『精神(Geistes)の政治学』

(1)権力と理性の共犯関係

テオドール・アドルノとM・ホルクハイマーは、ナチスの政権掌握とともに、アメリカ・カルフォルニア州に亡命し、共同執筆と形で『啓蒙の弁証法』(岩波書店、<セレクション21>、徳永恂訳)を書いた。そこでは、啓蒙は神話から脱却し、自然支配を図る操作的態度と捉えられており、社会の政治・経済・宗教的領域における自由と解放を促すものとして評価されている。啓蒙とは、文字どおり「明るくすること」を語源とするだけに、それは当然のことだが、その進歩によって人間の野蛮さが消失するのではなく、逆説的に啓蒙による理智の増大化が、野蛮さの増大を招いてしまうと主張する点が重要である。
啓蒙の弁証法』によれば、「文明の歴史とは、供犠の内面化の歴史である。」とされ、近代人の理性の中に、サクリフィスの原理が組み込まれていることを暴露する。近代理性は、自立的=自律的なものから、道具的なものに変質し、理性もまた権力の機能の一部を担うものに転化している。そのため、全員一致で一人を殺すという供犠の仕掛け(その仕掛けの分析には、ルネ・ジラールの一連の仕事、例えば『身代わりの山羊』(法政大学出版会)が詳しい。)に、正当化の言葉を与える場合もある。また、理性は外的自然の支配に留まらず、人間の内部をも支配・管理するに至り、人間の自我は理性によって支配・管理・対象化しようとする自我と、支配・管理・対象化される具体的・経験的自我とに分裂し、最終的には、自分自身による自分自身の道具化へと行き着くに至る。理性による世界の支配は、市民社会による資本制(資本主義社会は厳密に言えば、主義ではなく、制度である。)において交換原理という形で浸透し、定着した。交換原理とは、一切を一元的な量的価値である貨幣に還元することによって、等価のモノ(単にマテリアルな物だけでなく、記号的な意味を付与されているため、ここではモノと表記する。)を交換ならしめる原理であり、交換原理は人間をも巻き込み、交換可能な人間、すなわち物象化された人間を生み出してゆくことに繋がる。近代市民社会の内部を貫徹するのは、同一性の価値観であり、質的差異を包含するのを許さない。質的差異を有するモノは、社会システムの第三項排除効果(供犠の原理を拡張し、資本制社会をも貫徹する第三項排除効果の原理として把握する学説については、今村仁司の『排除の構造』(ちくま学芸文庫)を参照されたい。)により排除される。質的差異を持つモノは、貨幣という量的差異に変換されることで、いわば毒を薄められるかたちで、社会システムの内部にエクスプロイット(開発=利用=搾取)される。この質的差異をなし崩しにしてゆくエクスプロイットの原理を、浅田彰は<クラインの壷>モデルで表現した。(浅田彰『構造と力~記号論をこえて』(勁草書房)参照。)

アドルノとホルクハイマーが抵抗しようとした従来の啓蒙観とは何か。啓蒙とは、イヌマエル・カントに従えば「人間が自らにその責任がある未成熟状態から脱却することである。未成熟とは他人の指導なしに自分の悟性を用いることのできない無能力である。」と規定される(『啓蒙とは何か』(岩波文庫)参照。)啓蒙とは、既成の社会的制度や慣習に対して、理性による批判の光を当てることであり、それによってホモ・サピエンスとして自律的=自立的に考え、行動できると考えられたのである。このような近代啓蒙主義は、生産主義的思考様式と手を携え、今日の科学の進歩と物質的繁栄を実現させるための進歩的イデオロギーとして機能してきた。生産主義的理性の信奉者からすれば、人間の持つ野蛮な側面は、何よりも無知が原因であり、啓蒙によって理性的な考え方が主流を占めるようになれば、野蛮ではなくなるだろう、ということになる。人々が労働を尊び、豊かな生活を築き、教育制度を万全なものにすれば、人間を苦しめてきた様々な問題(貧困・犯罪・戦争・病苦…)は、すべて消失し、明るい未来が待っているというのが、近代啓蒙主義と生産主義を支持する大多数の人々の考え方なのである。
アドルノとホルクハイマーは、ナチズムとファシズムの問題に直面し、これらを啓蒙の未完成段階におけるアクシデントにすることも、啓蒙の一時的錯誤とすることも拒否して、理性による人類の無限の進歩というイデオロギーに疑問符を投げかけたのである。理性の否定を唱えているわけではない。理性の中に、権力と共犯関係を持つ「同一性」の哲学が含まれていることが問題なのである。「同一性」の哲学は、共同体から差異=多様性を駆逐する。「同一性」の哲学は、突き詰めていえば全体主義の方向と矛盾しない。ここで、重要なのは、理性の体系、すなわち「同一性」の哲学を、他ならぬ理性の論理を突き詰め、形式化を徹底することによって(これは「形式化の諸問題」の頃の柄谷行人の主題でもある。)、理性の体系を内部から自己崩壊させること、それも単なる体系の破壊(ディストラクション)ではなく、その中から開かれた「差異性」の反哲学を救い出すことである。ここで、私はアドルノとホルクハイマーの議論を、彼らのフランクフルト学派の後継者であるハーバーマスの方でなく(ハーバーマスの議論は、共同体と対話による理性への信頼に支えられており、明らかなアドルノとホルクハイマーの議論の水準からの後退である。東浩紀風に言えば、それは自分の出した郵便物が確実に相手に届くという根拠のない信仰に基づいた議論である。)、ジャック・デリダ脱構築(ディコンストラクション)の考え方とその政治的実践版であるドゥルーズ=ガタリノマドジー的戦争機械に繋げてゆくことで、解決の糸口を探りたいのだが、議論を急がずに、心理学者フランクルの言葉をもとに、もう少しナチズムについて考えてみることにしよう。
心理学者ヴィクトール・フランクルは、ナチスによる強制収容所の体験記録『夜と霧~ドイツ強制収容所の体験記録』(みすず書房、霜山徳爾訳)の著者として、またロゴテラピーという実存分析療法を始めたことで知られる人物である。彼は『精神医学的人間像』(みすず書房宮本忠雄小田晋訳、45頁)の中で、次のように発言している。「アウシュビッツも、トレブリンカも、そしてマイダネックも、根本的にはベルリンの閣僚たちによって準備されたものではなく、まえもってニヒリスティクな科学者や哲学者の机の上や講堂のなかで準備されていたのです。」と。(参考:アラン・レネ監督作品『夜と霧』、北壮夫『夜と霧の隅で』)
これは何を言いたいのかというと、ナチスユダヤ人の大量虐殺を実行したのは、人間は血と土、要するに遺伝と環境で決まるという間違った考え方があったからだ、ということである。このように、人間を遺伝と環境の産物に過ぎないとか、条件反射のロボットに過ぎないとか、性的衝動を持った機械に過ぎないとか、あるいは経済的生産関係で全部決まってしまう存在に過ぎないとか、人間を抽象化・卑小化して「~に過ぎないもの」として理解することを、フランクルゲーテの『ファウスト』(岩波文庫他)のホムンクリスから取った造語ホムンクリスムス(人造人間合成術)=本質主義として批判する。フランクルの立場は、人間は主体的に自分自身を決定するという実存主義的立場であり、自己の内部でロゴスを開示させることによって、自己の本来性に目覚めさせ、実存的コンプレックス(自己実現を達成していないという不満)から来る神経症から患者を解放しようとしたのである。

 

(2)ハイデッガーの罪

だからといって、実存主義者と呼ばれた人のすべてが、反全体主義・反国家社会主義だったわけではない。カール・ヤスパースは一生涯リベラリストだったし、サルトルはその晩年マオ派のピエール・ヴィクトールと共同作業することになった(参考:シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『別れの儀式人文書院)のだが、一方、マルティン・ハイデッガーは、明らかに生粋のナチ、ファシストだった。ヴィクトル・ファリアスの『ハイデッガーとナチズム』(名古屋大学出版会、山本尤訳、118頁)というスキャンダラスな本を紐解けば、ハイデッガー国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)に入党したのが、1933年5月1日で、党員番号が3125894(バーデン地区)、1945年まで党員だった事実が分かるだろう。問題は時代と状況から仕方なくではなく、彼の哲学体系の深いところで結びついていたということである。
ハイデッガー自身は、自分の哲学を実存主義哲学ではないと考えていた。それゆえに『実存主義ヒューマニズムである』(人文書院)というジャン=ポール・サルトルに対して、『ヒューマニズムとはなにか』(角川文庫・ちくま学芸文庫)で反駁せねばならなかったのである。ハイデッガーの主著『存在と時間』(岩波文庫、桑木務訳)(中央公論社<中公バックス>原佑訳)(ちくま学芸文庫)は、あくまで基礎的存在論の構築が目的で執筆されたのであって、現存在(ダーザイン)の分析はそのための方法的手段に過ぎなかったのである。
ハイデッガーの抱えていた問いは、<存在スル>とは何を意味するかということであった。彼のテクニカル タームでは、存在者と存在(ザイン)が区別されており、存在者の中には現存在(すなわち私たち)や道具的存在など、すべての存在するものが含まれているコンセプトであるが、存在は存在者を存在者として存在せしめるもののことを示す。要するに、ハイデッガーサルトルによって無神論実存主義者に分類されたけれども、実は<存在>という哲学用語で、存在者の超越的根拠を、その体系の中に残していたのである。
ところで、存在は存在者とは異なり、己を秘匿し、隠蔽する性格があるので、存在について漠然としながらも了解している存在者、すなわち現存在=人間を取り上げ、現象学的分析にかけるというのが、ハイデッガーの選んだ方法である。その結果、現存在は世界内存在として世界に投げ込まれて存在しているという性格や、道具的存在や事物的存在との差異が明らかにされるとともに、現存在が他者とのかかわりのなかで、いつしか他者の支配に委ねられ、自己の本来性を忘れて世人(ダス・マン)に頽落する可能性が説かれる。ここで重要なのが、普段現存在は空談や好奇心にうつつを抜かして、自己の本来性を喪失し、他人と交換可能な誰でもいい誰かに陥っているが、自分が死なねばならないという限界意識と決意性に覚醒すると、自己の本来性に立ち返ると指摘していることである。すなわち、ハイデッガーは、存在とは何かという究極的な問いに答えるために、絶えず自分から危機を招き寄せ、張り詰めた空気の中で、極限の自由を感じなければならないということである。(ここで連想するのは三島由紀夫のケースである。彼は被虐性に快感を覚える聖セバスチャン・コンプレックスと男色嗜好を持っており、その自我は自分の生まれた光景を覚えているというほど虚偽で塗り固められた模造であり、世間体を守るために仮面をつけ偽装する狡猾さも備えていた。特攻隊に遅れてきた彼は空虚な自我を確信に変えるために、政治の場をパフォーマンスの場として利用し、嘘を真実だと自分に言い聞かせるべく自決を行うのである。)ハイデッガーは<死は最も高次な法廷である>とするが、それこそハイデッガーをナチの突撃隊SSに心理的に接近させている確信でもあるのだ。ヒットラーもまた自己拡大に取り憑かれていた。トゥーレ協会や地政学者ハウスホッファーの影響で、黒魔術にふけり、やがて黒魔術と占星術の知識を独占するためにオカルティストの禁圧に走るのである。ある意味でナチの中でもよりナチであったハイデッガーは、ナチスの不徹底ぶりのために党員を辞めた戦後も、ドイツの深い森の中で、アメリカナイズされ、故郷=存在を喪失した文化を断罪するのである。(『形而上学入門』(平凡社ライブラリー)参照。)
ハイデッガーの存在概念は、ドイツ文化の伝統への回帰という指向と、故郷への土着
性重視という側面を持っており、大地への属領化が彼を反動的にしたのである。ハイデッガーの哲学が、ナチズムに帰結したのは、必然と言わなければならない。今、必要なことは、資本制の自己解体システムより早く、かつファシズムを回避して未来を切り開くか、(この点で美学史におけるイタリア未来派が興味深い。彼らは強烈なポストモダン指向を持っていたが、ファシズムの美学に回収されてしまった。)である。その点で、ハイデッガーのケースは、反面教師として学ぶべきところがある。ジャン=フランソワ・リオタールの「漂流」の思想、ミッシェル・セールの「離脱」の思想、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの「逃走」の思想は、ハイデッガーの「存在」の思想とは逆の大地・体系的思考・共同体からの離脱と脱属領化のベクトルを持っている点で評価されなければならない。
ただ、ここで考えておくべきことは、私たちにとってはナチズムやファシズムを自明の悪であり、全人類に対する犯罪であるが、ハイデッガーのようなナチス党員やファシストは、自分の実践している大量虐殺・無差別攻撃・拷問・テロリズムは、選ばれた人間の至高の行為にして<善>として確信しているし、中には殺害それ自体に悦楽を感じる(言うまでもなく、脳内麻薬物質であるドーパミンがA10神経を走るからだが)ことに誇りすら持っている人間もいたはずだということである。(例えば、いまだに太平洋戦争当時の日本を、帝国主義的・(欧州諸国より一歩遅れた)植民地主義的領土拡大政策としてではなく、列国からの環太平洋・亜細亜地域の解放として正当化するロジックの内側にいる人がいるように。私は彼らを日本の恥辱と考えるが、ロジックの内部にいる彼らには、たとえ大量死の事実を突き付けたとしても見えないだろうし、外の論理など理解不能であろう。)一体、人間を呪縛する観念とは何か?観念=幻想の外部に脱出する可能性はあるのか?
私の考えでは、ほとんどの人間は観念に操られる自由を奪われた機械であり、主体性
を持たない(実存主義の前提の放棄)。正確に言えば、人は主体的であろうとすればするほど、自由ではなくなるというパラドキシカルな存在であるということだ。なぜなら、主体性とは、自分で自分を監視=管理すること(ここで私はルイ・アルチュセールAIE論やミシェル・フーコーパノプティコンを念頭において考えているのだ。)であり、自分の持っている観念に対して、忠実に、疑うこともせず、ロボットと化すことだからである。「人間は機械であり、<為すこと>ができない」と言ったのはロシアの神秘主義グルジェフであった。もし、人間が機械であることを止めようとするならば、自分が機械であることを知り、機械の法則を解読すると同時に、法則の裏をかく戦術をとらねばならない(主義ではない単なる実存的単独者としての再生)。システムの呪縛から逃れるために、絶えず自明とされてきた前提を疑い、外部に出るために移動し続けること。

 

(3)精神(ガイスト)の政治学とは

精神(ガイスト)の政治学が導入されるのは、人間が観念の操り人形であることに反旗
を翻した瞬間からである。いうまでもなく、精神(ガイスト)の政治学は、ヘーゲルの精神(ガイスト)の現象学に、権力装置批判の視点を導入し、内部から覆すという目論見ゆえの呼称である。観念はヴィールスのように、人間のインナーワールドに侵入し、増殖を繰り返し、やがては人間の全行動を支配するに至る(ウィリアム・S・バロウズのSF的視点)。この観念を析出し、社会システムのなかで人間をどのように配置しているかを明らかにし、反国家装置の立場から観念批判を企てるのが、精神(ガイスト)の政治学の役割である。
精神(ガイスト)の政治学は、権力の所在ではなく、権力がどのように機能しているか(それは『監獄の誕生』のフーコーの視点と基本的に同一である。)、欲望をいかにコード化しているか(それはドゥルーズ=ガタリやリオタールの立場と基本的に同一である。)、権力のエコノミーを明らかにしようとする。そのため精神(ガイスト)の政治学は、コギト=人間主体を学問の出発点とすることを拒否する。なぜなら、人間主体は権力の効果として形作られ、国家装置の中で機能しているという見逃すことのできない側面を有しているからである。
このような国家のイデオロギー装置(AIE)の側面に注目する視点は、ルイ・アルチュセールの『国家と国家のイデオロギー装置』(邦題:『国家とイデオロギー』福村出版、西川長夫訳)の延長線上にある考え方でもある。(アルチュセールは『マルクスのために』(人文書院平凡社ライブラリー)および『資本論を読む(バリバールらとの共著)』(合同出版、ちくま学芸文庫今村仁司訳)によってマルクスの新しい読み方を導入した。その方法とは人間中心主義的な初期マルクスと『ドイツ・イデオロギー』以降の後期マルクスとの間に<認識論的切断>があるとして「構造」論的パースペクティヴを導入した点にある。ただし、アルチュセール自身は知の組み合わせイデオロギーとしての構造主義を否定していた。『資本論を読む』の頃のアルチュセールは、やや理論偏重に傾いており、当時ジガ・ヴェルトフ集団で『東風』を撮っていたジャン=リュック・ゴダールに『資本論』第一巻を飛ばして読むように言った点を揶揄されている。『国家と国家のイデオロギー装置』は、その点に対する自己批判後の実践的な著作である。)
アルチュセールは、イデオロギーを(1)思想家などが自覚的・体系的に展開する理論的イデオロギーと、(2)日常の生活=実践と一体になっているために通常自覚されない実践的イデオロギーイデオロギー一般)と大別し、実践的イデオロギーを「諸個人の現実的な存在[生活]諸条件にたいするかれらの想像的関係の[についての]《表象》である。」とし、現実を「歪曲」するものとして捉える。アルチュセールの実践的イデオロギーの定義には、構造主義精神分析学者ジャック・ラカン象徴界想像界現実界という図式と、主体の生成に関する《鏡像段階》理論が大きく影響を与えている。ところで、観念的・想像的表象であるイデオロギーについて「物質的存在をもっている」という指摘をしていることに注目せねばならない。ヒトは日常的実践において、様々な慣習や儀礼を行っているが、これらの慣習や儀礼をあたり前のこととして、何の疑問もなくスムーズに機能させるのが、実践的イデオロギーの役割なのである。
アルチュセールは、国家を国家権力と国家装置に分ける。そして国家装置を物質的・
制度的抑圧装置と、国家のイデオロギー装置に分ける。国家の物質的・制度的抑圧装
置とは、政府・議会・裁判所・軍隊・警察などを指し、法的に統一されていることが特徴である。それに対して、国家のイデオロギー装置は、宗教的装置(日本の例:靖国神社護国神社)が・教育的装置・家族的装置・法律的装置・政治的装置・文化的装置等を示す。
これらには一見何の統一性もないが、これらすべてが一体となり機能を果たすとき、国家の抑圧装置が滑らかに進行することになる。
アルチュセールは、国家のイデオロギー装置の社会的・政治的機能を、生産関係と社
会的諸関係の再生産プロセスと、近代市民社会と国家との分離の再生産を円滑に進行
させることにあるとした。すなわち、教会・学校・家族などを通じて、ヒトは近代資本制型人間になるべく、主体化=内面化=隷属化されるのである。(生産がモノをつくることであるのに対し、再生産は子供をつくることと教育することを意味する。例えばマルクス主義フェミニスト上野千鶴子が、『資本制と家事労働』(海鳴社)で主に問題にするのは再生産の方である。)
アルチュセールが国家装置のイデオロギー機能面に光を当てたのは、非常に興味深いが、国家装置の本質を抑圧的と看做すマルクス主義的独断には、私は疑問を抱く。現
代の消費社会は、欲望の抑圧ではなく、逆にフェティシズムによって人間の欲望を引き出し、利潤に結びつけるということが行われている。精神(ガイスト)の政治学を打ち立てるには、社会における欲望の抑圧ではなく、社会はいかに欲望を扇動し、社会システムとそれを支える人間主体の再生産のために、欲望の開発=利用=搾取が行われているかが、問わなければならない。
私が主張する精神(ガイスト)の政治学は、ナチズム・ファシズムスターリン主義帝国主義植民地主義民族主義的ウルトラナショナリズム・カルト宗教の排他的選民主義等の権力思想を対象化する批判理論の総体である。アルチュセールは、マルクス主義弁証法=権力知の呪縛から解放するために、下部構造から上部構造への「重層的決定性」の理論や、マルクスへの影響関係で、ヘーゲルとは異なるエピクロススピノザのラインを強調したのだが、未だマルクス主義圏内の思想家であった人物であった。アルチュセールは、マルクス主義以外の思想を、冷静にイデオロギーに算入し、マルクス主義だけを特権視して、批判対象から除外するが、私はそのようなマルクス無誤謬主義とは無縁である。徹底した権力批判論=イデオロギー装置批判のためには、特別視する思想があってはならない。

 

(4)マルクス主義パラドックス

プラトン以来の西欧形而上学については、ジャック・デリダが「ロゴス中心主義=音声文字中心主義」のディコンストラクションという形で批判理論を展開しているが、ここではマルクス主義について再考してみたい。なぜなら、マルクス主義に基ずく国家のみが、地上に具現した哲学国家であり、近代理性を総結集してつくりあげたユートピア思想が、実は極限のアンチ・ユートピアを実現してしまうというパラドックスを顕在化させた実例だったからである。東欧の民主化ソ連の崩壊がなされた現在においても、北朝鮮などにおいて全体主義統制と専制君主的個人崇拝を正当化するイデオロギーとして機能しているという問題が残存している。
言うまでもなく、マルクスの弟子たちは、ソヴィエトにおいて、クロンシュタット等の民衆叛乱の弾圧・他党派の暴力による解体・一党独裁による恐怖政治・独裁者スターリンによる血の粛清・農業の強制集団化・「絶滅=労働収容所」(ソルジェニーツィン収容所群島新潮文庫木村浩訳、第三巻第三部参照)の形成、等々のテロリズムを「革命」の大義名分のもとで、無限に繰り返してきた。ソ連以外に眼を移しても、中国・ヴェトナム・カンボジア社会主義国間戦争や、カンボジアのポル=ポト派による大量虐殺、日本における連合赤軍事件に至るまで、現代マルクス主義の歴史は、おびただしい血の歴史だったということが了解できるだろう。(参考:笠井潔『テロルの現象学』作品社もしくはちくま学芸文庫、序章「観念の廃墟」)このようなマルクス主義の犯罪は、スターリンへの個人崇拝に還元できるものではなく、スターリンのような独裁者の出現を許し、一切のテロリズムを正当化してしまうマルクスの哲学体系に、究極的には人間の際限のない暴力にも、歴史主義的意味づけをし、倫理的にも絶対的な善として、それを成すことを人に強要する弁証法的思想に責任を追及すべきことなのである。
マルクス主義は、近代合理主義の頂点を成すヘーゲルの観念弁証法を、唯物論的に転倒させることで成立した社会思想である。ヘーゲル弁証法が、極限の自由の追求から思考を始めたとは裏腹に、最終的にはプロイセン国家の御教哲学として、絶対精神による無限の専制の正当化に論理的必然性をもって帰結したように、マルクス弁証法も、労働者がプロレタリアート化(対自的な階級意識を持ち、階級として一体化する段階に至ること)することによって、資本制社会の下部構造からの根源的変革=革命を企てようとするが、最終的には一党独裁による恐怖政治の歴史主義的観点からの全面的肯定に帰結してしまうのである。  

ここで、私はマルクス主義は、マルクス自身の当初のねらいに反して、最終的に必然性を持って、スターリンがいなければスターリンを作り出し、強制収容所を生み出すという見解を表明しておきたい。かつて、SF作家フィリップ・K・ディックは『聖なる侵入』(サンリオSF文庫、大瀧啓裕訳)(創元推理文庫、大瀧啓裕訳)において、カトリック教会と共産党が共同支配する地球に、神の子が再度侵入を試みるという設定を描いた。もし、マルクスが生き返って、再度自らのヴィジョンに基づいて作られた強制収容所国家を訪れたならば、真っ先に逮捕され、発言する前に死刑執行されるだろう。
ポル=ポト派による大虐殺や連合赤軍事件のようなテロリズムは、加害者による精神錯乱に原因があるのではなく、民衆憎悪・生活憎悪・肉体憎悪に裏打ちされた倫理的な強迫観念がそうさせたと考えるべきなのである。民衆のための革命が挫折することによって、民衆を憎悪し、暴力の矛先を民衆に向けることが、ラディカルな革命理念を体現するものに思われてくるのならば、その人は、観念的倒錯に陥っていると診断されるべきなのである。
すでに1870年代に、ドストエフスキーは、無神論的革命思想を、人間に取り憑く悪霊」に見立てて長編小説を描いている。その中の登場人物ピョートルの言葉を借りて、ドストエフスキー社会主義の戯画を描いている。(ドストエフスキー『悪霊』新潮文庫江川卓訳)(岩波文庫)(参考1:埴谷雄高ドストエフスキー』日本放送教会、143頁)(参考2:新潮社版カミュ全集第10巻121頁「悪霊」翻案)
「まず何より彼らに効果があるのは…他でもない官僚式です。(中略)それに次ぐ力
はもちろん感傷主義です。ねぇ、ロシアに社会主義が広まったのは、主として感傷主義
のためですからね。(中略)ところで、最後に最も重要な力は…他でもありません。自分自身の意見に対する羞恥です…これは一切を結合させるセメントです。」
ドストエフスキーは、社会主義の理念を「無限の自由から出発し」、「無限の専制主義をもって論を結」ぶものとして捉え、「十分の一だけの人が個性の自由を得て、残りの十分の九に対する無限の権力を享有する。そして、これらの十分の九はことごとく個性を失って、一種羊の群のようなものに化してしまい、絶対の服従裡に幾代かの改造を経たあと、ついに原始的天真爛漫の心境に到達」することを企てるものとして把握するのである。
私はマルクスに取り憑いた「悪霊」を、ヘーゲルテロリズムであると考える。ヘーゲルテロリズムとは、権力知としての弁証法である。弁証法的知的操作においては、「多様態」を、分裂し疎外された状態とネガティヴに捉え、再度「一」の状態=統一された状態を回復させようとする。しかし、「多様態」の方が自然本来の生産性を示す概念だとしたら、「一」の方が人工的秩序・権力の側となり、真の疎外態となる。弁証法的な思考の運動においては、絶えず差異・多様性・非同一性は、知のシステムの外部に排除され、排除された事実を含め抹消される。これが権力に奉仕すること以外の何を意味するというのか。
アルベール・カミュは『反抗的人間』(新潮社版カミュ全集第6巻)の中で、反抗的人間は、原則的に死に反対すると説き、《神》の代わりに、今度は《歴史》を絶対的価値にして、未来の人間の幸福の為ならば、今日何千、何万の人々の死もやむを得ないとするマルクス主義歴史観を批判した。問題はこのように殺人を正当化し、倫理的に殺人を要請する思想の基盤が、弁証法にあるということである。なぜなら、弁証法だけが歴史に目的があるかのような幻想を与え、なおかつ各人が社会の交換可能な歯車として、没個性化する代償として、社会の発展と進歩を推進しているという欺瞞的な生存根拠を与えることができるからである。  

マルクス主義をいかに始末するかというアポリアを抱えている吉本隆明ですら、『世界認識の方法』(中公文庫、98頁)を見ると、マルクス主義による抑圧的な社会体制を、マルクスの思想のレーニンらによるロシア的変形や、<アジア的>専制の残存のせいにして、マルクス自身の思想については責任を問わないという不徹底ぶりが見られる。第一、アジア的という概念自体、吉本も言うように「世界史の発展段階として、原始社会と古代社会の中間に位置する概念」であり、歴史主義的発展段階説を前提にしている概念である。それどころか「ヘーゲルの意志論の全領域は、社会の自然史的な考察の上にあるものとしてマルクスはそういうふうに整理付けた」として「マルクスヘーゲルをすこしも始末したり排除したりしないで、全部考察の対象として残していること」(同掲書、10頁)を評価するに至っては、私の持論であるテロリズムの原因をヘーゲルに見出す立場と正反対であり、幻想=観念に呪縛された人間を解放する指針としてはなり得ないように思われる。
ともかく、神なしに地上に楽園を創り出そうという社会主義の実験は失敗した。ここで「歴史の無意識としては、資本主義は、最高の作品である。」という吉本隆明の発言(F・ガタリとの対談『善悪を超えた「資本主義」の遊び方」』(『マリ・クレール』1987年4月号、中央公論社、303頁)や『いま、吉本隆明25時』(弓立社、383頁、もしくはカセットブック吉本隆明『文学論』弓立社Ⅱ-B)での発言)に同意してもいい。ただし、資本主義が社会主義との比較で、相対的に欲望の脱コード化が進んでいるという点からの評価であって、資本主義が絶対的に優れているということではない。第一、マルクス主義アポリアは、資本主義の脱コード化プロセスの極限として共産主義社会という夢をマルクスが思い描いたにもかかわらず、その教えに忠実に従った弟子たちが行ったのは、際限なく増大してゆく国家権力による欲望の超コード化だったという逆説にあるのではなかったか。
サルトルが掲げたテーゼ<マルクス主義はわれわれの時代の状況が乗り越えられない限り、乗り越え不可能な哲学でありつづける>を訂正するためには、マルクス主義を超える新たな一般システム論が提出されなければならない。
例えば、マルクス主義は国家権力として体現されるとともに、強制収容所を生み出す
というヌーヴォー・フィロゾフ=新哲学派(彼らの多くは、1968年5月のフランス5月革命の闘士であり、ソルジェニーツィンの『収容所群島』の衝撃から転向した人々である。
アンドレ・グリュックスマン、ベルナール・アンリ・レヴィらが該当する。)や、その日本版であるマルクス葬送派の立場は、一面では真実であるけれど、マルクス主義に代わる何かについては理論的に無内容であるために、単なる現状追認イデオロギーに堕する危険性をはらんでいる。要するに、ソ連崩壊と東欧の民主化によって、資本主義勢力の勝利と、政治理念と体制の選択をめぐって情熱が蕩尽される歴史が終焉し、後は退屈で凡庸な利害の技術的・計量的処理が残るだけというフランシス・フクヤマ(フランスのヘーゲル学者アレクサンドル・コジェーヴの弟子であり、アメリ国務省のイデオローグ)のような立場に、アンチテーゼをつきつけることができない点が問題なのである。


(5)(フロイト+マルクスニーチェ

私の立場は単純明快である。いかにしてファシズムの誘惑を回避しながら、資本主義的解体=脱コード化をリミットまで推し進めるか、ということである。それを理論化することが《ニーチェフロイトマルクス》から始まった西欧形而上学批判をさらに推し進めることにつながるのである。残念なことに、ジル・ドゥルーズが『ノマド(=遊牧民)的思考』(『現代思想青土社1984年9月号総特集ドゥルーズ=ガタリ、164頁)で指摘しているように、「マルクス主義の場合は、国家による再コード化(諸君は国家によって病んでいる。だから国家によって治るだろう。それは同じ国家ではないだろう。)」という罠に、「フロイト主義は、家族による再コード化(家族のせいで病んでいる。だから家族によって治る。同じ家族ではない。)」という罠に陥ったがゆえに、マルクス主義は「公的な官僚機構」に、フロイト主義は「私的な官僚機構」に道を開き、再度権力と共犯関係にある形而上学の閉域に回収されてしまったのである。従って、現在の課題は「反文明の黎明」である危険な思想家ニーチェの視点を実験的に導入し、国家と家庭を支える無意識のシステムに対して、根源的批判の鉄槌=ハンマーを下すことにある。
ところで、フリードリヒ・ニーチェは、様々な誤解と偏見に晒されてきた。そのため、ニーチェは、二つの像に分裂してしまった。1人めのニーチェ像は、反ユダヤ主義ニーチェの妹エリザベートによって捏造されたニーチェ像である。彼女はニーチェの遺稿を、自らの意図に合うように編集して『権力への意志』(ちくま学芸文庫)を、極端な権力志向と、排他的選民思想の書に仕立て上げてしまった。エリザベートニーチェは、やがてヒットラームッソリーニに愛用され、その後も戦争肯定や民族浄化を正当化する保守反動思想の温床となった。2人めのニーチェは、第二次世界大戦中のレジスタンス(抗独地下運動)のなかで、ファシストどもからニーチェを奪還するためにジョルジュ・バタイユピエール・クロソウスキーらが展開した『アセファル(無頭人)』誌(現代思潮社、兼子正勝・中沢信一・鈴木創士訳)でのニーチェの読み直し作業である。ここで、頭=独裁者=専制君主=神の首を切断するための武器としてのニーチェ哲学に探求の眼が向けられており、やがてバタイユの『無神学大全ニーチェについて』(現代思潮社)やクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』(哲学書房、兼子正勝訳)として結実してゆくことになる。彼らの読み直し作業が、後にフーコードゥルーズ(『ニーチェと哲学』国文社および『ニーチェ朝日出版社またはちくま学芸文庫湯浅博雄訳)、ポール・ヴィリリオの仕事に影響を与えることになる。日本のニーチェ学者西尾幹二らが、(どういうわけか、新しい歴史教科書をつくる会とか、戦犯に共感を抱くある種のグループになりやすい傾向があるようだ。)この2つのニーチェ像の違いに自覚的かどうか、それは言うだけ野暮というものだろう。
したがって、ここで導入されるニーチェは、2人めのニーチェの方であるのはいうまでもない。(あるいはお好みに合わせて、ニーチェの代わりに、あらゆる官僚機構の敵としてのフランツ・カフカの視点を導入してもいいだろう。)こうして、フロイトマルクスの切り開いた知の暗黒大陸を、ニーチェ(あるいはカフカ)の視点で再検証する必要が出てきた。

 

(6)哺育器の中のホモ・デメンス

人間は本能の壊れた動物である。リビドーという生の根幹を成す性的エネルギーはあるが、そのエネルギーを発現する行動過程までは、先天的に遺伝情報としてプログラミングされていない。以上の事柄が精神分析学者岸田秀の唱える唯幻論の出発点となる人間認識である。(参考:岸田秀『幻想を語る』河出文庫全2巻)  岸田秀の考え方の基礎となっているのが、フロイト理論である。フロイトは人間の心的領域をsuper ego(超自我・上位自我)/ego(自我)/id・es(欲動)という無意識のレベルを含んだ重層的な構造として捉えていた。ところで精神分析の分野では、Instinkt/Trieb、あるいはinstinct/pulsionというふうに、生物の<本能>と、人間の<欲動>を区別している。本能という言葉は、生態系のシステムにかなう行動に導く有機体の先天的な情報制御機構に基づいた生命エネルギーを示し、欲動という言葉はどちらに走り出したらよいのかわからない錯乱した人間の本能を示している。
このようなペシミスティックな人間理解は、今日様々な学問領域で見られる見解であ
る。社会学者のエドガール・モランは『失われた範例』(法政大学出版会、古田幸男訳、144頁)の中で人間をホモ・デメンス(錯乱のヒト)と規定し、哲学者の中村雄二郎も『精神のトポス』(青土社河合隼雄との対談「夢の破片と夢の構造」、168頁)の中で「<狂った人間だけが頭で考える(プエブロ・インディアン)というのは、ちょっと凄いことですね。」と発現している。このような人間認識には、人間中心主義への反省という想いが込められいるということは言うまでもない。
さて、人間の本能が壊れていることは、いかなる事実から立証できるだろうか。コンラート・ローレンツも指摘していることだが、動物の世界では(例えばオオカミ)同種の動物同士では、威嚇や噛み付き合いは確かにするけれども、互いの優劣関係がはっきりすると、弱者は服従のポーズをとり、強者は攻撃をやめるというふうに、無用な殺戮を回避するプログラムが、あらかじめ本能の中に組み込まれている。それに対し、人間は『旧約聖書』の昔から、アブラハムが神への献身のために、息子を犠牲にしたとされているし、現代においてもナチズム・ファシズムスターリン主義マッカーシズム等々と、制御不能の攻撃性が荒れ狂い、ジェノサイドを現出させることも稀ではないのである。怒りの神を静めるために、または共同体の一致団結のために、スケープゴートを絶えず作り出し、死に追いやり続けてきた人類史の事実は、人間の精神の奥底にある妄想傾向を明らかにする鏡である。人間だけが、自分と同じ種を殺すことを禁ずる先天的プログラムの欠如した欠陥動物なのである。(最近では、この狂ったサルは、牛に人工飼料という形で共食い=カニバリズムをさせて、BSEを発現させてしまった。)
それでは、なぜ人間の本能は壊れてしまったのだろう。原因として考えられるのは、ボルクの幼態成熟(ネオテニー)説や、ポルトマンの早産説が考えられる。アーサー・ケストラーは『JANUS』(邦題『ホロン革命』工作舎田中三彦・吉岡圭子訳、27頁)の中で、人間の進化上の欠陥を「爬虫類型」の脳と「古代哺乳類型」の脳からなる<古い脳>と、人間独自の新皮質との同居から生ずる矛盾があるからだと考えた。洪積世後期に新皮質は爆発的成長を遂げたが、古い構造の中脳と新皮質の間の神経経路は不十分のままで、新皮質は古い脳の上に覆いかぶさってしまったという。人間の脳のニューロンの数と、シナプスの複雑な絡み合いと、ネオテニーのため誕生後もシナプスの多くが形成されるという事実を考え合わせると、人間の本能が壊れたのも無理はないと考えられる。しかし、人間の新皮質の(腫瘍のような)爆発的増殖は何によってなのか?氷河期をサバイバルするために、共食いが必要だったからなのか?筆者は、進化論としては「なるべくしてなった」と見る今西進化論よりも、レトロ(逆転写)ウィルスによる人間の遺伝情報の書き換えに進化の原因をみるウィルス進化論に説得力を感じているが、それならばある種のウィルスが人間の根源的暴力に介在しているのか?
生物一般に関して言えば、本能に従って生きることが、エコシステムの中で共生してゆく道に繋がる。しかし、人間は本能の壊れたホモ・デメンスであるがゆえに、あらかじめエコシステムの中に帰還することを禁じられた存在である。錯乱したヒトは「想像界」で繰広げられる欲動のために、あらゆる事物が多義的なサンス(意味)=シーニュ(記号)を帯びて見えるので、他の生物のように「現実界」を見通すことができない。「現実界」は、人間の心的領域の外部に、カントの物自体のように認識不能なものとして、現実に存在する。しかし、流動する無意識のカオスの渦に巻き込まれたヒトは、恐れと不安を抱かずにいられない。そこで要請されるのは、文化=象徴秩序による欲望のコード化である。ヒトは自らの身体・住居・宇宙に象徴的な秩序の刻印を焼き付けて、人間が住むにふさわしい世界=人間的自然を創造するのである。
文化人類学クロード・レヴィ=ストロースは、『悲しき南回帰線』(講談社文庫、室淳介訳、上巻272頁)の中で、自らの顔に絵を抱く南米のカドゥヴェオ族について報告しているが、彼らの理屈では「人間である証拠に体に絵を描く。自然のままの状態にいるのは畜生と変わりない。」ということになる。文化=象徴秩序の働きが、自然とは異なる人間のコスモロジーを構築する企てであることは、ここからも見てとれる。
一般化するならば、文化=象徴秩序とは幼態成熟(または早産)したホモ・デメンスを、
一生入れておく哺育器であるということになる。その機能は過剰なエネルギーはあるが、ベクトルの向きの定まらない欲望をcコード化し、方向を与えてやることにある。フロイドによれば人間は本来多型倒錯であり、正常は何かということも象徴秩序が後から与える虚構なのである。ポランニー派経済人類学者の栗本慎一郎は『象徴としての経済』(角川文庫、138頁)で、ホモセクシャルの関係を持たない成人男子を「異常」扱いする北アフリカのシワン族のことを報告している。つまり「正常」とは何かはそれ自体で決定されるのではなく、「異常」との差異があって、「正常」の意味内容(シニフィエ)が決定されるのであり、一切は実体のない幻想(=空)なのである。
さらに象徴秩序について分析を続けよう。ルーマニア宗教学者ミルチャ・エリアー
デは『聖と俗』(法政大学出版会、風間敏夫訳)で、宗教的人間の住むことのできる聖なる空間=コスモスは、俗なる空間=カオスと質的差異があると主張する。エリアーデは聖なる力が自らを現すことを聖体示現ヒエロファニーと呼び、未知の土地は世界の中心軸を固有点として、聖なる力によって秩序られることによって、初めて宗教的人間の住むことのできるコスモスになるのだとした。世界の中心軸となることが多いのが、巨大な樹木である。巨大な樹木は、大地から天空に向けて浄化されてゆく過程を象徴的に表すとともに、宇宙を支える柱のイメージをも人間に抱かせるからである。(ここで大江健三郎のレイン・ツリーのイメージをオーバーラップさせてもいい。)コスモスの外部に広がるのは得体の知れないカオスの闇であり、宗教的人間は共同体の外部に不安と恐れを抱かずにいられない。一方、俗なる人間は聖なる力を感じる能力がないため、事物に対しては象徴的な意味付与を行わない。俗なる人間の問題点は、生存の意味の欠如、ニヒリズムによる心の荒廃であろう。  

