は、荒くて問題がないが、入り口の方は、相当細かかった。後からつけた鍵にピンセットのような金具をつける仮説を述べたが、鍵のサイズからして、仮にピンセットでなくとも、金具の最低限のサイズは予想できる。しかし、最低限のサイズであれ、この入り口の鉄の網を通過することは不可能だろう。無論、鉄の網を外せば可能になるが、犯人が外に出た後で、鉄の網を再度取り付けることは無理である。
 マサール警視は、事件発見者であるアルベールと私(ジベール)を管理人室に待たせていたが、やがてひとりづつにしては、尋問をした。ひとりづつというのは、ふたりの証言に食い違いがないかどうか、またふたりの間に隠し事があった場合、それを回避するためだとマサール警視は語った。
 マサール警視は、私に事件発見の経緯と、ルナールが11月1日に大学を出た時刻を聞いた。
 私の証言内容は、アルベールの証言と一致していると、後でマサール警視は語ってくれた。また、20:10ごろ帰宅したという管理人の証言は、大学からの距離(電車と徒歩)を考えると、矛盾はないように思われる、とも。
 マサール警視は、最後にルナールが自殺するような可能性について問いただしたが、私はかぶりを振った。「では、逆に他殺だとすると、誰を思い浮かべるか」と聞いてきた。私は、一瞬、棟方のことを思い浮かべたが、それにはマサール警視にあの結社のことも語る事になるだろう。それだけは、どうしても、回避しなければならなかった。
もしも、私たちが管理人とともにルナールの部屋を訪れていなければ、私たちをマサール警視は疑っただろう。マサール警視は、体制側の人間であり、明らかに私たちの反政府的な学生運動に警戒の念を持っていることが伺われた。「最近は、内ゲバとかあるからな。」と尋問の最後に、マサール警視は吐きすてるように言った。
 マサール警視は、私たちの住所と連絡先を聞くと、改めて聴く事もあるかも知れない、といった。そして、マサール警視は、キャレ警部を呼んだ。
「拳銃の種類は、コルト・ウッズマンのスポーツモデルだ。銃身の先についている照星は、削り落とされ、サイレンサーが装着されている。ところで、先程このアパルトマンについて調べたのだが、この壁は結構厚く、防音設計になっているようだ。しかし、事件があった際に、この建物の住民がなんらかの物音を聴いた可能性は否定できない。また、事件前後に、人の出入りを見かけたものがないかについても、聞き込みをする必要がある。聞き込みの際には、事件が起きた昨日の20時ごろから現在までのアリビ(現場不在証明)についても、念のため聞いておく必要があるだろう。」
 次に、マサール警視の鷹の眼は、周辺住民に向かったのである。

 ルナールの部屋は、科学捜査班によって徹底的に調べられた。予想されたことだが、拳銃には、ルナール以外の人物の指紋は検出されなかった。
 ルナールの部屋からは、ルナールともうひとりの人物(X)の指紋が検出された。このXなる人物の指紋は、ルナールの学生仲間であるジベールとも、アルベールとも、勿論、管理人とも一致しなかった。マサール警視は、尋問の際にしきりに紅茶を勧めながら、この三人の指紋を得たのである。
 ルナールには、秘密の恋人でもいるのか、マサール警視はいぶかしんだ。
 壁という壁も徹底的に調べられた。
 マサール警視は、壁板に打ち付けられた釘が刷新されていないかを確認した。釘は建造当時のもので、新しいものになっているということはなかった。つまり、マサール警視は、部屋自体が開放系になっていないか、を疑ったのである。しかし、この仮説も崩壊した。
 その結果、壁の中の隠し金庫も発見されたのである。
 金庫の鍵は、ルナールの机にあった鍵と適合した。ちなみに鍵からは、指紋は検出されなかった。
 マサール警視は、その方面に詳しい科学捜査班の部下を呼び、鍵に書かれたNo.を、メーカーに言って、暗証番号を教えてもらえ、と言った。しかし、その部下は、金庫の種類から、暗証番号は4桁で、右左右左の順番に廻し、先頭の桁は3回転後、2番目の桁は2回転後、3番目の桁は1回転後、4番目の桁は直接廻せばいいといい、該当番号は左右に回転させるとかちりと小さな音がするので、あとは組み合わせを替えて試行すればいいといい、しばらくダイヤルを廻していたが、そのうち「開きました。」といった。
 金庫の中は、空であった。
 果たして、これが何を意味するのだろう。この隠し金庫は、管理人に黙って、埋め込まれたものと思われた。このような仕掛けをした以上、そこには何かが秘匿されていた可能性が高いと判断できる。
 ルナールの部屋は、金銭や宝飾品を物色した形跡はなかった。
表向きには、なにかが盗まれたようには見えなかった。強いて言えば、隠し金庫の中に、なにかが隠されていたのならば…。
 管理人によると、ルナールの両親は健在だが、完全に縁は切れているという。ルナールの実家は、相当な資産家であったが、ルナールは経済的に完全に独立し、両親からの援助を断ち切って生活しているという。マサール警視は、ブルジョワジーに依存しないことに、ルナールの革命思想が表現されているということを即座に理解した。実は、マサール警視には大学生になる長男がいるが、親のすねを齧りながら、革命ごっこにも首をつっこんでいた。その中途半端さに本人も気づいているために、時折、自分に暴力的な感情をむき出しにするのだろう。ジベールやアルベールの態度に、苦々しい感情を抱いたのは、無意識のうちに、自分の子供とダブらせて見ているせいかも知れなかった。

 その日のキャレ警部の聞き込みにより、次のような事柄がわかった。
 ルナールの部屋は、306号室だが、3階の部屋はルナールの部屋を含めて6部屋ある。3階の部屋は、中央の廊下を隔てて、偶数の部屋が3つと、奇数の部屋が3つ向かい合っている。
 301号室には火夫グランとイザベル夫妻、303号室には会計士ミッシェルとシャルロットの夫妻、305号室には小学校教師アンリとシモーヌの夫妻、302号室に塗装工ギベールとカトリーヌ夫妻、304号室には学生のマリ=アンヌが住んでいるのである。3階に至る階段は、301号室と302号室に近い位置にある。つまり、ルナールの部屋に至るには、3階の廊下を通り抜けるかたちになる。
 まず、301号室に関していえば、イサベルは、11月1日は外出せず、在宅だったという。20:40頃にグランが帰宅するまで、一人でいたという。20:10から20:30ごろになにか物音がしなかったかの質問には、イサベルは気づかなかったと答えている。グランは、11月2日は8:30に家を出て、勤め先に向かったという。ちなみに、イサベルは、11月2日は、11:30ごろ買い物に出かけたという。
 次に303号室については、シャルロットは11月1日の午前中は友達と会っていたが、午後は家にいたといい、20:20にミッシェルが帰宅するまで、一人だったという。ミッシェルの帰宅前後に、306号室から物音がしなかったかの質問には、気づかなかったといい、TVの音量を上げていたからかもしれないとシャルロットは語った。シャルロットによると、その日はセルジュ・ゲンズブールの出演する歌番組を見ていたという。ミッシェルに、帰宅した際にアバルトマン付近で、不審な人物を見かけなかったかと聞いたが、見かけなかったと応えた。ミッシェルは11月2日は、いつもどおり7:30頃、出勤していった。シャルロットは、11月2日は、12:00ごろ近くの公園に花屋が出店しているのを知り、外に出たという。
305号室は、11月1日にアンリは19:00ごろ、小学校から帰宅した。その際、シモーヌは帰っていなかった。シモーヌは、中学校時代の同窓会に出かけていたのである。シモーヌが帰宅したのは、21:00頃であった。306号室の事件当時の物音については、アンリは知らないといった。アンリは、11月2日は7:30ごろ家を出て、小学校に向かった。そのとき、303号室のミッシェルが自家用車に乗るのを見かけたという。シモーヌは前日の疲れで、11月2日は外出しなかったという。
 302号室は、カトリーヌは11月1日の午後は、自宅にいたと語り、ギベールが帰宅したのは20:30ごろであったという。20:10から20:30ごろの306号室の物音には、まったく気づかなかったという。ギベールとカトリーヌ夫妻には、3人の男の子がいて、部屋中喧騒状態で、気づかなかったのかも知れなかった。11月2日、ギベールは8:00ごろに会社に出かけた。カトリーヌは、16:00ごろ買い物に出るまで、家にいたという。
 304号室のマリ=アンヌは、11月1日は、19:40ごろ帰宅した。マリ=アンヌは、理系であるため、ルナールとの接点はなかった。前日から徹夜で実験をしていたため、11月1日は、帰宅後熟睡してしまったという。だから、306号室で大きな音がしても、気づかなかったでしょうと語った。同じ学生であったため、随分怯えているように思われた。自殺か、他殺か、わからないのですか?とマリ=アンヌは聞いてきたが、捜査上のことなので答えられないと答えた。マリ=アンヌは、11月2日は、10:50ごろ大学に出かけた。なお、ルナールの部屋に、東洋人が入っていくのを見たことがあるとの注目すべき証言を、マリ=アンヌはおこなった。

 この事件は、やはり自殺として捉えるべきなのかもしれない。確かに、ルナールの遺書は発見されていない。隠し金庫にせよ、初めから何も入っていなかった可能性がある。
 第一、他殺だとすれば、密室の壁をどう突破すればいいというのだろう。疑い得るすべては、確認したと思う。あとは、ルナールの部屋全体が、エレベータになっているというような奇想天外なものだが、老朽化したアパルトマンで、そのような大仕掛けなどあり得るはずがない。そんな馬鹿話など、真面目でユーモアを解さないマサール警視に話そうものなら、こっぴどく怒られるのがおちだ。
 キャレ警部は、聞き込みでも不審な点は見つからず、次第に自殺説に傾きかけていた。
 部屋の捜査は、深夜に及んだ。遺書は見つからなかったが、ルナールは帰宅後、すぐに自殺を遂げたのだ。拳銃の入手経路について、配下の刑事から連絡がきた。拳銃はルナールの知人を介して、ルナールに売買されたものと判明した。その知人は、護身用と聞いていたが、自殺の準備のためだったのかと、絶句して嗚咽したという。つまり、拳銃はルナールのものに間違いがなく、その点でも自殺説に矛盾はない。
 別の刑事には、ルナールの交友関係について調べさせた。
 ルナールは、学業以外に、<現代思想研究会>や、反政府的な政治結社<赤い生>に関わっていた。<赤い生>は、相当過激な主張をする団体であり、アルジェリア戦争反対やベトナム戦争反対の際に暗躍したといわれているが、その全容は警察といえども把握しきれていたわけではなかった。ルナールは、その最高幹部らしいということがわかったのである。最近<赤い生>は、ラングドッグの原子力発電所とフランスの核製作に対する反対運動を行っており、フランス以外の反政府団体とも連携をとって、大規模なデモを計画していたという。
 間近に大規模なデモを計画していて、その組織の幹部が自殺を遂げるだろうか、とキャレ警部はふと疑問に思ったが、人間は誰にも他人には見せない心の深淵を抱えていて、大規模なデモの計画を立てるという疲労感から来る孤独感で、不意に魔がさすこともあり得るのだと思い直した。
 ルナールの交友関係を調査した刑事は、ルナールの行動を追っていると、足取りの取れない日があるという。
 その話を聞いて、キャレ警部は、マリ=アンヌの話していた謎の東洋人のことを想い出した。
「恋人かもしれないな。」とキャレ警部は言った。
「いや、そうともとれないんです。<現代思想研究会>や、<赤い生>と合同でデモ闘争をしたことがあるという政治セクトのメンバーから聞いたのですが、どうもなんかの宗教らしいです。それにはジベールも関与しているらしくて、ルナールと連絡が取れない日は、ジベールとも連絡が取れないらしいのです。」
唯物論と宗教か。」キャレ警部は頭を抱え込んだ。
 <赤い生>は、<赤>がつくだけに、マルキシズムとつながりのある団体だろう。マルキシズムといえば、唯物史観だ。つまり、唯物論ってことだ。すべてが物質だというのだから、神とかも認めないやつらだろう。それなのに、宗教の線が浮かんでくるとは…。
 24時を過ぎたころ、マサール警視によって、本日の捜査の打ち切り宣言が出された。ルナールの遺体は、すでに搬送済みである。ルナールの両親に連絡を入れたが、勘当した娘なので、司法解剖でもなんでもお好きなように、との回答だったという。ルナールの葬儀にも、親族の名誉に泥を塗った不届き者ということで出席する意思はないという。葬儀代は出すが、自殺で死亡などということは新聞には公表しないでもらいたい、ということであった。どういう親なんだ、とマサール警視は、怒ったが、親子の仲は完全に冷え切っていたと思われる。
 美しいルナールの遺体は、監察医ラフォルグの手によって、細部に至るまで、切り刻まれるだろう。
 ルナールの部屋の扉は、再度修理され、鍵がかえる状態になった。マサール警視は鍵をかけた後で、「警視庁・立ち入り禁止」と印刷されたシールで、目張りさせた。こうしておけば、何者かが出入りした場合、一目瞭然でわかるだろう。
 マサール警視は、監察医ラフォルグの検視報告書が完成された段階で、異常な所見がなければ、この事件を自殺として処理するだろう。膨大な事件が毎日のように発生するこの都市で、いつまでも針の穴のような可能性を探求しているわけにはいかない。
 キャレ警部は、自殺として処理される前に、謎の東洋人と、ジベールと対決しておく必要はあると考えた。そうしないと、この事件に決着がつかない気がしたのである。

 謎の東洋人の名前は、棟方冬紀といって、日本人であった。
 彼は、数年前からサン・ジェルマン・デ・プレに住んでいた。彼のアパルトマンは、相当なぼろ屋敷で、彼はその屋根裏部屋を間借りしていたのであった。彼はパリ第一大学の学生ではなかった。しかし、学生ではないにもかかわらず、パリ第一大学の構内を徘徊しているのを、多くの学生が目撃していた。したがって、謎の東洋人の正体について、キャレ警部は、学生たちの証言から、容易にたどり着くことができた。キャレ警部は、棟方冬紀がパリに住み着くようになった経緯に、なにかうさんくさい印象を受けた。日本の公安に照会すれば、何かわかるかも知れなかったが、印象だけで外国の警察に問い合わせることも出来なかった。
 彼はルナールの指導教授のH教授との知り合いであり、その関係でルナールに接近したと考えられる。H教授もまた日本生まれであったが、棟方とはパリで知り合いになったと、H教授からの証言を得た。棟方とルナールがつきあっていたかどうかについては、H教授は知らないと答えたが、ふたりは南仏の歴史や、現代の思想に関して、意気投合する部分が多かったようだ、と語った。
 棟方に関する下調べで、キャレ警部は、彼が警察に対して良い印象をもっていないことと、思想的な話を持ち出すと、些細な意見の相違であれ、頭に血が登りやすく、激しい罵倒になりやすいことがわかった。キャレ警部は、棟方が手強い相手であることを、会う前から予想した。
 キャレ警部が棟方のアパルトマンを尋ねると、彼はここは狭いからと、カフェ・リベルテを案内した。棟方に対する尋問は、喫茶店の片隅で行われた。
キャレ警部は、ルナールが死んだことを告げた。棟方は「ああ、そうですか。」と驚いた様子を見せなかった。棟方は、ルナールの死因について聞いてきた。キャレ警部は、銃殺であることを告げると、棟方は「それは自殺なのか、他殺なのか」と聞いてきた。
 キャレ警部は、「それはまだわからない。状況的に見て、自殺説が有力だが…。」と語った。
 キャレ警部の尋問によって、棟方はルナールは以前、恋人であったこと、ルナールの主催する<現代思想研究会>に出席したことがあること、<赤い生>の政治路線には異論があり、コミットしたことがないこと、またルナールの関係した宗教団体については、なにも知らないことを述べた。ルナールと別れた理由は、主に思想的な対立であり、意見を異にするものと妥協することはあり得ない、と語った。
「ルナールと別れたというが、それはルナールを憎んでいるということか。」とキャレ警部は言った。
「いや、憎むことはない。ふたりの対立は、純粋に思想的なもので、感情的なものではない。」と、棟方はいった。
 キャレ警部は、11月1日の20:10から20:30のアリビ(現場不在証明)について尋ねた。棟方は、自分のアパルトマンにひとりでいたと語り、したがって、それを証明するものはいない、と言った。念のために、棟方の11月2日の行動についても、キャレ警部は問いただした。棟方は7:30ごろ、近くの公園にジョギングに出かけ、10:10ごろパリ第一大学に出かけたといった。
「それを証明する人はいますか。」との問いかけに、棟方は公園にジョギングに向かった際に、財布を拾い、近くの警察署に届けたといい、10:10ごろ大学にいたことについては、多くの人が見かけていると答えた。
 キャレ警部は、棟方と別れた後、棟方が財布を届けたという警察署に出向き、遺失物取得届を確認した。時間は11月2日の7:39になっており、問題の財布は、黒色の特徴のないもので、今のところ、落とし主は現れていないということであった。

ジベールの手記から。
11月3日
 ルナール姐さんが死んだ。昨日は、慌しさと緊張感で気づかずにいたのだが、こうして1日経過してみると、ルナール姉さんの不在によって、心の中に大きな空洞が出来たのを感じる。
 出来ることならば、これが悪い夢で、いつか醒めるものならばいいのに。
しかし、ルナール姐さんの死は、粛然たる事実であり、そこから眼をそらすことは出来なかった。
 全部忘れてしまいたかった。もう一度、眠りにつけば、ルナール姐さんのあの無残な死に顔を忘れることができるだろうか。
 自分にとって、ルナール姐さんを喪うことは、自分の内的宇宙の多くを失うことと同義だった。いつかルナール姐さんが話してくれたことがある。
<実体のあるものとしての「私」は存在しない。「私」というものは、常に他者との関係の上に捏造される。生後間もない子供には「私」というものは、まだない。鏡の中に、自分の写し絵という他者を発見し、それが自分と同一だと捉えることから、「私」は生成される。ジャック・ラカン鏡像段階説は、そのことを言っているの。>
<「私」とはなにか。「私」とは「私」に対して呼びかけることを意味する。トゥリー状のハイアラーキーを想定するならば、まず大文字の主体があり、これは神であり、君主であり、父親を意味する。そして、大文字の主体は、小文字の主体に呼びかける。「かくあれかし」と。次の第二段階では、呼びかけられた牧人にして、臣下にして、子である小文字の主体同士が、互いに呼びかけあう。最終的に、小文字の主体は、自分自身に呼びかける。呼びかけの声が、権力の行使であり、行使することなしに、権力はない。こうして、「私」は「私」を管理し、最も効率的にトゥリー状の権力体系が機能し始める。>
<いつか私が先に死ぬことがあっても、ジベールには哀しまないでほしいの。わたしは、常に「私」と闘って来た。「私」という幻想に、亀裂を走らせようとしてきた。あるときは政治的なアジテーションの言語のなかで、あるときはオカルティックな象徴言語の中で。しかし、わたしの死に哀しむことは、「私」という実体があったという幻想を、再度強化してしまう。ゲシュタルト=マーヤー=ドコスは、破壊しなければならない。これは終始一貫したわたしの考えなの。>
 ルナール姐さんの言いたいことはわかる。しかし、もうぼくの言葉にルナール姐さんは応えてくれない。
 「私」が幻想だとしても、ルナール姐さんは超幻想なんだから。
 涙がこみ上げてきた。押さえようとすると、胸の辺りがひくついて、余計に涙があふれてくる。
 ルナール姐さんは、人間はいつ死ぬか判らないのだから、いつ死んでもいいように準備が必要だと語ってくれた。そして、ぼくに自分のすべてを注ぎ込んで、天使教育を行ってくれた。
<天使とは、生と死を超えることだけど、それは悲壮なものであっても、力んでもだめなの。要は、救われようとか、解脱しようとする心からも、解脱することが必要なの。地上の「悪」に抗するために、憎悪の炎をたぎらせるならば、自分が低次の感情に釘付けになり、「悪」に転化してしまう。「悪」も「善」も、本当はないということを知りなさい。>
 ルナール姐さんの言葉は、いつも無限の愛が生成される慈愛空間に誘うものだった。「私」と「他者」、「悪」と「善」の二項対立が、二項対立でなくなる場所…。
 すべてを超越していたルナール姐さんが、自殺するなんてことは、あり得ないことだった。あの部屋から<秘密の巻物>(実はその偽造品なのだが)が消失していることとか、<赤い生>による大規模のデモが間近いといったこととは別に、事件には大きな異和を感じていたのだ。しかし、ルナール姐さんが自殺することはあり得ないことを、他人に説明することは難しい。
 自殺というからには、「私」に対する執着があったということを前提にしているだろう。だが、ルナール姐さんは、「私」に対する執着もなかったし、そこから派生する低次の感情とも無縁だったのだ。

 キャレ警部が訪ねてきた。
 キャレ警部は、ルナール姐さんとある種の宗教の関わりについて知りたかったようだ。ぼくはキャレ警部に、ルナール姐さんと自分は、推察のとおり、ある種の秘教的団体に属していることを認めた。しかし、会派の名前や構成員、団体の所在地や教義については、会員以外には教えられないことを告げた。そして、その団体は、政治的なものではないし、黒魔術的で不道徳なものではないということを告げた。
 秘密結社というものは、秘密でなくなった時から、秘密結社とは言わないものである。
 キャレ警部は、ルナール姐さんの部屋の隠し金庫について尋ねてきた。
 ぼくは少し躊躇したが、最低限のことだけを教えることにした。キャレ警部は、マサール警視よりも、自分たちのことを理解してくれるように判断したからである。
 ぼくは、隠し金庫の中に、ぼくとルナールが所属している秘教団体の教義に関する文書が入れられていたが、盗難を怖れ、数日前に偽書と差し替えていたことを認めた。
キャレ警部は、盗難を恐れるような事態が、最近あったのか、と聞いてきた。キャレ警部の中で、ルナールによって余分に付けられた鍵や、護身用の銃の存在、そして隠し金庫の中の文書の存在がひとつにまとまり、やがて巨大な疑問に膨れ上がっていった。
「正直にいうが、捜査本部は自殺説が圧倒的に有力だ。というのも、あの部屋が、典型的な密室であったことが理由なんだ。」
 キャレ警部は、ルナールの部屋が、完全な密室であることを確かめるために、さまざまな確認をしたことを告げた。それが、すべて空振りに終わったことも。
「しかし、君の話を聞くと、ルナールは何者かを恐れていたことになる。なにかの事件の前触れを感じていたということだ。今日の君の話で、疑問が膨れ上がったことは事実だ。しかし、密室の壁を突破しないことには、事件が自殺で片付けられてしまうのも事実だ。」
 キャレ警部は、しばらく考え込んでいたが、「ところで、君は棟方という日本人を知っているね。」といってきた。
 キャレ警部は、明らかに棟方に疑いの目を持っているようだった。
 ぼくは棟方氏がルナールとつきあっていたことと、最近別れたことは知っているが、それ以上のことはなんとも言えない、といった。
 キャレ警部は、棟方について、「どうにも食えない奴だ」と語り、「警察嫌いのくせに、11月2日の早朝に、落し物の届出を警察にわざわざしているのだからね。」といった。
 そして、「なにか気づいたことがあれば、私に知らせて欲しい。少なくとも、私は君を信用することにしたからね。」といって、名刺を残していったのである。

 業者から宅配で送られてくるダンボール箱のテープをはがし、無数の雨蛙を無色透明のプラスチックの箱に移す。ビニールの手袋をして、雨蛙を仕分けてゆく。雨蛙になっても、おたまじゃくしのしっぽのついたものを選んでゆく。
 おたまじゃくしのしっぽのついたまま大人になった蛙の頻度は、低い。業者から送られてくるものは、あらかじめ選ばれた雨蛙ではない。業者は、一匹いくらで、この大学に雨蛙を納品する。
 だから、膨大な数のまともな雨蛙が不要になる。
 パリ第一大学の裏にある川に、不要になった雨蛙が破棄される。
こうして、大学の周囲では、生態系のバランスが崩れつつある。だが、それに気づくものは、今のところ誰もいない。
 川の淵には、背の高いフェンスが立てられ、川の中を意識的に覗き込むものはいない。
 しかし、夏になれば、異常な蛙の鳴き声がする。蛙は、蛙の卵を産む。蛙は、蛙を増殖させる。
 今ではもう、大学の裏側の窓を開けるのも嫌だ。
 指導教官の考えは、おたまじゃくしのしっぽの残った雨蛙は、アポトーシスを司る遺伝子に問題がある。アポトーシスとは、生命を維持するために、あらかじめプログラム化された死のことだ。生物は、幼態から成態になるまでに、姿を変える。不要な部分がなくなり、次第に成態として完成した形になってゆく。この不要な部分を、生命活動の一環として、自動的に壊死させ、その部分を自分と異なる他者として疎外することが、アポトーシスである。
 指導教官のMは、生物学の新しい流れである自己組織化に関心を持ち、この実験を考え付いたのである。おたまじゃくしのしっぽを持った雨蛙同士を交配させ、おたまじゃくしのしっぽをもった雨蛙を増やす。そして、おたまじゃくしのしっぽをもった雨蛙に起きる疾病を、健常体の雨蛙と比較する。指導教官のMの研究の狙いは、最終的にがんの研究にあった。指導教官のMは、がん細胞の無限増殖を、アポトーシスの不全に根本原因があると考え、アポトーシスの機能を十全に働かせることができれば、がんのような身体にとって害のある細胞を、自動的に壊死させることができると考えていた。
 マリ=アンヌは、雨蛙の皮膚の感触が生理的に嫌いだった。触ると、ぴったりと張り付いてくるような感じが。
 雨蛙の皮膚の粘膜には、毒素が含まれていることを知ってからなのかも知れない。
しかし、一旦、神経を集中させると、マリ=アンヌの手は機械のように分別を進めてゆく。そのとき、マリ=アンヌの魂は、マリ=アンヌがいる場所にいない。だから、薬理学教室のマチウが入ってきたのも、マリ=アンヌは気づかなかった。
「ほい、差し入れだ。」とマチウは冷たい飲み物とハンバーガーを差し出したのだが、マリ=アンヌは気づかず、マチウはマリ=アンヌの顔を覗き込まなくてはならなかったほどだ。
 マリ=アンヌは、マチウが悪い人間ではないのを知っていた。しかし、マチウはずぼらすぎると思っていた。こうして、時折差し入れを持ってきてくれるのはいいけれど、マチウは薬理学教室のドアに鍵をかけずに出てゆく。
 数日前も、誰か男の人が、薬理学教室の入り口で立っていた。逆光線でまぶしくて、その男が誰かはわからなかったけれど。
 そのとき、かすかにベルガモットの香りがした。
 不審な感じがして、駆け寄ったけれども、その男には追いつかなかった。
 男の眺めていた光景を眺める。
 マリ=アンヌは、その部屋に入っていった。ガラス窓の白い棚に、茶色や濃緑の小瓶が並ぶ。変わっていない。いつもとおなじだ。しかし…ふと、不安がよぎる。なぜだろう。なにか違うような気がする。マリ=アンヌの知覚が拡大する。知覚は薬棚を中心に、部屋全体に広がった。もはや、マリ=アンヌは、ここにいない。マリ=アンヌの触覚は、薬理学教室すべてに張り巡らされ、昨日までの光景とのわずかなズレを感知する。
 そのとき、マリ=アンヌの眼が一層大きく見開いた。
 普段、使わない濃緑の小瓶が、薬棚の奥にあるにも関わらず、位置が変わっており、量が減っている。その薬の名前は…。
 マリ=アンヌの存在に、戦慄が走った。

 自分の隣の部屋の女性が変死を遂げたのを知ったときから、マリ=アンヌの世界は、歪み始めた。本当のターゲットは、自分なのではないか。隣の部屋の女性は、私と間違えて殺害されたのではないか。しかし、そのことを明らかにすれば、もういちどあの男がやってくる。
 マリ=アンヌは、薬理学教室の前で立っていた男のことを考えていた。闇の中に、無数の眼が光っている気がした。蛙の卵のような無数の目玉が。
 あの薬はいまだ使用されていない。腐った卵の匂いのするあの薬は…。まるで、その薬は自分に使用するために使われずにいるように思われた。
 304号室の鍵を開ける。だいじょうぶ。鍵はかかっていた。電気をつける。白のテーブルとオレンジのチェアがある。いつもとおなじ。いつもと…。
 そのとき、テーブルの角度が、いつもと少し違う気がした。まるで、なにかにぶつかったように。そんな…そんな…。
 あたりのものを調べてゆく。これもある、これも、あれも…。
だけど、胸のあたりにひっかかったこの不安感はなんだろう。マリ=アンヌは、眼を閉じる。神経を部屋中に張り巡らし、わずかなズレも見逃さないようにする。なんだろう。なににひっかかっているのだろう。あっ……。
 そのとき、マリ=アンヌの鼻孔が、かすかなベルガモットの香りを嗅ぎ取った。


ジベールの手記から
11月4日
「排気口を使って、外から正面玄関を閉めるトリックは、興味深いものがあるね。その方法は、排気口の入り口の鉄の網が障害になる問題点があるわけだけど。同様に、サッシ窓の内側の鍵を、排気口を使って、外から閉める機械的トリックも考えられるわけだけど、やはり鉄の網が障害になるわけだ。本当に困った鉄の網だ。そんなに細かければ、煙も逃げにくいだろうね。とにかく、仮に糸を使って、外から正面玄関なり、窓の鍵なりを外から閉めるには、支点による力のベクトルの切り替えが必要だろうから、天井あたりにピンか、ピンの跡があるはずだ。警察の捜査は、キャレ警部が君に話した内容を信用するしかないが、結構詳細に調べているようだから、そのような痕跡があれば、発見したと推測できる。ところが、発見できなかったということは、このアイデアは、検討に値しないということだ。」
 アルベールの推理は続く。
「僕としては、キャレ警部が捜査を中断したという物入の天井の方が可能性はあると思う。その天井の四角い枠の中は、大人が通過でき、天井裏に出ることができるわけだ。その穴は、天井裏に引かれた電線の工事や修理のためのものなんだね。キャレ警部は、四角い枠の中の板を動かした瞬間に、相当な埃が落ちてきたから、だれもその穴を使用していないと判断したわけだったけれど、埃なんてものは、犯人によって板を動かした瞬間に、大量に落ちるように偽装工作されたかもしれないとは思わないかい。その天井裏への入り口を通じて、犯人の逃走経路は、306号室から、3階全体に拡大する。」
 アルベールのアイデアは、画期的なもののように思われた。しかし、天井裏に登ることはいいが、どこから脱出すればいいのだろう。
「天井裏の構造と、そのような天井裏への入り口が各部屋についているかどうかは、検証する必要があるけど、この考えを敷衍してゆけば、犯人の脱出口として、306号室だけではなく、3階のすべての部屋の出入り口が使用可能になる。天井裏に潜みながら、無人になる部屋を探せばいい。これに関しても、キャレ警部は聞き込みで確認しているのだったね。ええっと、ルナールの死亡推定時刻以降で、一番最初に、留守の状態になったのは、304号室のマリ=アンヌの部屋か。ここは、11月2日の10:50に、完全に留守の状態になる。つまり、犯人は11月2日の10:50以降、304号室の正面玄関から出ることができる。無論、外に出てから、針金か、何かで、再度鍵を閉める必要はあるが。」
 そこまで、アルベールの推理を感嘆しながら聞いていたが、そこでふと、この推理ではまだ不充分だ、という考えが頭をよぎった。そうだ。棟方という男は、11月2日の7:39に、ルナールのアパルトマンの外にいたのだ。そして、それを他ならぬ警察が証明している……。
 いつしか、ルナールを殺害する動機があるのは、棟方以外に考えられないと思い始めていた。しかし、唯一動機のある男は、鉄壁のアリバイに守られている。ぼくは棟方に、底知れぬ狡猾さを感じていた。

11月5日
ルナールの部屋の物入の位置は、寝室の隅に位置していたが、他の部屋はどうなのか。また、他の部屋でも、物入の天井に、屋根裏に上がる入り口があるのか。もし、他の部屋も、同じ構造だとしたら、犯人が家主が就寝中の寝室に降り立つのは、非常に危険が伴うのだが。
 ぼくは躊躇したが、キャレ警部に電話してみることにした。
 キャレ警部は、「どうしたのか。」と聞いてきたが、「どうしてもルナールが自殺したということに納得がいかないのです。」と答えた。
 キャレ警部は、検視結果からも不審な点は見つからず、予想通り自殺ということで事件は収束しそうだと答えた。そして、自分としても、決定的な新発見がなければ、捜査本部の方針に反して、一人で動き回るわけにもいかないんだ、と語った。心なしか、キャレ警部の声は、前回会った時より元気がなかった。
 キャレ警部は、あのアパルトマンの3階は、ほぼ同一の構造をしており、寝室の片隅に物入があり、天井には天井裏に上がるための穴があり、板が載せて塞いである、と答えた。だが、そんなところに登ったところで、出口に困るだけではないか、あれが他殺なら、犯人は一時も早く逃走することを考えるのではないか、と言った。
 ぼくは、キャレ警部に礼をいって、電話を切ろうとした。キャレ警部は、「気持ちはわかるが、ひとりで調べるのは危険すぎる。なにか気づいた点があるなら、言ってほしい。」といったが、「いえ、ただの思い過ごしでした。」と答えた。
 実際、アルベールの仮説は、思い過ごしかも知れなかった。仮に、ルナールの事件が他殺で、棟方が犯人だとすると、11月2日の午前7:39に棟方が警察署にいるためには、あのアパルトマンの3階のどれかの寝室を通過せねばならない。果たして、音も立てずに、屋根裏から降り立ち、就寝中のベッドの横を気付かれずに通過することは可能なのか。それは、あまりに大きすぎるリスクであった。
 ぼくは、数々の疑問や不安を胸に押し込み、しばらくルナールの残した仕事に専念することにした。
 ルナールの死により、公式的な大学のサークルである<現代思想研究会>は、別の代表者を議決で決めることになったが、非合法の政治的結社である<赤い生>と、秘教的なスクールである<薔薇十字啓明会>は、事実上自分が後継とならざるを得なかった。特に<赤い生>は、近日中に大規模なデモと集会を予定しており、ルナールの代わりに、自分がアジ演説を行うことになっていたのである。
 大規模なデモの情報は、公安当局の知るところとなり、国外からもルナールの人望のせいもあり、新左翼ノンセクト・ラディカルの大物がフランスに来るということで、緊張感が少しづつ高まっていた。
 ルナールは、ラングドックの原子力発電所開発計画におけるプルトニウム再利用計画について、フランスの軍事的な核政策と結び付けて考えるべきであると主張し、問題は世界的な規模で進む原子力帝国化にあるとした。つまり、核の問題は、そのセキュリティーの問題から、国民の中に見えないテロリストの亡霊が隠されているのではないかという猜疑心を体制側が必然的にいだくようになり、情報の不透明化と全体主義的な統制の強化を招くというのである。ルナールは、こうして反原発運動を、単なるエネルギー政策をめぐるラングドッグの一地方問題から、全地球規模の問題に拡大し、ファシズムや、環境破壊の問題とリンクさせたのである。
 当局との小競り合いは、すでに始まっており、中規模なデモの際に、逮捕者やけが人が出たという報道が連日のように流されていた。
 ぼくは、<赤い生>での打ち合わせの後、疲れた身体に鞭打ちながら、政治情況を把握するために、新聞のすみずみまでチェックして、一日を終わることにしていた。
 新聞の片隅に、ギー・ドゥポールの挑発的な映画「スペクタクルの社会」が上映される予定が書かれていた。ドゥポールは、シチュアシオニスト・インターナショナルの運動を始めた人物であり、マルクスの価値形態論の読解から、資本主義が覆い尽くした現代社会はスペクタクル化しており、「外部」がないことを証明した。彼は、モノの生産によって、我々は生の統一性から遠ざかるとし、権力は警察的な監視の視線を強化しつつあり、我々の社会の内部に「敵」を作り出し、「敵」を排撃することで、単一的な価値観の下でのコントロールを可能にすると説いていた。
 ドゥポールの議論は、過激な中に、静謐な絶望感が漂っていた。
 ぼくは状況が、どんどん悪化している印象を持った。時代は確実に「冬の時代」に向かっている。また、バスク地方独立運動に、当局が警戒を強めているとの記事も見られた。
 そのなかで、ぼくは尋ね人の小さな記事を見つけた。
 失踪者は、地元の電気保安協会の電気工事技術者(31歳)で、11月1日の22:30ごろ、停電したアパルトマンの修理に行った帰りに失踪し、その後、協会にも、自宅の方にも姿を見せないという。警察では、失踪者に関する情報を求めているという。
 ぼくは、その電気工事技術者の最後に向かったというアパルトマンの住所に、目を奪われた。その住所は、見覚えのある住所だったのだ。

ジベールの手記から
11月6日
 新聞記事をもとに、ぼくは地元の電気保安協会と、ルナールのアパルトマンを訪ねた。その二箇所の調査結果から、以下の事柄がわかった。
 ルナールが謎の死を遂げた日の夜、ルナールのアパルトマンは停電騒ぎを起こしていた。22:00ごろ、急に3階だけが停電となり、この停電は3階の住人は全員周知の事実だったという。302号室のギベールとカトリーヌ夫妻が、アパルトマン全体で、メンテナンス契約していた地元の業者を呼んだ。緊急の修理ということで、ベテランの電気工事技術者が、急いでアパルトマンに向かった。電気工事技術者がついたのは、約15分後であった。電気工事技術者は、電気配線を調べ、3階だけの停電ということから、3階の天井裏の電気配線が、なんらかの事情で断線したと判断した。電気工事技術者は、302号室の物入の天井から、天井裏に修理道具を手にして登っていった。
工事は、15分程度かかった。ギベールとカトリーヌ夫妻によると、その間、天井裏で物音はあまりしなかったから、断線箇所は302号室でなく、もっと奥の部屋の上かも知れないといった。
 ギベールとカトリーヌ夫妻の言う奥の部屋とは、階段からの距離が奥ということであり、つまりルナールの部屋の方と言う事になる。3階の電気が灯り、ギベールとカトリーヌ夫妻は、修理が完了したのがわかった。電気工事技術者は、物入の天井から降りてきた。停電騒ぎに気づいて、101号室の管理人も、3階に登って来た。「年間メンテナンス契約料を払っているから、今回は無料だね。」と管理人が声をかけると、電気工事技術者は「そのとおり」とだけ答え、そそくさと出て行った。
 今回の配線修理を頼まれた業者は、その電気工事技術者が現場に向かうとき、「修理に時間がかかるようだったら、今日は遅いから、そのまま直帰してもいいよ。」と声をかけていたから、その日、電気工事技術者が事業所に帰らなかったが、不審に思わなかったという。ただ、終了連絡くらい電話をかけてきてもいいのに、と思っただけだった。
 翌日、朝も、電気工事技術者は、出勤しなかった。普段、無断欠勤する人間ではなかったので、事業主が不審に思い始めた。しばらくして、自宅に電話をいれてみたが、誰も出なかった。
 その電気工事技術者は、独身者であったから、もしも、本人が急病とかで電話に出れないものならば、電話をかけても無駄であった。その電気工事技術者は、事業所の車両を使って、アパルトマンに向かった。ということは、その車両も、その電気工事技術者の自宅にあるはずである。事業主は、さらに翌日も欠勤したのならば、誰かに見に行かせることも必要だと考えた。社員が少ない事業所だけに、何日も休まれるのは、業務に支障が生じる。
 さらに翌日も、電気工事技術者は欠勤した。ここに至って、事業主は、同じ方面に住んでいる社員に、帰りに様子を見に行かせることにした。途中下車になるが、この際、仕方がない。ところが、その電気工事技術者の家には、朝刊が2日分、玄関ポストに溜まり、あふれ返っていた。ここに至って、事の重大さがわかった。
 警察の調べで、その電気工事技術者は、アパルトマンの修理のあと、自宅に帰っておらず、事業所の車も、アパルトマンの近くに駐車したきりになっていた。これによって、電気工事技術者の失踪が決定的となった。
 ルナールのアパルトマンの住人は、ルナールの死亡事件の捜査の際に、停電騒ぎのことを告げなかったが、これは単にルナールの死亡と停電事件と結びつけて考えるものがいなかったためであり、停電騒ぎが約30分間程度で収まったためである。
 電気工事技術者が帰る際に、ギベールとカトリーヌ、そしてアパルトマンの管理人が立ち会っているが、誰も電気工事技術者の顔を直視したものはおらず、わずかに「そのとおり」という一語を聞いただけであった。カトリーヌによると、電気工事技術者は帽子をすっぽりとかぶり、帽子のひさしで顔がよく見えなかったという。「電気工事技術者が来たときと、帰るときでは顔が違っていたのではないか。」という私の問いかけに、3人はきょとんとした表情をみせた。
「帰りの電気工事技術者が、東洋人にすりかわっている可能性はないか。」との質問に3人は、まさか、という表情をみせた。
 これは、認識のシャットアウト現象である。棟方の影響で、ぼくは日本の歴史について調べたことがあるが、サムライの支配する江戸時代、日本は鎖国政策をしており、幕末に黒船が欧米より来訪するに及んで開国することになる。その当時の日本人は、自分たちの国の外部ということを、ほとんど意識していなかった。だから、黒船が近づいてきたときも、当然見える距離になっても、見えなかったという。
 アパルトマンに来た電気工事技術者は、アパルトマンから帰る電気工事技術者と、同一人物である。また、電気工事技術者は、自国民(フランス人)である。これらのドクサが、認識のシャットアウト現象を引き起こしたのだ。
 また、「そのとおり」の一言だけでは、個人の識別は難しい。ましてや、電気工事技術者は、3人にとってなじみのない初対面の人物だったのだ。
 電気工事技術者の失踪は、地元の警察署が扱っており、中央の警察は関与しておらず、したがってキャレ警部のいる殺人課には情報が伝わっていなかった。
 ぼくは、アパルトマンの管理人と、ギベールとカトリーヌの夫妻に無理に頼み込んで、302号室から天井裏に上がらせてもらった。懐中電灯を片手に、天井裏に上がっていったが、板の部分は大人が載ると底が抜けそうなほど脆弱で、柱の上を移動するしかなかった。だんだん、眼が慣れてくると、天井裏はかなりの密閉空間で、予想に反して埃は少なく、柱の上に靴跡は残されていなかった。電気の配線が目に付いたので、辿ってゆくと、306号室の上あたりで修繕した箇所を発見した。それは、専門の技術者が行なったとは考えられない粗雑な方法で、ただ繋ぎ合わせて、ビニールテープでぐる
ぐる巻きにしただけの状態であった。建物の補強のために、太い柱が何本もあり、懐中電灯の光が直接当たるのを避けたならば、充分闇の中に身を隠すことは可能なように思われた。
 天井裏は、思いのほか広く、306号室から天井裏に抜ける口を捜すのに難儀したが、わずかに漏れる光を手がかりに、やっと発見することができた。やはり、306号室の天井裏に抜ける口の上だけに、埃が山盛りになっており、不自然な印象があった。 ぼくはあらかじめ用意したビニールの袋に、その埃を採取して入れた。電気工事技術者の死体があるのではないか、と考えたが、発見することはできなかった。また、血痕などの痕跡をさがしたが、これも空振りだった。犯人は、ルナール殺しと違い、痕跡の残らない方法で、電気工事技術者を始末したに違いない。
 ぼくは、キャレ警部に会う前に、棟方と直接対決をする必要を感じていた。
 明後日の反原発集会の前に、ルナールのために決着をつけるのだ。

 カセットデッキAの出力端子から、もうひとつのカセットデッキBの入力端子に結びつける。カセットデッキAに、次々とカセットを入れてては、交換してゆく。早送りと、巻き戻しの繰り返し。無限に繰り広げられる編集作業。これが、何をもたらすか、は後のお楽しみだ。
 自分は常に、先の先を読んでやってきた。もうすぐ追っ手が来るだろう。しかし、それは自分の計算の中に入った事柄だ。ビートルズホワイトアルバムの中に収録された「Revolution 9」は、ピアノの音が流れ、No.9という男の声が繰り返される。そして、内乱を思わせる喧騒や、銃声、赤ん坊の声などが入り込む。この曲に関して、ビートルズマニアの評判は悪い。つまり、周りの取り巻きが悪いということだ。
 基本的に、ビートルズよりもローリング・ストーンズを聴いてきた。ゴダールは、「ワン・プラス・ワン」でローリング・ストーンズの練習風景のドキュメンタリーを、創作の中に取り入れたとき、ビートルズが嫌いだといったそうだが、それは単にビートルズに出演交渉をして、断られただけの逆恨みにすぎない。
「ミッシェル」のメロディアスなセンチメンタリズムよりも、破壊的な反抗の曲「黒く塗れ」を好んだ。ストーンズこそ、労働者階級の英雄だった。
しかし、あまり好きではないビートルズの曲の中にあって、「Revolution 9」という曲は、心のどこかに引っかかっていた。つまり、革命を起こそうという人間の頭の中を、革命するねらいがあったからである。
「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のアルバム・ジャケットは、<私の好きな人>というテーマで、古今東西の有名人の顔が並んでいる。その中に、ウィリアム・S・バロウズの顔もあったはずである。
 ウィリアム・S・バロウズは、ビート・ジェネレーションの作家で、カット・アップ、ホールド・イン・メソッドを文学に導入した。カット・アップは、要するに古今東西の名作や新聞や、ありとあらゆるものを切って繋ぐ方法であり、ホールド・インとは、切り貼りも面倒なので、折って違うセンテンスと繋ぐことである。この方法は、もともとは美術のコラージュの手法である。
 バロウズは、その著作の中でカット・アップによる音楽を夢想していた。さまざまな音源を切りつなぎ、時として早廻しや、逆回転を行い、再編集を行い、新しい音楽を
作り出すということである。
 この実験は、「Revolution 9」で初めて現実に存在する形をとった。
 ここから、聖書の朗読テープの逆回転で悪魔を召還する方法や、さまざまな音源をサンプリングして、フラクタルな音楽を生む潮流が生じたのである。ノイズ・インダストリアル・ミュージックなどというジャンルもまた、「Revolution 9」を母胎としているのではないか。
 自分は今、音源の編集を通じて、ある種の厄災を召還しようとしている。
 バロウズは、心霊学の軍事利用についても思考している。呪いAが効かなければ、呪いBを発動させる。呪いBも聞かなければ、呪いCを発動させる。
 自分は、自分の追及者をこの手で破滅させるだろう。そのための武器は、すでに用意されている。
 バロウズは、自分の敵を消去する方法についても思考している。写真の中に写ったターゲットの家を、切り抜き、焼き捨てる。こうして、ターゲットの消去された光景を、識閾下に焼き付ける。そして、意識の上では、これを完全に忘却する。
 自分は、自分の追及者をこの手で消去するだろう。そのために、やるべきことはやった。追い詰められているのに、ふつふつと悦びが沸いてくる。これは、残忍な笑いだ。
「観念論」は、大幅な方向転換を行ない、完成に近づきつつある。当初、ヘーゲルの「精神現象学」の真正面からの反転を行なおうとしたが、どうしても書き続けることができず、さまざまな文学作品にさまざまな症例を見て、そこに観念の発生から、党派観念としての完成を見て、それが自壊するまでを読み取る方法ならば、なんとかなりそうな気がしてきたのである。
 自分の方法は、徹底的に自己を否定して、泥沼の底まで自己を沈め、それでも否定しきれないものから、観念を撃つということである。そのために、自らがおぞましい怪物になり、鋼鉄の廃墟に魂を住まわせることにしたのである。
 そこには、天使的なものなど、入り込む余地はない。自分の造り上げつつあるシステムを廃滅するシステムに、天使的なものの侵入は、システム崩壊をもたらすだろう。もうひとつの革命の可能性など、握りつぶしてしまった方がいいのだ。自分は、純粋贈与による愛の空間、そんな甘美な誘惑など断ち切って、地獄の底を這いずり回る方を選んだのだ。地獄の業火に焼かれる苦痛ほど、愉楽に通じるものはない。
 棟方は、「観念論」のために用意した資料を、鞄の中から取り出し、広げ始めた。
 それは、古新聞であり、東アジア反日武装戦線の文字があった。
 笑い袋のような名前の爆弾の作り方が、そこには図入りで説明してあった。
 棟方は、そこから半分だけアイデアを拝借することにした。