このようにエリアーデの聖俗理論は、聖=コスモスと、俗=カオスの二元論から成り立っている。だが、社会学の分野では、デュルケムの集合的沸騰=聖=カオスと、世俗的日常=俗=コスモス、マックス・ウェーバーのカリスマ=聖=カオスと、その制度化=俗=コスモスという具合に、世俗的日常の方を秩序立ったコスモスと看做すのが一般的である。そこで、宗教学と社会学を統一的パースペクティヴで捉えるために、上野千鶴子の論文「カオス/コスモス/ノモス」(『構造主義の冒険』勁草書房、27頁に収録)に従って、世俗的日常の構造をノモス、聖なる空間をコスモス、両者のカテゴリーに入らない反構造をカオスとしよう。

 

(7)構造主義とは何か

さて、文化=象徴秩序はノモスとコスモスに分類できることを述べたが、こうした文化=象徴秩序の解明に最も成果をあげたのが、構造主義的研究方法であった。構造主義
は、文化人類学(レヴィ=ストロース)、哲学・歴史学(フーコー)、精神分析学(ラカン)、マルクス主義(アルチュセール)、新批評ヌーヴェル・クリティック(ロラン・バルト)など多方面に渡っており、その構造概念も一様ではない。研究方法の共通点をあげると、全体に実体があると看做すホーリズムでもなく、個に実体があると看做すアトミズムでもなく、世界を諸関係のネットワークで捉えようとする点があげられる。哲学者廣松渉の術語に言い換えれば、物的世界観(実体論)から、事的世界観(関係論)へのパラダイム シフトを可能にしたのが構造論的アプローチの最大の特徴ということになる。第二にデカルトからサルトルまでの哲学の伝統では、コギト=主体がア・プリオリに存在することから、すべての論理を展開するという物語となっていたが、構造主義では人間主体は何者かに操作されていると看做し、その何者かを言語・無意識・経済的社会的諸関係等の深層構造に見出そうとする。例えばジャック・ラカン鏡像段階理論では、人間主体という幻想は、生後6カ月から18 カ月の幼児が鏡の中の自分の像を、自分のものとして、身体の統一性を想像的に把握することで、後天的に捏造される観念なのである。従って、構造論的アプローチでは、人間主体をかっこで括り、見えない構造を見えるモデルとして提示することにウェイトをおくのである。
  構造主義インパクトを与えたのは、言語学者で記号論の祖であるフェルディナン・ソシュールである。ソシュールは「文化の中の諸記号」ではなく、「文化という記号」を問題にする。ソシュールの思想の重要点は、次の三点である。第一に一つの記号(シーニュ)において、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の関係は恣意的である。例えば、具体的な「犬」に対して、dogという国もあれば、chienという国もあり、具体的な犬という概念と、音声による表現は恣意的であるが、文化の取り決めで恣意的必然に転化しているといえる。なお、シニフィアンシニフィエは分離不能である。第二に、シーニュの意味は、それ自体であるのではなく、シニフィアンシニフィアンの差異性があって意味が析出されてくる。例えば、白と黒という言葉はあるが、その中間の灰色という言葉を持たない民族がいて、灰色も黒という言葉で表現していた場合、その人たちにgrayという言葉を教えるにはどうすればいいのか?おそらく、灰色のものを何百・何千と並べて「これらをgrayと言う。」と教えても、その人たちはgrayを黒のことを意味すると思うだけである。彼らに教えるには、黒いものと灰色のものを例示しながら、blackとgrayの差異性を教えることによって初めて可能であろう。ここから、ソシュールの関係論的見方が出てくるのである。第三に完結した差異の体系は、一挙に与えなければならないので、通時態よりも、共時態を重視する共時言語学の成立根拠となる。以上、「恣意性・差異性・共時性」の三点が、構造主義成立の鍵となった考え方である。なお、晩年のソシュールアナグラムの研究を通して、構造変動論に道を開こうとしてきたことは、フランス文学者・言語学者の丸山圭三郎(竹田青嗣との対談『<現在>との対話2 記号学批判』作品社、10頁)やウランスの社会学者ジャン・ボードリヤール(『象徴交換と死』ちくま学芸文庫)が指摘しているとおりである。
人間は言語に縛られる動物である以上、ソシュールの理論は社会システム論にも敷衍し得るはずである。レヴィ=ストロースは、ソシュールの構造論的パースペクティヴを、未開社会のトーテミスムの解明に応用しようとした。トーテミスムとは、各氏族がある動植物等を自らの祖先とし、氏族を示すシンボルとしたり、トーテムとなった動植物等を礼拝し、殺生を禁じ採食を禁じたりするものである。逆に、祝祭の際には、氏族全員でtotemである動植物を共食し、体内に摂取したり、また、婚姻関係を氏族外の異なるトーテムの男女間で行う規則も見られる。
従来の機能主義学説では、氏族の生存のために、貴重な食料源である動植物を採り過ぎないようにしているとか、トーテム崇拝によって共同体の連帯を高め合ったとかの説明を加えてきた。しかし、トーテムに選ばれるのは、食べ物に限らず「北風」であったり、「ハエ」や「カ」であったりして、機能主義では説明のつかないことが多かった。
レヴィ=ストロースの方法は、もしトーテムが未開社会における記号であるならば、その記号的意味は他の記号との差異で決定されるので、記号の集合全体を検討しなければならないという発想から出発している。例えば、熊をトーテムとしている氏族は、外に眼を向ければ、亀をトーテムとしている氏族や鷹をトーテムとする氏族を含む社会空間の中で生活しているわけで、ここで熊/亀/鷹の三項からなる示差的な記号的意味を解読するならば、陸/水/空をそれぞれ象徴としていることが理解されよう。すなわち、構造主義の方法では、記号は記号として、複雑なものは複雑なまま、考えられた系をそのまま捉えようとする点で、実践の体系である生きられた系に還元して社会現象を理解しようとする機能主義と根本的に異なるのである。


(8)ポスト構造主義の冒険

次に構造主義の方法を発展させて、現代社会の分析を行うポスト(後期)構造主義
試みについて考えてみたい。
ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは『アンチ・オイデイプス』(河出書房新社、市倉宏裕訳、172頁)第三章「野生人・野蛮人・文明人」において、世界史を欲望の脱コード化プロセスとして捉え、社会システムを(1)野生の原始土地機械(コード化社会)、(2)野蛮の専制君主機械(超コード化社会)、(3)文明の資本主義機械(公理系によって制限された脱コード化社会)という三つの理念系に類別し、脱コード化プロセスの極限に、リゾーム=根茎(制限なき脱コード化社会)を掲げてみせた。彼らの描いたヴィジョンでは、様々な社会機械が同時に存在し、社会機械間の戦争や交易を含めた広義の<交通>の場から、事態が進行するという世界観となっている。
レヴィ=ストロースは、熱力学の比喩を使って、自身の構造人類学の扱った未開社会
を歴史的変動のない「冷たい社会」と呼んだ(ジョルジュ・シャンボニエ『レヴィ=ストロースとの対話』みすず書房、多田智満子訳、31頁)が、「熱い社会」である資本主義社会の解明についてはブラック ボックスのままであった。ドゥルーズ=ガタリのいう野生の原始土地機械(コード化社会)は、レヴィ=ストロースの言った「冷たい社会」を指す概念といえる。ただし、ドゥルーズ=ガタリは原始共同体を<国家に抗する社会>として捉えるピエール・クラストルの見解に組しており、一見冷たい社会と見える未開社会にも熱い運動を読み取ろうとしている。  

コード化社会では氏族と氏族の間で、贈与の円環が一般交換として定式化しており、婚姻(=女性の贈与)もまた一般交換の法則にしたがって、氏族から他の氏族に円環状になされるのであり、物品の贈与がこのとき逆方向の円環を描くことになる。氏族内の近親婚が忌避されるのは、女性の交換が規定されいるとするのが、レヴィ=ストロースの立場である。だが、贈物は単なる物ではなく、特殊な力を帯びたモノであり、<贈与の一撃> を加えることで、被贈与者に贈与者に対する負債の意識を持たせることになる。負債の意識からの解放は、他の氏族に対して<贈与の一撃>を加えることで達成される。より大きいダメージを相手に与えるためには、貴重なものを相手に与えたり、重要な生活財を相手の眼の前で破壊したりすればいい。では、このような儀礼的贈与や、北米原住民のポトラッチはどう捉えればいいのか?ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分~普遍経済学の試み』(二見書房、生田耕作訳)では、太陽から供給されるエネルギーは、地上の生命体が成長するのに必要な量より遥かに過剰であり、成長の限界に対すると、逆にエネルギーは生命の破壊方向に働いてしまうので、人間存在は過剰なエネルギーを、戦争や祝祭、生殖と結びつかないエロティシズムの領域で、無意味に、かつ無目的に、消費=蕩尽せねばならないという呪われた宿命があり、儀礼的贈与やポトラッチも過剰な力を消尽する方法と解されるのである。
コード化社会では、人間の過剰な欲動が、平面的に大地に張り付いた形でコード化さ
れている。それに対して超コード化社会では、トゥリー上のハイアラーキーとなっており、三次元の円錐モデルで表現可能である。例えば、ルイ・アルチュセールが『国家と国家のイデオロギー装置』で描いているのは、超コード化社会での主体形成プロセスの説明にふさわしい。
イデオロギーの二重化された反射的な構造は以下の四項目を同時に保証する。一、諸主体としての諸《個人》に呼びかけること。二、かれらを(大文字の)主体に従わせること。三、(小文字の)諸主体と(大文字の)主体の間における、また諸主体自身の間における相互的承認。四、こうしてすべてはうまくいく。また諸主体はかれらが何者であり、したがって何者として振舞っているかを知っているという条件ですべてにうまくいく。つまり《かくあれかし(アーメン)!》となることの絶対的保証。」
アルチュセールの描いている社会装置は、資本主義社会の社会構造であると同時に欲望の再属領化をねらうナショナリストたちのアルカイックな社会モデルといえる。
超コード化社会の円錐の頂点に来るのが、抽象的に言えば超越論的シニフィアンであり、大文字の主体=特権化された第三項である。具体的に言えば、絶対的唯一神であり、絶対君主であり、父権制社会での父である。大文字の主体は、メタ レベルの高み
から、小文字の諸主体のいるオブジェクト レベルの平面に対して作用を及ぼし、各人は絶対者に対しての無限の負債を内面化し、大文字の主体の命ずる自己同一性を受け
入れ、最終的に自分で自分を監視するに至る。こうして超コード化社会は、経済的=効率的に、権力を機能させるのである。
超コード化社会では、普段は日常的でスタティックな秩序が保たれているが、周期的
に非日常的な祝祭が行われ、価値体系が逆転する。すなわち、象徴的な王殺しや、トリックスターによる乱痴気騒ぎなどを通して、古びた社会秩序にショック療法が加えられ、社会システムが再活性化されるのである。これら超コード化社会自体の「死と再生」のサイクルの説明については、文化記号論が成果を収めてきた。例えば、ジュリア・クリステヴァは『詩的言語の革命』(勁草書房)において、記号象徴態(ル・サンボリック)と原記号態(ル・セミオティック)の二元論に基づく弁証法的運動を説いた。ル・セミオティックは鏡像段階以前の想像界における過剰な欲動を記号の生成という観点から捉えた概念であり、ル・サンボリックは象徴秩序=構造のことである。また、文化人類学者の山口昌男は『文化と両義性』(岩波書店、66頁「混沌と秩序の弁証法」、岩波現代文庫)において、中心-周縁理論を確立し、以降、様々な文化事象に対して軽快なフットワークで中心-周縁理論を適用した解明を行ってゆくことになる。彼の中心-周縁理論は、『万延元年のフットボール』(講談社文芸文庫)を上梓していた大江健三郎の四国の森を舞台にした死と再生の物語とoverlapする面が多く、互いに影響を受け合い、日本の戦後文化をリードしてゆくことになる。ところで、山口の周縁概念には、共同体の外部は入っていなかったが、『流行論』(朝日出版社週刊本)で外部を含める修正を行っている。
では、最後に文明の資本主義機械(相対的脱コード化社会)とは、どんな社会システムであろうか?相対的脱コード化社会の最大の特徴は、超越的シニフィアンの不在である。要するに、近代は神が死に、王の首がギロチンにかけられ、父がものわかりのいいパパになったときに誕生したということである。相対的脱code化社会に対して、禁制と侵犯の弁証法も、中心-周縁理論も、ル・サンボリック/ル・セミオティックの弁証法も、もはや変革のインパクトを持ち得ない。なぜなら、資本制社会=消費社会とは、システムの解体を常態化し、日常的に消費生活の場で祝祭を繰広げている怪物のようなシステムだからである。資本制社会はシステムの外部からの侵犯に対して、文化という記号の質的
差異を、貨幣という量的差異からなる価値に還元=翻訳して、無害化し、骨抜きにしたあとで、消費の活性化のために開発=利用=搾取するのである。(この資本主義のモデルを、浅田彰は《クラインの壷》で示したのである。外部と思われたものが、いつのまにか内部に巻き込まれいるという奇妙な立体。)今日、消費拡大のためには、広告における商品の付加イメージの差異化=差別化(記号論的演出)は不可欠であり、差別化の追求の果てに、差別化を行わないこと(派手な広告を一切取り除くとか、反消費的なエコロジーという記号を付加するとか)も、差別化の切り札のひとつとして使用している。
問題は、資本制社会が《公理系》によって相対的な脱コード化に留まっており、絶対
的な脱コード化(リゾーム=根茎)に到達できないことである。《公理系》とは、われわれの欲動の方向を、資本にとって都合のいい方向、利潤を上げる方向だけに縛り付けている不可視の論理のことである。一方、ドゥルーズ=ガタリが掲げたリゾーム=根茎というモデルは、トゥリー(樹木)のように一点から枝分かれしてゆく権力のシステムではなく、脱中心的で複雑に成長してゆく反権力のネットワークのことである。(参考:ドゥルーズ=ガタリリゾーム朝日出版社豊崎光一訳、『エピステーメー』昭和52年10月臨時増刊号および昭和62年6月復刻改訂版、なお現在ではジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『ミル・プラトー河出書房新社の序章として読める。)
資本制社会では、唯一貨幣が価値基準となりうるが、決して金本位制における金のようにメタレベルの高みから、一切を価値の秩序体系に構成するといった性格のものではない。貨幣は貯蔵されるものではなく、オブジェクト レベルに再投資されて商品に化身し、今度はメタ レベルに飛躍して、再度貨幣にならなければならない性格を持っている。兌換貨幣のように金とリンクされていない現在の貨幣は、原理上無限の売りと買いをつづけてゆくという保証はない。だが、明日も、そのまた明日もこの貨幣には一般受容性があるだろうという信仰の為、今のところ何もなかったかのように事態は進行している。
さて、このような資本主義社会にふさわしい人間を再生産しているのが、家族という
制度である。精神分析の立場からすると、人間は本能の壊れた欠陥動物であり、幼児
は出生によって失われた全体性を取り戻すために、母と合一を図る。この主体と外界との間に溝のない母と子の融合状態を、対象のない(対象が分化していない)状態、またはクリステヴァが『恐怖の権力』(法政大学出版局、枝川昌雄訳、60頁)で使った用語を適用すれば「一次的ナルシズム」と名付けよう。前主体が一次的ナルシズムの状態から抜け出さなければば、欲動は表象と結びつかず、語る主体としての一歩が踏み出されないので、ある時点で母と分離・アブジェクシオン(棄却)して、対象として距離を置いて見る原抑圧がなされなければならない。ラカン理論では、そこで父が登場し、父は社会的・文化的規範として、母子の間に介入し、その直接的合一を禁止する。つまり、父は法であり、権威であり、専制君主として家庭内に君臨し、欲動の流れをせき止めようとする。ここから、エディプス コンプレックスが生じるというのが、フロイド派精神分析の立場である。
精神分析は、神経症などの症状に対して、幼年期のトラウマなどを検証し、潜在意識におけるエディプス コンプレックスを、患者本人の意識に再認識させようとする。
これに対し、ドゥルーズ=ガタリのスキゾ・アナリーズでは、家族を欲動の流れを規制する整流器と看做し、家族の三角形の中で内面化=主体化=エディプス化されることで、自己の自己に対する負債を覚え、資本主義型人間にされて、競争社会の中に投入されると考える。彼らの立場からすると、精神分析は資本主義の権力と共犯関係を持ち、反社会的でスキゾフレニックな脱属領化の欲望を、再度システムに回収する制度と捉えられる。

前衛都市のメタフィジカ~アーバンギャルド試論

本稿は、孤独な惑星社刊『前衛都市を知りたい子供たち』のvol.1~4のために書かれたアーバンギャルド論と、資料である。

本稿は、2019年夏刊行予定の『前衛都市を知りたい子供たち』vol.5をもって、一旦終結する予定である。したがって、ここに公開するのは、現段階の未完の原稿ということになる。

『前衛都市を知りたい子供たち』のvol.1~4は、特殊書店BiblioManiaの通販にて入手が可能である。「前衛都市のメタフィジカ~アーバンギャルド試論」は、現段階でも14.7万文字を超えるため、スクロールして読むのは難儀と思われる。是非とも、紙媒体の『前衛都市を知りたい子供たち』にて読まれることをお勧めする。

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『前衛都市を知りたい子供たち』は同人誌なので、本稿の他、発行人タナカカオリ氏によるアーバンギャルドのライブのセトリ・リスト、美しいイラスト、漫画、エッセイなどが掲載されている。アーバンギャルドの音楽を聴きつつ、副読本として愉しんでいただければ幸いである。

第1部『アーバンギャルド☆クロニクル【解説篇】・20102017

2010年

◆CDアルバム 浜崎容子『Film noir』(ZETO-004/前衛都市)2010年4月25日リリース

フィルム・ノワールは、虚無的な暗い色調の犯罪映画を指す。思いつくままに挙げると『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『三つ数えろ』『現金に体を張れ』といった映画である。(ちなみに、本作では「思春の森」以外の歌詞は、すべてアーバンギャルドのリーダー、松永天馬が手掛けている。2017年に発表された松永天馬のソロ・アルバム『松永天馬』収録の「天馬のかぞえうた」では、ハワード・ホークス監督作品・ハンフリー・ボガード主演『三つ数えろ』が歌詞に組み込まれており、『三つ数えろ』等のフィルム・ノワールが彼のダンディズムに刻印を残していることを伺わせる。)浜崎容子のファースト・ソロ・アルバムは、彼女の専門領域であるシャンソンを、テクノ・ポップの電子音で再現するとともに、映像喚起力の大きい歌詞と歌唱で、漆黒の宇宙を表現することに主眼がおかれていた。漆黒の宇宙とは何か。端的に言えば、ゴシックの美学の世界、反宇宙的二元論の世界である。ゴス(ゴシック)の世界では、光と闇の相克と闘争が行われ、その戦いの中から脱自的に魂が超出する。浜崎容子の『Film noir』から、そうした超越を希求する聖なるエコーを聴き取るのは容易い。

『Film noir』の冒頭の曲は、「樹海の国のアリス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)である。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に出てくるアリス(及び、そのモデル人物であるアリス・リデル)は、松永天馬が好んで使う物語中の主人公であり、「少女」の表象である。タイトルに「樹海」を入れることで、アリス(聴き手は、感情移入によって、自身をアリスにアンデンティファイするだろう。)が、死と隣り合わせであることを指し示している。「樹海」から連想するものは「自殺」である。松本清張の小説のタイトル『黒い樹海』ではないが、「樹海」は漆黒の闇を連想させる。歌詞の中に出てくる『絵のない絵本』は、アンデルセンの童話集である。冒頭に出てくる「不思議の国」の戦争は、「女の子戦争」を指すと考えて良いだろう。「女の子」は、大人の恋に憧れて、少し背伸びして恋愛に落ちる。その際に「まぼろし」の向こうの過酷なリアルに晒される。それが、「不思議の国」の戦争である。「少女」は、恋愛によって傷つくが、それは大人になるための通過儀礼でもある。「少女」は、幾たびかの精神の危機を通過しながら、成長を遂げていく。

「暗くなるまで待って」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)は、テレンス・ヤング監督作品・オードリー・ヘプバーン主演のサスペンス映画から、タイトルが取られている。冒頭にある「ティファニー」も、オードリー・ヘプバーン主演で、トルーマン・カポーティ原作の映画「ティファニーで朝食を」を連想させる。作中、フェデリコ・フェリーニ(代表作「道」「甘い生活」「8 1/2」)とジャン=リュック・ゴダール(代表作「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」「中国女」)の名前が見られる。ビデオとゴダールの親和性、フェリーニゴダールが眠くなる(ゴダールに至っては「ゴダール・タイム」という言葉さえある)など、シネフィルを頷かせるような歌詞が続く。歌詞の前半で「ピストル」、後半で「オペラ」があるのは、どことなく鈴木清順の「ピストルオペラ」を連想させるための仕掛けだろう。結局、「暗くなるまで」とは、映画館の闇であり、精神の闇であり、真夜中の恋愛の事だろう。

印象派」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。印象派は、19世紀後半にフランスを中心広まった芸術思潮である。クロード・モネの絵画「印象・日の出」に由来する。当初、ルイ・ルロワらの批評家からは悪評をもって迎えられた。印象派絵画の特徴は、視覚を重視し、眼に映るままに光の移ろいを描くことにある。印象派では、写実主義のように事物の形態を明確に描く事から離れ、事物の輪郭が曖昧となることが多い。代表的な画家は、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールアルフレッド・シスレーエドガー・ドガエドゥアール・マネらがいる。後期になると、点描法を用いたジョルジュ・スーラのような画家が現れる。点描法は、スーラ独自のもので、後期印象派或いは新印象派に共有されたものではないが、印象派の本質を踏まえた技法といえる。微細な点でもって色彩を表現する点描法は、写真の原理そのものである。

2018年に名古屋市美術館等で開催された「モネ それからの100年」展では、クロード・モネから始まった印象派の影響下で、その後の20世紀のアヴァンギャルド絵画(フォービズム[野獣派]、キュビズム[立体派]、シュルレアリスム[超現実主義]、アンフォルメル[非定型]、アクション・ペインティング、ポップアート等)が始まった事を明らかにしていた。

印象派と映画の繋がりといえば、画家のピエール=オーギュスト・ルノワールの次男が、「ビクニック」「大いなる幻影」「黄金の馬車」で知られる映画監督のジャン・ルノワールであることが思い浮かぶ。父親譲りの色彩感覚を映画に持ち込んだジャン・ルノワールは、ジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォーらのヌーヴェル・ヴァーグロベルト・ロッセリーニルキノ・ヴィスコンティらのネオレアリズモに影響を与えた。いわば、クロード・モネの「印象・日の出」から、20世紀のアヴァンギャルド美術が始まったように、ジャン・ルノワールの映画から、20世紀のアヴァンギャルド映画が始まったのである。

印象派と映画の共通点は、眼の快楽にあり、表層での戯れだけが問題になる。表層の背後にあるものはない、或いは、あっても表層に現れないのだから、ないのと同然で無視してよい。その事をおさえた上で、浜崎容子の「印象派」を聴いてみよう。「赤」の「主義」は、コミュニスムのことであり、「黒」の「主義」は、ファシズムのことと思われる。前半に「導火線」、後半に「ピエロ」があると、ゴダールの「気狂いピエロ」の、青いペンキと黄色いダイナマイト、更に赤いダイナマイトを顔につけたフェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)を連想させるが、関係がないかも知れない。後半の「子どもたち」から、SPANK HAPPY第2期の「Les enfants jouent a la russle/子供達はロシアで遊ぶ」(『Vendome,la sick Kaiseki』2003に収録)を連想するが、実際のところ、どうなのかは不明である。サビの部分で、「印象派なら」が続くが、視覚で捉えたことを言語化することを拒否するなど、これは「表層批評宣言」(蓮實重彦)ではないかとも思う。作詞の際に、ゴダールSPANK HAPPYの事を考えながら書いていたというのはあてずっぽうだが(様々な誤読をしながら、妄想と戯れるのも、アーバンギャルドを聴く愉しみのひとつなので、記録として残しておく)、「エクリチュール・アバンチュール・シュール」の作詞者ならば、ここで「表層批評宣言」するのも十分あり得る可能性だと思う。

ブルークリスマス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。「パン」と「ワイン」は最後の晩餐を、「十字架」と「いばらの冠」は、イエス・キリストが十字架に架けられる際に、ローマの兵隊がいばらの冠を被せたエピソードを指している。『新約聖書』に由来する言葉を散りばめながら、「ブルークリスマス」は、大人への階段を登る「少女」の「恋」を歌う。なにゆえに、『聖書』か。それは聖なるもの、「少女」の処女性の象徴的表現のためである。「血が赤くない」とは、この「恋」がまだ熟していない、青い「恋」だということを指している。「赤」は、情熱の「赤」である。「ブルークリスマス」は、同じ歌を歌ったり、同じレコードを聴くことから、「恋」が始まるとされる。ともにアーバンギャルドの歌を歌ったり、ともにアーバンギャルドの歌を聴いたならば、すでに恋人たちの不可視の共同体は出来ているというべきである。

 

「フィルムノワール」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。歌詞に出てくる「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は、原作ジェームズ・M・ケインで、4回映画化されている。ピェール・シュナール監督作品(1939)、ルキノ・ヴィスコンティ監督作品(1942、マッシモ・ジロッティ主演)、テイ・ガーネット監督作品(1946、ジョン・ガーフィールドラナ・ターナー主演)、ボブ・ラフェルソン監督作品(1981、ジャック・ニコルソンジェシカ・ラング主演)。これは直感だが、この曲の題材となったのは、ルキノ・ヴィスコンティ監督作品のような気がする(他の作品に出てくる映画の傾向からの推定)。映画を題材にした曲づくりは、ムーンライダースの『カメラ=万年筆』などの音楽作品の影響が考えられる。『夜の言葉』は、『ゲド戦記』『闇の左手』で知られるアーシュラ・K・ル=グウィンの評論・エッセイ集のタイトルでもある。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のような犯罪映画、映画館の闇は、何をもたらすのか。それは、陰影から出来たレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインの絵画世界のように、人間の精神を浮き彫りにするだろう。その結果として、昼間には見えなかった魂の真の姿が顕在化する。闇の中に、火をともす行為は、隠された魂を見極めようとする行為に他ならない。

思春の森」(作詞・作曲・編曲:浜崎容子)。タイトルは、ピエル・ジュゼッペ・ムルジア監督による1976~1977年のオーストリアで撮影された思春期の性をテーマにしたイタリア映画『思春の森』に由来する。しかしながら、日本では、1999年に制定された「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」(2014年の法改正により「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」と改称)により、この映画は児童ポルノに分類されてしまう。また、出演者であった女優エヴァ・イオネスコは、2012年に子供の頃のヌード撮影や出版を巡って、母親の写真家イリナ・イオネスコを提訴するとともに、2014年に子供時代の苦痛に満ちた体験を基にした自伝的映画『ヴィオレッタ』を制作しているというエピソードもある。「思春の森」は、こうした今では見る事の出来ない幻のカルト・ムービーを題材に、登場人物に自己を投影し、思春期の子供と大人の境界線のせめぎ合いを曲にしているといえる。境界線上のぴんと張り詰めた緊張感と、一瞬にして壊れそうな思春期特有の純粋さの表現が、この曲の美点であり、個人的にはいやらしさは微塵も感じない。

 

◆CDシングル『傷だらけのマリア』(初回限定盤ZETO-005/前衛都市)2010年7月9日リリース

CDシングル『傷だらけのマリア』には、初回限定盤と通常盤があり、初回限定盤のジャケットは、マリア様が血の涙を流しており、通常盤のジャケットは右上に虹が出ているという違いがある。初回限定盤はCDとDVDの2枚組であり、CDに「セーラー服を脱がないで RAVEMAN(Aural Vampire)remix」が収録されている。一方、通常盤はCDのみであり、「女の子戦争 YOKOTAN remix」と「傷だらけのマリア(KARAOKE)」が収録されている。

表題作の「傷だらけのマリア」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)は、多感で、自傷癖があったり、大人と子供の境界線上で、霊肉のバランスに悩んだりする事があり、保健室を逃げ場所にしているような15歳の少女に、血の涙を流すこともある傷だらけのマリアのイメージが重ね合わさり、思春期という季節だけに特権的な聖なる領域を描き出す。少女の内で、普通だから普通になりたくない、個性がないから、個性的なことをしてみたい、傷つきたくないから、傷つきたくないなど、相矛盾する願望が交錯しては、少女を傷つける。その矛盾が止揚される時、人は多感な季節の終わりを感じ、大人への一歩を進めるのかも知れない。トートロジー(同語反復)・アナロジー(類比)・タナトロジー(死についての学)・コスモロジー(宇宙観)・サイコロジー(心理学)・トポロジー位相幾何学)と、韻を踏みながら軽妙に、思春期に起きる精神の危機を通して、人間の心と身体の謎に迫っていく。

「あした地震がおこったら」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。東日本大震災は、2011年(平成23年)3月11日なので、この曲はその1年前に制作された予言的な曲ということができる。後の「大破壊交響楽」に繋がる主題といえる。アーバンギャルドには、「不在の少女」等、この世界で自明とされているものが、実は幻想であり、シミュラクラであるという主題がある。アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックには『シミュラクラ』というタイトルの小説がある他、その他『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』など「人間そっくりのまがいもの」が出てくる小説が多い。また、フランスの哲学者・思想家・社会学者であるジャン・ボードリヤールに、『シミュラークルと シミュレーション』という著作がある。ボードリヤールにおいては、それまでの社会学が、物の生産に主軸がおかれていたのに対し、現代では記号の消費に主軸が移ったとし、次々と記号が消費されていくシミュラークルを描いている。「あした地震がおこったら」も、都市に地震が起こることによって、東京も街も虚構であり、記号に過ぎなかったことが露呈する話とかっている。このような崩壊の物語を、美しく音楽で表現するのが、アーバンギャルドの美点のひとつである。このような幻想の解体の主題は、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』の複製とアウラを巡る考察から、松永天馬が着想を得たことから始まっているのだろうが、その背景には更に、潜在意識に刷り込まれた日本人の諸行無常の感覚があると直観する。

「ファミリーソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。アーバンギャルドの「ソング」シリーズは、作詞者である松永天馬の思考実験の記録であり、思考の骨組みをスケルトンのように明らかにする。「ファミリーソング」も同様で、「リカちゃん」に材を取りながら、シミュラークルとしての家族について考察している。「リカちゃん」は、人形のままで、少女のままだとされ、人間になれないとされる。この歌は、玩具の人形について歌っているようにかのように見えて、実は周りにどうあるべきかを規定され、他律的にしか生きることができないロボット的な人間と、そういうロボット的なキャラクターの集合で成り立っているどこかよそよそしい家庭を描いている。一見、カワイイ歌に見えて、実はシニカルに、現代人の虚飾に満ちた、感情の行き交わない空しい家族の人間関係を描いているのである。

初回限定盤には、オーラルヴァンパイアのレイブマンによる「セーラー服を脱がないで RAVEMAN(Aural Vampire)remix」(作詞・作曲:松永天馬)が収録されている。RAVEMAN(Aural Vampire)remixは、かなり大胆な解体構築をしていると思う。原曲と比較されたい。

また、初回限定盤にはDVDがついており、「傷だらけのマリア OFF AIR VERSION(無修正)」と「傷だらけのマリア ON AIR VERSION(修正済)」が収録されていた。

 

◆CDシングル『傷だらけのマリア』(通常盤ZETO-006/前衛都市)2010年7月9日リリース

初回限定盤と共通の収録曲は「傷だらけのマリア」と「あした地震がおこったら」と「ファミリーソング」である。

通常盤には、「女の子戦争 YOKOTAN remix」(作詞・作曲:松永天馬、再構築:浜崎容子)と「傷だらけのマリア(KARAOKE)」(作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)が収録されているが、こちらは初回限定盤には収録されていない。「女の子戦争 YOKOTAN remix」は、繊細にして鋭さを感じさせる音が特徴であり、宅録少女だったというYOKOTANの凄さがわかる作品となっている。

「セーラー服を脱がないで RAVEMAN(Aural Vampire)remix」と「女の子戦争 YOKOTAN remix」の双方が聴きたい場合、初回限定盤と通常盤の両方を入手するしかない。大が小を兼ねるとばかりに初回限定盤だけを入手して安心していると、聞き漏らしが生じるので注意されたい。

 

◆CDアルバム 『ソワカちゃんアーバンギャルド』(ZETO-007/前衛都市)2010年8月14日リリース

護法少女ソワカちゃん』は、kihirohito個人によって制作された動画アニメーション作品であり、ニコニコ動画にて公開されて好評だったことから連作となり、2009年にはDVDとなった。アニメーションで使われた音楽は、kihirohitoが初音ミクを使って作ったものである。テーマとして、仏教(真言密教)、神秘学(オカルティズム)、ニューアカデミズムなど、マニアックな話題をふんだんに取り入れている点が特徴であり、当然のことながら、このように相当イカレた作品をつくっているアーティストに、アーバンギャルドが接近しないはずはなく、kihirohitoとアーバンギャルドのコラボレーション企画である本CDがつくられる事となった。

MUSIC DISK

「プラスティック・チェリー・ボム」(kihirohito & アーバンギャルド) (作詞・作曲:kihirohito、編曲:瀬々信・谷地村啓・kihirohito)。(テロリズムを連想させる)プラスティック爆弾/チェリー・ボム(爆竹)/チェリー・ボーイ(童貞)/リトル・ボーイ(原爆)を畳みかけたような曲のタイトルである。一見、原理主義に基づくテロリズムとジェノサイド、戦争後の廃墟、核戦争後の光景を描いたポリティカルな世界に見えるが、ジェリービーンとチェリー、ヴァージニティー、ピンクノイズといった言葉から、センシュアルな意味が隠されている事がわかる。さらには、「不在の神」というシモーヌ・ヴェイユを彷彿とさせるような言葉から、神学的解釈もできる余地がある気すらしてくる。結局のところ、これは聴き手によって印象が変わる万華鏡のようなポストモダン作品であることがわかる。

「水玉病」(hihirohito ver.) (作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・谷地村啓、編曲:kihirohito)。オリジナルは『少女は二度死ぬ』に収録されたアーバンギャルドの曲だが、kihirohitoによって初音ミクの曲に変えられている。

護法少女ソワカちゃん」(アーバンギャルド ver.) (作詞・作曲:kihirohito、編曲:谷地村啓)。Kihirohitoによる「護法少女ソワカちゃん」のテーマ曲が、アーバンギャルド風に改変されている。「残酷な天使のテーゼ」が「残酷な仏のテーゼ」に、「中沢新一先生」が「メカ沢新一先生」(野中英次魁!!クロマティ高校』に登場する)に変えられたり、「マハームドラー」の「ムドラー」が出てきたり、kihirohitoの歌詞が凝りに凝った内容で、ユニークである。

「リボン運動」(hihirohito ver.) (作詞・作曲:松永天馬、編曲:kihirohito)。「リボン運動」は、『少女都市計画』(2009年)に収録されたアーバンギャルドの曲。Kihirohitoは、初音ミクを使って、男女のツインボーカルを再現している。

千々石ミゲル友の会のテーマ」(アーバンギャルド ver.) (作詞・作曲:kihirohito、編曲:瀬々信)は、kihirohitoによるオリジナル曲を、アーバンギャルド風に編曲したものである。キリストと靖国神社、すなわち国家神道に加えて、「電気蟹」はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』から来ている可能性が高く、そうなるとディック神学までも導入されていることになり、脳の中は情報過多によるカオスで沸騰してしまう。この曲は、情報投入のエスカレーションで、ドーバミンの分泌を増やし、快楽を得る、そのあたりの目的でつくられたのではないか。

「プラスティック・チェリー・ボム」(hihirohito archetype ver.) (作詞・作曲・編曲:kihirohito)。「プラスティック・チェリー・ボム」(kihirohito & アーバンギャルド)の原曲。他の曲が、kihirohito とアーバンギャルドの既存の曲を、担当を変えて行っているのに対し、「プラスティック・チェリー・ボム」だけが、このCDのために書き下した新曲ということになる。

VIDEO DISK

「ブラスティック・チェリー・ボム」(kihirohito & そうまあきら)と、「千々石ミゲル友の会のテーマ~唯一人劇団リモコキッヒ『リモコキッヒの大贖罪』より」(アーバンギャルド)が収録されている。

唯一人劇団リモコキッヒは、2001年に松永天馬が立ち上げた一人芝居の劇団である。2001年9月に一人芝居『業通:カルマニア』を実施。2002年3月には『第四次元のコウノトリを撃て!』を公演。2002年12月27日に、唯一人劇団リモコキッヒ第三回公演として活弁映画『リモコキッヒの大贖罪』を上映。『リモコキッヒの大贖罪』の情報は、次の通り。脚本・弁士・監督 松永天馬、出演 松永天馬 青木研治 ゴンザ 宮下由美、音楽 谷地村啓、映像 田村鮎美。「千々石ミゲル友の会のテーマ」のPVは、この時の映像に、「千々石ミゲル友の会のテーマ」(アーバンギャルド ver.)を付けたものである。

 

◆CDアルバム 『少女の証明』(ZETO-008/前衛都市)2010年10月8日リリース

『少女は二度死ぬ』(特装盤2009年)、『少女都市計画』(2009年)と並び、後に初期「少女三部作」と呼ばれる作品群の掉尾を飾るアルバムである。

「プリント・クラブ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。プリクラを題材にしながら、ゲーテの最後の言葉「もっと光を」を散りばめつつ、現代の「複製芸術時代」(ヴァルター・ベンヤミン)の恋と欲望の本質に迫る内容となっている。私たちの暮らす資本主義社会は、物の生産という点で豊かな社会を達成し得たが、この曲に出てくる少女は「ほしいものがほしい」と、すなわち今は「ほしいもの」がない社会だと言っている。その社会は、同時にすべてがプリントされた社会でもある。「108」は、仏教でいう煩悩の数。「ドッペンゲンガー」は、自分自身の幻影を見る幻覚の一種。芥川龍之介の晩年の作品『歯車』に「ドッペンゲンゲル」が出てきて、ドッペンゲンガーに遭うと自己の死が近いという迷信に気を病むエピソードが描かれる。「プリント・クラブ」は、終始「複製芸術」に囲まれた社会から外部に出ることのできないディストピアを描いている。それは、自分たちの累積していく欲望の世界を見るようである。果たして、「プリント・クラブ」と化した世界から、外部に出ることはできるのだろうか。

「傷だらけのマリア(proof mix)」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。シングルとして発売された「傷だらけのマリア」のヴァージョン違いが収録されている。出口のない「プリント・クラブ」から始まり、自分自身まで複製されている認識のもと、リストカットを匂わす「傷だらけのマリア」に入っていく『少女の証明』の前半部分は、問題提起編と捉えることができる。

「前髪ぱっつんオペラ」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。「スカート切り魔」が出没する社会とは「プリント・クラブ」で描かれた出口のないディストピアの事だろう。そういう意味では、主題系は引き継がれているといえるだろう。ここで導入される「前髪ぱっつん」とは何か。ここで霊感に基づく超絶的推理を展開すると、この前髪はジャン=リュック・ゴダール(フランス・スイスの映画作家ヌーヴェル・ヴァーグから出発し、常に前衛的な映像表現の最前線に立つ。代表作『勝手にしやがれ』『中国女』)の『気狂いピエロ』でアンナ・カリーナが持っていた、カメラ目線で水平方向にチョキチョキやるハサミによって、カットされたのではないか。カット?そう、これは映画製作の際に監督が言う「カット」の一声であり、ウィリアム・S・バロウズアメリカの現代文学の作家。ビート・ジェネレーションから出発し、テクストを切り貼り(カット・アップ)したり、畳み込む(ホールド・イン)する前衛的手法を導入、さらには電子的革命に向かった。代表作『裸のランチ』『ソフト・マシーン』『爆発した切符』)の唱える「カット・アップ」の「カット」であり、ルイ・アルチュセール(フランスの構造主義マルクス主義者。代表作『甦るマルクス』『資本論を読む』)の唱える「認識論的切断」の「切断」ではないだろうか。現代映画・現代文学・現代哲学のいずれもが「カット」「切断」をやっているのだから、ここでアーバンギャルドが「ぱっつん」をやっても不思議ではあるまい。大事なことは「ぱっつん」するのは、「前髪」だけでなく、すべてを「ぱっつん」することにある。すべてといったら、すべてだ。そこに人間関係や、意味のない因習や、旧態依然とした考え方や、くだらない社会システムとか、すべて入っている。そう、『少女の証明』は問題提起編から、打開策の検討に入っている。ただ、その打開策は、容易ではない。かつて「複製芸術時代」の病理に、適切かつ明瞭な処方箋を提示し得た思想家やアーティストがいただろうか。ほとんど皆無だ。ただ、この問題に一緒に悩んで、戦ってくれる、アーバンギャルドという同時代のアーティストがいる。それが、どれほど僥倖な事か。