「棟方さん、あなたはルナールのアバルトマンに何度も足を運ぶうちに、管理人が管理室を出て、101号室で過ごす時間帯を、把握したのです。あのアバルトマンの管理人は、朝の9:00から、夜17:00までしか管理室におらず、しかも11:40から12:30の昼食時も不在となる。しかも、10:00から10:30も、101号室で連続TVドラマを見るために、101号室に戻ってしまう。あなたは今回の犯行を、すべて管理人が管理室を不在にする時間帯に行なっているのです。11月1日、20:10ごろ、ルナールが自宅に帰宅すると、すでに306号室の中にいました。ルナールと付き合っているうちに、ルナールの隙をついて、合鍵をつくったか、あるいは独自のピッキング・ツールでも持っていたのでしょう。後の犯行を想定すると、後者の可能性が高いと考えますが。あなたは、そこで<薔薇十字啓明会>の資料を物色中だったのでしょう。あなたは、事前に用意していた薬物を使って、ルナールを昏睡状態にし、ルナールの鞄の中から、拳銃を取り出し、ルナールの右手に握らせた上で、ルナールの頭の右側に銃口をあてがいながら、引き金を引いたのです。その際、サンレンサーがついていたことと、アパルトマンが防音構造になっていたことで、幸い隣室には判らずに済みました。そして、自分が来た痕跡を消して、物入の天井の入り口から、屋根裏部屋に上がったのです。なぜ、天井裏に上がるようなことをしたかといえば、ルナールの死を自殺に見せかけるためでした。」
 ジベールの追求を、棟方は黙って聞いている。
「天井裏に登ったあなたは、天井裏に走っている電線を切断します。3階は、急に停電になり、302号室の住人が電気工事技術者を呼びます。派遣されてきた電気工事技術者は、天井裏の電線が断線していると判断し、302号室の物入の天井の入り口より登ります。闇の中の物陰に潜んでいたあなたは、またしても薬物を使い、電気工事技術者を失神させ、今度は銃ではなく、さらに短期間で叫び声も出せなくなるような致死性の薬物で死に至らしめます。銃を使わなかったのは、音の問題もありますが、なによりあなたが欲しかったのは電気工事技術者の制服だったからです。あなたは死亡した電気工事技術者から衣類を奪い、それを着ました。幸いなことに、電気工事技術者の制服は、帽子つきでした。そして、電気工事技術者の持っていた工具を用い、電線を繋ぎ、テープで固定しました。こうして、修理が終わったふりをして、あなたは電気工事技術者の格好で302号室から出て行ったのです。その際、あなたは日本人であることがわからないように、最低限度の言葉しか発しませんでした。こうして、あなたは11月1日
中に、ルナールのアパルトマンを脱出したのです。そして、11月2日の朝に、自分で落し物を捏造して、警察に届けたり、パリ第一大学の校内を目立つように歩き回ったのです。ルナールのアパルトマンで、ルナールの死亡推定時刻以降に空室となったのは、11月2日の10:50、304号室が最初でした。仮に天井裏のトリックに気づく者がいても、11月2日朝の警察署でのアリビ(現場不在証明)があなたを守ってくれるというわけです。」
 さらに、ジベールは続けた。
「さて、天井裏に残った電気工事技術者の死体は、早々に片付けないと墓穴を掘ることになる。あなたは、11月3日以降、再度ルナールのアパルトマンの管理人室が空室になる時間帯を狙って、3階の留守宅に侵入します。おそらく、一人住まいの304号室あたりが狙い目だったでしょう。こうして、電気工事技術者の死体を運び出し、おそらくは車でパリ郊外の森に埋めたのでしょう。」
「ほぉ、貴方はそこまで、考えたのですね。」暗い闇の中で、棟方はつぶやいた。
「貴方は、私がルナールを殺害する動機があるとでも…。」
「棟方さん、あなたはルナールの思想に、ことごとく対立していた。<赤い生>でルナールはロシア・マルキシズムとは違う別な革命の可能性を模索していた。しかし、あなたは、すべての革命は、無限のテロルと専制に行き着くとして、取り合おうとはしなかった。あなたは、ロシア・マルキシズム弁証法的権力を見出し、そこにテロリズムの根源を見ようとした。仮に、弁証法が個の主張を圧殺する論理になりやすいにしても、それならなぜ反弁証法的、もしくは脱弁証法的な別な革命の可能性を追求しようとはしないのか、とルナールなら言うでしょう。また、ルナールの<現代思想研究会>は、フーコードゥルーズデリダの思想を探求していたけれども、あなたの哲学はフッサールバタイユが核となっており、両者は厳しく対立する関係だった。さらに<薔薇十字啓明会>は、絶対に到達するためには、執着をなくし、どこにも拠点を置かないことを主張していたのに対し、あなたは絶対に到達するためなら、殺戮も辞さないタイプだった。」
 棟方は、なにがおかしいのか、くっくっと笑い始めた。
「貴方は、さまざまな推理を聞かせてくれたけれども、それはこのような可能性があるというだけで、こうであったという決め手にかけています。依然として、ルナールは自殺の可能性はあるし、電気工事技術者の失踪はルナールの死と無関係なものなのかも知れない。また、ルナールの死が他殺としても、それは私が犯人であるとは限りません。ルナールは、その政治的・思想的・宗教的言動で、多くの味方と同時に、敵を生みました。私はルナールの死を、体制による謀略と考えています。」
 なにを言い出したのか、ジベールには棟方の考えがよくつかめなかった。
 棟方は、ルナールの死を、政治的な暗殺であるという説を展開し、ルナールの死に憤りを感じているという。こうして、ジベールが仲間を疑い、査問を行なうようになったのも、すべて体制による謀略であり、明日の集会ではルナール暗殺に抗議する追悼集会にしたいというのである。
 いままで、<赤い生>の政治路線に、終始否定し続けた棟方が、どうしたわけか、明日の反原発デモと集会に全面協力をしようというのである。棟方は、いままでひたかくしにしてきたけれども、日本ではオルガナイザーとして、その筋の者には有名な存在だったのだと語った。そして、自分もルナールのために、アジ演説を行ないたいので、明日の集会の日程が詳しく知りたいと言ってきた。
 ジベールの演説の時間帯や、演台の位置や高さ、周りの状況に関するつっこんだ質問を、棟方はしてきた。
 なぜか、棟方は急に積極的に関与してきたのである。

 棟方はなぜ<赤い生>に協力する気になったのか。自分の疑いは、誤りだったのか、ジベールは自問した。その日の晩は、ジベールは寝付かれなかった。
 翌日、散々迷った挙句、ジベールはキャレ警部に連絡を取ることにした。
 キャレ警部は体制側の人間であるという意識と、自分の反政府活動のポリシーに矛盾を感じないわけではなかったが、自分の発見を黙っていることは出来なかった。
 キャレ警部は、電気工事技術者の失踪事件のことは知っているといい、ジベールの推理を聞いて、本日中にもルナールのアパルトマンの天井裏の捜査と、電気工事技術者の死体を運ぶためにレンタカーを借りた形跡の有無に関する調査、電気工事技術者の死体を隠した場所(森や川底等)の調査を開始することを約束してくれた。
 その日のジベールの活動は、多忙を極めた。ラングドッグの原子力発電所開発計画反対行動には、ルナールの事前準備の甲斐があり、内外の反体制グループ、エコロジストグループ、市民団体など多数が集まった。ルナールの死は、活動家の一部に伝わっており、今回の行動にルナール追悼の意味を込めて参加するものも多かった。ジベールは、ルナールに代わる新指導者として、これらの団体のリーダーに謝礼を込めて、挨拶をして廻り、本日の行動に関して、再確認を行なった。
 まず、午前中、原子力発電所開発地域に向けて、渦巻き状にデモを行う。この際に、渦巻きは、徐々に原子力発電所を中心に、円周を狭めてゆく形をとる。こうすることで、原発推進派に威圧感を与えようというのである。
 次に、原子力発電所開発地域に隣接した公園にて、反対集会を開く。この際、各グループの代表者の演説が行なわれることになっており、正確に持ち時間が決まっていた。ジベールもまた、演説が予定されていたが、<赤い生>は一部の政治集団の幹部には知られていたとはいえ、表舞台に登場したことはなく、このときも<赤い生>の代表としてではなく、ラングドッグ原子力発電所開発計画反対同盟代表として紹介される予定であった。
 最後に、公園から放射状の方向にデモ行進を行い、散会となる。
 デモと集会は、原発反対派の存在の大きさを示すことが第一にあり、おそらく警官隊の監視がなされるであろうが、一人の逮捕者も出さないよう整然と行なうことを各グループにジベールは申し入れた。
 午前中のデモは、警官隊が現れたが、混乱を招くことなく、整然と行なわれた。予想に反し、参加者は多く、事前の盾看板やポスターによって、反対集会には一般市民も多
数参加しているようであった。プルトニウムの再利用と、軍事目的への転用には、不安を持っているものが少なくないことをジベールは感じていた。
 心の中で、ルナールに向けて「姐さん、勝利だよ。勝利だよ。」とつぶやいていた。
 棟方は特に不審な行動を示すことなく、午前中からジベールの左側後ろについて廻った。ジベールは棟方の突然の飛び入り参加に、なにか釈然のしないものを感じていた。
棟方は、「黒」と断定するのは早いにしても、依然「灰色」であることには変わりない。
 ジベールは、反対行動の遂行状況に気を配りながらも、棟方の行動に注意をしていた。反対集会は、順調に進み、もうじきジベールの演説時間が近づいていた。さまざまな色の旗や、手製の垂れ幕が続く中、人の波をかき分けながら、ジベールは演壇に登っていった。
 ジベールは、マイクをもってしゃべり始めた。
「この集会を企画したある女性指導者は、人類の将来に関して一抹の不安感を感じていました。原子力発電所開発計画は、さまざまな危険性を想定し、それを回避するために、原子炉の防護壁を幾重にもしたり、メルトダウンを避けるため冷却水を注入する仕組みなどがなされています。しかし、我々はそれでも完全に危険要素を除去することができないと考えています。ひとつには発電所設備が将来老朽化し、金属疲労などが起きてくる問題です。放射能で汚染された空間内で、修理を行なうために、産業用ロボットなどの開発も進んでいますが、多くは下請け会社の低賃金労働者に危険な仕事を任せることになります。また、原子力政策自体、安全神話に支えられて遂行されているため、発電所内で起きた事故やトラブルに関する情報が隠蔽され、さらに大きな事故に結びつく可能性があります。また、放射能を含んだ産業廃棄物の処理方法に関しては、現在、完全な処理方法が確立されていません。せいぜい、幾重にした容器に入れ、さらにそれにコンクリートで包み、地底深く、あるいは海中深く沈める方法しかありません。そして、この方法では、放射能廃棄物が半減期を迎える前に漏れ出すのは確実で、植物や魚がそれを摂取し、めぐりめぐって我々の食卓に廻ってくることもあり得ます。化学汚染について、食物連鎖の関係で、ある生物を食べるものは、何匹も食べますから、体内で化学物質が濃縮されることが指摘されています。放射性廃棄物についても、人間の食卓に廻ってくるときには、濃縮されて廻ってくるでしょう。この問題に対して、わが政府は、プルトニウムの再利用を考えました。放射性廃棄物の中でも、特に致死性の高い物質ですが、これを再度発電に使ったり、核兵器に転用しようというわけです。これは、より危険性の高い方法の選択といえます。こうしてみると、原子力発電所問題は、単なるエネルギー開発に関わる問題にとどまらず、エコロジーの危機の問題であり、核兵器開発の問題でもあることがわかってきます。私の尊敬しているある女性指導者は、将来の子供たちのために、生贄が必要なのか、と自問しました。そして、自分を苛めながら、反原発運動にのめりこんだのです。ラングドッグでの原子力開発計画は、ロベルト・ユンクの指摘する原子力帝国の始まりでもあります。この地域に、原子力発電所が出来ることで、この地域は厳重な警備体制に置かれるでしょう。それは、原子力発電所を狙うテロリスト対策の意味もありますが、反対派の一般市民を締め出し、この帝国
内で起きた問題やトラブルに関する情報を囲い込むためのものなのです。」
 そのとき、パーン、パーンと拳銃を撃つ音が聴こえ、「警官が撃ってきた。」という叫び声がどこからか聞こえてきた。静かだった集会会場に動揺が入り、「どこだ。どこだ。」という声とともに、「撃たれる。撃たれる。」という悲鳴が聞こえた。騒然とした参加者たちは、自分たちが危険にさらされると思い、慌てて公園の外に出ようとした。そして、公園の周りを取り囲んでいた警官隊ともみ合いになった。
 ジベールは、信じられなかった。武器を持たないものに、警官とはいえ、いきなり発砲してくるものだろうか。
 公園の隣のマンションの硝子が反射して、ジベールは手をかざそうとした。そのとき、再度パーンという音がして、ジベールは胸を押さえた。ジベールは前方から撃たれたのだ。
 ジベールが倒れると、背後にいた棟方が駆け寄った。
 そして、棟方は「救急車を。救急車を、早く。」と叫んだのである。しかし、その叫びもむなしく、銃弾はジベールの胸の大動脈を掠めており、おびただしい血を流しながら、まもなくジベールは絶命した。

 ルナールとジベールが故人となった後、ふたりの指導教官であった私は、ルナールは、家族と離反して暮らし、ジベールのまた孤児として生まれ、苦労して大学を通う身であったこともあり、ルナールの手帳と、ジベールの手記を入手することになった。
「天啓の骸」は、ふたりの残した手帳と手記をもとに、私が再構成したものであった。
わたしもまた、ふたりの死に関して、棟方を疑っていた。「天啓の骸」を書かせたのは、ふたりへの想いと棟方の告発のためであった。
 その後、キャレ警部を通じて、捜査状況を確認したところ、ルナールのアパルトマンの天井裏から、電気工事技術者のものと考えられる毒物入りの吐瀉物が少量見つかったという。また、最近つけられた足跡で電気工事技術者以外の足跡が2名発見された。このうち、一人はジベールのものと判明したため、もうひとつが犯人のものと考えられた。しかし、靴の線は、大量生産品で、どこの店でも置いてある品で、入手ルートの特定はできなかった。犯人の靴底の付着物と、306号室からの天井裏への入り口に置かれた埃は、同一のもので、ルナールのマンション付近の砂などが混じっており、この線でも犯人の特定には至らなかった。レンタカーの捜索に関しては、パリの業者をしらみつぶしにあたったところ、11月3日に、偽造免許証で車を借りた男性が1名あるとわかったが、業者は男の顔をよく見ておらず、免許証の写真は他人のものである可能性が高かった。この免許証の偽造の線では、最近法外な料金で、パスポートなどの偽造を行なう闇業者がサン・ドニ街に多く、そのうちのどれかと考えられたが、特定は出来なかったという。電気工事技術者の死体を隠した場所については、ブローニュの森などが調べられたが、いまのところ発見されてはいない。錘をつけて、セーヌ川に落とした可能性すらあり、ある程度隠し場所の目星がついていないと、捜索は難航しそうであった。注目すべきことは、306号室と304号室のドアの鍵を、解体して中を調べると、シリンダーに無数の傷がついており、針金状のもので引っ掛けて、鍵の開け閉めを行なったことが推定できるという。また、ジベールが死に至った政治集会の場では、実際に銃弾が発射されたのは、ジベールに貫通したライフル銃だけで、警官隊が発射した事実もなければ、発射された痕跡もなかったという。キャレ警部は、最初の二発の銃声や悲鳴などは、おそらくどこかに仕掛けられた録音テープを流したのではないかという。つまり、会場を混沌に陥れるための悪戯である、という。はたして、ジベールに向けられた銃弾は、どこから発射されたのか。最大の容疑者である棟方は、犯行がなされたとき、ジベールの背後におり、前からジベールを撃つことはできないはずである。キャレ警部もまた、その点を疑問に思っていた。キャレ警部は、棟方に共犯者がいるのではないかと推測し、その線を当たっているといった。
 私は、ジベールが絶命した集会会場にいってみた。そして、そのままになっていた演壇の上に立ってみた。ジベールの胸を貫通するには、どの方向から撃てばいいのか。
 私は公園の隣のマンションにいってみた。管理人にきいて、公園側に空室がないか、尋ねてみた。3階にひとつだけ空室があった。管理人に頼み込み、その部屋を見学させてもらった。窓を開けると、公園が見えた。演壇の位置は、その窓から近く感じられた。窓枠を良く見ると、下の方にへこみが見つかった。これは、以前からあったものか、と管理人は知らないといい、以前住んでいたものがつけた傷かも知れないと答えた。私は、窓と反対側の壁のやや上の方に、緑のピンが打ち付けられているのを発見した。これについても、管理人は知らない、といった。
 私は、この発見をキャレ警部に知らせることにした。おそらく、この部屋の入り口の鍵についても、中を解体すると無数の引っかき傷が見つかるはずである。
 私の推理はこうだ。
 窓枠の傷は、ライフルの銃身がずれないように固定するためのものだ。ライフルの引き金には、紐をくくりつけるが、引き金から外れないようにするために、紐はやや上から引っ張る必要がある。緑のピンを支点にして紐は、モーターにくくりつけ、電流が流れるとモーターが回転し、紐を巻き取るようにする。モーターは、時間がきたら流れるように、時計をタイマー代わりにする。
 しかし、犯行方法が判明しても、犯人の特定には至らない。棟方は「灰色」で留まるのだ。
 棟方が殺害したと疑われる人物は三人いる。
 第一は、ルナールであり、生きていれば、あり得たかも知れない、テロリズムに帰結しない、もうひとつの革命の可能性である。
 第二は、電気工事技術者であり、ルナールが生きていれば、死なずにすんだかもしれない、名前すら知らない一般人である。
 第三は、ジベールであり、生きていれば、生前解脱者として、超越的なものを志向するものにとっては指針となりえたかも知れない存在である。
 この三人の死は、とてつもなく大きい。

 その後、事件から二十年近い年月が流れた。
キャレ警部の必死の調査にも関わらず、棟方を犯人とする決定的な証拠は発見されず、棟方はのうのうと生きている。「観念論」を書いていた棟方は、あの事件のあと推理小説の書き手となり、ほとぼりが過ぎたのか日本に帰っていった。私は、彼が推理小説作家になったのは、少なからずあの事件の影響を蒙っていると思う。
 棟方は、最初の推理小説「暗い天使」で、スタンダールが『赤と黒』で取り上げたルナールではないもうひとりの名前の人物を登場させた。ルナールが語ったのは、もうひとつの革命の可能性であったが、棟方の「暗い天使」では、ただひとつの革命の不可能性が語られた。そして、もうひとつの革命の可能性の否定によって、革命によらずして死に至るしかない無名の人々の存在に関して、主人公に「すべてよし」というセリフを言わしめたのである。
 第三作目の推理小説「両性具有殺人事件」で、棟方はジベールによく似た名前の男を、生前解脱者として登場させるが、一言もしゃべらないうちに、作中で殺してしまうのである。ようするに、棟方には生前離脱者というものが理解不能であるために、生きた生前離脱者を描くことが出来ないのである。
 棟方は「両性具有殺人事件」を発表後、「観念論批判」という哲学書を発表する。これは、パリ在住時代の「観念論」が結実したものである。これにより、棟方は<マルクス葬送派>とされ、思想界に認知されるに至るのである。しかし、その時代は日本でのポストモダニズム全盛期であった。
 棟方の年月をかけた「観念論批判」は、根暗のパラノとして一笑にされるのである。
棟方はマルクス主義批判を現象学に依拠していたのに対し、ポストモダニスト現象学の基盤を脱構築しようとしていたのである。また、棟方はバタイユを「弁証法を廃滅する反弁証法」である評価したのに対し、ポストモダニストは「構造とその外部の弁証法」として否定評価したのである。
 小馬鹿にされたと判断した棟方は、ポストモダニスト葬送宣言を行い、「<遊戯>というシステム」を発表する。その本は、街はデリダの口真似で、<遊戯>せねばならないという声で満ち溢れているが、それは強制的なシステムにすぎず、本当の<遊戯>はそういうシステムを罵倒することにあるという主張をするものであった。
 これにより、棟方は思想界で完全に孤立することになる。
 棟方は、ポストモダニストの言説に、自分が殺したルナールとジベールの亡霊を感じていたのかも知れない。なぜなら、ポストモダニストたちは、まるで示し合わせたように「天使的交換」や「天使的生成変化」といった言葉を多用し、「エンジェリック・カンヴァセーション」や「ベルリン・天使の詩」といった映画を好んだからである。つまり、ポストモダニストの理論の核心には、天使の持つ中間性の知性という問題があったのである。
 棟方はしばらく「吸血鬼戦争」といったSF伝奇小説を書く。このシリーズが世間的に最も成功した作品といえる。そして、数年後、「吸血鬼戦争」の愛読者だった者が、カルト宗教にはまり、新たなテロリズムに道を開くことになる。
 棟方は再度、新本格派、もしくは推理小説の第三の波の先駆者にして、理論家というポジションで推理小説の世界に舞い戻った。そして、子供の頃からの夢であった人々の精神的指導者になる夢を、ミステリー業界で達成しようと考えたのである。この夢は、当初思想界でなされる予定であった。一時期のサルトリがそうであったように、思想界を自分の言説で圧倒したいと考えていた。しかし、あのポストモダニストたちに、その夢は阻まれてしまった。幸い、棟方の眼からすると、ミステリー評論の世界は、思想業界より支配がたやすいように思われた。新左翼時代から練り上げた自分の文体ならば、赤子の首をひねるように、たやすく制圧できたのである。こうして、棟方は推理小説研究会の精神指導者の地位を得ることが出来た。
 しかし、天藤尚巳のウロボロスシリーズとは、あのときのポストモダニストの言説になんと似ていることか、と棟方は考える。あのときのポストモダニスト脱構築を唱え、スキゾを称揚したのに対し、天藤のウロボロスは探偵小説の脱コードを唱え、これまたスキゾを称揚した。
 しかも、天藤は自分の批評をのらりくらりとかわすだけで、あまり気にしていないようなのである。そして、最近は自分の理解の範疇を超えた脱コード派の新人推理小説作家が、講壇社ノベルスを中心にどんどん輩出されてきている。
 小馬鹿にされたと判断した棟方は、メタフィクション葬送宣言を行い、「天啓」シリーズを発表する。その本は、街は天藤の口真似で、<面白ければ大丈夫>という声で満ち溢れているが、それは大文字の作者を延命させるシステムにすぎず、本当の<文学>はそういう大文字の作者を消去することにあるという主張をするものであった。

 私はルナールとジベールのために、二種類の小説を書いた。
 一種類は「天啓の骸」といい、もう一種類は「ウロボロス IV」という名前の小説であった。
 そして、棟方を葬送するために、ひそかに日本に帰国した。
 私は、棟方が主催する推理小説推奨賞に、「ウロボロス IV」を天藤尚己の名前で応募した。「ウロボロスIV」は、天藤尚巳とそっくりの文体・内容の小説であり、「天啓の骸」以上に完璧な作品である。人は、天藤尚己のことを、天藤尚巳と錯誤するに間違いない。これは、推理小説推奨賞の第一次審査を、最有力候補として突破するための戦略であった。
 あの天藤尚巳が書いたとおぼしき小説を、第一次審査で落とす者はいないであろう。
 最終審査では、棟方自身のチェックが入る。
 私は、代理人を使い、最終審査の前に、審査委員に渡された「ウロボロスIV」の原稿とコピーを、最終審査前に、加筆・修正をしたいと称し、完全回収して廻った。
それは棟方の「天啓」第一作のエピソードを髣髴させるやり方であった。
 次に、「天啓の骸」のコピーを審査員の人数分作成し、「ウロボロス IV」最終原稿在中と封筒に朱書きして、棟方宛の宅配伝票を貼り付け、コンビニエンスストアから発送した。それと同時に、全審査委員に「ウロボロス IV」の最終原稿は、すべて棟方冬紀氏に送付したので、棟方氏から受け取っていただきたい旨を、葉書に書いて投函した。
 棟方には、ふたつの選択が残されている。前者は「天啓の骸」の原稿コピーを、審査委員に渡すことである。これは、棟方自身の社会的な死を意味する。後者は「天啓の骸」を闇に葬ることである。これは「ウロボロス IV」が傑作との評判が高かった
だけに、作品の消失によりミステリー史上の幻の作品との評価を確定的にするであろう。そして、天藤尚巳ではない、天藤尚己という大文字の作者を消すということに、棟方自身が貢献してしまうことになるだろう。そして、後者の選択をしても、棟方の社会的信用は失墜することは確実である。
いずれにせよ、証拠のない犯罪の告発として、所期目的を達成することになる。

 


(注)本小説は、竹本健治ファンによる創作専用掲示板「破壊者の幻想譜」に、黒樹龍思名義で初回掲載された作品です。本小説の著作権は、原田忠男にあります。本小説の無断複写(コピー)・複製・転載は、著作権法上の例外を除き、禁止されています。

現代を読み解くための推薦ブックリスト ~「薔薇十字制作室」アーカイヴ

※私のホームページ「薔薇十字制作室」

http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/ は、ジオシティーズのサービス停止に伴い消滅するので、こちらに移行させることにします。

※ホームページ「薔薇十字制作室」に掲載していた書影は、転載しませんでした。

書影を愉しみたい方は、以下をご覧ください。

harapion.tumblr.com

 

シュルレアリスム(超現実主義)関連 一部ダダイズム未来派

シュルレアリスムの概説書>
パトリック・ワルドベルク『シュルレアリスム』(河出文庫)、巌谷國士シュルレアリスムとはなにか』(ちくま学芸文庫

アンドレブルトンの作品>
シュルレアリスムの総帥。フロイト精神分析学の影響を受け、潜在意識(無意識)の世界を探求。
文学・哲学思想はもとより、20世紀の芸術全般に影響を与えた。
文学の世界では、自動速記法(オートマティズム)を導入し、理性の検閲なしに無意識が現れることをもくろんだ。
その後、トロツキズムに接近。無意識の根底からの永久革命を模索。
『超現実主義宣言』(中公文庫・生田耕作訳)、『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(岩波文庫巌谷國士訳)、『ナジャ』(白水社Uブックス・岩波文庫)、『シュルレアリスム簡略辞典』(現代思潮社ポール・エリュアールとの共編)、『超現実主義とはなにか』(思潮社)

マックス・エルンストの作品>
コラージュを用いた作品で、絵画におけるシュルレアリスムをリードする存在であった。
『百頭女』(河出文庫)、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(河出文庫)、『慈善週間 または七大元素』(河出文庫

ルイ・アラゴンの作品>
シュルレアリスト・グループの一員であったが、その後コミュニストに転向。運動を離脱。
『イレーヌ』(白水社Uブックス)

<アントナン・アルトーの作品>

シュルレアリスム宣言第三号までシュルレアリスム・グループとともに行動したが、その後完全な狂気の世界に入る。シュルレアリスムを超えてしまった人であり、その極限の思考は寺山修司ドゥルーズ=ガタリにも影響を与えている。
ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』(白水社Uブックス)、『神の裁きと訣別するため』
【カセットブック】(ペヨトル工房・絶版)、『ヴァン・ゴッホ~社会に殺された者』(ちくま学芸文庫

ルネ・ドーマルの作品>
シュルレアリスム系の「大いなる賭け」グループに所属。グルジェフの影響を受けて書かれた『類推の山』は澁澤が愛した形而上学的登山小説であり、後にホドロフスキー監督による『ホーリー・マウンテン』の原作ともなった。
『類推の山』(河出文庫

ロートレアモン伯爵(本名イジドール・デュカス)の作品>

シュルレアリスムの先駆者。『マルドロールの歌』は、シュルレアリストのバイブルとなった。「ミシンと洋傘の手術台のうえの、不意の出逢いのように美しい」のくだりはあまりにも有名。
『マルドロールの歌』(角川文庫・絶版)、『マルドロールの歌』(集英社文庫)、『ロートレアモン全集』(ちくま文庫

マルキ・ド・サドの作品>
ロートレアモンと並ぶシュルレアリストのバイブル。人類史上最大の悪書として、20世紀のシュルレアリストサルトルボーヴォワールカミュモーリス・ブランショフーコーらの評論で思想小説としての復活を遂げた。
悪徳の栄え(上・下)』(現代思潮社澁澤龍彦訳・現在下巻についても無削除版が出ている)、『悪徳の栄え』(角川文庫・絶版・澁澤龍彦訳/河出文庫・全2冊)、『美徳の不幸』(角川文庫・絶版・澁澤龍彦訳/河出文庫)、『ジュスティーヌあるいは美徳の不運』(岩波文庫・全訳版)、『新ジュスティーヌ』(河出文庫澁澤龍彦訳)、『恋のかけひき』(角川文庫・絶版・澁澤龍彦訳)、『恋の罪』(岩波文庫)、『食人国旅行記』(河出文庫澁澤龍彦訳)、『閨房哲学』(角川文庫・絶版・澁澤龍彦訳/河出文庫)、『ソドム百二十日』(角川文庫・絶版・澁澤龍彦訳/河出文庫)、『サド侯爵の手紙』(澁澤龍彦著・ちくま文庫)、『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』(岩波文
庫)、『恋の罪』(岩波文庫

<J・K・ユイスマンスの作品>
自然主義文学に属するが、エミール・ゾラと異なり、デカダンス・オカルト・反世界・神秘に関心が向いた作品を発表。
『彼方』(創元推理文庫)、『さかしま』(河出文庫澁澤龍彦訳)

シャルル・フーリエの作品>
空想的社会主義者に分類できるが、その構想はシュルレアリスティックであり、(正常/異常)の二項対立がきっちりとできているサドやバタイユのプレ・モダン・モデルより現代的である。フーリエにおいては、異常な逸脱が尊重され、逸脱の逸脱によって、次第に強度をもった空間に突入してゆくからである。
シャルル・フーリエ『四運動の理論』(現代思潮新社・全2巻)、『愛の新世界』(作品社)

<ギョーム・アポリネールの作品>
『アルコール』や『カリグラム』の詩人は、シュルレアリスムの先駆者であり、ピカソとも交流があり、「キュビズムの画家たち」も書いているアヴァンギャルドであった。
ギョーム・アポリネール『虐殺された詩人』(講談社文庫・絶版)、ギョーム・アポリネール『異端教祖株式会社』(講談社文庫・絶版)、ギョーム・アポリネールアポリネール詩集』(新潮文庫)、『一万一千本の鞭』(角川文庫・絶版)、『若きドン・ジュアンの冒険』(角川文庫・絶版)

アレフレッド・ジャリの作品>
ダダイズム系の作家。
アレフレッド・ジャリ『超男性』(白水社Uブックス・澁澤龍彦訳)

ロジェ・カイヨワの作品>

バタイユらとともに<社会学研究会>を結成。文化における遊びの重要性に注目。
『妖精物語からSFへ』(サンリオSF文庫・絶版)

<A・P・ド・マンディアルグの作品>

『満潮』(奢覇都館/牧神社)、『黒い美術館』(白水社Uブックス)、『城の中のイギリス人』(白水社Uブックス、澁澤龍彦訳)、『ボマルツォの怪物』(河出文庫澁澤龍彦訳)


神秘主義関連と宗教学全般

<神秘学(隠秘学)一般>
ここでは荒俣宏の概説書と笠井叡の秘教的な著作を挙げておこう。
荒俣宏編『世界神秘学事典』(平河出版社・絶版)、荒俣宏『本朝幻想文學縁起』(工作舎集英社文庫)、荒俣宏『99万年の叡智』(平河出版社・絶版)、荒俣宏鎌田東二編『神秘学カタログ』(河出書房新社)、笠井叡『天使論』(現代思潮社

<ヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエの作品>
クリスティアンローゼンクロイツにまつわる薔薇十字団伝説の元となった薔薇十字基本四文書(『全世界の普遍的かつ総体的改革』『薔薇十字団の名声(ファーマ)』『薔薇十字団の信条告白(コンフェッシオ)』『クリスティアンローゼンクロイツ化学の結婚』)を収録する。
化学の結婚』(紀伊國屋書店種村季弘訳・函入り)

<ルドルフ・シュタイナーの作品>
ゲーテ学者であり、ニーチェ学者でもあったシュタイナーは、霊視能力があり、そのことをひた隠しにしてきたが、マダム・ブラバツキーの神智学会に出会い、霊能力を開花、その後独立して人智学を唱える。その考えは、単に神秘思想にとどまらず、教育・医学・農業・建築・社会運動(制度と しては民主主義、精神活動には自由主義、経済政策としては社会主義という三層化運動)にも影響を及ぼす。だが、人智学協会の本部ゲーテアヌムをナチスに焼き討ちされ、絶望のうちに死ぬ。
『第五福音書』、『血はまったく特製のジュースだ』、『オイリュトミー芸術』(イザラ書房)、『神智学』、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』、『神秘学概論』(以上、イザラ書房/ちくまちくま学芸文庫)、『自由の哲学』『オカルト生理学』『治療教育講義』『シュタイナーの死者の書』(ちくま学芸文庫)、『魂のこよみ』(ちくま文庫)、『薔薇十字会の神智学』、『秘儀参入の道』(以上、平河出版社)、『アーカーシャ年代記より』、『いかにカルマは作用するか』、『人智学・神秘主義・仏教』(人智学出版社)、『仏陀からキリストへ』(書肆・風の薔薇)、『教育術』(みすず書房)

<ヘルマン・ベックの作品>
仏教学者。シュタイナー思想に共鳴し、人智学運動に加わる。
『仏教』(岩波文庫)、『インドの叡智とキリスト教』、『秘儀の世界から』(以上、平河出版社)

<G・I・グルジェフの作品>

ロシア最大のオカルティスト。<人間は機械である>として、そこから脱出する第四の道があるとして、独自のワークを行うスクールを、ウスペンスキーらと設立。
その思想は、コリン・ウィルソンや、現代のトランスパーソナル心理学にも影響を与えている。
『ベルゼブブの孫への話』(平河出版社)、『注目すべき人々との出会い』(めるくまーる社)、『生は<私が存在し>初めて真実となる』(平河出版社)

<P・D・ウスペンスキーの作品>
東方的グノーシス主義の形態である高次元思想を展開。また、グルジェフのシステムを明快に体系づけたことでも知られる。
『ターシャム・オルガヌム第三の思考規範~世界の謎への鍵』(コスモス・ライブラリー)、『奇蹟を求めて』(平河出版社)

<アレイスタ・クロウリーの作品>
英国黄金の暁会(ゴールデン・ドーン)を離脱後、魔術結社銀の星を設立。ヨーガなども取り入れた儀礼魔術を追求し、二十世紀最大の魔術師と呼ばれるようになる。
『法の書』を新しいテレマとする反キリスト教的言動により、黒魔術師・食人鬼などの風評が立つ。
『魔術~理論と実践』(国書刊行会・全2巻)、『トートの書』(国書刊行会)、『777の書』(国書刊行会)、『法の書』(国書刊行会)、『ムーン・チャイルド』(創元推理文庫)、『黒魔術の娘』(創元推理文庫)

<W・B・イエイツの作品>
英国黄金の暁会に所属。詩人。ノーベル文学賞受賞。
『幻想録』(ちくま学芸文庫)

イスラエル・リガルディーの作品>
英国黄金の暁会(ゴールデン・ドーン)で行われていた全儀礼魔術を暴露する『黄金の夜明け魔術全書』を発表することにより、黄金の暁会を解散に追い込んだ。但し、彼のこの行為がなかったら、今日黄金の暁会は世に知られることなく終わっていただろう。リガルディーはユングライヒの心理学に通じたカイロプラティックの治療師でもあった。
黄金の夜明け魔術全書』(国書刊行会)、『柘榴の園』(国書刊行会)、『召喚魔術』(国書刊行会)

<ダイアン・フォーチュンの作品>
元英国黄金の暁会(ゴールデン・ドーン)の会員であり、その後通信教育による魔術学習を取り入れた「内光教会」を設立する。
『神秘的カバラ』(国書刊行会)、『心霊的自己防衛』(国書刊行会)

<W・E・バトラーの作品>
「内光教会」の分派「光の侍従団」を設立。
『魔法入門』(角川文庫・絶版)、『魔法修行』(平河出版社)

<フランシス・キングの作品>
イギリスの魔術研究家。黄金の暁会について詳しい。
『飛翔する巻物(編)』(国書刊行会)、『英国魔術結社の興亡』(国書刊行会)、『性魔術の世界』(国書刊行会)、『魔術』(澁澤龍彦訳・平凡社

<鎌田東二の作品>
神道霊学の研究者であり、スサノオ出口王仁三郎宮沢賢治・シュタイナーにも造詣が深い。
ミュージシャンとして「神道ソング」の作詞・作曲・実演も行っている。
『身体の宇宙誌』、『聖なる場所の記憶』(以上、講談社学術文庫)、『神界のフィールドワーク』
ちくま学芸文庫

<小松和彦の作品>
構造人類学の成果をもとに日本民俗学を書き換えようとしている気鋭の学者であり、日本の怪異・妖怪伝承データベースの作成にもかかわった。四国のいざなぎ流の呪祖法の研究で有名。
『憑霊信仰論』(講談社学術文庫)、『他界への冒険~失われた鬼を求めて(立松和平との対談)』、『日本の呪い~「闇の心性」が生み出す文化とは』、『鬼がつくった国・日本(内藤正敏との共著)』(光文社文庫)、『神々の精神史』、『新編・鬼の玉手箱~外部性の民俗学』(福武文庫)、『悪霊論』、『異人論』(ちくま学芸文庫)、『妖怪草紙(荒俣宏との対談)』(学研M文庫)、『日本異界絵巻(宮田登鎌田東二南伸坊との共著)』(ちくま文庫)、『日本妖怪異聞録』(小学館ライブラリー

<鶴岡真弓の作品>
ケルト美術史の研究で知られている。ケルト特有の渦巻きや螺旋の文様に、高い精神性を発見している。
鶴岡真弓ケルト/装飾的思考』(ちくま学芸文庫)

<ミルチャ・エリアーデの作品>
ルーマニア宗教学者。聖俗理論をもとに、人類の全宗教活動を統一的に把握しようとする。
『ホーニヒベルガー博士の秘密』(福武文庫)、『聖と俗』(法政大学出版局)、『世界宗教史』(ちくま学芸文庫・全8巻)、『エリアーデ世界宗教事典』(せりか書房・ヨアン・P・クリアーノとの共編)、『19本の薔薇』(作品社)

<ウィリアム・ブレイクの作品>
詩人・版画家。生命力に満ちた神秘的な作風で知られる。大江健三郎コリン・ウィルソンも、ブレイクのファンである。
『無心の歌、有心の歌』(角川文庫・中沢新一解説)

<マイスター・エックハルトの作品>
キリスト教神秘主義を語る上で、最重要人物といえる。
エックハルト説教集』(岩波文庫)、『神の慰めの書』(講談社学術文庫)

<クリストファー・マッキントッシュの作品>
薔薇十字団の研究で知られる。
『薔薇十字団』(平凡社コリン・ウィルソン序文/ちくま学芸文庫

<ジョーゼフ・キャンベルの作品>
神話学者。彼の探求した英雄神話等は、「スター・ウォーズ」作製のヒントになった。
ジョーゼフ・キャンベル選集(I時を越える神話、II生きるよすがとしての神話、III野に雁の飛ぶとき)(角川書店

<キリスト教・聖書考古学研究>
死海文書とナグ・ハマディ文書は、20世紀の聖書考古学上の最大の発見物といえる。
死海文書は、キリスト教の起源とエッセネ派の関係を明らかにする文書である。問題は、マルコ・マタイ・ルカの共観福音書(共通部分のある福音書)の共通の元データ(Q資料)が、死海文書に含まれるか、否か、である。含まれるならば、キリスト教は、エッセネ派から段階的に発展してきた思想であり、イエスをもって突如地上に出現したという虚構が崩れることになる。
ナグ・ハマディ文書は、新プラトニズムによって異端視され、歴史から抹殺されたグノーシス派の原典として重要である。蛇足を付け加えれば、グノーシス派の反宇宙的二元論は、ユング派によって評価され、ハイデッガーの実存哲学など現代思想にも、それと同じ傾向がみられるとの指摘がある。
プロティヌスは、新プラトン主義者。新プラトン主義によれば、世界は善にして一なる神が流出して出来たものであり、われわれが神を見るには、「神が神を見る」こと、すなわち私が神と一体化することによってしか認識されないという。ウルトラ・バロックは、キリスト教精神の究極を示す過剰な装飾に満ちた教会建築。
E・M・ラペルーザ『死海写本』(白水社文庫クセジュ)
エレーヌ・ペイゲルス『ナグ・ハマディ写本』(白水社)
プロティヌス『善なるもの一なるもの』(岩波文庫)
小野一郎ウルトラバロック』(新潮社・フォトミュゼ)

<井筒俊彦の作品>
コーラン』の訳者でもあるイスラム研究の第一人者。
『意識と本質』(岩波文庫)、『マホメット』(講談社学術文庫)、『ロシア的人間』(中公文庫)、『イスラム思想史』(中公文庫)、『イスラム生誕』(中公文庫)

<チベット密教関連>
『原典訳 チベット死者の書』(ちくま学芸文庫)
エヴァンス・ヴェンツ版(英訳からの重訳)『チベット死者の書』(講談社+α文庫)
 死者の書(バルド・トドル)として知られているものは、ニンマ派(古派)の経典。おおえまさのり訳は、エヴァンス・ヴェンツによる英訳からの重訳。エヴァンス・ヴェンツにはマダム・ブラバツキーによる神智学的な偏向が見られる。エヴァンス・ヴェンツによる英訳は、心理学者ユングに影響を与える。 
ゲルク派版 チベット死者の書』(学研M文庫、平岡宏一訳)
ダライ・ラマ14世も属するゲルク派(新派)の経典。ダライ・ラマゲルク派に属すると同時に、ニンマ派サキャ派カギュ派ゲルク派からなるチベット密教全体の精神的指導者。
ティモシー・リアリーチベット死者の書 サイケデリツク・ヴァージョン』(八幡書店)
 ニンマ派のバルド・トドルのドラッグ・カルチャー的視点からの解釈。
ナムカイ・ノルブ『虹と水晶』(法蔵館)
ナムカイ・ノルブ『ゾクチェンの教え』(地湧社)
ナムカイ・ノルブ『夢の修行』(法蔵館)
ナムカイ・ノルブ『チベット密教の瞑想法』(法蔵館)
 ナムカイ・ノルブはニンマ派
ラマ・ケツン・サンポ『知恵の遥かな頂』(角川書店中沢新一訳)
 ラマ・ケツン・サンポ・リンポチェの自伝。
『ユトク伝 チベット医学の教えと伝説』(岩波文庫)
 チベット医学の祖でもある賢者の教え。 
『サキャ格言集』(岩波文庫
エヴァ・ヴァン・ダム『チベットの聖者ミラレパ』(法蔵館中沢新一訳)
 ミラレパは、チベット密教カギュ派の聖者。
正木晃・立川武蔵チベット密教の神秘』(学研)
 サキャ派について詳しい。
フジタ・ヴァンテ編『チベット生と死の文化』(東京美術
ロバート・A・F・サーマン『現代人のための「チベット死者の書」』(朝日新聞社
ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』(講談社
フィリップ・ローソン『聖なるチベット』(平凡社イメージの博物誌25)
ダライ・ラマ14世『ダライ・ラマの仏教入門』(光文社)
ダライ・ラマ14世『ダライ・ラマ密教入門』(光文社)
ダライ・ラマ14世『宇宙のダルマ』(角川書店
ツルティム・アリオーネ智慧の女たち』(春秋社)
おおえまさのり編『チベットの偉大なヨーギ ミラレパ』(めるくまーる社)


◆心理学・精神分析学関係

<ジーグムント・フロイトの作品>
精神分析の祖。潜在意識(無意識)を発見。神経症(ノイローゼ)の原因として、性的衝動の抑圧があるとした。また、幼年期のトラウマが、精神障害の原因となりうることも指摘した。
また、人間にはエロスの欲動だけでなく、タナトス(死)への欲動もあるとした。
彼の説は、シュルレアリスムや<意識の流れ>派、ロレンスらの文学にも影響を及ぼした。
彼の精神分析は、ジャック・ラカンに受け継がれることになる。
精神分析入門』(新潮文庫・全2冊)、『夢判断』(新潮文庫・全2冊)、『自我論集』、『エロス論集』、『モーセ一神教』(ちくま学芸文庫)、『日常生活における精神病理』(岩波文庫)、『砂男・不気味なもの』(河出文庫・ホフマンの小説とフロイトの論文)、『文学と精神分析【グラディヴァ】』(角川文庫・イェンゼンの小説とフロイトの論文)、『性と愛情の心理』(角川文庫)

<カール・グスタフユングの作品>
ユングは①外向性・内向性の区別を行い、②フロイトの潜在意識とは別に人間には超越的・宗教的次元があるとして、チベット死者の書グノーシス派の文献にも関心を示し、曼荼羅錬金術・UFOを心理学の立場から探求した。その立場は、日本では秋山さと子河合隼雄に受け継がれている。
『変容の象徴』(ちくま学芸文庫・全2冊)、『空飛ぶ円盤』(ちくま学芸文庫

<ウィリヘルム・ライヒの作品>
フロイト左派のライヒは、①性格分析で、神経症の病のひとは性格の鎧を着ており、筋肉もこわばっていると指摘し、②マルクス主義に接近し、ファシズムの原因を、心理的な抑圧にあるとし、フロイト派からもマルクス主義陣営からも糾弾され、③オルゴンボックスをつくり、生命エネルギーであるオルゴンを封じ込めることが出来たと発表し、オルゴンを使ったクラウドバスターなる兵器を開発し、天候を変えたり、UFOを撃退したりできるといってアメリカ保険局にオルゴンボックスを回収され、その著作のすべてを焼かれた人物。
『性の革命』(角川文庫・絶版)、『セクシュアル・レヴォリーション』(現代思潮社・絶版)、『ファシズムの大衆心理』(せりか書房)、『オルガスムの機能』(太平出版社)

<岸田秀の作品>
岸田秀は唯幻論を提唱し、人間を本能のこわれた動物と規定する。
『ものぐさ精神分析』(中公文庫)、『幻想を語る』(河出文庫・全2冊)


アメリカン・サイケデリック・カルチャー関係 ビート族・ヒッピームーブメント含む

ティモシー・リアリーの作品>
LSDの研究でハーバードを追われた天才心理学者。彼の研究によると、LSDは生後の学習による条件付けを白紙にし、リプリントを可能にする。これはCIAが後に独占したように洗脳にも応用できるし、ティムの考えたように人間を解放することにも利用できる。彼は投獄と脱獄を繰り返し、その後関心はアシッドから、電子的ハイに向かうようになる。なお、ティムもまたCDをいくつか出している。
『神経政治学』(トレヴィル)、『フラッシュ・バックス』(リブロ・ポート)、『大気圏外進化論』(リブロポート)、『チベット死者の書サイケデリック・ヴァージョン]』(八幡書店)、『バルド・トドル[CDブック]』(八幡書店)、『Right to Fly』(CD)

<ジョン・C・リリーの作品>  
アイソレーション・タンクを使った感覚遮断実験で、アルタード・ステイツを体験した異端科学者。イルカとの異種間コミュニケーションの研究でも有名。
『意識(サイクロン)の中心』(平河出版社)、『ECCO(CDブック)』(八幡書店)、『ジョン・C・リリー、生涯を語る』(フランシス・ジェフリーとの共著、ちくま学芸文庫

<ロバート・アントン・ウィルソンの作品>
元PLAYBOY誌の編集者であり、シリウス星とイルミナティーをめぐるオカルト陰謀史観を発表している。
『コズミック・トリガー』(八幡書店)、『サイケデリック神秘学』(ペヨトル工房・絶版)


サイエンス・フィクションアヴァンギャルド文学

フィリップ・K・ディックの作品>
P・K・ディックはサイエンス・フィクション(SF)作家であるが、本来主流文学で活躍したいという望みを持っていた作家である。晩年の『ヴァリス』連作は、その思弁性によって特筆すべき点を持っている。
パラレル・ワールドのアイデアを極限まで推し進め、リアリティーの基盤を崩壊させてゆく特徴を持っている。
映画『ブレードランナー』(アンドロイドは電気羊の夢を見るか)、『トータル・リコール』(記憶売ります)、『マイノリティー・リポート』は、ディックの原作からアイデアを得ている。
ヴァリス』(サンリオSF文庫・絶版/創元推理文庫)、『聖なる侵入』(サンリオSF文庫・絶版/創元推理文庫)、『ティモシー・アーチャーの転生』(サンリオSF文庫・絶版/創元推理文庫)、『アルベマス』(サンリオSF文庫・絶版)、『流れよわが涙、と警官は言った』(サンリオSF文庫・絶版/創元推理文庫)、『暗闇のスキャナー』(サンリオSF文庫・絶版)、『アルファ系衛星の氏族たち』(サンリオSF文庫・絶版)、『虚空の眼』(サンリオSF文庫・絶版/創元推理文庫)、『時は乱れて』(サンリオSF文庫・絶版)、『死の迷宮』(サンリオSF文庫・絶版)、『怒りの神(ゼラズニイとの共著)』(サンリオSF文庫・絶版)、『銀河の壺直し』(サンリオSF文庫・絶版)、『最後から二番目の真実』(サンリオSF文庫・絶版)、『ザップ・ガン』(サンリオSF文庫・絶版)、『あなたを合成します』(サンリオSF文庫・絶版)、『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック I・II』(サンリオSF文庫・絶版)、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(早川書房)、『ユービック』
(早川文庫)、『高い城の男』(早川文庫)、『ラスト・テスタメント~P・K・デッック最後の聖訓』(ペヨトル工房、絶版)、『P・K・ディック我が生涯の弁明』(アスペクト

スタニスワフ・レムの作品>
ポーランド領ルヴフ生まれのSF作家。哲学・社会学サイバネティックス・物理学・天文学など幅広い関心をもとに、思弁性あふれる作品や娯楽性に富む作品を書いた東欧の巨匠。
ソラリスの陽のもとに』(早川文庫)、『枯草熱』、『天の声』(サンリオSF文庫)

アンナ・カヴァンの作品>
カフカの影響を受けた作品群であり、とりわけ『氷』はインナー・スペースを探求してきたニュー・ウェーブSFのひとつの終着点を示している。アンナ・カヴァンはヘロインで死んだ。他に「アサイラム・ピース」などの作品がある。
『愛の渇き』、『ジュリアとバズーカ』、『氷』(サンリオSF文庫・絶版)

J・G・バラードの作品>
イギリスのニュー・ウェーブSFの第一人者。ニュー・ウェーヴSFは、インナー・スペースの探求に向かう傾向がある。
『クラッシュ』はディヴッド・クローネンバーグによって映画化された。
『クラッシュ』(ペヨトル工房・絶版)、『ヴァーミリオン・サンズ』(早川文庫)、『結晶世界』(早川書房

デイヴィッド・リンゼイの作品>
ニーチェショーペンハウエルベーメスウェーデンベルグを耽読し、超越への扉を模索。その圧倒的なイマジネーションは、読むものを圧倒させずにはいられない。代表作『アルクトゥールスへの旅』は、コリン・ウィルソンをして20世紀の最も優れた本と言わしめた。
アルクトゥールスへの旅』、『憑かれた女』(サンリオSF文庫・絶版)

トマス・ピンチョンの作品>

ピンチョンは、フォークナーに続く現代アメリカ文学のビッグネーム。代表作『V』、『重力の虹』、『ヴァイン・ランド』。『競売ナンバー49の叫び』は、当初寺山修司の翻訳予定だったが、実際は志村正雄訳となった。
『競売ナンバー49の叫び』(サンリオ文庫)、『スロー・ラナー』(ちくま文庫)

<ジェームス・ジョイスの作品>

アイルランド文学。『フィネガンズ・ウェイク』は、一冊の本に、人類史に現れた思念を封じ込める超濃縮文学。
『ダブリン市民』(新潮文庫)、『若き芸術家の肖像』(新潮文庫)、『ユリシーズ』(河出書房・全2巻・絶版)、『フェネガンズ・ウェイク I II、III IV』(河出書房新社

  
実存主義関連 一部現象学

フリードリヒ・ニーチェの作品>
フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラで「神の死」を宣言。ハンマーを持って哲学することで、現代思想への道を開いた。彼は、キリスト教の隷属的なモラルに弱さのニヒリズムを見て、そこにルサンチマンが隠されているとした。彼の説く道は、永劫回帰の中で、何度でも不条理な生を受け入れる超人の道であった。
主な作品に、『悲劇の誕生』、『人間的な、あまりに人間的な』、『曙光』、『華やぐ知識』、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』、『ツァラトゥストラかく語りき』、『この人を見よ』がある。
フリードリヒ・ニーチェ全集(ちくま学芸文庫・全15巻)

セーレン・キルケゴールの作品>
ニーチェとは正反対に、ひとりのキリスト者として、ヘーゲルの体系や、世俗と闘った。その「単独者」としての生き方は、実存主義への道を開いた。
死に至る病』(岩波文庫)、『不安の概念』(岩波文庫)、『現代の批判』(岩波文庫)、『誘惑者の日記』(ちくま学芸文庫)、『愛について』(新潮文庫)、『反復』(岩波文庫

<カール・ヤスパースの作品>
キリスト教的な実存哲学を提唱。限界状況を乗り越えることで、人間は「人間になる」とした。彼のヴィジョンでは、人間は挫折を通じて成長するので、哲学においてもカントの切り開いた意識一般から、ヘーゲルの絶対精神、そして実存のレベルへと成長してきたという。理性への信頼と、「愛の闘い」というコミュニケーションの重視が、彼の特徴。『哲学入門』(新潮文庫)、『ニーチェの生活』(新潮文庫・絶版)、『実存哲学』(理想社)、『理性と実存』(理想社)、『現代の精神的状況』(理想社

マルティンハイデッガーの作品>
基礎的存在論の構築のために、<ある>ということをぼんやりと把握している現存在(人間)に注目し、フッサール現象学を適用し、解明を図り、20世紀最大の哲学者と呼ばれるようになった。ただし、ユダヤ系であった師フッサールを冷遇したという。
存在と時間』(岩波文庫ちくま学芸文庫/中公バックス)、『ヒューマニズムについて』(角川文庫)、『ニーチェI・II』(平凡社ライブラリー)

ジャン=ポール・サルトルの作品>
『ル・タン・モデルヌ』誌を主催し、無神論実存主義グループをリード。その活動は小説・劇作・政治評論・美術批評等に及んだ。デュクロ事件を契機に「共産主義者と平和」を発表、マルクス陣営に接近。カミュ、そしてメルロ=ポンティとの論争を経て、『弁証法的理性批判』でマルクス主義に寄生するイデオロギーとして実存主義を位置づける。その後、マオイストのピエール・ヴィクトール(ペニィ・レヴィ)との交流を通じ、既成左翼勢力の左に向かう。
『哲学論文集』(人文書院)、『想像力の問題(イマジネール)』(人文書院)、『嘔吐』(人文書院)、『存在と無I・II・III』(人文書院)、『実存主義とはなにか』(人文書院)、『水いらず』(新潮文庫)、『マラルメ論』(ちくま学芸文庫)、『聖ジュネ』(新潮文庫・全2冊・絶版)、『悪魔と神』(新潮文庫・絶版)、『方法の問題』(人文書院)、『弁証法的理性批判I・II・III』(人文書院)、『アルトナの幽閉者』(人文書院)、『言葉』(人文書院)、『シチュアシオン』(人文書院)、『反逆は正しい』(人文書院・対談集)

アルベール・カミュの作品>
不条理と反抗の作家。レジスタンスでは『闘争』誌の編集者として活躍。個人的美徳としての神を拒否するムルソーを描く『異邦人』で衝撃デビュー。当初サルトルの「『異邦人』解説」で、サルトルのグループの同伴者とみられたが、マルクス主義は歴史を神格化し、殺人を正当化する理論であると主張する『反抗的人間』をめぐる論争で、サルトルと道を分かつ。ノーベル賞受賞後、『最初の人間』を完成前に、交通事故死する。
『異邦人』(新潮文庫)、『シーシュポスの神話』(新潮文庫矢内原伊作訳『シジフォスの神話』新潮文庫・絶版もあり)、『カリギュラ・誤解』(新潮文庫)、『ペスト』(新潮文庫)、『反抗的人間』(新潮社・カミュ全集・絶版)、『革命か反抗か』(新潮文庫サルトルおよびジャンソンとの論争記録)、『転落・追放と王国』(新潮文庫)、『幸福な死』(新潮文庫)『直観』(新潮社)、『アメリカ・南米紀行』(新潮社)、『手帖[全]』(新潮社)、『太陽の讃歌~カミュの手帖(1)』(新潮文庫・絶版)、『反抗の論理~カミュの手帖(2)』(新潮文庫・絶版)、『ギロチン』(紀伊國屋書店・絶版)、『不条理と反抗』(人文書院)、『スウェーデンの演説』(木内孝訳・神無書房・絶版)、『自由の証人』(新潮社・絶版)、『アクチュアル[時事論集] II』(新潮社・絶版)

シモーヌ・ド・ボーヴォワールの作品>
サルトルの良き伴侶であり、実存主義フェミニズムの論客。「女は女に生まれない。女になるのだ。」と主張する。
人間について』(新潮文庫・絶版)、『他人の血』(新潮文庫・絶版)、『招かれた女』(新潮文庫・絶版)、『人はすべて死す』( 岩波文庫・絶版・全2冊)、『第二の性』(新潮文庫)、『別れの儀式
(人文書院)

<モーリス・メルロ=ポンティの作品>
後期フッサールの影響を受け、心影肢などをもとに心身二元論を批判する独自の身体論を構築。サルトルとともに『ル・タン・モデルヌ』誌グループを形成。『ヒューマニズムとテロル』でサルトルより先にマルクス主義に接近。その後、サルトル弁証法を喪ったウルトラ・ボルジェヴィズムとして批判し、非共産主義的左翼を表明する『弁証法の冒険』を発表する。
『行動の構造』(みすず書房)、『知覚の現象学1・2』(みすず書房)、『ヒューマニズムとテロル』(現代思潮社)、『弁証法の冒険』(みすず書房)、『意味と無意味』(みすず書房)、『眼と精神』(みすず書房)

ポール・ニザンの作品>
サルトルの親友であり、共産党に入党したが、若くしてこの世を去った。サルトルアンガージュマン(政治参加)の思想には、この友人の死が影をおとしている。
『アントワーヌ・ブロワイエ』、『陰謀』(角川文庫)、『アデン・アラビア』(晶文社

フランツ・カフカの作品>
実存主義文学の先駆者。不可解な官僚機構の迷路の中で翻弄される人間や、何かに変身することで、社会的に棄てられる人間を描く。
アメリカ(失踪者)』(角川文庫)、『城』(新潮文庫)、『審判』(ちくま文庫)、『変身 他』(新潮文庫)、『ある流刑地の話』(角川文庫)

ジャン・ジュネの作品>
男娼と泥棒を繰り返し、ラシーヌのような見事なフランス語で犯罪を挑発するような作品を書き、コクトーサルトルらの嘆願で恩赦となった特異な作家である。パレスチナ解放戦線に関与し、『恋の捕囚』を書く。その文学はサルトルデリダに影響を与えた。
泥棒日記』(新潮文庫)、『花のノートルダム』、『薔薇の奇跡』、『黒んぼたち・女中たち』(新潮文庫・絶版)、『ブレストの乱暴者』、『葬儀』(以上、河出文庫

シモーヌ・ヴェイユの作品>
赤い処女シモーヌ。彼女の徹底したキリスト者としての自己犠牲の精神は、既成の制度としてのカトリックを認容できなかったし、そのマルクス主義ソ連の権力的な体制も認容できなかった。
『工場日記』(講談社文庫・絶版)、『哲学講義』(ちくま学芸文庫)、『重力と恩寵』(ちくま学芸文庫)、『自由と社会的抑圧』(岩波文庫

<フョードル・ミハイロヴィッチドストエフスキーの作品>
実存主義文学の先駆として、シェフトフや埴谷雄高らに深刻な影響を与えた。『地下室の手記』は自意識過剰のひきこもりの話だし、『悪霊』は無神論的革命思想に憑かれた人々がテロリズムに走る話だし、『カラマーゾフの兄弟』は権力と自由をめぐる徹底的な思考が凝縮された作品。
地下室の手記』(新潮文庫)、『罪と罰』(新潮文庫・全2冊)『悪霊』(新潮文庫・全2冊)、『白痴』(新潮文庫・全2冊)、『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫・全3冊)、『作家の日記(全5冊)』(岩波文庫)、『虐げられた人々』(角川文庫)

ヴィクトール・フランクルの作品>
フランクルはロゴテラピーという心理療法を唱えた実存主義系の心理学者。
『夜と霧』は、新訳が出たが、ナチスの犯罪行為を示す残虐極まりない写真(そこには死体の皮膚でつくったランプシェードのかさも含まれる)が巻末についた旧版を推薦したい。
『夜と霧』(みすず書房)、『精神医学的人間像』(みすず書房)


構造主義関連

クロード・レヴィ=ストロースの作品>
文化人類学者。ソシュール言語学を応用し、構造人類学を提唱し、『野生の思考』において、サルトルの『弁証法的理性批判』を撃破し、構造主義の道を開いた。自民族中心主義(エスノセントリズム)批判を展開する。
『悲しき南回帰線』(講談社文庫・絶版/中公バックス「マリノフスキー・レヴィ=ストロース」に『悲しき熱帯』が収録されている)、『今日のトーテミスム』(みすず書房)、『野生の思考(パンセ・ソヴァージュ)』(みすず書房

ミシェル・フーコーの作品>
『言葉と物』で、各時代の人文諸科学は、その時代のエピステーメーに規定されているとして、通時的な歴史観マルクス主義等)を否定し、共時的エピステーメーの断絶的な層が積み重なっているという歴史観を主張し、その結論として人文諸科学における「人間の死」を予告した。また、アナール学派にも通じる歴史に埋もれた膨大な文書を基に、知による狂気や社会的逸脱行為の囲い込みを暴き、『監獄の誕生』ではパノプティコンをめぐって監視による効率的な権力の機能を明らかにした。
『狂気の歴史』(新潮社)、『言葉と物』(新潮社)、『言語表現の秩序』(河出書房新社)、『監獄の誕生』(新潮社)『性の歴史 I知への意志 II快楽の活用 III自己への配慮』(新潮社)、『自己のテクノロジー』(岩波現代文庫・共著)、『外の思考』(朝日出版社・絶版)、『哲学の舞台』(朝日出版社・絶版)、『精神疾患とパーソナリティ』、『フーコー・コレクション』(ちくま学芸文庫)

ジャック・ラカンの作品>
フロイトへの回帰」を主張し、ラカン派といわれる精神分析の学派を形成。人間の主体が「鏡像段階」を経て形成される過程を明らかにした。彼の動的な構造概念は、いわゆる構造主義のリミットを成している。
『エクリI・II・III』(弘文堂)、『二人であることの病い』(朝日出版社)、『家族複合』(哲学書房)

ルイ・アルチュセールの作品>
マルクスの読解に、ラカンの「構造」概念を導入。初期の疎外論を軸にしたヒューマニスティックなマルクスと、後期の科学的な「構造」概念を使用するマルクスには、理論的な断絶があると主張し、初期マルクスを基にする実存主義マルクス主義や修正主義的マルクス主義を批判した。晩年、独自のイデオロギー装置(AIE)論を発表するが、狂気に陥り、妻を絞殺する。しかし、狂気のなかにあっても不確定な唯物論の探求は進められていた。
『甦るマルクス』(人文書院/平凡社ライブラリー)、『資本論を読む』(合同出版/ちくま学芸文庫

ロラン・バルトの作品>
カミュの『異邦人』に白いエクリチュールをみる『零度のエクリチュール』。作者の実生活や時代背景に還元するのではなく、テクストそのものに向かい、多種多様な読解の戯れに喜びを見出す『テクストの快楽』。パラフィンに包まれ、銀色に輝いた表紙で、緑のカーテンが美しい『明るい部屋』の初版本。
『零度のエクリチュール』、『テクストの快楽』、『明るい部屋』(以上、みすず書房)、『エッフェル塔』、『ロラン・バルト映画論集』、『表徴の帝国』、『エクリチュールの零度』(以上、ちくま学芸文庫

<マルセル・グリオールの作品>
レヴィ=ストロース構造人類学の先駆であり、西アフリカのドゴン族のコスモロジーを明らかにする民族学の書。
『水の神』(せりか書房)


ポスト構造主義関連

ジャック・デリダの作品>
音声文字中心主義とロゴス中心主義による<体系>を脱構築ディコンストラクション)して、差異にみちた世界に開く作品群。
『根源の彼方に~グラマトロジーについて』(現代思潮社・全2巻)、『エクリチュールと差異』(法政大学出版局・全2巻)、『ポジシオン』(青土社)、『尖筆とエクリチュール』(朝日出版社・絶版)、『言葉にのって』、『死を与える』、『パピエ・マシン』、『声と現象』、『雄羊』(ちくま学芸文庫

ジュリア・クリステヴァの作品>
クリステヴァは<異邦の女>としてフランス思想界に登場し、記号分析学を唱え、記号の生成を間テクスト性の観点から捉え、記号論の解体者となった。そして、中国を旅行し、そこにル・サンボリツクとル・セミオティックのせめぎあいを見た。その後、精神分析医としての実践を通じ、主体の生成にかかわるおぞましきものへの棄却を発見する。
セメイオチケ I記号の解体学 II記号の生成論』(せりか書房)、『中国の女たち』(せりか書房)、『詩的言語の革命』(勁草書房)、『恐怖の権力』(法政大学出版局)、『記号の横断』(せりか書房

<フィリップ・ソレルスの作品>
『テル・ケル』グループの中心人物。マオイズムやユダヤ教への接近など、スキャンダルでアヴァンギャルドな実験を文学と思想分野で展開。
『女たち』(せりか書房)、『遊び人の肖像』(毎日新聞社)、『例外の理論』(せりか書房

<ポール・ヴィリリオの作品>
戦争とメディアをめぐるディスクールは、ドゥルーズ=ガタリの戦争機械論に影響を及ぼした。また、浅田彰のTVプログラム「録画チャンネル4・5」に出演したほか(この模様は『GS・楽しい知識』5W電視進化論に収録されている。)
浅田彰監修のNHK「事故の博物館」の製作にも全面協力した。
『純粋戦争(シルヴェール・ロトランジェとの共著)』(UPU)、『戦争と映画~知覚の兵站術』、『速度と政治~地政学から時政学へ』(平凡社ライブラリー

<ジャン・フランソワ・リオタールの作品>
現象学の研究者であったが、「社会主義か野蛮か」誌などを通じ、フロイトマルクスからの「漂流」を主張、リビドー経済を説く。「大きな物語」の終焉と、無数の「小さな物語」からなるポストモダンの始まりを告知する。
『子供たちに語るポストモダン』(ちくま学芸文庫)

ジャン・ボードリヤールの作品>
ソシュールアナグラム理論とバタイユの消費経済学をもとに、マルクス主義の生産中心主義を批判し、経済学の死と、現代社会の「モノの生産」から「記号の消費」への比重の変化を指摘。
『象徴交換と死』(ちくま学芸文庫)

<ジョルジュ・デュメジルの作品>
神話学者。ドゥルーズ=ガタリの戦争機械論に影響を与えた。
デュメジル・コレクション』(ちくま学芸文庫

毛沢東の作品>

毛沢東についていえば、文化大革命をめぐる問題点が多いが、アンディ・ウォホールの絵となり、ジャン・リュック・ゴダールに『東風』を撮らせ、ソレルスらのテル・ケル派に影響を与えた点で、特別にあげる。
毛沢東語録』(角川文庫)

 
現代日本文学の名著

埴谷雄高の作品>
『死霊』(講談社文芸文庫)、『ドストエフスキー』(NHKブックス)

椎名麟三の作品>
『永遠なる序章・懲役人の告発』(新潮社・新潮現代文学)、『永遠なる序章』、『自由の彼方で』、『美しい女』、『重き流れの中に』(以上、新潮文庫)、『神の道化師・媒酌人』、『自由の彼方で』(講談社文芸文庫

安部公房の作品>
『壁~S・カルマ氏の犯罪』、『第四間氷期』、『他人の顔』、『無関係な死・時の崖』、『夢の逃亡』、『飢餓同盟』、『幽霊はここにいる・どれい狩り』、『けものたちは故郷をめざす』『終わりし道の標べに(冬樹社版)』、『水中都市・デンドロカカリヤ』、『砂の女』、『燃え尽きた地図』、『人間そっくり』、『箱男』、『笑う月』、『密会』、『カーブの向こう・ユープケチャ』、『箱舟さくら丸』、『死に急ぐ鯨たち』、『カンガルー・ノート』(以上、新潮文庫)、『榎本武揚』、『反劇的人間』、『内なる辺境』(以上、中公文庫)、『終わりし道の標べに(真美善社版)』、『砂漠の思想』(以上、講談社文芸文庫

大江健三郎の作品>
『死者の奢り・飼育』、『われらの時代』、『性的人間』、『日常生活の冒険』、『われらの狂気を、生き延びる道を教えよ』、『個人的な体験』、『ピンチランナー調書』、『洪水はわが魂に及び』(全2巻)、『同時代ゲーム』、『「雨の木」を聴く女たち』、『小説のたくらみ、知のたのしみ』、『人生の親戚』、『燃え上がる緑の樹 第一部「救い主」が殴られるまで、第二部揺れ動く(ヴァシレーション)、第三部大いなる日に』(全3巻)(以上、新潮文庫)、『新しい人よ眼ざめよ』、『宙返り』(全2巻)(以上、講談社文庫)、『万延元年のフットボール』、『懐かしい年への手紙』、『「最後の小説」』『静かな生活』(講談社文芸文庫)、『厳粛な綱渡り』(文春文庫・全2冊・絶版)

<日夏耿之介の作品>
日夏耿之介詩集』(新潮文庫)、『吸血妖魅考(M・サマーズの翻訳と日夏のエッセイの合本)』、『サバト恠異帖』(以上、ちくま学芸文庫

澁澤龍彦の作品>
『サド復活』(ハルキ文庫)、『東西不思議物語』、『異端の肖像』、『幻想博物誌』、『毒薬の手帖』、『秘密結社の手帖』、『妖人奇人館』、『夢の宇宙誌』、『胡桃の中の世界』、『思考の紋章学』、『黄金時代』、『幻想の肖像』、『ヨーロッパの乳房』、『神聖受胎』、『スクリーンの夢魔』、『幻想の彼方へ』、『ドラコニア綺譚集』、『華やかな食物誌』、『エロスの解剖』、『狐のだんぶくろ~わたしの少年時代』、『暗黒のメルヘン(編)』、『洞窟の偶像』、『滞欧日記』、『言葉の標本
函・夢のかたち』、『言葉の標本函・オブジェを求めて』、『言葉の標本函・天使から怪物まで』、『悪魔の中世』、『城~夢と現実のモニュメント』、『旅のモザイク』、『記憶の遠近法』、『唐草物語』、『ねむり姫』、『私のプリニウス』、『エロティシズム(編・2冊)』『ふらんす怪談(H・トロワイア)』、『ポトマック(ジャン・コクトー)』、『長靴をはいた猫(シャルル・ペロー)』、『三島あるいは虚空のヴイジョン(マルグリット・ユルスナール)』、『新版遊びの百科全書4玩具館(矢牧健太郎との共著)』、『幸福は永遠に女だけのもの』、『太陽王と月の王』(以上、河出文庫)、『犬狼都市(キュノポリス)』、『マルジナリア』、『エピクロスの肋骨』、『大股びらき(ジャン・コクトー)』(以上、福武文庫)、『偏愛的作家論』、『うつろ舟』(福武文庫/河出文庫)、『詩画集 男と女(ヴェルレーヌ詩、澁澤訳、池田満寿夫画)』(角川文庫)、『O嬢の物語(P・レアージュ)』(角川文庫/河出文庫)、『フローラ逍遥』(平凡社ライブラリー)、『魔術(フランシス・キング)』(平凡社)、『悪魔のいる文学史』、『サド侯爵の生涯』、『エロティシズム』、『三島由紀夫おぼえがき』、『少女コレクション序説』、『美神の館(ビアズレー)』(中公文庫)、『女のエピソード』(大和文庫/河出文庫)、『高丘親王航海記』、『快楽主義の哲学』(以上、文春文庫)、『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』、『魔法のランプ』、『変身のロマン』(以上、学研M文庫)、『サド裁判 上・下』(現代思潮社)、『怪奇小説傑作集4(アポリネール他)』(創元推理文庫)、『玩物草紙』(朝日文庫/中公文庫)、『天使たちの饗宴』(河出書房新社)、『血と薔薇(全3巻)』(天声出版/白順社/河出文庫)、『世界悪女物語』、『黒魔術の手帖』、『裸婦の中の裸婦(巖谷國士との共著)』(河出文庫/文春文庫)

種村季弘の作品>
『吸血鬼幻想』(河出文庫)、『アナクロニズム』(河出文庫)、『ぺてん師列伝』(河出文庫)、『悪魔礼拝』(河出文庫)、『詐欺師の楽園』(河出文庫)、『影法師の誘惑』(河出文庫)、『薔薇十字の魔法』(河出文庫)、『怪物の解剖学』(河出文庫)、『ドラキュラ ドラキュラ』(編訳)(河出文庫)、『錬金術とタロット』(ベルヌーリ著、訳)(河出文庫)、『毛皮を着たヴィーナス』(河出文庫)、『山師カリオストロの大冒険』(中公文庫)、『黒い錬金術』(白水社Uブックス)、『ナンセンス詩人の肖像』(ちくま学芸文庫)、『偽書作家列伝』、『澁澤さん家で午後五時にお茶を』(学研M文庫)、『贋物漫遊記』、『書物漫遊記』、『食物漫遊記』(ちくま文庫

稲垣足穂の作品>
一千一秒物語』(新潮文庫ちくま文庫)、『少年愛の美学』(角川文庫/河出文庫ちくま文庫)、『ヰタ・マキニカリス I II』、『弥勒』、『ヴァニラとマニラ』(河出文庫ちくま文庫)、『ヒコーキ野郎たち』、『宇宙論入門』、『A感覚とV感覚』、『天体嗜好症』、『彼等(they)』、『東京遁走曲』、『南方熊楠児談義』(以上、河出文庫)、『僕の”ユリーカ”』、『ライト兄弟に始まる』(ちくま
文庫)

夢野久作の作品>
ドグラ・マグラ』(講談社文庫、教養文庫、角川文庫)、『日本探偵小説全集4 小栗虫太郎集』(創元推理文庫)、『狂人は笑う』、『犬神博士』、『少女地獄』(角川文庫)、『ドグラ・マグラ幻戯』(東雅夫編・学研M文庫)、『爆弾太平記』、『悪魔祈祷書』、『死後の恋』、『氷の涯』(教養文庫)、『人間腸詰』(角川ホラー文庫

小栗虫太郎の作品>
黒死館殺人事件』、『白蟻』、『青い鷺』、『潜行艇「鷹の城」』、『紅毛傾城』(教養文庫)、『完全犯罪』(春陽文庫)、『怪奇探偵小説名作選6 小栗虫太郎集』(ちくま文庫)、『日本探偵小説全集6 小栗虫太郎集』(創元推理文庫)

日影丈吉の作品>
『かむなぎうた』、『猫の泉』、『内部の真実』、『ハイカラ右京探偵暦』(教養文庫

中井英夫の作品>
『黒鳥の旅もしくは幻想庭園』(潮出版社)、『虚無への供物』(講談社文庫)、『人形たちの夜』、『幻想博物館(とらんぷ譚1)』、『悪夢の骨牌(とらんぷ譚2)』、『人外境通信(とらんぷ譚3)』、『真珠母の匣(とらんぷ譚4)』(以上、講談社文庫)、『中井英夫全集』(創元推理文庫

岡本太郎の作品>

日本を代表するアヴァンギャルド芸術家であり、ジョルジュ・バタイユの盟友のひとり。彼の芸術は、抽象と具象の中間を行く。なぜならば、彼の芸術は、絶えず現実と格闘し、それを乗り越える生命讃歌にあったからである。彼は芸術はうまくあってはならない、美しくあってはならないと説くが、それは彼の芸術の本質が生命の完全燃焼にあったからである。彼がピカソの「アヴィニヨンの娘たち」を評価し、アフリカ芸術や縄文美術を再発見するのは、このような観点からである。
『画文集 挑む』、『今日の芸術』(講談社文庫)、『美の呪力』(新潮文庫

寺山修司の作品>
『戯曲 毛皮のマリー』、『戯曲 青森県のせむし男』、『対論 四角いジャングル』、『家出のすすめ』、『ポケットに名言を』、『書を捨てよ、町へ出よう』、『不思議図書館』、『幸福論~裏町人生版』、『誰か故郷を想わざる』、『さかさま世界史 怪物伝』、『さかさま世界史 英雄伝』、『花嫁化鳥』、『地球をしばらく止めてくれ ぼくはゆっくり映画を観たい』(以上、角川文庫)、『ぼくが狼だったころ』(文春文庫)、『寺山修司の仮面画報』(河出書房新社)、『天井桟敷新聞[全
縮刷版]』(UPLINK)、『寺山修司記念館 1・2』(テラヤマ・ワールド)

唐十郎の作品>
『戯曲 少女仮面』、『戯曲 盲導犬』、『戯曲 滝の白糸』、『戯曲 吸血姫』、『少女と右翼』、『戯曲 錬夢術』(以上、角川文庫)、『魔都の群袋』(潮文庫)、『佐川君からの手紙』(河出書房新社

荒俣宏の作品>
『ワタシnoイエ』、『二色人(ニイルヒト)の夜』、『新宿チャンスン』、『闇吹く夏』、『絶の島事件』(角川ホラー文庫)、『帝都物語1~12』、『帝都物語外伝 機関童子』、『ジンクス 恋愛・結婚篇』、『ギャンブル JinxII』、『地球暗黒記 I II III』(角川文庫)、『別世界通信』、『目玉と脳の大冒険』、『パラノイア創造史』、『ブックス・ビューティフルI II』、『大東亜科學綺譚』(以上、ちくま文
庫)、『図像探偵』(光文社文庫)、『ゑびす殺し』(徳間文庫)、『稀書自慢 紙の極楽』、『新編 帯をとくフクスケ』、『奇っ怪紳士録』、『レックス・ムンディ』(集英社)、『世界大博物図鑑』(平凡社・全5巻)、『異都発掘』、『日本妖怪巡礼団』、『怪物の友』、『風水先生』、『黄金伝説』、『増補版 図鑑の博物誌』、『神秘学マニア』、『南方に死す』、『日本仰天起源』、『漫画と人生』、『短編小説集』、『本朝幻想文学縁起』、『怪奇の国ニッポン』、『商神の教え』、『ブックライフ自由自在』、『白樺記』、『風水先生、レイラインを行く』、『バッドテイスト』、『エロトポリス』、『神々の物々交換』、『図像学入門』、『エキセントリック』(以上、集英社文庫)、『地球観光旅行』(角川書店)、『アラマタ図像館 1怪物 2解剖 3海底 4庭園 5エジプト 6花蝶』(小学館文庫)、『アメリカ怪談集』(河出文庫)、『大都会隠居術』(光文社文庫

江戸川乱歩の作品>

『黄金仮面』、『パノラマ島奇談』、『陰獣』、『吸血鬼』、『黒蜥蜴』、『一寸法師』、『影男』、『白髪鬼』、『三角館の恐怖』、『屋根裏の散歩者』(以上、角川文庫)、『化人幻戯』(角川ホラー文庫)、『探偵小説の「謎」』(教養文庫)、『群集の中のロビンソン』(河出文庫)、『怪奇四十面相・宇宙怪人』、『妖怪博士・青銅の魔人』、『湖畔亭事件』、『虫』、『屋根裏の散歩者』、『奇譚・獏の言葉』(以上、講談社江戸川乱歩文庫)、『日本推理作家協会賞受賞作全集7 幻影城』(双葉文庫)、『続・幻影城』(早川書房)、『江戸川乱歩全集』(光文社文庫

松浦理英子の作品>
『葬儀の日』(河出文庫)、『セバスチャン』(河出文庫)、『ナチュラル・ウーマン』(河出文庫)、『親指Pの修行時代』(河出文庫・全2巻)、『優しい去勢のために』(ちくま文庫)、『溺れる人生相談』(角川文庫)

雨宮処凛の作品>
『生き地獄天国』(太田出版)、『自殺のコスト』(太田出版)、『暴力恋愛』、『ともだち刑』、『戦場へ行こう!!』(講談社)、『アトピーの女王』(太田出版)、『悪の枢軸を訪ねて』(幻冬舎)、『EXIT』(新潮社)、『すごい生き方』(サンクチュアリ出版)、『バンギャル ア ゴーゴー』(講談社)、『生きさせろ!難民化する若者たち』(太田出版


現代日本思想の名著

廣松渉の作品>
物的世界観から、事的世界観へのパラダイム・シフトを推し進め、新しい存在論を打ち立てるとともに、『ドイツ・イデオロギー』を本来の形に復元し、唯物史観を再生させる方向を探求した。マルクス主義の再生の可能性があるとしたら、アルチュセールや廣松の試みの延長線上にしかない。
唯物史観の原像』(三一新書)、『新哲学入門』(岩波新書)、『哲学入門一歩手前』、『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代新書)、『世界の共同主観的存在構造』、『生態史観と唯物史観』、『マルクス主義の地平』、『唯物史観と国家論』、『<近代の超克>論』(講談社学術文庫)、『エンゲルス論』(ちくま学芸文庫)、『哲学に何ができるか(五木寛之との対話)』(中公文庫)

吉本隆明の作品>
共同幻想・対幻想・自己幻想からなる孤高の幻想論を展開。文芸批評を軸に、大衆文化から政治情況まで論ずる。『改訂新版 心的現象論序説』、『改訂新版 共同幻想論』、『改訂新版 言語にとって美とは何か(全2冊)』、『相対幻論(栗本慎一郎との対談』)(以上、角川文庫)、『言葉からの触手』、『情況としての画像~高度資本主義下の[テレビ]』、『なぜ猫とつきあうのか』(以上、河出文庫)、『西行論』、『マチウ書試論・転向論』、『高村光太郎』、『吉本隆明初期詩集』(以上、講談社文芸文庫)、『悲劇の解読』、『源実朝』、『追悼私記』、『私の「戦争論」』(以上、ちくま文庫)、『書物の解体学』、『世界認識の方法』、『対談 日本の原像(梅原猛との対談)』、『ダーウィンを超えて(今西錦司との対談)』、『語りの海・吉本隆明1幻想として国家』、『語りの海・吉本隆明2古典とはなにか』、『語りの海・吉本隆明3新版・言葉という思想』、『言葉の沃野へ・書評集成(日本篇と海外篇の2冊)』(以上、中公文庫)、『空虚としての主題』、『マス・イメージ論』、『ハイ・イメージ論』(以上、福武文庫(I・II)/ちくま学芸文庫(I・II・III))、『源氏物語論』、『初期歌謡論』、『宮沢賢治』、『柳田国男丸山真男論』、『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫)、『少年』、『超資本主義』(徳間文庫)、『吉本隆明歳時記』(廣済堂文庫)、『夜と女と毛沢東辺見庸との対談)』、『わが「転向」』(以上、文春文庫)、『いま吉本隆明25時』、『いま吉本隆明25時より 文学論 その他 I・II(カセットブック)』(弓立社)、『「反核」異論』(深夜叢書社)、『吉本隆明全集撰3政治思想』(大和書房)、『幻の王朝から現代都市へ』(河合ブックレット)、『社会党あるいは社会党的なるものの行方』(社会新報ブックレット16)、『吉本隆明の僕なら言うぞ !』(青春文庫)、『だいたいでいいじゃない』(大塚英志との共著、文春文庫)

山口昌男の作品>
文化人類学者。「中心-周縁」理論を展開。トリックスター論やスケープゴート論でも知られる。
『文化と両義性』、『天皇制の文化人類学』、『文化の詩学 I II』、『いじめの記号論』(以上、岩波現代文庫)、『知の遠近法』(岩波書店同時代ライブラリー)、『ミカドと世紀末~王権の論理(猪瀬直樹との対談)』(新潮文庫)、『道化の民俗学』(ちくま学芸文庫)、『道化的世界』、『笑いと逸脱』(以上、ちくま文庫)、『知の祝祭~文化における中心と周縁』(河出文庫)、『河童のコスモロジー』、『仕掛けとしての文化』(講談社学術文庫)、『本の神話学』、『歴史・祝祭・神話』(中公文庫)、『語りの宇宙』(青土社)、『アフリカの神話的世界』、『文化人類学への招待』、『知の旅への誘い(中村雄二郎との共著)』(以上、岩波新書

栗本慎一郎の作品>
ポランニー派の経済人類学者であり、バタイユの普遍経済学を導入した「過剰-蕩尽理論」を確立した。
『幻想としての経済』、『東京の血はどおーんと騒ぐ』(角川文庫)、『反文学論』、『大衆文化論~若者よ、目覚めるな』、『毒入り教授より愛をこめて~悪の眼、鷹の眼』(光文社文庫)、『縄文式頭脳革命』、『ニッポンの終焉』(講談社文庫)、『人間は思考する”金魚”である』(青春文庫)、『幻想としての文明』(講談社)、『法・社会・習俗』(同文館)、『光の都市、闇の都市』(青土社)、『現代思想批判~言語という神(小阪修平との対談)』(作品社)、『ホモ・パンツたちへ』(情報センター)、『俺たちはノイズだ(糸井重里との対談)』(冬樹社メディアボックス)、『パンツをはいたサル』、『都市は発狂する』、『鉄の処女(協力:笠井潔)』、『パンツを捨てるサル』、『パンツを脱いだロシア人』、『立ち腐れる日本(西部邁との対談)』、『さぁ、クルマで出かけよう』、『パンツをはいたサル、国会へ行く』、『殺し合いが「市民」を生んだ~栗本慎一郎「自由大学」講義録1いま「ヨーロッパ」が崩壊する・上』、『「野蛮」が「文明」を生んだ~栗本慎一郎「自由大学」講義録2いま「ヨーロッパ」が崩壊する・下』(以上、カッパサイエンス)、『反少女』(角川
書店)、『意味と生命』(青土社

蓮實重彦の作品>
フランス文学者。映画評論家。表象文化論ルプレザンタシオン批判を展開。一時期、草野進(くさのしん)という女性名義でプロ野球評論を展開。
『表層批評宣言』、『映画・誘惑のエクリチュール』、『反日本語論』(ちくま文庫)『監督 小津安二郎』、『凡庸な芸術家の肖像(全2巻)』、『映画の神話学』、『映像の詩学』(以上、ちくま学芸文庫)、『フーコードゥルーズデリダ』、『闘争のエチカ柄谷行人との対談)』、『小説から遠く離れて』、『陥没地帯~かんぼつちたい』、『文学批判序説~小説論=批評論』、『シネマの快楽(武満徹との対談)』(以上、河出文庫)、『夏目漱石論』(福武文庫)、『オールド・ファッション・普通の会話~東京ステーションホテルにて』、『映画千夜一夜淀川長治山田宏一との対談、全二冊)』、『傷だらけの映画史(山田宏一との対談)』(中公文庫)、『シネマの記憶装置』(フィルムアート社)、『世紀末のプロ野球(草野進、「どうしたって、プロ野球は面白い」改題)』(角川文庫)、『プロ野球批評宣言(草野進編)』(新潮文庫)、『読売巨人軍再建のための建白書(草野進・渡部直己)』(角川文庫)

柄谷行人の作品>
マルクスの価値形態論を記号論的に読解し、ゼロ記号批判により、ポスト構造主義と呼応する交通史観に道を開く。その後、ポストモダニズム批判や内省から始まる哲学を批判し、単独者として絶えずシステムの外に向けて思考を走らせ、『探求』では、システムにとっての絶対的な他者や固有名を問題にし、資本主義の対抗ガンとしてのアソシエーションを提唱する『トランスクリティーク』に至る。
マルクスその可能性の中心』(講談社文庫)、『意味という病』、『畏怖する人間』、『近代日本文学の起源』(以上、講談社文芸文庫)、『反文学論』、『隠喩としての建築』、『内省と遡行』、『探求 I・II』、『ヒューモアとしての唯物論』、『<戦前>の思考』、『終焉をめぐって』、『言葉と悲劇』(講談社学術文庫)、『批評とポストモダン』(福武文庫)、『トランスクリティーク』(批評空間)、『可能なるコミュニスム』、『NAM原理』、『NAM生成』(以上、太田出版)、『倫理21』(平凡社ライブラリー)

上野千鶴子の作品>
構造主義社会学を武器にしたマルクス主義フェミニズムの論客。
『セクシィ・ギャルの大研究』(カッパ・サイエンス)、『構造主義の冒険』(勁草書房)、『資本制と家事労働』(海鳴社)、『女遊び』(学陽書房)、『スカートの下の劇場』、『<人間>を超えて(中村雄二郎との往復書簡)』、『対話篇 性愛論』(以上、河出文庫)、『増補 <私>探しゲーム』(ちくま学芸文庫)、『ミッドナイト・コール』(朝日文庫

東浩紀の作品>
『批評空間』にてデビュー。『存在論的 郵便的 ジャック・デリダについて』において、存在論脱構築否定神学として退け、デリダの郵便的脱構築を評価。浅田彰の後継とされるが、その後『批評空間』グループを離反、サブカル批評や大塚英志に接近するなど独自の活動を行う。
存在論的 郵便的 ジャック・デリダについて』(新潮社)、『郵便的不安たち』(朝日新聞社)、『不過視なものの世界』(朝日新聞社)、『動物化するポストモダン』、『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)、『郵便的不安たち ♯』(朝日文庫)、『網状言論F改』、『波状言論S改』、『コンテンツの思想』(青土社・共著)、『動物化する世界の中で』(集英社新書・共著)、『自由を考える 9・11以降の現代思想』、『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』(NHKブックス・共著)、『波状言論臨時増刊号 美少女ゲームの臨界点』、『「動物化するポストモダン」とその後』(東浩紀個人事務所)、『東浩紀コレクション 文学環境論集』(講談社BOX)

<大塚英志の作品>
白倉由美の『スウェード・キルシュ』などを送り出した元まんが編集者であるが、民俗学者であり、ボードリヤールの記号の消費を超え、「びっくりマンチョコ」の消費に物語消費を見る評論家であり、まんが原作とそのノベライズを数多く手がける実作者の顔を持ち、物語消費理論をもとにメディア・ミックスで「多重人格探偵サイコ」をヒットさせた。物語環境開発という会社は、大塚の率いるそのための実作者集団である。
『「彼女たち」の連合赤軍サブカルチャー戦後民主主義』、『定本 物語消費論』、『人身御供論~通過儀礼としての殺人』、『少女たちの「かわいい天皇」~サブカルチャー天皇論』(以上、角川文庫)、『りぼんの付録と乙女ちっくの時代』(ちくま文庫)、『教養としての<まんが・アニメ>(共著)』、『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書)、『物語の体操』(朝日文庫

 

今村仁司の作品>
アルチュセールを中心とする現代思想の研究で知られる。『排除の構造』では、独自の第三項排除説を主張。
『排除の構造』、『現代思想の系譜学』(以上、ちくま学芸文庫)、『アルチュセール』(清水書院)、『現代思想の基礎理論』、『現代思想の展開』、『アルチュセールの思想』(以上、講談社学術文庫)、『貨幣とは何だろうか』、『群集~モンスターの誕生』(ちくま新書)、『現代思想を読む事典(編著)』(講談社現代新書

丸山圭三郎の作品>
ソシュールアナグラム研究にインスパイアされ、独自の言語思想の構築に向かった。
『生命と過剰』(河出書房新社)、『言葉と無意識』、『言葉・狂気・エロス』(講談社現代新書)、『記号論批判~<非在>の根拠(竹田青嗣との対談)』(作品社)

伊藤俊治の作品>
写真論。表象文化論
『裸体の森へ』、『愛の衣裳』(ちくま文庫)、『20世紀写真史』、『ジオラマ論』、『新編ピンナップ・エイジ』(ちくま学芸文庫)、『倒錯(ビザール)(監修)』、『女神(フェティッシュ)(監修)』(以上、光文社文庫

岩井克人の作品>
不均衡動学(経済学)。
ヴェニスの商人資本論』、『資本主義を語る』、『貨幣論』(ちくま学芸文庫)

小谷真理の作品>
SF評論家。サイボーグ・フェミニスト
『女性状無意識』(勁草書房)、『聖母エヴァンゲリオン』(マガジンハウス)


◆自然科学

養老孟司の作品>
解剖学者養老孟司がプラスティネーションの人体模型(本物の死体をプラスティツクで固め、そのまま触れたり、スライスできるようにする手法)を紹介する。
『[図説]人体博物館』(筑摩書房・編)

<萩原博光・山本幸憲(写真 伊沢正名の作品>
粘菌の図鑑。
『日本変形菌類図鑑』(平凡社)

<ウンベルト・マトゥラーナ、フランシスコ・バレーラの作品>
生物学。以下の書物ではオートポイエーシスの原理を明快に示している。自己組織化をめぐって現代思想に影響を与えた。
『知恵の樹』(ちくま学芸文庫)

『精神(Geistes)の政治学』

(1)権力と理性の共犯関係

テオドール・アドルノとM・ホルクハイマーは、ナチスの政権掌握とともに、アメリカ・カルフォルニア州に亡命し、共同執筆と形で『啓蒙の弁証法』(岩波書店、<セレクション21>、徳永恂訳)を書いた。そこでは、啓蒙は神話から脱却し、自然支配を図る操作的態度と捉えられており、社会の政治・経済・宗教的領域における自由と解放を促すものとして評価されている。啓蒙とは、文字どおり「明るくすること」を語源とするだけに、それは当然のことだが、その進歩によって人間の野蛮さが消失するのではなく、逆説的に啓蒙による理智の増大化が、野蛮さの増大を招いてしまうと主張する点が重要である。
啓蒙の弁証法』によれば、「文明の歴史とは、供犠の内面化の歴史である。」とされ、近代人の理性の中に、サクリフィスの原理が組み込まれていることを暴露する。近代理性は、自立的=自律的なものから、道具的なものに変質し、理性もまた権力の機能の一部を担うものに転化している。そのため、全員一致で一人を殺すという供犠の仕掛け(その仕掛けの分析には、ルネ・ジラールの一連の仕事、例えば『身代わりの山羊』(法政大学出版会)が詳しい。)に、正当化の言葉を与える場合もある。また、理性は外的自然の支配に留まらず、人間の内部をも支配・管理するに至り、人間の自我は理性によって支配・管理・対象化しようとする自我と、支配・管理・対象化される具体的・経験的自我とに分裂し、最終的には、自分自身による自分自身の道具化へと行き着くに至る。理性による世界の支配は、市民社会による資本制(資本主義社会は厳密に言えば、主義ではなく、制度である。)において交換原理という形で浸透し、定着した。交換原理とは、一切を一元的な量的価値である貨幣に還元することによって、等価のモノ(単にマテリアルな物だけでなく、記号的な意味を付与されているため、ここではモノと表記する。)を交換ならしめる原理であり、交換原理は人間をも巻き込み、交換可能な人間、すなわち物象化された人間を生み出してゆくことに繋がる。近代市民社会の内部を貫徹するのは、同一性の価値観であり、質的差異を包含するのを許さない。質的差異を有するモノは、社会システムの第三項排除効果(供犠の原理を拡張し、資本制社会をも貫徹する第三項排除効果の原理として把握する学説については、今村仁司の『排除の構造』(ちくま学芸文庫)を参照されたい。)により排除される。質的差異を持つモノは、貨幣という量的差異に変換されることで、いわば毒を薄められるかたちで、社会システムの内部にエクスプロイット(開発=利用=搾取)される。この質的差異をなし崩しにしてゆくエクスプロイットの原理を、浅田彰は<クラインの壷>モデルで表現した。(浅田彰『構造と力~記号論をこえて』(勁草書房)参照。)