「保健室で会った人なの」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。P-MODEL「美術館で会った人だろ」(作詞・作曲:平沢進)へのオマージュと考えられる楽曲である。「美術館で会った人だろ」の主人公が、美術館で会った人がその事実を他人に隠蔽している事に対して、美術館の放火に至るように(三島由紀夫の『金閣寺』を連想させる展開)、「保健室で会った人なの」にも社会の病理を思わせる事件が背景に描き込まれている。1から10までカウントしながら、歌詞が展開されるのも、実験的で面白い。(歌詞カードを見ないと、その面白みは気づかない。)「惨劇」が「3劇」、「午後」が「5後」、「ロックンロール」が「6ンロール」、「野蛮」が「8蛮」、「銃声」が「10声」という具合に。言葉遊びとしては、後半「ガーゼとベーゼ(接吻)」で、韻を踏むところもある。「ドクター・キリコ」は、手塚治虫の『ブラック・ジャック』の登場人物だが、1998年に起きた自殺幇助事件の犯人の使っていたハンドルネームである。ちなみに、この事件の被疑者は自殺し、被疑者死亡で書類送検されている。「保健室で会った人なの」の主人公は、放課後にテレフォンを使った犯罪まがいのアルバイトをしているようだ(テレフォンクラブ?援助交際?)。どうやら、この歌詞は、散りばめられた手がかりから、何が起きているか、探偵小説のように推理させようとする趣向のようだ。「赤い洗面器の男」まで出てくる。「赤い洗面器の男」は、三谷幸喜の脚本に出てくる小話で、「古畑任三郎」にも出てくるが、未だ解決されていない部分である。しかも、歌詞カードに書かれていない台詞まである。「血糖値」のあたりで「私のお月さん」がどうのこうのという声が聞こえる。結局のところ、「保健室で会った人なの」の主人公の語っている事は、どこまで本当の事を言っているかすら疑わしくなってくる。妊娠の危険性のある不安だけが真実で、「保健室で会った人なの」自体がカムフラージュのための嘘なのかも知れない。

「スナッフフィルム」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)。「保健室で会った人なの」に続き、犯罪を題材にした曲が続く。どうして、犯罪に着目するのか。その問いには、ドストエフスキーの事を考えよ、と答えるしかない。フョードル・ミハイロヴィッチドストエフスキーは、最終的に究極的な救済に至るまでに、徹底して人間の悪を探求したのだ、と(『罪と罰』ではニヒリズムに基づく殺人を、『悪霊』ではテロリズムを描いている)。なぜ、そんなことが可能になるのか。それは、人間に対する根底的な信頼があって、初めてできる行為だと言っておこう。アーバンギャルドは、現代の病理を描く。それは、最終的に究極的な救済をもたらすためなのだ。そのために、徹底的に懐疑を展開し、苦悩しつくす。スナッフフィルム(Snuff film)は、実際の殺人を撮ったフィルムの事を指している。写真は、被写体を客体化=モノ化するが、その最極端がスナッフフィルムだろう。スナッフフィルムの被写体は、自分から主体的に動く対自存在(実存)であることを止め、完全なる対他存在、すなわち他人のまなざしによって見られるだけの疎外態になる。と、ジャン=ポール・サルトル存在論オントロジー)を使って記述してみたのだが、「スナッフフィルム」では、そうした完全なる客体化のもたらす被写体側の自己を喪う快楽が描かれている。これは、健全な社会の構築のためには存在してはならない快楽なのだが、事実としては存在する。そうでなければ、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』のような世界は説明できない。『O嬢の物語』の冒頭のジャン・ポーランの序文の言葉を使うとすると「奴隷状態の幸福」である。なぜ、自己喪失といえる状態を求めるかといえば、強権的な社会システムや、逃れる事の出来ない人間関係による無意識化への刷り込みがあったのかも知れない。人間の闇を知っているものは、人間の非合理性も無視することなく勘定に入れて、共生社会を考えていかないといけない。「スナッフフィルム」は救いのない楽曲だが(とはいえ、シャッター音を含む無機質で機械的な音の響きが、私には心地よい。この響きは、2018年に発表された『少女フィクション』に収録された「ビデオのように」に継承されているように思う。)、ぎりぎりの思考で見出されたという「エクトプラズム(ectoplasm)」が、この世界はマテリアルだけではないと言っているようである。(エクトプラズムは、心霊主義のジャンルで、心霊者などが身体の外に出した霊が半物質化したものとされるが、それらの心霊写真の多くは、今日ではフェイクとされ、写真技術の向上した現代では、エクトプラズムが映った写真と主張するケースも稀となってきている。)この曲の最後は、一輪の薔薇を捧げる事で結ばれる。傷跡のような真紅の薔薇の花言葉は、愛である。

「プロテストソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)は、山の手線における鉄道自殺を扱っている。五線譜になぞられる自殺死体、気持ちの「すれちがい」を象徴するかのようなイタロ・カルヴィーノの『むずかしい愛』、死と生を見つめるのにふさわしいヨハン・ゼバスティアン・バッハの「G線上のアリア」。「みんなで解けば」「簡単なこと」とある。だが、その想いは届くことなく、すれ違い、もう誰の声も届かない死体となる。そこが「むずかしい愛」だ。鉄道自殺のニュースに、自殺者の事を知らないにも関わらず、クリスチャンが君の事を悼んで祈る。この歌は絶望的だが、少しでも心を開いて、救いを求めていれば、君のことを助けようとした人がいたに違いないことを示している。

あたま山荘事件」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:瀬々信・谷地村啓)は、1972年に長野県北佐久郡軽井沢町にあった河合楽器の保養所「浅間山荘」に連合赤軍が人質を取って立てこもったあさま山荘事件を題材にした曲である。小説集『自撮者たち 松永天馬作品集』に「実録・あたま山荘事件」が収録されていることからわかるように、直接的には若松孝二監督作品「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008年)が、この曲をつくる契機となったと思われる。「あさま山荘」が「あたま山荘」とされている事が、この事件に対する最大の皮肉である。唯物論を唱える革命戦士であったはずの連合赤軍が、誰よりもあたまでっかちの観念論であったこと、観念論であったがために、観念の外の現実を見ることが出来ず、「山岳ベース事件」で仲間を「総括」と称してリンチにかけて殺してしまったことに対する皮肉である。ある意味、笠井潔の『テロルの現象学』でやったのと同等のことを音楽でやったのが、「あたま山荘事件」だったといえるだろう。歌詞中に、カール・マルクスの名前が見出せるが、「丸くする」とのダブル・ミーニングにされている。

『マオ語録』は、『毛沢東語録』の事である。スカートの長さと景気の相関関係について、1926年にヘムライン指数( Hemline Index ) という指数を発表したのは、実際はアメリカのビジネススクール、ウォートンの経済学者ジョージ・テーラーであって、マルクス毛沢東ではない。ジョージ・テーラーはスカートの丈が短くなると、マーケットは上げ相場に、スカートの丈が長くなると、マーケットは下げ相場になると主張した。論拠は、当時、シルクのストッキングが高価だったので、好況の時はストッキングを見せるために、スカートの丈を短くしたというのである。ジョージ・テーラーのスカート理論の根拠は、シルクの価値がそれほどでもない今日では失われている。

プロレタリアートは労働者階級。アウトサイダーは局外者。アウトサイダーアートは従来の芸術家の範疇には収まらない(アカデミックな芸術の教育や訓練を受けていない)が、芸術作品と認められるものを指す(社会から排除された者や精神病を抱えた者による作品、プリミティヴ・アート、民族芸術等)。クレムリンは、ロシア連邦の首都、モスクワ市にある旧ロシア帝国の宮殿で、ソビエト社会主義共和国連邦時代はソ連共産党の中枢が置かれていた。天安門事件六四天安門事件)は、1989年6月4日、中国・北京市天安門広場で、民主化を求める学生と市民のデモを、中国人民解放軍が武力制圧をし、多数の死傷者を出した事件を指す。『赤い戦車』は戸川純が所属したYAPOOSのアルバム『ダイヤルYを廻せ!』の収録曲。「赤飯派」は、松永天馬の小説「実録・あたま山荘事件」に「赤飯派は初潮に由来する。」とある。初潮を迎えると、赤飯でお祝いをするという習慣が日本にあり、この祝いの習慣に反撥するというシーンが、倉橋由美子の小説のどこかにあった記憶がある。端的に、社会自体を再生産して、現行の社会制度を維持するというイデオロギーがあって、妊娠-出産可能になった事で、早速、社会を存続させる社会的責任が負わされるという事なので、その重圧に対する反感が、表面に出る、或いは無意識下に矛盾として記憶されるという事は当然起こる。松永天馬が、社会的タームの中に、赤飯派という言葉を紛れ込ませ、革命運動を扱った歌に別の(パーソナルな、性的な)意味を付与する時、そこのコンフリクトを意識していることを意識して味読すべきである。バルチザンは、抵抗運動や革命戦争のための結社の軍事的構成員を指す。デマゴーグは、政治的扇動者のこと。鉄球は、あさま山荘事件で、警察がとったクレーン車のフック部分をケーブルで補強し、巨大な鉄球を括り付け、連蔵赤軍が立てこもる山荘の壁と屋根を破壊して突入する作戦を指している。「おうちゲバ」は、内ゲバのこと、おうちカフェと重ね合わせることで皮肉っている。「石をバンに」は『新約聖書』「マタイによる福音書」4-3~4を見よ。

3「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

ここで『新約聖書』が導入されるのは、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』の「大審問官」が関係していると思う。荒野での悪魔からイエスへの問いかけは、まず第一が前述の「石がパンに」であり、第二が神殿の屋根の端に立たせて「神の子ならば、飛び降りたらどうか」というもの、第三はすべての国々と繁栄ぶりをみせて「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」、要するにパンと奇蹟と権威に関する問いかけであった。ドストエフスキーの(登場人物イワン・カラマーゾフが考えた)「大審問官」は、イエスはこれらの悪魔の誘惑をはねのけ、人間に自由を説いたが、自由な決断をする事は人間には重荷で、苦悩をもたらすので、地上の権力が大多数の人間の道を決めてやり、地上の権力を司る少数者だけが選択の自由の苦悩を負えばよいと主張する。これについて、埴谷雄高ドストエフスキー』は、ドストエフスキーのいうバンと奇蹟と権威は、現代のソ連と重ねると「パンと電化と党」ではないかと考える。まとめよう。アーバンギャルドが、「あたま山荘事件」で『新約聖書』の「石をバンに」を持ち出したのは、あさま山荘事件の実行犯は、イエスが考えていたような人間の自由よりも、悪魔が唱えていたようなパンを重視するような人たちであったと、ドストエフスキーの文脈では「断定できる」という事なのである。なお、「おうちカフェ」や「おうちごはん」が出てくるのは、後の「くちびるデモクラシー」「コインロッカーベイビーズ」「インターネット葬」と比較すると面白い。「くちびるデモクラシー」「コインロッカーベイビーズ」「インターネット葬」では、現代人の意識が、液晶、スマホ、インターネットの世界に閉じ込められ、外の世界で起きていることに無関心であることが痛烈に批判され、「くちびるデモクラシー」では、結果として言論の統制(言葉を殺す事)や戦争になることが止められなくなるんだと言っている。これと同型で、「あたま山荘事件」では、当時の若者があたまの中の観念の世界に閉じ込められ、外の現実や自己の身体性が見えなくなっている点が批判されている。「あたま山荘事件」は、決して当時の左翼学生という特殊例の考察ではなく、同型の事象は起こりうるということなのである。「あたま山荘事件」は、アーバンギャルド史上、最もシリアスで、ヘヴィな主題の曲と言えるだろう。

「リセヱンヌ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:浜崎容子、ストリングスアレンジ:谷地村啓)。美しい曲である。後の「キスについて」を想わせるような。「ミッション-フィクション-クエスチョン」と韻を合わせ、心地よい語感を与える曲でもある。犯罪篇(「保健室で会った人なの」のテレクラ(援助交際)、「スナッフフィルム」の(快楽)殺人、「プロテストソング」の鉄道自殺、「あたま山荘事件」の左翼テロリズム)は一段落し、「リセヱンヌ」で青春群像劇に入ったと思いきや、この曲は17歳という危うい多感な時期を記述した曲でもあり、自分自身をギフト(贈り物)に変えために、時計を止め、髪を切る等の変身をする過程を描いた曲である。ア・プリオリa prioriはカントの批判哲学用語で先験的、サンデーはストロベリーサンデーなどアイスクリームの入ったデザート、「オリーブの林をぬけて」はアッバス・キアロスタミ監督の「友だちのうちはどこ?」「そして人生はつづく」に続くジグザグ道三部作の第三作め、「ノルウェイの森」はビートルズの曲「Norwegian Wood」にして、それを冠した村上春樹の5作目の小説『ノルウェイの森』およびそれを原作にした『青いパパイヤの香り』で知られるトラン・アン・ユン監督の映画、ア・ポステリオリa posterioriはカントの批判哲学用語で経験的、パッセはバレエ用語で片方の足の膝を曲げ、そのつま先を軸脚の膝あたりに位置させる(両脚で三角形が形作られる)姿勢(ルティレ)を造り出す動き、死海文書は1947年以降死海の北西のクムラン洞窟周辺で見つかった写本群を指し(聖書の成立過程を知る上で重要な聖書考古学上最大の発見と言われているが、それを書いたクムラン教団について、エッセネ派なのか、ユダヤ教分派なのか、サドカイ派なのか、原始キリスト教なのか(共観福音書の元となっているQ資料が死海文書に入っているのか否か)、エルサレムが書かれたものなのか、諸説ある。)、日本ではフィリップ・K・ディックの『ヴァリス』連作での言及や「新世紀エヴァンゲンオン」でゼーレが進める人類補完計画でのバックボーンとして「死海写本」や(実在しない)「裏死海写本」が登場したことから話題になった、ビルエットはバレエ用語でターンを指す。

ダブルバインド」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)。ダブル・バインド(二重拘束)は、イギリス出身のアメリカの文化人類学者・精神医学研究者・イルカ研究者ジョン・C・リリーの造語で、逃れる事の出来ない人間関係の場で、あるメッセージが発せられ、同時にそれを否定するメタ・メッセージが発生される状況をダブル・バインドと呼び、こうした状況が反復される際に、それから逃れようとする心理が働き、妄想型・破瓜型・緊張型といったスキゾフレニー(統合失調症)を引き起こしやすい状態になるとされる。「ダブルバインド」は、<ママ-パパ-僕>から成る家族の三角形を描くところから始まる。精神分析を適用すれば、家族の三角形のなかで、僕はエディプス化される。すなわち、パパへは反撥を、ママには憧憬を抱く。途中、「君」が登場する事から、4人家族かも知れない。描写からは、ママの虚飾にみちた生活、パパの経済人と化した生活が伺える。「濡れたシーツは白く」「君のショーツは赤く」は、家庭内での性暴力を指しているようにみえるが、断定するには証拠不足だ。同様に「ちいさな火傷」は、子供への虐待を指しているようにも見えるがどうなのか。仮に、私の疑いが真実だとするならば、この家族は、スキゾフレニー(統合失調症)になりやすい金縛りのようなダブル・バインドの地獄だといえる。唐突に、「フランシーヌ」という固有名詞が登場する。これは仮定だが、新谷のり子に「フランシーヌの場合」という曲がある。この歌は反戦歌で、1969年3月30日、パリで、フランシーヌ・ルコントという30歳の女性がシンナーをかぶって焼身自殺を遂げたことで作られた曲だという。ベトナム戦争やナイジェリア内戦に心を痛め、ウ・タント国連事務総長に手紙を書いたりしていた女性だという。自殺した時、ビアフラの飢餓についての新聞記事を持っていたという。家族によると、精神科にかかっていた事もあったという。仮に「ダブルバインド」に出てくる「フランシーヌ」が、フランシーヌ・ルコントさんだった場合、彼女が関心を持っていた世界情勢自体、彼女をダブル・バインドのような閉塞感に陥らせ、心まで病ませるものだったといえる。ここに、遠い異国の出来事にも関わらず、主題的近さが現れる。「ダブルバインド」は、何度も、僕たちの言葉や祈りで、少しも世界が変わらないという。それが、68年のフランス五月革命の敗北と、共振を始める。また、実存的な反抗や変革が「構造」を変えることができなかった事とも、共振を始める。「ダブルバインド」は、想いを遂げる事の出来なかった者を結ぶシンパシーの歌だ。それらの無念を、神様だけは知っておいて欲しいと願う。「ダブルバインド」は、初期のアーバンギャルドの楽曲のなかで、一番ダイナミックな心理展開をする曲といえる。

「救生軍」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。問題提起的な「プリント・クラブ」「傷だらけのマリア」から始まり、ドストエフスキーの『罪と罰』を思わせる様々な犯罪の考察を含む地獄遍歴を経て、「リセヱンヌ」「ダブルバインド」で等身大の少女が抱える心の闇に肉薄した『少女の証明』は、「救生軍」で一気に解決篇に向かう。とはいえ、地獄遍歴で、この世界が抱える闇を直視した後の救済が一筋縄で済むはずはなく、救生軍、すなわち心の十字軍を希求する行為は、見返りの保証なしに、不在の神を覚悟しつつも祈るというシモーヌ・ヴェイユ的なものになっている。「この世の外へならどこへでも」という詩を書いたのは、シャルル・ボードレールだったが、「救生軍」はドラえもんの「どこでもドア」があれば、おそらくはこの世界だが、飛び出したいと言い、ドストエフスキーのドロンゲームに陥っているという。「ドロンゲーム」という事は、「プロとコントラ」(ラテン語で「肯定と否定」の意味。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にそういう章がある。)の間で引き裂りかけているという意味なのだろう。ドリエールは催眠鎮静剤のこと、『飛ぶ教室』はエーリッヒ・ケストナーによる児童文学、『同時代ゲーム』は大江健三郎の小説。救急車が「99車」と表記され、後半の「99パーセントと呼応しているようだ。この表記は、完成の100の一歩手前という事かも知れない。マリアージュは結婚、ストレイ・シープは迷える羊、セイレーンは、ギリシャ神話に登場する半身女性で半身が鳥という怪物、オフィーリアはシェイクスピアの『ハムレット』の登場人物、マジョリティは多数派を意味する。「救生軍」の特質として「マスゲーム」という言葉もみられ、集団行動の強さと一体化しようとしているように思われる。

 

◆CDアルバム サエキけんぞう&Boogie the マッハモータース『21世紀さん sings ハルメンズ』(VICL-63567ビクターエンタテインメント)2010年10月20日リリース

『21世紀さん sings ハルメンズ』は、『ハルメンズの近代体操』『ハルメンズの20世紀』に続くハルメンズの三枚目をつくるというコンセプトのもと、サエキけんぞうとBoogie the マッハモータースを主軸に、ゲストボーカルとして、野宮真貴(元ピチカート・ファイブ3代目ボーカル)、桃井はるこアキバ系シンガーソングライター)、浜崎容子(アーバンギャルド)、杉真理(シンガーソングライター、「NIAGARA TRIANGLE Vol.2」にも参加)を招いて制作されたアルバムである。サエキけんぞうが主軸となって展開された少年ホームランズ(2016年発表の『満塁ホームランBOX』で活動の全体像を知ることができる。)とハルメンズから派生する形で、戸川純および戸川純とヤプーズの一連の活動が生まれてきたのであり、アーバンギャルドもまたその影響下にあるグループのひとつであると言えよう。『21世紀さん sings ハルメンズ』への浜崎容子のゲストボーカルとしての参加、2016年にハルメンズハルメンズXとして再結成された際のアルバム『35世紀』に、収録曲「レ・おじさん」のリミックスでアーバンギャルドが強力している事実、更にはハルメンズと関連性の深い戸川純アーバンギャルドのキーボーディストおおくぼけいが組んでライブを実施している事実、サエキけんぞう企画のゲンズブール・ナイトに毎年アーバンギャルドのメンバーが参加している事実が、それを証明しているといえるだろう。このアルバムには、浜崎容子がゲストボーカルとして参加した「ノスタル爺 featuring 浜崎容子 from アーバンギャルド」(作詞:サエキけんぞう、作曲:Boogie the マッハモータース)と「趣味の時代 featuring 浜崎容子 from アーバンギャルド」(作詞:佐伯健三、作曲:比賀江隆男)が収録されている他、ライナーノーツに松永天馬が「時をかけるノスタル爺(都市博を爆破するために)」を寄稿している。「ノスタル爺」は、「焼きソバ老人」の続編にあたる新譜。サエキ自身による「全曲解説」によると、老人性健忘症や痴呆はネガティヴに捉えられがちだが、「ノスタル爺」はバラ色の恋愛に猛進するポジティヴな老人への変貌を描きたかったようだ。「趣味の時代」は『ハルメンズの20世紀』に収録されていた曲だが、今日を予見するような内容となっている。カフカ的-安部公房的-倉橋由美子的な<変身>譚であること、および未来予見性が、サエキけんぞうのつくる楽曲の特質と思われるが、図らずもこの2曲にその特色が顕著に出ている。

◆CDアルバム GROOVE  UNCHANTNOTRE MUSIQUE』(ORGR-36ORANGE RECORDS)2010年12月1日リリース

鈴木桃子(元コーザノストラ)、Pecombo、奈緒(Pluschic like her)、下山陽子(Bougain Ville-A)、野本かりあ、浜崎容子(アーバンギャルド)を招いてのグルーヴあんちゃんのファースト・フル・アルバム。

アルバムタイトルは、日本で『アワーミュージック』として公開されたジャン=リュック・ゴダール監督の原題と同じなので、ゴダール的な音楽の分断と再構成を狙ったものではないかと思う。それを裏付けるように、アルバムのジャケットのアルファベットが、ゴダール的だし、収録曲も斬新に思える。

浜崎容子は、「鏡の中の十月 feat.浜崎容子(アーバンギャルド) (French Version)」(作詞:売野雅勇、作曲・編曲:YMO細野晴臣高橋幸宏坂本龍一)、フランス語訳:江部知子)で参加していて、YMOの曲なのがテクノ・ポップ・ファンとしては嬉しい。

 

2011年

◆CDアルバム ムーンライダーズ『カメラ=万年筆 スペシャル・エディション』(CRCP-20472/3NIPPON CROWN)2011年4月6日リリース

『カメラ=万年筆 スペシャル・エディション』では、Disk1にムーンライダーズによる原曲が、Disk2にさまざまなアーティストによるリミックスが収録されているので、原曲をいかに再編集したかを愉しむことができる。アルバムタイトルの「カメラ=万年筆」は、ヌーヴェル・ヴァーグの映画監督(代表作『恋ざんげ』、私的には『サルトル―自身を語る』の撮影監督である)で、映画批評家でもあるアレクサンドル・アストリュックが唱えた映画理論である。映画を撮るカメラも、エッセイを書く万年筆のように手軽で映画作成の文法から自由になるべきだということである。アストリュックの「カメラ=万年筆」理論は、映画批評家アンドレ・パザンの支持を受け、ヌーヴェル・ヴァーグ作家主義的で個性的な映画を生み出す理論的下地となった。ムーンライダーズのこのアルバムでは、ヌーヴェル・ヴァーグを中心とする映画タイトルが楽曲名に転用され、それらの映画作品へのオマージュとなっている。「狂ったバカンス Remixed by アーバンギャルド」(作詞・作曲:かしぶち哲郎)も、元々はイタリア映画のタイトルで、カトリーヌ・スパーク演ずる小悪魔的な美少女が中年男を翻弄するという内容だった。映画作品など、先行する文化・芸術作品を畏敬の念を込めて、自身の作品中で言及するアーバンギャルドの松永天馬のスタイルは、ムーンライダーズの影響と考えられる。そのため、アーバンギャルドは本作に留まらず、ムーンライダーズの『MODERN MUSIC Special Edition』や、ムーンライダーズのドラマーでボーカルでもあったかしぶち哲郎のトリビュート・アルバム『a tribute to Tetsuroh Kashibuchi ~ハバロフスクを訪ねて』でもリミックスで参加、鈴木慶一 ( ムーンライダーズ) とKERA (ケラ&ザ・シンセサイザーズ、有頂天) のによるユニットNo Lie-Senseの『The First Suicide Big Band Show Live 2014』でも共演している。

◆CDシングル『スカート革命』(UPCH-5708UNIVERSAL J)2011年7月20日リリース

「スカート革命」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルドホッピー神山)、カップリング「プラモデル」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)は、アーバンギャルドのメジャー第一弾シングルである。

2012年にリリースされた『病めるアイドル』に「スカート革命(French Pop ver.)」が収録された事からもわかるように、「スカート革命」はフランスでも膾炙した国際的通用性を持った曲である。透明感のある繊細にしてお洒落なメロディーに、とびきりエスプリに富んだ歌詞が載せられている、毒入りボンボンのような曲である。「スカート革命」とは、端的に言えば、恋の革命である。ただ、この曲が甘いだけのラブソングとならなかったのは、上野千鶴子『スカートの下の劇場』のような性の問題へのまなざしが重ね合わさっていたからである。例えば、歌詞の冒頭の一行は「赤飯事件」の象徴的婉曲表現である。とはいえ、この曲が、ヴィルヘルム・ライヒの説くようなセクシュアル・レヴォリューションや性解放を説いているとは思わない。恋に落ちることによって、恋の絶頂において、初めて禁制に対する侵犯が行われ、「スカート革命」は起きる。この複雑な心理過程をこの曲は記述しているのではないか。

メジャー第一弾で、「プラモデル」のような曲をカップリングで入れてくる事自体、アーバンギャルドらしいと言える。この曲では、現代のマニュアル化された恋愛を、プラモデルのようだと皮肉っている。その恋愛は、プラトニックであり、プラスチックのように人工的で、プラモデルの説明書のように規定されており、予想外のトラブルには対応できない。結果として、アルベール・カミュが描いたような不条理な世界のようになってしまう。『シーシュポスの神話』で、電話ボックスの向こう側でしゃべっている人に対し、カミュは不条理を感じているが、人工的な恋愛では同様の事が起きる。魂のコミュニカシオンが起きない世界なのだ。偶然性やハプニング、理解不可能性が、逆説的に魂の交流を引き起こすはずだが、マニュアル化された恋愛では、予め、そういった事態は排除されている。「プラモデル」ではフロイト精神分析や、ユングの分析心理学では解析不能な、予想外のアクシデントの遭遇が期待されているが、そういった事態は、現代の恋愛では起きないようになっている。マニュアル化された恋愛が支持されているのは、振られるのが怖いという心理であり、人々はルーティンのような恋愛をこなす。アーバンギャルドは、そうしたプラモデルのような世界の外部へと、私たちを連れ出そうとしている。

◆CDシングル『ときめきに死す』(UPCH-5716UNIVERSAL J)2011年9月28日リリース

ときめきに死す」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓、編曲:アーバンギャルド)。「ときめきに死す」は、丸山健二の小説、およびそれを原作とした森田芳光監督による映画のタイトルからの引用である。森田芳光監督による映画では、沢田研二演ずるテロリスト工藤直也の孤独でストイックな生活を描き、最後、宗教家(原作では政治家)暗殺に失敗して壮絶な最期を遂げる過程を描いている。アーバンギャルドの楽曲には、先行する文化、作品名をオマージュの念を込めて引用したケースが多々あり、本作もそのなかに入る。ちなみに、美術の世界での引用にあたるものが、「コラージュ」や「アッサンブラージュ」である。日本では、美術評論家宮川淳が『引用の織物』を書き、「人間が意味を生産するのは無からではない。それはまさしくブリコラージュ、すでに本来の意味あるいは機能を与えられているものの引用からつねに余分の意味をつくり出すプラクシスなのだ。」と書いて、その後のシミュレーショニズムへの道を開いた。文学の世界では、倉橋由美子が『わたしのなかのかれへ』のなかで、カフカカミュサルトルの三位一体から生まれた彼女の反世界小説について、先行する作品の模倣が創造を生むとして、実存主義文学やヌーヴォーロマン(サルトルはアンチ・ロマンと命名した)を基にした新しい文学観を提示した。また、映画の世界では、ジャン=リユック・コダールが映画史に登場するような映画を、批評的に引用したり、登場する人物に物語の本筋とは関係のない本を持たせるなどの試みをし、ヌーヴェル・バーグの方法論を確立させていった。アーバンギャルドの楽曲の造られ方は、それらの芸術上の思潮と対応している。ちなみに、アーバンギャルドによる「ときめきに死す」のプロパガンダ・ヴィデオ(PV)は、「ウルトラセプン」最終回(第49回)史上最大の侵略(後編)で、モロボシ・ダンが友里アンヌに、自身がウルトラセブンであると告白するシーンと背景画像を同じにしている。「ときめきに死す」の歌詞をみてみよう。筒井康隆時をかける少女』、ラベンダー・実験室・試験管といった単語も、そこから来ている。チャネラー・テレポートは、同じく筒井の『家族八景』、『七瀬ふたたび』、『エディプスの恋人』を連想させる。このように「ときめきに死す」は、映画や文学等からの「引用の織物」で出来ている。しかし、引用しつつも、もう一方で、クライマックスで非業の死を遂げる、そこに至上の悦楽があるというコンセプトにまとめている。この曲がラブソングとしても清冽な印象を残すのは、毛糸をほどきながら編む作業をしているからではないだろうか。

「その少女、人形につき」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。人形(DOLL)とクローン羊のドリーを重ね合わせる。さらに、隠し味程度に、女子高生の集団心中事件に着想を得て書かれた如月小春の戯曲「DOLL」をまぶしてみる。資本主義は、マスプロダクツされた人形のような少女という記号を生産する。アイドルも例外ではなく、資本主義というシステムが生み出した製品なのだ。製品として完成させるために、人は少女のイメージを固定化して、様々な記録媒体に格納する。製品として仕舞うことは、生き生きとした活動を止められ、ピンに止められ、お終いになるということなのだ。会いに行けるアイドル、夢で逢えるアイドル。16・17・18歳のイメージに固定化されたアイドルとは、本当に生きられた状態といえるだろうか。アイドルの生を救うために、私たちは記録媒体を壊す。そこから解放されるものだけを信じるのだ。本作は、後の「病めるアイドル」を予告する作品と見做すことができる。

◆CDアルバム『メンタルヘルズ』(初回限定盤UPCH-9691/通常盤UPCH-1849UNIVERSAL J)2011年10月26日リリース

「堕天使ポップ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。『3年B組金八先生』の第2シリーズの第5回・第6回は「腐ったミカンの方程式」のその1と2だが、本作にも「腐った〇〇の方程式」が登場する。そうなると歌詞の冒頭も「「人間」っていうのは、 人と人の間で生きているから、 「人間」っていう んじゃないかな。」(坂本金八)から来ている可能性がある。また、エミール・アルドリーノ監督による映画「天使にラブ・ソングを…」を想起させる部分もある。こうして、人間と天使が登場した後、人間と天使のあいだでドラマが始まる。

「堕天使ポップ」では、心のなかが地獄という人間の立場に寄り添う立場が鮮明に打ち出される。不自由さの自覚とは、ここではメンタルヘルズを指している。なぜ、心に地獄を抱えている人間に寄り添うのか。それは、ジャパニーズ・ポップスがこれまで担ってきた役割だからであり、アーバンギャルドもまたその役割を引き継ぐという事を意味する。歌詞中にテストや「腐った〇〇」が登場するのは、主なリスナーとして学生が想定されているからである。ラジオの放送網は、深夜ラジオの可能性が高い。また、ケーキやいちごとの関連で、フォークとナイフのフォークだと思ってしまうが、フォークソングの担い手が、元々始めた役割だという意味も、ダブル・ミーニングで持たせてあることは間違いない。

歌詞の途中で、一人称で天使と思われる「僕」の言葉が挿入される。どうやら、人間の言葉を聴けるようになるためには、天使は人間にまで堕ちないといけないようだ。このあたり、ヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』に出てくる人間になりたいと願う守護天使ダミエルに、松永天馬は変身しているようだ。

「スカート革命」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルドホッピー神山)。2011年7月20日リリースの同名シングルの再収録。前述のシングルの解説を参照のこと。

「子どもの恋愛」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。私たちは、自らの意思とは関係なく、神様のセットしたプログラムによって、大人の身体になってしまう。そうした身体とこころのアンバランスさを抱えて生きていかないといけないと同時に、自分の意志を統御できずに、反抗的な態度を取ってしまったり、相手を傷つける過ちを犯したりもする。大人になると、さらにお金を燃やす、言い換えれば消費による享楽が介在するようになる。こうなると、純粋な魂のコミュニカシオンのような恋愛は、ますます難しくなる。相手のことを考えるほど、相手のことを幸せに出来ているか、或いは自分の行為が利己的な願望ではないかと懐疑が始まる。このように、愛から始まる地獄もある。しかし、地獄から逃れることができない以上、この苦悩すらも抱きかかえるように愛するしかないのではないか。作中、愛がIと置き換えられている箇所があるが、金井美恵子の小説『愛の生活』では愛がI(私)に、更にi(虚数、孤独の表現)に置き換えられる。人は、愛ゆえに孤独を知る。

「墜落論」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド)。「墜落論」は、坂口安吾の『堕落論』と見間違えるように構成されている。それは『ガイガーカウンター・カルチャー』に収録された「眼帯譚」が、ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』と見間違えるように構成されているのと同型である。坂口安吾は、短編「恋をしに行く」の作者でもあるから、松永天馬の好む作家であることは、ほぼ間違いない。坂口安吾無頼派的生き方、堕落のすすめが、アニメーションや電脳世界等への社会的ひきこもりに対する処方箋であり、外部への誘惑者として機能すると位置づけている可能性がある。曲の途中、「ツイラク論者~」以降、演劇調の語り口になるが、このあたりはストロベリーソングオーケストラの非売品CD「人力飛行機の為の演説草案」および「電球論」の騙り口を想起させる。「墜落論」の中には、パイロット、竹槍で撃ち落とせ、B29など、飛行機にまつわるイマージュに満ちている。「人力飛行機の為の演説草案」と「電球論」は、寺山修司の詩に、ストロベリーソングオーケストラの座長、宮悪戦車が曲をつけたものである。

『青春の蹉跌』は、石川達三の小説。『沈まぬ太陽』は、山崎豊子の小説。『赤い鳥』は、鈴木三重吉が創刊した童話雑誌。『ツ、イ、ラ、ク』は姫野カオルコの小説。「我思う故に我あり」は、ルネ・デカルト方法序説』。『二十歳の原点』は、高野悦子が残したノート。『うたかたの日々』は、ボリス・ヴィアンの小説。こうした累積から、外部に出ようとして、もがき苦しみ、墜落していった先行者の歴史が浮かび上がる。私たちは、墜落が運命づけられている。たが、外部に出るために人力飛行機と化して飛翔する、それを止める理由にはならない。それこそが、生きることなのだから。

「バースデーソング」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド)。セルジュ・ゲンスブールフランス・ギャルに楽曲提供した「アニーとボンボン」。ナタリーは、株式会社ナターシャが配信する情報サイトだが、「おやつナタリー」は2011年に終了してしまった。ハイチ・ゾンビについては、人類学者のウェイド・デイビスが、人骨・アマガエル・ヒキガエル・ゴカイ・フグをすり潰し、フグ毒であるテトロドトキシンの含まれるゾンビ・パウダーをつくり、共同体から排除された人間に振りかけて、命令に絶対従う奴隷的廃人を造るとしている。フランス・ギャルのくだりは、「ゲンスブール・ナイト」に繋がり、ゾンビのくだりは「ゾンビ・パウダー」に繋り、アイドル歌手になれないというくだりは、「病めるアイドル」に繋がる。「禁じられた遊び」は、ルネ・クレマン監督による映画のタイトル。クレイダーマンは、フランスのポピュラー系ピアニストのリチャード・クレイダーマンのこと。「胎児の夢」は、夢野久作の『ドグラ・マグラ』に出てくるエピソードで、胎児にも意識があり、潜在意識もまた進化論の道を辿り、「個体発生は系統発生を繰り返す」とする。ルブランは、アルセーヌ・ルパン・シリーズを書いたモーリス・ルブランのこと。ドイルは、シャーロック・ホームズ・シリーズを書いたコナン・ドイルのこと。この楽曲のハイライトは、人はだれしも終焉の時を迎え、運命の時が私たちに追いつくということ。その舞台では、探偵小説と違って、私たち自身が加害者であり、被害者であり、当事者として生きるしかないこと。「バースデーソング」というタイトルにも関わらず、松永天馬は運命の最期の時から、逆説的に誕生を照射する。当事者主義の観点から言えば、傍目から評価され祝われるということは不要である。ただ、実直に当事者として生きる、それがすべてであるから。

ヴァガボンド・ヴァージン」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信・谷地村啓、編曲:アーバンギャルド)。Vagabondとは放浪者のこと。タイトルは、歌詞中の「放浪処女」と意味が一致する。『薔薇の名前』は。イタリアの記号学者で作家のウンベルト・エーコの小説名だが、直接の関係はなく、やがて花開くことを薔薇のメタファーで伝えようとしているように思われる。主題としては、野坂昭如が歌い、戸川純がカバーした「ヴァージン・ブルース」の系譜にあるものと考えられる。「放浪処女」ということは、小谷野敦原作で、小沼雄一監督が映画化した『童貞放浪記』の女性版なのかもしれない。後に、松永天馬監督・脚本・主演映画「血、精液、そして死」で、園子温監督作品『アンチ・ポルノ』の主演女優・冨手麻妙を起用したり、園子温監督作品『うふふん下北沢』の音楽をおおくぼけいが担当したりと、園子温監督に関連性の深い仕事が増えるが、仮に「ヴァガボンド・ヴァージン」が、神楽坂恵(現在、園子温監督夫人)主演映画『童貞放浪記』へのオマージュであるとするなら、園子温監督との関連性はそこで生じていることになる。仮説の域を出ない話を中断して、曲の本筋に戻ろう。「ヴァガボンド・ヴァージン」であることを、青春の一頁として捉え、やがてこの時を忘れるだろうが、時折は笑ったり泣いたりして回想する時もあるだろうと推測しており、時間的経過を勘定に入れて俯瞰的にみる視点を導入している。

「雨音はシャロンの調べ」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド)。後に浜崎容子がカバーすることになるガゼボの「雨音はショパンの調べ」を彷彿とさせるようなタイトルである。シャロンは、イスラエルの地名で、『旧約聖書』の「出エジプト記」では「乳と蜜が流れる広い良い土地」を指す。この地域で咲くムクゲの花は、シャロンの薔薇と評される。『旧約聖書』で「シャロンの薔薇」は、純潔の象徴とされる。このアルバムの前の曲「ヴァガボンド・ヴァージン」が、『薔薇の名前』に言及しているので、ここで登場する花は、純潔の象徴としての薔薇である可能性が高い。『パーフェクト・ブルー』は、宮部みゆきの小説。『幽霊はここにいる』は、安部公房の戯曲。『ローズマリーの赤ちゃん』は、ロマン・ポランスキーのホラー映画。ローラ・パーマーは、『ツイン・ピークス~ローラ・パーマー最期の7日間』の主人公で、装飾された世界で最も美しい死体として有名となった。全体としては、ママのクローゼットで見た戦慄の体験が元になっている。それは、パパが関係しているようだが、明確に言語化されることはない。逆から言えば、言語化できるようになり、隠していたものが表に出てしまえば、治療は完了する。結果として、涙を流す、震えてくる、自傷するといった異常行動が見られるようになる。異常行動から推察して、何か非常にトラウマとなるようなものを目撃したということになる。心理学的には、信頼できる安心できる心理的紐帯を造ることで、少しづつ恐怖を取り除いていくことになるが、まずはこの曲を聴くこと、心を開くことが一助となるだろう。