アドルノとホルクハイマーが抵抗しようとした従来の啓蒙観とは何か。啓蒙とは、イヌマエル・カントに従えば「人間が自らにその責任がある未成熟状態から脱却することである。未成熟とは他人の指導なしに自分の悟性を用いることのできない無能力である。」と規定される(『啓蒙とは何か』(岩波文庫)参照。)啓蒙とは、既成の社会的制度や慣習に対して、理性による批判の光を当てることであり、それによってホモ・サピエンスとして自律的=自立的に考え、行動できると考えられたのである。このような近代啓蒙主義は、生産主義的思考様式と手を携え、今日の科学の進歩と物質的繁栄を実現させるための進歩的イデオロギーとして機能してきた。生産主義的理性の信奉者からすれば、人間の持つ野蛮な側面は、何よりも無知が原因であり、啓蒙によって理性的な考え方が主流を占めるようになれば、野蛮ではなくなるだろう、ということになる。人々が労働を尊び、豊かな生活を築き、教育制度を万全なものにすれば、人間を苦しめてきた様々な問題(貧困・犯罪・戦争・病苦…)は、すべて消失し、明るい未来が待っているというのが、近代啓蒙主義と生産主義を支持する大多数の人々の考え方なのである。
アドルノとホルクハイマーは、ナチズムとファシズムの問題に直面し、これらを啓蒙の未完成段階におけるアクシデントにすることも、啓蒙の一時的錯誤とすることも拒否して、理性による人類の無限の進歩というイデオロギーに疑問符を投げかけたのである。理性の否定を唱えているわけではない。理性の中に、権力と共犯関係を持つ「同一性」の哲学が含まれていることが問題なのである。「同一性」の哲学は、共同体から差異=多様性を駆逐する。「同一性」の哲学は、突き詰めていえば全体主義の方向と矛盾しない。ここで、重要なのは、理性の体系、すなわち「同一性」の哲学を、他ならぬ理性の論理を突き詰め、形式化を徹底することによって(これは「形式化の諸問題」の頃の柄谷行人の主題でもある。)、理性の体系を内部から自己崩壊させること、それも単なる体系の破壊(ディストラクション)ではなく、その中から開かれた「差異性」の反哲学を救い出すことである。ここで、私はアドルノとホルクハイマーの議論を、彼らのフランクフルト学派の後継者であるハーバーマスの方でなく(ハーバーマスの議論は、共同体と対話による理性への信頼に支えられており、明らかなアドルノとホルクハイマーの議論の水準からの後退である。東浩紀風に言えば、それは自分の出した郵便物が確実に相手に届くという根拠のない信仰に基づいた議論である。)、ジャック・デリダ脱構築(ディコンストラクション)の考え方とその政治的実践版であるドゥルーズ=ガタリノマドジー的戦争機械に繋げてゆくことで、解決の糸口を探りたいのだが、議論を急がずに、心理学者フランクルの言葉をもとに、もう少しナチズムについて考えてみることにしよう。
心理学者ヴィクトール・フランクルは、ナチスによる強制収容所の体験記録『夜と霧~ドイツ強制収容所の体験記録』(みすず書房、霜山徳爾訳)の著者として、またロゴテラピーという実存分析療法を始めたことで知られる人物である。彼は『精神医学的人間像』(みすず書房宮本忠雄小田晋訳、45頁)の中で、次のように発言している。「アウシュビッツも、トレブリンカも、そしてマイダネックも、根本的にはベルリンの閣僚たちによって準備されたものではなく、まえもってニヒリスティクな科学者や哲学者の机の上や講堂のなかで準備されていたのです。」と。(参考:アラン・レネ監督作品『夜と霧』、北壮夫『夜と霧の隅で』)
これは何を言いたいのかというと、ナチスユダヤ人の大量虐殺を実行したのは、人間は血と土、要するに遺伝と環境で決まるという間違った考え方があったからだ、ということである。このように、人間を遺伝と環境の産物に過ぎないとか、条件反射のロボットに過ぎないとか、性的衝動を持った機械に過ぎないとか、あるいは経済的生産関係で全部決まってしまう存在に過ぎないとか、人間を抽象化・卑小化して「~に過ぎないもの」として理解することを、フランクルゲーテの『ファウスト』(岩波文庫他)のホムンクリスから取った造語ホムンクリスムス(人造人間合成術)=本質主義として批判する。フランクルの立場は、人間は主体的に自分自身を決定するという実存主義的立場であり、自己の内部でロゴスを開示させることによって、自己の本来性に目覚めさせ、実存的コンプレックス(自己実現を達成していないという不満)から来る神経症から患者を解放しようとしたのである。

 

(2)ハイデッガーの罪

だからといって、実存主義者と呼ばれた人のすべてが、反全体主義・反国家社会主義だったわけではない。カール・ヤスパースは一生涯リベラリストだったし、サルトルはその晩年マオ派のピエール・ヴィクトールと共同作業することになった(参考:シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『別れの儀式人文書院)のだが、一方、マルティン・ハイデッガーは、明らかに生粋のナチ、ファシストだった。ヴィクトル・ファリアスの『ハイデッガーとナチズム』(名古屋大学出版会、山本尤訳、118頁)というスキャンダラスな本を紐解けば、ハイデッガー国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)に入党したのが、1933年5月1日で、党員番号が3125894(バーデン地区)、1945年まで党員だった事実が分かるだろう。問題は時代と状況から仕方なくではなく、彼の哲学体系の深いところで結びついていたということである。
ハイデッガー自身は、自分の哲学を実存主義哲学ではないと考えていた。それゆえに『実存主義ヒューマニズムである』(人文書院)というジャン=ポール・サルトルに対して、『ヒューマニズムとはなにか』(角川文庫・ちくま学芸文庫)で反駁せねばならなかったのである。ハイデッガーの主著『存在と時間』(岩波文庫、桑木務訳)(中央公論社<中公バックス>原佑訳)(ちくま学芸文庫)は、あくまで基礎的存在論の構築が目的で執筆されたのであって、現存在(ダーザイン)の分析はそのための方法的手段に過ぎなかったのである。
ハイデッガーの抱えていた問いは、<存在スル>とは何を意味するかということであった。彼のテクニカル タームでは、存在者と存在(ザイン)が区別されており、存在者の中には現存在(すなわち私たち)や道具的存在など、すべての存在するものが含まれているコンセプトであるが、存在は存在者を存在者として存在せしめるもののことを示す。要するに、ハイデッガーサルトルによって無神論実存主義者に分類されたけれども、実は<存在>という哲学用語で、存在者の超越的根拠を、その体系の中に残していたのである。
ところで、存在は存在者とは異なり、己を秘匿し、隠蔽する性格があるので、存在について漠然としながらも了解している存在者、すなわち現存在=人間を取り上げ、現象学的分析にかけるというのが、ハイデッガーの選んだ方法である。その結果、現存在は世界内存在として世界に投げ込まれて存在しているという性格や、道具的存在や事物的存在との差異が明らかにされるとともに、現存在が他者とのかかわりのなかで、いつしか他者の支配に委ねられ、自己の本来性を忘れて世人(ダス・マン)に頽落する可能性が説かれる。ここで重要なのが、普段現存在は空談や好奇心にうつつを抜かして、自己の本来性を喪失し、他人と交換可能な誰でもいい誰かに陥っているが、自分が死なねばならないという限界意識と決意性に覚醒すると、自己の本来性に立ち返ると指摘していることである。すなわち、ハイデッガーは、存在とは何かという究極的な問いに答えるために、絶えず自分から危機を招き寄せ、張り詰めた空気の中で、極限の自由を感じなければならないということである。(ここで連想するのは三島由紀夫のケースである。彼は被虐性に快感を覚える聖セバスチャン・コンプレックスと男色嗜好を持っており、その自我は自分の生まれた光景を覚えているというほど虚偽で塗り固められた模造であり、世間体を守るために仮面をつけ偽装する狡猾さも備えていた。特攻隊に遅れてきた彼は空虚な自我を確信に変えるために、政治の場をパフォーマンスの場として利用し、嘘を真実だと自分に言い聞かせるべく自決を行うのである。)ハイデッガーは<死は最も高次な法廷である>とするが、それこそハイデッガーをナチの突撃隊SSに心理的に接近させている確信でもあるのだ。ヒットラーもまた自己拡大に取り憑かれていた。トゥーレ協会や地政学者ハウスホッファーの影響で、黒魔術にふけり、やがて黒魔術と占星術の知識を独占するためにオカルティストの禁圧に走るのである。ある意味でナチの中でもよりナチであったハイデッガーは、ナチスの不徹底ぶりのために党員を辞めた戦後も、ドイツの深い森の中で、アメリカナイズされ、故郷=存在を喪失した文化を断罪するのである。(『形而上学入門』(平凡社ライブラリー)参照。)
ハイデッガーの存在概念は、ドイツ文化の伝統への回帰という指向と、故郷への土着
性重視という側面を持っており、大地への属領化が彼を反動的にしたのである。ハイデッガーの哲学が、ナチズムに帰結したのは、必然と言わなければならない。今、必要なことは、資本制の自己解体システムより早く、かつファシズムを回避して未来を切り開くか、(この点で美学史におけるイタリア未来派が興味深い。彼らは強烈なポストモダン指向を持っていたが、ファシズムの美学に回収されてしまった。)である。その点で、ハイデッガーのケースは、反面教師として学ぶべきところがある。ジャン=フランソワ・リオタールの「漂流」の思想、ミッシェル・セールの「離脱」の思想、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの「逃走」の思想は、ハイデッガーの「存在」の思想とは逆の大地・体系的思考・共同体からの離脱と脱属領化のベクトルを持っている点で評価されなければならない。
ただ、ここで考えておくべきことは、私たちにとってはナチズムやファシズムを自明の悪であり、全人類に対する犯罪であるが、ハイデッガーのようなナチス党員やファシストは、自分の実践している大量虐殺・無差別攻撃・拷問・テロリズムは、選ばれた人間の至高の行為にして<善>として確信しているし、中には殺害それ自体に悦楽を感じる(言うまでもなく、脳内麻薬物質であるドーパミンがA10神経を走るからだが)ことに誇りすら持っている人間もいたはずだということである。(例えば、いまだに太平洋戦争当時の日本を、帝国主義的・(欧州諸国より一歩遅れた)植民地主義的領土拡大政策としてではなく、列国からの環太平洋・亜細亜地域の解放として正当化するロジックの内側にいる人がいるように。私は彼らを日本の恥辱と考えるが、ロジックの内部にいる彼らには、たとえ大量死の事実を突き付けたとしても見えないだろうし、外の論理など理解不能であろう。)一体、人間を呪縛する観念とは何か?観念=幻想の外部に脱出する可能性はあるのか?
私の考えでは、ほとんどの人間は観念に操られる自由を奪われた機械であり、主体性
を持たない(実存主義の前提の放棄)。正確に言えば、人は主体的であろうとすればするほど、自由ではなくなるというパラドキシカルな存在であるということだ。なぜなら、主体性とは、自分で自分を監視=管理すること(ここで私はルイ・アルチュセールAIE論やミシェル・フーコーパノプティコンを念頭において考えているのだ。)であり、自分の持っている観念に対して、忠実に、疑うこともせず、ロボットと化すことだからである。「人間は機械であり、<為すこと>ができない」と言ったのはロシアの神秘主義グルジェフであった。もし、人間が機械であることを止めようとするならば、自分が機械であることを知り、機械の法則を解読すると同時に、法則の裏をかく戦術をとらねばならない(主義ではない単なる実存的単独者としての再生)。システムの呪縛から逃れるために、絶えず自明とされてきた前提を疑い、外部に出るために移動し続けること。

 

(3)精神(ガイスト)の政治学とは

精神(ガイスト)の政治学が導入されるのは、人間が観念の操り人形であることに反旗
を翻した瞬間からである。いうまでもなく、精神(ガイスト)の政治学は、ヘーゲルの精神(ガイスト)の現象学に、権力装置批判の視点を導入し、内部から覆すという目論見ゆえの呼称である。観念はヴィールスのように、人間のインナーワールドに侵入し、増殖を繰り返し、やがては人間の全行動を支配するに至る(ウィリアム・S・バロウズのSF的視点)。この観念を析出し、社会システムのなかで人間をどのように配置しているかを明らかにし、反国家装置の立場から観念批判を企てるのが、精神(ガイスト)の政治学の役割である。
精神(ガイスト)の政治学は、権力の所在ではなく、権力がどのように機能しているか(それは『監獄の誕生』のフーコーの視点と基本的に同一である。)、欲望をいかにコード化しているか(それはドゥルーズ=ガタリやリオタールの立場と基本的に同一である。)、権力のエコノミーを明らかにしようとする。そのため精神(ガイスト)の政治学は、コギト=人間主体を学問の出発点とすることを拒否する。なぜなら、人間主体は権力の効果として形作られ、国家装置の中で機能しているという見逃すことのできない側面を有しているからである。
このような国家のイデオロギー装置(AIE)の側面に注目する視点は、ルイ・アルチュセールの『国家と国家のイデオロギー装置』(邦題:『国家とイデオロギー』福村出版、西川長夫訳)の延長線上にある考え方でもある。(アルチュセールは『マルクスのために』(人文書院平凡社ライブラリー)および『資本論を読む(バリバールらとの共著)』(合同出版、ちくま学芸文庫今村仁司訳)によってマルクスの新しい読み方を導入した。その方法とは人間中心主義的な初期マルクスと『ドイツ・イデオロギー』以降の後期マルクスとの間に<認識論的切断>があるとして「構造」論的パースペクティヴを導入した点にある。ただし、アルチュセール自身は知の組み合わせイデオロギーとしての構造主義を否定していた。『資本論を読む』の頃のアルチュセールは、やや理論偏重に傾いており、当時ジガ・ヴェルトフ集団で『東風』を撮っていたジャン=リュック・ゴダールに『資本論』第一巻を飛ばして読むように言った点を揶揄されている。『国家と国家のイデオロギー装置』は、その点に対する自己批判後の実践的な著作である。)
アルチュセールは、イデオロギーを(1)思想家などが自覚的・体系的に展開する理論的イデオロギーと、(2)日常の生活=実践と一体になっているために通常自覚されない実践的イデオロギーイデオロギー一般)と大別し、実践的イデオロギーを「諸個人の現実的な存在[生活]諸条件にたいするかれらの想像的関係の[についての]《表象》である。」とし、現実を「歪曲」するものとして捉える。アルチュセールの実践的イデオロギーの定義には、構造主義精神分析学者ジャック・ラカン象徴界想像界現実界という図式と、主体の生成に関する《鏡像段階》理論が大きく影響を与えている。ところで、観念的・想像的表象であるイデオロギーについて「物質的存在をもっている」という指摘をしていることに注目せねばならない。ヒトは日常的実践において、様々な慣習や儀礼を行っているが、これらの慣習や儀礼をあたり前のこととして、何の疑問もなくスムーズに機能させるのが、実践的イデオロギーの役割なのである。
アルチュセールは、国家を国家権力と国家装置に分ける。そして国家装置を物質的・
制度的抑圧装置と、国家のイデオロギー装置に分ける。国家の物質的・制度的抑圧装
置とは、政府・議会・裁判所・軍隊・警察などを指し、法的に統一されていることが特徴である。それに対して、国家のイデオロギー装置は、宗教的装置(日本の例:靖国神社護国神社)が・教育的装置・家族的装置・法律的装置・政治的装置・文化的装置等を示す。
これらには一見何の統一性もないが、これらすべてが一体となり機能を果たすとき、国家の抑圧装置が滑らかに進行することになる。
アルチュセールは、国家のイデオロギー装置の社会的・政治的機能を、生産関係と社
会的諸関係の再生産プロセスと、近代市民社会と国家との分離の再生産を円滑に進行
させることにあるとした。すなわち、教会・学校・家族などを通じて、ヒトは近代資本制型人間になるべく、主体化=内面化=隷属化されるのである。(生産がモノをつくることであるのに対し、再生産は子供をつくることと教育することを意味する。例えばマルクス主義フェミニスト上野千鶴子が、『資本制と家事労働』(海鳴社)で主に問題にするのは再生産の方である。)
アルチュセールが国家装置のイデオロギー機能面に光を当てたのは、非常に興味深いが、国家装置の本質を抑圧的と看做すマルクス主義的独断には、私は疑問を抱く。現
代の消費社会は、欲望の抑圧ではなく、逆にフェティシズムによって人間の欲望を引き出し、利潤に結びつけるということが行われている。精神(ガイスト)の政治学を打ち立てるには、社会における欲望の抑圧ではなく、社会はいかに欲望を扇動し、社会システムとそれを支える人間主体の再生産のために、欲望の開発=利用=搾取が行われているかが、問わなければならない。
私が主張する精神(ガイスト)の政治学は、ナチズム・ファシズムスターリン主義帝国主義植民地主義民族主義的ウルトラナショナリズム・カルト宗教の排他的選民主義等の権力思想を対象化する批判理論の総体である。アルチュセールは、マルクス主義弁証法=権力知の呪縛から解放するために、下部構造から上部構造への「重層的決定性」の理論や、マルクスへの影響関係で、ヘーゲルとは異なるエピクロススピノザのラインを強調したのだが、未だマルクス主義圏内の思想家であった人物であった。アルチュセールは、マルクス主義以外の思想を、冷静にイデオロギーに算入し、マルクス主義だけを特権視して、批判対象から除外するが、私はそのようなマルクス無誤謬主義とは無縁である。徹底した権力批判論=イデオロギー装置批判のためには、特別視する思想があってはならない。

 

(4)マルクス主義パラドックス

プラトン以来の西欧形而上学については、ジャック・デリダが「ロゴス中心主義=音声文字中心主義」のディコンストラクションという形で批判理論を展開しているが、ここではマルクス主義について再考してみたい。なぜなら、マルクス主義に基ずく国家のみが、地上に具現した哲学国家であり、近代理性を総結集してつくりあげたユートピア思想が、実は極限のアンチ・ユートピアを実現してしまうというパラドックスを顕在化させた実例だったからである。東欧の民主化ソ連の崩壊がなされた現在においても、北朝鮮などにおいて全体主義統制と専制君主的個人崇拝を正当化するイデオロギーとして機能しているという問題が残存している。
言うまでもなく、マルクスの弟子たちは、ソヴィエトにおいて、クロンシュタット等の民衆叛乱の弾圧・他党派の暴力による解体・一党独裁による恐怖政治・独裁者スターリンによる血の粛清・農業の強制集団化・「絶滅=労働収容所」(ソルジェニーツィン収容所群島新潮文庫木村浩訳、第三巻第三部参照)の形成、等々のテロリズムを「革命」の大義名分のもとで、無限に繰り返してきた。ソ連以外に眼を移しても、中国・ヴェトナム・カンボジア社会主義国間戦争や、カンボジアのポル=ポト派による大量虐殺、日本における連合赤軍事件に至るまで、現代マルクス主義の歴史は、おびただしい血の歴史だったということが了解できるだろう。(参考:笠井潔『テロルの現象学』作品社もしくはちくま学芸文庫、序章「観念の廃墟」)このようなマルクス主義の犯罪は、スターリンへの個人崇拝に還元できるものではなく、スターリンのような独裁者の出現を許し、一切のテロリズムを正当化してしまうマルクスの哲学体系に、究極的には人間の際限のない暴力にも、歴史主義的意味づけをし、倫理的にも絶対的な善として、それを成すことを人に強要する弁証法的思想に責任を追及すべきことなのである。
マルクス主義は、近代合理主義の頂点を成すヘーゲルの観念弁証法を、唯物論的に転倒させることで成立した社会思想である。ヘーゲル弁証法が、極限の自由の追求から思考を始めたとは裏腹に、最終的にはプロイセン国家の御教哲学として、絶対精神による無限の専制の正当化に論理的必然性をもって帰結したように、マルクス弁証法も、労働者がプロレタリアート化(対自的な階級意識を持ち、階級として一体化する段階に至ること)することによって、資本制社会の下部構造からの根源的変革=革命を企てようとするが、最終的には一党独裁による恐怖政治の歴史主義的観点からの全面的肯定に帰結してしまうのである。  

ここで、私はマルクス主義は、マルクス自身の当初のねらいに反して、最終的に必然性を持って、スターリンがいなければスターリンを作り出し、強制収容所を生み出すという見解を表明しておきたい。かつて、SF作家フィリップ・K・ディックは『聖なる侵入』(サンリオSF文庫、大瀧啓裕訳)(創元推理文庫、大瀧啓裕訳)において、カトリック教会と共産党が共同支配する地球に、神の子が再度侵入を試みるという設定を描いた。もし、マルクスが生き返って、再度自らのヴィジョンに基づいて作られた強制収容所国家を訪れたならば、真っ先に逮捕され、発言する前に死刑執行されるだろう。
ポル=ポト派による大虐殺や連合赤軍事件のようなテロリズムは、加害者による精神錯乱に原因があるのではなく、民衆憎悪・生活憎悪・肉体憎悪に裏打ちされた倫理的な強迫観念がそうさせたと考えるべきなのである。民衆のための革命が挫折することによって、民衆を憎悪し、暴力の矛先を民衆に向けることが、ラディカルな革命理念を体現するものに思われてくるのならば、その人は、観念的倒錯に陥っていると診断されるべきなのである。
すでに1870年代に、ドストエフスキーは、無神論的革命思想を、人間に取り憑く悪霊」に見立てて長編小説を描いている。その中の登場人物ピョートルの言葉を借りて、ドストエフスキー社会主義の戯画を描いている。(ドストエフスキー『悪霊』新潮文庫江川卓訳)(岩波文庫)(参考1:埴谷雄高ドストエフスキー』日本放送教会、143頁)(参考2:新潮社版カミュ全集第10巻121頁「悪霊」翻案)
「まず何より彼らに効果があるのは…他でもない官僚式です。(中略)それに次ぐ力
はもちろん感傷主義です。ねぇ、ロシアに社会主義が広まったのは、主として感傷主義
のためですからね。(中略)ところで、最後に最も重要な力は…他でもありません。自分自身の意見に対する羞恥です…これは一切を結合させるセメントです。」
ドストエフスキーは、社会主義の理念を「無限の自由から出発し」、「無限の専制主義をもって論を結」ぶものとして捉え、「十分の一だけの人が個性の自由を得て、残りの十分の九に対する無限の権力を享有する。そして、これらの十分の九はことごとく個性を失って、一種羊の群のようなものに化してしまい、絶対の服従裡に幾代かの改造を経たあと、ついに原始的天真爛漫の心境に到達」することを企てるものとして把握するのである。
私はマルクスに取り憑いた「悪霊」を、ヘーゲルテロリズムであると考える。ヘーゲルテロリズムとは、権力知としての弁証法である。弁証法的知的操作においては、「多様態」を、分裂し疎外された状態とネガティヴに捉え、再度「一」の状態=統一された状態を回復させようとする。しかし、「多様態」の方が自然本来の生産性を示す概念だとしたら、「一」の方が人工的秩序・権力の側となり、真の疎外態となる。弁証法的な思考の運動においては、絶えず差異・多様性・非同一性は、知のシステムの外部に排除され、排除された事実を含め抹消される。これが権力に奉仕すること以外の何を意味するというのか。
アルベール・カミュは『反抗的人間』(新潮社版カミュ全集第6巻)の中で、反抗的人間は、原則的に死に反対すると説き、《神》の代わりに、今度は《歴史》を絶対的価値にして、未来の人間の幸福の為ならば、今日何千、何万の人々の死もやむを得ないとするマルクス主義歴史観を批判した。問題はこのように殺人を正当化し、倫理的に殺人を要請する思想の基盤が、弁証法にあるということである。なぜなら、弁証法だけが歴史に目的があるかのような幻想を与え、なおかつ各人が社会の交換可能な歯車として、没個性化する代償として、社会の発展と進歩を推進しているという欺瞞的な生存根拠を与えることができるからである。  

マルクス主義をいかに始末するかというアポリアを抱えている吉本隆明ですら、『世界認識の方法』(中公文庫、98頁)を見ると、マルクス主義による抑圧的な社会体制を、マルクスの思想のレーニンらによるロシア的変形や、<アジア的>専制の残存のせいにして、マルクス自身の思想については責任を問わないという不徹底ぶりが見られる。第一、アジア的という概念自体、吉本も言うように「世界史の発展段階として、原始社会と古代社会の中間に位置する概念」であり、歴史主義的発展段階説を前提にしている概念である。それどころか「ヘーゲルの意志論の全領域は、社会の自然史的な考察の上にあるものとしてマルクスはそういうふうに整理付けた」として「マルクスヘーゲルをすこしも始末したり排除したりしないで、全部考察の対象として残していること」(同掲書、10頁)を評価するに至っては、私の持論であるテロリズムの原因をヘーゲルに見出す立場と正反対であり、幻想=観念に呪縛された人間を解放する指針としてはなり得ないように思われる。
ともかく、神なしに地上に楽園を創り出そうという社会主義の実験は失敗した。ここで「歴史の無意識としては、資本主義は、最高の作品である。」という吉本隆明の発言(F・ガタリとの対談『善悪を超えた「資本主義」の遊び方」』(『マリ・クレール』1987年4月号、中央公論社、303頁)や『いま、吉本隆明25時』(弓立社、383頁、もしくはカセットブック吉本隆明『文学論』弓立社Ⅱ-B)での発言)に同意してもいい。ただし、資本主義が社会主義との比較で、相対的に欲望の脱コード化が進んでいるという点からの評価であって、資本主義が絶対的に優れているということではない。第一、マルクス主義アポリアは、資本主義の脱コード化プロセスの極限として共産主義社会という夢をマルクスが思い描いたにもかかわらず、その教えに忠実に従った弟子たちが行ったのは、際限なく増大してゆく国家権力による欲望の超コード化だったという逆説にあるのではなかったか。
サルトルが掲げたテーゼ<マルクス主義はわれわれの時代の状況が乗り越えられない限り、乗り越え不可能な哲学でありつづける>を訂正するためには、マルクス主義を超える新たな一般システム論が提出されなければならない。
例えば、マルクス主義は国家権力として体現されるとともに、強制収容所を生み出す
というヌーヴォー・フィロゾフ=新哲学派(彼らの多くは、1968年5月のフランス5月革命の闘士であり、ソルジェニーツィンの『収容所群島』の衝撃から転向した人々である。
アンドレ・グリュックスマン、ベルナール・アンリ・レヴィらが該当する。)や、その日本版であるマルクス葬送派の立場は、一面では真実であるけれど、マルクス主義に代わる何かについては理論的に無内容であるために、単なる現状追認イデオロギーに堕する危険性をはらんでいる。要するに、ソ連崩壊と東欧の民主化によって、資本主義勢力の勝利と、政治理念と体制の選択をめぐって情熱が蕩尽される歴史が終焉し、後は退屈で凡庸な利害の技術的・計量的処理が残るだけというフランシス・フクヤマ(フランスのヘーゲル学者アレクサンドル・コジェーヴの弟子であり、アメリ国務省のイデオローグ)のような立場に、アンチテーゼをつきつけることができない点が問題なのである。


(5)(フロイト+マルクスニーチェ

私の立場は単純明快である。いかにしてファシズムの誘惑を回避しながら、資本主義的解体=脱コード化をリミットまで推し進めるか、ということである。それを理論化することが《ニーチェフロイトマルクス》から始まった西欧形而上学批判をさらに推し進めることにつながるのである。残念なことに、ジル・ドゥルーズが『ノマド(=遊牧民)的思考』(『現代思想青土社1984年9月号総特集ドゥルーズ=ガタリ、164頁)で指摘しているように、「マルクス主義の場合は、国家による再コード化(諸君は国家によって病んでいる。だから国家によって治るだろう。それは同じ国家ではないだろう。)」という罠に、「フロイト主義は、家族による再コード化(家族のせいで病んでいる。だから家族によって治る。同じ家族ではない。)」という罠に陥ったがゆえに、マルクス主義は「公的な官僚機構」に、フロイト主義は「私的な官僚機構」に道を開き、再度権力と共犯関係にある形而上学の閉域に回収されてしまったのである。従って、現在の課題は「反文明の黎明」である危険な思想家ニーチェの視点を実験的に導入し、国家と家庭を支える無意識のシステムに対して、根源的批判の鉄槌=ハンマーを下すことにある。
ところで、フリードリヒ・ニーチェは、様々な誤解と偏見に晒されてきた。そのため、ニーチェは、二つの像に分裂してしまった。1人めのニーチェ像は、反ユダヤ主義ニーチェの妹エリザベートによって捏造されたニーチェ像である。彼女はニーチェの遺稿を、自らの意図に合うように編集して『権力への意志』(ちくま学芸文庫)を、極端な権力志向と、排他的選民思想の書に仕立て上げてしまった。エリザベートニーチェは、やがてヒットラームッソリーニに愛用され、その後も戦争肯定や民族浄化を正当化する保守反動思想の温床となった。2人めのニーチェは、第二次世界大戦中のレジスタンス(抗独地下運動)のなかで、ファシストどもからニーチェを奪還するためにジョルジュ・バタイユピエール・クロソウスキーらが展開した『アセファル(無頭人)』誌(現代思潮社、兼子正勝・中沢信一・鈴木創士訳)でのニーチェの読み直し作業である。ここで、頭=独裁者=専制君主=神の首を切断するための武器としてのニーチェ哲学に探求の眼が向けられており、やがてバタイユの『無神学大全ニーチェについて』(現代思潮社)やクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』(哲学書房、兼子正勝訳)として結実してゆくことになる。彼らの読み直し作業が、後にフーコードゥルーズ(『ニーチェと哲学』国文社および『ニーチェ朝日出版社またはちくま学芸文庫湯浅博雄訳)、ポール・ヴィリリオの仕事に影響を与えることになる。日本のニーチェ学者西尾幹二らが、(どういうわけか、新しい歴史教科書をつくる会とか、戦犯に共感を抱くある種のグループになりやすい傾向があるようだ。)この2つのニーチェ像の違いに自覚的かどうか、それは言うだけ野暮というものだろう。
したがって、ここで導入されるニーチェは、2人めのニーチェの方であるのはいうまでもない。(あるいはお好みに合わせて、ニーチェの代わりに、あらゆる官僚機構の敵としてのフランツ・カフカの視点を導入してもいいだろう。)こうして、フロイトマルクスの切り開いた知の暗黒大陸を、ニーチェ(あるいはカフカ)の視点で再検証する必要が出てきた。

 

(6)哺育器の中のホモ・デメンス

人間は本能の壊れた動物である。リビドーという生の根幹を成す性的エネルギーはあるが、そのエネルギーを発現する行動過程までは、先天的に遺伝情報としてプログラミングされていない。以上の事柄が精神分析学者岸田秀の唱える唯幻論の出発点となる人間認識である。(参考:岸田秀『幻想を語る』河出文庫全2巻)  岸田秀の考え方の基礎となっているのが、フロイト理論である。フロイトは人間の心的領域をsuper ego(超自我・上位自我)/ego(自我)/id・es(欲動)という無意識のレベルを含んだ重層的な構造として捉えていた。ところで精神分析の分野では、Instinkt/Trieb、あるいはinstinct/pulsionというふうに、生物の<本能>と、人間の<欲動>を区別している。本能という言葉は、生態系のシステムにかなう行動に導く有機体の先天的な情報制御機構に基づいた生命エネルギーを示し、欲動という言葉はどちらに走り出したらよいのかわからない錯乱した人間の本能を示している。
このようなペシミスティックな人間理解は、今日様々な学問領域で見られる見解であ
る。社会学者のエドガール・モランは『失われた範例』(法政大学出版会、古田幸男訳、144頁)の中で人間をホモ・デメンス(錯乱のヒト)と規定し、哲学者の中村雄二郎も『精神のトポス』(青土社河合隼雄との対談「夢の破片と夢の構造」、168頁)の中で「<狂った人間だけが頭で考える(プエブロ・インディアン)というのは、ちょっと凄いことですね。」と発現している。このような人間認識には、人間中心主義への反省という想いが込められいるということは言うまでもない。
さて、人間の本能が壊れていることは、いかなる事実から立証できるだろうか。コンラート・ローレンツも指摘していることだが、動物の世界では(例えばオオカミ)同種の動物同士では、威嚇や噛み付き合いは確かにするけれども、互いの優劣関係がはっきりすると、弱者は服従のポーズをとり、強者は攻撃をやめるというふうに、無用な殺戮を回避するプログラムが、あらかじめ本能の中に組み込まれている。それに対し、人間は『旧約聖書』の昔から、アブラハムが神への献身のために、息子を犠牲にしたとされているし、現代においてもナチズム・ファシズムスターリン主義マッカーシズム等々と、制御不能の攻撃性が荒れ狂い、ジェノサイドを現出させることも稀ではないのである。怒りの神を静めるために、または共同体の一致団結のために、スケープゴートを絶えず作り出し、死に追いやり続けてきた人類史の事実は、人間の精神の奥底にある妄想傾向を明らかにする鏡である。人間だけが、自分と同じ種を殺すことを禁ずる先天的プログラムの欠如した欠陥動物なのである。(最近では、この狂ったサルは、牛に人工飼料という形で共食い=カニバリズムをさせて、BSEを発現させてしまった。)
それでは、なぜ人間の本能は壊れてしまったのだろう。原因として考えられるのは、ボルクの幼態成熟(ネオテニー)説や、ポルトマンの早産説が考えられる。アーサー・ケストラーは『JANUS』(邦題『ホロン革命』工作舎田中三彦・吉岡圭子訳、27頁)の中で、人間の進化上の欠陥を「爬虫類型」の脳と「古代哺乳類型」の脳からなる<古い脳>と、人間独自の新皮質との同居から生ずる矛盾があるからだと考えた。洪積世後期に新皮質は爆発的成長を遂げたが、古い構造の中脳と新皮質の間の神経経路は不十分のままで、新皮質は古い脳の上に覆いかぶさってしまったという。人間の脳のニューロンの数と、シナプスの複雑な絡み合いと、ネオテニーのため誕生後もシナプスの多くが形成されるという事実を考え合わせると、人間の本能が壊れたのも無理はないと考えられる。しかし、人間の新皮質の(腫瘍のような)爆発的増殖は何によってなのか?氷河期をサバイバルするために、共食いが必要だったからなのか?筆者は、進化論としては「なるべくしてなった」と見る今西進化論よりも、レトロ(逆転写)ウィルスによる人間の遺伝情報の書き換えに進化の原因をみるウィルス進化論に説得力を感じているが、それならばある種のウィルスが人間の根源的暴力に介在しているのか?
生物一般に関して言えば、本能に従って生きることが、エコシステムの中で共生してゆく道に繋がる。しかし、人間は本能の壊れたホモ・デメンスであるがゆえに、あらかじめエコシステムの中に帰還することを禁じられた存在である。錯乱したヒトは「想像界」で繰広げられる欲動のために、あらゆる事物が多義的なサンス(意味)=シーニュ(記号)を帯びて見えるので、他の生物のように「現実界」を見通すことができない。「現実界」は、人間の心的領域の外部に、カントの物自体のように認識不能なものとして、現実に存在する。しかし、流動する無意識のカオスの渦に巻き込まれたヒトは、恐れと不安を抱かずにいられない。そこで要請されるのは、文化=象徴秩序による欲望のコード化である。ヒトは自らの身体・住居・宇宙に象徴的な秩序の刻印を焼き付けて、人間が住むにふさわしい世界=人間的自然を創造するのである。
文化人類学クロード・レヴィ=ストロースは、『悲しき南回帰線』(講談社文庫、室淳介訳、上巻272頁)の中で、自らの顔に絵を抱く南米のカドゥヴェオ族について報告しているが、彼らの理屈では「人間である証拠に体に絵を描く。自然のままの状態にいるのは畜生と変わりない。」ということになる。文化=象徴秩序の働きが、自然とは異なる人間のコスモロジーを構築する企てであることは、ここからも見てとれる。
一般化するならば、文化=象徴秩序とは幼態成熟(または早産)したホモ・デメンスを、
一生入れておく哺育器であるということになる。その機能は過剰なエネルギーはあるが、ベクトルの向きの定まらない欲望をcコード化し、方向を与えてやることにある。フロイドによれば人間は本来多型倒錯であり、正常は何かということも象徴秩序が後から与える虚構なのである。ポランニー派経済人類学者の栗本慎一郎は『象徴としての経済』(角川文庫、138頁)で、ホモセクシャルの関係を持たない成人男子を「異常」扱いする北アフリカのシワン族のことを報告している。つまり「正常」とは何かはそれ自体で決定されるのではなく、「異常」との差異があって、「正常」の意味内容(シニフィエ)が決定されるのであり、一切は実体のない幻想(=空)なのである。
さらに象徴秩序について分析を続けよう。ルーマニア宗教学者ミルチャ・エリアー
デは『聖と俗』(法政大学出版会、風間敏夫訳)で、宗教的人間の住むことのできる聖なる空間=コスモスは、俗なる空間=カオスと質的差異があると主張する。エリアーデは聖なる力が自らを現すことを聖体示現ヒエロファニーと呼び、未知の土地は世界の中心軸を固有点として、聖なる力によって秩序られることによって、初めて宗教的人間の住むことのできるコスモスになるのだとした。世界の中心軸となることが多いのが、巨大な樹木である。巨大な樹木は、大地から天空に向けて浄化されてゆく過程を象徴的に表すとともに、宇宙を支える柱のイメージをも人間に抱かせるからである。(ここで大江健三郎のレイン・ツリーのイメージをオーバーラップさせてもいい。)コスモスの外部に広がるのは得体の知れないカオスの闇であり、宗教的人間は共同体の外部に不安と恐れを抱かずにいられない。一方、俗なる人間は聖なる力を感じる能力がないため、事物に対しては象徴的な意味付与を行わない。俗なる人間の問題点は、生存の意味の欠如、ニヒリズムによる心の荒廃であろう。  

このようにエリアーデの聖俗理論は、聖=コスモスと、俗=カオスの二元論から成り立っている。だが、社会学の分野では、デュルケムの集合的沸騰=聖=カオスと、世俗的日常=俗=コスモス、マックス・ウェーバーのカリスマ=聖=カオスと、その制度化=俗=コスモスという具合に、世俗的日常の方を秩序立ったコスモスと看做すのが一般的である。そこで、宗教学と社会学を統一的パースペクティヴで捉えるために、上野千鶴子の論文「カオス/コスモス/ノモス」(『構造主義の冒険』勁草書房、27頁に収録)に従って、世俗的日常の構造をノモス、聖なる空間をコスモス、両者のカテゴリーに入らない反構造をカオスとしよう。

 

(7)構造主義とは何か

さて、文化=象徴秩序はノモスとコスモスに分類できることを述べたが、こうした文化=象徴秩序の解明に最も成果をあげたのが、構造主義的研究方法であった。構造主義
は、文化人類学(レヴィ=ストロース)、哲学・歴史学(フーコー)、精神分析学(ラカン)、マルクス主義(アルチュセール)、新批評ヌーヴェル・クリティック(ロラン・バルト)など多方面に渡っており、その構造概念も一様ではない。研究方法の共通点をあげると、全体に実体があると看做すホーリズムでもなく、個に実体があると看做すアトミズムでもなく、世界を諸関係のネットワークで捉えようとする点があげられる。哲学者廣松渉の術語に言い換えれば、物的世界観(実体論)から、事的世界観(関係論)へのパラダイム シフトを可能にしたのが構造論的アプローチの最大の特徴ということになる。第二にデカルトからサルトルまでの哲学の伝統では、コギト=主体がア・プリオリに存在することから、すべての論理を展開するという物語となっていたが、構造主義では人間主体は何者かに操作されていると看做し、その何者かを言語・無意識・経済的社会的諸関係等の深層構造に見出そうとする。例えばジャック・ラカン鏡像段階理論では、人間主体という幻想は、生後6カ月から18 カ月の幼児が鏡の中の自分の像を、自分のものとして、身体の統一性を想像的に把握することで、後天的に捏造される観念なのである。従って、構造論的アプローチでは、人間主体をかっこで括り、見えない構造を見えるモデルとして提示することにウェイトをおくのである。
  構造主義インパクトを与えたのは、言語学者で記号論の祖であるフェルディナン・ソシュールである。ソシュールは「文化の中の諸記号」ではなく、「文化という記号」を問題にする。ソシュールの思想の重要点は、次の三点である。第一に一つの記号(シーニュ)において、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の関係は恣意的である。例えば、具体的な「犬」に対して、dogという国もあれば、chienという国もあり、具体的な犬という概念と、音声による表現は恣意的であるが、文化の取り決めで恣意的必然に転化しているといえる。なお、シニフィアンシニフィエは分離不能である。第二に、シーニュの意味は、それ自体であるのではなく、シニフィアンシニフィアンの差異性があって意味が析出されてくる。例えば、白と黒という言葉はあるが、その中間の灰色という言葉を持たない民族がいて、灰色も黒という言葉で表現していた場合、その人たちにgrayという言葉を教えるにはどうすればいいのか?おそらく、灰色のものを何百・何千と並べて「これらをgrayと言う。」と教えても、その人たちはgrayを黒のことを意味すると思うだけである。彼らに教えるには、黒いものと灰色のものを例示しながら、blackとgrayの差異性を教えることによって初めて可能であろう。ここから、ソシュールの関係論的見方が出てくるのである。第三に完結した差異の体系は、一挙に与えなければならないので、通時態よりも、共時態を重視する共時言語学の成立根拠となる。以上、「恣意性・差異性・共時性」の三点が、構造主義成立の鍵となった考え方である。なお、晩年のソシュールアナグラムの研究を通して、構造変動論に道を開こうとしてきたことは、フランス文学者・言語学者の丸山圭三郎(竹田青嗣との対談『<現在>との対話2 記号学批判』作品社、10頁)やウランスの社会学者ジャン・ボードリヤール(『象徴交換と死』ちくま学芸文庫)が指摘しているとおりである。
人間は言語に縛られる動物である以上、ソシュールの理論は社会システム論にも敷衍し得るはずである。レヴィ=ストロースは、ソシュールの構造論的パースペクティヴを、未開社会のトーテミスムの解明に応用しようとした。トーテミスムとは、各氏族がある動植物等を自らの祖先とし、氏族を示すシンボルとしたり、トーテムとなった動植物等を礼拝し、殺生を禁じ採食を禁じたりするものである。逆に、祝祭の際には、氏族全員でtotemである動植物を共食し、体内に摂取したり、また、婚姻関係を氏族外の異なるトーテムの男女間で行う規則も見られる。
従来の機能主義学説では、氏族の生存のために、貴重な食料源である動植物を採り過ぎないようにしているとか、トーテム崇拝によって共同体の連帯を高め合ったとかの説明を加えてきた。しかし、トーテムに選ばれるのは、食べ物に限らず「北風」であったり、「ハエ」や「カ」であったりして、機能主義では説明のつかないことが多かった。
レヴィ=ストロースの方法は、もしトーテムが未開社会における記号であるならば、その記号的意味は他の記号との差異で決定されるので、記号の集合全体を検討しなければならないという発想から出発している。例えば、熊をトーテムとしている氏族は、外に眼を向ければ、亀をトーテムとしている氏族や鷹をトーテムとする氏族を含む社会空間の中で生活しているわけで、ここで熊/亀/鷹の三項からなる示差的な記号的意味を解読するならば、陸/水/空をそれぞれ象徴としていることが理解されよう。すなわち、構造主義の方法では、記号は記号として、複雑なものは複雑なまま、考えられた系をそのまま捉えようとする点で、実践の体系である生きられた系に還元して社会現象を理解しようとする機能主義と根本的に異なるのである。


(8)ポスト構造主義の冒険

次に構造主義の方法を発展させて、現代社会の分析を行うポスト(後期)構造主義
試みについて考えてみたい。
ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは『アンチ・オイデイプス』(河出書房新社、市倉宏裕訳、172頁)第三章「野生人・野蛮人・文明人」において、世界史を欲望の脱コード化プロセスとして捉え、社会システムを(1)野生の原始土地機械(コード化社会)、(2)野蛮の専制君主機械(超コード化社会)、(3)文明の資本主義機械(公理系によって制限された脱コード化社会)という三つの理念系に類別し、脱コード化プロセスの極限に、リゾーム=根茎(制限なき脱コード化社会)を掲げてみせた。彼らの描いたヴィジョンでは、様々な社会機械が同時に存在し、社会機械間の戦争や交易を含めた広義の<交通>の場から、事態が進行するという世界観となっている。
レヴィ=ストロースは、熱力学の比喩を使って、自身の構造人類学の扱った未開社会
を歴史的変動のない「冷たい社会」と呼んだ(ジョルジュ・シャンボニエ『レヴィ=ストロースとの対話』みすず書房、多田智満子訳、31頁)が、「熱い社会」である資本主義社会の解明についてはブラック ボックスのままであった。ドゥルーズ=ガタリのいう野生の原始土地機械(コード化社会)は、レヴィ=ストロースの言った「冷たい社会」を指す概念といえる。ただし、ドゥルーズ=ガタリは原始共同体を<国家に抗する社会>として捉えるピエール・クラストルの見解に組しており、一見冷たい社会と見える未開社会にも熱い運動を読み取ろうとしている。  

コード化社会では氏族と氏族の間で、贈与の円環が一般交換として定式化しており、婚姻(=女性の贈与)もまた一般交換の法則にしたがって、氏族から他の氏族に円環状になされるのであり、物品の贈与がこのとき逆方向の円環を描くことになる。氏族内の近親婚が忌避されるのは、女性の交換が規定されいるとするのが、レヴィ=ストロースの立場である。だが、贈物は単なる物ではなく、特殊な力を帯びたモノであり、<贈与の一撃> を加えることで、被贈与者に贈与者に対する負債の意識を持たせることになる。負債の意識からの解放は、他の氏族に対して<贈与の一撃>を加えることで達成される。より大きいダメージを相手に与えるためには、貴重なものを相手に与えたり、重要な生活財を相手の眼の前で破壊したりすればいい。では、このような儀礼的贈与や、北米原住民のポトラッチはどう捉えればいいのか?ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分~普遍経済学の試み』(二見書房、生田耕作訳)では、太陽から供給されるエネルギーは、地上の生命体が成長するのに必要な量より遥かに過剰であり、成長の限界に対すると、逆にエネルギーは生命の破壊方向に働いてしまうので、人間存在は過剰なエネルギーを、戦争や祝祭、生殖と結びつかないエロティシズムの領域で、無意味に、かつ無目的に、消費=蕩尽せねばならないという呪われた宿命があり、儀礼的贈与やポトラッチも過剰な力を消尽する方法と解されるのである。
コード化社会では、人間の過剰な欲動が、平面的に大地に張り付いた形でコード化さ
れている。それに対して超コード化社会では、トゥリー上のハイアラーキーとなっており、三次元の円錐モデルで表現可能である。例えば、ルイ・アルチュセールが『国家と国家のイデオロギー装置』で描いているのは、超コード化社会での主体形成プロセスの説明にふさわしい。
イデオロギーの二重化された反射的な構造は以下の四項目を同時に保証する。一、諸主体としての諸《個人》に呼びかけること。二、かれらを(大文字の)主体に従わせること。三、(小文字の)諸主体と(大文字の)主体の間における、また諸主体自身の間における相互的承認。四、こうしてすべてはうまくいく。また諸主体はかれらが何者であり、したがって何者として振舞っているかを知っているという条件ですべてにうまくいく。つまり《かくあれかし(アーメン)!》となることの絶対的保証。」
アルチュセールの描いている社会装置は、資本主義社会の社会構造であると同時に欲望の再属領化をねらうナショナリストたちのアルカイックな社会モデルといえる。
超コード化社会の円錐の頂点に来るのが、抽象的に言えば超越論的シニフィアンであり、大文字の主体=特権化された第三項である。具体的に言えば、絶対的唯一神であり、絶対君主であり、父権制社会での父である。大文字の主体は、メタ レベルの高み
から、小文字の諸主体のいるオブジェクト レベルの平面に対して作用を及ぼし、各人は絶対者に対しての無限の負債を内面化し、大文字の主体の命ずる自己同一性を受け
入れ、最終的に自分で自分を監視するに至る。こうして超コード化社会は、経済的=効率的に、権力を機能させるのである。
超コード化社会では、普段は日常的でスタティックな秩序が保たれているが、周期的
に非日常的な祝祭が行われ、価値体系が逆転する。すなわち、象徴的な王殺しや、トリックスターによる乱痴気騒ぎなどを通して、古びた社会秩序にショック療法が加えられ、社会システムが再活性化されるのである。これら超コード化社会自体の「死と再生」のサイクルの説明については、文化記号論が成果を収めてきた。例えば、ジュリア・クリステヴァは『詩的言語の革命』(勁草書房)において、記号象徴態(ル・サンボリック)と原記号態(ル・セミオティック)の二元論に基づく弁証法的運動を説いた。ル・セミオティックは鏡像段階以前の想像界における過剰な欲動を記号の生成という観点から捉えた概念であり、ル・サンボリックは象徴秩序=構造のことである。また、文化人類学者の山口昌男は『文化と両義性』(岩波書店、66頁「混沌と秩序の弁証法」、岩波現代文庫)において、中心-周縁理論を確立し、以降、様々な文化事象に対して軽快なフットワークで中心-周縁理論を適用した解明を行ってゆくことになる。彼の中心-周縁理論は、『万延元年のフットボール』(講談社文芸文庫)を上梓していた大江健三郎の四国の森を舞台にした死と再生の物語とoverlapする面が多く、互いに影響を受け合い、日本の戦後文化をリードしてゆくことになる。ところで、山口の周縁概念には、共同体の外部は入っていなかったが、『流行論』(朝日出版社週刊本)で外部を含める修正を行っている。
では、最後に文明の資本主義機械(相対的脱コード化社会)とは、どんな社会システムであろうか?相対的脱コード化社会の最大の特徴は、超越的シニフィアンの不在である。要するに、近代は神が死に、王の首がギロチンにかけられ、父がものわかりのいいパパになったときに誕生したということである。相対的脱code化社会に対して、禁制と侵犯の弁証法も、中心-周縁理論も、ル・サンボリック/ル・セミオティックの弁証法も、もはや変革のインパクトを持ち得ない。なぜなら、資本制社会=消費社会とは、システムの解体を常態化し、日常的に消費生活の場で祝祭を繰広げている怪物のようなシステムだからである。資本制社会はシステムの外部からの侵犯に対して、文化という記号の質的
差異を、貨幣という量的差異からなる価値に還元=翻訳して、無害化し、骨抜きにしたあとで、消費の活性化のために開発=利用=搾取するのである。(この資本主義のモデルを、浅田彰は《クラインの壷》で示したのである。外部と思われたものが、いつのまにか内部に巻き込まれいるという奇妙な立体。)今日、消費拡大のためには、広告における商品の付加イメージの差異化=差別化(記号論的演出)は不可欠であり、差別化の追求の果てに、差別化を行わないこと(派手な広告を一切取り除くとか、反消費的なエコロジーという記号を付加するとか)も、差別化の切り札のひとつとして使用している。
問題は、資本制社会が《公理系》によって相対的な脱コード化に留まっており、絶対
的な脱コード化(リゾーム=根茎)に到達できないことである。《公理系》とは、われわれの欲動の方向を、資本にとって都合のいい方向、利潤を上げる方向だけに縛り付けている不可視の論理のことである。一方、ドゥルーズ=ガタリが掲げたリゾーム=根茎というモデルは、トゥリー(樹木)のように一点から枝分かれしてゆく権力のシステムではなく、脱中心的で複雑に成長してゆく反権力のネットワークのことである。(参考:ドゥルーズ=ガタリリゾーム朝日出版社豊崎光一訳、『エピステーメー』昭和52年10月臨時増刊号および昭和62年6月復刻改訂版、なお現在ではジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『ミル・プラトー河出書房新社の序章として読める。)
資本制社会では、唯一貨幣が価値基準となりうるが、決して金本位制における金のようにメタレベルの高みから、一切を価値の秩序体系に構成するといった性格のものではない。貨幣は貯蔵されるものではなく、オブジェクト レベルに再投資されて商品に化身し、今度はメタ レベルに飛躍して、再度貨幣にならなければならない性格を持っている。兌換貨幣のように金とリンクされていない現在の貨幣は、原理上無限の売りと買いをつづけてゆくという保証はない。だが、明日も、そのまた明日もこの貨幣には一般受容性があるだろうという信仰の為、今のところ何もなかったかのように事態は進行している。
さて、このような資本主義社会にふさわしい人間を再生産しているのが、家族という
制度である。精神分析の立場からすると、人間は本能の壊れた欠陥動物であり、幼児
は出生によって失われた全体性を取り戻すために、母と合一を図る。この主体と外界との間に溝のない母と子の融合状態を、対象のない(対象が分化していない)状態、またはクリステヴァが『恐怖の権力』(法政大学出版局、枝川昌雄訳、60頁)で使った用語を適用すれば「一次的ナルシズム」と名付けよう。前主体が一次的ナルシズムの状態から抜け出さなければば、欲動は表象と結びつかず、語る主体としての一歩が踏み出されないので、ある時点で母と分離・アブジェクシオン(棄却)して、対象として距離を置いて見る原抑圧がなされなければならない。ラカン理論では、そこで父が登場し、父は社会的・文化的規範として、母子の間に介入し、その直接的合一を禁止する。つまり、父は法であり、権威であり、専制君主として家庭内に君臨し、欲動の流れをせき止めようとする。ここから、エディプス コンプレックスが生じるというのが、フロイド派精神分析の立場である。
精神分析は、神経症などの症状に対して、幼年期のトラウマなどを検証し、潜在意識におけるエディプス コンプレックスを、患者本人の意識に再認識させようとする。
これに対し、ドゥルーズ=ガタリのスキゾ・アナリーズでは、家族を欲動の流れを規制する整流器と看做し、家族の三角形の中で内面化=主体化=エディプス化されることで、自己の自己に対する負債を覚え、資本主義型人間にされて、競争社会の中に投入されると考える。彼らの立場からすると、精神分析は資本主義の権力と共犯関係を持ち、反社会的でスキゾフレニックな脱属領化の欲望を、再度システムに回収する制度と捉えられる。

前衛都市のメタフィジカ~アーバンギャルド試論

本稿は、孤独な惑星社刊『前衛都市を知りたい子供たち』のvol.1~4のために書かれたアーバンギャルド論と、資料である。

本稿は、2019年夏刊行予定の『前衛都市を知りたい子供たち』vol.5をもって、一旦終結する予定である。したがって、ここに公開するのは、現段階の未完の原稿ということになる。

『前衛都市を知りたい子供たち』のvol.1~4は、特殊書店BiblioManiaの通販にて入手が可能である。「前衛都市のメタフィジカ~アーバンギャルド試論」は、現段階でも14.7万文字を超えるため、スクロールして読むのは難儀と思われる。是非とも、紙媒体の『前衛都市を知りたい子供たち』にて読まれることをお勧めする。

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『前衛都市を知りたい子供たち』は同人誌なので、本稿の他、発行人タナカカオリ氏によるアーバンギャルドのライブのセトリ・リスト、美しいイラスト、漫画、エッセイなどが掲載されている。アーバンギャルドの音楽を聴きつつ、副読本として愉しんでいただければ幸いである。

第1部『アーバンギャルド☆クロニクル【解説篇】・20102017

2010年

◆CDアルバム 浜崎容子『Film noir』(ZETO-004/前衛都市)2010年4月25日リリース

フィルム・ノワールは、虚無的な暗い色調の犯罪映画を指す。思いつくままに挙げると『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『三つ数えろ』『現金に体を張れ』といった映画である。(ちなみに、本作では「思春の森」以外の歌詞は、すべてアーバンギャルドのリーダー、松永天馬が手掛けている。2017年に発表された松永天馬のソロ・アルバム『松永天馬』収録の「天馬のかぞえうた」では、ハワード・ホークス監督作品・ハンフリー・ボガード主演『三つ数えろ』が歌詞に組み込まれており、『三つ数えろ』等のフィルム・ノワールが彼のダンディズムに刻印を残していることを伺わせる。)浜崎容子のファースト・ソロ・アルバムは、彼女の専門領域であるシャンソンを、テクノ・ポップの電子音で再現するとともに、映像喚起力の大きい歌詞と歌唱で、漆黒の宇宙を表現することに主眼がおかれていた。漆黒の宇宙とは何か。端的に言えば、ゴシックの美学の世界、反宇宙的二元論の世界である。ゴス(ゴシック)の世界では、光と闇の相克と闘争が行われ、その戦いの中から脱自的に魂が超出する。浜崎容子の『Film noir』から、そうした超越を希求する聖なるエコーを聴き取るのは容易い。

『Film noir』の冒頭の曲は、「樹海の国のアリス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)である。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に出てくるアリス(及び、そのモデル人物であるアリス・リデル)は、松永天馬が好んで使う物語中の主人公であり、「少女」の表象である。タイトルに「樹海」を入れることで、アリス(聴き手は、感情移入によって、自身をアリスにアンデンティファイするだろう。)が、死と隣り合わせであることを指し示している。「樹海」から連想するものは「自殺」である。松本清張の小説のタイトル『黒い樹海』ではないが、「樹海」は漆黒の闇を連想させる。歌詞の中に出てくる『絵のない絵本』は、アンデルセンの童話集である。冒頭に出てくる「不思議の国」の戦争は、「女の子戦争」を指すと考えて良いだろう。「女の子」は、大人の恋に憧れて、少し背伸びして恋愛に落ちる。その際に「まぼろし」の向こうの過酷なリアルに晒される。それが、「不思議の国」の戦争である。「少女」は、恋愛によって傷つくが、それは大人になるための通過儀礼でもある。「少女」は、幾たびかの精神の危機を通過しながら、成長を遂げていく。

「暗くなるまで待って」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)は、テレンス・ヤング監督作品・オードリー・ヘプバーン主演のサスペンス映画から、タイトルが取られている。冒頭にある「ティファニー」も、オードリー・ヘプバーン主演で、トルーマン・カポーティ原作の映画「ティファニーで朝食を」を連想させる。作中、フェデリコ・フェリーニ(代表作「道」「甘い生活」「8 1/2」)とジャン=リュック・ゴダール(代表作「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」「中国女」)の名前が見られる。ビデオとゴダールの親和性、フェリーニゴダールが眠くなる(ゴダールに至っては「ゴダール・タイム」という言葉さえある)など、シネフィルを頷かせるような歌詞が続く。歌詞の前半で「ピストル」、後半で「オペラ」があるのは、どことなく鈴木清順の「ピストルオペラ」を連想させるための仕掛けだろう。結局、「暗くなるまで」とは、映画館の闇であり、精神の闇であり、真夜中の恋愛の事だろう。

印象派」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。印象派は、19世紀後半にフランスを中心広まった芸術思潮である。クロード・モネの絵画「印象・日の出」に由来する。当初、ルイ・ルロワらの批評家からは悪評をもって迎えられた。印象派絵画の特徴は、視覚を重視し、眼に映るままに光の移ろいを描くことにある。印象派では、写実主義のように事物の形態を明確に描く事から離れ、事物の輪郭が曖昧となることが多い。代表的な画家は、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールアルフレッド・シスレーエドガー・ドガエドゥアール・マネらがいる。後期になると、点描法を用いたジョルジュ・スーラのような画家が現れる。点描法は、スーラ独自のもので、後期印象派或いは新印象派に共有されたものではないが、印象派の本質を踏まえた技法といえる。微細な点でもって色彩を表現する点描法は、写真の原理そのものである。

2018年に名古屋市美術館等で開催された「モネ それからの100年」展では、クロード・モネから始まった印象派の影響下で、その後の20世紀のアヴァンギャルド絵画(フォービズム[野獣派]、キュビズム[立体派]、シュルレアリスム[超現実主義]、アンフォルメル[非定型]、アクション・ペインティング、ポップアート等)が始まった事を明らかにしていた。

印象派と映画の繋がりといえば、画家のピエール=オーギュスト・ルノワールの次男が、「ビクニック」「大いなる幻影」「黄金の馬車」で知られる映画監督のジャン・ルノワールであることが思い浮かぶ。父親譲りの色彩感覚を映画に持ち込んだジャン・ルノワールは、ジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォーらのヌーヴェル・ヴァーグロベルト・ロッセリーニルキノ・ヴィスコンティらのネオレアリズモに影響を与えた。いわば、クロード・モネの「印象・日の出」から、20世紀のアヴァンギャルド美術が始まったように、ジャン・ルノワールの映画から、20世紀のアヴァンギャルド映画が始まったのである。

印象派と映画の共通点は、眼の快楽にあり、表層での戯れだけが問題になる。表層の背後にあるものはない、或いは、あっても表層に現れないのだから、ないのと同然で無視してよい。その事をおさえた上で、浜崎容子の「印象派」を聴いてみよう。「赤」の「主義」は、コミュニスムのことであり、「黒」の「主義」は、ファシズムのことと思われる。前半に「導火線」、後半に「ピエロ」があると、ゴダールの「気狂いピエロ」の、青いペンキと黄色いダイナマイト、更に赤いダイナマイトを顔につけたフェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)を連想させるが、関係がないかも知れない。後半の「子どもたち」から、SPANK HAPPY第2期の「Les enfants jouent a la russle/子供達はロシアで遊ぶ」(『Vendome,la sick Kaiseki』2003に収録)を連想するが、実際のところ、どうなのかは不明である。サビの部分で、「印象派なら」が続くが、視覚で捉えたことを言語化することを拒否するなど、これは「表層批評宣言」(蓮實重彦)ではないかとも思う。作詞の際に、ゴダールSPANK HAPPYの事を考えながら書いていたというのはあてずっぽうだが(様々な誤読をしながら、妄想と戯れるのも、アーバンギャルドを聴く愉しみのひとつなので、記録として残しておく)、「エクリチュール・アバンチュール・シュール」の作詞者ならば、ここで「表層批評宣言」するのも十分あり得る可能性だと思う。

ブルークリスマス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。「パン」と「ワイン」は最後の晩餐を、「十字架」と「いばらの冠」は、イエス・キリストが十字架に架けられる際に、ローマの兵隊がいばらの冠を被せたエピソードを指している。『新約聖書』に由来する言葉を散りばめながら、「ブルークリスマス」は、大人への階段を登る「少女」の「恋」を歌う。なにゆえに、『聖書』か。それは聖なるもの、「少女」の処女性の象徴的表現のためである。「血が赤くない」とは、この「恋」がまだ熟していない、青い「恋」だということを指している。「赤」は、情熱の「赤」である。「ブルークリスマス」は、同じ歌を歌ったり、同じレコードを聴くことから、「恋」が始まるとされる。ともにアーバンギャルドの歌を歌ったり、ともにアーバンギャルドの歌を聴いたならば、すでに恋人たちの不可視の共同体は出来ているというべきである。

 

「フィルムノワール」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。歌詞に出てくる「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は、原作ジェームズ・M・ケインで、4回映画化されている。ピェール・シュナール監督作品(1939)、ルキノ・ヴィスコンティ監督作品(1942、マッシモ・ジロッティ主演)、テイ・ガーネット監督作品(1946、ジョン・ガーフィールドラナ・ターナー主演)、ボブ・ラフェルソン監督作品(1981、ジャック・ニコルソンジェシカ・ラング主演)。これは直感だが、この曲の題材となったのは、ルキノ・ヴィスコンティ監督作品のような気がする(他の作品に出てくる映画の傾向からの推定)。映画を題材にした曲づくりは、ムーンライダースの『カメラ=万年筆』などの音楽作品の影響が考えられる。『夜の言葉』は、『ゲド戦記』『闇の左手』で知られるアーシュラ・K・ル=グウィンの評論・エッセイ集のタイトルでもある。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のような犯罪映画、映画館の闇は、何をもたらすのか。それは、陰影から出来たレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインの絵画世界のように、人間の精神を浮き彫りにするだろう。その結果として、昼間には見えなかった魂の真の姿が顕在化する。闇の中に、火をともす行為は、隠された魂を見極めようとする行為に他ならない。

思春の森」(作詞・作曲・編曲:浜崎容子)。タイトルは、ピエル・ジュゼッペ・ムルジア監督による1976~1977年のオーストリアで撮影された思春期の性をテーマにしたイタリア映画『思春の森』に由来する。しかしながら、日本では、1999年に制定された「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」(2014年の法改正により「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」と改称)により、この映画は児童ポルノに分類されてしまう。また、出演者であった女優エヴァ・イオネスコは、2012年に子供の頃のヌード撮影や出版を巡って、母親の写真家イリナ・イオネスコを提訴するとともに、2014年に子供時代の苦痛に満ちた体験を基にした自伝的映画『ヴィオレッタ』を制作しているというエピソードもある。「思春の森」は、こうした今では見る事の出来ない幻のカルト・ムービーを題材に、登場人物に自己を投影し、思春期の子供と大人の境界線のせめぎ合いを曲にしているといえる。境界線上のぴんと張り詰めた緊張感と、一瞬にして壊れそうな思春期特有の純粋さの表現が、この曲の美点であり、個人的にはいやらしさは微塵も感じない。

 

◆CDシングル『傷だらけのマリア』(初回限定盤ZETO-005/前衛都市)2010年7月9日リリース

CDシングル『傷だらけのマリア』には、初回限定盤と通常盤があり、初回限定盤のジャケットは、マリア様が血の涙を流しており、通常盤のジャケットは右上に虹が出ているという違いがある。初回限定盤はCDとDVDの2枚組であり、CDに「セーラー服を脱がないで RAVEMAN(Aural Vampire)remix」が収録されている。一方、通常盤はCDのみであり、「女の子戦争 YOKOTAN remix」と「傷だらけのマリア(KARAOKE)」が収録されている。

表題作の「傷だらけのマリア」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)は、多感で、自傷癖があったり、大人と子供の境界線上で、霊肉のバランスに悩んだりする事があり、保健室を逃げ場所にしているような15歳の少女に、血の涙を流すこともある傷だらけのマリアのイメージが重ね合わさり、思春期という季節だけに特権的な聖なる領域を描き出す。少女の内で、普通だから普通になりたくない、個性がないから、個性的なことをしてみたい、傷つきたくないから、傷つきたくないなど、相矛盾する願望が交錯しては、少女を傷つける。その矛盾が止揚される時、人は多感な季節の終わりを感じ、大人への一歩を進めるのかも知れない。トートロジー(同語反復)・アナロジー(類比)・タナトロジー(死についての学)・コスモロジー(宇宙観)・サイコロジー(心理学)・トポロジー位相幾何学)と、韻を踏みながら軽妙に、思春期に起きる精神の危機を通して、人間の心と身体の謎に迫っていく。

「あした地震がおこったら」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。東日本大震災は、2011年(平成23年)3月11日なので、この曲はその1年前に制作された予言的な曲ということができる。後の「大破壊交響楽」に繋がる主題といえる。アーバンギャルドには、「不在の少女」等、この世界で自明とされているものが、実は幻想であり、シミュラクラであるという主題がある。アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックには『シミュラクラ』というタイトルの小説がある他、その他『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』など「人間そっくりのまがいもの」が出てくる小説が多い。また、フランスの哲学者・思想家・社会学者であるジャン・ボードリヤールに、『シミュラークルと シミュレーション』という著作がある。ボードリヤールにおいては、それまでの社会学が、物の生産に主軸がおかれていたのに対し、現代では記号の消費に主軸が移ったとし、次々と記号が消費されていくシミュラークルを描いている。「あした地震がおこったら」も、都市に地震が起こることによって、東京も街も虚構であり、記号に過ぎなかったことが露呈する話とかっている。このような崩壊の物語を、美しく音楽で表現するのが、アーバンギャルドの美点のひとつである。このような幻想の解体の主題は、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』の複製とアウラを巡る考察から、松永天馬が着想を得たことから始まっているのだろうが、その背景には更に、潜在意識に刷り込まれた日本人の諸行無常の感覚があると直観する。

「ファミリーソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。アーバンギャルドの「ソング」シリーズは、作詞者である松永天馬の思考実験の記録であり、思考の骨組みをスケルトンのように明らかにする。「ファミリーソング」も同様で、「リカちゃん」に材を取りながら、シミュラークルとしての家族について考察している。「リカちゃん」は、人形のままで、少女のままだとされ、人間になれないとされる。この歌は、玩具の人形について歌っているようにかのように見えて、実は周りにどうあるべきかを規定され、他律的にしか生きることができないロボット的な人間と、そういうロボット的なキャラクターの集合で成り立っているどこかよそよそしい家庭を描いている。一見、カワイイ歌に見えて、実はシニカルに、現代人の虚飾に満ちた、感情の行き交わない空しい家族の人間関係を描いているのである。

初回限定盤には、オーラルヴァンパイアのレイブマンによる「セーラー服を脱がないで RAVEMAN(Aural Vampire)remix」(作詞・作曲:松永天馬)が収録されている。RAVEMAN(Aural Vampire)remixは、かなり大胆な解体構築をしていると思う。原曲と比較されたい。

また、初回限定盤にはDVDがついており、「傷だらけのマリア OFF AIR VERSION(無修正)」と「傷だらけのマリア ON AIR VERSION(修正済)」が収録されていた。

 

◆CDシングル『傷だらけのマリア』(通常盤ZETO-006/前衛都市)2010年7月9日リリース

初回限定盤と共通の収録曲は「傷だらけのマリア」と「あした地震がおこったら」と「ファミリーソング」である。

通常盤には、「女の子戦争 YOKOTAN remix」(作詞・作曲:松永天馬、再構築:浜崎容子)と「傷だらけのマリア(KARAOKE)」(作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)が収録されているが、こちらは初回限定盤には収録されていない。「女の子戦争 YOKOTAN remix」は、繊細にして鋭さを感じさせる音が特徴であり、宅録少女だったというYOKOTANの凄さがわかる作品となっている。

「セーラー服を脱がないで RAVEMAN(Aural Vampire)remix」と「女の子戦争 YOKOTAN remix」の双方が聴きたい場合、初回限定盤と通常盤の両方を入手するしかない。大が小を兼ねるとばかりに初回限定盤だけを入手して安心していると、聞き漏らしが生じるので注意されたい。

 

◆CDアルバム 『ソワカちゃんアーバンギャルド』(ZETO-007/前衛都市)2010年8月14日リリース

護法少女ソワカちゃん』は、kihirohito個人によって制作された動画アニメーション作品であり、ニコニコ動画にて公開されて好評だったことから連作となり、2009年にはDVDとなった。アニメーションで使われた音楽は、kihirohitoが初音ミクを使って作ったものである。テーマとして、仏教(真言密教)、神秘学(オカルティズム)、ニューアカデミズムなど、マニアックな話題をふんだんに取り入れている点が特徴であり、当然のことながら、このように相当イカレた作品をつくっているアーティストに、アーバンギャルドが接近しないはずはなく、kihirohitoとアーバンギャルドのコラボレーション企画である本CDがつくられる事となった。

MUSIC DISK

「プラスティック・チェリー・ボム」(kihirohito & アーバンギャルド) (作詞・作曲:kihirohito、編曲:瀬々信・谷地村啓・kihirohito)。(テロリズムを連想させる)プラスティック爆弾/チェリー・ボム(爆竹)/チェリー・ボーイ(童貞)/リトル・ボーイ(原爆)を畳みかけたような曲のタイトルである。一見、原理主義に基づくテロリズムとジェノサイド、戦争後の廃墟、核戦争後の光景を描いたポリティカルな世界に見えるが、ジェリービーンとチェリー、ヴァージニティー、ピンクノイズといった言葉から、センシュアルな意味が隠されている事がわかる。さらには、「不在の神」というシモーヌ・ヴェイユを彷彿とさせるような言葉から、神学的解釈もできる余地がある気すらしてくる。結局のところ、これは聴き手によって印象が変わる万華鏡のようなポストモダン作品であることがわかる。

「水玉病」(hihirohito ver.) (作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・谷地村啓、編曲:kihirohito)。オリジナルは『少女は二度死ぬ』に収録されたアーバンギャルドの曲だが、kihirohitoによって初音ミクの曲に変えられている。

護法少女ソワカちゃん」(アーバンギャルド ver.) (作詞・作曲:kihirohito、編曲:谷地村啓)。Kihirohitoによる「護法少女ソワカちゃん」のテーマ曲が、アーバンギャルド風に改変されている。「残酷な天使のテーゼ」が「残酷な仏のテーゼ」に、「中沢新一先生」が「メカ沢新一先生」(野中英次魁!!クロマティ高校』に登場する)に変えられたり、「マハームドラー」の「ムドラー」が出てきたり、kihirohitoの歌詞が凝りに凝った内容で、ユニークである。

「リボン運動」(hihirohito ver.) (作詞・作曲:松永天馬、編曲:kihirohito)。「リボン運動」は、『少女都市計画』(2009年)に収録されたアーバンギャルドの曲。Kihirohitoは、初音ミクを使って、男女のツインボーカルを再現している。

千々石ミゲル友の会のテーマ」(アーバンギャルド ver.) (作詞・作曲:kihirohito、編曲:瀬々信)は、kihirohitoによるオリジナル曲を、アーバンギャルド風に編曲したものである。キリストと靖国神社、すなわち国家神道に加えて、「電気蟹」はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』から来ている可能性が高く、そうなるとディック神学までも導入されていることになり、脳の中は情報過多によるカオスで沸騰してしまう。この曲は、情報投入のエスカレーションで、ドーバミンの分泌を増やし、快楽を得る、そのあたりの目的でつくられたのではないか。

「プラスティック・チェリー・ボム」(hihirohito archetype ver.) (作詞・作曲・編曲:kihirohito)。「プラスティック・チェリー・ボム」(kihirohito & アーバンギャルド)の原曲。他の曲が、kihirohito とアーバンギャルドの既存の曲を、担当を変えて行っているのに対し、「プラスティック・チェリー・ボム」だけが、このCDのために書き下した新曲ということになる。

VIDEO DISK

「ブラスティック・チェリー・ボム」(kihirohito & そうまあきら)と、「千々石ミゲル友の会のテーマ~唯一人劇団リモコキッヒ『リモコキッヒの大贖罪』より」(アーバンギャルド)が収録されている。

唯一人劇団リモコキッヒは、2001年に松永天馬が立ち上げた一人芝居の劇団である。2001年9月に一人芝居『業通:カルマニア』を実施。2002年3月には『第四次元のコウノトリを撃て!』を公演。2002年12月27日に、唯一人劇団リモコキッヒ第三回公演として活弁映画『リモコキッヒの大贖罪』を上映。『リモコキッヒの大贖罪』の情報は、次の通り。脚本・弁士・監督 松永天馬、出演 松永天馬 青木研治 ゴンザ 宮下由美、音楽 谷地村啓、映像 田村鮎美。「千々石ミゲル友の会のテーマ」のPVは、この時の映像に、「千々石ミゲル友の会のテーマ」(アーバンギャルド ver.)を付けたものである。

 

◆CDアルバム 『少女の証明』(ZETO-008/前衛都市)2010年10月8日リリース

『少女は二度死ぬ』(特装盤2009年)、『少女都市計画』(2009年)と並び、後に初期「少女三部作」と呼ばれる作品群の掉尾を飾るアルバムである。

「プリント・クラブ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。プリクラを題材にしながら、ゲーテの最後の言葉「もっと光を」を散りばめつつ、現代の「複製芸術時代」(ヴァルター・ベンヤミン)の恋と欲望の本質に迫る内容となっている。私たちの暮らす資本主義社会は、物の生産という点で豊かな社会を達成し得たが、この曲に出てくる少女は「ほしいものがほしい」と、すなわち今は「ほしいもの」がない社会だと言っている。その社会は、同時にすべてがプリントされた社会でもある。「108」は、仏教でいう煩悩の数。「ドッペンゲンガー」は、自分自身の幻影を見る幻覚の一種。芥川龍之介の晩年の作品『歯車』に「ドッペンゲンゲル」が出てきて、ドッペンゲンガーに遭うと自己の死が近いという迷信に気を病むエピソードが描かれる。「プリント・クラブ」は、終始「複製芸術」に囲まれた社会から外部に出ることのできないディストピアを描いている。それは、自分たちの累積していく欲望の世界を見るようである。果たして、「プリント・クラブ」と化した世界から、外部に出ることはできるのだろうか。

「傷だらけのマリア(proof mix)」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。シングルとして発売された「傷だらけのマリア」のヴァージョン違いが収録されている。出口のない「プリント・クラブ」から始まり、自分自身まで複製されている認識のもと、リストカットを匂わす「傷だらけのマリア」に入っていく『少女の証明』の前半部分は、問題提起編と捉えることができる。

「前髪ぱっつんオペラ」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。「スカート切り魔」が出没する社会とは「プリント・クラブ」で描かれた出口のないディストピアの事だろう。そういう意味では、主題系は引き継がれているといえるだろう。ここで導入される「前髪ぱっつん」とは何か。ここで霊感に基づく超絶的推理を展開すると、この前髪はジャン=リュック・ゴダール(フランス・スイスの映画作家ヌーヴェル・ヴァーグから出発し、常に前衛的な映像表現の最前線に立つ。代表作『勝手にしやがれ』『中国女』)の『気狂いピエロ』でアンナ・カリーナが持っていた、カメラ目線で水平方向にチョキチョキやるハサミによって、カットされたのではないか。カット?そう、これは映画製作の際に監督が言う「カット」の一声であり、ウィリアム・S・バロウズアメリカの現代文学の作家。ビート・ジェネレーションから出発し、テクストを切り貼り(カット・アップ)したり、畳み込む(ホールド・イン)する前衛的手法を導入、さらには電子的革命に向かった。代表作『裸のランチ』『ソフト・マシーン』『爆発した切符』)の唱える「カット・アップ」の「カット」であり、ルイ・アルチュセール(フランスの構造主義マルクス主義者。代表作『甦るマルクス』『資本論を読む』)の唱える「認識論的切断」の「切断」ではないだろうか。現代映画・現代文学・現代哲学のいずれもが「カット」「切断」をやっているのだから、ここでアーバンギャルドが「ぱっつん」をやっても不思議ではあるまい。大事なことは「ぱっつん」するのは、「前髪」だけでなく、すべてを「ぱっつん」することにある。すべてといったら、すべてだ。そこに人間関係や、意味のない因習や、旧態依然とした考え方や、くだらない社会システムとか、すべて入っている。そう、『少女の証明』は問題提起編から、打開策の検討に入っている。ただ、その打開策は、容易ではない。かつて「複製芸術時代」の病理に、適切かつ明瞭な処方箋を提示し得た思想家やアーティストがいただろうか。ほとんど皆無だ。ただ、この問題に一緒に悩んで、戦ってくれる、アーバンギャルドという同時代のアーティストがいる。それが、どれほど僥倖な事か。

「保健室で会った人なの」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。P-MODEL「美術館で会った人だろ」(作詞・作曲:平沢進)へのオマージュと考えられる楽曲である。「美術館で会った人だろ」の主人公が、美術館で会った人がその事実を他人に隠蔽している事に対して、美術館の放火に至るように(三島由紀夫の『金閣寺』を連想させる展開)、「保健室で会った人なの」にも社会の病理を思わせる事件が背景に描き込まれている。1から10までカウントしながら、歌詞が展開されるのも、実験的で面白い。(歌詞カードを見ないと、その面白みは気づかない。)「惨劇」が「3劇」、「午後」が「5後」、「ロックンロール」が「6ンロール」、「野蛮」が「8蛮」、「銃声」が「10声」という具合に。言葉遊びとしては、後半「ガーゼとベーゼ(接吻)」で、韻を踏むところもある。「ドクター・キリコ」は、手塚治虫の『ブラック・ジャック』の登場人物だが、1998年に起きた自殺幇助事件の犯人の使っていたハンドルネームである。ちなみに、この事件の被疑者は自殺し、被疑者死亡で書類送検されている。「保健室で会った人なの」の主人公は、放課後にテレフォンを使った犯罪まがいのアルバイトをしているようだ(テレフォンクラブ?援助交際?)。どうやら、この歌詞は、散りばめられた手がかりから、何が起きているか、探偵小説のように推理させようとする趣向のようだ。「赤い洗面器の男」まで出てくる。「赤い洗面器の男」は、三谷幸喜の脚本に出てくる小話で、「古畑任三郎」にも出てくるが、未だ解決されていない部分である。しかも、歌詞カードに書かれていない台詞まである。「血糖値」のあたりで「私のお月さん」がどうのこうのという声が聞こえる。結局のところ、「保健室で会った人なの」の主人公の語っている事は、どこまで本当の事を言っているかすら疑わしくなってくる。妊娠の危険性のある不安だけが真実で、「保健室で会った人なの」自体がカムフラージュのための嘘なのかも知れない。

「スナッフフィルム」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)。「保健室で会った人なの」に続き、犯罪を題材にした曲が続く。どうして、犯罪に着目するのか。その問いには、ドストエフスキーの事を考えよ、と答えるしかない。フョードル・ミハイロヴィッチドストエフスキーは、最終的に究極的な救済に至るまでに、徹底して人間の悪を探求したのだ、と(『罪と罰』ではニヒリズムに基づく殺人を、『悪霊』ではテロリズムを描いている)。なぜ、そんなことが可能になるのか。それは、人間に対する根底的な信頼があって、初めてできる行為だと言っておこう。アーバンギャルドは、現代の病理を描く。それは、最終的に究極的な救済をもたらすためなのだ。そのために、徹底的に懐疑を展開し、苦悩しつくす。スナッフフィルム(Snuff film)は、実際の殺人を撮ったフィルムの事を指している。写真は、被写体を客体化=モノ化するが、その最極端がスナッフフィルムだろう。スナッフフィルムの被写体は、自分から主体的に動く対自存在(実存)であることを止め、完全なる対他存在、すなわち他人のまなざしによって見られるだけの疎外態になる。と、ジャン=ポール・サルトル存在論オントロジー)を使って記述してみたのだが、「スナッフフィルム」では、そうした完全なる客体化のもたらす被写体側の自己を喪う快楽が描かれている。これは、健全な社会の構築のためには存在してはならない快楽なのだが、事実としては存在する。そうでなければ、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』のような世界は説明できない。『O嬢の物語』の冒頭のジャン・ポーランの序文の言葉を使うとすると「奴隷状態の幸福」である。なぜ、自己喪失といえる状態を求めるかといえば、強権的な社会システムや、逃れる事の出来ない人間関係による無意識化への刷り込みがあったのかも知れない。人間の闇を知っているものは、人間の非合理性も無視することなく勘定に入れて、共生社会を考えていかないといけない。「スナッフフィルム」は救いのない楽曲だが(とはいえ、シャッター音を含む無機質で機械的な音の響きが、私には心地よい。この響きは、2018年に発表された『少女フィクション』に収録された「ビデオのように」に継承されているように思う。)、ぎりぎりの思考で見出されたという「エクトプラズム(ectoplasm)」が、この世界はマテリアルだけではないと言っているようである。(エクトプラズムは、心霊主義のジャンルで、心霊者などが身体の外に出した霊が半物質化したものとされるが、それらの心霊写真の多くは、今日ではフェイクとされ、写真技術の向上した現代では、エクトプラズムが映った写真と主張するケースも稀となってきている。)この曲の最後は、一輪の薔薇を捧げる事で結ばれる。傷跡のような真紅の薔薇の花言葉は、愛である。

「プロテストソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)は、山の手線における鉄道自殺を扱っている。五線譜になぞられる自殺死体、気持ちの「すれちがい」を象徴するかのようなイタロ・カルヴィーノの『むずかしい愛』、死と生を見つめるのにふさわしいヨハン・ゼバスティアン・バッハの「G線上のアリア」。「みんなで解けば」「簡単なこと」とある。だが、その想いは届くことなく、すれ違い、もう誰の声も届かない死体となる。そこが「むずかしい愛」だ。鉄道自殺のニュースに、自殺者の事を知らないにも関わらず、クリスチャンが君の事を悼んで祈る。この歌は絶望的だが、少しでも心を開いて、救いを求めていれば、君のことを助けようとした人がいたに違いないことを示している。

あたま山荘事件」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:瀬々信・谷地村啓)は、1972年に長野県北佐久郡軽井沢町にあった河合楽器の保養所「浅間山荘」に連合赤軍が人質を取って立てこもったあさま山荘事件を題材にした曲である。小説集『自撮者たち 松永天馬作品集』に「実録・あたま山荘事件」が収録されていることからわかるように、直接的には若松孝二監督作品「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008年)が、この曲をつくる契機となったと思われる。「あさま山荘」が「あたま山荘」とされている事が、この事件に対する最大の皮肉である。唯物論を唱える革命戦士であったはずの連合赤軍が、誰よりもあたまでっかちの観念論であったこと、観念論であったがために、観念の外の現実を見ることが出来ず、「山岳ベース事件」で仲間を「総括」と称してリンチにかけて殺してしまったことに対する皮肉である。ある意味、笠井潔の『テロルの現象学』でやったのと同等のことを音楽でやったのが、「あたま山荘事件」だったといえるだろう。歌詞中に、カール・マルクスの名前が見出せるが、「丸くする」とのダブル・ミーニングにされている。

『マオ語録』は、『毛沢東語録』の事である。スカートの長さと景気の相関関係について、1926年にヘムライン指数( Hemline Index ) という指数を発表したのは、実際はアメリカのビジネススクール、ウォートンの経済学者ジョージ・テーラーであって、マルクス毛沢東ではない。ジョージ・テーラーはスカートの丈が短くなると、マーケットは上げ相場に、スカートの丈が長くなると、マーケットは下げ相場になると主張した。論拠は、当時、シルクのストッキングが高価だったので、好況の時はストッキングを見せるために、スカートの丈を短くしたというのである。ジョージ・テーラーのスカート理論の根拠は、シルクの価値がそれほどでもない今日では失われている。

プロレタリアートは労働者階級。アウトサイダーは局外者。アウトサイダーアートは従来の芸術家の範疇には収まらない(アカデミックな芸術の教育や訓練を受けていない)が、芸術作品と認められるものを指す(社会から排除された者や精神病を抱えた者による作品、プリミティヴ・アート、民族芸術等)。クレムリンは、ロシア連邦の首都、モスクワ市にある旧ロシア帝国の宮殿で、ソビエト社会主義共和国連邦時代はソ連共産党の中枢が置かれていた。天安門事件六四天安門事件)は、1989年6月4日、中国・北京市天安門広場で、民主化を求める学生と市民のデモを、中国人民解放軍が武力制圧をし、多数の死傷者を出した事件を指す。『赤い戦車』は戸川純が所属したYAPOOSのアルバム『ダイヤルYを廻せ!』の収録曲。「赤飯派」は、松永天馬の小説「実録・あたま山荘事件」に「赤飯派は初潮に由来する。」とある。初潮を迎えると、赤飯でお祝いをするという習慣が日本にあり、この祝いの習慣に反撥するというシーンが、倉橋由美子の小説のどこかにあった記憶がある。端的に、社会自体を再生産して、現行の社会制度を維持するというイデオロギーがあって、妊娠-出産可能になった事で、早速、社会を存続させる社会的責任が負わされるという事なので、その重圧に対する反感が、表面に出る、或いは無意識下に矛盾として記憶されるという事は当然起こる。松永天馬が、社会的タームの中に、赤飯派という言葉を紛れ込ませ、革命運動を扱った歌に別の(パーソナルな、性的な)意味を付与する時、そこのコンフリクトを意識していることを意識して味読すべきである。バルチザンは、抵抗運動や革命戦争のための結社の軍事的構成員を指す。デマゴーグは、政治的扇動者のこと。鉄球は、あさま山荘事件で、警察がとったクレーン車のフック部分をケーブルで補強し、巨大な鉄球を括り付け、連蔵赤軍が立てこもる山荘の壁と屋根を破壊して突入する作戦を指している。「おうちゲバ」は、内ゲバのこと、おうちカフェと重ね合わせることで皮肉っている。「石をバンに」は『新約聖書』「マタイによる福音書」4-3~4を見よ。

3「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

ここで『新約聖書』が導入されるのは、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』の「大審問官」が関係していると思う。荒野での悪魔からイエスへの問いかけは、まず第一が前述の「石がパンに」であり、第二が神殿の屋根の端に立たせて「神の子ならば、飛び降りたらどうか」というもの、第三はすべての国々と繁栄ぶりをみせて「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」、要するにパンと奇蹟と権威に関する問いかけであった。ドストエフスキーの(登場人物イワン・カラマーゾフが考えた)「大審問官」は、イエスはこれらの悪魔の誘惑をはねのけ、人間に自由を説いたが、自由な決断をする事は人間には重荷で、苦悩をもたらすので、地上の権力が大多数の人間の道を決めてやり、地上の権力を司る少数者だけが選択の自由の苦悩を負えばよいと主張する。これについて、埴谷雄高ドストエフスキー』は、ドストエフスキーのいうバンと奇蹟と権威は、現代のソ連と重ねると「パンと電化と党」ではないかと考える。まとめよう。アーバンギャルドが、「あたま山荘事件」で『新約聖書』の「石をバンに」を持ち出したのは、あさま山荘事件の実行犯は、イエスが考えていたような人間の自由よりも、悪魔が唱えていたようなパンを重視するような人たちであったと、ドストエフスキーの文脈では「断定できる」という事なのである。なお、「おうちカフェ」や「おうちごはん」が出てくるのは、後の「くちびるデモクラシー」「コインロッカーベイビーズ」「インターネット葬」と比較すると面白い。「くちびるデモクラシー」「コインロッカーベイビーズ」「インターネット葬」では、現代人の意識が、液晶、スマホ、インターネットの世界に閉じ込められ、外の世界で起きていることに無関心であることが痛烈に批判され、「くちびるデモクラシー」では、結果として言論の統制(言葉を殺す事)や戦争になることが止められなくなるんだと言っている。これと同型で、「あたま山荘事件」では、当時の若者があたまの中の観念の世界に閉じ込められ、外の現実や自己の身体性が見えなくなっている点が批判されている。「あたま山荘事件」は、決して当時の左翼学生という特殊例の考察ではなく、同型の事象は起こりうるということなのである。「あたま山荘事件」は、アーバンギャルド史上、最もシリアスで、ヘヴィな主題の曲と言えるだろう。

「リセヱンヌ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:浜崎容子、ストリングスアレンジ:谷地村啓)。美しい曲である。後の「キスについて」を想わせるような。「ミッション-フィクション-クエスチョン」と韻を合わせ、心地よい語感を与える曲でもある。犯罪篇(「保健室で会った人なの」のテレクラ(援助交際)、「スナッフフィルム」の(快楽)殺人、「プロテストソング」の鉄道自殺、「あたま山荘事件」の左翼テロリズム)は一段落し、「リセヱンヌ」で青春群像劇に入ったと思いきや、この曲は17歳という危うい多感な時期を記述した曲でもあり、自分自身をギフト(贈り物)に変えために、時計を止め、髪を切る等の変身をする過程を描いた曲である。ア・プリオリa prioriはカントの批判哲学用語で先験的、サンデーはストロベリーサンデーなどアイスクリームの入ったデザート、「オリーブの林をぬけて」はアッバス・キアロスタミ監督の「友だちのうちはどこ?」「そして人生はつづく」に続くジグザグ道三部作の第三作め、「ノルウェイの森」はビートルズの曲「Norwegian Wood」にして、それを冠した村上春樹の5作目の小説『ノルウェイの森』およびそれを原作にした『青いパパイヤの香り』で知られるトラン・アン・ユン監督の映画、ア・ポステリオリa posterioriはカントの批判哲学用語で経験的、パッセはバレエ用語で片方の足の膝を曲げ、そのつま先を軸脚の膝あたりに位置させる(両脚で三角形が形作られる)姿勢(ルティレ)を造り出す動き、死海文書は1947年以降死海の北西のクムラン洞窟周辺で見つかった写本群を指し(聖書の成立過程を知る上で重要な聖書考古学上最大の発見と言われているが、それを書いたクムラン教団について、エッセネ派なのか、ユダヤ教分派なのか、サドカイ派なのか、原始キリスト教なのか(共観福音書の元となっているQ資料が死海文書に入っているのか否か)、エルサレムが書かれたものなのか、諸説ある。)、日本ではフィリップ・K・ディックの『ヴァリス』連作での言及や「新世紀エヴァンゲンオン」でゼーレが進める人類補完計画でのバックボーンとして「死海写本」や(実在しない)「裏死海写本」が登場したことから話題になった、ビルエットはバレエ用語でターンを指す。

ダブルバインド」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)。ダブル・バインド(二重拘束)は、イギリス出身のアメリカの文化人類学者・精神医学研究者・イルカ研究者ジョン・C・リリーの造語で、逃れる事の出来ない人間関係の場で、あるメッセージが発せられ、同時にそれを否定するメタ・メッセージが発生される状況をダブル・バインドと呼び、こうした状況が反復される際に、それから逃れようとする心理が働き、妄想型・破瓜型・緊張型といったスキゾフレニー(統合失調症)を引き起こしやすい状態になるとされる。「ダブルバインド」は、<ママ-パパ-僕>から成る家族の三角形を描くところから始まる。精神分析を適用すれば、家族の三角形のなかで、僕はエディプス化される。すなわち、パパへは反撥を、ママには憧憬を抱く。途中、「君」が登場する事から、4人家族かも知れない。描写からは、ママの虚飾にみちた生活、パパの経済人と化した生活が伺える。「濡れたシーツは白く」「君のショーツは赤く」は、家庭内での性暴力を指しているようにみえるが、断定するには証拠不足だ。同様に「ちいさな火傷」は、子供への虐待を指しているようにも見えるがどうなのか。仮に、私の疑いが真実だとするならば、この家族は、スキゾフレニー(統合失調症)になりやすい金縛りのようなダブル・バインドの地獄だといえる。唐突に、「フランシーヌ」という固有名詞が登場する。これは仮定だが、新谷のり子に「フランシーヌの場合」という曲がある。この歌は反戦歌で、1969年3月30日、パリで、フランシーヌ・ルコントという30歳の女性がシンナーをかぶって焼身自殺を遂げたことで作られた曲だという。ベトナム戦争やナイジェリア内戦に心を痛め、ウ・タント国連事務総長に手紙を書いたりしていた女性だという。自殺した時、ビアフラの飢餓についての新聞記事を持っていたという。家族によると、精神科にかかっていた事もあったという。仮に「ダブルバインド」に出てくる「フランシーヌ」が、フランシーヌ・ルコントさんだった場合、彼女が関心を持っていた世界情勢自体、彼女をダブル・バインドのような閉塞感に陥らせ、心まで病ませるものだったといえる。ここに、遠い異国の出来事にも関わらず、主題的近さが現れる。「ダブルバインド」は、何度も、僕たちの言葉や祈りで、少しも世界が変わらないという。それが、68年のフランス五月革命の敗北と、共振を始める。また、実存的な反抗や変革が「構造」を変えることができなかった事とも、共振を始める。「ダブルバインド」は、想いを遂げる事の出来なかった者を結ぶシンパシーの歌だ。それらの無念を、神様だけは知っておいて欲しいと願う。「ダブルバインド」は、初期のアーバンギャルドの楽曲のなかで、一番ダイナミックな心理展開をする曲といえる。

「救生軍」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。問題提起的な「プリント・クラブ」「傷だらけのマリア」から始まり、ドストエフスキーの『罪と罰』を思わせる様々な犯罪の考察を含む地獄遍歴を経て、「リセヱンヌ」「ダブルバインド」で等身大の少女が抱える心の闇に肉薄した『少女の証明』は、「救生軍」で一気に解決篇に向かう。とはいえ、地獄遍歴で、この世界が抱える闇を直視した後の救済が一筋縄で済むはずはなく、救生軍、すなわち心の十字軍を希求する行為は、見返りの保証なしに、不在の神を覚悟しつつも祈るというシモーヌ・ヴェイユ的なものになっている。「この世の外へならどこへでも」という詩を書いたのは、シャルル・ボードレールだったが、「救生軍」はドラえもんの「どこでもドア」があれば、おそらくはこの世界だが、飛び出したいと言い、ドストエフスキーのドロンゲームに陥っているという。「ドロンゲーム」という事は、「プロとコントラ」(ラテン語で「肯定と否定」の意味。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にそういう章がある。)の間で引き裂りかけているという意味なのだろう。ドリエールは催眠鎮静剤のこと、『飛ぶ教室』はエーリッヒ・ケストナーによる児童文学、『同時代ゲーム』は大江健三郎の小説。救急車が「99車」と表記され、後半の「99パーセントと呼応しているようだ。この表記は、完成の100の一歩手前という事かも知れない。マリアージュは結婚、ストレイ・シープは迷える羊、セイレーンは、ギリシャ神話に登場する半身女性で半身が鳥という怪物、オフィーリアはシェイクスピアの『ハムレット』の登場人物、マジョリティは多数派を意味する。「救生軍」の特質として「マスゲーム」という言葉もみられ、集団行動の強さと一体化しようとしているように思われる。

 