 「ゴーストライター」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。「ゴーストライター」が「タイプライター」になり、「ライター」が「ライダー」となり、更には「アウトサイダー」となる。凄まじい語呂合わせ、韻の踏み方だが、そのなかに『アウトサイダー』と『ポルターガイスト』、コリン・ウィルソンの本のタイトルが2冊も入っているのは偶然なのだろうか。コリン・ウィルソンは、イギリスの作家・評論家で、実存主義文学の影響下のもと、悲観的な実存主義とは違って、意識の進化や、マズローの心理学を取り入れ、健康な精神に訪れる至高体験を強調した楽観主義的な新実存主義を提唱し『アウトサイダー』を書いた。後に『オカルト』を書き、人間の持つ潜在能力X機能の発現に関心を示すようになる。その後、死後生を扱った『アフターライフ』、騒がしい霊を扱った『ポルターガイスト』を書いて、単なる潜在能力ではなく、膨大なデータをもとに霊が実在すると認めないと説明が難しい例が多々あるとした。アーバンギャルドには、未知のもの、超越的なものへの志向が見られるが、それが前面に出た楽曲のように思われる。

 「粉の女」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。「粉の女」は、安部公房の『砂の女』を連想させる。「はじめに言葉があった」は、『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」の冒頭の言葉である。ゲーテの『ファウスト』は、それを「はじめに行為があった」と書き直す。フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』で、ホースラヴァー・ファットは、言語を行いに変換することから、実存主義は端を発しているのだとし、自身は言語から議論をスタートさせた。「粉の女」では、『新約聖書』からスタートし、「二十六話」云々の部分で、「新世紀エヴァンゲンオン」および旧劇場版エヴァンゲリオンにおける綾波レイにジャンプする。「粉の女」は、綾波レイだったのだ。「粉の女」は、綾波が実験室の巨大な試験管の中で生まれ、だからこそ、替えができる、元を正せば粉をこねくり回すようにつくった存在であることを指している。ここで綾波レイを登場させたのは、綾波が「不在の少女」というアーバンギャルドが一貫して追求しているテーマを表象=代理する題材だからである。資本主義は、常に「不在の少女」を、実体のない少女のイマージュ=記号を生産し続ける。「不在の少女」は、量産される、マスプロダクツされるのだ。碇ゲンドウの個人的理由、妻である碇ユイの面影を持つ少女を身近に置いておきたいという理由で、いくつものスペアを持つ綾波レイの持つ虚無が「粉の女」の主題である。

 「ときめきに死す(Hell’s mix)」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓、編曲:アーバンギャルド)。2011年9月にリリースされたシングルの再録。詳細は、シングルの解説を参照されたし。なお、シングルの解説では、専ら筒井康隆のことを述べたが、「マドレーヌ」の箇所が記憶の喚起と結びついているので、この箇所はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を想起しながら書かれた可能性がある。『檸檬』は梶井基次郎の小説。最後は映画『ゴースト ~ニューヨークの幻~』を意識して書かれた可能性あり。

「ももいろクロニクル」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓・松永天馬、編曲:アーバンギャルド)。タイトルは、「ももいろクローバーZ」の「ももクロ」から来ているのだろうが、桃色が赤い血と白い骨の中間色であることから、『聖書』の初源に関わる壮大な展開をみせる。現代の若者は、心に地獄(メンタルヘルズ)を抱えていて、中二病だと言われるが、人類史において、心の地獄という問題を抱えて生きた最初の人は、イエスその人ではなかったか、という問いである。イエスが、救い主キリストと呼ばれるようになったのは、心にデカダンを持ち、そうであるがゆえに強権的ではなく、人に愛を与える存在になったのではないか、ということである。

※初回限定盤 DVD(Disk2)

「子どもの恋愛」PROPAGANDA VIDEO (作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

 

2012年

◆DVD『プロパガンダヴィデオ2012』(UPBH1301UNIVERSAL J 2012年1月25日リリース

楽曲のみならず、PVまでもプロパガンダヴィデオと名付け、自前でアートワークもこなす。初期のアーバンギャルドは、ありとあらゆることを自前でやっていた。ここに収録されたのは、そんな自主制作期から、メジャーデビューまでのプロパガンダヴィデオである。(メジャーになってからは、青木亮二、古賀学、ターボ向後といった映像作家に、PV制作を依頼することもあるようになったが。)

 プロモーション・ビデオを、あえてプロパガンダヴィデオと呼ばせる。そこには、佐藤信監督による『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』への敬意があるのではないか。トラウマテクノポップと自称するアーバンギャルドにとって、イエロー・マジック・オーケストラYMO)は、大きな存在であることは間違いないはず。

或いは、グレゴリー・ベイトソンの『大衆プロパガンダ映画の誕生』か、ベイトソンの論考が対象とした劇映画『ヒトラー青年クヴェックス』のようなプロパガンダ映画を意識した可能性もある。グレゴリー・ベイトソンは、文化人類学者だが、学問のジャンルの越境者として知られ、精神医学の分野でも、タブルバインド・セオリー(精神的に二重拘束=ダブルバインド状態化されると、スキゾフレニー=統合失調症を誘発しやすくなるという理論)を残している。アーバンギャルドに「ダブルバインド」という曲があることから、ベイトソンを意識した可能性も否定できない。

実はYMOの散会コンサート(YMOは解散に積極的な意味を持たせ、今後バラバラになって戦うということで散会と呼ばせていた)を撮った『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』で、YMOナチスを思わせるようなコスチュームを着ている。同様に、アーバンギャルドのその後の作品「くちびるデモクラシー」でも、軍服が使われている。YMOがミリタリー・ルックという点に関して、当時、左翼の側から不吉だとか、ナチズムの美学だとかの批判があったようだ。しかし、YMOのメンバー、坂本龍一は、環境問題や平和問題への発言でも知られ、行動から容易に推察されるように、ナチズムとは真逆の思想の持ち主であり、都立新宿高等学校時代にロックアウト中の校舎でピアノを弾いていたというような伝説すらあるほどである。また、アーバンギャルドの「くちびるデモクラシー」は、歌詞からしてナチズムではなく、むしろナチズムのような言論統制に対する言葉による叛乱を呼び掛けていた。では、衣裳と思想のねじれ現象は、一体、何なのか。

おそらくは、レニ・リーフェンシュタール(『意志の勝利』、『オリンピア』といった映画を撮った。戦後、アフリカのヌバ族や水中写真で、写真家としても脚光を浴び、石岡瑛子による紹介もあって、パルコ等の広告文化にも影響を与えた。)のようなナチズムの美学による強度を奪還し、ナチズムではなく、ナチズムのような全体主義と戦う武器として再編成をする企てではないか、と考えられる。それは、無論、下手をすれば、ミイラ取りがミイラになる、或いは深淵を覗くとき、深淵もこちらを覗いている(フリードリヒ・ニーチェ)という危険な綱渡りでもあるのだが。

話を本題に戻そう。このDVDのジャケットは、古屋兎丸による描き下ろしである。古屋兎丸は、その後もアーバンギャルドとのコラボで「前髪ぱっつんセーラー服」をヴィレッジヴァンガードで販売したりしているから、何かと関わりの深い漫画家である。

「プリント・クラブ(OFF AIR ver.)」には、アーバンギャル/ギャルソンが書いた無数の葉書が使われていて(画像のサンプリングが為されている)、その中には私の書いたものも含まれている。

◆CDシングル『生まれてみたい』(UPCH-5739UNIVERSAL J)2012年3月7日リリース

アーバンギャルドは、事実に触発されながらも、事実を超越するアートを志向する。

このシングル「生まれてみたい」がリリースされた時、前年に起きた東日本大震災で壊滅した日本への再生への祈りが込められた曲なのだと、私は受け止めた。

「生まれてみたい」は、妊娠を題材にした曲だ。それまでの楽曲、「ベビーブーム」や「セーラー服を脱がないで」では、処女性が重視され、社会の再生産システムとしての妊娠は、否定すべきものとして立ち現れた。なにしろ、妊娠の結果を示すイコンとしての巨大なキューピー、都市夫は、生まれるべきではないものとして、斬り付けられていたのだから。

そのあとに発表された「生まれてみたい」は、アーバンギャルドにとって、重大な転回点を示すものだった。この価値の転倒が起きたのはなぜか。勿論、東日本大震災が契機である。

「生まれてみたい」は、体内にいる未来の子どもからの手紙というかたちで綴られる。ただ、手紙という手段は心もとない。遅配や誤配がつきものだからである。歌詞中に、着信に気づかないというくだりがあるのは、東浩紀の『存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』を意識してのことだ。東は、マルティン・ハイデッガー的な存在論脱構築から、ジャック・デリダ流の郵便的脱構築へのパラダイム・シフトを唱え、メッセージには常に届けたい相手に届かないリスクがつきまとい、郵便的不安が発生するとした。とはいえ、到着可能性に不確実性がつきまとうにせよ、手紙は発送されねばならない。

未来の子どもからのメッセージは、まだ母になることを気づかないあなたに送られる。あなたは、まだニヒリズムに犯されていて、あなたの内面のニヒリズム(メンヘラと言い換えてもよい)は、廃墟と化した街と重なり合う。未来の子どもからのメッセージは、愛のギフトでもある。生きることに価値を見出せず、ビルの屋上に立つあなたに、未来の子どもは呼びかける。あなたは、まだ本来のあなたになっていない。あなたは、未来を生み出す価値のある存在なのに、まだ自分自身を見失っている。

作中「コインロッカー」が出てくる。村上龍の『コインロッカーベイビーズ』を意識したのだろう。後のアーバンギャルドの曲「コインロッカーベイビーズ」では、子どもをつくるという事が主題となっている。「生まれてみたい」は、これから生まれてくる子どもの観点からの現在のあなたへの価値づけだとすれば、後の「コインロッカーベイビーズ」は、子どもを産もうとする側からの観点となっており、この二曲が対となっていることは間違いない。

曲の最後のほうで、未来の子どもと、飛び降り自殺を図る寸前のあなたが、ひとつになる。分裂した複数の自己がひとりの人間であったという展開は、P・K・ディックの『ヴァリス』の結末を思い起こさせる。そうして、一点に集中した人格が生まれる時、あなたはあなた自身として生まれ変わる。「生まれてみたい」は、アーバンギャルドのなかでも珠玉の名曲である。

 カップリングで収録された「u星より愛をこめて」は、曲者である。山岸涼子の少女漫画『パエトーン』は、原子力発電の是非を問うものである。『遊星より愛をこめて』は、ウルトラセブン第12話で、映像ソフトになる段階で欠番とされた幻の放送回である。何が問題になったかというと、この回に登場するスペル星人は、ケロイドがあり、原爆による放射線障害で造血ができなくなり、地球人から吸血するようになったという設定だったからである。さらにレイ・ブラッドベリの『華氏451度』は、本の所持や読書が禁じられた世界を描いている。華氏451度は、本の素材である紙の燃える温度である。端的にいって、この曲が東日本大震災に伴う福島第一原発メルトダウン事故による不安感を、楽曲化したものであることは間違いない。しかも、ブラッドベリが示しているのは、この楽曲をメジャーで発表するにあたって、規制が働いたことを示唆している。そのため、「放射能」を「ラジウム」と言い換えたり、山岸涼子ウルトラセブンの喩えを使ったり、涙ぐましい努力がなされている。この楽曲は、原発事故の不安感と、自主規制というかたちで発生した言論統制へのプロテスト(抵抗)を表明した問題作となった。

◆CDシングル『病めるアイドル』(UPCH-5752UNIVERSAL J)2012年6月20日リリース

「病めるアイドル」がリリースされた当時、日本は空前のアイドル戦国時代で、アーバンギャルドは5番勝負と称して、バンドの側からの挑戦として、5組のアイドル(BiS、でんぱ組、Negicco、バニラビーンズ、ぱすぽ☆)と対バンした。『病めるアイドル』の裏ジャケットをみると、アイドルのような赤・黄・緑・ピンク・青のコスチュームで、楽器を持っていない。アイドルと同じ土俵で対決したいということなのだろう。しかし、「病めるアイドル」の歌詞を見ると、通常のアイドルソングでは隠蔽される「心の闇=病み」を暴露するものとなっている。これは、アーバンギャルド流の「病者の光学」(ニーチェ)によって解明された暴露心理学である。この方向性での探求は、この曲のリリース後も続き、後に「平成死亡遊戯」という極めて高い完成度の楽曲として結実することになる。

「病めるアイドル」の歌詞中に出てくる「ダイアモンドは傷つかない」は、三石由起子が『早稲田文学』に発表した小説のタイトルであり、それを原作として藤田敏八が映画化した田中美佐子主演の映画のタイトルである。歌詞中に「パフュームPerfume」と「カプセルCAPSULE」が出てくることが興味深い。この歌詞は「のっち・かしゆか・あーちゃん」と、彼女たちをプロデュースしている中田ヤスタカを指しており、彼女たちのテクノポップが「昼」であるならば、トラウマテクノポップを自称するアーバンギャルド「夜」テクノポップであるとして、アイドル・ブームの陰にある少女たちの「闇」に肉薄する。

この曲は、アイドル・ブームという時流に媚びたものだろうか。違う、その認識は断じて間違っている。アーバンギャルド、特に松永天馬の造る歌詞には、常に一貫して、次のテーマが存在する。まず、資本主義という都市の装置、欲望機械があり、その機械を稼働させるために、「少女」のイマージュが生産される。この「少女」のイマージュが、いわば馬の前にぶら下げたニンジンのような機能を果たし、資本主義は前に進むことになる。音楽産業によって造られた「アイドル」もまた、理想化された「少女」のイマージュの最たるものであり、現実の、実存としての少女自身と解離が起きている。この矛盾を意識するとき、少女自身は病むしかない。そして、アーバンギャルドは、都市の非情な論理によって傷ついた少女自身の内奥の理解者として、共依存ではなく、あくまでこの生の並走者として寄り添うというのである。アーバンギャルドが、「病めるアイドル」をリリースしたのは、時代が強いた必然なのである。
 カップリングで収録された「萌えてろよ feat.ぱすぽ☆」は、アーバンギャルドによる『資本論』といった趣きの凄い曲となっている。ぱすぽ☆の三人(奥仲麻琴増井みお根岸愛)を使って、「資本主義」について歌わせているのだから。「萌えてろよ feat.ぱすぽ☆」に差し挟まれた台詞によると、私たちの「恋愛」も、個人的な事にとどまらず、社会や経済のシステムに組み込まれており、不景気が戦争の火種になるので、「恋愛」によって誰もがお金を使い、好景気にしないといけないという認識が表明される。一方、歌詞ではマネーゲームのような恋の駆け引きに対する批判がなされる。「愛」は永続的であり、「恋」は一過性である。しかし、資本主義のシステムに翻弄される私たちの「恋愛」は、いつしか永続的な「愛」を売り渡し、一過性の駆け引きからなる「恋」に置き換えられてしまう。

こうした認識は、ジャン=リュック・ゴダールの映画を連想させる。ゴダールは、恋愛を描いているようで、同時に都市を描いている。アーバンギャルドも、ラブソングの振りをして、この社会基盤すら俎上にしてしまう。

◆DVD『アーバンギャルドSHIBUYA-AXは、病気』(UPBH9489UNIVERSAL J)2012年6月20日リリース

2012年3月20日にSHIBUYA-AXで行われたライヴを収録したDVD。「ロキノン系ならぬロキソニン系バンド、アーバンギャルドです!」 

映像特典として「都市夫、渋谷にあらわる」と「よこたんカメラ@SHIBIYA-AX(Leg fetish angle)」が収録されている。

 特筆すべきは、このDVDに付録としてつけられたミニアルバム『不良少女のアーバンギャルド』には、各メンバーによる「セーラー服を脱がないで」「水玉病」「女の子戦争」「東京生まれ」「傷だらけのマリア」のリミックスが聴くことが出来、これにより、各メンバーの音楽性の違いや、意外な一面(私には鍵山喬一による「東京生まれ」が、大人の雰囲気で、新しい発見だった)を知ることができる。

また、前任の女性ボーカル時代の幻の楽曲「テロル」の新録と、新曲「コスプレイヤー」が収録されている。残念なことに「テロル」と「コスプレイヤー」の歌詞カードがない。DVDということで、どの曲にも、歌詞カードがないのだが。

「テロル」は、「チロルチョコ」の歌かと思いきや、テロルと破壊、ニヒリズムの曲に変貌していく。この予想を覆す生成変化を愉しむ曲といえるのかも知れない。

コスプレイヤー」は、ひとつの恋が終わった後に、季節とともに目まぐるしく変貌した「少女」のイマージュに別れを告げる曲である。「少女」の千の仮面は、コスプレヤーがそうするように脱ぎ変えられるが、この衣裳は恋の相手、さらにはその背景にある都市が少女自身に押し付けた虚像である。この歌の主人公は、女の子としてのコスプレを脱ぎ捨て、別れを告げることで、本来の生を回復する。軽快なメロディーとともに開示される物語は、重い主題を孕んでいる。

このミニアルバムのCD本体には、真珠子のイラストが使われている。アーバンギャルドは、こうしたかたちで、新しいアーティストに発表の機会を与えようとしているように見える。

◆CDシングル『さよならサブカルチャー』(UPCH-5769UNIVERSAL J)2012年9月19日リリース

なぜ、サブカルチャーに別れを告げるのか。「さよならサブカルチャー」がリリースされた時、疑問に感じたものだ。

疑問はすぐに解消された。翌月リリースされたアルバム『ガイガーカウンターカルチャー』が答えだ。

メインカルチャーに対する従属するサブとしてのカルチャーではなく、カウンターカルチャー(対抗文化)として、ロックバンドとしてのアーバンギャルドを再構築したいということなのだ。なにゆえに。それは、ガイガーカウンターが、答えを指示している。東日本大震災に附随して起きた原発事故が、社会への疑義を強め、更には各人のアイデンティティーにも危機が浸食し始めた。そうである以上、カウンターカルチャー(対抗文化)としての役割を果たすのが、若者の叛逆を本質とした歴史を持つロックの継承者としていけないのではないか。

アーバンギャルドは、サブカルチャーから生まれたバンドである。観念的なトラウマテクノポップであるアーバンギャルドが、反骨の肉体を持とうとしていた、と解することができる。

 サブカルチャーとしての音楽を聴き、それに恋し、魂を揺さぶられ、涙まで流して育った「少女」は、『ノストラダムスの大予言』のように世界が終わるのを見たのだろうか。違う。世界が終わったのではなく、さまざまな社会の苦難が、「少女」を「少女」ではいられなくし、サブカルチャーに別れを告げるようになる。これは、アーバンギャルドによる「歌のわかれ」(中野重治)なのである。

カップリングの「なんとなく、カタルシス」についてだが、カタルシスは、精神の浄化を意味する言葉である。「なんとなく、カタルシス」というタイトルからは、田中康夫『なんとなく、クリスタル』を連想させる。アーバンギャルドの松永天馬の歌詞の中には、先行する文学作品や映画のタイトルなどの文化的アイコンが数多く埋め込まれている。しかし、このような手法は『なんとなく、クリスタル』のものでもある。『なんとなく、クリスタル』は、ファッション・ブランドやAORの楽曲名などを記号として消費する。文学作品で、このような傾向を持っているのは、他にも倉橋由美子の初期の少女小説がある。倉橋由美子の場合、フランス現代思想や異端文学が観念として消費されるのだが。従って、アーバンギャルドが手法的に近い『なんとなく、クリスタル』を連想させる楽曲をつくることに不思議はない。歌詞中の文化的アイコンを拾い出してみよう。「殺しのドレス」は、アンジー・ディッキンソン監督作品、マイケル・ケイン主演のサスペンス映画。「殺しのライセンス」は、リンゼイ・ションテフ監督作品、トム・アダムス主演のスパイ映画。「カタルシス」「ドレス」「ライセンス」、韻を合わせるため、末尾が「ス」の言葉が選ばれている。更に、「カタルシス」から「カタストロフィ」(破局)へと、言葉の連想が続いている。「時代はサーカスの象にのって」は、寺山修司脚本の天井桟敷の代表作のひとつであり、頭脳警察が同名の楽曲をつくっている。このように「なんとなく、カタルシス」には、映画や芝居のタイトルが埋め込まれている。キーワードや概念を作品に組み込む『なんとなく、クリスタル』の手法が踏襲されていることがお分かりいただけただろうか。「なんとなく、カタルシス」がもたらす清涼感は、「カタストロフィ」(破局)の予感と、現実に対する絶望感がもたらしている。この絶望と危機感が、カウンターカルチャー(対抗文化)を生み出す契機となっていることは間違いない。

◆CDアルバム『ガイガーカウンターカルチャー』(初回限定盤UPCH-9787/通常盤UPCH-1894UNIVERSAL J)2012年10月24日リリース

ガイガーカウンターカルチャー』のジャケットは、空中から俯瞰的に撮影された都市の写真に、キスマークがついているというものである。(初回限定版では更に、キスマークに水玉病が生じている。)これは、神によってもたらされたキスマークである。

「あした地震がおこったら」は、2010年の作品だが、その翌年、東日本大震災が実際に起こる。「あした地震がおこったら」に、大地に巨大なキスの痕跡をつけるという行為が登場する。このような行為ができるのは、人間を超えた存在であることは間違いない。地震は、神からの贈与である。その真意はわからない。人間を超えた存在は、人間の解釈を超えた存在であるからだ。私たちは、この過酷な運命を、受け止めるしかない。(大地にキスをするという行為は、フョードル・ミハイロヴィッチドストエフスキーの作品で、ラスコリニコフや、アレクセイ・カラマーゾフが大地にキスをするというところから来ている気がする。)

ガイガーカウンターカルチャー』が生まれてきた背景には、震災が起き、すべてが黒い津波に押し流され、街は廃墟と化し、更にそれが原因で原発メルトダウン事故が起きた、そうした世相がある。更に言えば、原発事故による放射能災害が「直ちに健康に影響はない」としても、いずれ健康に影響が出るのか、情報が錯綜し、何を信じたらいいのかわからない、そういう心理的背景がある。あの当時、ガイガーカウンターを買った人は(私もその一人だが)自己防衛のため、自身で科学的に正しい真実を知らないと、政府もマスメディアも本当の事を言っている保証はないと思ったからである。では、アーバンギャルドはどうしたか。アーバンギャルドは、アーティストであるから、アーティストとして、この現実をアートの形に昇華したのである。そのアートは、現実と遊離した芸術至上主義的なものではなかったし、かといって、アートであることを放棄した、事実性のレベルでの直接的政治行動(例えば、サウンドデモや替え歌による政府批判は、アートであることは二の次で、政治的効果だけが主眼である)とも一線を画していた。あくまでも、カウンターカルチャー(対抗文化)としてのロックを構築し、混迷する人々に音楽を通じて生きる勇気を与えることに力が注がれた。『ガイガーカウンターカルチャー』は、そうした成果である。

魔法少女と呼ばないで」は、当時流行った「魔法少女まどか☆マギカ」のような魔術戦争の設定のもとに展開されるが、中身は「少女」であることを演ずる女の子が隠している血みどろの内心に対する心理的洞察である。ここでは「少女」を演ずるための化粧道具が、変身のための魔術道具として描かれている。一見、かわいい文化に見えても、内心には、造られた「少女」像という虚像と、ほんとうの自分という実像の二重性という矛盾を抱えており、常に別の魔法少女との競争を強いられている。

「さよならサブカルチャー」と「病めるアイドル」は、前述したので、省略。

「処女の奇妙な冒険」は、「ジョジョの奇妙な冒険」をもじったタイトルが使われているが、そこで展開されるのは、処女性に関する様々な考察=知的冒険である。例えば、世界の名作童話(白雪姫、眠り姫、人魚姫)にも、処女性を重視し、結婚を良いものとするイデオロギーがセットされていて、童話が教育を通じて、社会自身を再生産する方向に寄与するといったことである。ここでは、メッセージらしきものが見える。お姫様のように何もせずにただ待つのではなく、好きな道を歩め、それが如何にいばらの道であっても、というメッセージが。

コミック雑誌なんかILLかい」には、「コミック雑誌なんかいらない」と「十階のモスキート」、どちらも内田裕也主演の映画のタイトルが、歌詞中に埋め込まれている。歌詞中の「アトミック・エイジ」が、大江健三郎の「アトミック・エイジの守護神」だとすると、「ジャンピン」は、石原慎太郎の「ファンキー・ジャンプ」かも知れない。トキワ荘は、手塚治虫藤子・F・不二雄藤子不二雄Aらが住んでいたアパート。「わたしは神になりたい」は、ドストエフスキー『悪霊』に出てくるキリーロフを想起させる。キリーロフは、神は必要だ、しかし、神は存在しない、ゆえに自分が神になるしかないとして、世界にその福音を知らせるために首吊り自殺を図る。ドストエフスキーの見方は、こうだ。キリーロフをはじめ『悪霊』に出てくるニヒリストたちは、ロシアの大地に根差した神を喪っており、観念的にその欠損を充填しようとしてテロル(キリーロフの自殺も、テロルの一形式として解釈が可能である。キリスト教において、自殺は神への叛逆と見做されるのだから。)に走る。松永天馬の創造する世界を理解する上で、ある程度の神学とロシア文学の知識をおさえておいた方がいいかも知れない。というか、それらは人間理解にも役立つので、たとえあなたが非キリスト教徒で、ロシアに関心を持たない人であっても、無駄にはならないはずだ。特にドストエフスキーを読むと、奇怪な観念の持ち主が次々と繰り出されるので、異端の文学・思潮・芸術を知る上で、基礎学力になるはずだ。解説を続けよう。「わたしは貝になりたい」は、フランキー堺主演のテレビドラマ(他の作品との関係で、中居正広によるリメイク版ではないようだ)。ジャン=ポール・サルトル実存主義文学『嘔吐』が登場し、これがタイトルのILLの意味に繋がっている。いずれも、戦後日本の文化を指す単語である。歌のなかで、主人公の僕はマンガの世界に取り込まれる。三次元の存在が、するりと二次元の世界に入り込むという変容は、後の『少女か、小説か』でも多用されているプロットである。このような話の展開は『不思議の国のアリス』の影響かも知れないし、すべてを表層の出来事とするジル・ドゥルーズルイス・キャロル論『意味の論理学』を踏まえたものかも知れない。

「生まれてみたい」は前述したので、ここでは述べない。

「眼帯譚」は、ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』を連想させるタイトルだが、内容的に関係はない。バタイユの作品は形而上学的ポルノグラフィーであるのに対し、この曲は片思いの非対称の関係性を描いている。暗号解読をしておこう。「724106」は「何してる?」、「14106」は「愛してる」だ。片思いの関係性を表現するのに、この歌では右目と左目、眼帯を使用しているが、この表現の仕方はエリック・サティの『右や左に見えるもの〜眼鏡無しで』を連想させる。

「血文字系」から、ナサニエルホーソンの『緋文字』を連想してしまった。ホーソンの『緋文字』は、女性主人公が、姦通罪のため、姦婦の頭文字である赤いAの文字を服につけさせられる事に由来する。「血文字」が本気度を示す言葉だとしたら、『緋文字』の罪を覚悟しての恋愛は「血文字」に通じるというべきだろう。歌詞中では「赤文字系」「青文字系」というファッション誌に由来するファッションの潮流が挙げられている。「赤文字系」の雑誌は、『JJ』『ViVi』『Ray』『CanCam』といったタイトルが赤、もしくはピンクで書かれた雑誌を指す。端的にいえば、コンサバファッション、保守的で異性受けを狙ったファッションを指す。一方、「青文字系」は、『CuTiE』『Zipper』といった原宿系の、同性に受けるような個性的でガーリーなファッションを指す。「ニューロティック」は神経症的、「スギゾティック」は統合失調症的。「ブルーベルベット」はデイヴィッド・リンチ監督による変態映画(切断された耳を拾うところから始まり、倒錯した性の深淵に導かれる)で、「ピンクフラミンゴ」はジョン・ウォーターズ監督による変態映画(巨漢のドラァグ・クイーンのディヴァインが犬の糞を食べたりする)。ヴァージニア・ウルフは、ブルームズベリー・グループのメンバーで『ダロウェイ夫人』や『オーランドー』を書いた。『蛇にピアス』は金原ひとみの小説で、吉高由里子主演で映画化された。この歌詞によると、「赤文字系」「青文字系」も「ファッション・ビジネス」の産物で、そこにとどまり、時流に流されるならば「ファッショ・ポリティックス」のように、何も考えずに全体主義政治に管理されるだけの存在になる。「ブルーベルベット」や「ピンクフラミンゴ」みたいに行きつくところまで行って、血を流すくらいの本当の自己表現をみせてみろ、これが「赤文字系」「青文字系」に対する「血文字系」だというのである。極めて挑発的な言葉で、本気度を試しているような歌詞となっている。

「トーキョー・天使の詩」は、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』を意識したタイトルとなっている。『ベルリン・天使の詩』については、蓮實重彦柄谷行人の対話『闘争のエチカ』や、浅田彰島田雅彦の対話『天使が通る』でも触れられており、映画のみならず、それらの本を意識して採用されたタイトルである可能性がある。歌詞中で、映画撮影のシーンが描かれるが、監督によってミスキャストとされ、別の娘を探すというエピソードが語られるが、これは松永天馬の小説「神待ち」のストーリー展開を連想させる。

ガイガーカウンターの夜」は、アルバムのコンセプトとつながる重要な曲である。ジャケットのキスマークが、神様によるものであることが、この曲で明かされている(先に述べたように「あした地震がおこったら」の歌詞を精査すれば、このことは導き出せるが)。また、アーバンギャルドのこの音楽が意図するものが、生き残るための音楽であるという事も明らかにされる。こうした音楽を創るきっかけとなったあの娘は、既にいない。おそらくは、震災によって、既にこの世の人ではないのだ。だが、アーバンギャルドは、そのことを悲劇的な物語やラブソングのかたちに閉じ込めることを良しとはしなかった。物語やラブソングから、あの娘を解き放ち、ガンガーカウンターが音を立てている現実のなかで生き延びるための武器として組み立てようとする。

アーバンギャルドのなかで「ソング・シリーズ」と言われるものがある。「ファミリーソング」「コマーシャルソング」「アニメーションソング」「プロテストソング」「バースディソング」「ノンフィクションソング」「アガペーソング」「ファンクラブソング」「レディメイドソング」「マイナンバーソング」である。これらは概して、アーバンギャルドの、というか松永天馬の思考の基本原理を明らかにするものが多いようだ。その意味で、このアルバムに収められた「ノンフィクションソング」は重要である。

「ノンフィクションソング」では、かつてないほどの強いメッセージが発せられる。「生きろ これは命令形だ」。この世界には、虚妄のフィクションが多い。だが、君の命は、間違いなく現実のものであり、ノンフィクションである。僕と君、それぞれの固有性、交換不可能性が確認され、そのうえで存在価値があるとされる。さまざまな喩えを駆使して語ってきたが、結局のところ、生きろ、生きて、生きて、生きまくれ、それが重要であり、言いたかったことなのだ。そのために、たとえ傷ついたっていいじゃないか。それが生きていることの証しになるのならば。メッセージ自体が深い感動を呼び起こす強烈な一曲である。

◆CDアルバム PASSPO☆『One World』(UNIVERSAL J)2012年11月14日リリース

「ピンクのパラシュート」は、当時、ユニヴァーサルに所属したアーバンギャルドが、レーベルメイトだったPASSPO☆のために書き下ろした曲である。PASSPO☆のグループ名は、所属事務所がプラチナムパスポートであることに由来するが、それゆえメンバーがキャビンアテンダントという設定になっている。「パラシュート」というのも、この設定上からの連想であろう。これに、恋に落ちることに対する「パラシュート」という意味が掛け合わされている。

 

 

2013年

◆CDシングル PASSPO☆『サクラ小町』(UNIVERSAL J)2013年2月13日リリース

「サクラ小町」の作曲は瀬戸信。瀬々信の作曲時のペンネーム。軽快で、ポップな仕上がりとなっており、必聴である。

◆2013年6月19日『恋と革命とアーバンギャルド

 このアルバムのポスターに、当時のメンバー全員のサインが施されたものを持っている。名古屋近鉄パッセの屋上で、小雨が降っていた。屋上の下がタワレコで、そこのイベントだった。ポスターを渡した後、松永天馬さんが「ゴム、ゴム」と言いながら、輪ゴムを配っていた。

それはともかく、『恋と革命とアーバンギャルド』は、ベストアルバムである。「恋と革命」は、太宰治の『斜陽』を意識しての命名と思われる。ベストアルバムを出した後、移籍が行われる事が往々にしてよくあるが、実際、このアルバムを出した後、アーバンギャルドはユニヴァーサルから徳間ジャパンに移籍した。

冒頭の収録曲「初恋地獄篇」と「都会のアリス」が、このアルバムのための新曲で、佐久間正英氏プロデュースだった。佐久間正英氏が存命ならば、次の展開があったかも知れないが、残念ながら彼の最晩年の仕事になってしまった。

「初恋地獄篇」は、寺山修司+羽仁進の共同脚本で、羽仁進が監督で制作された映画「初恋・地獄篇」のタイトルから取られている。引用があり、そこから自由連想法が展開されるのは、アーバンギャルドの楽曲にはよくあることで、歌詞中には「セーラー服と機関銃」「唇からナイフ」といった映画のタイトルもみられる。歌詞中に出てくるブロバリン不眠症の薬。曲の核心は、死ぬような激しい恋、あるいは地獄に落ちるような恋を経験したならば、自分自身を発見できるというものである。

都会のアリス」に関しては、アーバンギャルドFC会報「たのしい前衛」創刊号に掲載されている「前衛都市のメタフィジカ」に書いたので、ここでは繰り返さない。

「女の子戦争」。『少女は二度死ぬ』からの再録。ここに出てくる少女の身体が縮むのは、手塚治虫ふしぎなメルモ」に出てくる赤いキャンデーを舐めすぎたせいじゃないかと思う。成長とともに喪われる少女期を探す地下の迷宮譚。

「セーラー服を脱がないで」。修正マキシシングル「修正主義者」および『少女は二度死ぬ』からの再録。タイトルはおニャン子クラブ「セーラー服を脱がせないで」のもじり。手塚治虫「やけっぱちのアリス」と今野緒雪「マリア様が見ている」とサディスティック・ミカ・バンド「タイムマシンにお願い」。アンチ性教育ということなので、性解放を唱えるW・ライヒのような考え方とは対極的(W・ライヒの考え方は、寺山修司サザエさんの性生活」などにも影響を与えている)。この曲では純潔が唱えられているが、キリスト教的な精神主義に合致するものとも解釈できるし、キリスト教的世界観の裏側にあるジョルジュ・バタイユ澁澤龍彦的な発想(侵犯行為のために逆説的に禁制が要請される)を示唆しているともとれる。

「ベビーブーム」。ライブでは定番の強烈なリズムが炸裂する曲。アルバム初収録。

「水玉病」。水玉模様(ドット)への偏愛、ミニマルな画像への自己の消失願望への言及がある点で、草間彌生へのオマージュが感じられる。プロパガンダ・ヴィデオでは、マルセル・デュシャンの「泉」(レディ・メイドの便器に、サインを施しただけの作品。芸術の本質を問い直す性質がある。)さえもが引用されている。歌詞にはゴダールのミューズ、アンナ・カリーナの名も。現代美術、映画、文学……前衛芸術のおいしい部分を引用しつつ、描き出されるのは、少女の心象風景。

「コンクリートガール」。『少女都市計画』からの再録。タイトルのコンクリートは、ミュージック・コンクレートを示唆しているが、それだけではなさそうである。冒頭に、衝動殺人者の決まり文句(クリシェ)が書き連ねられている。とすると、この曲はタブル・ミーニングで、コンクリート詰め殺人の事を歌っている可能性がある。そう解すると、その後の歌詞は、殺人者(男)の考えた観念的で妄想的少女像(プラスチック+セラミック+プラトニック+センシティヴ+エトセトラ)が現実(血と肉で出来た生身の人間)と齟齬が生じ、その矛盾を解消するために殺人を犯した可能性が浮上する。更に、この観念合成で出来た少女のイメージは、コンクリートで出来た高度資本主義の都市像に解消され、少女のイメージが都市の消費構造の生み出したイリュージョンであったとされる(この展開は「あした地震がおこったら」を想起させる)。音楽的完成度の面でも、ビジュアル喚起を促す言葉の使用法の巧みさという点でも、重要な曲だと思う。

 「修正主義者」。自主流通マキシシングル。『少女都市計画』からの再録。修正主義とか、自己批判とか、ゴダールの『東風』からの引用かと思わせる語句が並んでいるが、政治的コンテクストから切り離され、男女間の恋愛を歌った曲となっている。私の理解では、こうだ。まずゴダールの『東風』があり、これがYMOの『東風Tong Poo』となり、これがアーバンギャルドに影響を与える。ゴダールのジガ・ヴェルトフ集団期の作品『東風』は革命的西部劇とされ、修正主義者は嘲笑すべき悪玉だったが、この曲では、無修正の恋愛が自己批判の対象となり、恋愛という戦場では修正主義者の方が正しいとされている。

 「傷だらけのマリア」。初の全国流通シングル。PVなどビジュアル・イメージでは、聖母マリアを連想させるようなイコン。だが、歌詞を見る限りでは、普通の女の子が、普通になりたくなくて、冒険をする話のように思える。手首占い(リストカットの言い換えか

?)やタナトロジーという言葉から、この冒険がタナトス(死)に関連していることが窺える。更に、野坂昭如『真夜中のマリア』から、この冒険がエロス(性愛)に関係していることが推定できる。「その少女、人形につき」に繋がるイメージである。

 「あした地震がおこったら」。2010年7月に発売されたシングル「傷だらけのマリア」同時収録曲。即ち、2011年3月の震災よりも前に作られた曲。大きなキスマークは、その後の『ガイガーカウンターカルチャー』から判断して、神様によるものと解せられる。地震を題材に、従来からのテーマ、都市が生み出していたイリュージョンの消失を描いている。神様のキスマーク(神様からの恩寵?)からして、このテーマの背景には、神学的思考(松永さんも、瀬々さんも神学部卒)が窺えるが、ビルとビルがぶつかり合う光景に、仏教の色即是空に基づく無常観を読み取っても間違いではないのではないか。

 「スカート革命」。初のメジャー・シングル。『メンタルヘルズ』からの再録。この曲が出た時、上野千鶴子『スカートの下の劇場』を連想したが、要するに、この曲は恋の歌なのである。スカートの中、つまり性的な身体性に着目している点と、恋の真っ逆さまに堕ちる性質、つまり規範からの逸脱に着目している点が、アーバンギャルドらしいといえば「らしい」といえる。

 「ときめきに死す」。メジャー第2弾シングル。『メンタルヘルズ』からの再録。タイトルは、丸山健二原作『ときめきに死す』と、森田芳光によるその映画版に由来。更にPVでウルトラセブンの最終回を連想させる背景画像を使用。歌詞中では、筒井康隆時をかける少女』、同『家族百景』等のエスパー七瀬シリーズプルースト失われた時を求めて』からマドレーヌのエピソード等のイメージを散りばめ、神智学か人智学の本に出てきそうなアカシック・レコードまで取り入れ、生と死がせめぎ合うようなときめきに満ちた恋愛によって、超常世界にまで魂がサイコダイブする軌跡を描いている。

 「生まれてみたい」。メジャー第3弾シングル。『ガイガーカウンターカルチャー』からの再録。震災の経験からの再生の曲。仮にアーバンギャルドの曲を聴いたことがない人に、一曲聴いてもらうとしたら、躊躇なくこの曲を推薦したいと思う。心が洗われるような、魂の新生を歌った曲(勿論、ダンテ的な意味での新生である)。ところで、この曲の段階で、既にコインロッカーへの言及がある。「コインロッカー・ベイビーズ」は親の視点からの、「生まれてみたい」は生まれてくる子供の視点からの曲と言えるかも知れない。

 「病めるアイドル」。メジャー第4弾シングル。『ガイガーカウンターカルチャー』からの再録。アイドルといえども人間であり、病む人間は病む、という事なのだろう。虚構のアイドル像に対抗し、アイドルの実存を暴露させてしまうという問題作。歌詞中に、三石由起子原作・藤田敏八監督の映画『ダイアモンドは傷つかない』のタイトルの引用がある。パフューム/カプセルの名もあるが、彼女たち/彼らたちを、テクノポップの昼とした場合、アーバンギャルドは夜の役割を担うのだという意思表明ととれる。