◆CDアルバム サエキけんぞう&Boogie the マッハモータース『21世紀さん sings ハルメンズ』(VICL-63567ビクターエンタテインメント)2010年10月20日リリース

『21世紀さん sings ハルメンズ』は、『ハルメンズの近代体操』『ハルメンズの20世紀』に続くハルメンズの三枚目をつくるというコンセプトのもと、サエキけんぞうとBoogie the マッハモータースを主軸に、ゲストボーカルとして、野宮真貴(元ピチカート・ファイブ3代目ボーカル)、桃井はるこアキバ系シンガーソングライター)、浜崎容子(アーバンギャルド)、杉真理(シンガーソングライター、「NIAGARA TRIANGLE Vol.2」にも参加)を招いて制作されたアルバムである。サエキけんぞうが主軸となって展開された少年ホームランズ(2016年発表の『満塁ホームランBOX』で活動の全体像を知ることができる。)とハルメンズから派生する形で、戸川純および戸川純とヤプーズの一連の活動が生まれてきたのであり、アーバンギャルドもまたその影響下にあるグループのひとつであると言えよう。『21世紀さん sings ハルメンズ』への浜崎容子のゲストボーカルとしての参加、2016年にハルメンズハルメンズXとして再結成された際のアルバム『35世紀』に、収録曲「レ・おじさん」のリミックスでアーバンギャルドが強力している事実、更にはハルメンズと関連性の深い戸川純アーバンギャルドのキーボーディストおおくぼけいが組んでライブを実施している事実、サエキけんぞう企画のゲンズブール・ナイトに毎年アーバンギャルドのメンバーが参加している事実が、それを証明しているといえるだろう。このアルバムには、浜崎容子がゲストボーカルとして参加した「ノスタル爺 featuring 浜崎容子 from アーバンギャルド」(作詞:サエキけんぞう、作曲:Boogie the マッハモータース)と「趣味の時代 featuring 浜崎容子 from アーバンギャルド」(作詞:佐伯健三、作曲:比賀江隆男)が収録されている他、ライナーノーツに松永天馬が「時をかけるノスタル爺(都市博を爆破するために)」を寄稿している。「ノスタル爺」は、「焼きソバ老人」の続編にあたる新譜。サエキ自身による「全曲解説」によると、老人性健忘症や痴呆はネガティヴに捉えられがちだが、「ノスタル爺」はバラ色の恋愛に猛進するポジティヴな老人への変貌を描きたかったようだ。「趣味の時代」は『ハルメンズの20世紀』に収録されていた曲だが、今日を予見するような内容となっている。カフカ的-安部公房的-倉橋由美子的な<変身>譚であること、および未来予見性が、サエキけんぞうのつくる楽曲の特質と思われるが、図らずもこの2曲にその特色が顕著に出ている。

◆CDアルバム GROOVE  UNCHANTNOTRE MUSIQUE』(ORGR-36ORANGE RECORDS)2010年12月1日リリース

鈴木桃子(元コーザノストラ)、Pecombo、奈緒(Pluschic like her)、下山陽子(Bougain Ville-A)、野本かりあ、浜崎容子(アーバンギャルド)を招いてのグルーヴあんちゃんのファースト・フル・アルバム。

アルバムタイトルは、日本で『アワーミュージック』として公開されたジャン=リュック・ゴダール監督の原題と同じなので、ゴダール的な音楽の分断と再構成を狙ったものではないかと思う。それを裏付けるように、アルバムのジャケットのアルファベットが、ゴダール的だし、収録曲も斬新に思える。

浜崎容子は、「鏡の中の十月 feat.浜崎容子(アーバンギャルド) (French Version)」(作詞:売野雅勇、作曲・編曲:YMO細野晴臣高橋幸宏坂本龍一)、フランス語訳:江部知子)で参加していて、YMOの曲なのがテクノ・ポップ・ファンとしては嬉しい。

 

2011年

◆CDアルバム ムーンライダーズ『カメラ=万年筆 スペシャル・エディション』(CRCP-20472/3NIPPON CROWN)2011年4月6日リリース

『カメラ=万年筆 スペシャル・エディション』では、Disk1にムーンライダーズによる原曲が、Disk2にさまざまなアーティストによるリミックスが収録されているので、原曲をいかに再編集したかを愉しむことができる。アルバムタイトルの「カメラ=万年筆」は、ヌーヴェル・ヴァーグの映画監督(代表作『恋ざんげ』、私的には『サルトル―自身を語る』の撮影監督である)で、映画批評家でもあるアレクサンドル・アストリュックが唱えた映画理論である。映画を撮るカメラも、エッセイを書く万年筆のように手軽で映画作成の文法から自由になるべきだということである。アストリュックの「カメラ=万年筆」理論は、映画批評家アンドレ・パザンの支持を受け、ヌーヴェル・ヴァーグ作家主義的で個性的な映画を生み出す理論的下地となった。ムーンライダーズのこのアルバムでは、ヌーヴェル・ヴァーグを中心とする映画タイトルが楽曲名に転用され、それらの映画作品へのオマージュとなっている。「狂ったバカンス Remixed by アーバンギャルド」(作詞・作曲:かしぶち哲郎)も、元々はイタリア映画のタイトルで、カトリーヌ・スパーク演ずる小悪魔的な美少女が中年男を翻弄するという内容だった。映画作品など、先行する文化・芸術作品を畏敬の念を込めて、自身の作品中で言及するアーバンギャルドの松永天馬のスタイルは、ムーンライダーズの影響と考えられる。そのため、アーバンギャルドは本作に留まらず、ムーンライダーズの『MODERN MUSIC Special Edition』や、ムーンライダーズのドラマーでボーカルでもあったかしぶち哲郎のトリビュート・アルバム『a tribute to Tetsuroh Kashibuchi ~ハバロフスクを訪ねて』でもリミックスで参加、鈴木慶一 ( ムーンライダーズ) とKERA (ケラ&ザ・シンセサイザーズ、有頂天) のによるユニットNo Lie-Senseの『The First Suicide Big Band Show Live 2014』でも共演している。

◆CDシングル『スカート革命』(UPCH-5708UNIVERSAL J)2011年7月20日リリース

「スカート革命」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルドホッピー神山)、カップリング「プラモデル」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)は、アーバンギャルドのメジャー第一弾シングルである。

2012年にリリースされた『病めるアイドル』に「スカート革命(French Pop ver.)」が収録された事からもわかるように、「スカート革命」はフランスでも膾炙した国際的通用性を持った曲である。透明感のある繊細にしてお洒落なメロディーに、とびきりエスプリに富んだ歌詞が載せられている、毒入りボンボンのような曲である。「スカート革命」とは、端的に言えば、恋の革命である。ただ、この曲が甘いだけのラブソングとならなかったのは、上野千鶴子『スカートの下の劇場』のような性の問題へのまなざしが重ね合わさっていたからである。例えば、歌詞の冒頭の一行は「赤飯事件」の象徴的婉曲表現である。とはいえ、この曲が、ヴィルヘルム・ライヒの説くようなセクシュアル・レヴォリューションや性解放を説いているとは思わない。恋に落ちることによって、恋の絶頂において、初めて禁制に対する侵犯が行われ、「スカート革命」は起きる。この複雑な心理過程をこの曲は記述しているのではないか。

メジャー第一弾で、「プラモデル」のような曲をカップリングで入れてくる事自体、アーバンギャルドらしいと言える。この曲では、現代のマニュアル化された恋愛を、プラモデルのようだと皮肉っている。その恋愛は、プラトニックであり、プラスチックのように人工的で、プラモデルの説明書のように規定されており、予想外のトラブルには対応できない。結果として、アルベール・カミュが描いたような不条理な世界のようになってしまう。『シーシュポスの神話』で、電話ボックスの向こう側でしゃべっている人に対し、カミュは不条理を感じているが、人工的な恋愛では同様の事が起きる。魂のコミュニカシオンが起きない世界なのだ。偶然性やハプニング、理解不可能性が、逆説的に魂の交流を引き起こすはずだが、マニュアル化された恋愛では、予め、そういった事態は排除されている。「プラモデル」ではフロイト精神分析や、ユングの分析心理学では解析不能な、予想外のアクシデントの遭遇が期待されているが、そういった事態は、現代の恋愛では起きないようになっている。マニュアル化された恋愛が支持されているのは、振られるのが怖いという心理であり、人々はルーティンのような恋愛をこなす。アーバンギャルドは、そうしたプラモデルのような世界の外部へと、私たちを連れ出そうとしている。

◆CDシングル『ときめきに死す』(UPCH-5716UNIVERSAL J)2011年9月28日リリース

ときめきに死す」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓、編曲:アーバンギャルド)。「ときめきに死す」は、丸山健二の小説、およびそれを原作とした森田芳光監督による映画のタイトルからの引用である。森田芳光監督による映画では、沢田研二演ずるテロリスト工藤直也の孤独でストイックな生活を描き、最後、宗教家(原作では政治家)暗殺に失敗して壮絶な最期を遂げる過程を描いている。アーバンギャルドの楽曲には、先行する文化、作品名をオマージュの念を込めて引用したケースが多々あり、本作もそのなかに入る。ちなみに、美術の世界での引用にあたるものが、「コラージュ」や「アッサンブラージュ」である。日本では、美術評論家宮川淳が『引用の織物』を書き、「人間が意味を生産するのは無からではない。それはまさしくブリコラージュ、すでに本来の意味あるいは機能を与えられているものの引用からつねに余分の意味をつくり出すプラクシスなのだ。」と書いて、その後のシミュレーショニズムへの道を開いた。文学の世界では、倉橋由美子が『わたしのなかのかれへ』のなかで、カフカカミュサルトルの三位一体から生まれた彼女の反世界小説について、先行する作品の模倣が創造を生むとして、実存主義文学やヌーヴォーロマン(サルトルはアンチ・ロマンと命名した)を基にした新しい文学観を提示した。また、映画の世界では、ジャン=リユック・コダールが映画史に登場するような映画を、批評的に引用したり、登場する人物に物語の本筋とは関係のない本を持たせるなどの試みをし、ヌーヴェル・バーグの方法論を確立させていった。アーバンギャルドの楽曲の造られ方は、それらの芸術上の思潮と対応している。ちなみに、アーバンギャルドによる「ときめきに死す」のプロパガンダ・ヴィデオ(PV)は、「ウルトラセプン」最終回(第49回)史上最大の侵略(後編)で、モロボシ・ダンが友里アンヌに、自身がウルトラセブンであると告白するシーンと背景画像を同じにしている。「ときめきに死す」の歌詞をみてみよう。筒井康隆時をかける少女』、ラベンダー・実験室・試験管といった単語も、そこから来ている。チャネラー・テレポートは、同じく筒井の『家族八景』、『七瀬ふたたび』、『エディプスの恋人』を連想させる。このように「ときめきに死す」は、映画や文学等からの「引用の織物」で出来ている。しかし、引用しつつも、もう一方で、クライマックスで非業の死を遂げる、そこに至上の悦楽があるというコンセプトにまとめている。この曲がラブソングとしても清冽な印象を残すのは、毛糸をほどきながら編む作業をしているからではないだろうか。

「その少女、人形につき」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。人形(DOLL)とクローン羊のドリーを重ね合わせる。さらに、隠し味程度に、女子高生の集団心中事件に着想を得て書かれた如月小春の戯曲「DOLL」をまぶしてみる。資本主義は、マスプロダクツされた人形のような少女という記号を生産する。アイドルも例外ではなく、資本主義というシステムが生み出した製品なのだ。製品として完成させるために、人は少女のイメージを固定化して、様々な記録媒体に格納する。製品として仕舞うことは、生き生きとした活動を止められ、ピンに止められ、お終いになるということなのだ。会いに行けるアイドル、夢で逢えるアイドル。16・17・18歳のイメージに固定化されたアイドルとは、本当に生きられた状態といえるだろうか。アイドルの生を救うために、私たちは記録媒体を壊す。そこから解放されるものだけを信じるのだ。本作は、後の「病めるアイドル」を予告する作品と見做すことができる。

◆CDアルバム『メンタルヘルズ』(初回限定盤UPCH-9691/通常盤UPCH-1849UNIVERSAL J)2011年10月26日リリース

「堕天使ポップ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。『3年B組金八先生』の第2シリーズの第5回・第6回は「腐ったミカンの方程式」のその1と2だが、本作にも「腐った〇〇の方程式」が登場する。そうなると歌詞の冒頭も「「人間」っていうのは、 人と人の間で生きているから、 「人間」っていう んじゃないかな。」(坂本金八)から来ている可能性がある。また、エミール・アルドリーノ監督による映画「天使にラブ・ソングを…」を想起させる部分もある。こうして、人間と天使が登場した後、人間と天使のあいだでドラマが始まる。

「堕天使ポップ」では、心のなかが地獄という人間の立場に寄り添う立場が鮮明に打ち出される。不自由さの自覚とは、ここではメンタルヘルズを指している。なぜ、心に地獄を抱えている人間に寄り添うのか。それは、ジャパニーズ・ポップスがこれまで担ってきた役割だからであり、アーバンギャルドもまたその役割を引き継ぐという事を意味する。歌詞中にテストや「腐った〇〇」が登場するのは、主なリスナーとして学生が想定されているからである。ラジオの放送網は、深夜ラジオの可能性が高い。また、ケーキやいちごとの関連で、フォークとナイフのフォークだと思ってしまうが、フォークソングの担い手が、元々始めた役割だという意味も、ダブル・ミーニングで持たせてあることは間違いない。

歌詞の途中で、一人称で天使と思われる「僕」の言葉が挿入される。どうやら、人間の言葉を聴けるようになるためには、天使は人間にまで堕ちないといけないようだ。このあたり、ヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』に出てくる人間になりたいと願う守護天使ダミエルに、松永天馬は変身しているようだ。

「スカート革命」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルドホッピー神山)。2011年7月20日リリースの同名シングルの再収録。前述のシングルの解説を参照のこと。

「子どもの恋愛」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。私たちは、自らの意思とは関係なく、神様のセットしたプログラムによって、大人の身体になってしまう。そうした身体とこころのアンバランスさを抱えて生きていかないといけないと同時に、自分の意志を統御できずに、反抗的な態度を取ってしまったり、相手を傷つける過ちを犯したりもする。大人になると、さらにお金を燃やす、言い換えれば消費による享楽が介在するようになる。こうなると、純粋な魂のコミュニカシオンのような恋愛は、ますます難しくなる。相手のことを考えるほど、相手のことを幸せに出来ているか、或いは自分の行為が利己的な願望ではないかと懐疑が始まる。このように、愛から始まる地獄もある。しかし、地獄から逃れることができない以上、この苦悩すらも抱きかかえるように愛するしかないのではないか。作中、愛がIと置き換えられている箇所があるが、金井美恵子の小説『愛の生活』では愛がI(私)に、更にi(虚数、孤独の表現)に置き換えられる。人は、愛ゆえに孤独を知る。

「墜落論」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド)。「墜落論」は、坂口安吾の『堕落論』と見間違えるように構成されている。それは『ガイガーカウンター・カルチャー』に収録された「眼帯譚」が、ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』と見間違えるように構成されているのと同型である。坂口安吾は、短編「恋をしに行く」の作者でもあるから、松永天馬の好む作家であることは、ほぼ間違いない。坂口安吾無頼派的生き方、堕落のすすめが、アニメーションや電脳世界等への社会的ひきこもりに対する処方箋であり、外部への誘惑者として機能すると位置づけている可能性がある。曲の途中、「ツイラク論者~」以降、演劇調の語り口になるが、このあたりはストロベリーソングオーケストラの非売品CD「人力飛行機の為の演説草案」および「電球論」の騙り口を想起させる。「墜落論」の中には、パイロット、竹槍で撃ち落とせ、B29など、飛行機にまつわるイマージュに満ちている。「人力飛行機の為の演説草案」と「電球論」は、寺山修司の詩に、ストロベリーソングオーケストラの座長、宮悪戦車が曲をつけたものである。

『青春の蹉跌』は、石川達三の小説。『沈まぬ太陽』は、山崎豊子の小説。『赤い鳥』は、鈴木三重吉が創刊した童話雑誌。『ツ、イ、ラ、ク』は姫野カオルコの小説。「我思う故に我あり」は、ルネ・デカルト方法序説』。『二十歳の原点』は、高野悦子が残したノート。『うたかたの日々』は、ボリス・ヴィアンの小説。こうした累積から、外部に出ようとして、もがき苦しみ、墜落していった先行者の歴史が浮かび上がる。私たちは、墜落が運命づけられている。たが、外部に出るために人力飛行機と化して飛翔する、それを止める理由にはならない。それこそが、生きることなのだから。

「バースデーソング」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド)。セルジュ・ゲンスブールフランス・ギャルに楽曲提供した「アニーとボンボン」。ナタリーは、株式会社ナターシャが配信する情報サイトだが、「おやつナタリー」は2011年に終了してしまった。ハイチ・ゾンビについては、人類学者のウェイド・デイビスが、人骨・アマガエル・ヒキガエル・ゴカイ・フグをすり潰し、フグ毒であるテトロドトキシンの含まれるゾンビ・パウダーをつくり、共同体から排除された人間に振りかけて、命令に絶対従う奴隷的廃人を造るとしている。フランス・ギャルのくだりは、「ゲンスブール・ナイト」に繋がり、ゾンビのくだりは「ゾンビ・パウダー」に繋り、アイドル歌手になれないというくだりは、「病めるアイドル」に繋がる。「禁じられた遊び」は、ルネ・クレマン監督による映画のタイトル。クレイダーマンは、フランスのポピュラー系ピアニストのリチャード・クレイダーマンのこと。「胎児の夢」は、夢野久作の『ドグラ・マグラ』に出てくるエピソードで、胎児にも意識があり、潜在意識もまた進化論の道を辿り、「個体発生は系統発生を繰り返す」とする。ルブランは、アルセーヌ・ルパン・シリーズを書いたモーリス・ルブランのこと。ドイルは、シャーロック・ホームズ・シリーズを書いたコナン・ドイルのこと。この楽曲のハイライトは、人はだれしも終焉の時を迎え、運命の時が私たちに追いつくということ。その舞台では、探偵小説と違って、私たち自身が加害者であり、被害者であり、当事者として生きるしかないこと。「バースデーソング」というタイトルにも関わらず、松永天馬は運命の最期の時から、逆説的に誕生を照射する。当事者主義の観点から言えば、傍目から評価され祝われるということは不要である。ただ、実直に当事者として生きる、それがすべてであるから。

ヴァガボンド・ヴァージン」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信・谷地村啓、編曲:アーバンギャルド)。Vagabondとは放浪者のこと。タイトルは、歌詞中の「放浪処女」と意味が一致する。『薔薇の名前』は。イタリアの記号学者で作家のウンベルト・エーコの小説名だが、直接の関係はなく、やがて花開くことを薔薇のメタファーで伝えようとしているように思われる。主題としては、野坂昭如が歌い、戸川純がカバーした「ヴァージン・ブルース」の系譜にあるものと考えられる。「放浪処女」ということは、小谷野敦原作で、小沼雄一監督が映画化した『童貞放浪記』の女性版なのかもしれない。後に、松永天馬監督・脚本・主演映画「血、精液、そして死」で、園子温監督作品『アンチ・ポルノ』の主演女優・冨手麻妙を起用したり、園子温監督作品『うふふん下北沢』の音楽をおおくぼけいが担当したりと、園子温監督に関連性の深い仕事が増えるが、仮に「ヴァガボンド・ヴァージン」が、神楽坂恵(現在、園子温監督夫人)主演映画『童貞放浪記』へのオマージュであるとするなら、園子温監督との関連性はそこで生じていることになる。仮説の域を出ない話を中断して、曲の本筋に戻ろう。「ヴァガボンド・ヴァージン」であることを、青春の一頁として捉え、やがてこの時を忘れるだろうが、時折は笑ったり泣いたりして回想する時もあるだろうと推測しており、時間的経過を勘定に入れて俯瞰的にみる視点を導入している。

「雨音はシャロンの調べ」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド)。後に浜崎容子がカバーすることになるガゼボの「雨音はショパンの調べ」を彷彿とさせるようなタイトルである。シャロンは、イスラエルの地名で、『旧約聖書』の「出エジプト記」では「乳と蜜が流れる広い良い土地」を指す。この地域で咲くムクゲの花は、シャロンの薔薇と評される。『旧約聖書』で「シャロンの薔薇」は、純潔の象徴とされる。このアルバムの前の曲「ヴァガボンド・ヴァージン」が、『薔薇の名前』に言及しているので、ここで登場する花は、純潔の象徴としての薔薇である可能性が高い。『パーフェクト・ブルー』は、宮部みゆきの小説。『幽霊はここにいる』は、安部公房の戯曲。『ローズマリーの赤ちゃん』は、ロマン・ポランスキーのホラー映画。ローラ・パーマーは、『ツイン・ピークス~ローラ・パーマー最期の7日間』の主人公で、装飾された世界で最も美しい死体として有名となった。全体としては、ママのクローゼットで見た戦慄の体験が元になっている。それは、パパが関係しているようだが、明確に言語化されることはない。逆から言えば、言語化できるようになり、隠していたものが表に出てしまえば、治療は完了する。結果として、涙を流す、震えてくる、自傷するといった異常行動が見られるようになる。異常行動から推察して、何か非常にトラウマとなるようなものを目撃したということになる。心理学的には、信頼できる安心できる心理的紐帯を造ることで、少しづつ恐怖を取り除いていくことになるが、まずはこの曲を聴くこと、心を開くことが一助となるだろう。

 「ゴーストライター」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。「ゴーストライター」が「タイプライター」になり、「ライター」が「ライダー」となり、更には「アウトサイダー」となる。凄まじい語呂合わせ、韻の踏み方だが、そのなかに『アウトサイダー』と『ポルターガイスト』、コリン・ウィルソンの本のタイトルが2冊も入っているのは偶然なのだろうか。コリン・ウィルソンは、イギリスの作家・評論家で、実存主義文学の影響下のもと、悲観的な実存主義とは違って、意識の進化や、マズローの心理学を取り入れ、健康な精神に訪れる至高体験を強調した楽観主義的な新実存主義を提唱し『アウトサイダー』を書いた。後に『オカルト』を書き、人間の持つ潜在能力X機能の発現に関心を示すようになる。その後、死後生を扱った『アフターライフ』、騒がしい霊を扱った『ポルターガイスト』を書いて、単なる潜在能力ではなく、膨大なデータをもとに霊が実在すると認めないと説明が難しい例が多々あるとした。アーバンギャルドには、未知のもの、超越的なものへの志向が見られるが、それが前面に出た楽曲のように思われる。

 「粉の女」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。「粉の女」は、安部公房の『砂の女』を連想させる。「はじめに言葉があった」は、『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」の冒頭の言葉である。ゲーテの『ファウスト』は、それを「はじめに行為があった」と書き直す。フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』で、ホースラヴァー・ファットは、言語を行いに変換することから、実存主義は端を発しているのだとし、自身は言語から議論をスタートさせた。「粉の女」では、『新約聖書』からスタートし、「二十六話」云々の部分で、「新世紀エヴァンゲンオン」および旧劇場版エヴァンゲリオンにおける綾波レイにジャンプする。「粉の女」は、綾波レイだったのだ。「粉の女」は、綾波が実験室の巨大な試験管の中で生まれ、だからこそ、替えができる、元を正せば粉をこねくり回すようにつくった存在であることを指している。ここで綾波レイを登場させたのは、綾波が「不在の少女」というアーバンギャルドが一貫して追求しているテーマを表象=代理する題材だからである。資本主義は、常に「不在の少女」を、実体のない少女のイマージュ=記号を生産し続ける。「不在の少女」は、量産される、マスプロダクツされるのだ。碇ゲンドウの個人的理由、妻である碇ユイの面影を持つ少女を身近に置いておきたいという理由で、いくつものスペアを持つ綾波レイの持つ虚無が「粉の女」の主題である。

 「ときめきに死す(Hell’s mix)」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓、編曲:アーバンギャルド)。2011年9月にリリースされたシングルの再録。詳細は、シングルの解説を参照されたし。なお、シングルの解説では、専ら筒井康隆のことを述べたが、「マドレーヌ」の箇所が記憶の喚起と結びついているので、この箇所はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を想起しながら書かれた可能性がある。『檸檬』は梶井基次郎の小説。最後は映画『ゴースト ~ニューヨークの幻~』を意識して書かれた可能性あり。

「ももいろクロニクル」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓・松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。タイトルは、「ももいろクローバーZ」の「ももクロ」から来ているのだろうが、桃色が赤い血と白い骨の中間色であることから、『聖書』の初源に関わる壮大な展開をみせる。現代の若者は、心に地獄(メンタルヘルズ)を抱えていて、中二病だと言われるが、人類史において、心の地獄という問題を抱えて生きた最初の人は、イエスその人ではなかったか、という問いである。イエスが、救い主キリストと呼ばれるようになったのは、心にデカダンを持ち、そうであるがゆえに強権的ではなく、人に愛を与える存在になったのではないか、ということである。

※初回限定盤 DVD(Disk2)

「子どもの恋愛」PROPAGANDA VIDEO (作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

 

2012年

◆DVD『プロパガンダヴィデオ2012』(UPBH1301UNIVERSAL J 2012年1月25日リリース

楽曲のみならず、PVまでもプロパガンダヴィデオと名付け、自前でアートワークもこなす。初期のアーバンギャルドは、ありとあらゆることを自前でやっていた。ここに収録されたのは、そんな自主制作期から、メジャーデビューまでのプロパガンダヴィデオである。(メジャーになってからは、青木亮二、古賀学、ターボ向後といった映像作家に、PV制作を依頼することもあるようになったが。)

 プロモーション・ビデオを、あえてプロパガンダヴィデオと呼ばせる。そこには、佐藤信監督による『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』への敬意があるのではないか。トラウマテクノポップと自称するアーバンギャルドにとって、イエロー・マジック・オーケストラYMO)は、大きな存在であることは間違いないはず。

或いは、グレゴリー・ベイトソンの『大衆プロパガンダ映画の誕生』か、ベイトソンの論考が対象とした劇映画『ヒトラー青年クヴェックス』のようなプロパガンダ映画を意識した可能性もある。グレゴリー・ベイトソンは、文化人類学者だが、学問のジャンルの越境者として知られ、精神医学の分野でも、タブルバインド・セオリー(精神的に二重拘束=ダブルバインド状態化されると、スキゾフレニー=統合失調症を誘発しやすくなるという理論)を残している。アーバンギャルドに「ダブルバインド」という曲があることから、ベイトソンを意識した可能性も否定できない。

実はYMOの散会コンサート(YMOは解散に積極的な意味を持たせ、今後バラバラになって戦うということで散会と呼ばせていた)を撮った『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』で、YMOナチスを思わせるようなコスチュームを着ている。同様に、アーバンギャルドのその後の作品「くちびるデモクラシー」でも、軍服が使われている。YMOがミリタリー・ルックという点に関して、当時、左翼の側から不吉だとか、ナチズムの美学だとかの批判があったようだ。しかし、YMOのメンバー、坂本龍一は、環境問題や平和問題への発言でも知られ、行動から容易に推察されるように、ナチズムとは真逆の思想の持ち主であり、都立新宿高等学校時代にロックアウト中の校舎でピアノを弾いていたというような伝説すらあるほどである。また、アーバンギャルドの「くちびるデモクラシー」は、歌詞からしてナチズムではなく、むしろナチズムのような言論統制に対する言葉による叛乱を呼び掛けていた。では、衣裳と思想のねじれ現象は、一体、何なのか。

おそらくは、レニ・リーフェンシュタール(『意志の勝利』、『オリンピア』といった映画を撮った。戦後、アフリカのヌバ族や水中写真で、写真家としても脚光を浴び、石岡瑛子による紹介もあって、パルコ等の広告文化にも影響を与えた。)のようなナチズムの美学による強度を奪還し、ナチズムではなく、ナチズムのような全体主義と戦う武器として再編成をする企てではないか、と考えられる。それは、無論、下手をすれば、ミイラ取りがミイラになる、或いは深淵を覗くとき、深淵もこちらを覗いている(フリードリヒ・ニーチェ)という危険な綱渡りでもあるのだが。

話を本題に戻そう。このDVDのジャケットは、古屋兎丸による描き下ろしである。古屋兎丸は、その後もアーバンギャルドとのコラボで「前髪ぱっつんセーラー服」をヴィレッジヴァンガードで販売したりしているから、何かと関わりの深い漫画家である。

「プリント・クラブ(OFF AIR ver.)」には、アーバンギャル/ギャルソンが書いた無数の葉書が使われていて(画像のサンプリングが為されている)、その中には私の書いたものも含まれている。

◆CDシングル『生まれてみたい』(UPCH-5739UNIVERSAL J)2012年3月7日リリース

アーバンギャルドは、事実に触発されながらも、事実を超越するアートを志向する。

このシングル「生まれてみたい」がリリースされた時、前年に起きた東日本大震災で壊滅した日本への再生への祈りが込められた曲なのだと、私は受け止めた。

「生まれてみたい」は、妊娠を題材にした曲だ。それまでの楽曲、「ベビーブーム」や「セーラー服を脱がないで」では、処女性が重視され、社会の再生産システムとしての妊娠は、否定すべきものとして立ち現れた。なにしろ、妊娠の結果を示すイコンとしての巨大なキューピー、都市夫は、生まれるべきではないものとして、斬り付けられていたのだから。

そのあとに発表された「生まれてみたい」は、アーバンギャルドにとって、重大な転回点を示すものだった。この価値の転倒が起きたのはなぜか。勿論、東日本大震災が契機である。

「生まれてみたい」は、体内にいる未来の子どもからの手紙というかたちで綴られる。ただ、手紙という手段は心もとない。遅配や誤配がつきものだからである。歌詞中に、着信に気づかないというくだりがあるのは、東浩紀の『存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』を意識してのことだ。東は、マルティン・ハイデッガー的な存在論脱構築から、ジャック・デリダ流の郵便的脱構築へのパラダイム・シフトを唱え、メッセージには常に届けたい相手に届かないリスクがつきまとい、郵便的不安が発生するとした。とはいえ、到着可能性に不確実性がつきまとうにせよ、手紙は発送されねばならない。

未来の子どもからのメッセージは、まだ母になることを気づかないあなたに送られる。あなたは、まだニヒリズムに犯されていて、あなたの内面のニヒリズム(メンヘラと言い換えてもよい)は、廃墟と化した街と重なり合う。未来の子どもからのメッセージは、愛のギフトでもある。生きることに価値を見出せず、ビルの屋上に立つあなたに、未来の子どもは呼びかける。あなたは、まだ本来のあなたになっていない。あなたは、未来を生み出す価値のある存在なのに、まだ自分自身を見失っている。

作中「コインロッカー」が出てくる。村上龍の『コインロッカーベイビーズ』を意識したのだろう。後のアーバンギャルドの曲「コインロッカーベイビーズ」では、子どもをつくるという事が主題となっている。「生まれてみたい」は、これから生まれてくる子どもの観点からの現在のあなたへの価値づけだとすれば、後の「コインロッカーベイビーズ」は、子どもを産もうとする側からの観点となっており、この二曲が対となっていることは間違いない。

曲の最後のほうで、未来の子どもと、飛び降り自殺を図る寸前のあなたが、ひとつになる。分裂した複数の自己がひとりの人間であったという展開は、P・K・ディックの『ヴァリス』の結末を思い起こさせる。そうして、一点に集中した人格が生まれる時、あなたはあなた自身として生まれ変わる。「生まれてみたい」は、アーバンギャルドのなかでも珠玉の名曲である。

 カップリングで収録された「u星より愛をこめて」は、曲者である。山岸涼子の少女漫画『パエトーン』は、原子力発電の是非を問うものである。『遊星より愛をこめて』は、ウルトラセブン第12話で、映像ソフトになる段階で欠番とされた幻の放送回である。何が問題になったかというと、この回に登場するスペル星人は、ケロイドがあり、原爆による放射線障害で造血ができなくなり、地球人から吸血するようになったという設定だったからである。さらにレイ・ブラッドベリの『華氏451度』は、本の所持や読書が禁じられた世界を描いている。華氏451度は、本の素材である紙の燃える温度である。端的にいって、この曲が東日本大震災に伴う福島第一原発メルトダウン事故による不安感を、楽曲化したものであることは間違いない。しかも、ブラッドベリが示しているのは、この楽曲をメジャーで発表するにあたって、規制が働いたことを示唆している。そのため、「放射能」を「ラジウム」と言い換えたり、山岸涼子ウルトラセブンの喩えを使ったり、涙ぐましい努力がなされている。この楽曲は、原発事故の不安感と、自主規制というかたちで発生した言論統制へのプロテスト(抵抗)を表明した問題作となった。

◆CDシングル『病めるアイドル』(UPCH-5752UNIVERSAL J)2012年6月20日リリース

「病めるアイドル」がリリースされた当時、日本は空前のアイドル戦国時代で、アーバンギャルドは5番勝負と称して、バンドの側からの挑戦として、5組のアイドル(BiS、でんぱ組、Negicco、バニラビーンズ、ぱすぽ☆)と対バンした。『病めるアイドル』の裏ジャケットをみると、アイドルのような赤・黄・緑・ピンク・青のコスチュームで、楽器を持っていない。アイドルと同じ土俵で対決したいということなのだろう。しかし、「病めるアイドル」の歌詞を見ると、通常のアイドルソングでは隠蔽される「心の闇=病み」を暴露するものとなっている。これは、アーバンギャルド流の「病者の光学」(ニーチェ)によって解明された暴露心理学である。この方向性での探求は、この曲のリリース後も続き、後に「平成死亡遊戯」という極めて高い完成度の楽曲として結実することになる。

「病めるアイドル」の歌詞中に出てくる「ダイアモンドは傷つかない」は、三石由起子が『早稲田文学』に発表した小説のタイトルであり、それを原作として藤田敏八が映画化した田中美佐子主演の映画のタイトルである。歌詞中に「パフュームPerfume」と「カプセルCAPSULE」が出てくることが興味深い。この歌詞は「のっち・かしゆか・あーちゃん」と、彼女たちをプロデュースしている中田ヤスタカを指しており、彼女たちのテクノポップが「昼」であるならば、トラウマテクノポップを自称するアーバンギャルド「夜」テクノポップであるとして、アイドル・ブームの陰にある少女たちの「闇」に肉薄する。

この曲は、アイドル・ブームという時流に媚びたものだろうか。違う、その認識は断じて間違っている。アーバンギャルド、特に松永天馬の造る歌詞には、常に一貫して、次のテーマが存在する。まず、資本主義という都市の装置、欲望機械があり、その機械を稼働させるために、「少女」のイマージュが生産される。この「少女」のイマージュが、いわば馬の前にぶら下げたニンジンのような機能を果たし、資本主義は前に進むことになる。音楽産業によって造られた「アイドル」もまた、理想化された「少女」のイマージュの最たるものであり、現実の、実存としての少女自身と解離が起きている。この矛盾を意識するとき、少女自身は病むしかない。そして、アーバンギャルドは、都市の非情な論理によって傷ついた少女自身の内奥の理解者として、共依存ではなく、あくまでこの生の並走者として寄り添うというのである。アーバンギャルドが、「病めるアイドル」をリリースしたのは、時代が強いた必然なのである。
 カップリングで収録された「萌えてろよ feat.ぱすぽ☆」は、アーバンギャルドによる『資本論』といった趣きの凄い曲となっている。ぱすぽ☆の三人(奥仲麻琴増井みお根岸愛)を使って、「資本主義」について歌わせているのだから。「萌えてろよ feat.ぱすぽ☆」に差し挟まれた台詞によると、私たちの「恋愛」も、個人的な事にとどまらず、社会や経済のシステムに組み込まれており、不景気が戦争の火種になるので、「恋愛」によって誰もがお金を使い、好景気にしないといけないという認識が表明される。一方、歌詞ではマネーゲームのような恋の駆け引きに対する批判がなされる。「愛」は永続的であり、「恋」は一過性である。しかし、資本主義のシステムに翻弄される私たちの「恋愛」は、いつしか永続的な「愛」を売り渡し、一過性の駆け引きからなる「恋」に置き換えられてしまう。

こうした認識は、ジャン=リュック・ゴダールの映画を連想させる。ゴダールは、恋愛を描いているようで、同時に都市を描いている。アーバンギャルドも、ラブソングの振りをして、この社会基盤すら俎上にしてしまう。

◆DVD『アーバンギャルドSHIBUYA-AXは、病気』(UPBH9489UNIVERSAL J)2012年6月20日リリース

2012年3月20日にSHIBUYA-AXで行われたライヴを収録したDVD。「ロキノン系ならぬロキソニン系バンド、アーバンギャルドです!」 

映像特典として「都市夫、渋谷にあらわる」と「よこたんカメラ@SHIBIYA-AX(Leg fetish angle)」が収録されている。

 特筆すべきは、このDVDに付録としてつけられたミニアルバム『不良少女のアーバンギャルド』には、各メンバーによる「セーラー服を脱がないで」「水玉病」「女の子戦争」「東京生まれ」「傷だらけのマリア」のリミックスが聴くことが出来、これにより、各メンバーの音楽性の違いや、意外な一面(私には鍵山喬一による「東京生まれ」が、大人の雰囲気で、新しい発見だった)を知ることができる。

また、前任の女性ボーカル時代の幻の楽曲「テロル」の新録と、新曲「コスプレイヤー」が収録されている。残念なことに「テロル」と「コスプレイヤー」の歌詞カードがない。DVDということで、どの曲にも、歌詞カードがないのだが。

「テロル」は、「チロルチョコ」の歌かと思いきや、テロルと破壊、ニヒリズムの曲に変貌していく。この予想を覆す生成変化を愉しむ曲といえるのかも知れない。

コスプレイヤー」は、ひとつの恋が終わった後に、季節とともに目まぐるしく変貌した「少女」のイマージュに別れを告げる曲である。「少女」の千の仮面は、コスプレヤーがそうするように脱ぎ変えられるが、この衣裳は恋の相手、さらにはその背景にある都市が少女自身に押し付けた虚像である。この歌の主人公は、女の子としてのコスプレを脱ぎ捨て、別れを告げることで、本来の生を回復する。軽快なメロディーとともに開示される物語は、重い主題を孕んでいる。

このミニアルバムのCD本体には、真珠子のイラストが使われている。アーバンギャルドは、こうしたかたちで、新しいアーティストに発表の機会を与えようとしているように見える。

◆CDシングル『さよならサブカルチャー』(UPCH-5769UNIVERSAL J)2012年9月19日リリース

なぜ、サブカルチャーに別れを告げるのか。「さよならサブカルチャー」がリリースされた時、疑問に感じたものだ。

疑問はすぐに解消された。翌月リリースされたアルバム『ガイガーカウンターカルチャー』が答えだ。

メインカルチャーに対する従属するサブとしてのカルチャーではなく、カウンターカルチャー(対抗文化)として、ロックバンドとしてのアーバンギャルドを再構築したいということなのだ。なにゆえに。それは、ガイガーカウンターが、答えを指示している。東日本大震災に附随して起きた原発事故が、社会への疑義を強め、更には各人のアイデンティティーにも危機が浸食し始めた。そうである以上、カウンターカルチャー(対抗文化)としての役割を果たすのが、若者の叛逆を本質とした歴史を持つロックの継承者としていけないのではないか。

アーバンギャルドは、サブカルチャーから生まれたバンドである。観念的なトラウマテクノポップであるアーバンギャルドが、反骨の肉体を持とうとしていた、と解することができる。

 サブカルチャーとしての音楽を聴き、それに恋し、魂を揺さぶられ、涙まで流して育った「少女」は、『ノストラダムスの大予言』のように世界が終わるのを見たのだろうか。違う。世界が終わったのではなく、さまざまな社会の苦難が、「少女」を「少女」ではいられなくし、サブカルチャーに別れを告げるようになる。これは、アーバンギャルドによる「歌のわかれ」(中野重治)なのである。

カップリングの「なんとなく、カタルシス」についてだが、カタルシスは、精神の浄化を意味する言葉である。「なんとなく、カタルシス」というタイトルからは、田中康夫『なんとなく、クリスタル』を連想させる。アーバンギャルドの松永天馬の歌詞の中には、先行する文学作品や映画のタイトルなどの文化的アイコンが数多く埋め込まれている。しかし、このような手法は『なんとなく、クリスタル』のものでもある。『なんとなく、クリスタル』は、ファッション・ブランドやAORの楽曲名などを記号として消費する。文学作品で、このような傾向を持っているのは、他にも倉橋由美子の初期の少女小説がある。倉橋由美子の場合、フランス現代思想や異端文学が観念として消費されるのだが。従って、アーバンギャルドが手法的に近い『なんとなく、クリスタル』を連想させる楽曲をつくることに不思議はない。歌詞中の文化的アイコンを拾い出してみよう。「殺しのドレス」は、アンジー・ディッキンソン監督作品、マイケル・ケイン主演のサスペンス映画。「殺しのライセンス」は、リンゼイ・ションテフ監督作品、トム・アダムス主演のスパイ映画。「カタルシス」「ドレス」「ライセンス」、韻を合わせるため、末尾が「ス」の言葉が選ばれている。更に、「カタルシス」から「カタストロフィ」(破局)へと、言葉の連想が続いている。「時代はサーカスの象にのって」は、寺山修司脚本の天井桟敷の代表作のひとつであり、頭脳警察が同名の楽曲をつくっている。このように「なんとなく、カタルシス」には、映画や芝居のタイトルが埋め込まれている。キーワードや概念を作品に組み込む『なんとなく、クリスタル』の手法が踏襲されていることがお分かりいただけただろうか。「なんとなく、カタルシス」がもたらす清涼感は、「カタストロフィ」(破局)の予感と、現実に対する絶望感がもたらしている。この絶望と危機感が、カウンターカルチャー(対抗文化)を生み出す契機となっていることは間違いない。

◆CDアルバム『ガイガーカウンターカルチャー』(初回限定盤UPCH-9787/通常盤UPCH-1894UNIVERSAL J)2012年10月24日リリース

ガイガーカウンターカルチャー』のジャケットは、空中から俯瞰的に撮影された都市の写真に、キスマークがついているというものである。(初回限定版では更に、キスマークに水玉病が生じている。)これは、神によってもたらされたキスマークである。

「あした地震がおこったら」は、2010年の作品だが、その翌年、東日本大震災が実際に起こる。「あした地震がおこったら」に、大地に巨大なキスの痕跡をつけるという行為が登場する。このような行為ができるのは、人間を超えた存在であることは間違いない。地震は、神からの贈与である。その真意はわからない。人間を超えた存在は、人間の解釈を超えた存在であるからだ。私たちは、この過酷な運命を、受け止めるしかない。(大地にキスをするという行為は、フョードル・ミハイロヴィッチドストエフスキーの作品で、ラスコリニコフや、アレクセイ・カラマーゾフが大地にキスをするというところから来ている気がする。)

ガイガーカウンターカルチャー』が生まれてきた背景には、震災が起き、すべてが黒い津波に押し流され、街は廃墟と化し、更にそれが原因で原発メルトダウン事故が起きた、そうした世相がある。更に言えば、原発事故による放射能災害が「直ちに健康に影響はない」としても、いずれ健康に影響が出るのか、情報が錯綜し、何を信じたらいいのかわからない、そういう心理的背景がある。あの当時、ガイガーカウンターを買った人は(私もその一人だが)自己防衛のため、自身で科学的に正しい真実を知らないと、政府もマスメディアも本当の事を言っている保証はないと思ったからである。では、アーバンギャルドはどうしたか。アーバンギャルドは、アーティストであるから、アーティストとして、この現実をアートの形に昇華したのである。そのアートは、現実と遊離した芸術至上主義的なものではなかったし、かといって、アートであることを放棄した、事実性のレベルでの直接的政治行動(例えば、サウンドデモや替え歌による政府批判は、アートであることは二の次で、政治的効果だけが主眼である)とも一線を画していた。あくまでも、カウンターカルチャー(対抗文化)としてのロックを構築し、混迷する人々に音楽を通じて生きる勇気を与えることに力が注がれた。『ガイガーカウンターカルチャー』は、そうした成果である。

魔法少女と呼ばないで」は、当時流行った「魔法少女まどか☆マギカ」のような魔術戦争の設定のもとに展開されるが、中身は「少女」であることを演ずる女の子が隠している血みどろの内心に対する心理的洞察である。ここでは「少女」を演ずるための化粧道具が、変身のための魔術道具として描かれている。一見、かわいい文化に見えても、内心には、造られた「少女」像という虚像と、ほんとうの自分という実像の二重性という矛盾を抱えており、常に別の魔法少女との競争を強いられている。

「さよならサブカルチャー」と「病めるアイドル」は、前述したので、省略。

「処女の奇妙な冒険」は、「ジョジョの奇妙な冒険」をもじったタイトルが使われているが、そこで展開されるのは、処女性に関する様々な考察=知的冒険である。例えば、世界の名作童話(白雪姫、眠り姫、人魚姫)にも、処女性を重視し、結婚を良いものとするイデオロギーがセットされていて、童話が教育を通じて、社会自身を再生産する方向に寄与するといったことである。ここでは、メッセージらしきものが見える。お姫様のように何もせずにただ待つのではなく、好きな道を歩め、それが如何にいばらの道であっても、というメッセージが。

コミック雑誌なんかILLかい」には、「コミック雑誌なんかいらない」と「十階のモスキート」、どちらも内田裕也主演の映画のタイトルが、歌詞中に埋め込まれている。歌詞中の「アトミック・エイジ」が、大江健三郎の「アトミック・エイジの守護神」だとすると、「ジャンピン」は、石原慎太郎の「ファンキー・ジャンプ」かも知れない。トキワ荘は、手塚治虫藤子・F・不二雄藤子不二雄Aらが住んでいたアパート。「わたしは神になりたい」は、ドストエフスキー『悪霊』に出てくるキリーロフを想起させる。キリーロフは、神は必要だ、しかし、神は存在しない、ゆえに自分が神になるしかないとして、世界にその福音を知らせるために首吊り自殺を図る。ドストエフスキーの見方は、こうだ。キリーロフをはじめ『悪霊』に出てくるニヒリストたちは、ロシアの大地に根差した神を喪っており、観念的にその欠損を充填しようとしてテロル(キリーロフの自殺も、テロルの一形式として解釈が可能である。キリスト教において、自殺は神への叛逆と見做されるのだから。)に走る。松永天馬の創造する世界を理解する上で、ある程度の神学とロシア文学の知識をおさえておいた方がいいかも知れない。というか、それらは人間理解にも役立つので、たとえあなたが非キリスト教徒で、ロシアに関心を持たない人であっても、無駄にはならないはずだ。特にドストエフスキーを読むと、奇怪な観念の持ち主が次々と繰り出されるので、異端の文学・思潮・芸術を知る上で、基礎学力になるはずだ。解説を続けよう。「わたしは貝になりたい」は、フランキー堺主演のテレビドラマ(他の作品との関係で、中居正広によるリメイク版ではないようだ)。ジャン=ポール・サルトル実存主義文学『嘔吐』が登場し、これがタイトルのILLの意味に繋がっている。いずれも、戦後日本の文化を指す単語である。歌のなかで、主人公の僕はマンガの世界に取り込まれる。三次元の存在が、するりと二次元の世界に入り込むという変容は、後の『少女か、小説か』でも多用されているプロットである。このような話の展開は『不思議の国のアリス』の影響かも知れないし、すべてを表層の出来事とするジル・ドゥルーズルイス・キャロル論『意味の論理学』を踏まえたものかも知れない。

「生まれてみたい」は前述したので、ここでは述べない。

「眼帯譚」は、ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』を連想させるタイトルだが、内容的に関係はない。バタイユの作品は形而上学的ポルノグラフィーであるのに対し、この曲は片思いの非対称の関係性を描いている。暗号解読をしておこう。「724106」は「何してる?」、「14106」は「愛してる」だ。片思いの関係性を表現するのに、この歌では右目と左目、眼帯を使用しているが、この表現の仕方はエリック・サティの『右や左に見えるもの〜眼鏡無しで』を連想させる。

「血文字系」から、ナサニエルホーソンの『緋文字』を連想してしまった。ホーソンの『緋文字』は、女性主人公が、姦通罪のため、姦婦の頭文字である赤いAの文字を服につけさせられる事に由来する。「血文字」が本気度を示す言葉だとしたら、『緋文字』の罪を覚悟しての恋愛は「血文字」に通じるというべきだろう。歌詞中では「赤文字系」「青文字系」というファッション誌に由来するファッションの潮流が挙げられている。「赤文字系」の雑誌は、『JJ』『ViVi』『Ray』『CanCam』といったタイトルが赤、もしくはピンクで書かれた雑誌を指す。端的にいえば、コンサバファッション、保守的で異性受けを狙ったファッションを指す。一方、「青文字系」は、『CuTiE』『Zipper』といった原宿系の、同性に受けるような個性的でガーリーなファッションを指す。「ニューロティック」は神経症的、「スギゾティック」は統合失調症的。「ブルーベルベット」はデイヴィッド・リンチ監督による変態映画(切断された耳を拾うところから始まり、倒錯した性の深淵に導かれる)で、「ピンクフラミンゴ」はジョン・ウォーターズ監督による変態映画(巨漢のドラァグ・クイーンのディヴァインが犬の糞を食べたりする)。ヴァージニア・ウルフは、ブルームズベリー・グループのメンバーで『ダロウェイ夫人』や『オーランドー』を書いた。『蛇にピアス』は金原ひとみの小説で、吉高由里子主演で映画化された。この歌詞によると、「赤文字系」「青文字系」も「ファッション・ビジネス」の産物で、そこにとどまり、時流に流されるならば「ファッショ・ポリティックス」のように、何も考えずに全体主義政治に管理されるだけの存在になる。「ブルーベルベット」や「ピンクフラミンゴ」みたいに行きつくところまで行って、血を流すくらいの本当の自己表現をみせてみろ、これが「赤文字系」「青文字系」に対する「血文字系」だというのである。極めて挑発的な言葉で、本気度を試しているような歌詞となっている。

「トーキョー・天使の詩」は、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』を意識したタイトルとなっている。『ベルリン・天使の詩』については、蓮實重彦柄谷行人の対話『闘争のエチカ』や、浅田彰島田雅彦の対話『天使が通る』でも触れられており、映画のみならず、それらの本を意識して採用されたタイトルである可能性がある。歌詞中で、映画撮影のシーンが描かれるが、監督によってミスキャストとされ、別の娘を探すというエピソードが語られるが、これは松永天馬の小説「神待ち」のストーリー展開を連想させる。

ガイガーカウンターの夜」は、アルバムのコンセプトとつながる重要な曲である。ジャケットのキスマークが、神様によるものであることが、この曲で明かされている(先に述べたように「あした地震がおこったら」の歌詞を精査すれば、このことは導き出せるが)。また、アーバンギャルドのこの音楽が意図するものが、生き残るための音楽であるという事も明らかにされる。こうした音楽を創るきっかけとなったあの娘は、既にいない。おそらくは、震災によって、既にこの世の人ではないのだ。だが、アーバンギャルドは、そのことを悲劇的な物語やラブソングのかたちに閉じ込めることを良しとはしなかった。物語やラブソングから、あの娘を解き放ち、ガンガーカウンターが音を立てている現実のなかで生き延びるための武器として組み立てようとする。

アーバンギャルドのなかで「ソング・シリーズ」と言われるものがある。「ファミリーソング」「コマーシャルソング」「アニメーションソング」「プロテストソング」「バースディソング」「ノンフィクションソング」「アガペーソング」「ファンクラブソング」「レディメイドソング」「マイナンバーソング」である。これらは概して、アーバンギャルドの、というか松永天馬の思考の基本原理を明らかにするものが多いようだ。その意味で、このアルバムに収められた「ノンフィクションソング」は重要である。

「ノンフィクションソング」では、かつてないほどの強いメッセージが発せられる。「生きろ これは命令形だ」。この世界には、虚妄のフィクションが多い。だが、君の命は、間違いなく現実のものであり、ノンフィクションである。僕と君、それぞれの固有性、交換不可能性が確認され、そのうえで存在価値があるとされる。さまざまな喩えを駆使して語ってきたが、結局のところ、生きろ、生きて、生きて、生きまくれ、それが重要であり、言いたかったことなのだ。そのために、たとえ傷ついたっていいじゃないか。それが生きていることの証しになるのならば。メッセージ自体が深い感動を呼び起こす強烈な一曲である。

◆CDアルバム PASSPO☆『One World』(UNIVERSAL J)2012年11月14日リリース

「ピンクのパラシュート」は、当時、ユニヴァーサルに所属したアーバンギャルドが、レーベルメイトだったPASSPO☆のために書き下ろした曲である。PASSPO☆のグループ名は、所属事務所がプラチナムパスポートであることに由来するが、それゆえメンバーがキャビンアテンダントという設定になっている。「パラシュート」というのも、この設定上からの連想であろう。これに、恋に落ちることに対する「パラシュート」という意味が掛け合わされている。

 

 

2013年

◆CDシングル PASSPO☆『サクラ小町』(UNIVERSAL J)2013年2月13日リリース

「サクラ小町」の作曲は瀬戸信。瀬々信の作曲時のペンネーム。軽快で、ポップな仕上がりとなっており、必聴である。

◆2013年6月19日『恋と革命とアーバンギャルド

 このアルバムのポスターに、当時のメンバー全員のサインが施されたものを持っている。名古屋近鉄パッセの屋上で、小雨が降っていた。屋上の下がタワレコで、そこのイベントだった。ポスターを渡した後、松永天馬さんが「ゴム、ゴム」と言いながら、輪ゴムを配っていた。

それはともかく、『恋と革命とアーバンギャルド』は、ベストアルバムである。「恋と革命」は、太宰治の『斜陽』を意識しての命名と思われる。ベストアルバムを出した後、移籍が行われる事が往々にしてよくあるが、実際、このアルバムを出した後、アーバンギャルドはユニヴァーサルから徳間ジャパンに移籍した。

冒頭の収録曲「初恋地獄篇」と「都会のアリス」が、このアルバムのための新曲で、佐久間正英氏プロデュースだった。佐久間正英氏が存命ならば、次の展開があったかも知れないが、残念ながら彼の最晩年の仕事になってしまった。

「初恋地獄篇」は、寺山修司+羽仁進の共同脚本で、羽仁進が監督で制作された映画「初恋・地獄篇」のタイトルから取られている。引用があり、そこから自由連想法が展開されるのは、アーバンギャルドの楽曲にはよくあることで、歌詞中には「セーラー服と機関銃」「唇からナイフ」といった映画のタイトルもみられる。歌詞中に出てくるブロバリン不眠症の薬。曲の核心は、死ぬような激しい恋、あるいは地獄に落ちるような恋を経験したならば、自分自身を発見できるというものである。

都会のアリス」に関しては、アーバンギャルドFC会報「たのしい前衛」創刊号に掲載されている「前衛都市のメタフィジカ」に書いたので、ここでは繰り返さない。

「女の子戦争」。『少女は二度死ぬ』からの再録。ここに出てくる少女の身体が縮むのは、手塚治虫ふしぎなメルモ」に出てくる赤いキャンデーを舐めすぎたせいじゃないかと思う。成長とともに喪われる少女期を探す地下の迷宮譚。

「セーラー服を脱がないで」。修正マキシシングル「修正主義者」および『少女は二度死ぬ』からの再録。タイトルはおニャン子クラブ「セーラー服を脱がせないで」のもじり。手塚治虫「やけっぱちのアリス」と今野緒雪「マリア様が見ている」とサディスティック・ミカ・バンド「タイムマシンにお願い」。アンチ性教育ということなので、性解放を唱えるW・ライヒのような考え方とは対極的(W・ライヒの考え方は、寺山修司サザエさんの性生活」などにも影響を与えている)。この曲では純潔が唱えられているが、キリスト教的な精神主義に合致するものとも解釈できるし、キリスト教的世界観の裏側にあるジョルジュ・バタイユ澁澤龍彦的な発想(侵犯行為のために逆説的に禁制が要請される)を示唆しているともとれる。

「ベビーブーム」。ライブでは定番の強烈なリズムが炸裂する曲。アルバム初収録。

「水玉病」。水玉模様(ドット)への偏愛、ミニマルな画像への自己の消失願望への言及がある点で、草間彌生へのオマージュが感じられる。プロパガンダ・ヴィデオでは、マルセル・デュシャンの「泉」(レディ・メイドの便器に、サインを施しただけの作品。芸術の本質を問い直す性質がある。)さえもが引用されている。歌詞にはゴダールのミューズ、アンナ・カリーナの名も。現代美術、映画、文学……前衛芸術のおいしい部分を引用しつつ、描き出されるのは、少女の心象風景。

「コンクリートガール」。『少女都市計画』からの再録。タイトルのコンクリートは、ミュージック・コンクレートを示唆しているが、それだけではなさそうである。冒頭に、衝動殺人者の決まり文句(クリシェ)が書き連ねられている。とすると、この曲はタブル・ミーニングで、コンクリート詰め殺人の事を歌っている可能性がある。そう解すると、その後の歌詞は、殺人者(男)の考えた観念的で妄想的少女像(プラスチック+セラミック+プラトニック+センシティヴ+エトセトラ)が現実(血と肉で出来た生身の人間)と齟齬が生じ、その矛盾を解消するために殺人を犯した可能性が浮上する。更に、この観念合成で出来た少女のイメージは、コンクリートで出来た高度資本主義の都市像に解消され、少女のイメージが都市の消費構造の生み出したイリュージョンであったとされる(この展開は「あした地震がおこったら」を想起させる)。音楽的完成度の面でも、ビジュアル喚起を促す言葉の使用法の巧みさという点でも、重要な曲だと思う。

 「修正主義者」。自主流通マキシシングル。『少女都市計画』からの再録。修正主義とか、自己批判とか、ゴダールの『東風』からの引用かと思わせる語句が並んでいるが、政治的コンテクストから切り離され、男女間の恋愛を歌った曲となっている。私の理解では、こうだ。まずゴダールの『東風』があり、これがYMOの『東風Tong Poo』となり、これがアーバンギャルドに影響を与える。ゴダールのジガ・ヴェルトフ集団期の作品『東風』は革命的西部劇とされ、修正主義者は嘲笑すべき悪玉だったが、この曲では、無修正の恋愛が自己批判の対象となり、恋愛という戦場では修正主義者の方が正しいとされている。

 「傷だらけのマリア」。初の全国流通シングル。PVなどビジュアル・イメージでは、聖母マリアを連想させるようなイコン。だが、歌詞を見る限りでは、普通の女の子が、普通になりたくなくて、冒険をする話のように思える。手首占い(リストカットの言い換えか

?)やタナトロジーという言葉から、この冒険がタナトス(死)に関連していることが窺える。更に、野坂昭如『真夜中のマリア』から、この冒険がエロス(性愛)に関係していることが推定できる。「その少女、人形につき」に繋がるイメージである。

 「あした地震がおこったら」。2010年7月に発売されたシングル「傷だらけのマリア」同時収録曲。即ち、2011年3月の震災よりも前に作られた曲。大きなキスマークは、その後の『ガイガーカウンターカルチャー』から判断して、神様によるものと解せられる。地震を題材に、従来からのテーマ、都市が生み出していたイリュージョンの消失を描いている。神様のキスマーク(神様からの恩寵?)からして、このテーマの背景には、神学的思考(松永さんも、瀬々さんも神学部卒)が窺えるが、ビルとビルがぶつかり合う光景に、仏教の色即是空に基づく無常観を読み取っても間違いではないのではないか。

 「スカート革命」。初のメジャー・シングル。『メンタルヘルズ』からの再録。この曲が出た時、上野千鶴子『スカートの下の劇場』を連想したが、要するに、この曲は恋の歌なのである。スカートの中、つまり性的な身体性に着目している点と、恋の真っ逆さまに堕ちる性質、つまり規範からの逸脱に着目している点が、アーバンギャルドらしいといえば「らしい」といえる。

 「ときめきに死す」。メジャー第2弾シングル。『メンタルヘルズ』からの再録。タイトルは、丸山健二原作『ときめきに死す』と、森田芳光によるその映画版に由来。更にPVでウルトラセブンの最終回を連想させる背景画像を使用。歌詞中では、筒井康隆時をかける少女』、同『家族百景』等のエスパー七瀬シリーズプルースト失われた時を求めて』からマドレーヌのエピソード等のイメージを散りばめ、神智学か人智学の本に出てきそうなアカシック・レコードまで取り入れ、生と死がせめぎ合うようなときめきに満ちた恋愛によって、超常世界にまで魂がサイコダイブする軌跡を描いている。

 「生まれてみたい」。メジャー第3弾シングル。『ガイガーカウンターカルチャー』からの再録。震災の経験からの再生の曲。仮にアーバンギャルドの曲を聴いたことがない人に、一曲聴いてもらうとしたら、躊躇なくこの曲を推薦したいと思う。心が洗われるような、魂の新生を歌った曲(勿論、ダンテ的な意味での新生である)。ところで、この曲の段階で、既にコインロッカーへの言及がある。「コインロッカー・ベイビーズ」は親の視点からの、「生まれてみたい」は生まれてくる子供の視点からの曲と言えるかも知れない。

 「病めるアイドル」。メジャー第4弾シングル。『ガイガーカウンターカルチャー』からの再録。アイドルといえども人間であり、病む人間は病む、という事なのだろう。虚構のアイドル像に対抗し、アイドルの実存を暴露させてしまうという問題作。歌詞中に、三石由起子原作・藤田敏八監督の映画『ダイアモンドは傷つかない』のタイトルの引用がある。パフューム/カプセルの名もあるが、彼女たち/彼らたちを、テクノポップの昼とした場合、アーバンギャルドは夜の役割を担うのだという意思表明ととれる。

 「さよならサブカルチャー」。メジャー第5弾シングル。『ガイガーカウンターカルチャー』からの再録。ノストラダムスを連想させる世紀末の予言やミニシアター、マンガのエピローグといったサブカル心をくすぐるガジェトへの言及が歌詞中にあるが、それらへの別れが歌われているのは、サブカルからカウンターカルチャーに脱皮しないと、震災以降の過酷な現実を生き抜くことはできないという隠しメッセージではないだろうか。

 「ももいろクロニクル(前衛都市学園合唱団mix)」。原曲は『メンタルヘルズ』に収録されているが、『恋と革命とアーバンギャルド』に収録されているのは、そのリミックス版である。この曲に登場する「君」は、最後まで名乗らないが、私にはキリストその人のように思えてならない。おそらくは、人類史の始まりにおいて、人の心の地獄を覗き込み、共にあるというかたちで理解を示した最初の人。それは、一面では精神主義的なデカダンだったかも知れないが、その理解に深い愛があったことは確かなのだ。

◆映画DVD 木村承子監督作品『恋に至る病』(アメイジングD.C. 2013年7月13日リリース

アーバンギャルドの楽曲「子どもの恋愛」が効果的に使われている。監督の木村承子さんは、アーバンギャルドの公式ファンクラブ「前衛都市学園」の会報『たのしい前衛』でも連載を受け持っていたので、ご存知だと思う。この映画には、コミック版があり、監督自らが描いている。木村承子著『恋に至る病』(びあ、2014年9月20日発行、ISBN978-4-8356-1875-3)である。

◆CDアルバム ムーンライダーズMODERN MUSIC スペシャル・エディション』(CRCP-20502/3NIPPON CROWN)2013年11月6日リリース

Disk1に原曲の「グルーピーに気をつけろ」が、Disk2にアーバンギャルドによるリミックスが収録されているが、かなり過激なリミックス処理になっているので、聴き比べると良いだろう。「レディメイドソング」や「ふぁむふぁたファンタジー」のような曲調に近い処理といえば良いだろうか。

◆CDシングル 野佐怜奈『涙でできたクリスマス サンタクロース・コンプレックス』(ERCD10003Emission Entertainment)2013年11月20日リリース

野佐怜奈は、アーバンギャルドと関わりの深いヴォーカリストである。例えば『恋と革命とアーバンギャルド』に「ももいろクロニクル 前衛都市学園合唱団mix」が収録されているが、「アーバンギャルドディストピア2011」の際に、結成された前衛都市学園コーラス部のメンバーは、フレネシ、響レイ奈、りむ(ペイ*デ*フェ)、ないす(9【que】)の4人であった。このうち、響レイ奈が、後の野佐怜奈である。参考までに、野佐怜奈の改名史を書いておこう。まず、「その名はスペィド」のメンバーとしてのルビィがあって、その後、響レイ奈としてソロ、並行してノーサレーナのヴォーカル、さらに改名して、野佐怜奈、並行して野佐怜奈とブルーヴァレンタインズ、眠れないdeサルトル。ただ、どんな名前に改名しても、歌声さえ聴けば、圧倒的な歌唱力(特に、大人向けのムード歌謡を現代風にアップデートした路線において顕著である)によって、同一人物だと一目瞭然である。

「涙でできたクリスマス」は、ひとりぼっちのクリスマスを過ごす女性心理を描いた曲。「サンタクロース・コンプレックス」は、ファザー・コンプレックスの女性が主人公。野佐怜奈の歌う曲は、悪い男だとは知りつつ惹かれる女性心理、或いは悪びれているが、実は情が深く、誰よりも相手の事を想っているといった大人の恋の事情を歌った曲が多く、この曲も前者の範疇に入る。(作詞家は、歌い手の個性を考慮して、内容を合わせているのだろうか?)「涙でできたクリスマス」も「サンタクロース・コンプレックス」も、ハジメタル(exミドリ)の作曲だが、「サンタクロース・コンプレックス」が、浜崎容子「暗くなるまで待って」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)と似た金属音(スティール製の机の上で、ビー玉を弾くような)がして、興味深い。或いは、初めから「暗くなるまで待って」の姉妹曲を狙って、このようなアレンジにしているのだろうか。

◆CDアルバム PASSPO☆『JE JE JE JET!!』(UPCH-9904UNIVERSAL J)2013年12月11日リリース

「サクラ小町」は前述したので、省略。

「Shang Shang シャンデリア」。「イー・アル・サン・スー・ウー・リュー・チー・パー」は、中国の数字の数え方。摩天楼が出てくることから、シンガポールの夜を描いた曲と思われる。アジアのシャンデリア、シャンパン……と、シャンで始まる言葉を連ねて韻を踏んでおり、心地よい響きとなっている。

 

2014年

YouTube 松永天馬とエアインチョコ 「身体と歌だけの関係」https://youtu.be/Bo67BGYKmoY 2014年1月31日アップロード

YouTube 松永天馬とエアインチョコ Blood,Semen,and Death.https://youtu.be/dgobpIBaDB0 2014年1月31日アップロード

エアインチョコは、当時、アーバンギャルドだった鍵山喬一(現在は、Fuckin Daz)と、当時、ザ・キャプテンズだった大久保敬(現在、アーバンギャルド、おおくぼけいと平仮名表記)のユニット。ここに松永天馬が加わり、男だらけで曲を披露している。現時点でCD化されていないので、貴重な動画といえる。

◆CDアルバム ナンバタタン(南波志帆+タルトタタン)『ガールズ・レテル・トーク』(ERCD23003Emission Entertainment)2014年2月5日リリース

タルトタタンは、当初、相対性理論から脱退した西浦謙助/真部脩一が、アゼル&バイジャンを結成してプロデュースしたグループだったが、その時は、山本奨(当時、ふぇのたすのヤマモトショウ)がプロデュース。タルトタタンは、メンバーの移り変わりが激しいグループで、このとき、ナンバタタンとして南波志帆と組んでいたのは、優希と葵の時である。南波志帆アーバンギャルドと関わりのあるアーティストで、アーバンギャルド南波志帆/真空ホロウという組み合わせのライヴを見たことがある(2012年6月2日、名古屋ell.FITSALL)。『ガールズ・レテル・トーク』に収録されている曲は、ほとんどが作詞・作曲を山本奨が行っているが、大森靖子が表題作の作詞を、松永天馬が「ズレズレニーソックス」の作詞を行っている。

「ズレズレニーソックス」は、ニーソックスに着目して、それがズレで行く事によって、少女から大人の女に変わっていくという様子を描写している。これに関して、私は次のようにツイートしたことがある。

「ナンバタタン 「ズレズレニーソックス」(作詞:松永天馬、作曲:山本奨)歌詞中の「ズレ」は、「スカートの丈:絶対領域:ニーソックス」の黄金比「8:2:5」からのズレであり、更に言語の意味のズレが起き、身体と心のズレへと広がってゆく。」

「8:2:5」というのは、青山裕企の写真集『絶対領域』が、「スカートの丈:絶対領域:膝上ソックス=4:1:2.5が、“絶対領域黄金比”とされている」としていることに基づく。

◆CDシングル 上坂すみれパララックス・ビュー』(KICM91506他/KING RECORDS)2014年3月5日リリース

すみれコード」。上坂すみれという名前と、すみれの花をかけたタイトル。男性原理と女性原理が抜本的に違っており、そうであるがゆえにレコードに喩えた場合、回転数が一致しないという事になるが、だからといって、恋を始めた以上、その回転を止めてはいけないといった内容になっている。表題作の「パララックス・ビュー」は、作詞を大槻ケンヂが手掛けており、興味のつきないカップリングとなっている。

◆CDアルバム『鬱くしい国』(初回限定盤TKCA-74110/通常盤TKCA-74115/徳間ジャパン)2014年6月18日リリース

 こちらも、メンバーのサイン入りのアナザー・ジャケッツを持っている。よこたんとキューピー(都市夫)が、一戦を交えようとしている写真。鍵山さんのサインも入っている。

そういえば、「たのしい前衛」での私の連載が始まった後だったので、これをもらうとき(場所はタワーレコードの名古屋近鉄パッセ店のイベントスペース)初めて松永天馬さんに、「私が原田です」と名乗ったのだった。『夜想アーバンギャルド』の項で述べるが、松永さんが浜崎さんをメンバーに招いたのは、ミクシィのメッセージによってであったという。実は、松永さんからのあの連載の依頼も、最初、ツイッターでのメッセージだったので、顔と名前の一致していない人への文章依頼だったという事になる。

 震災と原発事故以降、『ガイガーカウンターカルチャー』というタイトルが示しているように、アーバンギャルドは対抗文化という事を意識した作風になっていく。『鬱くしい国』になると、音楽による日本論の試みに、更に変貌を遂げる。収録曲「さくらメメント」の歌詞には「アンダー・コントロール」という我が国の首相の言葉が取り入れられている。原発事故以降、依然として汚染水の問題は続いているのに、言葉の上だけで「アンダー・コントロール」といい、「美しい国」であるかの如く偽装しようとする。そうした隠蔽体質を表現した言葉が「鬱くしい国」だと考えられる。

 「ワンピース心中」。「玉川上水」、『グッド・バイ』、『斜陽』……太宰治にまつわる言葉がちりばめられた作品。命を賭すほどの一途の恋が称揚されるのは、保身ばかりに走る欺瞞的な「鬱くしい国」に背を向けた行為だからだろう。

 「さくらメメント」。日本的な美を象徴する桜を題材に、日本の表(ジャパニメーション!)と裏(年間三万人の自殺者が出る絶望の国)を立体的に見せる快作。

 「生教育」。歌詞としてスクールカーストと書けないのは、メジャーゆえの制約か。この曲は「世界の外ならどこへでも」(ボードレール『バリの憂鬱』)の現代版。中途半端な救いのポーズはやめてという叫びが、心に突き刺さる。

 「君にハラキリ」。ピストル・オペラは、鈴木清順の映画。腹を割って話すことから、信頼が生まれるという、斬新なウェディングソング。

 「ロリィタ服と機関銃」。「セーラー服と機関銃」を思わせる展開。『少女コレクション序説』は澁澤龍彦のエッセイ、蝶のコレクションは、ジョン・ファウルズの『コレクター』、胡蝶の夢荘子の説話で、夢か現実か区別がつかなくなったさまを指す。

 「自撮入門」。寺山修司『青少年のための自殺入門』を想起させるタイトル。作風としては、「魔法少女と呼ばないで」の系統か。シニカルかつ痛烈に現代の病理を暴く問題作。

 「アガペーソング」。西欧には三つの愛がある。プラトンが説いたエロース(完全性のイデアを希求する哲学的な恋愛)、アリストテレスが説いたフィリア(友愛)、そしてキリスト教の神への愛(アガペー)。

 「ガールズコレクション」。鷲田清一の『モードの迷宮』を連想させるようなファッション哲学が開闢される。おしゃれという事と、死が対置され、対置される事で、逆説的におしゃれの美学が生きてくる。

 「戦争を知りたい子供たちfeat.大槻ケンヂ」。『鬱くしい国』の中でも、異様な迫力に満ちた曲。アーバンギャルドFC会報『たのしい前衛 第二号』で、この曲について書いたので、よろしければどうぞ。

 「R.I.P.スティック」。アーバンギャルドの中で、現時点で一番長い曲(2番目に長いのは「少女の壊し方」)。曲調の違う曲が繋ぎ合わせられて出来ている。曲の意味については、『夜想アーバンギャルド』に収録された天馬さんの「文字で書かれたR.I.P.スティック、或いは少女Y」がヒントになるだろう。

 「僕が世」。この「鬱くしい国」に、命を捨てるほどの価値はあるのか。この祖国のために、あなたを見捨ててまで、命を落とす価値はあるのか。この「僕が世」は、予言的だ。

ガイガーカウンターカルチャー』の最後の曲「ノンフィクションソング」で、ミュージック・コンクレートの技法を用いて、行進する軍靴の足音を聴かせたアーバンギャルドは、「僕が世」で再度、問いかける。ガイガーカウンターが表示する現実を隠蔽する国家は、美しい国ではなく、鬱くしい国であり、国家の秘密保全を第一とする軍事国家となる恐れがある。最新作『少女KAITAI』収録の「原爆の恋」では、核戦争への危惧さえも歌われる。

 アーバンギャルドが提供してくれるのは、われわれの時代の、われわれのための「人間の音楽」なのだ。アーバンギャルドと同時代に生きられる事、もはやこれを僥倖と呼ばずして、何と呼べばいいのだろう。

◆BOOK『夜想#アーバンギャルド』(ステュディオ・パラボリカ)2014年7月17日刊行

 その福音は、ゴダールの『中国女』あるいは/もしくは『中国女』のスチール写真を表紙にした蓮實重彦『シネマの煽動装置』のように、鮮烈な赤から始まった。アンヌ・ヴィアゼムスキーを演ずるのは、よこたんであり、赤い『毛沢東語録』は、赤い『夜想アーバンギャルド』に置き換えられるだろう。

 この本は、松永天馬さんによる「詩篇:前衛都市のための前奏」から始まっている。この詩篇を読むと、天馬さんが寺山修司のような資質の人であることが判る。軽妙に見えて、クリティカルな鋭い視点。実験的な言葉遊びとフロイト的な欲動の暴露。その後の作品が、この発想の延長線上にあるのではないかと思える部分もある。6ページの「王子様だけはいつまでたっても現れない。……幻想を打ち砕いて」は、『少女KAITAI』の「コインロッカー・ベイビーズ」につながっているように思える。

 西島大介さんの「四人はバンド」。この『

夜想』が出た時は、鍵山さんが在籍していた時期だ。『恋に至る病』の木村承子さんが、西島さんの教え子だったというエピソードが興味深い。アーバンギャルドを巡る人脈は、サブカルで繋がっているようだ。

 球体関節ストッキングで知られる上野渉さん。勿論、『夜想』特装版(血の丸セーラー巾着袋)も買いましたとも!

  蜷川実花さんとよこたんのセッションは、眼帯・輸血・硝子のピストル・血の丸仮面といったアイテムを散りばめながら、極彩の美学を展開する。アイテムが意味するものは、象徴的な死であり、死を前にして、生命は真夜中の太陽のように輝く。色彩の極楽を享楽せよ!

 大槻ケンヂさんと松永さん、よこたんの鼎談「性+聖=生!?」は、筋肉少女隊や特撮の活動が、アーバンギャルドにとって、偉大なパイオニアの役割を果たしていたのだという事を再認識させる内容だった。(オーケンアーバンギャルドの「戦争を知りたい子供たち」の対話劇部分に参加している事は言うまでもない。)音楽のみならず、文学やサブカルへもジャンルを越境していくオーケンの活動は、天馬さんの立ち位置と重なる。実作者しかできない作詞・作曲法の話から始まり、年齢とともに変容してきた少女観に至るこの対談は、今後もオーケンが松永さんの指標となってゆくことを示唆しているように思える。

  神林長平「少女神」。コンタクトレンズにサーチアイの検索機能を付与したカジェットが出てくるSF小説でありながら、アーバンギャルドの描く「少女」の問題を埋め込み、さらにイザナミ神話を重ね合わせるという思弁小説でもある。(神林長平『ぼくらは都市を愛していた』朝日文庫の解説を、松永さんが書いている。こちらも必読。)

 作家・冲方丁氏とのよこたんの対談「ポップの究極は孤独」。ついに、今をときめく『マルドゥック・スクランブル』の著者と、対談の機会を持つまでになったのか、という感慨を持たずにはいられない。冲方氏は文学、アーバンギャルドは音楽を基軸としているが、ともに人間や時代を問題にしているからだろう。不思議と対話が成立している。司会として参加した高柳カヨ子氏は言う。「浜崎さんのアー写で、PVCのキャットスーツを着ている写真があるのですが、それを見て、「ああ!パロットだと思いました。」(56ページ)こうして、アーバンギャルドの描く少女が、『マルドゥック・スクランブル』の登場人物と重ね合わせられ、精神科医でもある高柳氏によって、斎藤環の言うところの「戦闘美少女」としての側面にもスポットが当てられる。ラカニアンの斎藤環氏は、「戦闘美少女」以外に「社会的ひきこもり」をテーマにした研究があるから、高柳氏の頭の中では、アーバンギャルドの楽曲に、「ひきこもり」やメンヘラと呼ばれる人格障害適応障害の症例を見ようとする視点があることは、想像に難くない。事実、この後の「ヘビトンボの季節を過ぎても」では、この問題が真正面から取り上げられる。兎も角、この対談は高柳氏(高柳氏は神林長平夫人でもある)のSF界人脈と、精神医学系の共通する主題の掘り下げがなければ、成立しなかった企画なのではないか。

 松永天馬さんの「文字で書かれたR.I.P.スティック、或いは少女Y」。これは胡子『お嬢様学校少女部卒業記念アルバム』に収録された松永さんの「少女学論文『少女は昔の処女ならず』と並んで、松永さん独特のロジックを知ることのできる貴重なエッセイであり、全作品を読み解く鍵となる文章だと思う。

以下は、私流の一解釈。澁澤龍彦の『少女コレクション序説』のような禁制と侵犯がせめぎ合った世界があり、少女に施されたラッピングは、いずれ覆いを取り剥がされるためのものである。この少女に関するバタイユ的解釈が、消費資本主義の中でとらえ直され、虚構の少女のシミュラークルが無限増殖される現代社会の迷路からの「家出のすすめ」(寺山修司)と、リアリティーのある生き方の提唱がなされる。

 千野帽子さんの「テクノポップはアングラだった」。少女文学に詳しい千野さんだけに、少女の好むアーバンギャルドの音楽評も的確である。P-MODELの「Art Mania(美術館で会った人だろ)」を意識してつくられた「保健室で会った人なの」。P-MODELのアルバムのプロデュースをした佐久間正英さんが、最晩年にアーバンギャルドの「都会のアリス」をプロデュースした事。太宰治の『斜陽』に出てくる「恋と革命」が、『恋と革命とアーバンギャルド』というアルバム名になった事。前衛・革命・プロパガンダカウンターカルチャーといった言葉の事。

エピソードを積み重ねながら、アーバンギャルドを語る千野さん。アーバンギャルド愛を感じずにはいられない文章でした。

 会田誠さんと天馬さんの対談「イメージの少女、等身の少女」。対談の中で、松永さんは「会田さんのファンの女の子でアーバンギャルドのファンの子がいて、その子がいつも「会田さんにアーバンギャルドと何かコラボしてって言ってきました!」みたいに言うんですよ。」(83ページ)といっているが、この同人誌の発行人タナカカオリさんの事ではないだろうか。真偽はともかく、『鬱くしい国』のジャケットに、会田さんの「群娘図‘97」が使われたのは良かった。

 高柳カヨ子さんの「ヘビトンボの季節を過ぎても」。『少女は二度死ぬ』のジャケットに使われたトレヴァー・ブラウンに着目した論考。ちなみに私がトレヴァー・ブラウンの名を知ったのは、大塚英志の小説『多重人格探偵サイコ』(角川スニーカー文庫)の表紙によってであった。カワイイと猛毒が同時に存在するトレヴァー・ブラウンの世界は、アーバンギャルドの世界と親和性が高い。高柳さんは、SNSで「自撮」写真をアップしている少女たちのなかに、人格障害適応障害に起因する自傷行為リストカットオーバードーズ等)が見られることが多いとし、アーバンギャルドの描く少女は、「ただ自分が生き残るために」(106ページ)戦っているのだと指摘する。

 そしてトレヴァー・ブラウン山本タカト、今井キラ、安蘭、真珠子、森夜ユカの美術作品が続く。トレヴァー・ブラウンの絵は、後に『少女KAITAI』のジャケットに使われた。『夜想』はこれまでの活動のまとめであると同時に、次への胎動が起きていると見做すべきなのだろう。

 「愛をください!」は、数多くの著名人からの応援集である。青木美沙子上坂すみれきくち伸ケラリーノ・サンドロヴィッチサエキけんぞう四方宏明鈴木慶一月乃光司辻村深月中田クルミ南波志帆新島進根岸愛、ハナエ、福田花音古屋兎丸巽孝之(敬称略)と錚々たる名前が並ぶ。

 そして、SF評論家でフェミニスト理論家の小谷真理さんによる「スナッフフィルム」を巡るシャープな論考。『聖母エヴァンゲリオン』の著者は、アーバンギャルドの中でも特にハードな楽曲を選んで来たな、と思う。

 それにしても、神林長平・高柳カヨ子夫妻と、巽孝之小谷真理夫妻を味方につけたアーバンギャルドは凄すぎる。

 菊地成孔との共著『東京大学アルバート・アイラー』などで知られる大谷能生による「実存としての少女、現象としての少女」。モダン・ジャズやブラック・ミュージックに造詣の深い大谷能生による評論は、アーバンギャルドの音楽を論ずることによって、逆に彼自身の理想とする音楽を明らかにする。大谷能生アーバンギャルド批判の要旨は、実存的な身体性に欠けた音楽・歌詞であるという事である。モダン・ジャズ等にあったソウルフルな音楽ではないという事なのだろう。身体性の欠如したシンセの音、オリジナルから切り離されたコピーのコピーから成り立つ歌詞。

まるでポスト構造主義デリダ等)への現象学派(フッサール等)の批判のコピーのような事が、この音楽評論で言われている。(現象学派のポスト構造主義批判は、デリダフッサール批判『声と現象』にどう反論するかが試金石だと思う。)

大谷能生の論旨は、生活(レーベンス)世界(ヴェルト)や、大地に根付いた土着的な魂で繋がっていた方が、ヒューマンで、現実主義的だよね、という事に尽きるように思われる。

どうも議論がかみ合っていない。出発点からして違っているようだ。大谷能生は、最初から自分が外にいると確信している。

一方、アーバンギャルドの楽曲は、最初は内にいて、そこから外に出ようとするものが多い。「アニメーションソング」の主人公は、アニメのような虚構の宇宙の内にいるが、革命があり、血を流す現実に遭遇し、これが外の現実だと認識する。「コインロッカーベイビーズ」では、主人公はコンピュータによる人工的な環境下にあり、リアルな事象との乖離が起きているが、やがてリアルな外部との接触を求め、一瞬の恋ではなく、永続の愛によって子どもを持ちたいという願望に目覚める。アーバンギャルドの描く主人公は、内に閉ざされた球体の宇宙から、血みどろの現実との接触を求め外部に向かうが、大谷能生の場合、最初から自分が外にいると思い込んでいるので、そういった懐疑に基づく、内から外への移動は起きない。

例えば、高柳カヨ子さんが問題にしていたような、欲動に揺れる想像界、そのなかで起きる人格障害適応障害といった事態を、アーバンギャルドが主題化し得るのは、自己への懐疑に基づいて、内から外への移動が常に起きているからではないだろうか。仮に、自己の立場への疑いがないところでは、こうした心の揺らぎは主題化し得ないのではないか。

 「松永天馬少女詞集」。『寺山修司少女詩集』のようなタイトル。「セーラー服を脱がないで」「水玉病」「都市夫は死ぬことにした」「プリント・クラブ」「あした地震がおこったら」「スカート革命」「子どもの恋愛

」「病めるアイドル」「眼帯譚」「コスプレイヤー」「都会のアリス」「さくらメメント

」に関する公式解説集。私のように「前衛都市のメタフィジカ」などというタイトルで、歌詞の解釈を公開していると、後から公式解説集が出ると、答え合わせをしているみたいでドキドキものだったりする。「都会のアリス」で、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』は思いつかなかったな。しかし、歌詞の解釈は、作詞者の意図とは別に、読み手がどう受け止めたか、という「創造的誤読」の面に面白さがあったりするので、皆さんもよかったら、やってみてください。

 「アーバンギャルド メンバーインタビュー」答える人は瀬々信さんと鍵山喬一さん。好きなアーティストを問われ、瀬々さんは、MR.BIG を、鍵山さんはNirvanaLed Zeppelin  等の洋楽アーティストを挙げている。先程の大谷能生説だと「洋楽の影響がほとんどない。」(138ページ)とされているのだが、これはどういう事なのだろう。個人的には、瀬々さんが人形を数体所有しており、ヌミノーゼ(ルドルフ・オットーの概念)を感じるという話が興味深かった。

 「アイテム図鑑 グッズ編/ノベルティー編/衣裳編」物欲をそそられるグッズとノベルティーアーバンギャルドの歴史が感じられる衣裳の数々。

 「浜崎容子の告白」。ミクシィで「アーバンギャルドのボーカルになってくれませんか?」というメッセージが松永さんから届いた事から、すべてが始まったこと。衝撃的だった谷地村啓さんの脱退、徳間ジャパンへの移籍に至る七年間の記録。浜崎さんは、本質的に生真面目で、誠実な人だと思う。それが、この文章から痛いほどわかる。血まみれのPV撮影を、嫌がることなく貫徹したり、パニック障害になったり、解散の危機を包み隠さず語ったりするのは、生真面目できちんとしておきたい人だからなんだと思う。どちらかというと、松永さんは新しいアイデアを見出しては発展していくタイプ。一方、浜崎さんはきちんと締めるところは締めるタイプ。その両輪があって、アーバンギャルドが維持されている気がする。

 「前衛都市のディスコグラフィ」。浜崎さんのテクノ・シャンソンフィルム・ノワール』、kihirohito  氏とのコラボ『ソワカちゃんアーバンギャルド』まで載っている。

 はいえ、ここには『処女喪失作』や『デモクラシーテープ』は記載されていない。浜崎さん加入後のアーバンギャルドが、松永さんにとっての本格的なアーバンギャルドとしての活動なのだろう。松永さんの浜崎さんへの高い評価と信頼が、そこに感じられる。

◆CDアルバム 筋肉少女帯THE SHOW MUST GO ON』(TKCA74148徳間ジャパンコミュニケーションズ)2014年10月8日リリース

大槻ケンヂらしいフォックス姉妹事件(マーガレット・フォックスとキャサリーン・フォックス。ラップ音を引き起こす姉妹として有名になり、降霊術等のスピリチュアル・ブームの火付け役となった。)から晩年のアーサー・コナン・ドイルシャーロック・ホームズの生みの親で、合理主義的な解釈で謎を解くミステリー作家の代表格であるにも関わらず、晩年は捏造された妖精写真から妖精の実在を信じたり、心霊学研究に没入していった)に至る心霊主義の歴史に関する蘊蓄の入った「霊媒少女キャリー」を、浜崎容子が歌っている。

◆BOOK『月刊松永天馬』(しまうまプリント/自主制作)2014年12月6日刊行

 この本のカバーをめくると、しまうまの柄が出てきた。どうやら、この本は写真のデータをしまうまプリントに持ち込んでつくったようだ。写真の方は、徹底したファンサービスで、凝った内容。どうも松永天馬という人は、真面目にやればやるほど、過剰になりすぎ、どこかおかしみが出てくる人のようで、そうした特質がこの写真にも表れている。この小さな月刊が、本物の月刊シリーズを招き寄せ、『月刊アーバンギャルド』として結実することになるのだから、感慨深い。

◆CDアルバム『a tribute to Tetsuroh Kashibuchi ハバロフスクを訪ねて』(PCD-18779/80P-VINE RECORDS)2014年12月17日リリース

ムーンライダーズの「スカーレットの誓い」を、完全にアーバンギャルド風に調理してしまっている。鮮やかなリミックスである。ところで「薔薇がなくっちゃ生きていけない」から始まり、映画作品の楽曲内での引用など、アーバンギャルドへのムーンライダーズの影響はあまりにも大きいと言わねばならない。

 

2015年

◆DVD『アーバンギャルドのクリスマス~SANTACLAUS IS DEAD~』(ZETO009/前衛都市/TK BROS 2015年4月1日リリース

2014年12月25日、日本橋三井ホールで行われたライヴ、「アーバンギャルドのクリスマス~SANTA CLAUS IS DEAD~」を収録。松永天馬による「戦争を知りたい子供たち」のジャズ・ヴァージョン、浜崎容子による「月へ行くつもりじゃなかった」のアコースティック・ヴァージョン、『a tribute to Tetsuroh Kashibuchi ~ハバロフスクを訪ねて』に収録されているムーンライダーズの「スカーレットの誓い」のカバーが聴けるのが嬉しい。「SANTACLAUS IS DEAD」という言い方が、2012年にリリースされたBiSの『IDOL is DEAD』を意識した表現なのかは不明。映像特典として「前衛都市のビデオノート」を収録。

◆CDミニアルバム『少女KAITAI KAI版]』(ZETO-010/前衛都市)、『少女KAITAI TAI版]』(ZETO-011/前衛都市)2015年5月2日リリース、ライヴ会場限定販売

 『少女KAITAI』は、ライヴ会場限定のCDとしてリリースされ、残部がアーバンギャルドの公式Web Shop(http://tkbros.shop-pro.jp/)で販売された。

こうしたライヴ会場で限定のCDを売る方法は、津田大介牧村憲一『未来型サバイバル音楽論 - USTREAMtwitterは何を変えたのか』で音楽産業を守る方法として、既に提言されていた。音楽データの複製が容易にできる現代において、一期一会のライヴが逆説的に価値を持つようになる。そこで、ライヴ会場に人を動員するために、ライヴ会場でしか入手できない音源を売ればよい、という提言である。『少女KAITAI』と『昭和九十一年』を考えると、こういった戦略を導入していることは間違いないだろう。しかし、『少女KAITAI』の場合、ライヴ会場限定CDとする理由が他にもあって、それはメジャーでは到底売ることができそうもない過激な楽曲を、地下流通させたいという狙いがあったからである。

『少女KAITAI』には、KAI版とTAI版があって、前者には「生まれてみたい YOKOTAN REMIX」が、後者には「都会のアリス 戸田宏武(新宿ゲバルト)REMIX」が収録されている。それ以外の4曲は共通で、「コインローカーベイビース」「原爆の恋」「ファンクラブソング」「いちご売れ」が収録されている。『少女KAITAI』のジャケットは、トレーヴァー・ブラウンの作品であり、『少女は二度死ぬ』に続いて、二度目のジャケット担当ということになる。これは、『少女KAITAI』の解体が、アーバンギャルドの初期少女三部作(『少女は二度死ぬ』『少女都市計画』『少女の証明』)を、脱構築ディコンストラクション)する意味であったため、少女三部作との関連性を示唆するためのと解することができる。ちなみに、脱構築ディコンストラクション)は、ジャック・デリダの用語で、破壊(ディストラクション)とは異なる。ディコンストラクションの訳として、解体とされることもあったが、破壊との差異を明確にするため、現在では脱構築と訳されることが多い。破壊ではないので、少女三部作の否定ではない。脱構築なので、再び少女三部作の世界に潜入し、内部から意味をズラす形で、世界を再構築し、死せる少女を甦らせようということなのだろう。更に、解体とせず、KAITAIとしていることから、単に少女を解体するのではなく、少女を懐胎する、或いは少女を買いたいという多義的な意味を与えていると思われる。少女を買いたいとは、そのまま収録曲「いちご売れ」のテーマと直結するが、少女のイマージュの産出を、資本主義というマシーンが機能した結果と見做すという事である。「社会的諸関係の総体」(マルクス)としての少女を視るというのが、少女三部作の脱構築の要である。

『少女KAITAI』の収録曲は、なぜ地下流通という形で、しかもライヴ会場に来たファンに手渡しでしか渡せないほど危険なのか。まず、「コインローカーベイビース」は、電脳社会化が進んだ世界における現実との接触の欠如が痛烈に批判されている。続いて、「原爆の恋」では、原爆批判を繰り広げながら、どさくさに紛れて、原発批判もやってのけるというメガトン級の破壊的な曲となっている。「ファンクラブソング」になると、狂信的カルトの批判から始め、宗教が最終的に世界大戦の引き金となる可能性があるとして宗教戦争への全面批判に至る。そして、「いちご売れ」では、性の商品化が俎上に挙げられ、これに対し、時として流血を伴うような本物の恋が対置される。全体として、現代文明への痛烈な批判が含まれており、特にピカピカドンドンを連呼する「原爆の恋」が衝撃的である。これらの楽曲は、メジャーの販売ルートにのせようとすると、おそらく自主規制も含め、圧力がかかるのは必至である。しかも、不特定多数向けに販売すると、理解される前に、スキャンダルとなりかねない。とすれば、信頼できる同志であるファンに手渡しするのが、一番確実ではないか。そういう狙いから、ライヴ会場での販売ということになったと思われる。とすれば、『少女KAITAI』は、アーバンギャルドの一番イイタイコトがつまっているアルバムということになる。更に収録曲を詳細に見て行こう。

「コインロッカーベイビーズ」。タイトルは、村上龍の同名の小説から。まず、電脳世界がスマホタブレットという形で、ポケットに入る時代であることの確認から入る。この事は、知識をコンパクトにパッケージングするという世界の流れとリンクしている。しかし、これらの方法で入手した世界の情報は、政治的にも(すでにいつ戦争に巻き込まれてもおかしくない状況である)、経済的にも(不景気の出口が一向に見えない)、精神環境という面からも(私たち自身の主体すらアイデンティティ・クライシスに晒されている)、人類が行き止まりに陥っていることを指し示す。この時代の病理は、現実との接触の回避にある。この観点は「アニメーションソング」の延長にある考え方だ。また、新しいことを生み出さない停滞した社会の行きつく先は、子どものいない社会である。この観点は「生まれてみたい」の考え方が、社会・歴史的認識と結びつく時に生まれる。こうして、コンピュータ言語ではなく、血の通った言葉で、私たちの子どもをつくろうというメッセージに至る。最後に辿り着くのは、刹那的な恋ではなく、永続的な愛の領域である。

「原爆の恋」は、井上陽水「傘がない」が行った社会問題に対する私的世界の優位の主張に対する<否定>である。井上陽水「傘がない」では、自殺者の増加という問題が告げられ、それにも関わらず、今の私に重要な事は、雨天なのに傘がない事の方だと言っている。これと、「原爆の恋」の冒頭、この歌の話者は、戦争勃発のニュースよりも、学校のテストが重要だといっている。この二つが同型の論理であることに注目したい。ともに、社会問題やニュースよりも、個人や内面の方を優先させるという価値観を指している。しかし、「原爆の恋」は、価値観に安住することを許さない現代の残虐な「現実原則」(フロイト)をつきつける。「ただちに影響がありません」は、福島第一原発の事故の際に、原発から20~30キロ範囲内の空間線量が問題となり、食品からも基準値以上の放射能が測定され、健康被害が問題となった際に、枝野幸男官房長官(当時)が事態の鎮静化を図ろうと繰り返し語った言葉。「100,000年後の安全」は、マイケル・マドセン監督によるドキュメンタリー映画で、安全レベルに到達するのに10万年要する高レベル放射性廃棄物の処理方法を問い、フィンランドのオルキルオト島にある放射性廃棄物処理施設オンカロを紹介したものである。そこで、「原爆の恋」といいつつ、原発をも批判の射程圏内に収めた曲であることに気づく。さらに「放送禁止」という言葉で、「u星より愛をこめて」で経験したメジャーレーベルで放射能問題を扱った曲を流通させる困難さを挑発的に揶揄し、マスメディアは真実を報道できずにいるのではないかという懐疑すら、歌の中に盛り込んでいる。危険な言葉が三つある。まず、原爆を表すピカドンだ。歌詞カードでは「ピカドン」とはいわず、「ピカ」と「どん」を切り離して、なおかつカタカナと平仮名に変えている。更に、メルトダウンだ。歌詞カードでは英語表記に変えている。三つめは、原発だ。原爆批判以上に、日本では原発村の及ぼす社会的影響が大きいということなのだろうか。タイトルを原爆とし、歌詞中の原発をローマ字表記に変えている。最後に、「原爆の恋」の話者が辿り着くのは、逃げとしての個人の内面ではなく、愛であり、見えないけれども価値のあるものである。この愛は、核によって支配されたこの世界に、鋭い批判の矢を投げかけるだろう。