 「さよならサブカルチャー」。メジャー第5弾シングル。『ガイガーカウンターカルチャー』からの再録。ノストラダムスを連想させる世紀末の予言やミニシアター、マンガのエピローグといったサブカル心をくすぐるガジェトへの言及が歌詞中にあるが、それらへの別れが歌われているのは、サブカルからカウンターカルチャーに脱皮しないと、震災以降の過酷な現実を生き抜くことはできないという隠しメッセージではないだろうか。

 「ももいろクロニクル(前衛都市学園合唱団mix)」。原曲は『メンタルヘルズ』に収録されているが、『恋と革命とアーバンギャルド』に収録されているのは、そのリミックス版である。この曲に登場する「君」は、最後まで名乗らないが、私にはキリストその人のように思えてならない。おそらくは、人類史の始まりにおいて、人の心の地獄を覗き込み、共にあるというかたちで理解を示した最初の人。それは、一面では精神主義的なデカダンだったかも知れないが、その理解に深い愛があったことは確かなのだ。

◆映画DVD 木村承子監督作品『恋に至る病』(アメイジングD.C. 2013年7月13日リリース

アーバンギャルドの楽曲「子どもの恋愛」が効果的に使われている。監督の木村承子さんは、アーバンギャルドの公式ファンクラブ「前衛都市学園」の会報『たのしい前衛』でも連載を受け持っていたので、ご存知だと思う。この映画には、コミック版があり、監督自らが描いている。木村承子著『恋に至る病』(びあ、2014年9月20日発行、ISBN978-4-8356-1875-3)である。

◆CDアルバム ムーンライダーズMODERN MUSIC スペシャル・エディション』(CRCP-20502/3NIPPON CROWN)2013年11月6日リリース

Disk1に原曲の「グルーピーに気をつけろ」が、Disk2にアーバンギャルドによるリミックスが収録されているが、かなり過激なリミックス処理になっているので、聴き比べると良いだろう。「レディメイドソング」や「ふぁむふぁたファンタジー」のような曲調に近い処理といえば良いだろうか。

◆CDシングル 野佐怜奈『涙でできたクリスマス サンタクロース・コンプレックス』(ERCD10003Emission Entertainment)2013年11月20日リリース

野佐怜奈は、アーバンギャルドと関わりの深いヴォーカリストである。例えば『恋と革命とアーバンギャルド』に「ももいろクロニクル 前衛都市学園合唱団mix」が収録されているが、「アーバンギャルドディストピア2011」の際に、結成された前衛都市学園コーラス部のメンバーは、フレネシ、響レイ奈、りむ(ペイ*デ*フェ)、ないす(9【que】)の4人であった。このうち、響レイ奈が、後の野佐怜奈である。参考までに、野佐怜奈の改名史を書いておこう。まず、「その名はスペィド」のメンバーとしてのルビィがあって、その後、響レイ奈としてソロ、並行してノーサレーナのヴォーカル、さらに改名して、野佐怜奈、並行して野佐怜奈とブルーヴァレンタインズ、眠れないdeサルトル。ただ、どんな名前に改名しても、歌声さえ聴けば、圧倒的な歌唱力(特に、大人向けのムード歌謡を現代風にアップデートした路線において顕著である)によって、同一人物だと一目瞭然である。

「涙でできたクリスマス」は、ひとりぼっちのクリスマスを過ごす女性心理を描いた曲。「サンタクロース・コンプレックス」は、ファザー・コンプレックスの女性が主人公。野佐怜奈の歌う曲は、悪い男だとは知りつつ惹かれる女性心理、或いは悪びれているが、実は情が深く、誰よりも相手の事を想っているといった大人の恋の事情を歌った曲が多く、この曲も前者の範疇に入る。(作詞家は、歌い手の個性を考慮して、内容を合わせているのだろうか?)「涙でできたクリスマス」も「サンタクロース・コンプレックス」も、ハジメタル(exミドリ)の作曲だが、「サンタクロース・コンプレックス」が、浜崎容子「暗くなるまで待って」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)と似た金属音(スティール製の机の上で、ビー玉を弾くような)がして、興味深い。或いは、初めから「暗くなるまで待って」の姉妹曲を狙って、このようなアレンジにしているのだろうか。

◆CDアルバム PASSPO☆『JE JE JE JET!!』(UPCH-9904UNIVERSAL J)2013年12月11日リリース

「サクラ小町」は前述したので、省略。

「Shang Shang シャンデリア」。「イー・アル・サン・スー・ウー・リュー・チー・パー」は、中国の数字の数え方。摩天楼が出てくることから、シンガポールの夜を描いた曲と思われる。アジアのシャンデリア、シャンパン……と、シャンで始まる言葉を連ねて韻を踏んでおり、心地よい響きとなっている。

 

2014年

YouTube 松永天馬とエアインチョコ 「身体と歌だけの関係」https://youtu.be/Bo67BGYKmoY 2014年1月31日アップロード

YouTube 松永天馬とエアインチョコ Blood,Semen,and Death.https://youtu.be/dgobpIBaDB0 2014年1月31日アップロード

エアインチョコは、当時、アーバンギャルドだった鍵山喬一(現在は、Fuckin Daz)と、当時、ザ・キャプテンズだった大久保敬(現在、アーバンギャルド、おおくぼけいと平仮名表記)のユニット。ここに松永天馬が加わり、男だらけで曲を披露している。現時点でCD化されていないので、貴重な動画といえる。

◆CDアルバム ナンバタタン(南波志帆+タルトタタン)『ガールズ・レテル・トーク』(ERCD23003Emission Entertainment)2014年2月5日リリース

タルトタタンは、当初、相対性理論から脱退した西浦謙助/真部脩一が、アゼル&バイジャンを結成してプロデュースしたグループだったが、その時は、山本奨(当時、ふぇのたすのヤマモトショウ)がプロデュース。タルトタタンは、メンバーの移り変わりが激しいグループで、このとき、ナンバタタンとして南波志帆と組んでいたのは、優希と葵の時である。南波志帆アーバンギャルドと関わりのあるアーティストで、アーバンギャルド南波志帆/真空ホロウという組み合わせのライヴを見たことがある(2012年6月2日、名古屋ell.FITSALL)。『ガールズ・レテル・トーク』に収録されている曲は、ほとんどが作詞・作曲を山本奨が行っているが、大森靖子が表題作の作詞を、松永天馬が「ズレズレニーソックス」の作詞を行っている。

「ズレズレニーソックス」は、ニーソックスに着目して、それがズレで行く事によって、少女から大人の女に変わっていくという様子を描写している。これに関して、私は次のようにツイートしたことがある。

「ナンバタタン 「ズレズレニーソックス」(作詞:松永天馬、作曲:山本奨)歌詞中の「ズレ」は、「スカートの丈:絶対領域:ニーソックス」の黄金比「8:2:5」からのズレであり、更に言語の意味のズレが起き、身体と心のズレへと広がってゆく。」

「8:2:5」というのは、青山裕企の写真集『絶対領域』が、「スカートの丈:絶対領域:膝上ソックス=4:1:2.5が、“絶対領域黄金比”とされている」としていることに基づく。

◆CDシングル 上坂すみれパララックス・ビュー』(KICM91506他/KING RECORDS)2014年3月5日リリース

すみれコード」。上坂すみれという名前と、すみれの花をかけたタイトル。男性原理と女性原理が抜本的に違っており、そうであるがゆえにレコードに喩えた場合、回転数が一致しないという事になるが、だからといって、恋を始めた以上、その回転を止めてはいけないといった内容になっている。表題作の「パララックス・ビュー」は、作詞を大槻ケンヂが手掛けており、興味のつきないカップリングとなっている。

◆CDアルバム『鬱くしい国』(初回限定盤TKCA-74110/通常盤TKCA-74115/徳間ジャパン)2014年6月18日リリース

 こちらも、メンバーのサイン入りのアナザー・ジャケッツを持っている。よこたんとキューピー(都市夫)が、一戦を交えようとしている写真。鍵山さんのサインも入っている。

そういえば、「たのしい前衛」での私の連載が始まった後だったので、これをもらうとき(場所はタワーレコードの名古屋近鉄パッセ店のイベントスペース)初めて松永天馬さんに、「私が原田です」と名乗ったのだった。『夜想アーバンギャルド』の項で述べるが、松永さんが浜崎さんをメンバーに招いたのは、ミクシィのメッセージによってであったという。実は、松永さんからのあの連載の依頼も、最初、ツイッターでのメッセージだったので、顔と名前の一致していない人への文章依頼だったという事になる。

 震災と原発事故以降、『ガイガーカウンターカルチャー』というタイトルが示しているように、アーバンギャルドは対抗文化という事を意識した作風になっていく。『鬱くしい国』になると、音楽による日本論の試みに、更に変貌を遂げる。収録曲「さくらメメント」の歌詞には「アンダー・コントロール」という我が国の首相の言葉が取り入れられている。原発事故以降、依然として汚染水の問題は続いているのに、言葉の上だけで「アンダー・コントロール」といい、「美しい国」であるかの如く偽装しようとする。そうした隠蔽体質を表現した言葉が「鬱くしい国」だと考えられる。

 「ワンピース心中」。「玉川上水」、『グッド・バイ』、『斜陽』……太宰治にまつわる言葉がちりばめられた作品。命を賭すほどの一途の恋が称揚されるのは、保身ばかりに走る欺瞞的な「鬱くしい国」に背を向けた行為だからだろう。

 「さくらメメント」。日本的な美を象徴する桜を題材に、日本の表(ジャパニメーション!)と裏(年間三万人の自殺者が出る絶望の国)を立体的に見せる快作。

 「生教育」。歌詞としてスクールカーストと書けないのは、メジャーゆえの制約か。この曲は「世界の外ならどこへでも」(ボードレール『バリの憂鬱』)の現代版。中途半端な救いのポーズはやめてという叫びが、心に突き刺さる。

 「君にハラキリ」。ピストル・オペラは、鈴木清順の映画。腹を割って話すことから、信頼が生まれるという、斬新なウェディングソング。

 「ロリィタ服と機関銃」。「セーラー服と機関銃」を思わせる展開。『少女コレクション序説』は澁澤龍彦のエッセイ、蝶のコレクションは、ジョン・ファウルズの『コレクター』、胡蝶の夢荘子の説話で、夢か現実か区別がつかなくなったさまを指す。

 「自撮入門」。寺山修司『青少年のための自殺入門』を想起させるタイトル。作風としては、「魔法少女と呼ばないで」の系統か。シニカルかつ痛烈に現代の病理を暴く問題作。

 「アガペーソング」。西欧には三つの愛がある。プラトンが説いたエロース(完全性のイデアを希求する哲学的な恋愛)、アリストテレスが説いたフィリア(友愛)、そしてキリスト教の神への愛(アガペー)。

 「ガールズコレクション」。鷲田清一の『モードの迷宮』を連想させるようなファッション哲学が開闢される。おしゃれという事と、死が対置され、対置される事で、逆説的におしゃれの美学が生きてくる。

 「戦争を知りたい子供たちfeat.大槻ケンヂ」。『鬱くしい国』の中でも、異様な迫力に満ちた曲。アーバンギャルドFC会報『たのしい前衛 第二号』で、この曲について書いたので、よろしければどうぞ。

 「R.I.P.スティック」。アーバンギャルドの中で、現時点で一番長い曲(2番目に長いのは「少女の壊し方」)。曲調の違う曲が繋ぎ合わせられて出来ている。曲の意味については、『夜想アーバンギャルド』に収録された天馬さんの「文字で書かれたR.I.P.スティック、或いは少女Y」がヒントになるだろう。

 「僕が世」。この「鬱くしい国」に、命を捨てるほどの価値はあるのか。この祖国のために、あなたを見捨ててまで、命を落とす価値はあるのか。この「僕が世」は、予言的だ。

ガイガーカウンターカルチャー』の最後の曲「ノンフィクションソング」で、ミュージック・コンクレートの技法を用いて、行進する軍靴の足音を聴かせたアーバンギャルドは、「僕が世」で再度、問いかける。ガイガーカウンターが表示する現実を隠蔽する国家は、美しい国ではなく、鬱くしい国であり、国家の秘密保全を第一とする軍事国家となる恐れがある。最新作『少女KAITAI』収録の「原爆の恋」では、核戦争への危惧さえも歌われる。

 アーバンギャルドが提供してくれるのは、われわれの時代の、われわれのための「人間の音楽」なのだ。アーバンギャルドと同時代に生きられる事、もはやこれを僥倖と呼ばずして、何と呼べばいいのだろう。

◆BOOK『夜想#アーバンギャルド』(ステュディオ・パラボリカ)2014年7月17日刊行

 その福音は、ゴダールの『中国女』あるいは/もしくは『中国女』のスチール写真を表紙にした蓮實重彦『シネマの煽動装置』のように、鮮烈な赤から始まった。アンヌ・ヴィアゼムスキーを演ずるのは、よこたんであり、赤い『毛沢東語録』は、赤い『夜想アーバンギャルド』に置き換えられるだろう。

 この本は、松永天馬さんによる「詩篇:前衛都市のための前奏」から始まっている。この詩篇を読むと、天馬さんが寺山修司のような資質の人であることが判る。軽妙に見えて、クリティカルな鋭い視点。実験的な言葉遊びとフロイト的な欲動の暴露。その後の作品が、この発想の延長線上にあるのではないかと思える部分もある。6ページの「王子様だけはいつまでたっても現れない。……幻想を打ち砕いて」は、『少女KAITAI』の「コインロッカー・ベイビーズ」につながっているように思える。

 西島大介さんの「四人はバンド」。この『

夜想』が出た時は、鍵山さんが在籍していた時期だ。『恋に至る病』の木村承子さんが、西島さんの教え子だったというエピソードが興味深い。アーバンギャルドを巡る人脈は、サブカルで繋がっているようだ。

 球体関節ストッキングで知られる上野渉さん。勿論、『夜想』特装版(血の丸セーラー巾着袋)も買いましたとも!

  蜷川実花さんとよこたんのセッションは、眼帯・輸血・硝子のピストル・血の丸仮面といったアイテムを散りばめながら、極彩の美学を展開する。アイテムが意味するものは、象徴的な死であり、死を前にして、生命は真夜中の太陽のように輝く。色彩の極楽を享楽せよ!

 大槻ケンヂさんと松永さん、よこたんの鼎談「性+聖=生!?」は、筋肉少女隊や特撮の活動が、アーバンギャルドにとって、偉大なパイオニアの役割を果たしていたのだという事を再認識させる内容だった。(オーケンアーバンギャルドの「戦争を知りたい子供たち」の対話劇部分に参加している事は言うまでもない。)音楽のみならず、文学やサブカルへもジャンルを越境していくオーケンの活動は、天馬さんの立ち位置と重なる。実作者しかできない作詞・作曲法の話から始まり、年齢とともに変容してきた少女観に至るこの対談は、今後もオーケンが松永さんの指標となってゆくことを示唆しているように思える。

  神林長平「少女神」。コンタクトレンズにサーチアイの検索機能を付与したカジェットが出てくるSF小説でありながら、アーバンギャルドの描く「少女」の問題を埋め込み、さらにイザナミ神話を重ね合わせるという思弁小説でもある。(神林長平『ぼくらは都市を愛していた』朝日文庫の解説を、松永さんが書いている。こちらも必読。)

 作家・冲方丁氏とのよこたんの対談「ポップの究極は孤独」。ついに、今をときめく『マルドゥック・スクランブル』の著者と、対談の機会を持つまでになったのか、という感慨を持たずにはいられない。冲方氏は文学、アーバンギャルドは音楽を基軸としているが、ともに人間や時代を問題にしているからだろう。不思議と対話が成立している。司会として参加した高柳カヨ子氏は言う。「浜崎さんのアー写で、PVCのキャットスーツを着ている写真があるのですが、それを見て、「ああ!パロットだと思いました。」(56ページ)こうして、アーバンギャルドの描く少女が、『マルドゥック・スクランブル』の登場人物と重ね合わせられ、精神科医でもある高柳氏によって、斎藤環の言うところの「戦闘美少女」としての側面にもスポットが当てられる。ラカニアンの斎藤環氏は、「戦闘美少女」以外に「社会的ひきこもり」をテーマにした研究があるから、高柳氏の頭の中では、アーバンギャルドの楽曲に、「ひきこもり」やメンヘラと呼ばれる人格障害適応障害の症例を見ようとする視点があることは、想像に難くない。事実、この後の「ヘビトンボの季節を過ぎても」では、この問題が真正面から取り上げられる。兎も角、この対談は高柳氏(高柳氏は神林長平夫人でもある)のSF界人脈と、精神医学系の共通する主題の掘り下げがなければ、成立しなかった企画なのではないか。

 松永天馬さんの「文字で書かれたR.I.P.スティック、或いは少女Y」。これは胡子『お嬢様学校少女部卒業記念アルバム』に収録された松永さんの「少女学論文『少女は昔の処女ならず』と並んで、松永さん独特のロジックを知ることのできる貴重なエッセイであり、全作品を読み解く鍵となる文章だと思う。

以下は、私流の一解釈。澁澤龍彦の『少女コレクション序説』のような禁制と侵犯がせめぎ合った世界があり、少女に施されたラッピングは、いずれ覆いを取り剥がされるためのものである。この少女に関するバタイユ的解釈が、消費資本主義の中でとらえ直され、虚構の少女のシミュラークルが無限増殖される現代社会の迷路からの「家出のすすめ」(寺山修司)と、リアリティーのある生き方の提唱がなされる。

 千野帽子さんの「テクノポップはアングラだった」。少女文学に詳しい千野さんだけに、少女の好むアーバンギャルドの音楽評も的確である。P-MODELの「Art Mania(美術館で会った人だろ)」を意識してつくられた「保健室で会った人なの」。P-MODELのアルバムのプロデュースをした佐久間正英さんが、最晩年にアーバンギャルドの「都会のアリス」をプロデュースした事。太宰治の『斜陽』に出てくる「恋と革命」が、『恋と革命とアーバンギャルド』というアルバム名になった事。前衛・革命・プロパガンダカウンターカルチャーといった言葉の事。

エピソードを積み重ねながら、アーバンギャルドを語る千野さん。アーバンギャルド愛を感じずにはいられない文章でした。

 会田誠さんと天馬さんの対談「イメージの少女、等身の少女」。対談の中で、松永さんは「会田さんのファンの女の子でアーバンギャルドのファンの子がいて、その子がいつも「会田さんにアーバンギャルドと何かコラボしてって言ってきました!」みたいに言うんですよ。」(83ページ)といっているが、この同人誌の発行人タナカカオリさんの事ではないだろうか。真偽はともかく、『鬱くしい国』のジャケットに、会田さんの「群娘図‘97」が使われたのは良かった。

 高柳カヨ子さんの「ヘビトンボの季節を過ぎても」。『少女は二度死ぬ』のジャケットに使われたトレヴァー・ブラウンに着目した論考。ちなみに私がトレヴァー・ブラウンの名を知ったのは、大塚英志の小説『多重人格探偵サイコ』(角川スニーカー文庫)の表紙によってであった。カワイイと猛毒が同時に存在するトレヴァー・ブラウンの世界は、アーバンギャルドの世界と親和性が高い。高柳さんは、SNSで「自撮」写真をアップしている少女たちのなかに、人格障害適応障害に起因する自傷行為リストカットオーバードーズ等)が見られることが多いとし、アーバンギャルドの描く少女は、「ただ自分が生き残るために」(106ページ)戦っているのだと指摘する。

 そしてトレヴァー・ブラウン山本タカト、今井キラ、安蘭、真珠子、森夜ユカの美術作品が続く。トレヴァー・ブラウンの絵は、後に『少女KAITAI』のジャケットに使われた。『夜想』はこれまでの活動のまとめであると同時に、次への胎動が起きていると見做すべきなのだろう。

 「愛をください!」は、数多くの著名人からの応援集である。青木美沙子上坂すみれきくち伸ケラリーノ・サンドロヴィッチサエキけんぞう四方宏明鈴木慶一月乃光司辻村深月中田クルミ南波志帆新島進根岸愛、ハナエ、福田花音古屋兎丸巽孝之(敬称略)と錚々たる名前が並ぶ。

 そして、SF評論家でフェミニスト理論家の小谷真理さんによる「スナッフフィルム」を巡るシャープな論考。『聖母エヴァンゲリオン』の著者は、アーバンギャルドの中でも特にハードな楽曲を選んで来たな、と思う。

 それにしても、神林長平・高柳カヨ子夫妻と、巽孝之小谷真理夫妻を味方につけたアーバンギャルドは凄すぎる。

 菊地成孔との共著『東京大学アルバート・アイラー』などで知られる大谷能生による「実存としての少女、現象としての少女」。モダン・ジャズやブラック・ミュージックに造詣の深い大谷能生による評論は、アーバンギャルドの音楽を論ずることによって、逆に彼自身の理想とする音楽を明らかにする。大谷能生アーバンギャルド批判の要旨は、実存的な身体性に欠けた音楽・歌詞であるという事である。モダン・ジャズ等にあったソウルフルな音楽ではないという事なのだろう。身体性の欠如したシンセの音、オリジナルから切り離されたコピーのコピーから成り立つ歌詞。

まるでポスト構造主義デリダ等)への現象学派(フッサール等)の批判のコピーのような事が、この音楽評論で言われている。(現象学派のポスト構造主義批判は、デリダフッサール批判『声と現象』にどう反論するかが試金石だと思う。)

大谷能生の論旨は、生活(レーベンス)世界(ヴェルト)や、大地に根付いた土着的な魂で繋がっていた方が、ヒューマンで、現実主義的だよね、という事に尽きるように思われる。

どうも議論がかみ合っていない。出発点からして違っているようだ。大谷能生は、最初から自分が外にいると確信している。

一方、アーバンギャルドの楽曲は、最初は内にいて、そこから外に出ようとするものが多い。「アニメーションソング」の主人公は、アニメのような虚構の宇宙の内にいるが、革命があり、血を流す現実に遭遇し、これが外の現実だと認識する。「コインロッカーベイビーズ」では、主人公はコンピュータによる人工的な環境下にあり、リアルな事象との乖離が起きているが、やがてリアルな外部との接触を求め、一瞬の恋ではなく、永続の愛によって子どもを持ちたいという願望に目覚める。アーバンギャルドの描く主人公は、内に閉ざされた球体の宇宙から、血みどろの現実との接触を求め外部に向かうが、大谷能生の場合、最初から自分が外にいると思い込んでいるので、そういった懐疑に基づく、内から外への移動は起きない。

例えば、高柳カヨ子さんが問題にしていたような、欲動に揺れる想像界、そのなかで起きる人格障害適応障害といった事態を、アーバンギャルドが主題化し得るのは、自己への懐疑に基づいて、内から外への移動が常に起きているからではないだろうか。仮に、自己の立場への疑いがないところでは、こうした心の揺らぎは主題化し得ないのではないか。

 「松永天馬少女詞集」。『寺山修司少女詩集』のようなタイトル。「セーラー服を脱がないで」「水玉病」「都市夫は死ぬことにした」「プリント・クラブ」「あした地震がおこったら」「スカート革命」「子どもの恋愛

」「病めるアイドル」「眼帯譚」「コスプレイヤー」「都会のアリス」「さくらメメント

」に関する公式解説集。私のように「前衛都市のメタフィジカ」などというタイトルで、歌詞の解釈を公開していると、後から公式解説集が出ると、答え合わせをしているみたいでドキドキものだったりする。「都会のアリス」で、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』は思いつかなかったな。しかし、歌詞の解釈は、作詞者の意図とは別に、読み手がどう受け止めたか、という「創造的誤読」の面に面白さがあったりするので、皆さんもよかったら、やってみてください。

 「アーバンギャルド メンバーインタビュー」答える人は瀬々信さんと鍵山喬一さん。好きなアーティストを問われ、瀬々さんは、MR.BIG を、鍵山さんはNirvanaLed Zeppelin  等の洋楽アーティストを挙げている。先程の大谷能生説だと「洋楽の影響がほとんどない。」(138ページ)とされているのだが、これはどういう事なのだろう。個人的には、瀬々さんが人形を数体所有しており、ヌミノーゼ(ルドルフ・オットーの概念)を感じるという話が興味深かった。

 「アイテム図鑑 グッズ編/ノベルティー編/衣裳編」物欲をそそられるグッズとノベルティーアーバンギャルドの歴史が感じられる衣裳の数々。

 「浜崎容子の告白」。ミクシィで「アーバンギャルドのボーカルになってくれませんか?」というメッセージが松永さんから届いた事から、すべてが始まったこと。衝撃的だった谷地村啓さんの脱退、徳間ジャパンへの移籍に至る七年間の記録。浜崎さんは、本質的に生真面目で、誠実な人だと思う。それが、この文章から痛いほどわかる。血まみれのPV撮影を、嫌がることなく貫徹したり、パニック障害になったり、解散の危機を包み隠さず語ったりするのは、生真面目できちんとしておきたい人だからなんだと思う。どちらかというと、松永さんは新しいアイデアを見出しては発展していくタイプ。一方、浜崎さんはきちんと締めるところは締めるタイプ。その両輪があって、アーバンギャルドが維持されている気がする。

 「前衛都市のディスコグラフィ」。浜崎さんのテクノ・シャンソンフィルム・ノワール』、kihirohito  氏とのコラボ『ソワカちゃんアーバンギャルド』まで載っている。

 はいえ、ここには『処女喪失作』や『デモクラシーテープ』は記載されていない。浜崎さん加入後のアーバンギャルドが、松永さんにとっての本格的なアーバンギャルドとしての活動なのだろう。松永さんの浜崎さんへの高い評価と信頼が、そこに感じられる。

◆CDアルバム 筋肉少女帯THE SHOW MUST GO ON』(TKCA74148徳間ジャパンコミュニケーションズ)2014年10月8日リリース

大槻ケンヂらしいフォックス姉妹事件(マーガレット・フォックスとキャサリーン・フォックス。ラップ音を引き起こす姉妹として有名になり、降霊術等のスピリチュアル・ブームの火付け役となった。)から晩年のアーサー・コナン・ドイルシャーロック・ホームズの生みの親で、合理主義的な解釈で謎を解くミステリー作家の代表格であるにも関わらず、晩年は捏造された妖精写真から妖精の実在を信じたり、心霊学研究に没入していった)に至る心霊主義の歴史に関する蘊蓄の入った「霊媒少女キャリー」を、浜崎容子が歌っている。

◆BOOK『月刊松永天馬』(しまうまプリント/自主制作)2014年12月6日刊行

 この本のカバーをめくると、しまうまの柄が出てきた。どうやら、この本は写真のデータをしまうまプリントに持ち込んでつくったようだ。写真の方は、徹底したファンサービスで、凝った内容。どうも松永天馬という人は、真面目にやればやるほど、過剰になりすぎ、どこかおかしみが出てくる人のようで、そうした特質がこの写真にも表れている。この小さな月刊が、本物の月刊シリーズを招き寄せ、『月刊アーバンギャルド』として結実することになるのだから、感慨深い。

◆CDアルバム『a tribute to Tetsuroh Kashibuchi ハバロフスクを訪ねて』(PCD-18779/80P-VINE RECORDS)2014年12月17日リリース

ムーンライダーズの「スカーレットの誓い」を、完全にアーバンギャルド風に調理してしまっている。鮮やかなリミックスである。ところで「薔薇がなくっちゃ生きていけない」から始まり、映画作品の楽曲内での引用など、アーバンギャルドへのムーンライダーズの影響はあまりにも大きいと言わねばならない。

 

2015年

◆DVD『アーバンギャルドのクリスマス~SANTACLAUS IS DEAD~』(ZETO009/前衛都市/TK BROS 2015年4月1日リリース

2014年12月25日、日本橋三井ホールで行われたライヴ、「アーバンギャルドのクリスマス~SANTA CLAUS IS DEAD~」を収録。松永天馬による「戦争を知りたい子供たち」のジャズ・ヴァージョン、浜崎容子による「月へ行くつもりじゃなかった」のアコースティック・ヴァージョン、『a tribute to Tetsuroh Kashibuchi ~ハバロフスクを訪ねて』に収録されているムーンライダーズの「スカーレットの誓い」のカバーが聴けるのが嬉しい。「SANTACLAUS IS DEAD」という言い方が、2012年にリリースされたBiSの『IDOL is DEAD』を意識した表現なのかは不明。映像特典として「前衛都市のビデオノート」を収録。

◆CDミニアルバム『少女KAITAI KAI版]』(ZETO-010/前衛都市)、『少女KAITAI TAI版]』(ZETO-011/前衛都市)2015年5月2日リリース、ライヴ会場限定販売

 『少女KAITAI』は、ライヴ会場限定のCDとしてリリースされ、残部がアーバンギャルドの公式Web Shop(http://tkbros.shop-pro.jp/)で販売された。

こうしたライヴ会場で限定のCDを売る方法は、津田大介牧村憲一『未来型サバイバル音楽論 - USTREAMtwitterは何を変えたのか』で音楽産業を守る方法として、既に提言されていた。音楽データの複製が容易にできる現代において、一期一会のライヴが逆説的に価値を持つようになる。そこで、ライヴ会場に人を動員するために、ライヴ会場でしか入手できない音源を売ればよい、という提言である。『少女KAITAI』と『昭和九十一年』を考えると、こういった戦略を導入していることは間違いないだろう。しかし、『少女KAITAI』の場合、ライヴ会場限定CDとする理由が他にもあって、それはメジャーでは到底売ることができそうもない過激な楽曲を、地下流通させたいという狙いがあったからである。

『少女KAITAI』には、KAI版とTAI版があって、前者には「生まれてみたい YOKOTAN REMIX」が、後者には「都会のアリス 戸田宏武(新宿ゲバルト)REMIX」が収録されている。それ以外の4曲は共通で、「コインローカーベイビース」「原爆の恋」「ファンクラブソング」「いちご売れ」が収録されている。『少女KAITAI』のジャケットは、トレーヴァー・ブラウンの作品であり、『少女は二度死ぬ』に続いて、二度目のジャケット担当ということになる。これは、『少女KAITAI』の解体が、アーバンギャルドの初期少女三部作(『少女は二度死ぬ』『少女都市計画』『少女の証明』)を、脱構築ディコンストラクション)する意味であったため、少女三部作との関連性を示唆するためのと解することができる。ちなみに、脱構築ディコンストラクション)は、ジャック・デリダの用語で、破壊(ディストラクション)とは異なる。ディコンストラクションの訳として、解体とされることもあったが、破壊との差異を明確にするため、現在では脱構築と訳されることが多い。破壊ではないので、少女三部作の否定ではない。脱構築なので、再び少女三部作の世界に潜入し、内部から意味をズラす形で、世界を再構築し、死せる少女を甦らせようということなのだろう。更に、解体とせず、KAITAIとしていることから、単に少女を解体するのではなく、少女を懐胎する、或いは少女を買いたいという多義的な意味を与えていると思われる。少女を買いたいとは、そのまま収録曲「いちご売れ」のテーマと直結するが、少女のイマージュの産出を、資本主義というマシーンが機能した結果と見做すという事である。「社会的諸関係の総体」(マルクス)としての少女を視るというのが、少女三部作の脱構築の要である。

『少女KAITAI』の収録曲は、なぜ地下流通という形で、しかもライヴ会場に来たファンに手渡しでしか渡せないほど危険なのか。まず、「コインローカーベイビース」は、電脳社会化が進んだ世界における現実との接触の欠如が痛烈に批判されている。続いて、「原爆の恋」では、原爆批判を繰り広げながら、どさくさに紛れて、原発批判もやってのけるというメガトン級の破壊的な曲となっている。「ファンクラブソング」になると、狂信的カルトの批判から始め、宗教が最終的に世界大戦の引き金となる可能性があるとして宗教戦争への全面批判に至る。そして、「いちご売れ」では、性の商品化が俎上に挙げられ、これに対し、時として流血を伴うような本物の恋が対置される。全体として、現代文明への痛烈な批判が含まれており、特にピカピカドンドンを連呼する「原爆の恋」が衝撃的である。これらの楽曲は、メジャーの販売ルートにのせようとすると、おそらく自主規制も含め、圧力がかかるのは必至である。しかも、不特定多数向けに販売すると、理解される前に、スキャンダルとなりかねない。とすれば、信頼できる同志であるファンに手渡しするのが、一番確実ではないか。そういう狙いから、ライヴ会場での販売ということになったと思われる。とすれば、『少女KAITAI』は、アーバンギャルドの一番イイタイコトがつまっているアルバムということになる。更に収録曲を詳細に見て行こう。

「コインロッカーベイビーズ」。タイトルは、村上龍の同名の小説から。まず、電脳世界がスマホタブレットという形で、ポケットに入る時代であることの確認から入る。この事は、知識をコンパクトにパッケージングするという世界の流れとリンクしている。しかし、これらの方法で入手した世界の情報は、政治的にも(すでにいつ戦争に巻き込まれてもおかしくない状況である)、経済的にも(不景気の出口が一向に見えない)、精神環境という面からも(私たち自身の主体すらアイデンティティ・クライシスに晒されている)、人類が行き止まりに陥っていることを指し示す。この時代の病理は、現実との接触の回避にある。この観点は「アニメーションソング」の延長にある考え方だ。また、新しいことを生み出さない停滞した社会の行きつく先は、子どものいない社会である。この観点は「生まれてみたい」の考え方が、社会・歴史的認識と結びつく時に生まれる。こうして、コンピュータ言語ではなく、血の通った言葉で、私たちの子どもをつくろうというメッセージに至る。最後に辿り着くのは、刹那的な恋ではなく、永続的な愛の領域である。

「原爆の恋」は、井上陽水「傘がない」が行った社会問題に対する私的世界の優位の主張に対する<否定>である。井上陽水「傘がない」では、自殺者の増加という問題が告げられ、それにも関わらず、今の私に重要な事は、雨天なのに傘がない事の方だと言っている。これと、「原爆の恋」の冒頭、この歌の話者は、戦争勃発のニュースよりも、学校のテストが重要だといっている。この二つが同型の論理であることに注目したい。ともに、社会問題やニュースよりも、個人や内面の方を優先させるという価値観を指している。しかし、「原爆の恋」は、価値観に安住することを許さない現代の残虐な「現実原則」(フロイト)をつきつける。「ただちに影響がありません」は、福島第一原発の事故の際に、原発から20~30キロ範囲内の空間線量が問題となり、食品からも基準値以上の放射能が測定され、健康被害が問題となった際に、枝野幸男官房長官(当時)が事態の鎮静化を図ろうと繰り返し語った言葉。「100,000年後の安全」は、マイケル・マドセン監督によるドキュメンタリー映画で、安全レベルに到達するのに10万年要する高レベル放射性廃棄物の処理方法を問い、フィンランドのオルキルオト島にある放射性廃棄物処理施設オンカロを紹介したものである。そこで、「原爆の恋」といいつつ、原発をも批判の射程圏内に収めた曲であることに気づく。さらに「放送禁止」という言葉で、「u星より愛をこめて」で経験したメジャーレーベルで放射能問題を扱った曲を流通させる困難さを挑発的に揶揄し、マスメディアは真実を報道できずにいるのではないかという懐疑すら、歌の中に盛り込んでいる。危険な言葉が三つある。まず、原爆を表すピカドンだ。歌詞カードでは「ピカドン」とはいわず、「ピカ」と「どん」を切り離して、なおかつカタカナと平仮名に変えている。更に、メルトダウンだ。歌詞カードでは英語表記に変えている。三つめは、原発だ。原爆批判以上に、日本では原発村の及ぼす社会的影響が大きいということなのだろうか。タイトルを原爆とし、歌詞中の原発をローマ字表記に変えている。最後に、「原爆の恋」の話者が辿り着くのは、逃げとしての個人の内面ではなく、愛であり、見えないけれども価値のあるものである。この愛は、核によって支配されたこの世界に、鋭い批判の矢を投げかけるだろう。

「ファンクラブソング」は、一見、ファンクラブへの勧誘の歌のように思える。しかし、「十字架」がキリスト教を、「三日月」がイスラム教のシンボルであることに気づく時、戦慄が走る。宗教は、ファンクラブの一形式である。それも、狂信的な(ファナティック)、ということだ。狂信に駆り立てるものは、不安である。宗教は、不安神経症の一症例であるということなのだろうか。善良なサポーターに見えた信者が、悪意のあるフーリガンに変貌する。この変容もまた、不安神経症によるものである。個人レベルにとどまるならば、フーリガンだが、個人に起こることは、集団でも起こる。社会的にみれば、これは他国や他民族、他の宗教に対する攻撃性・物理的暴力の発現、更にはそれを契機に起きる戦争の発生の心理的カニズムと同一であるということになる。「ファンクラブソング」は、カルト化していく宗教への批判であり、宗教戦争への批判を含んでいるといえる。こうして、ファンクラブへの勧誘の歌が、実は社会へのまなざしがあって生まれた歌だということがわかる。しかし、それだけだろうか。ライヴ会場で実演される「ファンクラブソング」は、更にもう一回、意味の反転が起きる。それは、よこたんを聖母とする「よこたん教」の讃美歌への変容である。宗教のダークサイドを照射した曲というのも偽装かも知れない。

「いちご売れ」。ライヴ会場限定販売CD『少女KAITAI 』が売られた全国ツァーは、「アーバンギャルド2015 春を売れ! SPRING SALE TOUR」だった。更に、「いちご売れ」の歌詞には、「bye 旬」という部分がある。前半が英語で、後半が漢字で、その間にブランクが入っている。SPRING SALEで、「bye 旬」なのだから、売春である。ここで、連想してほしいのは、ジャン=リユック・ゴダールの映画『彼女について私が知っている二、三の事柄』である。アーバンギャルドは、この映画のタイトルを引用したことがあり、『アラモード・マガジン Vol.4』(アーティズム出版)の巻頭特集に「アーバンギャルドについて私が知っている二、三の事柄」と書かれている。ゴダールのこの映画は、HLM(標準賃貸住宅)で実際に起きている主婦売春を取り扱っている。『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトール』に掲載されたインタビュー(聞き手:カトリーヌ・ヴィムネ)を基に、主婦を俳優に置き換えて演じさせている。コダールの狙いは、資本主義社会における労働の在り方を浮き彫りにすることにあった。ゴダールによると、われわれが不本意にやっている労働は、すべからく売春のようなものだという。この観点を、再度「いちご売れ」に落とし込んで考えてみよう。「いちご売れ」は援助交際の歌である。「いちご売れ」の作詞者は、「money」に着目する。要するに、資本主義だ。一方で「天は人 の上に人を造らず。人の下に人を造らず。」(福沢諭吉)という平等原則があるにも関わらず、資本主義が「競争」を持ち込む。かくして、エデンは破壊される。「いちご売れ」のフォーカスは、少女が「かわいい」という価値のもとで「競争」する世界を活写する。そのことは、自分を貨幣に換算する援助交際において顕著に露呈し、世界は「かわいさ」を基に選別される残酷な地獄へと変容する。「いちご売れ」は、援助交際を、資本主義が生んだ病理として批判する歌である。そして、偽りの少女のイマージュを葬送し、ほんとうの少女自身を救いだそうとする曲である。貨幣経済において、売買可能なのは、唇だけである。これに対し、見えないハートは売買不可能である。真実の愛があるとすれば、売買不可能なハートにおいて成り立つのではないか、とアーバンギャルドは問う。口紅は、偽りのイマージュにしか役立たない。真実の、実存する愛は、血を流すような愛だ。アーバンギャルドは燃えるような音楽で、欺瞞に満ちた虚妄背理の恋の駆け引きを破壊する。これこそ、現代を覆いつくす幻想の解体である。解体のなかから、懐胎するものを救い出せ。そのことが、現代の脱構築になるのだから。

 KAI版に収められた「生まれてみたい YOKOTAN REMIX」は、繊細にして、針のような音のフラグメントが愉しめる曲。TAI版に収められた「都会のアリス 戸田宏武(新宿ゲバルト)REMIX」は、極めて前衛的な手つきで、この曲の新たな一面を開示した曲。どちらも貴重な音源。

◆CDアルバム NO-LIE SENSE鈴木慶一&KERA)『The First Suicide Big Band Show Live 2014』(4R-0005ナゴムレコード)2015年8月26日リリース