「ファンクラブソング」は、一見、ファンクラブへの勧誘の歌のように思える。しかし、「十字架」がキリスト教を、「三日月」がイスラム教のシンボルであることに気づく時、戦慄が走る。宗教は、ファンクラブの一形式である。それも、狂信的な(ファナティック)、ということだ。狂信に駆り立てるものは、不安である。宗教は、不安神経症の一症例であるということなのだろうか。善良なサポーターに見えた信者が、悪意のあるフーリガンに変貌する。この変容もまた、不安神経症によるものである。個人レベルにとどまるならば、フーリガンだが、個人に起こることは、集団でも起こる。社会的にみれば、これは他国や他民族、他の宗教に対する攻撃性・物理的暴力の発現、更にはそれを契機に起きる戦争の発生の心理的カニズムと同一であるということになる。「ファンクラブソング」は、カルト化していく宗教への批判であり、宗教戦争への批判を含んでいるといえる。こうして、ファンクラブへの勧誘の歌が、実は社会へのまなざしがあって生まれた歌だということがわかる。しかし、それだけだろうか。ライヴ会場で実演される「ファンクラブソング」は、更にもう一回、意味の反転が起きる。それは、よこたんを聖母とする「よこたん教」の讃美歌への変容である。宗教のダークサイドを照射した曲というのも偽装かも知れない。

「いちご売れ」。ライヴ会場限定販売CD『少女KAITAI 』が売られた全国ツァーは、「アーバンギャルド2015 春を売れ! SPRING SALE TOUR」だった。更に、「いちご売れ」の歌詞には、「bye 旬」という部分がある。前半が英語で、後半が漢字で、その間にブランクが入っている。SPRING SALEで、「bye 旬」なのだから、売春である。ここで、連想してほしいのは、ジャン=リユック・ゴダールの映画『彼女について私が知っている二、三の事柄』である。アーバンギャルドは、この映画のタイトルを引用したことがあり、『アラモード・マガジン Vol.4』(アーティズム出版)の巻頭特集に「アーバンギャルドについて私が知っている二、三の事柄」と書かれている。ゴダールのこの映画は、HLM(標準賃貸住宅)で実際に起きている主婦売春を取り扱っている。『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトール』に掲載されたインタビュー(聞き手:カトリーヌ・ヴィムネ)を基に、主婦を俳優に置き換えて演じさせている。コダールの狙いは、資本主義社会における労働の在り方を浮き彫りにすることにあった。ゴダールによると、われわれが不本意にやっている労働は、すべからく売春のようなものだという。この観点を、再度「いちご売れ」に落とし込んで考えてみよう。「いちご売れ」は援助交際の歌である。「いちご売れ」の作詞者は、「money」に着目する。要するに、資本主義だ。一方で「天は人 の上に人を造らず。人の下に人を造らず。」(福沢諭吉)という平等原則があるにも関わらず、資本主義が「競争」を持ち込む。かくして、エデンは破壊される。「いちご売れ」のフォーカスは、少女が「かわいい」という価値のもとで「競争」する世界を活写する。そのことは、自分を貨幣に換算する援助交際において顕著に露呈し、世界は「かわいさ」を基に選別される残酷な地獄へと変容する。「いちご売れ」は、援助交際を、資本主義が生んだ病理として批判する歌である。そして、偽りの少女のイマージュを葬送し、ほんとうの少女自身を救いだそうとする曲である。貨幣経済において、売買可能なのは、唇だけである。これに対し、見えないハートは売買不可能である。真実の愛があるとすれば、売買不可能なハートにおいて成り立つのではないか、とアーバンギャルドは問う。口紅は、偽りのイマージュにしか役立たない。真実の、実存する愛は、血を流すような愛だ。アーバンギャルドは燃えるような音楽で、欺瞞に満ちた虚妄背理の恋の駆け引きを破壊する。これこそ、現代を覆いつくす幻想の解体である。解体のなかから、懐胎するものを救い出せ。そのことが、現代の脱構築になるのだから。

 KAI版に収められた「生まれてみたい YOKOTAN REMIX」は、繊細にして、針のような音のフラグメントが愉しめる曲。TAI版に収められた「都会のアリス 戸田宏武(新宿ゲバルト)REMIX」は、極めて前衛的な手つきで、この曲の新たな一面を開示した曲。どちらも貴重な音源。

◆CDアルバム NO-LIE SENSE鈴木慶一&KERA)『The First Suicide Big Band Show Live 2014』(4R-0005ナゴムレコード)2015年8月26日リリース

NO-LIE SENSEは、鈴木慶一ムーンライダーズ)とKERA(ケラ&ザ・シンセサイザーズ)からなるユニット。2014年5月10日に東京・東京キネマ倶楽部で行われたライヴ「The First Suicide Big Band Show」の記録。ゲストは、浜崎容子、松永天馬(fromアーバンギャルド)、緒川たまき

緒川たまき、松永天馬が参加した「MASAKERU」は、NO-LIE SENSEのライヴでは初披露の曲。「だるい人」「DEAD OR ALIVE(FINE FINE)」「大通はメインストリート」で、浜崎容子が参加。

よこたんが歌ったことのある蛭子能収作詞の曲は何かというアーバンギャルドカルトQがあったら、「だるい人」と答えないといけない。

YouTube新垣隆 & 吉田隆一 + 浜崎容子 ゴーストライターhttps://youtu.be/VzYuS-4l_sY  2015年9月10日アップロード

 ゴーストライター経験を持ち、苦渋の経験をした新垣隆の演奏で、浜崎容子が「ゴーストライター」を歌うという冗談のような企画だが、新垣隆のピアノと吉田隆一のサックスは最高で、渋い音で「ゴーストライター」の新たな魅力を引き出してくれた。新垣さんが実名で活動するようになって、本当に良かったと思う。

BOOK 松永天馬著『自撮者たち』(早川書房)2015年10月25日初版第一刷発行

 『自撮者たち』は、「少女」「都市」「神」「墓碑」という四つのパートから出来ている。これは少女小説のカテゴリーに入るのだろうが、その描き方は観念的であり、写実主義(リアリズム)ではない。かといって、現実に対し、観念的な遊離が起きているのではなく、逆に現実を触発する棘として機能する。この小説は、決して「少女」に媚びておらず、冷徹に「少女」というイマージュを生産する「都市」という装置、一種の欲望装置まで見据えており、時には「神」の如き、ランドサット衛星から見たような俯瞰的な視点さえも導入する。(吉本隆明は『ハイ・イメージ論』の中で、ランドサット衛星から見た俯瞰的な視点を「世界視線」とし、次第に人類は死もしくは歴史の終わりから見た「世界視線」を獲得するようになると考える。)その真意は、概念としての「少女」を解体し、実在の生身の少女を救い出すことにある。そのとき、概念としての「少女」は虚像となり、幽霊となり、言葉となり、「墓碑」が立てられるだろう。

まずは、「少女」のパートから。「スカート革命」は、アーバンギャルドの楽曲にもあるが、小説は楽曲の附随物ではないし、楽曲の補完物でもない、完全に独立した文学作品として存在する。「スカート革命」とは、端的に言って、恋による世界認識の変貌である。女の子は、恋によって、世界の見え方まで変わる。松永天馬は、時にジーグムント・フロイト精神分析的な視点をも導入しながら、「少女」の欲望を解明する。恋は、身体的な運動を伴うものである。この事と、毒を取り入れ、血液を甘くする事とは、どういう関係しているのか。シモーヌ・ド・ボーヴォワールが『第二の性』で、「鉛筆の芯、封糊、木切れ、生きた蛙」、「コーヒーと白葡萄酒」の「混合液」、「酢の中に侵した砂糖」、「うじ虫」を我慢して口に入れる思春期の女性のエピソードを書いている。(生島遼一訳、新潮文庫、第1巻、147~148頁)なぜ、このような病的行為が生じるのか。ボーヴォワールによると、「自分の肉体に、経血に、大人の性行為に、自分がささげられている男性に、嫌悪をいだく。彼女にいやに思われるすべてのものとなれなれしくすることによって、嫌悪を消そうとするのだ。」さらに、ボーヴォワールは、「若い娘は太腿を剃刀で切り、自分の体を煙草で火傷させ、また、切りつけたり、すりむいたりする。」として自傷行為にすら言及している。(前掲書、148頁)つまり、自分が性に対して抱いている嫌悪以上の嫌悪を経験させ、「自分の処女をうばう突入(pénétration)に対して抗議しているのだ」(前掲書、149頁)。このことを考慮しながら、小説「スカート革命」に戻ると、自分の体内に毒を入れるとは、自分の受け入れがたいものを受け入れるということになる。

「死んでれら、灰をかぶれ」。この小説は、『少女は二度死ぬ』の収録曲「月へ行くつもりじゃなかった」のモチーフを膨らましたものではないかと思われる。少女は地球にいて、パパは月で働いているが、月の先住民であるうさぎに襲撃されようとしている。フィリップ・K・ディックのSF的設定を、さらにチープにしたような舞台設定で始まる。この小説は、「表層」(蓮實重彦の『表層批評宣言』を参照せよ)だけで進行し、背後世界のようなものはない。「表層」だけで進行する『不思議の国のアリス』のようである。「表層」だけなので、パパは熊のプーさんのようになるのではなく、実際に熊に生成変化し、うさぎはアメコミのようではなく、実際にアメコミの画に生成変化する。少女が月に行く方法も、「表層」だけで進行する小説ならではのもので、電車に飛び込むことによってである。「死んでれら、灰をかぶれ」は、終始、二次元の紙の上で進行するポップ文学である。松永天馬は、「表層」だけの物語に、暴露心理学的な毒性のある認識を埋め込む。物語の最後で、この物語自体が造り物で、映画の撮影シーンであることが明らかになる。寺山修司の映画「田園に死す」、アレハンドロ・ホドロフスキーの「ホーリー・マウンテン」のラストのようである。それにより、想像界に亀裂が走り、読者は現実界に放り出される。松永天馬は、次のように結ぶ。「わたしの名前は死んでれら。またの名を、灰かぶり姫。」この言葉は、中沢新一の次のような記述を連想させる。「シンデレラ(Cinderella)という英語も、サンドリオン(Cenderillon)というフランス語も、どちらも灰や煤に関係している。いつもかまどの近くにいて、からだじゅう灰まみれ、煤まみれになっている少女という意味である。」(『女は存在しない』、せりか書房収録「とてつもなく古いもの」196頁)「この少女は「灰尻っ子」という意味の「キュサンドロン」という言い方でも呼ばれています。これはとても下品な意味で、娼婦をののしる時にも「おまえの尻は灰だらけだ」という意味で、このことばが使われます。」(『人類最後の哲学』講談社選書メチエ84頁)中沢は、灰かぶり姫を「人間の世界にいるのに他の人からはよく見えない存在」(『女は存在しない』197頁)と解し、シンデレラは、かまどの近くにして「底無しの暗い死の領域」(同)とつながっているシャーマンの末裔だとする。片方の足の靴が脱げてしまうというエピソードも、一本足で旋回するシャーマンの舞踏から来ているというのである。作者は、シンデレラの語源を踏まえて、少女を暗い死の世界とつながる存在として提示している。

寺山修司少女詩集』ならぬ『松永天馬少女詩集』。語呂合わせや、韻を踏んだ部分があるので、声に出して読むと、またちがった世界が開示されるように思う。死神ならぬ「詩に紙」、「前髪ぱっつんオペラ」を連想させる部分のある「ショートカット」、ジョン・ケージだったら「4分33秒」なので、夢野久作ジョン・ケージではない「少女地獄4’44’’」、ドーナツ盤からCDへ、さらにアイドルブーム時代の少女の歌声に関する考察「幽霊にしか歌えない」、資本主義社会のなかで売買される少女の概念と、生身の血で出来た私の乖離を描く「売秋」、生と死、聖と俗(エリアーデ!)、男性・女性(ゴダール!)を結びつける三途の川を描く「濡れませんように」、資本主義の中で物神崇拝され、交換される少女のイマージュをトリセツ調の文体で描く「その少女、人形につき」。

「実録・あたま山荘事件」。若松孝二監督による映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」をフォーマットにしたプロット展開に、思春期の少女の家庭に潜む心理的問題を流し込んだ快作。この小説では、「山岳ベース事件」が「三角ベース事件」に、「赤軍派」「連合赤軍」が「赤飯派」「連合赤飯」に、「浅間山荘」が「あたま山荘」に、「浅間山荘」に激突させた巨大な「鉄球」が、男性についているものを形象化した「鉄棒」に変換させている。『少女の証明』にも「あたま山荘事件」という曲が収録されているが、唯物論者である革命戦士が、実はあたまでっかちの観念論者であり、そうであるがゆえに、テロリズムの果てに、自己批判による総括と称して内ゲバに至り、自滅していったという皮肉が含まれている。そういう意味で、連合赤軍事件について書かれた笠井潔の『テロルの現象学~観念批判論序説』とも共振性を持っているといえるが、小説の描き方は、ドストエフスキー埴谷雄高武田泰淳椎名麟三大江健三郎笠井潔といった作家のような描き方ではない。要するに求心的で、パラノイアックで、晦渋な懐疑に満ちた描き方ではなく、倉橋由美子の『パルタイ』のような観念的で、フォルムからアプローチする方法である。この小説は、ストーリー上では連合赤軍事件をなぞるように進むが、それに仮託して語られるのは、家庭内の心理過程である。先ほど「赤飯派」と書いたが、初潮、性のめざめ、個我の確立、家庭内でのひきこもり、親子関係、母と娘の共依存といった問題が語られる。作中の情報から「あなた」が母親で、「玲子」であり、「わたし」が娘で、「玲丹」という名前だとわかる。最終段階で、母親の「玲子」が、自分の名前を「玲丹」だという。この部分が、この小説のハイライトである。この母親は自分と娘の区別がついていない。ジュリア・クリステヴァならば、一時的ナルシシズムという形で、母と娘が融合しているというだろう。母と子が自立するには、この融合をおぞましきもの(アブジェクシオン)として棄却し、二人の間に距離が生じなければならない。母のこうした態度に対し、「わたし」の方は「家(あなた)」から出ることを考える。自然に起きるのではなく、意識的に起こすのが革命だとすれば、この判断は革命的である。

続いて「都市」のパートに移る。「病めるアイドル」は、読者参加型の小説である。前衛小説の中には、読者が参加して完成する小説がある。例えば、ミシェル・ビュトールの『心変わり』は、主人公が「あなた」という二人称である。「あなた」である読者が、小説という迷宮に入っていき、この小説は完成する。「病めるアイドル」も、作中の「××××」に、読者自身の名前を入れて読むことで、文学空間が変わる。インターネット社会では、各人が広報手段を持つようになったので、「あなた」もアイドルの要件を満たすようになった。そこで経験するのは、「不在の少女」としてのアイドル……。

都市をテーマにした詩が、この後、続いている。「東京への手紙」、都市を表すのに「絆創膏」「下着」「アクセサリー」という喩えを使っているが、これらの本質的機能は、隠蔽することにあるようだ。都市は死体を隠し、隠したものを廃棄し、虚飾で飾り付ける。今は、全てが商品化され、物象化されている。「Blood,Semen,and Death」、恋することは、時に辛い現実に触れる機会を強いる。これに対比されているのは唯物論者で、魂を信じない唯物論者は傷つかないとされている。「フクシマ、モナムール」、「白い礼服」とは「アクリルバイザー」のついた防御服のことだろう。福島第一原発の事故があって、書かれた詩である。「死者にリボンを」、クリスマスについての考察。

「自撮者たち」。スキャンダラスで超破壊的な問題作。「自撮」と書かせて「じさつ」と読ませるのは、『鬱くしい国』に収録された楽曲「自撮入門」でやっていることだが、「自撮」の背景には、自分を完全なる客体(人形)に変えたいという心理が働いているとして批判をする、それがこの小説の基本的なスタンツだ。アイドル業界(AKB48ならぬ「JST444」(自殺死死死と読める)、AKB劇場ならぬJST劇場が登場する)を題材に、主体であることを止め、人形化された人間をエクスプロイット(開発=利用=搾取)する産業構造を、筒井康隆ばりのスラップスティックによる暴露心理学、舞城王太郎ばりの暴力と疾走、事態を俯瞰的に捉えるメタフィクション(この小説に登場するゴシップ誌は、『ディスコ探偵水曜日』ならぬ『ウェンズデー』である)で、グロテスクに描いている。この小説の世界は、スキャンダル中毒で、暴露合戦と自撮写真のアップロードが過激なほどにデッドヒートしている。「殺影会」と呼ばれるゲーム上で、アイドルたちは戦うが、その際に使用するアプリ(機関銃アプリ、パチンコアプリ『ゆきゆきてKOKYO』……ところで、『ゆきゆきて○○』とは原一男監督による奥崎謙三のドキュメンタリー『ゆきゆきて、神軍』に由来するのではないか。)は、殺戮を快感に変えるようなアシッドとして機能しているように思われる。アイドルたちはスキャンダルを引き起こすと、ペナルティーで膨大な数のペニスを手術で付けられてしまうが(こんな残酷な人体改造の物語をアーバンギャルたちは読んでいるのだろうか)、この設定は膨大な数のファルスで埋め尽くされたソファを創造する草間彌生を連想させる。草間は、セックスへの恐怖を克服するために、あのような創造をしたのだというが、「自撮者たち」で何でもありの世界を疑似体験するのも、

規則で縛られた現代人にとっては、一種のセラピー効果があるかも知れない。

松永天馬詩集・都市篇の後半戦。台風ではなく、諷刺の諷を使った「台諷」。擬人化されたレコードから伺える聴くことへの偏愛。太陽のせいで人を殺した『異邦人』のムルソーが脳裏を掠める。蛇足を加えると、アルベール・カミュの創造したムルソーはmort(死)とsoleil(太陽)から出来ており、その前作の習作『幸福な死』では、mer(海)とsoleil(太陽)に由来するメルソーが主人公である。よこたんの愛猫の名前はsoleilソレイユ。フランス語で太陽の意味。この猫の誕生日が11月1日と私が知っているのは、私の誕生日と一致するからである。続いて「僕は吸血鬼か」。吸血鬼のテーマは、ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』から、日夏耿之介『吸血妖魅考』を経て、種村季弘『吸血鬼幻想』に至る幻想文学の歴史のなかで、禁忌に触れる愛、異端的なエロティシズムを表現する題材として選ばれてきたが、この散文詩においても同様である。ただ、「郵便的な距離」という言葉が指し示すように、この吸血鬼のテーマは、デリダの『絵葉書』以降の、送信されたメッセージは確実に送りたい相手に届き理解されるというロゴスへの信頼が失われた不確実性の世界において、再考される。それは、想いが届くのが不確実であるがゆえに、その絶望が不条理な狂おしいまでの想いとなって溢れるという新たな局面の開示である。都市が主題の詩がならんでいるが、どうしようもなく男であるが故の、或いは表現の探求において、ストイックで妥協を許していないが故の孤独を表現した作品が続いている。「男は僕は俺は」がそうだし、「Tのトランク」もそうだ。寺山修司の『血は立ったまま眠っている』、或いはフランツ・カフカの「なぜ、人間は血のつまったただの袋ではないのだろうか。」といった表現にも、孤独の翳を感じるが、書くことが即自己探求であるような書き手である場合、この孤独は宿命のようなものである。「君について」では、愛は、軽々しく口にして表現するものではないといった主旨の言葉が見られる。詩人の言葉は、時に反時代的である。

続いて、「神」を主題とするパートに移る。「神待ち」。隠れ家レストラン<第七官界>でのカントクと生体サイボーグ製のウェイトレス、そして支配人の対話が中心の物語である。読者は、<第七官界>という言葉から、この物語が尾崎翠の『第七官界彷徨』の系譜に属する少女小説であることに思い至るだろう。カントクは、神様が撮ったこの世界の全情報を映像のかたちで収めたHDを編集しようとしているが、物語の最後まで神様は登場しない。終始、神が問題となっているのに、主役が登場せずに終わる点では、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のようである。物語は、カントクが注文したラーメンに切断された指が入っていたことから始まるが、(切断された指という題材は、その後の「ふぁむふぁたファンタジー」でも使われる。この指には、運命や宿命ということを意識するほどの約束という意味が含まれているように思われる。)物語の後半、カントクの映画のキャステングを決めるオーディションに移っていく。端的に言えば、神様の映画に出る適格者を選ぶのに、飛び降りさせてみるというものだ。キリスト教実存主義者の祖キルケゴールは「私がそのために生きそして死ぬことを願うようなイデーを見い出すことが必要なのだ。」といった。セーレン・キルケゴールの言ったイデーとは、彼の神のことである。信仰者にとって、神は生死を賭すほどの濃縮された意味が込められている。飛び降りによるオーディションは、神と人のそういった関係性を勘定に入れたものなのだろう。そして、飛び降りにも耐えられる<強度(アンタンシテ)>を有する者だけが、神様の映画に出演できる適格者となるのである。勿論、飛び降りにも耐えられる人間などいるはずがない。ここで、この小説の意味合いが変容を遂げる。倉橋由美子に「隊商宿」(『夢のなかの街』)という作品がある。「隊商宿」の最後の方で、神はKに子供を授けようと、サライを身ごもらせる。こうして赤ん坊が生まれるが、神にささげる生贄の家畜がないことがわかると、Kは神から授かった赤ん坊を生贄にしてしまう。この場合、Kは神に対し過剰なまでの帰依を徹底することにおいて、神に叛逆を企てていると言える。「神待ち」に話を戻そう。なぜ、カントクは神様のためのオーディションで、少女たちを飛び降ろさせるのか。それは、怒りの神でもよい、とにかく、この世界に神を出現させたいという願望の現われではないか。被造物である人を連続的に殺すことは、悪である。そうした悪の極致において、神は存在するのだと神自らをして姿を現さざるを得ない状況に追い込むこと。カントクの行為は、神への帰依を衣裳にまとった神への叛逆ではないだろうか。つまり、マルキ・ド・サドの文学が、無神論ではなく、実は反有神論であって、悪徳を謳うことで眠れる神を覚醒させようとする倒錯した試みではないかと評されるように、カントクの行為は倒錯した信仰者のものではないかと思われるのである。なお、この物語は、そうしたメタフィジカルな物語とともに、映画業界のスターシステムの権力構造と、資本主義の中での消費財としての芸能人を追求するオブジェクトレベルの話が進行するように出来ている。カントクとは、映画業界における帝国主義的権力者であり、飛び降りをして死ぬとは、映画業界から使い捨ての消費財と見做されることを意味する。勿論、時代を超えたスターになる道はあるが、それは稀有な奇蹟であり、飛び降りても死なないような<強度(アンタンシテ)>を持つ者だけが、不死鳥として時代が変わっても記憶される人間になるというものだ。

再び、松永天馬詩集、神篇。映画の世界を語り、自身の世界(ゴダールを初めとするヌーヴェル・バーグに詳しいシネフィル?)を開示する「夢精映画」、「人間は神様のコスプレ」と語り、資本主義的消費社会の中で生き、やがて土に還っていく孤独を明らかにする「Costume P”r”ay」、人間の不完全さを語る「点点天使」、私と私でないものの境界線を思考する「肌色の夢」、自身の内に既に死が用意されていると語る「墓場にくちづけ」、神様がめくる頁として、この世界の時間の流れを捉える「めくら ないで」、詩集は悪魔の書であるべきだとする「実用詩」を収録。

「モデル」。資本主義社会の、広告代理店が幅を利かす世界での聖と俗を描く。まこと(まこちゃんと呼ばれている)は、モデルである。しかし、何が流行するかは、神様が筋書きを書いている。まことのブログの文章も、神様が書いている。まことは、造られたモデル=虚像である。この小説世界では、枕営業が常態化しているようである。まことは、広告代理店Dと、そういう関係を持っている。広告代理店DはCMをつくるが、Dの夢は映画をつくることにある。或いは、映画の話で、まことを釣ろうとしているといえる。Dは「下着はラッピングだ」などと、上野千鶴子フェミニスト理論家。マルクス主義フェミニズムを標榜。)の『スカートの下の劇場』のような事を言う。このことは、一時期、上野を含むニューアカデミズム、若しくはポストモダニズムが、資本主義的消費社会と共犯関係にあったことを示している。Dは生理鎮痛剤のCMを撮ったとされ、本当は血を流させたかったと言っているが、このことは暗に、アーバンギャルドの『セーラー服を脱がないで』PVはTVでは流せないということを示している。Dは、まことに対し、業界の仕組みをつくったフィクサーである神様に会ってほしいと懇願する。自身が映画を撮るために、神様に枕営業をせよというのだ。だが、まことが会った神様は、そういう存在ではなかった。この神様は、人としての身体を持っていない可能性がある。神様は自身を不確かな存在で、女性の肌に触れることができず、天から見ており、音だけの存在だとしている。この神様が、ほんものの神様か、かつてフィクサーであったものが、この世を去る時に悟り、下界を解脱し、コンピーターの中のAIに置き換えられたのか、この小説からはわからない。物語の最後に、神様の声は社長の声になるが、これがリアルな現実か、まことの観た夢か、判別がつかない。肝心なことは、まことのモデルとしての醒めた視点、一種諦観のような悟りが、この神様との意見の一致をもたらしたということ。その認識は、自分がモデルとしての肩書しか持っておらず、誰かの夢になろうとしていること、服を脱げば、人々の持っているまこちゃん像は消失するということである。まことの語る境地は、アーバンギャルドの「ノンフィクションソング」で「君の夢」と言っていることと一致する。まことは立ち上がり、歩き始める。広告のない世界へ、言葉から遠く離れて。ルプレザンタシオン(再-現前化。 表象=代理。)のない世界へ。

最後、「墓碑」のテーマに移り、『夜想#アーバンギャルド』に初出掲載された「文字で書かれたR.I.P.スティック、或いは少女Y」が収められている。資本主義のもたらした高度情報化社会のなかで、実体とは無縁の「少女」のイマージュが増殖している。このイマージュは、資本主義の利潤追求のために利用されてきたとおぼしいが、この幻想によって実在としての少女ははなはだ生きにくい状態に置かれている。そのため、幻想の外側に連れ出すことが重要だという認識が、この作品に要領よくまとまっている。『自撮者たち』全体のコンセプトを明らかにするために、ここに置かれたのだと思う。

YouTube Brats「十四歳病」https://youtu.be/WvA6kctcdA4?list=PLRjl5pD07wEnDpqT1qgv-ZBYswF3s4mW3

2015年11月21日アップロード

Brats(ブラッツ)は、黒宮れいLADYBABY ミスiD2015、vo&gt)、黒宮あや(姉、アリスエイジ専属モデル、ba)、ひより(gt)による中学生バンド。「十四歳病」は、映画祭"MOOSIC LAB 2015"に出品されたターボ向後監督作品"DREAM MACINE"の挿入歌で、「十四歳病」のMVもターボ向後が制作している。「十四歳病」は、子どもから大人に変貌する危険な年齢である(そうであるがゆえに、生と死がせめぎ合っている)十四歳の黒宮れいに焦点に合わせ、十四歳の黒宮れいに熱病に取り憑かれたように引き寄せられるあなた(それは、アイドルに対するファンの反応でもある)との関係性を描いている。どうも、松永天馬がアーバンギャルド以外のために作詞するとき、提供する相手を見て、詩のなかに取り入れているようである(つまり、黒宮れいは十四歳であり、上坂すみれは下の名前を取って「すみれコード」であり、たんきゅんデモクラシーは思春期であるというように)。その事によって、歌い手は、提供された曲を自分の曲として、自分のことを歌うようになる。黒宮れいは、アーバンギャルドの「平成死亡遊戯」のMVにも出演している。

◆CDアルバム『昭和九十年』(初回限定盤FAMC-208/通常盤FAMC-209KADOKAWA)2015年12月9日リリース

 『昭和九十年』は、アーバンギャルド初のコンセプチュアル・アルバム。平成二十七年(2015年)のパラレル・ワールドである「昭和九十年」を措定し、戦時下で、言論統制が行われ、人々の自由恋愛が禁止されている状況を描き、「言葉を殺すな」、そして戦争に抗するために、自由であれ、恋せよ、と説く。しかしながら、架空であるはずの「昭和九十年」と、現実の「平成二十七年」の関係は、複雑に関連しており、『昭和九十年』は「平成二十七年」の問題点を浮き彫りにする内容となっている。この関係性は、ジャン=リュック・ゴダールの映画『アルファヴィル』を想起させる。ゴダールの『アルファヴィル』は、未来の全体主義都市を描いたSF映画だが、セットは使わず、1960年代の現実のパリを撮影している。アーバンギャルドの『昭和九十年』も、架空の「昭和九十年」の話をしているふりをして、実は今、ここを問題としている。私たちは、戦時下におかれており(集団的自衛権を認める安保法制の整備、ISによるテロリズム、日本近海での軍事的緊張等。)、言論統制の動き(特定秘密保護法、報道の自粛、表現の自由に対する自主規制等)も出てきている。「昭和九十年」は、現代の矛盾を撃つための批評装置なのである。

『昭和九十年』では、架空の昭和を捏造するために、昭和に流行った曲調を意図的に取り入れている。「くちびるデモクラシー」は軍歌調の節回し(同期の桜)、「シンジュク・モナムール」は歌劇団風の歌唱、あるいは演歌調の節回し、「箱男に訊け」は数え歌調の節回し(圭子の夢は夜開く)、「あいこん哀歌」は童謡調の節回し(リンゴの唄)、「ゾンビパウダー」はビッグバンドによるジャズの曲調を連想させる。

「くちびるデモクラシー」は、『昭和九十年』のコンセプトを明らかにする重要な曲である。この世界が、すでに戦時下にあり、戦争を推進するために全体主義的な言論統制が進行中である。したがって、戦争に反対するためには、言葉を殺さない事、表現の自由を守る事、自由恋愛をする事が重要となる。しかしながら、人々は液晶の画面ばかり見つめていて、この現実に気づかずにいる。なぜ、「くちびる」と「デモクラシー(民主主義)」が結びつくのか。言葉を発するのは「くちびる」であり、キスをするのも「くちびる」だからである。「デモクラシー」を支えるものは、自由にものが言えることであり、好きなものを好きと言えることだからである。

「くちびるデモクラシー」を、精神分析学や記号分析学の観点から考えてみよう。ジークムント・フロイト精神分析で言う「口唇期」を意識して、「くちびる」を入れたという仮説である。フロイトによると、人間は口唇期→肛門期→性器期の順で精神的に発達する。「口唇期」は、このうち、母親との関係性が主客の分離が出来ておらず、ナルシスティックに一体化されている段階と考えられる。ここで、ジュリア・クリステヴァの議論を想起しよう。この世界は、ル・サンボリックという象徴秩序で規定されている。法律だとか、政治だとかは、ル・サンボリックのレベルの出来事である。戦争時、ル・サンボリックのレベルで、全体主義的なこわばりが生じている。ル・サンボリックが抑圧しているのは、ル・セミオティックである。ル・サンボリックは、象徴に由来した造語であり、ル・セミオティックは、セミオロジー記号論)の記号に由来した造語である。クリステヴァのこれらの造語は、フロイト派であるジャック・ラカン精神分析とリンクしている。ラカンによると、人間の精神は、象徴界想像界現実界の三層構造になっている。このうち、人間は、現実界にはアクセスできない。人間の根源にあるイドは壊れていて、欲望はあるが、方向性が定まっていない。これを欲動と呼ぶ。人は、多型倒錯の欲動の海に翻弄される想像界の住人であり、リアルな実在(現実界)を知ることができない。欲動の方向性を定めるのは、文化(象徴界)による恣意的強制である。恣意的ということは、現実界に立脚した必然性を持たないということである。記号の秩序は、フェルディナン・ド・ソシュールによれば、恣意性・差異性・共時性である。われわれが世界で出会う事象は、われわれの頭の中で記号として処理されるが、その際、記号のシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の関係は恣意的で、このシニフィエは、シニフィアンシニフィアンの差異によって決まってくるが、その文化において認められた記号の体系は、その共同体を生きるものには必然として強制されているのである。クリステヴァのいうル・サンボリックは、ラカンのいう象徴界フロイトのいうスーバーエゴ(超自我)とリンクしており、ル・セミオティックは、ラカンのいう想像界フロイトのいうイドもしくはエスとリンクしている。ル・セミオティックの働きは、「くちびる」が記号を産出することとつながっている。ル・セミオティックが、ことばを紡ぎ出す、その記号産出に、ル・サンボリックの秩序を覆す詩的言語の革命の可能性がある。つまり、「くちびるデモクラシー」は、「くちびる」がことばを産出するという原初的な段階に、一旦遡行し、そこから世界を革命するという事を指していると解釈できる。

 「ラブレター燃ゆ」は、鮮烈なラブソングである。歌詞中に、戦争のメタファーが多く使われている。戦争というボリティカルなことと、恋というリビディナルなことが交錯し、言葉が武器化している。ポリティカルなことと欲動を関連づけて考える思考としては、ジャン=フランソワ・リオタールの『エコノミー・リビディナル(邦訳 リビドー経済)』や、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』などがあるが、ポップ・ミュージックにおいて、このような試みを意図的に行うのは、あまりないのではないか。また、このラブソングは手紙(レター)に着目して、その手紙が燃えたり、紙ヒコーキになったりして、届けたい相手に届かないという誤配可能性、或いは遅配可能性に拘っているが、これは確実に東浩紀の『存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』および『郵便的不安たち(文庫版では再編集により、タイトルに#が付けられている)』を意識している。或いは、東の本のネタ元であるジャック・デリダの『絵葉書』に依拠している。実は、『絵葉書』でデリダは、リビドーの伝達の問題、メッセージの誤配可能性・遅配可能性について思考しているのである。「ラブレター燃ゆ」は、戦時下という危機的状況下で、逆説的に燃え上がる純愛を描くのと同時に、メッセージは確実に相手に届き、他者と解り合えるという甘い幻想への不信を表明した歌なのである。にもかかわらず、この歌の主人公は、神様に頼る事すら捨て、私自身が戦火の中で燃えても、あなたへの想いを貫いたならば、言葉だけになり(それは純粋な思念体になることと考えて良い)あなたに届くのではないかと考える。ここにおいて、主人公はデリダ的な決定不可能性を、障壁を乗り越える愛の思念で軽々と突破するのである。

ところで、「ラブレター燃ゆ」と、「コインロッカーベイビーズ」では、神様がいないのではないかという歌詞が見られるが、神学を学んだ天馬さんは何を考えて、この歌詞を書いたのだろう。或いは、これらの曲を演奏する神父の父を持つ瀬々さんは、どう考えているのだろう。とついつい考えてしまう。ここでは、シモーヌ・ヴェイユ(哲学者・キリスト教神秘主義者・赤い処女と呼ばれる)の「不在の神」、存在しない神に祈る事である、という解釈をしておこう。

「コインロッカーベイビーズ」については『少女KAITAI』の項で触れたので、ここでは述べない。

 「シンジュク・モナムール」。四月、新宿、失恋、死ぬ……「し」から始まる言葉を連ね、韻を踏みながら、舞台の上で「少女」を演ずる女性の世界に入っていく。死の決意、ショウの終わり(カーテンコール)、春を売る事というネガティヴなことから、世界という舞台に立つ「少女」が、危うい精神的状況であることがわかる。「シンジュク・モナムール」は、アラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本の映画「ヒロシマ・モナムール」に依拠している(この映画は、広島に反戦映画のロケに来たフランス人の女優が、日本人男性と深い仲になり、外国人の他者が果たして広島の原爆を知ることができるかという認識の問題に直面するという心理主義映画である)。また、1968年の東大駒場祭の際に、橋本治が書いたポスターのコピー「とめてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている」のもじりと思われる歌詞が含まれている。「ヒロシマ・モナムール」や橋本治のコピーは、現在の文化からは喪われているが、多事争論を口にできる時代への憧憬があっての作品世界への導入ではないか。この世界を生きる「少女」を、まるで唐十郎の紅テントか、寺山修司天井桟敷の女優であるかのように見立てて、この歌の世界が語られる。「少女」へのメッセージは、生きているうちが花で、死んだらそれまでという事である。これが森崎東監督、倍賞美津子主演の映画「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」と関係があるかどうかはわからない(この映画では、原発シプシーとじゃばゆきさんが出てくるが、「ガイガーカウンターの夜」とか「u星より愛をこめて」ではないので、直接の関係はない。しかしながら、「ヒロシマ・モナムール」で原爆、「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」で原発ということは、「原爆の恋」を知る私たちからすると、意図的に連想させるようにセットされた言葉ではないか、と思わずにいられない。)。

 「詩人狩り」。このタイトルは、川又千秋のSF『幻詩狩り』を意識したものだろう。『幻詩狩り』は、シュルレアリスムに近い内宇宙を描いたニューウエーヴSFであると分類してもよいだろう(作中に、アンドレ・ブルトンその人が登場する)。また、狩られるのが詩人ということで、ギョーム・アポリネールの『虐殺された詩人』も連想される。なぜ、詩人が狩られるのか。ミシェル・フーコーは「狂気と社会」(『哲学の舞台朝日出版社)68頁で「<狂人>が登場するのは…(中略)…社会の周辺部においてである。しかもそこには、このようなはみ出した<周辺的存在>を規定する四つの大きな<排除のシステム>が常に認められるのである。」とし、「(一)労働あるいは生産関係との関わりで生じる排除、(二)社会の構成員の再生産過程としての家族との関係における排除、(三)言葉、つまり象徴の生産とその流通との関係における排除、(四)遊戯(jeu)との関係における排除」の四つがあると言っている。フーコーのカテゴリーでは、詩人が(三)に入ることは明確であろう。すなわち、全体主義のような閉じた社会では、一般人とは異なる詩人は排除されやすいのである。そのことを踏まえながら、引き続き歌詞を読み解いていこう。『血は立ったまま眠っている』は、寺山修司の戯曲。(ここまで挙げた作品は、いずれもシュルレアリスムの近傍に位置する作品である。)『消しゴム』はアラン・ロブ=グリエのヌーヴォーロマン。『死体を探せ!』は、養老孟子門下の美術評論家、布施英利の評論である。「詩人狩り」は、詩人を狩るところから始まり、殺される詩人にアイデンティファイするところで終わる。安部公房『燃えつきた地図』は、失踪者を追跡する探偵が、やがて記憶を失い、自ら失踪者と化していくが、この「詩人狩り」では詩人を狩る者が、自ら虐殺される詩人となっていく。この歌詞の意味は「仏に逢うては仏を殺せ」と同じで、詩人になるためには、詩人を殺せということだろう。殺せというのは、勿論比喩で、先行者を乗り越えることを指している。そのためには、既成概念を解体し、自ら考えることが必要である。「詩人狩り」は、詩人になる過程、詩人への生成変化を歌った曲ではないだろうか。

 「箱男に訊け」は、病者の光学に基づいて行われた犯罪心理学的な考察を、そのまま歌にしたものである。タイトルは、安部公房の『箱男』を意識したものだろう。「箱男」とは、箱のような閉鎖空間に閉じこもること、ひきこもることを意味し、外部を遮断し、妄想にふけるということを指している。こうした主人公の祖型は、ドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公まで遡ることができる。「少年A」は、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)の犯人であり、「ビデオテーブの壁」は、中森明夫大塚英志が論じた『Mの世代』の犯人Mであり、「キツネ目の男」「どくいり・きけんの男」はグリコ・森永事件の犯人であり、「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」というアンディ・ウォーホルの言葉が続く。「圭子の夢は夜ひらく」のような年齢数え歌の部分があるが、これはアルバム名が『昭和九十年』なので、昭和のイメージを喚起するためだろう。「箱男に訊け」は、箱を被ったような、要するに自分だけの世界に引きこもった人間への批判であり、箱の中で承認願望を募らせているから、劇場犯罪型の犯罪者になるのだ、ということである。「くちびるデモクラシー」では、液晶ばかり覗いていて、戦争に巻き込まれていることすら気づかない人間への批判が行われ、「コインロッカーベイビーズ」ではコンピュータの世界の外に出て、具体的な恋愛をしないと、子どもができないと歌われ、「箱男に訊け」では閉じた世界に引きこもっていると、犯罪者に変貌してしまうと説く。いずれも、外へ出よ、ということであり、この原型は「アニメーションソング」のうちに、すでに用意されていたと考えることができる。

 コリン・ウィルソンの『殺人の哲学』では、初期の殺人は「ジンの時代」、すなわち飲酒による暴力沙汰が原因の殺人が多かった。或いは『コリン・ウィルソンの殺人ライブラリー』で言うと痴情のもつれに端を発するような「情熱の殺人」が多かった。しかしながら、時代の変遷とともに、金銭や怨恨といった動機が見いだせない無動機の無差別殺人、猟奇的な快楽殺人が浮上してくる。快楽殺人者の特徴は、連続殺人者(シリアル・キラー)に発展しやすい事にある。このように、犯罪にも時代の刻印がある。「箱男に訊け」は、現代の犯罪者は箱男だとする。言い換えれば、世界が極端に狭く、閉じた世界のなかにいて、外部とのコミュニケーションが断たれているということである。この観点は、21世紀の犯罪の特徴を見事に言い当てているように思える。

「昭和九十年十二月」。「R.I.P.スティック」の6分44秒を超え、9分15秒と現時点で最長の大作。アルバム『昭和九十年』の設定を明らかになる核心となる曲。僕の妹が死に、僕の姉さんが死に、僕の母さんが死に、僕の恋人が死ぬという異常な状況。次第に明らかになるのは、街が空襲で死に絶えた事。この『昭和九十年』が発表された「昭和二十七年」は、集団的自衛権が議論され、自国が攻撃されなくとも、同盟国が攻撃された場合、たとえ地球の裏側であっても、敵の本拠地を攻撃できるというもので、日本国憲法第9条の戦争放棄条項の改正を経ずに、安保関連法案を通すことで、集団的自衛権の発動ができる国になった年であった。この年の12月、アーバンギャルドは「昭和九十年十二月」を含む『昭和九十年』を発表した。「昭和二十七年」のパラレル・ワールドである『昭和九十年』では、日本は戦争の渦中にあり、アルバム発表時、アーバンギャルドは国会議事堂が戦火で崩れ落ちるというビジュアルを公開した。それは、薄い皮膜を隔てた、いつ移行してもおかしくない、あり得るかも知れない可能世界であった。安保関連法案を通したという事は、日本が『昭和九十年』のようになるという事を許容したという事だと言っているようだ。この曲のなかで、アーバンギャルドは死んだ女性たちに呼びかけ、生きかえらせようと試みる。死者に呼びかけ、再度、立ち上げさせる行為は、現状に対する抵抗であり、運命に抗しようとする荒々しい力技である。

「あいこん哀歌」。並木路子の「リンゴの唄」(作詞:サトウハチロー)を連想させるような歌詞から始まるが、「昭和」の雰囲気を出すためだろう。私と貴方は、LINEで繋がっているようである。インターネットを通して、貴方のアイコンを見ているだけなので、「愛している」と言いにくいような関係性である。その貴方との繋がりが断ち切られる。「漣(さざなみ)」が貴方を奪ったということなので、貴方の命は海に奪われたのだろう。一番可能性があるのは、東日本大震災津波による死である。ここに来て、ネット上のアイコンが、哀魂に変貌する。貴方は海の底で、貝殻やヒトデとともに眠っている。私と貴方とのコミュニケーションは、悲痛な不通に終わる。これもまた、メッセージの誤配可能性のひとつの結果である。こうして、アイコンから始まり、哀魂を経て、愛婚となる。身体は喪っても、純粋思念のうちに、二人は結ばれるのである。

「ゾンビパウダー」。歌詞中に「脱法」「合法」とあることから、今では違法の危険ドラッグのことだろう。ゾンビパウダーの源義は、ヴードゥー教を信奉する西アフリカ等で使用された毒物である。共同体の嫌われ者や掟を破った者に振りかけられ、意図的に仮死状態にして、自発的に思考のできない奴隷(ゾンビ)に加工してしまい、死に至るまで強制労働させる。勿論、ゾンビに至る過程で、死亡することもある。ゾンビ・ハウダーにはテトロドトキシンが含まれていると言われるが、定かではなく、毒性物質の組成方法もわかっていない。これは、中身の知れない危険ドラッグと同じである。最終パートで、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を連想させる歌詞が出てくる。これは、集団心理による思考停止であり、同調圧力である。薬物依存だけでなく、同調圧力や、逸脱者の排除の心理なども関係しているという洞察が、この歌詞から読み取れる。

「平成死亡遊戯」。インターネットで繋ごうとしている「あちら」とは、冥界のことである。というか、ここで描かれている冥界は、電脳世界の性質を兼ね備えていて、まるでアニメ「serial experiments lain」に出てくるワイヤードWiredのようである。接続方法として、ADSLISDNテレホーダイが挙げられているのは、「あの娘」がいるのは、一昔前の電脳世界だからである。歌詞を追うと、「あの娘」はホームページを持っていたが、本人の死により更新が途絶えていることがわかる。状況証拠からして「あの娘」とは、南条あやのことではないか、と思われてくる。南条あやは、メンヘラ系のネットアイドルのハンドル・ネームで、「南条あや保護室」というホームページを運営していたが、向精神薬の大量服用により、日頃の自傷行為が原因で心臓にダメージがあったことと相まって、18歳の若さで急逝した。死後刊行された著作として『卒業式まで死にません』がある。この曲では、今は亡き南条あやと思われる人物と心の中で対話しながら、二十世紀を振り返り、二十一世紀を生きる意味を問いかけるという仕掛けになっている。二十世紀、(阪神・淡路、或いは東日本等の)地震が起きたり、地下鉄サリン事件が起きたり(地下鉄で人が倒れる、或いはビニール袋に傘で穴を開けるというのは、地下鉄サリン事件を指している)、戦争が起こったりした。「透明な存在」というのは、少年Aの酒鬼薔薇聖斗としての反抗声明に含まれていた言葉である。淡々と、二十世紀を振り返りながら、今は平成なのか、昭和なのか、と問い、今は戦後なのか、それとも戦前なのかと問う。リアルワールドとワイアードの世界の境界線が、或いは生と死の境界線が揺らぎ始める。この歌の主人公は、二十一世紀が本当に来るとは思わなかったと南条あやに語り、自分らしく生きることを約束する。「平成死亡遊戯」は、ブルース・リーの「死亡遊戯」を連想させるが、平成を生きる「少女」にとって、日々の暮らしは、生のための戦いの場でもあることを指している。

アルバムに収録された「平成死亡遊戯」には、吉田豪による、あの(ゆるめるモ!)、伊藤麻希LinQ)、はのはなよ、白石さくらへのインタビューがノイズのように挿入されている。タワーレコード購入特典『URBANGARDE MABOROSHINO SHOWA90』に収録された「平成死亡遊戯」には、これら「病めるアイドル」の声は入っていない。「平成死亡遊戯」は、都市のノイズがフラグメントのように挿入されても、その世界観が崩壊することがない、最初からフラクタルな構造をしているからである。

かつて『たのしい前衛』第二号掲載の「前衛都市のメタフィジカ」(2)で書いたことだが、日本では年間三万人の自殺者が出るという。この自殺者の規模は、一見、平和な日常生活の中に、戦争と同じく、生命をないがしろにするニヒリズムの病理が、潜んでいることを示している。この病理の背景には、経済的な理由(プレカリアートと呼ばれる不安定な雇用形態の増加等)や、スクールカーストといじめといった教育に関係する原因など、複数の原因があると考えられる。「くちびるデモクラシー」で、戦争と全体主義的統制社会への不安を表明したアーバンギャルドが、