NO-LIE SENSEは、鈴木慶一ムーンライダーズ)とKERA(ケラ&ザ・シンセサイザーズ)からなるユニット。2014年5月10日に東京・東京キネマ倶楽部で行われたライヴ「The First Suicide Big Band Show」の記録。ゲストは、浜崎容子、松永天馬(fromアーバンギャルド)、緒川たまき

緒川たまき、松永天馬が参加した「MASAKERU」は、NO-LIE SENSEのライヴでは初披露の曲。「だるい人」「DEAD OR ALIVE(FINE FINE)」「大通はメインストリート」で、浜崎容子が参加。

よこたんが歌ったことのある蛭子能収作詞の曲は何かというアーバンギャルドカルトQがあったら、「だるい人」と答えないといけない。

YouTube新垣隆 & 吉田隆一 + 浜崎容子 ゴーストライターhttps://youtu.be/VzYuS-4l_sY  2015年9月10日アップロード

 ゴーストライター経験を持ち、苦渋の経験をした新垣隆の演奏で、浜崎容子が「ゴーストライター」を歌うという冗談のような企画だが、新垣隆のピアノと吉田隆一のサックスは最高で、渋い音で「ゴーストライター」の新たな魅力を引き出してくれた。新垣さんが実名で活動するようになって、本当に良かったと思う。

BOOK 松永天馬著『自撮者たち』(早川書房)2015年10月25日初版第一刷発行

 『自撮者たち』は、「少女」「都市」「神」「墓碑」という四つのパートから出来ている。これは少女小説のカテゴリーに入るのだろうが、その描き方は観念的であり、写実主義(リアリズム)ではない。かといって、現実に対し、観念的な遊離が起きているのではなく、逆に現実を触発する棘として機能する。この小説は、決して「少女」に媚びておらず、冷徹に「少女」というイマージュを生産する「都市」という装置、一種の欲望装置まで見据えており、時には「神」の如き、ランドサット衛星から見たような俯瞰的な視点さえも導入する。(吉本隆明は『ハイ・イメージ論』の中で、ランドサット衛星から見た俯瞰的な視点を「世界視線」とし、次第に人類は死もしくは歴史の終わりから見た「世界視線」を獲得するようになると考える。)その真意は、概念としての「少女」を解体し、実在の生身の少女を救い出すことにある。そのとき、概念としての「少女」は虚像となり、幽霊となり、言葉となり、「墓碑」が立てられるだろう。

まずは、「少女」のパートから。「スカート革命」は、アーバンギャルドの楽曲にもあるが、小説は楽曲の附随物ではないし、楽曲の補完物でもない、完全に独立した文学作品として存在する。「スカート革命」とは、端的に言って、恋による世界認識の変貌である。女の子は、恋によって、世界の見え方まで変わる。松永天馬は、時にジーグムント・フロイト精神分析的な視点をも導入しながら、「少女」の欲望を解明する。恋は、身体的な運動を伴うものである。この事と、毒を取り入れ、血液を甘くする事とは、どういう関係しているのか。シモーヌ・ド・ボーヴォワールが『第二の性』で、「鉛筆の芯、封糊、木切れ、生きた蛙」、「コーヒーと白葡萄酒」の「混合液」、「酢の中に侵した砂糖」、「うじ虫」を我慢して口に入れる思春期の女性のエピソードを書いている。(生島遼一訳、新潮文庫、第1巻、147~148頁)なぜ、このような病的行為が生じるのか。ボーヴォワールによると、「自分の肉体に、経血に、大人の性行為に、自分がささげられている男性に、嫌悪をいだく。彼女にいやに思われるすべてのものとなれなれしくすることによって、嫌悪を消そうとするのだ。」さらに、ボーヴォワールは、「若い娘は太腿を剃刀で切り、自分の体を煙草で火傷させ、また、切りつけたり、すりむいたりする。」として自傷行為にすら言及している。(前掲書、148頁)つまり、自分が性に対して抱いている嫌悪以上の嫌悪を経験させ、「自分の処女をうばう突入(pénétration)に対して抗議しているのだ」(前掲書、149頁)。このことを考慮しながら、小説「スカート革命」に戻ると、自分の体内に毒を入れるとは、自分の受け入れがたいものを受け入れるということになる。

「死んでれら、灰をかぶれ」。この小説は、『少女は二度死ぬ』の収録曲「月へ行くつもりじゃなかった」のモチーフを膨らましたものではないかと思われる。少女は地球にいて、パパは月で働いているが、月の先住民であるうさぎに襲撃されようとしている。フィリップ・K・ディックのSF的設定を、さらにチープにしたような舞台設定で始まる。この小説は、「表層」(蓮實重彦の『表層批評宣言』を参照せよ)だけで進行し、背後世界のようなものはない。「表層」だけで進行する『不思議の国のアリス』のようである。「表層」だけなので、パパは熊のプーさんのようになるのではなく、実際に熊に生成変化し、うさぎはアメコミのようではなく、実際にアメコミの画に生成変化する。少女が月に行く方法も、「表層」だけで進行する小説ならではのもので、電車に飛び込むことによってである。「死んでれら、灰をかぶれ」は、終始、二次元の紙の上で進行するポップ文学である。松永天馬は、「表層」だけの物語に、暴露心理学的な毒性のある認識を埋め込む。物語の最後で、この物語自体が造り物で、映画の撮影シーンであることが明らかになる。寺山修司の映画「田園に死す」、アレハンドロ・ホドロフスキーの「ホーリー・マウンテン」のラストのようである。それにより、想像界に亀裂が走り、読者は現実界に放り出される。松永天馬は、次のように結ぶ。「わたしの名前は死んでれら。またの名を、灰かぶり姫。」この言葉は、中沢新一の次のような記述を連想させる。「シンデレラ(Cinderella)という英語も、サンドリオン(Cenderillon)というフランス語も、どちらも灰や煤に関係している。いつもかまどの近くにいて、からだじゅう灰まみれ、煤まみれになっている少女という意味である。」(『女は存在しない』、せりか書房収録「とてつもなく古いもの」196頁)「この少女は「灰尻っ子」という意味の「キュサンドロン」という言い方でも呼ばれています。これはとても下品な意味で、娼婦をののしる時にも「おまえの尻は灰だらけだ」という意味で、このことばが使われます。」(『人類最後の哲学』講談社選書メチエ84頁)中沢は、灰かぶり姫を「人間の世界にいるのに他の人からはよく見えない存在」(『女は存在しない』197頁)と解し、シンデレラは、かまどの近くにして「底無しの暗い死の領域」(同)とつながっているシャーマンの末裔だとする。片方の足の靴が脱げてしまうというエピソードも、一本足で旋回するシャーマンの舞踏から来ているというのである。作者は、シンデレラの語源を踏まえて、少女を暗い死の世界とつながる存在として提示している。

寺山修司少女詩集』ならぬ『松永天馬少女詩集』。語呂合わせや、韻を踏んだ部分があるので、声に出して読むと、またちがった世界が開示されるように思う。死神ならぬ「詩に紙」、「前髪ぱっつんオペラ」を連想させる部分のある「ショートカット」、ジョン・ケージだったら「4分33秒」なので、夢野久作ジョン・ケージではない「少女地獄4’44’’」、ドーナツ盤からCDへ、さらにアイドルブーム時代の少女の歌声に関する考察「幽霊にしか歌えない」、資本主義社会のなかで売買される少女の概念と、生身の血で出来た私の乖離を描く「売秋」、生と死、聖と俗(エリアーデ!)、男性・女性(ゴダール!)を結びつける三途の川を描く「濡れませんように」、資本主義の中で物神崇拝され、交換される少女のイマージュをトリセツ調の文体で描く「その少女、人形につき」。

「実録・あたま山荘事件」。若松孝二監督による映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」をフォーマットにしたプロット展開に、思春期の少女の家庭に潜む心理的問題を流し込んだ快作。この小説では、「山岳ベース事件」が「三角ベース事件」に、「赤軍派」「連合赤軍」が「赤飯派」「連合赤飯」に、「浅間山荘」が「あたま山荘」に、「浅間山荘」に激突させた巨大な「鉄球」が、男性についているものを形象化した「鉄棒」に変換させている。『少女の証明』にも「あたま山荘事件」という曲が収録されているが、唯物論者である革命戦士が、実はあたまでっかちの観念論者であり、そうであるがゆえに、テロリズムの果てに、自己批判による総括と称して内ゲバに至り、自滅していったという皮肉が含まれている。そういう意味で、連合赤軍事件について書かれた笠井潔の『テロルの現象学~観念批判論序説』とも共振性を持っているといえるが、小説の描き方は、ドストエフスキー埴谷雄高武田泰淳椎名麟三大江健三郎笠井潔といった作家のような描き方ではない。要するに求心的で、パラノイアックで、晦渋な懐疑に満ちた描き方ではなく、倉橋由美子の『パルタイ』のような観念的で、フォルムからアプローチする方法である。この小説は、ストーリー上では連合赤軍事件をなぞるように進むが、それに仮託して語られるのは、家庭内の心理過程である。先ほど「赤飯派」と書いたが、初潮、性のめざめ、個我の確立、家庭内でのひきこもり、親子関係、母と娘の共依存といった問題が語られる。作中の情報から「あなた」が母親で、「玲子」であり、「わたし」が娘で、「玲丹」という名前だとわかる。最終段階で、母親の「玲子」が、自分の名前を「玲丹」だという。この部分が、この小説のハイライトである。この母親は自分と娘の区別がついていない。ジュリア・クリステヴァならば、一時的ナルシシズムという形で、母と娘が融合しているというだろう。母と子が自立するには、この融合をおぞましきもの(アブジェクシオン)として棄却し、二人の間に距離が生じなければならない。母のこうした態度に対し、「わたし」の方は「家(あなた)」から出ることを考える。自然に起きるのではなく、意識的に起こすのが革命だとすれば、この判断は革命的である。

続いて「都市」のパートに移る。「病めるアイドル」は、読者参加型の小説である。前衛小説の中には、読者が参加して完成する小説がある。例えば、ミシェル・ビュトールの『心変わり』は、主人公が「あなた」という二人称である。「あなた」である読者が、小説という迷宮に入っていき、この小説は完成する。「病めるアイドル」も、作中の「××××」に、読者自身の名前を入れて読むことで、文学空間が変わる。インターネット社会では、各人が広報手段を持つようになったので、「あなた」もアイドルの要件を満たすようになった。そこで経験するのは、「不在の少女」としてのアイドル……。

都市をテーマにした詩が、この後、続いている。「東京への手紙」、都市を表すのに「絆創膏」「下着」「アクセサリー」という喩えを使っているが、これらの本質的機能は、隠蔽することにあるようだ。都市は死体を隠し、隠したものを廃棄し、虚飾で飾り付ける。今は、全てが商品化され、物象化されている。「Blood,Semen,and Death」、恋することは、時に辛い現実に触れる機会を強いる。これに対比されているのは唯物論者で、魂を信じない唯物論者は傷つかないとされている。「フクシマ、モナムール」、「白い礼服」とは「アクリルバイザー」のついた防御服のことだろう。福島第一原発の事故があって、書かれた詩である。「死者にリボンを」、クリスマスについての考察。

「自撮者たち」。スキャンダラスで超破壊的な問題作。「自撮」と書かせて「じさつ」と読ませるのは、『鬱くしい国』に収録された楽曲「自撮入門」でやっていることだが、「自撮」の背景には、自分を完全なる客体(人形)に変えたいという心理が働いているとして批判をする、それがこの小説の基本的なスタンツだ。アイドル業界(AKB48ならぬ「JST444」(自殺死死死と読める)、AKB劇場ならぬJST劇場が登場する)を題材に、主体であることを止め、人形化された人間をエクスプロイット(開発=利用=搾取)する産業構造を、筒井康隆ばりのスラップスティックによる暴露心理学、舞城王太郎ばりの暴力と疾走、事態を俯瞰的に捉えるメタフィクション(この小説に登場するゴシップ誌は、『ディスコ探偵水曜日』ならぬ『ウェンズデー』である)で、グロテスクに描いている。この小説の世界は、スキャンダル中毒で、暴露合戦と自撮写真のアップロードが過激なほどにデッドヒートしている。「殺影会」と呼ばれるゲーム上で、アイドルたちは戦うが、その際に使用するアプリ(機関銃アプリ、パチンコアプリ『ゆきゆきてKOKYO』……ところで、『ゆきゆきて○○』とは原一男監督による奥崎謙三のドキュメンタリー『ゆきゆきて、神軍』に由来するのではないか。)は、殺戮を快感に変えるようなアシッドとして機能しているように思われる。アイドルたちはスキャンダルを引き起こすと、ペナルティーで膨大な数のペニスを手術で付けられてしまうが(こんな残酷な人体改造の物語をアーバンギャルたちは読んでいるのだろうか)、この設定は膨大な数のファルスで埋め尽くされたソファを創造する草間彌生を連想させる。草間は、セックスへの恐怖を克服するために、あのような創造をしたのだというが、「自撮者たち」で何でもありの世界を疑似体験するのも、

規則で縛られた現代人にとっては、一種のセラピー効果があるかも知れない。

松永天馬詩集・都市篇の後半戦。台風ではなく、諷刺の諷を使った「台諷」。擬人化されたレコードから伺える聴くことへの偏愛。太陽のせいで人を殺した『異邦人』のムルソーが脳裏を掠める。蛇足を加えると、アルベール・カミュの創造したムルソーはmort(死)とsoleil(太陽)から出来ており、その前作の習作『幸福な死』では、mer(海)とsoleil(太陽)に由来するメルソーが主人公である。よこたんの愛猫の名前はsoleilソレイユ。フランス語で太陽の意味。この猫の誕生日が11月1日と私が知っているのは、私の誕生日と一致するからである。続いて「僕は吸血鬼か」。吸血鬼のテーマは、ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』から、日夏耿之介『吸血妖魅考』を経て、種村季弘『吸血鬼幻想』に至る幻想文学の歴史のなかで、禁忌に触れる愛、異端的なエロティシズムを表現する題材として選ばれてきたが、この散文詩においても同様である。ただ、「郵便的な距離」という言葉が指し示すように、この吸血鬼のテーマは、デリダの『絵葉書』以降の、送信されたメッセージは確実に送りたい相手に届き理解されるというロゴスへの信頼が失われた不確実性の世界において、再考される。それは、想いが届くのが不確実であるがゆえに、その絶望が不条理な狂おしいまでの想いとなって溢れるという新たな局面の開示である。都市が主題の詩がならんでいるが、どうしようもなく男であるが故の、或いは表現の探求において、ストイックで妥協を許していないが故の孤独を表現した作品が続いている。「男は僕は俺は」がそうだし、「Tのトランク」もそうだ。寺山修司の『血は立ったまま眠っている』、或いはフランツ・カフカの「なぜ、人間は血のつまったただの袋ではないのだろうか。」といった表現にも、孤独の翳を感じるが、書くことが即自己探求であるような書き手である場合、この孤独は宿命のようなものである。「君について」では、愛は、軽々しく口にして表現するものではないといった主旨の言葉が見られる。詩人の言葉は、時に反時代的である。

続いて、「神」を主題とするパートに移る。「神待ち」。隠れ家レストラン<第七官界>でのカントクと生体サイボーグ製のウェイトレス、そして支配人の対話が中心の物語である。読者は、<第七官界>という言葉から、この物語が尾崎翠の『第七官界彷徨』の系譜に属する少女小説であることに思い至るだろう。カントクは、神様が撮ったこの世界の全情報を映像のかたちで収めたHDを編集しようとしているが、物語の最後まで神様は登場しない。終始、神が問題となっているのに、主役が登場せずに終わる点では、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のようである。物語は、カントクが注文したラーメンに切断された指が入っていたことから始まるが、(切断された指という題材は、その後の「ふぁむふぁたファンタジー」でも使われる。この指には、運命や宿命ということを意識するほどの約束という意味が含まれているように思われる。)物語の後半、カントクの映画のキャステングを決めるオーディションに移っていく。端的に言えば、神様の映画に出る適格者を選ぶのに、飛び降りさせてみるというものだ。キリスト教実存主義者の祖キルケゴールは「私がそのために生きそして死ぬことを願うようなイデーを見い出すことが必要なのだ。」といった。セーレン・キルケゴールの言ったイデーとは、彼の神のことである。信仰者にとって、神は生死を賭すほどの濃縮された意味が込められている。飛び降りによるオーディションは、神と人のそういった関係性を勘定に入れたものなのだろう。そして、飛び降りにも耐えられる<強度(アンタンシテ)>を有する者だけが、神様の映画に出演できる適格者となるのである。勿論、飛び降りにも耐えられる人間などいるはずがない。ここで、この小説の意味合いが変容を遂げる。倉橋由美子に「隊商宿」(『夢のなかの街』)という作品がある。「隊商宿」の最後の方で、神はKに子供を授けようと、サライを身ごもらせる。こうして赤ん坊が生まれるが、神にささげる生贄の家畜がないことがわかると、Kは神から授かった赤ん坊を生贄にしてしまう。この場合、Kは神に対し過剰なまでの帰依を徹底することにおいて、神に叛逆を企てていると言える。「神待ち」に話を戻そう。なぜ、カントクは神様のためのオーディションで、少女たちを飛び降ろさせるのか。それは、怒りの神でもよい、とにかく、この世界に神を出現させたいという願望の現われではないか。被造物である人を連続的に殺すことは、悪である。そうした悪の極致において、神は存在するのだと神自らをして姿を現さざるを得ない状況に追い込むこと。カントクの行為は、神への帰依を衣裳にまとった神への叛逆ではないだろうか。つまり、マルキ・ド・サドの文学が、無神論ではなく、実は反有神論であって、悪徳を謳うことで眠れる神を覚醒させようとする倒錯した試みではないかと評されるように、カントクの行為は倒錯した信仰者のものではないかと思われるのである。なお、この物語は、そうしたメタフィジカルな物語とともに、映画業界のスターシステムの権力構造と、資本主義の中での消費財としての芸能人を追求するオブジェクトレベルの話が進行するように出来ている。カントクとは、映画業界における帝国主義的権力者であり、飛び降りをして死ぬとは、映画業界から使い捨ての消費財と見做されることを意味する。勿論、時代を超えたスターになる道はあるが、それは稀有な奇蹟であり、飛び降りても死なないような<強度(アンタンシテ)>を持つ者だけが、不死鳥として時代が変わっても記憶される人間になるというものだ。

再び、松永天馬詩集、神篇。映画の世界を語り、自身の世界(ゴダールを初めとするヌーヴェル・バーグに詳しいシネフィル?)を開示する「夢精映画」、「人間は神様のコスプレ」と語り、資本主義的消費社会の中で生き、やがて土に還っていく孤独を明らかにする「Costume P”r”ay」、人間の不完全さを語る「点点天使」、私と私でないものの境界線を思考する「肌色の夢」、自身の内に既に死が用意されていると語る「墓場にくちづけ」、神様がめくる頁として、この世界の時間の流れを捉える「めくら ないで」、詩集は悪魔の書であるべきだとする「実用詩」を収録。

「モデル」。資本主義社会の、広告代理店が幅を利かす世界での聖と俗を描く。まこと(まこちゃんと呼ばれている)は、モデルである。しかし、何が流行するかは、神様が筋書きを書いている。まことのブログの文章も、神様が書いている。まことは、造られたモデル=虚像である。この小説世界では、枕営業が常態化しているようである。まことは、広告代理店Dと、そういう関係を持っている。広告代理店DはCMをつくるが、Dの夢は映画をつくることにある。或いは、映画の話で、まことを釣ろうとしているといえる。Dは「下着はラッピングだ」などと、上野千鶴子フェミニスト理論家。マルクス主義フェミニズムを標榜。)の『スカートの下の劇場』のような事を言う。このことは、一時期、上野を含むニューアカデミズム、若しくはポストモダニズムが、資本主義的消費社会と共犯関係にあったことを示している。Dは生理鎮痛剤のCMを撮ったとされ、本当は血を流させたかったと言っているが、このことは暗に、アーバンギャルドの『セーラー服を脱がないで』PVはTVでは流せないということを示している。Dは、まことに対し、業界の仕組みをつくったフィクサーである神様に会ってほしいと懇願する。自身が映画を撮るために、神様に枕営業をせよというのだ。だが、まことが会った神様は、そういう存在ではなかった。この神様は、人としての身体を持っていない可能性がある。神様は自身を不確かな存在で、女性の肌に触れることができず、天から見ており、音だけの存在だとしている。この神様が、ほんものの神様か、かつてフィクサーであったものが、この世を去る時に悟り、下界を解脱し、コンピーターの中のAIに置き換えられたのか、この小説からはわからない。物語の最後に、神様の声は社長の声になるが、これがリアルな現実か、まことの観た夢か、判別がつかない。肝心なことは、まことのモデルとしての醒めた視点、一種諦観のような悟りが、この神様との意見の一致をもたらしたということ。その認識は、自分がモデルとしての肩書しか持っておらず、誰かの夢になろうとしていること、服を脱げば、人々の持っているまこちゃん像は消失するということである。まことの語る境地は、アーバンギャルドの「ノンフィクションソング」で「君の夢」と言っていることと一致する。まことは立ち上がり、歩き始める。広告のない世界へ、言葉から遠く離れて。ルプレザンタシオン(再-現前化。 表象=代理。)のない世界へ。

最後、「墓碑」のテーマに移り、『夜想#アーバンギャルド』に初出掲載された「文字で書かれたR.I.P.スティック、或いは少女Y」が収められている。資本主義のもたらした高度情報化社会のなかで、実体とは無縁の「少女」のイマージュが増殖している。このイマージュは、資本主義の利潤追求のために利用されてきたとおぼしいが、この幻想によって実在としての少女ははなはだ生きにくい状態に置かれている。そのため、幻想の外側に連れ出すことが重要だという認識が、この作品に要領よくまとまっている。『自撮者たち』全体のコンセプトを明らかにするために、ここに置かれたのだと思う。

YouTube Brats「十四歳病」https://youtu.be/WvA6kctcdA4?list=PLRjl5pD07wEnDpqT1qgv-ZBYswF3s4mW3

2015年11月21日アップロード

Brats(ブラッツ)は、黒宮れいLADYBABY ミスiD2015、vo&gt)、黒宮あや(姉、アリスエイジ専属モデル、ba)、ひより(gt)による中学生バンド。「十四歳病」は、映画祭"MOOSIC LAB 2015"に出品されたターボ向後監督作品"DREAM MACINE"の挿入歌で、「十四歳病」のMVもターボ向後が制作している。「十四歳病」は、子どもから大人に変貌する危険な年齢である(そうであるがゆえに、生と死がせめぎ合っている)十四歳の黒宮れいに焦点に合わせ、十四歳の黒宮れいに熱病に取り憑かれたように引き寄せられるあなた(それは、アイドルに対するファンの反応でもある)との関係性を描いている。どうも、松永天馬がアーバンギャルド以外のために作詞するとき、提供する相手を見て、詩のなかに取り入れているようである(つまり、黒宮れいは十四歳であり、上坂すみれは下の名前を取って「すみれコード」であり、たんきゅんデモクラシーは思春期であるというように)。その事によって、歌い手は、提供された曲を自分の曲として、自分のことを歌うようになる。黒宮れいは、アーバンギャルドの「平成死亡遊戯」のMVにも出演している。

◆CDアルバム『昭和九十年』(初回限定盤FAMC-208/通常盤FAMC-209KADOKAWA)2015年12月9日リリース

 『昭和九十年』は、アーバンギャルド初のコンセプチュアル・アルバム。平成二十七年(2015年)のパラレル・ワールドである「昭和九十年」を措定し、戦時下で、言論統制が行われ、人々の自由恋愛が禁止されている状況を描き、「言葉を殺すな」、そして戦争に抗するために、自由であれ、恋せよ、と説く。しかしながら、架空であるはずの「昭和九十年」と、現実の「平成二十七年」の関係は、複雑に関連しており、『昭和九十年』は「平成二十七年」の問題点を浮き彫りにする内容となっている。この関係性は、ジャン=リュック・ゴダールの映画『アルファヴィル』を想起させる。ゴダールの『アルファヴィル』は、未来の全体主義都市を描いたSF映画だが、セットは使わず、1960年代の現実のパリを撮影している。アーバンギャルドの『昭和九十年』も、架空の「昭和九十年」の話をしているふりをして、実は今、ここを問題としている。私たちは、戦時下におかれており(集団的自衛権を認める安保法制の整備、ISによるテロリズム、日本近海での軍事的緊張等。)、言論統制の動き(特定秘密保護法、報道の自粛、表現の自由に対する自主規制等)も出てきている。「昭和九十年」は、現代の矛盾を撃つための批評装置なのである。

『昭和九十年』では、架空の昭和を捏造するために、昭和に流行った曲調を意図的に取り入れている。「くちびるデモクラシー」は軍歌調の節回し(同期の桜)、「シンジュク・モナムール」は歌劇団風の歌唱、あるいは演歌調の節回し、「箱男に訊け」は数え歌調の節回し(圭子の夢は夜開く)、「あいこん哀歌」は童謡調の節回し(リンゴの唄)、「ゾンビパウダー」はビッグバンドによるジャズの曲調を連想させる。

「くちびるデモクラシー」は、『昭和九十年』のコンセプトを明らかにする重要な曲である。この世界が、すでに戦時下にあり、戦争を推進するために全体主義的な言論統制が進行中である。したがって、戦争に反対するためには、言葉を殺さない事、表現の自由を守る事、自由恋愛をする事が重要となる。しかしながら、人々は液晶の画面ばかり見つめていて、この現実に気づかずにいる。なぜ、「くちびる」と「デモクラシー(民主主義)」が結びつくのか。言葉を発するのは「くちびる」であり、キスをするのも「くちびる」だからである。「デモクラシー」を支えるものは、自由にものが言えることであり、好きなものを好きと言えることだからである。

「くちびるデモクラシー」を、精神分析学や記号分析学の観点から考えてみよう。ジークムント・フロイト精神分析で言う「口唇期」を意識して、「くちびる」を入れたという仮説である。フロイトによると、人間は口唇期→肛門期→性器期の順で精神的に発達する。「口唇期」は、このうち、母親との関係性が主客の分離が出来ておらず、ナルシスティックに一体化されている段階と考えられる。ここで、ジュリア・クリステヴァの議論を想起しよう。この世界は、ル・サンボリックという象徴秩序で規定されている。法律だとか、政治だとかは、ル・サンボリックのレベルの出来事である。戦争時、ル・サンボリックのレベルで、全体主義的なこわばりが生じている。ル・サンボリックが抑圧しているのは、ル・セミオティックである。ル・サンボリックは、象徴に由来した造語であり、ル・セミオティックは、セミオロジー記号論)の記号に由来した造語である。クリステヴァのこれらの造語は、フロイト派であるジャック・ラカン精神分析とリンクしている。ラカンによると、人間の精神は、象徴界想像界現実界の三層構造になっている。このうち、人間は、現実界にはアクセスできない。人間の根源にあるイドは壊れていて、欲望はあるが、方向性が定まっていない。これを欲動と呼ぶ。人は、多型倒錯の欲動の海に翻弄される想像界の住人であり、リアルな実在(現実界)を知ることができない。欲動の方向性を定めるのは、文化(象徴界)による恣意的強制である。恣意的ということは、現実界に立脚した必然性を持たないということである。記号の秩序は、フェルディナン・ド・ソシュールによれば、恣意性・差異性・共時性である。われわれが世界で出会う事象は、われわれの頭の中で記号として処理されるが、その際、記号のシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の関係は恣意的で、このシニフィエは、シニフィアンシニフィアンの差異によって決まってくるが、その文化において認められた記号の体系は、その共同体を生きるものには必然として強制されているのである。クリステヴァのいうル・サンボリックは、ラカンのいう象徴界フロイトのいうスーバーエゴ(超自我)とリンクしており、ル・セミオティックは、ラカンのいう想像界フロイトのいうイドもしくはエスとリンクしている。ル・セミオティックの働きは、「くちびる」が記号を産出することとつながっている。ル・セミオティックが、ことばを紡ぎ出す、その記号産出に、ル・サンボリックの秩序を覆す詩的言語の革命の可能性がある。つまり、「くちびるデモクラシー」は、「くちびる」がことばを産出するという原初的な段階に、一旦遡行し、そこから世界を革命するという事を指していると解釈できる。

 「ラブレター燃ゆ」は、鮮烈なラブソングである。歌詞中に、戦争のメタファーが多く使われている。戦争というボリティカルなことと、恋というリビディナルなことが交錯し、言葉が武器化している。ポリティカルなことと欲動を関連づけて考える思考としては、ジャン=フランソワ・リオタールの『エコノミー・リビディナル(邦訳 リビドー経済)』や、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』などがあるが、ポップ・ミュージックにおいて、このような試みを意図的に行うのは、あまりないのではないか。また、このラブソングは手紙(レター)に着目して、その手紙が燃えたり、紙ヒコーキになったりして、届けたい相手に届かないという誤配可能性、或いは遅配可能性に拘っているが、これは確実に東浩紀の『存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』および『郵便的不安たち(文庫版では再編集により、タイトルに#が付けられている)』を意識している。或いは、東の本のネタ元であるジャック・デリダの『絵葉書』に依拠している。実は、『絵葉書』でデリダは、リビドーの伝達の問題、メッセージの誤配可能性・遅配可能性について思考しているのである。「ラブレター燃ゆ」は、戦時下という危機的状況下で、逆説的に燃え上がる純愛を描くのと同時に、メッセージは確実に相手に届き、他者と解り合えるという甘い幻想への不信を表明した歌なのである。にもかかわらず、この歌の主人公は、神様に頼る事すら捨て、私自身が戦火の中で燃えても、あなたへの想いを貫いたならば、言葉だけになり(それは純粋な思念体になることと考えて良い)あなたに届くのではないかと考える。ここにおいて、主人公はデリダ的な決定不可能性を、障壁を乗り越える愛の思念で軽々と突破するのである。

ところで、「ラブレター燃ゆ」と、「コインロッカーベイビーズ」では、神様がいないのではないかという歌詞が見られるが、神学を学んだ天馬さんは何を考えて、この歌詞を書いたのだろう。或いは、これらの曲を演奏する神父の父を持つ瀬々さんは、どう考えているのだろう。とついつい考えてしまう。ここでは、シモーヌ・ヴェイユ(哲学者・キリスト教神秘主義者・赤い処女と呼ばれる)の「不在の神」、存在しない神に祈る事である、という解釈をしておこう。

「コインロッカーベイビーズ」については『少女KAITAI』の項で触れたので、ここでは述べない。

 「シンジュク・モナムール」。四月、新宿、失恋、死ぬ……「し」から始まる言葉を連ね、韻を踏みながら、舞台の上で「少女」を演ずる女性の世界に入っていく。死の決意、ショウの終わり(カーテンコール)、春を売る事というネガティヴなことから、世界という舞台に立つ「少女」が、危うい精神的状況であることがわかる。「シンジュク・モナムール」は、アラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本の映画「ヒロシマ・モナムール」に依拠している(この映画は、広島に反戦映画のロケに来たフランス人の女優が、日本人男性と深い仲になり、外国人の他者が果たして広島の原爆を知ることができるかという認識の問題に直面するという心理主義映画である)。また、1968年の東大駒場祭の際に、橋本治が書いたポスターのコピー「とめてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている」のもじりと思われる歌詞が含まれている。「ヒロシマ・モナムール」や橋本治のコピーは、現在の文化からは喪われているが、多事争論を口にできる時代への憧憬があっての作品世界への導入ではないか。この世界を生きる「少女」を、まるで唐十郎の紅テントか、寺山修司天井桟敷の女優であるかのように見立てて、この歌の世界が語られる。「少女」へのメッセージは、生きているうちが花で、死んだらそれまでという事である。これが森崎東監督、倍賞美津子主演の映画「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」と関係があるかどうかはわからない(この映画では、原発シプシーとじゃばゆきさんが出てくるが、「ガイガーカウンターの夜」とか「u星より愛をこめて」ではないので、直接の関係はない。しかしながら、「ヒロシマ・モナムール」で原爆、「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」で原発ということは、「原爆の恋」を知る私たちからすると、意図的に連想させるようにセットされた言葉ではないか、と思わずにいられない。)。

 「詩人狩り」。このタイトルは、川又千秋のSF『幻詩狩り』を意識したものだろう。『幻詩狩り』は、シュルレアリスムに近い内宇宙を描いたニューウエーヴSFであると分類してもよいだろう(作中に、アンドレ・ブルトンその人が登場する)。また、狩られるのが詩人ということで、ギョーム・アポリネールの『虐殺された詩人』も連想される。なぜ、詩人が狩られるのか。ミシェル・フーコーは「狂気と社会」(『哲学の舞台朝日出版社)68頁で「<狂人>が登場するのは…(中略)…社会の周辺部においてである。しかもそこには、このようなはみ出した<周辺的存在>を規定する四つの大きな<排除のシステム>が常に認められるのである。」とし、「(一)労働あるいは生産関係との関わりで生じる排除、(二)社会の構成員の再生産過程としての家族との関係における排除、(三)言葉、つまり象徴の生産とその流通との関係における排除、(四)遊戯(jeu)との関係における排除」の四つがあると言っている。フーコーのカテゴリーでは、詩人が(三)に入ることは明確であろう。すなわち、全体主義のような閉じた社会では、一般人とは異なる詩人は排除されやすいのである。そのことを踏まえながら、引き続き歌詞を読み解いていこう。『血は立ったまま眠っている』は、寺山修司の戯曲。(ここまで挙げた作品は、いずれもシュルレアリスムの近傍に位置する作品である。)『消しゴム』はアラン・ロブ=グリエのヌーヴォーロマン。『死体を探せ!』は、養老孟子門下の美術評論家、布施英利の評論である。「詩人狩り」は、詩人を狩るところから始まり、殺される詩人にアイデンティファイするところで終わる。安部公房『燃えつきた地図』は、失踪者を追跡する探偵が、やがて記憶を失い、自ら失踪者と化していくが、この「詩人狩り」では詩人を狩る者が、自ら虐殺される詩人となっていく。この歌詞の意味は「仏に逢うては仏を殺せ」と同じで、詩人になるためには、詩人を殺せということだろう。殺せというのは、勿論比喩で、先行者を乗り越えることを指している。そのためには、既成概念を解体し、自ら考えることが必要である。「詩人狩り」は、詩人になる過程、詩人への生成変化を歌った曲ではないだろうか。

 「箱男に訊け」は、病者の光学に基づいて行われた犯罪心理学的な考察を、そのまま歌にしたものである。タイトルは、安部公房の『箱男』を意識したものだろう。「箱男」とは、箱のような閉鎖空間に閉じこもること、ひきこもることを意味し、外部を遮断し、妄想にふけるということを指している。こうした主人公の祖型は、ドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公まで遡ることができる。「少年A」は、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)の犯人であり、「ビデオテーブの壁」は、中森明夫大塚英志が論じた『Mの世代』の犯人Mであり、「キツネ目の男」「どくいり・きけんの男」はグリコ・森永事件の犯人であり、「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」というアンディ・ウォーホルの言葉が続く。「圭子の夢は夜ひらく」のような年齢数え歌の部分があるが、これはアルバム名が『昭和九十年』なので、昭和のイメージを喚起するためだろう。「箱男に訊け」は、箱を被ったような、要するに自分だけの世界に引きこもった人間への批判であり、箱の中で承認願望を募らせているから、劇場犯罪型の犯罪者になるのだ、ということである。「くちびるデモクラシー」では、液晶ばかり覗いていて、戦争に巻き込まれていることすら気づかない人間への批判が行われ、「コインロッカーベイビーズ」ではコンピュータの世界の外に出て、具体的な恋愛をしないと、子どもができないと歌われ、「箱男に訊け」では閉じた世界に引きこもっていると、犯罪者に変貌してしまうと説く。いずれも、外へ出よ、ということであり、この原型は「アニメーションソング」のうちに、すでに用意されていたと考えることができる。

 コリン・ウィルソンの『殺人の哲学』では、初期の殺人は「ジンの時代」、すなわち飲酒による暴力沙汰が原因の殺人が多かった。或いは『コリン・ウィルソンの殺人ライブラリー』で言うと痴情のもつれに端を発するような「情熱の殺人」が多かった。しかしながら、時代の変遷とともに、金銭や怨恨といった動機が見いだせない無動機の無差別殺人、猟奇的な快楽殺人が浮上してくる。快楽殺人者の特徴は、連続殺人者(シリアル・キラー)に発展しやすい事にある。このように、犯罪にも時代の刻印がある。「箱男に訊け」は、現代の犯罪者は箱男だとする。言い換えれば、世界が極端に狭く、閉じた世界のなかにいて、外部とのコミュニケーションが断たれているということである。この観点は、21世紀の犯罪の特徴を見事に言い当てているように思える。

「昭和九十年十二月」。「R.I.P.スティック」の6分44秒を超え、9分15秒と現時点で最長の大作。アルバム『昭和九十年』の設定を明らかになる核心となる曲。僕の妹が死に、僕の姉さんが死に、僕の母さんが死に、僕の恋人が死ぬという異常な状況。次第に明らかになるのは、街が空襲で死に絶えた事。この『昭和九十年』が発表された「昭和二十七年」は、集団的自衛権が議論され、自国が攻撃されなくとも、同盟国が攻撃された場合、たとえ地球の裏側であっても、敵の本拠地を攻撃できるというもので、日本国憲法第9条の戦争放棄条項の改正を経ずに、安保関連法案を通すことで、集団的自衛権の発動ができる国になった年であった。この年の12月、アーバンギャルドは「昭和九十年十二月」を含む『昭和九十年』を発表した。「昭和二十七年」のパラレル・ワールドである『昭和九十年』では、日本は戦争の渦中にあり、アルバム発表時、アーバンギャルドは国会議事堂が戦火で崩れ落ちるというビジュアルを公開した。それは、薄い皮膜を隔てた、いつ移行してもおかしくない、あり得るかも知れない可能世界であった。安保関連法案を通したという事は、日本が『昭和九十年』のようになるという事を許容したという事だと言っているようだ。この曲のなかで、アーバンギャルドは死んだ女性たちに呼びかけ、生きかえらせようと試みる。死者に呼びかけ、再度、立ち上げさせる行為は、現状に対する抵抗であり、運命に抗しようとする荒々しい力技である。

「あいこん哀歌」。並木路子の「リンゴの唄」(作詞:サトウハチロー)を連想させるような歌詞から始まるが、「昭和」の雰囲気を出すためだろう。私と貴方は、LINEで繋がっているようである。インターネットを通して、貴方のアイコンを見ているだけなので、「愛している」と言いにくいような関係性である。その貴方との繋がりが断ち切られる。「漣(さざなみ)」が貴方を奪ったということなので、貴方の命は海に奪われたのだろう。一番可能性があるのは、東日本大震災津波による死である。ここに来て、ネット上のアイコンが、哀魂に変貌する。貴方は海の底で、貝殻やヒトデとともに眠っている。私と貴方とのコミュニケーションは、悲痛な不通に終わる。これもまた、メッセージの誤配可能性のひとつの結果である。こうして、アイコンから始まり、哀魂を経て、愛婚となる。身体は喪っても、純粋思念のうちに、二人は結ばれるのである。

「ゾンビパウダー」。歌詞中に「脱法」「合法」とあることから、今では違法の危険ドラッグのことだろう。ゾンビパウダーの源義は、ヴードゥー教を信奉する西アフリカ等で使用された毒物である。共同体の嫌われ者や掟を破った者に振りかけられ、意図的に仮死状態にして、自発的に思考のできない奴隷(ゾンビ)に加工してしまい、死に至るまで強制労働させる。勿論、ゾンビに至る過程で、死亡することもある。ゾンビ・ハウダーにはテトロドトキシンが含まれていると言われるが、定かではなく、毒性物質の組成方法もわかっていない。これは、中身の知れない危険ドラッグと同じである。最終パートで、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を連想させる歌詞が出てくる。これは、集団心理による思考停止であり、同調圧力である。薬物依存だけでなく、同調圧力や、逸脱者の排除の心理なども関係しているという洞察が、この歌詞から読み取れる。

「平成死亡遊戯」。インターネットで繋ごうとしている「あちら」とは、冥界のことである。というか、ここで描かれている冥界は、電脳世界の性質を兼ね備えていて、まるでアニメ「serial experiments lain」に出てくるワイヤードWiredのようである。接続方法として、ADSLISDNテレホーダイが挙げられているのは、「あの娘」がいるのは、一昔前の電脳世界だからである。歌詞を追うと、「あの娘」はホームページを持っていたが、本人の死により更新が途絶えていることがわかる。状況証拠からして「あの娘」とは、南条あやのことではないか、と思われてくる。南条あやは、メンヘラ系のネットアイドルのハンドル・ネームで、「南条あや保護室」というホームページを運営していたが、向精神薬の大量服用により、日頃の自傷行為が原因で心臓にダメージがあったことと相まって、18歳の若さで急逝した。死後刊行された著作として『卒業式まで死にません』がある。この曲では、今は亡き南条あやと思われる人物と心の中で対話しながら、二十世紀を振り返り、二十一世紀を生きる意味を問いかけるという仕掛けになっている。二十世紀、(阪神・淡路、或いは東日本等の)地震が起きたり、地下鉄サリン事件が起きたり(地下鉄で人が倒れる、或いはビニール袋に傘で穴を開けるというのは、地下鉄サリン事件を指している)、戦争が起こったりした。「透明な存在」というのは、少年Aの酒鬼薔薇聖斗としての反抗声明に含まれていた言葉である。淡々と、二十世紀を振り返りながら、今は平成なのか、昭和なのか、と問い、今は戦後なのか、それとも戦前なのかと問う。リアルワールドとワイアードの世界の境界線が、或いは生と死の境界線が揺らぎ始める。この歌の主人公は、二十一世紀が本当に来るとは思わなかったと南条あやに語り、自分らしく生きることを約束する。「平成死亡遊戯」は、ブルース・リーの「死亡遊戯」を連想させるが、平成を生きる「少女」にとって、日々の暮らしは、生のための戦いの場でもあることを指している。

アルバムに収録された「平成死亡遊戯」には、吉田豪による、あの(ゆるめるモ!)、伊藤麻希LinQ)、はのはなよ、白石さくらへのインタビューがノイズのように挿入されている。タワーレコード購入特典『URBANGARDE MABOROSHINO SHOWA90』に収録された「平成死亡遊戯」には、これら「病めるアイドル」の声は入っていない。「平成死亡遊戯」は、都市のノイズがフラグメントのように挿入されても、その世界観が崩壊することがない、最初からフラクタルな構造をしているからである。

かつて『たのしい前衛』第二号掲載の「前衛都市のメタフィジカ」(2)で書いたことだが、日本では年間三万人の自殺者が出るという。この自殺者の規模は、一見、平和な日常生活の中に、戦争と同じく、生命をないがしろにするニヒリズムの病理が、潜んでいることを示している。この病理の背景には、経済的な理由(プレカリアートと呼ばれる不安定な雇用形態の増加等)や、スクールカーストといじめといった教育に関係する原因など、複数の原因があると考えられる。「くちびるデモクラシー」で、戦争と全体主義的統制社会への不安を表明したアーバンギャルドが、同じコンセプチュアル・アルバムの中に「平成死亡遊戯」を入れているのは、自殺者は、日常の中の戦死者であるという認識があるからに違いない。

「オールダウトニッポン」。アルバム最後の曲である。ラジオ放送の形を借りて、アルバム全体の目論見を明らかにした作品である。冒頭で、現在が戦時下であるという確認が改めてなされ、信じる者が救われない時代だという認識が示される。そうした時代の中で、少女は傷つき、ビルから身を投げる。ここでラジオのDJは、嘘によって、死んだ君を生き返らせて、電波に乗せて放送するのだと語る。これは、どういう事か。アーバンギャルドが、『昭和九十年』でやろうとした事は、(1)現在、われわれの世界は、戦時下にあり、何が起こるかわからない時代であることを示し、(2)先の大戦で死んだ者、震災や津波で命を落とした者、ネット社会のなかで自死を遂げた者の記憶を甦らせ、フィクションの力で、あたかもパラレルワールドの中で生きているかのように描き、われわれに問題提起を行い、(3)最終的に過酷な状況下であっても、生きろ、恋せよ(そして、恋を永続的な愛に変えろ)、決して言葉を殺すな、自分を表現することを止めるな、それが時代に抗する道だと伝えることだった。

このアルバムの初回限定盤には、DVDがついていて、「くちびるデモクラシー」「ラブレター燃ゆ」「コインロッカーベイビース」「平成死亡遊戯」のプロパガンダ・ヴィデオが収録されている。このうち、「くちびるデモクラシー」と「コインロッカーベイビース」が、青木亮二監督作品で、「ラブレター燃ゆ」と「平成死亡遊戯」は、ターボ向後監督作品である。特に「平成死亡遊戯」は、黒宮れい、矢川葵(Maison book girl)、羊戸ひなの(少女閣下のインターナショナル)が出演し、楽曲の持つ心象風景を見事に映像化している。

『昭和九十年』購入特典として、HMVでは『アーバンギャルド アコースティック 昭和九十年』が、タワーレコードでは『URBANGARDE MABOROSHINO SHOWA90』が、ヴィレッジヴァンガードでは『詩劇:アーバンギャルドの新宿に死す』がついたが、このうち『URBANGARDE MABOROSHINO SHOWA90』に、新譜(「レディメイドソング」)が入っていたので、この楽曲についてだけ、少しだけコメントを付しておきたい。「レディメイドソング」は、松永天馬の思考方法が明快に示されたキーとなる楽曲だと思う。その核心は、少女たちは皆、自分のことを個性的だと思っているが、実は量産型のコピー人格であり、複数の既製品を組み合わせているだけのシミュラクラだ、というものである。私たちは、量産型エヴァンゲリオンのような大量生産品であり、フィリップ・K・ディックの『シミュラクラ』のような存在であり、大塚英志の小説版『多重人格探偵サイコ』ではないが、マスプロダクツされた存在だというのである。一種、構造主義的な人間観だが、この認識を彼の作詞や小説に導入すると、見えてくるものがあるように思える。

ちなみに、小説版『多重人格探偵サイコ』は、まず角川スニーカー文庫版が二巻出て、その後、講談社ノベルス版で三巻出て、最終的に角川文庫に収録された。初出の角川スニーカー文庫版では、アーバンギャルドの『少女は二度死ぬ』『少女KAITAI』『昭和九十年』のアルバム・ジャケットを担当したトレーヴァー・ブラウンが、アート・ワークを行っている。トレーヴァー・ブラウンは、少女に照準を合わせながらも、残酷で毒性のある世界を描き出している。可愛さと戦慄と不安感が共存する世界である。アーバンギャルドの世界観と共振するところのあるトレーヴァー・ブラウンには『女の子戦争』という画集も出している。『昭和九十年』で、トレーヴァー・ブラウンは、戦火と瓦礫のなかのガス・マスクをした少女を描いている。このガス・マスクが意味するものは何か。直接的には、ABC兵器(atomic weapon,biological weapon,chemical weapon)が使われるような背景を示唆しているのだろうが、そうだとしたら、ガス・マスクは完全な防御には、ほど遠いと言わねばならない。兎も角、ガス・マスクが示唆するものは、戦争と言論統制が行われている世界への違和感、私たちの生存に対する脅威が進行する時代の閉塞感の表明なのは間違いなさそうである。

◆CDシングル たんきゅんデモクラシー『あどれっせんすドレス伝』(SUS-012/櫻梅生徒会)2015年12月16日リリース

松永天馬は、たんきゅんデモクラシーの「あどれっせんすドレス伝」の作詞を行っている。アドレッセンスとは、思春期のこと。子どもから大人に変わる季節、青春、思春期について綴った詩である。子どもから大人に変わる契機として、「恋」が介在する。つまり、わたしがわたしとして羽化するためには、「他者」が必要になるということである。

 

2016年

◆CDアルバム 上坂すみれ『20世紀の逆襲』(KICS93337等/KING RECORDS 2016年1月6日リリース

すみれコード」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)収録。2014年3月に『パララックス・ビュー』とカップリングで出されたシングルである。アルバム発売に際し、シングルが再収録された。「すみれコード」とは、宝塚歌劇団における「清く正しく美しく」という校訓を指す。「すみれコード」においては、男女間はレコードの回転数が違うように、根本的な原理が異なるがゆえにすれ違うという宿命の確認とともに、「清く正しく美しく」を守りながら、それでもなお、その愛を貫く尊さが説かれている。

YouTube 野佐怜奈「早く帰りたい(demo short ver.)」https://youtu.be/wLEJN9xuFS0 2016年1月18日アップロード

Key.おおくぼけい(アーバンギャルド

◆『SFマガジン2016年2月号、Vol.57、No.713 特集:「スター・ウォーズ」』(早川書房)2016年2月1日発行

神林長平×松永天馬(司会:高柳カヨ子)「ぼくたちは言葉で生きていく」掲載。

松永天馬×西田藍「虚構の少女とわたしたち」掲載。

YouTube 野佐怜奈「 H A -T O demo short ver.)」https://youtu.be/EqPTxhP2cNs 2016年2月16日アップロード

Key.おおくぼけい(アーバンギャルド)。「早く帰りたい」とともに、野佐玲奈がYouTubeで月に1回、017の日に発表しているデモ曲のひとつ。おおくぼけいが、キーボーディストとして高く評価されている表れだと思うが、けいさまの活動を追っていると、様々なジャンルの音楽に出会うことができる。

◆CDシングル 風男塾(ふだんじゅく)『友達と呼べる君へ』(通常盤TECI399テイチクエンタテインメント)2016年2月24日リリース

「ラブメッセンジャー」(作詞:miyakei、作曲:DACHI、編曲:Shinobu Narita、piano:おおくぼけい)収録。風男塾は、男装の女性アイドル・グループ。中野風女シスターズメンバーによる男装。アーバンギャルドの松永天馬が、清掃課の天馬係長として出演していた「Let's天才てれびくん」のMC虎南有香も、当時、このグループ(男装時は赤園虎次郎)。

◆BOOK浜崎容子『バラ色の人生』(ロフトブックス)2016年3月5日初版第一刷発行

 アーバンギャルドの歌姫・浜崎容子による自伝的エッセイ。Rooftopに連載中(本書刊行後も連載は続いている)の「バラ色の人生」と、『夜想アーバンギャルド』に初回掲載された「浜崎容子の告白」の完全版が収録されている。美輪明宏の『紫の履歴書』と、本書『バラ色の人生』を並べておくと、感慨深いものがある。美輪明宏シャンソン界の大御所であり、シンガーソングライターの草分け的存在でもあり、よこたんはテクノ・シャンソンという新時代を切り開いて行こうとしており、宅録や作曲もこなす。『紫の履歴書』は、戦争の世紀であり、長崎の原爆と空襲、ユニセックスファッションや同性愛の問題など、様々な運命が描かれ、『バラ色の人生』では、自殺やいじめが問題となる時代にあって、さまざまなトラウマをかかえた少女が経験する挫折や精神的な危機が描かれる。美輪明宏は当時の文化人(三島由紀夫寺山修司…)との交流があり、霊的なものにも関心を寄せる。一方、よこたんもアーバンギャルドの活動を通じて現代の文化人との交流があり、『バラ色の人生』に書かれているように座敷童などへの霊感があるようである。『バラ色の人生』は始まったばかりだが、この先、「バラ色の履歴書」になっていくのではないか、という予感がある。

◆CDミニアルバム『昭和九十一年[サル版]』(ZETO-013/前衛都市/TK-BROS)2016年4月2日リリース、ライヴ会場限定販売

◆CDミニアルバム『昭和九十一年[ヒト版]』(ZETO-014/前衛都市/TK-BROS)2016年4月2日リリース、ライヴ会場限定販売

CDミニアルバム『昭和九十一年』は、2015年12月にリリースされたCDアルバム『昭和九十年』のその後を、SF的想像力を駆使して予測する内容の楽曲を収録している。[サル版]と[ヒト版]があり、[サル版]には「くちびるデモクラシー GOATBED REMIX」が、[ヒト版]には「箱男に訊け KEISAMA REMIX」が収録されている。CDミニアルバム『少女KAITAI』と同様に、ライヴ会場限定の販売であった。

「ふぁむふぁたファンタジー」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)。タイトルのFemme fataleは、「運命の女」を指すフランス語である。Phantom Girlは、「幻影の少女」。ビッグ・ブラザーは、ジョージ・オーウェルディストピア小説『1984年』に出てくる全体主義体制の頂点に立つ権力者のことである。この曲では、私たちはビッグ・データに基づいて数値的に管理されており、コンピュータの検索機能でヒットする事柄は、予測の範囲を超えることはない。では、この管理社会から自由になるにはどうすればいいのか。それは、人生を決断することであり、予め決められた運命の赤い糸を切って、運命的な出会いによって、人生を転換させることである。基本的には、東浩紀『弱いつながり―検索ワードを探す旅』と軌を同じくしているように思われる。東浩紀は旅や観光によって、自分の身の置き場を移動させることで、コンピュータ検索では予測できない遭遇を生じさせようとしているからである。アーバンギャルドの場合、恋愛や結婚を通じて、運命の転換を引き起こそうとしている。

「大破壊交響楽」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)。ニヒリスティックではあるが、清涼な風が吹き抜けるような解放感のある曲である。楽曲中の君は、春の晩に飛び降り自殺を図り、この世を去った。この歌は、後に残された僕の心境を綴った内容となっている。君のいない世界は、僕にとってはもはや意味のない世界である。都会の街のすべてが存在しないのと同じになってしまう。心は、まだ君を探しており、街のどこかにかすかな記憶の残像を探そうとしている。この曲は、逆説的な愛の歌であり、君がいないがゆえにより清冽な純度のせつなさに達する。このような悲嘆と絶望を愛する人に与える自殺は罪悪である。

マイナンバーソング」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)。松永天馬作詞による「ソング・シリーズ」は、アーバンギャルドの基本的な考え方、すべての表現活動の基盤となる原理を示しており、丁寧に読解する必要がある。アーバンギャルドの「ソング・シリーズ」は、2009年発表の「コマーシャルソング」「アニメーションソング」、2010年発表の「ファミリーソング」「プロテストソング」、2011年発表の「バースデーソング」、2012年発表の「ノンフィクションソング」、2014年発表の「アカペーソング」、2015年発表の「ファンクラブソング」、2017年発表の「マイナンバーソング」を指しており、抽象的な概念が扱われることが多い。「マイナンバーソング」は、作中に「十二桁」とあることから、2013年に成立した「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」に基づくマイナンバー制度を指すことは間違いない。とはいえ、「マイナンバーソング」は、政治的なプロテストソングとは言えない。むしろ、「マイナンバー」に関する存在論的な考察を主眼とする曲というべきである。結果として、「マイナンバー」を「囚人番号」だと揶揄する表現が見られるが、これは存在論的な考察から生まれた副産物に過ぎない。

やや迂遠ながら、「マイナンバーソング」の世界に深く分け入ってみよう。柄谷行人は『探求II』において、ほとんどの哲学書において「この私」が抜け落ちていることに苛立ってみせる。「私」一般の問題は取り扱われる。しかし、「この私」は取り扱われない。主観、人間存在、実存……は出てくるが、それは「私」一般のことであり、「この私」だとか「この犬」だとか、「この」が抜け落ちている。柄谷は、「この」性を「単独性」と言い換える。「単独性」は「特殊性」のことではない。「この私」は、必ずしも特殊というわけではない。例えば、恋愛において、人は「この女性(或いは、男性)」を愛するのであり、失恋した人に対し、他にも女性(或いは、男性)はたくさんいるじゃないかと言ったとしても、慰めにはならないと柄谷は考える。というのは、失ったものは「この女性(或いは、男性)」、唯一無比の単独性だからである。単独性を把握することを、柄谷は固有名で呼ぶことと結びつける。相手を固有名で呼ぶこと、相手の「顔」を見ること、これらは単独性の把握に繋がる。柄谷は、兵士は、固有名を持たない敵のなかの一人と考えると、平然と人間を殺せるが、固有名で呼び、相手の「顔」を見て、単独性を把握するようになると、殺しにくくなると考える。

相手を固有名で呼び、相手の「顔」を見て、相手の単独性を把握することは、国民全員にマイナンバーを与え、ナンバリングして管理するという発想とは真逆である。「マイナンバーソング」のわたしは、そのことを理解しているので、計算する思考に抗議をし、このわたしは「割り切れない」と考えるのである。さらに続けて、このわたしは、「この」性という人間の在り様と、マイナンバーを割り当てることで、コンピュータ管理が容易くできるという発想の根本的差異を把握しながら、割り切って生きていこうとする。最終的には、数字に潜む冷酷な部分を理解した上で、能動的な主導権を握り、「割り切らせて」と主張するのである。

マイナンバーソング」に散りばめられたキーワードを読み解いてみよう。「ポッケ」から連想されるものは、美空ひばりの「東京キッド」である。「百八つ」は、仏教における煩悩の数。「イー・アル・サン・スー」は、中国語の「一・二・三・四」。「数に溺れて」は、ピーター・グリーナウェイの前衛的実験映画のタイトル。「アン・ドゥ・トロワ」は、フランス語の「一・二・三」。『24人のビリー・ミリガン』は、ダニエル・キイスによる解離性同一性障害を主題にした小説のタイトル。「メドゥーサ」は、ギリシャ神話に出てくる髪の毛が毒蛇になっている怪物で、直視すると相手を石に変えるという。サルトルは、人間関係における疎外態を対他存在と呼び、メドゥーサのように他者のまなざしで、人は石化すると説明した。そのことを考え合わせると、マイナンバーによるナンバリングは、疎外態であると作詞者は考えているのかもしれない。「24601」は、ヴィクトル・ユーゴーレ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンの囚人番号である。「18782」は厭な奴で、「18782」をふたつ足すと、その数字は、トマス・M・ディッシュの『人類〇〇〇』の〇〇〇を思わせて、不穏な事態となってしまう。

「HALの惑星」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)。HALとはアーサー・C・クラーク原作の、そしてスタンリー・キューブリックによって映画化された『2001年宇宙の旅』に出てくる人工知能を持ったコンビュータHAL 9000のことと考えられる。なお、アーサー・C・クラークによる続編『2010年宇宙の旅』は、ピーター・ハイアムズが映画化している。『2001年宇宙の旅』の冒頭で、ヒトザルの前に謎の黒い石板「モノリス」が現れ、ヒトザルは「モノリス」の影響下で道具の使用を覚え、文明化されたヒトへと進化を遂げる。『昭和九十一年』には、[サル版]と[ヒト版]があるが、『2001年宇宙の旅』を踏まえた発想と考えられる。前作『昭和九十年』の中心曲「くちびるデモクラシー」では、ジョージ・オーウェル的な全体主義体制のもとでの言論統制への恐怖が描かれたが、『昭和九十一年』になると、アーサー・C・クラーク的なSF的想像力を駆使して、人の行きつく果ては、サルへの退行なのかと問いかけているように思える。

「HALの惑星」に出てくるキーワードをチエックしてみよう。「CQ」は、無線通信において呼び出しをするときの略符号、「キューブリック」はてスタンリー・キューブリック、「C・クラーク」はアーサー・C・クラーク、「HAL」はHAL 9000のことだが、韻の関係で「春」が呼び出される。「エイプマン」は柴田昌弘の漫画のタイトルで、ヒトとサルの混血生物、最終的に「CQ」は「至急」あるいは「子宮」に聞こえるまでリフレインされる。

「HALの惑星」では、恋愛がうまくいかないのは、自分が「宇宙人」で、地球の恋愛と不適合(ミスフィット)だからとされる。「宇宙人」とは、自身がアウトサイダーであることのSF的な比喩を用いた表現と考えられる。ちなみに、『アウトサイダー』を書いたイギリスの新実存主義の作家・批評家のコリン・ウィルソンの著作『The Misfits: A Study of Sexual Outsiders』は、鈴木晶によって『性のアウトサイダー』として翻訳されている。柄谷行人ならば、「宇宙人」の代わりに「絶対的な他者」、或いは「絶対外国人」というだろう。共同体のルールを共有せず、外部にある人という意味である。結局のところ、「HALの惑星」は、共同体から逸脱した人の恋愛の苦しさを歌った曲だということになる。特に、周りを見渡すと、時流が全体主義寄りで、言論や表現への統制が進むなかで、それらに気付かず、内面化している人ばかりで、自分が孤立していると感じるならば、自分が宇宙から来た異星人のように浮いて感じられるようになるだろう。浮いた存在……ここから、自身の気持ち悪さへの自覚はあと一歩である。

 「くちびるデモクラシー GOATBED REMIX」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:石井秀仁)は、『昭和九十一年[サル版]』に収録されている。GOATBED(ゴートベッド)は、cali≠gariのボーカル石井秀仁を中心としたニューウェーブエレポップバンドであり、オルタナティヴで実験的な「くちびるデモクラシー」を聞くことができる。

箱男に訊け KEISAMA REMIX」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:おおくぼけい)は、『昭和九十一年[ヒト版]』に収録されている。こちらは、ホラー・ショー風で、化け物屋敷風の「箱男に訊け」を聞くことができる。編曲者によって、曲の印象ががらりと変わるのが面白い。

◆CDアルバム ザ・キャプテンズ『運命盤』(VSCR-003VERY JAPANESE RECORDS) 2016年4月20日リリース

「恋の逆転満塁ホームラン」(作詞・曲:傷彦、編曲:ザ・キャプテンズ、声の出演:松永天馬、ミックス:白石経)。ザ・キャプテンズは、2001年に仙台で結成されたグループ・サウンズのバンドである。アーバンギャルドとの関係では、2015年3月まで、おおくぼけいがケイ伯爵として在籍したことで知られる。「恋の逆転満塁ホームラン」では、松永天馬が応援席の声「傷彦が打つ、傷彦が打つ」を担当しているが、これを書いていて「傷彦が鬱」というタブル・ミーニングのために、この人選が行われた可能性に思い至った。ザ・キャプテンズは、アーバンギャルド主催の「鬱フェス」出演経験があるからである。

◆BOOK松永天馬『少女か小説か』(集英社文庫)2016年4月25日初版第一刷発行

※解説の都合上、小説の内容に踏み込んでいます。未読の方は、先に小説をお読みください。

『少女か小説か』は、「Web集英社文庫」にて、2015年4月~2016年2月に掲載された短編9編に、書下ろし作品「あした地震がおこったら」「子どもの恋愛」「ゴーストライター」の3編を加えた短編集である。短編のタイトルは、アーバンギャルドの代表的な曲のタイトルになっているが、内容的に直接的な繋がりはない。同タイトルを用いての文学による変奏と言うべきか。

『自撮者たち』同様、非常に知的にソフィスティケートされた作風である。観念の操作から成り立っている作品群である。

「セーラー服を脱がないで」では、教師と女子生徒の会話から成り立っている。「教える-学ぶ」という関係が非対称であることに留意すべきである。教師は上からの目線で、生徒に話している。グレゴリー・ベイトソンは、こうした上下関係があるところで発生した「ダブル・バインド(二重拘束)」が、統合失調症を引き起こしやすい環境となると考えた。

「変」「變」「恋」、少しづつ漢字の形を変換させながら、この二人は「変」であること、「恋」することに思索を巡らす。「変」であることは、普通であることを逸脱する事だから、単独者(実存、アウトサイダー)としての目覚めと受け止めていいかも知れない。教師と女子生徒の恋愛は、禁断の「恋」である。女子生徒は先ほど「卒業」を済ませ、両者は教師と生徒の関係ではなくなったというが、さりとて危うい「恋」は、単独者の覚悟がないとできない。

重要なことが語られる。小説では、そこにないものが、言葉になった瞬間に、そこにあるかのように世界に出現すると。松永天馬の文学において世界は、唯言論であり、登場する先生や少女は記号人間である。アーバンギャルドに先行する英国のテクノポップ・バンドのスクリッティ・ポリッティの楽曲「ワード・ガール」を想起してもよい。スクリッティ・ポリッティの中心的人物グリーン・ガートサイドは、ポスト構造主義の哲学者、ジャック・デリダの影響を受けた人物だった。構造主義系の思想の根底には、フェルディナン・ド・ソシュール記号学がある。唯言論は、ソシュール記号学の研究者であった丸山圭三郎が、自身の哲学上の立場を説明するために唱えた言葉である。哲学には、唯心論、観念論、唯物論等、さまざまな立場があるが、丸山の唯言論によると、記号(シーニュ)に着目すると、意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)が恣意的必然によって結びついており、差異を持つシニフィアンで言語(ラング)の共時的な体系が出来ている。唯言論によって捉えられた世界は、事象のすべてが言語のシステムによって言分けされており、私たちの身体感覚自体が言語によって身分けされている。このように言葉で出来た宇宙を考えてみよう。教師と生徒の会話は、言葉だけの宇宙で進行する。

作中、教師の「売らない」が、生徒に「占い」と受け取られる箇所がある。また、教師によって「恋」と「故意」と書き換える箇所がある。同音異義語である。発音は同じであるが、意味するもの(シニフィエ)が違っていて、コミュニケーションを受ける段階で、意味の誤配が生じる。小説「セーラー服を脱がないで」は、漢字の形態の変化(変→變→恋)と、同音異義語による意味の誤配(売らない→占い、恋→故意、離したくない→話したくない)によって進行する物語である。作中「幽霊」という言葉が現れるが、「幽霊」概念は、ジャック・デリダの哲学における重要概念でもある。デリダの『ユリシーズ・グラモフォン』における電話論、『マルクスの亡霊たち』の幽霊論、『絵葉書』のメディア論を総合すると、「幽霊」とは主体の複数化と関係しており、「幽霊」が生じるのは電話や郵便による誤配のせいだとわかる。松永天馬は、東浩紀の『存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』を介して、デリダの考えを咀嚼して、作品に生かしているとおぼしい。

「新しい服を買うために、制服を脱いだ女の子たち」については、援助交際ブルセラに関して、社会システム論の立場から解析を加えた宮台真司『制服少女たちの選択』を、「セーラー服は……、いわば戦闘服だ。」については、ジャック・ラカン精神分析を基に、日本のサブカルチャーにおける戦闘美少女のキャラクター分析を行った斎藤環戦闘美少女の精神分析』を、「変わるぎりぎりのところで、いつまでもとどまっていて欲しい」については、ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』を基に、禁制と侵犯のせめぎ合いを思考した澁澤龍彦の『エロティシズム』を、「生きたままの標本」については、ジョン・ファウルズの『コレクター』を参照されたい。松永天馬の小説には、現代思想社会学精神分析学、現代文学等の膨大なバックボーンがある。しかも、小説は、寺山修司の映画『田園に死す』と同様に、この物語を成立させている舞台セットの秘密を暴露して終わる。これは、物語を終わらせるためのオチであると同時に、この虚構と現実世界がひとつづきであり、他人事で済まさないぞという悪意あるシニスムの現われなのである。

「四月戦争」。一見、一組のカップルの対話から成る恋愛小説の体裁をしているが、同時に米国と日本の関係をメタレベルから捉えた政治小説としても読めるという両義性を持った小説である。言い換えれば、精神分析的な小説だと言っていい。

日米関係の分析に精神分析を導入する試みとしては、フロイト精神分析学を基に、唯幻論を唱えた岸田秀と、ケネス・D・バトラーによる『黒船幻想―精神分析学から見た日米関係』があるが、こちらは黒船来航による強制的な開国から始まった日米関係は、日本の対米的姿勢の分裂、すなわち内的自己と外的自己の分裂を引き起こし、今日の貿易摩擦まで問題が続いているというものである。「四月戦争」で扱っているのは、第二次世界大戦以降の日米関係なので、白井聡の『永続敗戦論―戦後日本の核心』が、戦後の日本人の心的構造を解き明かす視点を提供してくれるかも知れない。『永続敗戦論』は、日本人が先の大戦による「敗戦」を直視できず、「終戦」として処理し、その後、対米従属的な戦後レジームが続いているというものである。対米従属的レジームにおける日本人の心を原理的に把握したい方には、16世紀に書かれた本だが、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』を読むといいかも知れない。

「四月戦争」を基ににして、複雑な日米間の駆け引きを考えることは、各自の作業にゆだねるとして、ここでは恋愛小説であると同時に政治小説であるという文学上の前衛性を押さえておきたい。フロイトの影響を受けて、性の重要性を強調したり、潜在意識の流れを描いたり、更にはシュルレアレスムのように幻想と神秘を重視した文学が生まれたが、「四月戦争」は政治権力のせめぎ合いをも描いている。これは、どういう事か。1968年の五月革命以降、フランスでは、精神分析マルクス主義を綜合する欲望史観が登場した。ジャン=フランソワ・リオタールの『リビドー経済』や、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オィディプス』がそれに該当するが、「四月戦争」でやっている事も、精神分析学と政治学が融合した視点で、「男性・女性」と同時に日米関係を思考する試みなのである。このような文学的なチャレンジをやっているのは、フランスならばフィリップ・ソレルスアメリカならばトマス・ピンチョン……非常に尖端的な試みであることは間違いない。

「セーラー服を脱がないで」でもそうだったが、「四月戦争」も最終の一行で、物語の状況が一変する。「四月戦争」の場合、三次元が二次元に変換され、すべてがエクリチュール(書かれたもの)の産物であることが強調される。意外性を狙ったオチであるが、それ以外に、この物語がルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の縁者であることを意味しているのではないか。アリスは穴に落ちることで、現実世界を抜け出し、ファンタジーの世界に入り込む。それと同じで、『少女か小説か』では、現実界想像界の往還が頻繁に起こる。物語の上の愉しみだけでなく、自在に次元を横断し、「セーラー服を脱がないで」では「恋」や「卒業」の意味を、「四月戦争」では政治的な係争を、現実世界の重力に縛られることなく追いかけることができるようになる。

「水玉病」は、アーバンギャルドの楽曲名に留まらず、初期のアーバンギャルドのファッション・アイテムでもあった。小説「水玉病」では、このファッション・アイテムの意味についての探求が見られる。「御洒落警察」に職務質問を受ける読者モデルの「わたし」。この小説から浮かび上がってくるものは、ファッションから見た消費社会の構造である。『象徴交換と死』で知られるフランスの社会学ジャン・ボードリヤールは、現代社会はモノの生産ではなく、記号の消費に重点を置いた社会であると考えた。「御洒落警察」と「わたし」の漫才のような掛け合いから、記号の消費を基軸にした社会に組み込まれて生きるしかない私たちの生態が暴露される。広告と情報操作のくだりは、マーシャル・マクルーハンの『メディアはマッサージである』を連想させる。「御洒落警察」は、「わたし」の水玉ファッションを「ファッション・テロ」と呼ぶが、記号を消費する社会システムの外部に出ることはできず、記号をシャッフルする程度の事しかできないという絶望に裏打ちされているように見える。「御洒落警察」の理念、『美しい国』の美しいファッションを「取り戻」すは、『美しい国へ』という新書本と「日本を取り戻す」という政治的スローガンを連想させる。これに対し、「わたし」は「管理されたファッション」は「ファッショみたい」だと反論を試みる。「御洒落警察」によると、水玉病に感染した少女は、「病んだブログ」を書き、「リストカット」をする可能性が高いという。デヴィッド・クローネンバーグ監督の『デッドゾーン』では、未来の危機を察知して、未然に防ごうとした男の異端への生成変化を描いているが、この小説では「リストカット」を予見して、水玉病を追う「御洒落警察」の方が正統の側にいる。

最後、物語の舞台セットが暴露される。この物語は、ファッション雑誌上の記号の争いを擬人化したものだった。三次元であったはずの物語は、二次元の世界に還元される。

「コンクリートガール」。「コンクリートで出来たお城」とは、散文的な表現ではマンションだろう。「私」は、マンションの一室に引きこもっている。家族との接触はなく、部屋の前に食事が置かれるだけである。こうした場合、『社会的ひきこもり―終わらない思春期』の斎藤環によると、「個人の病理」ではなく、家族や社会など「システムの病理」として見ることが必要だという。

「私」が唯一アクセスするのは、電脳空間だけである。アーバンギャルドの楽曲「コインロッカーベイビーズ」を想起するならば、この「私」の在り方は、外界を遮断して電脳空間に引きこもっており、それでは社会が始まらない。「コインロッカーベイビーズ」が説いていたのは、コインロッカーのような閉じた世界から外に出ること、その契機として恋があり、次の世代の子どもの誕生があるということだった。

「私」はインターネットを通じて、民衆によって幽閉された「ユウ」と呼ばれる王女らしき人物とコミュニケーションを始める。王女らしき人物は「私」に救済を求め、幽閉されている「コンクリートの箱の中」から脱出しないと、民衆に殺されるという。王女らしき人物は、マリー・アントワネットのような人物なのか。その割に、宮殿ではなく、「コンクリートの箱の中」に閉じ込められているとあるではないか。「ユウ」と「私」の対話は、次第に「私」と私のドッペンゲルガーとの間の自問自答のようになっていく。このことは、この「私」がそれ自体として存在せず、私自身を見る私という形で存在していることを反映している。通常、自己省察は、鏡や他者に映る自己イメージとしての私との対話から成り立つが、引きこもりによって社会性が喪われている「私」は私のドッペンゲルガーに出会うだけである。その結果、幻想としての城は、崩壊し始める。「私」は自身の存在の確実さを確認するために、自身の裸の写真をSNSにポストし続けるが、その事は、尚一層「私」自身を無残に消費させるだけである。

破滅の時が来た。部屋の中の異変に気付いた両親は、本棚でバリケードのように塞いだ部屋をこじ開けるだろう。「民衆たち」と「私」が誤認していたのは、両親であった。引きこもりであるがゆえに、両親のリアルを直視し得ず、恐ろしい形相のイメージを付与してしまう。すべての幻想が壊れる時、「私」という個体イメージも滅びる。後に残されたものは、人形のような裸の死体、或いは人形そのもの。

「リボン運動」。SFには、エヴゲーニイ・ザミャーチン『われら』、ジョージ・オーウェル『1984年』、オルダス・ハクスリーすばらしい新世界』といったディストピア(反ユートピア)を描いた小説の系譜があるが、「リボン運動」はそれを短編で達成しようとした試みであると考えられる。短編集『少女か小説か』の中でも、特に注目すべき問題作である。ディストピア小説には、政治権力、あるいは管理社会が、人間の恋愛や妊娠・出産等の性の部分、言い換えれば、社会システムを支える人間自体の再生産の部分に介入し、自由恋愛の禁止・産児制限・人口調整等を行うというパターンがあり、「リボン運動」もまた、その系譜を継承し、自由恋愛と全体主義的統制社会を対立関係に置く一方で、自由恋愛と音楽の在り方を重ね合わせることで、作者自身の対社会的な姿勢を明確に打ち出すことに成功している。

「リボン運動」で描かれるのは、自由恋愛が禁止され、メッセージ性のある音楽が禁止され、音楽が空間を埋める単なるBGMとして消費されているという全体主義的情報管理社会である。自由恋愛と、ロック等の音楽の共通点は、自らが自分なりのやり方で考えるということ、自律的思考がその核に埋め込まれていることにある。音楽において、歌詞カードを見て、その意味を考えることは、自律思考の実践である。その習慣がないならば、音楽は単に聞き流すものとなり、BGMに堕するだろう。この小説のなかでリボンは、単なるファッションアイテムではなく、政治的なプロテスト(抵抗)の意思表示を示すものとしての意味を付与されている。少女にリボンを与えるのは、政府から禁止された音楽をやっているバンドのお兄さんである。

なぜ、このような小説が書かれるに至ったのか。3・11があり、「あした地震がおこったら」が現実になってしまい、福島原発の事故が起き、「ガイガーカウンターの夜」が書かれ、汚染水はアンダー・コントロールという政府の公式見解の下で、『鬱くしい国』がつくられ、偽善性の告発の意図を込めて「原爆の恋」がつくられる。その間にも「u星より愛をこめて」等、表現をめぐってレーベルの自主規制との駆け引きがあり、『少女KAITAI』の地下出版の如き、自主制作によるライブ会場限定の流通が始まる。時代の証言者として、最先鋭の表現を目指すアーバンギャルドにおいて、ディストピアの悪夢は一般市民に先行するかたちで現出したのだ。このような小説が描かれるのは、必然であったと言えるだろう。

「リボン運動」は、機動隊との激烈な闘争と喧騒のなかで、クライマックスを迎える。とはいえ、この小説は政治小説ではない。少女はクライマックスの最中に、想いを寄せるバンドのお兄さんが実は別の誰かを愛していることを知り、深い喪失感をいだく。この痛みが、少女にこれが恋愛という事なのだと悟らせる。あらゆる自律的思考が禁圧された世界の中では、あたかもジャン=リュック・ゴダール監督の映画『アルファヴィル』のように、恋愛は未知の領域であり、世界の外部に触れた時に初めて真実の愛が訪れるのだ。

「プリント・クラブ」。この小説は、村上龍の『ラブ&ポップ~トパーズII』を原作に、『新世紀エヴァンゲリオン』『シン・ゴジラ』の庵野秀明が、テレビ東京深夜ドラマ方式で(要するに、低予算で。『ラッフルズ・ホテル』で興行面で苦杯を舐めた経験を持つ村上龍が映画化を認めたのも、ハンディ・カムを使った低予算の撮影方式を庵野が提案したからだったからだという。)撮影した映画『ラブ&ポップ』を連想させる。両者とも援助交際を題材としており、援助交際の前に水着を選ぶシーンがある。SNSで呼び出した大学生二人組とカフェで会うシーンは、『ラブ&ポップ』でかみ砕いたマスカットを女子高生に食わせる不快なシーンを連想させる。GAP帽の男は、どことなく『ラブ&ポップ』のキャプテンE.O.を連想させる。作中「クロマキー投影」という単語が見られるが、『ラブ&ポップ』で庵野は自転車を漕ぐ女子高生の下着が見えるのを気にして、クロマキー処理で消していたはずである。但し、『ラブ&ポップ』の時代とタイム・ラグがあり、「プリント・クラブ」では、SNSと「自撮入門」を連想させる自撮り棒が登場し、「現実を殴りつける時に使う」という素っ頓狂な解説を加えている。「わたしたちの青春、誰かにとられちゃったのかな」とわざと平仮名で書かれているのは、「撮る」と「盗る」というダブル・ミーニングのためである。「プリント・クラブ」のプリントは、ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』の説くところの「複製技術時代」を示唆している。とどのつまり「プリント・クラブ」という作品は、現代が「複製技術時代」であり、人間の在り方も複製=大量生産品であること。しかしながら、この時代を生きる女子高生は、大量生産品としての自分が、消費社会のなかで開発=利用=搾取(エクスプロイット)されるかたちで盗られることを自覚しつつ、盗られる前に自分から撮るかたちでポジティヴに、生きる意味を取るのだということを確認しようとしている。

「あした地震がおこったら」。この小説に登場する矢崎は、直下型の大地震を恐れ、陰謀論めいた奇怪な観念に取り憑かれているようだ。震災から原発事故が起こることはあり得るので、「放射能」を恐れるというのはわからなくはない。しかし、作中に登場する「地震を呼び寄せる電磁波」や「盗聴」とは何を意味するのか。巨大地震によって地殻変動が起き、花崗岩に含まれる石英に摩擦と圧迫が加えられ、電気が発生するので、地殻から発生する電磁波を基に地震の発生を予知するというのは、理にかなっている。しかし、「地震を呼び寄せる電磁波」という考えは、HAARPによる人工地震といった陰謀論を連想させる。また、地震の繋がりで「盗聴」が出てくるというのはどうなのか。合理的な因果関係がないではないか。「盗聴」ということは、自分が受け身の被害者になるということである。被害妄想、不安神経症、更には統合失調症による被作為感覚が疑われる。これらに対し、矢崎は家の周りにアルミホイルを張り巡らせ、防御することを考え始める。ここまで来ると、新興宗教めいてくる。パナウェーブ研究所スカラー電磁波が、この小説のモデルケースなのかも知れない。また、自分たちが被害を受けているという主張は、オウム真理教事件での自作自演を連想させもする。こうした奇怪な強迫観念を持って、東京から避難し、山梨の奥の方の別荘でXデーを待つというのは、『洪水は我が身に及び』等、大江健三郎の小説を連想させもする。大江の場合、四国の森の奥であるのに対し、「あした地震がおこったら」では山梨というわけだ。

矢崎は自称芸術家であり、彼は自分の絵が現実に向かって拡張していくという妄想を抱いている。彼と同棲する「わたし」は、実のところ、彼の才能を認めているわけではない。こころの内で、矢崎の芸術への嘲りがあることに気づいている。「わたし」は彼に対し、適切なアドバイスを与える。絵の中に、自分たちを描き込むこと。このことは、何を意味するのだろう。自分本位の視点を導入しないと、絵が空中楼閣になってしまうということではないだろうか。

「前髪ぱっつんオペラ」。主人公は、眉の上で前髪を切り揃えたが、そのことを巡って校則違反ということで、校則の履行を求める学校の生活指導や生徒会と対立が起こる。その過程を、この小説は裁判仕立てで描いている。その過程は、フランツ・カフカ『審判』を思わせる。厳粛さと、ナンセンスなドタバタ劇が同時に進行しているといえる。主人公は、現代的観点から抗議をするが、そこで明らかになるのは、前髪が少女の処女性の象徴であり、内心を相手に悟られないように眉を隠すという答えだった。

後半、主人公の前髪を切って去っていったという謎の男の話に移る。主人公が夜道で出会ったという謎の男は、変質者のようにも、通り魔のようにも見えるし、天使にも悪魔にも見える。理解できる範囲を逸脱していると言えようか。後半のエピソードは、意味深長である。こうしたエピソードを書きながら、作者は理解を絶した神との邂逅を、頭の中でシミュレーションしていたのではないか。

「救生軍」は、「昆虫軍」を連想させる。戸川純の、戸川純とヤプーズの、起源を辿れば、少年ホームランズの、派生形を辿ると、サエキけんぞう&Boogie the マッハモータースの、テンテンコの「昆虫軍」。しかし、ハルメンズにおいては、「昆虫群」と表記されている。それはさておき、「昆虫軍」を想起しながら書いたのか、この小説は「主人公が目覚めるシーンから始める小説は駄作だと言われる。」(『少女か小説か』167頁)というセンテンスから始まっている。翻訳すると、「カフカの『変身』の亜流は駄作」と解される。言うまでもなく、『変身』は、ある朝、グレゴール・ザムザが、何かわからない奇怪な昆虫に変身しているシーンから始まる。今日から「昆虫軍」の一員というわけだ。

しかし「救生軍」は、カフカの亜流ではないので、「アニメーション・ソング」の世界に接合される。「私」を起こそうとする「パパ」や「ママ」に対して、「私」は機関銃をぶっ放す。とはいえ、アーバンギャルドの「アニメーション・ソング」は、The Boomtown Rats の「I Don't Like Mondays(邦題:哀愁のマンディ)」(1979年1月29日の月曜日に、16歳の少女が「月曜日が嫌い」という理由で無差別に銃を乱射した実際の事件を題材にした曲)ではないので、現実に「パパ」や「ママ」の死体が転がることはない。あくまでも、思考のシミュレーションである。「アニメーション・ソング」の世界では、現実がアニメーションのような想像的なもので覆い尽くされている。そのなかで、アーバンギャルドは、行動によって想像的なものの裂け目を造り出し、外部を露呈させる事が革命なのだと歌っている。アニメーションのような想像的なものは、「コインロッカー・ベイビーズ」のような曲では、電脳世界へのひきこもりに変貌する。アーバンギャルドは、一貫して、外部を持たない閉鎖系の空間に閉じこもることを批判してきたバンドである。「救生軍」では、銃を振り回す「私」の行動が、オーバードーズ、すなわち薬物の過剰摂取によるものだと説明されている。このことは、アンドレ・ブルトンの「もっとも単純なシュルレアリストの行為は、 拳銃を握り町において、できる限りでたらめに群衆に向かって発砲することだ」という言葉を連想させる。

この後「救生軍」は、『羊をめぐる冒険』へとかたちを変え、村上春樹風の寓話を展開し始める。この寓話は、一見ソフトに見えるが、毒を含んでおり、「私」と対話している「羊」はほどなくして夢魔=狼としての本性を剥き出しにし始める。「夢魔」は澁澤龍彦のエッセイに親しんだ事のある読者ならばご存知だと思うが、意識混濁のさなかに現われる悪魔の一種であり、その本質はイド=エスの暗い力である。

「救生軍」は、小説の終わりで凄まじい展開をみせる。「私」のベッドに、狼をみつけた「ママ」は、狼の腹を包丁で切り裂き、取り込まれた「羊」としての「私」を取り出す。あたかも倉橋由美子が「隊商宿」(『夢のなかの街』に収録)のラストで、神に捧げる生贄の家畜の代わりに、神から授かった赤ん坊を火に投じてみせたように、内臓の内と外がくるりと反転してラストに向けて、急激な変態を見せるのである。「ママ」の「起きなさい」で、「私」は「小説を終わらせるために」、起きるのではなく、逆に眠る。凡才では決して思いつけない終わらせ方である。

「子どもの恋愛」。サンタクロースと資本主義を巡る話である。この小説と併せて、文化人類学クロード・レヴィ=ストロースの『火あぶりにされたサンタクロース』を読んでおいた方がいいかも知れない。『火あぶりにされたサンタクロース』は、センセーショナルなタイトルがついているが、1951年にフランスのディジョンという街で起きたキリスト教原理主義者や聖職者、信者たちによって、サンタクロース像が火刑に処せられるという事件を、文化人類学的アプローチで解明していく内容となっている。要点をかいつまんで紹介すると、クリスマスの起源は、古代ローマケルトの異教による冬まつりにあり、それをキリスト教が、キリストの生誕祭に取り入れたという経緯がある。元々は信者数の拡大のための施策であったが、商業資本主義の発達とともにクリスマス商戦化すると、異教時代の贈与の原理が前面に出てくるようになった。古代ローマケルトの異教による冬まつりでは、生者から死者へ、或いは共同体から別の共同体へと贈り物が為されていた。レヴィ=ストロースは、このような贈与の原理が、野生の思考として元々あったとします。サンタクロース像を焼いたキリスト教原理主義者や聖職者、信者たちは、商業資本主義の隆盛と共に浮上した冬まつりに異教復活を嗅ぎ取り、危機感を抱いたというわけです。

贈与という事に関しては、マルセル・モースが『贈与論』を書いており、そのなかでアメリカ北西部のポトラッチという儀式を紹介しており、これがジョルジュ・バタイユに『呪われた部分―普遍経済学の試み』の核となる考えとなっている。バタイユのおいては、人間は太陽エネルギーの過剰により、常に戦争や祝祭等により、過剰なエネルギーを蕩尽しないといけない定めになっている。ポトラッチもそうで、別の共同体へのポトラッチとしての贈り物は、相手を威圧させる力をもっている。また、相手が非常に欲しがっているものを目の前で破壊するという行為をもする。ポトラッチもまた、過剰な力を蕩尽する方法のひとつなのである。

こうしてみると、贈り物を贈与の一撃とする古代の異教および商業資本主義の原理と、贈り物を愛の発露とする純キリスト教の原理が、対照的に見えてくる。これを「子どもの恋愛」を読み解くためのパースペクティヴとして取り入れると、「クリスマスを卒業」し、「サンタクロースを辞職」し、「赤い服を脱ぎたい」とする「オッサン」(『少女か小説か』198ページ)は、古代の異教および商業資本主義の原理から、純キリスト教の原理にシフトしてきているように見える。

ゴーストライター」。この小説においては、影の実作家の意味ではなく、幽霊(ゴースト)に取材をして本にまとめる人を指している。今回、ゴーストライター(幽霊作家)が取材しているのは、3年前にガス自殺を図って死んだアイドルである。尤も、幽霊話を真に受けてくれる人は少数派なので、関係者への取材から明らかになった話として公表するようだが。

元アイドルへの取材で分かった事は、常に誰かから私生活を撮影されたり書かれたりすることから来る「病めるアイドル」としての実態であり、プライベート写真を撮らせるようなカメラの仕事をしている彼がいたという事実である。

小説「ゴーストライター」に登場する人物は、誰もが孤独感を抱いている。それが「都会のルール」であるかのように。ゴーストライター(幽霊作家)もまた例外ではない。今は亡き幽霊(ゴースト)に取材すると言っておきながら、誰もいない部屋で、ノートパソコンを叩き続けているのだから。幽霊(ゴースト)の声は、存在しない。ゴーストライター(幽霊作家)としての「僕」自身が造り出した妄想の声以外は。

「堕天使ポップ」。飛び降り自殺を図ったが無傷だったという少女との対話から成り立っている。「太陽が眩しかったわけではない。」とくりかえし断り書きが出てくる(『少女か小説か』223頁、227頁、240頁)のは、アラブ人の殺害理由を「太陽のせい」と答えたアルベール・カミュの『異邦人』と同じく不条理小説だからか。(ちなみに、カミュの世界観では、小説『異邦人』と哲学的エッセイ『シーシュポスの神話』は、「不条理の系列」として同じ範疇に入れられており、『シーシュポスの神話』は終始、自殺の是非を問う内容となっている。)物語の進行とともに、少女と対話しているのは、担任の先生だとわかる。

少女と先生は、共依存の関係であることが示唆される。飛び降り自殺で、無傷のはずがない。少女は既に亡く、共依存の先生が現実に記憶を投影し、少女の幻を存在させているのかも知れない。

 物語の末尾に、スローガンのように、「君は君の物語を生きるんだ」という先生から少女への言葉が書かれている。共依存の関係も、切断される必要がある。少女と先生の間を切断。だが、物語はまだ終わらない。共依存の関係は、この小説と読者である「あなた」との間にも成立しているのかも知れない。だから、自律的思考のために小説と「あなた」の間も切断される。

旧劇場版エヴァンゲリオンのラストが、惣流・アスカ・ラングレーの「気持ち悪い」という拒絶の言葉だったように、この小説も拒絶の言葉で締めくくられる。「わたしはあなたの小説ではない。」と。『少女か小説か』240頁)

◆BOOK『月刊アーバンギャルド×TRMN』(Mファクトリー ROCK PRESS TOKYOE-NET FRONTIER/株式会社Mファクトリー)2016年5月4日初版第一刷発行

2014年12月に自主製作で発行された『月刊松永天馬』は、冗談企画だったが、『月刊松永天馬』が呼び水となって、本格的な写真集の企画が立ち上がる。「月刊」シリーズは、当初新潮社のムック型写真集だったが、編集長の宮本和英が新潮社を離れたことから、宮本と出版プロデューサーのイワタと組んで立ち上げたイーネット・フロンティアの「月刊NEO」シリーズに引き継がれることになる。「月刊NEO」になると、男性俳優を映したもの、電子媒体のもの、とさらに多様化の一途を辿るようになる。『月刊アーバンギャルド×TRMN』は、ROCK PRESS TOKYOが手掛けた写真集で、ロック・アーティストらを被写体とした新シリーズの中の一冊に位置づけられる。撮影とアート・ディレクションは新進気鋭の写真家・TRMN。非常にファッショナブルでありながら、アーバンギャルドならではの奇抜な写真も見られる。特筆すべきは、本書をもって、よこたんが女神として覚醒してしまったことだろう。書籍『バラ色の人生』、音楽作品『Blue Forest』と併せると、2016年は女神よこたんの覚醒元年といっても過言ではないだろう。

◆CDアルバム 青山泰山『月の沙漠の最果ての』(青月舎)20166月リリース

おおくぼけいが参加。

iTunes POH PROJECT 「キセキ☆フラグ」(作曲:おおくぼけい、歌:上間江望

201662日リリース

https://itunes.apple.com/jp/album/kiseki-furagu-single/id1119584495?i=1119584638

電子書籍 松永天馬『【電子特別版】少女か小説か』(集英社e文庫)201663日発行iTunes

◆CDソロアルバム 浜崎容子『Blue ForestFAMC-228KADOKAWATK-BROS2016615日リリース

 浜崎容子のソロアルバムとしては、2010年4月にリリースされた『Film noir』があるが、『Film noir』が全曲、松永天馬による作詞であったのに対し、『Blue Forest』では、菊地成孔作詞の「ANGEL SUFFOCATION」や、原曲ガゼボ、日本版小林麻美の「雨音はショパンの調べ」のカバーや、古内東子の「誰より好きなのに」のカバーと、多様さが表れてきているのが特徴である。松永天馬の歌詞の場合、知的、かつロジカルで、先行する映像作品を連想させる作品である等の特徴があったが、浜崎容子主導の本作では、ロマネスクかつムーディで、大人の女性心理を歌った曲が多い気がする。

 「硝子のベッド」(作詞・曲・編曲:浜崎容子)。アーバンギャルドの一員として歌うよこたんと比べて、ソロのこの曲では、どきりとするほど大人である。歌詞を見ると、冒頭の二行で、何度も別れの経験のある女性の言葉だとわかる。しかも、次の二行で、男女間の愛に少し疲れていることがわかる。タイトルの「硝子のベッド」は、抱かれる度に、相手が硝子のように冷たく、自分自身も硝子のように砕け散って、傷ついてしまうことを指している。美しくも哀しいイメージが鮮烈な曲である。

「雨音はショパンの調べ」(作詞:Paul Mazzolini/松任谷由実 作曲:Pierluigi Giombini 編曲:浜崎容子)。原曲のタイトルは” I Like Chopin ”。 レバノンベイルート生まれのイタリアの歌手ガゼボ(Gazebo)が歌い、世界的なヒットとなった。作詞はパウル・マッツォリーニで、これはガゼボの本名である。作曲はピェールルイジ・ジョンビーニ。日本では松任谷由実が日本語詞をつけ、女優で歌手の小林麻美が歌い、ヒットチャートを賑わした。浜崎容子によるこの曲のカバーが、YouTubeにアップされた時、私は浜崎容子によるカバー、ガゼボ本人によるオリジナル曲、小林麻美による日本版の3本の動画をツイートして紹介した。私のツイートは、Facebookに自動転送される設定になっているのだが、ここにガゼボ本人によるイイネがついた時は、さすがに驚いた。あれは日本でのリバイバルを喜んでいるというシグナルではなかったか。” I Like Chopin ”は、非常に美しいメロディーラインで、ロマンチックな曲なので、こうしたかたちで再注目されるのは喜ばしい。

「ANGEL SUFFOCATION」(作詞:菊地成孔 作曲:浜崎容子 編曲:浜崎容子・成田忍)。アーバンギャルドに影響を与えたアーティストのなかに、間違いなくSPANK HAPPYと、URBAN DANCEが含まれていることは間違いはなく、本作は元SPANK HAPPY菊地成孔が作詞を手掛け、URBAN DANCEの成田忍が編曲に加わるというスペシャル企画だった。SUFFOCATIONは、窒息の意味。歌詞のなかにも、キスのし過ぎで息ができないという意味合いの言葉がみられる。この曲のテーマは、窒息するような、死に面した痺れのなかでのエクスタシーなのだと思う。それにしても、菊地成孔の歌詞は、エロい。この曲もそうだが、YouTubeにアップされている「泥の世界」は、もっとエロい。こんな歌詞をよこたんに歌わせていいものなのだろうかと、頭がクラクラする。歌詞のなかに、何度もここを見てとあるが、あれはバタイユの『マダム・エドワルダ』のなかの台詞だ。タイトルのANGELは、バタイユの『大天使のように』(戸川純に同名の曲がある)を意識しているのかもしれない。この歌詞は、「普通の恋」や「夜桜とフロイド」よりも、「京マチ子の夜」に近い路線だと思われる。

「誰より好きなのに」(作詞・曲:古内東子 編曲:浜崎容子・おおくぼけい)。古内東子さんの名曲である。どうしようもなく溢れ出てしまう恋情を表現している。恋は、歓びよりも不安や切なさが上回る時がある。しかも、その苦痛自体を味わいつくそうとしている自分を発見したりする。

「Forever Us」(作詞・曲・編曲:浜崎容子)。『Blue Forest』から「雨音はショパンの調べ」と「ANGEL SUFFOCATION」の動画がYouTubeにアップされたことから、このアルバムは広く万人に膾炙した楽曲のカバーと、菊地成孔とのコラボが実現した事を、セールスポイントとして前面にプッシュしようとしたと思われる。しかし、「Forever Us」を聴くと、浜崎容子作詞・曲・編曲のオリジナル曲だけにしたとしても、十分なクオリティーのアルバムになったのではないか。収録曲すべてオリジナルにするという事は、次のソロアルバムを出す際の課題となるのではないか。(一方で、浜崎さんによるカバーは、楽曲に新しい生命を吹き込んでいて、高い評価があることも確かである。)「Forever Us」が、スピーディーで、テンポのいい曲調でありながら、人の心の闇の部分にまで聴くものを誘っていく音楽だったので、全曲オリジナル・ソロ・アルバムはどうかと思ったのである。

「ねぇ」(作詞・曲・編曲:服部峻)。非常に美しく印象的なメロディーで、これが浜崎さんの歌唱によって説得力のある曲に変わる。「ねぇ」というささやきであったものが、愛することの罪の自覚に入り、さらには愛したことの誇りのような感情に至り、「死にたくないよね」という問いかけに同意するようになる。説得力のある歌い方なので、聴くものは同意し、巻き込まれるしかない。

「Lost Blue」(作詞・曲・編曲:浜崎容子)。『Blue Forest』のキャッチコピーは「青が誘惑する」。その点で、この曲はアルバムのコンセプトを示した楽曲であるといえる。このアルバムにおいて、恋は罪、あるいは哀しみと分かちがたく結びついている。『Film noir』という黒から始まった浜崎容子の冒険が、『Blue Forest』の哀しみの青の経験を経て、やがてバラ色の歓びに至るのか。当然ながら、バラ色をテーマにした3枚目のソロ・アルバムがいずれ用意されると思われてならない。

◆『Blue ForestTOWER RECORDS特典:Acoustic Ver.CD

「雨音はショパンの調べ」「ANGEL SUFFOCATION」「Lost Blue」

◆『Blue ForestHMV特典:Instrumental Ver.CD

「雨音はショパンの調べ」「ANGEL SUFFOCATION」「Forever Us」

◆『Blue ForestVILLAGE VANGUARD特典:「雨音はショパンの調べ」&「暗くなるまで待って」MusicVideoDVD

◆アーバン・ダンス CDアルバム『U-DNA』(CDSOL-1743/44SOLID RECORDS)2016年7月27日リリース

Disk2 DNA-SIDE、4曲目に浜崎容子による「すべては秘密の夜―Whisper Of My Love―」(作詞:高橋修・沢田雄児、作曲:成田忍)を収録。

◆写真詩集 写真:青山裕企+モデル:浜崎容子+詩:松永天馬『スクールガール・トラウマ』(発行:3時0時、発売:メタ・ブレーン)2016年8月19日初版発行

◆永友タロウ×トーキョーキラー CDアルバム『同級生キラー』(SOTM-001/サオトメレコード)2016年8月24日リリース

永友タロウは、永友聖也(ex.キャプテンストライダム)とカトウタロウ(ナカザタロウetc./ex.BEAT CRUSADERS)による同級生ユニット。トーキョーキラーは、ギター・ケメ(keme、PIGGY BANKS)、ベース・アッコ(PIGGY BANKS、ex GO!GO!7188)、キーボード・ケイ(おおくぼけい、アーバンギャルド、exキャンプテンズ)、ドラム・キョウイチ(鍵山喬一、exアーバンギャルド)から成るインストゥルメンタル・ロック・グループ。新旧のアーバンギャルドのメンバーが2名入っているということで、注目しておきたい。

収録曲は以下の通り。

「同級生キラー」(作詞・作曲・編曲:永友タロウ×トーキョーキラー)

「パイプライン」(作曲:B.Spickard・B.Carmen、編曲:トーキョーキラー)

銭ゲバ」(作曲:おおくぼけい、編曲:トーキョーキラー)

「既読スルー」(作詞・作曲・編曲:永友タロウ)

「鼻持ちならぬ上司」(作詞・作曲・編曲:永友タロウ)

「はじめまして」(作詞:アッコ(合いの手 永友タロウ)、作曲:ケメ、編曲:永友タロウ×トーキョーキラー)

ハルメンズX CDアルバム『35世紀』(VICL-64637Victor Entertainment)2016年9月21日リリース

17曲目に「レ・おじさん」(作詞:サエキけんぞう、作曲+演奏:サエキけんぞう&吉田仁郎、リミックス:アーバンギャルド、プログラミング&ギター:瀬々信、シンセサイザー:おおくぼけい、Additional Vocal:浜崎容子)を収録。

◆『ケラリーノ・サンドロヴィッチミュージック・アワー・2013【4CD】』(CDSOL-170811ナゴムレコード)2016年9月21日リリース

砂原良徳、ザ・ガンビーズ、初期「有頂天」セッション、中・後期「有頂天」セッション、KERA SOLO UNIT、ケラ&シンセサイザーズ、中原テルヲ feat.KERA&みのすけ、No Lie-Sense、空手バカボン、有頂天、KERA、ロング・バケーション、J・トンプソン商会、ザ・シンセサイザーズ、クレイジー・サーカスの楽曲を収録。

ブックレットに、松永天馬による特別寄稿「KERAが歌う希望の歌」を掲載。

◆公式ファンクラブ「前衛都市学園」会報『たのしい前衛2016』かわら版(アーバンギャルド公式ファンクラブ前衛都市学園/TK BROSFUTURES RAINBOW) 2016年11月刊行、特集 アーバン ハトヤ

アーバンギャルド(松永天馬、浜崎容子、瀬々信、おおくぼけい)

 

2017年

◆CDシングル『あくまで悪魔』初回限定盤[CD+DVD](FBAC-010FABTONE.Ink)2017年1月4日リリース

「あくまで悪魔(作詞:松永天馬、作曲:アーバンギャルド、編曲:アーバンギャルド+杉山圭一)は、2017年1月3日、TOWER RECORDS全店総合デイリーランキング1位獲得曲である。(https://twitter.com/TOWER_Info/status/816447230252982272

「あくまで悪魔」は、2018年に発表された『少女フィクション』収録の「あたしフィクション」とともに、音楽的に高い完成度を示しているのではないだろうか。歌詞は韻の合う「あくまで」と「悪魔」を語呂合わせのように繰り返しつつ、次第に深く、人間の恋愛を軸に人間の心に潜む天使性と悪魔性に迫っていく快作となっている。ラップの部分で、化粧することの本質が、実は(絵画等で描かれている)悪魔像をなぞることに繋がるのではないかという指摘は、意表を突く衝撃を覚えたが、時間とともに否定できないと思うようになった。たぶん、人の心には、例外なく天使的な部分と悪魔的な部分、利他的な部分と利己的な部分があり、霊肉の問題に直結している。人は、悪魔的な部分、利己的な部分、肉欲に関わる部分を、時として斬り落としたいと願うが、それをすれば命は保てず、天使的な部分も死ぬ。結局のところ、矛盾を抱えたまま、苦悩すらも愛するようにして生きるしかない。

カップリングとして「天使にしやがれ」(作詞:松永天馬、作曲:アーバンギャルド、編曲:アーバンギャルド+杉山圭一)が収録されている。「天使にしやがれ」と『少女フィクション』収録の「大人病」が、透明感のある大人向けのバラード、シティ・ポップを形造り、2017年-2018年の新境地となりつつあるようだ。歌詞中の単語をチェックすると、『灰とダイヤモンド』は、イェジ・ アンジェイェフスキ原作、アンジェイ・ワイダ監督のポーランド映画。「Mondo music」は、「世界残酷物語」Mondo Caneに由来した言い方で、珍奇さやエキゾチシズム的要素のあるイージーリスニングを指す。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(Eine kleine Nachtmusik)は、ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト作曲のセレナード、及び伊坂幸太郎の小説『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を指す。「ジークフリートの指輪」は、リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』によると、ジークフリートは竜に変身したファーフナーを殺害、その返り血で小鳥の言葉を聴き分けるようになり、小鳥たちの教えで指輪を得るとされ、その逸話の指輪と思われる。「エンジェル・ダスト」は解離性麻酔薬・幻覚剤で、麻薬に指定されているフェンサイクリジンを指す。なお、猟奇的な連続殺人事件とマインドコントロールと逆洗脳の闘争を描いた「エンジェル・ダスト」という石井聰亙監督作品・石井聰亙+生田萬(劇団・ブリキの自発団)共同脚本の映画がある。「天使にしやがれ」は、男女の別れの歌であり、別れる前に一度、あなたの天使になってもいいよ(自分は十字を切って、飛び降りるような覚悟で挑むから)という内容になっている。行為として、「あくまで悪魔」の悪魔と、この天使の何処が違うのかと問われれば、大差ないと答えるしかない。

なお、初回限定盤にはDVDがついており、「あくまで悪魔」(MUSIC VIDEO)、「あくまで悪魔」(DANCE VIDEO)、「ふぁむふぁたファンタジー」(MUSIC VIDEO)、「LIVE PERFORMANCE from 鬱フェス 2016@TSUTAYA O-EAST」ワンピース心中/くちびるデモクラシー/ふぁむふぁたファンタジー/シンジュク・モナムール/箱男に訊け/大破壊交響楽/都会のアリス/病めるアイドル、が収録されている。

◆CDシングル『あくまで悪魔』通常盤(FBAC-011FABTONE.Ink)2017年1月4日リリース

通常盤には、「あくまで悪魔」、「天使にしやがれ」の他、「あくまで悪魔」(Instrumental)、

「天使にしやがれ」(Instrumental)が収録されている。

高原英理『ゴシックハート』(立東舎文庫)2017年1月20日初版発行。浜崎容子による解説「誰もが知らぬ間に悲劇のヒロインに抜擢されている」掲載。

澁澤龍彦(『黒魔術の手帖』『夢の宇宙誌』)・種村季弘(『吸血鬼幻想』『薔薇十字の魔法』)・生田耕作(『黒い文学館』『ダンディズム』)といった異端系幻想文学、および夢野久作(『ドグラ・マグラ』)・小栗虫太郎(『黒死館殺人事件』)・中井英夫(『虚無への供物』『とらんぷ譚』。短歌編集者時代に春日井健・寺山修司中城ふみ子らの才能を見出した。また竹本健治のデビューに関わった)といった黒い水脈(みお)に位置する文学の評論分野の継承者として、高原英理(『ゴシックハート』『ゴシックスピリット』)、小谷真理(『女性状無意識』『テクノゴシック』)、樋口ヒロユキ(『死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学』)がいるが、これら継承者がいずれもゴシックカルチャーを標榜しているのが興味深い。本書の解説に、ファッションのみならず、人形への偏愛などゴシックにどっぷりと浸かった浜崎容子が召喚されたのは必然と言える。解説で、浜崎は天使を見たことがあると公言する。『バラ色の人生』の著者は、『紫の履歴書』の著者の後継者となるだろう。シャンソンの歌い手としてだけでなく、オーラが見えるという美輪明宏の霊視霊能力をも彷彿とさせるエピソードだからだ。浜崎さんはルドルフ・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』および同じくシュタイナーの『神智学』の「認識の小道」の章を読んで見霊能力をさらに高め、いつか私たちを高い次元に導いていただきたいと思う。

ぱぺらぴ子ちゃん(浜崎容子)「キスミーきれいみー」(NHK Let's天才てれびくん挿入歌)。2017年2月、iTunes Storeレコチョクで配信開始。

NHKEテレ「Let's天才てれびくん」で、松永天馬が超次元帝国清掃課地球係の係長を演じた関係で、「キスミーきれいみー」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい、編曲:アーバンギャルド)というぱぺらぴ子ちゃんの歌を、浜崎容子が歌うことになった。超次元帝国清掃課総監のぱぺらぴ子ちゃんの設定は、「超次元サンプラザ」でライブするとあり、中野サンプラザでのアーバンギャルドの10周年記念公演「KEKKON SHIKI」と対応している。

◆おおくぼけい、園子温監督の スマホで撮ってスマホで観る映画「うふふん下北沢」に音楽で参加。2017年3月。https://chuun.ctv.co.jp/player/1148

アーバンギャルドは、園子温監督作品常連の冨手麻妙を、松永天馬「Blood,Semen,and Death.」PVや映画「松永天馬殺人事件」に登場させるなど園子温と縁があり、園子温監督作品『ラブ&ピース』ではロックミュージシャンが「ピカドン」を歌うシーンがあるということで、「原爆の恋」を歌うアーバンギャルドとの主題的共振性もあるようである。おおくぼけいが、中京テレビ制作の園子温監督作品の音楽を制作することで、関わりはますます深まったといえるだろう。

KEYTALK CDアルバム『PARADISE』(VIZL-1123Getting Better)2017年3月15日リリース

14曲目の「story」に、おおくぼけいがピアノで参加している。

◆広島ジュピター少年少女合唱団「命の手紙」(作詞:松永天馬、作曲:寺内大輔)2017年3月19日(日)・20日(月・祝)、広島国際会議場フェニックスホールで行われた第36回全日本少年少女合唱連盟全国大会「広島大会」においてエンディング曲として公開された。

https://youtu.be/ZnOFYzYDYbI

https://www.facebook.com/hiroshimajupiter/videos/1087660894711493/

◆おおくぼけい、2017年4月より放送の福山リョウコ原作のTVアニメ『覆面系ノイズ』の音楽の一部にピアノで参加。

◆『ユリイカ 平成29年4月号 特集 大森靖子』(青土社)2017年4月1日発行

松永天馬による小説スタイルの作品「一月二七日、新宿」が掲載されている。そこでは、マツナガテンマすら批判されている。つまり、自身がメンヘラでないにも関わらず、論理的に、批評的に、ジャーナリスティックに、軽いポップなノリで、メンヘラを消費するようにしてメンヘラを語るスタイルが批判されている。小説スタイルを取ることで、実存的にメンヘラの女の子として語ることができる。そうでなければ、実存論的に、他人事のように批評的・俯瞰的になってしまう。それに対して、オオモリセイコちゃんの場合、メンヘラの女の子は、自分を深く理解してくれる人として、オオモリセイコちゃんにアイデンティファイし、オオモリセイコちゃんについて語ることが、即、自分自身を語ることになるまでに至る。結局、オオモリセイコちゃんにはかなわないな、という事になる。

◆CDライブアルバム『天使des悪魔 2016 XMAS SPECIAL HALL LIVE』初回限定特別価格盤(FBAC-020FABTONE.Ink)2017年4月12日リリース

「Overture」「あくまで悪魔」「傷だらけのマリア」「ワンピース心中」「ふぁむふぁたファンタジー」「水玉病」「アガペーソング」「天使にしやがれ」「都会のアリス」「大破壊交響楽」「堕天使ポップ」が収録されている。

◆CDライブアルバム『天使des悪魔 2016 XMAS SPECIAL HALL LIVE』通常盤[CD+DVD](FBAC-021FABTONE.Ink)2017年4月12日リリース

【DVD】として、「Overture」「あくまで悪魔」「傷だらけのマリア」「ワンピース心中」「ふぁむふぁたファンタジー」「自撮入門」「ゾンビパウダー」「水玉病」「アガペーソング」「天使にしやがれ」「マイナンバーソング」「ロリィタ服と機関銃」「都会のアリス」「大破壊交響楽」「堕天使ポップ」「病めるアイドル」「いちご売れ」「あくまで悪魔」(Reprise)が収録され、さらに映像特典として「フリースタイルバトル:松永天馬VS松永天馬」「詩人狩り」が収録されている。

また、【CD】として、「Overture」「あくまで悪魔」「傷だらけのマリア」「ワンピース心中」「ふぁむふぁたファンタジー」「ゾンビパウダー」「水玉病」「アガペーソング」「天使にしやがれ」「箱男に訊け」「都会のアリス」「大破壊交響楽」「堕天使ポップ」「いちご売れ」「あくまで悪魔」(Reprise)が収録されている。すなわち、このライブ盤は、初回限定特別価格盤よりも、通常盤の方が豪華な収録内容となっている。これは布教用に使ってほしいという意図があるのではないか。

◆『天使des悪魔』TOWER RECORDS特典:TENSHI-BAN 天使盤

店舗別に、購入特典音源が違っている。タワーレコードの特典では「マイナンバーソング」「ロリィタ服と機関銃」のライブ音源を収録している。

◆『天使des悪魔』Amazon特典:AKUMA-BAN 悪魔盤

アマゾンの特典では「自撮入門」「病めるアイドル」のライブ音源を収録されている。

◆『天使des悪魔』VILLAGE VANGUARD特典:TENMA-BAN 天馬盤

ヴィレッジヴァンガードの購入特典では「フリースタイルバトル:松永天馬VS松永天馬」「詩人狩り」のライブ音源が収録されている。

◆写真集 写真:青山裕企+モデル:浜崎容子+リュヌ他 『ネコとフトモモ』(新潮社)2017年4月15日初版発行

『スクールガール・コンプレックス』『絶対領域』の写真家による「ネコとフトモモ」の連作を収める。モデルとして、浜崎容子と愛猫のリュヌが参加。フトモモに焦点が当てられているので、モデルの顔は映っていない。ネコは癒しであり、フトモモも実は癒しだったりするが、ネコとフトモモだとなぜか落ち着かない感じになるのは何故なのか。

Various Artists CDアルバム『NHK Let's天才てれびくん サウンドトラック』(PCCG-01600ポニーキャニオン)2017年5月17日リリース

28曲目に「キスミーきれいみー」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい、歌:ぱぺらぴこちゃん(浜崎容子))を収録。歌詞中に、「あたり前田のクラッカー」(TBS「てなもんや三度笠」)ならぬ「アタリマエダのクリーナー」が登場する。

◆真空ホロウ CDアルバム『いっそやみさえうけいれて』(BNSU-0001/ブランニューミュージック)2017年5月17日リリース

「ハートの噛み痕(feat.UCARY&THE VALENTINE)」(作詞:松永天馬、英詞:UCARY&THE VALENTINE、作曲:松本明人、編曲:真空ホロウ、歌:真空ホロウ)収録。恋の終わりと、ハート型の噛み痕だけではない深い傷心を歌っている。

真空ホロウは、2012年6月2日(土)の「病めるアイドルを探せ!ツアー」 @ 名古屋 ell.FITSALL(アーバンギャルド/真空ホロウ/南波志帆)を見たことがあり、『鬱フェス』への出演など、元々アーバンギャルドと関わりが深いといえる。『いっそやみさえうけいれて』は、真空ホロウが松本明人と高原未奈の新体制になってからの新譜。

◆キノコホテル CDアルバム『プレイガール大魔境』初回盤[CD+DVD](KICS-93494KING RECORDS)2017年6月7日リリース

6曲目の「荒野へ」に、おおくぼけいがピアノで参加している(客演とクレジットされている)。「創業10周年記念作品」と銘うたれた本作では、ゴシック趣味をくすぐる3曲目「球体関節」、澁澤龍彦の「マンドラゴラについて」を想起させる11曲目「惑星マンドラゴラ」も収録されており、興味深い。

◆『TV Bros.平成29年7月1日号 祝!創刊30周年記念特集』

サブカル野郎ofサブカル野郎 松永天馬先生と考える「サブカル(とテレビブロス)のこれから」と題し、「サブカルはオワコンなの?」「サブカルにしても渋谷系にしても、なぜ当事者たちはその呼び方を認めないのですか?」「昔は不良がやる音楽はロックだったのに、どうして今はラップになったの?」他、合計7つの質問に対して回答している。

◆松永天馬 CDアルバム『松永天馬』初回盤[CD+DVDFBAC-025FABTONE.Ink)2017年7月26日リリース

2016年に発表された浜崎容子『Blue Forest』から始まり、2017年の松永天馬『松永天馬』、おおくぼけい『20世紀のように』、2018年の瀬々信『one』と、アーバンギャルドソロ・プロジェクトが進行することになる。松永天馬『松永天馬』で開示されるのは、チームとしてのアーバンギャルドではあまり出てこない、男性目線の世界と、音楽における身体性の獲得がテーマになっている。それは、性的存在としての在り方の表現を含んでいて、それは現代文学の方向性と一致している。20世紀文学は、ジークムント・フロイトの無意識の発見の影響もあり、心理学や精神分析学だけでなく、文学分野でD・H・ロレンスチャタレイ夫人の恋人』、ジェームス・ジョイスユリシーズ』等のように性や意識の流れを追及する潮流や、シュルレアリスムのように潜在意識・夢・幻想といった領域を探求する流れが起きた。思うに、現代文学は、政治と性と聖なるものを震源地として、人間の生を探求しようとしているように思える。松永天馬『松永天馬』は、「いま、もっとも気持ち悪い男」というキャッチコピーでセールスが行われたが、それは性の問題に踏み込んでいるからである。また、電子音楽では棄却されがちな身体性の表現の回復という課題もあったと思われる。自分たちの音楽における身体性の回復というテーマは、アーバンギャルドにもあって、そこからドラムの重視や、DTMではないライブ・バンドとして実力を身に着けるという改造が行われてきたが、『松永天馬』では、それに加えてNoy Sirikullayaというタイのミュージシャンの協力を得て、音楽でのアジア的な身体表現(たおやかで粘りを感じさせるリズムとメロディー)に向かっている。また、初回盤のDVDに収録された短編映画からわかるように映像表現への強いこだわりが表に出てきていることも注目される。NHK-BSプレミアム『シリーズ・ 江戸川乱歩短編集 1925年の明智小五郎』第1回「D坂の殺人事件」や、NHK教育テレビジョン『Let's天才てれびくん』への役者としての出演を機に、表現としての映画・演劇への関心が高まり、2018年には『松永天馬』の全曲映像化である『見る松永天馬』となって結実することになる。

Disk1 CD

「キスマーク/唇」(作詩:松永天馬、作曲・編曲:大谷能生)。大谷能生の音楽を背景に、松永天馬がポエトリーリーディングを行っている。唇およびキスマーク、および指先へのフェティッシュなこだわりが感じられ、次第に濃厚なエロスの雰囲気に包まれる。「いつまでも上陸できない」或いは「いつまでも着陸できない」という表現は、オルガスムに達しそうで達しない、エクスタシーに達しそうで達しないという意味だろう。このように、詩或いは文学という制度は、通常では言ってはいけないとされている規範を突破し、松永天馬との境界線がなくなり、間近で肉声を聴くことになる。

「Blood,Semen,and Death.」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:Noy Sirikullaya)。冒頭の一句は、石川啄木『一握の砂』の「働けど働けど なお我が暮らし 楽にならざり じっと手を見る」から。「手を見る」からの連想で、『新世紀エヴァンゲリオン Air / まごころを、君に』冒頭の「最低だ、俺って…」のシーンに移行し、さらに生活に困窮した文士のイメージと、手についた真っ赤な血へと夢想は続き、最終的にジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』でジャン=ポール・ベルモンドが、ダイナマイトを顔にまいて、無様な死を遂げるというかたちで、松永天馬による男性の本質を追及したイメージのスケッチは完結する。フロイトを引用するまでもなく、リビドーはあらゆる文化の創造欲の源泉にもなっている。この曲は、表現者としての自己の在り方を、昔の文学者の姿に重ね合わせている点と、男性の自慰行為をも含めた性を赤裸々に乾いた筆致で描いている点が注目される。

なぜ、性表現なのだろうか。ここでヴィルヘルム・ライヒ、安田一郎訳『性の革命』を引用しておこう。「性エネルギーは、人間の感情と思考を作る精神器官を支配している生物学的エネルギーだ。「性」(生理学的には迷走神経機能)は、生産的な生命エネルギーだ。それを抑制すると、医学の分野だけでなく、根本的な生命機能が全般的に障害をうける。社会的にいちばん重要なこの障害のあらわれは、非合目的(非合理的)な行動、狂暴性、神秘性、戦争に行く覚悟のあること等等である。」(角川文庫、絶版、7頁)。つまり、「Blood,Semen,and Death.」の世界は、突き詰めると「くちびるデモクラシー」の世界に直結しており、人間の愛情生活の抑圧が、言葉(言論)を殺すこと、体制を無条件で肯定して、戦争による人為的な死を肯定することに連動していくのである。そうした社会的観点を確認しつつ、再度、「Blood,Semen,and Death.」の世界を確認してみよう。

伴田良輔『独身者の科学―愛の傾向と対策』「性と愛の研究家たち」および「独身女性のための男性の人相鑑定」は、古今東西の知識人・文学者たちの性の苦悩をまとめている。つまり、知識人といえども(おそらく聖人と呼ばれる人でさえも)、性の悩みは例外ではない。精巣における細胞分裂は、思春期から活発化し、終生止まることがない。如何に清浄なことを考えようと、道徳や法律の事を考えようと、細胞分裂は髪の毛や爪が伸びるように継続する(各人の生命が尽きても、しばらく腐敗が進むまで細胞分裂は続くだろう)。無論、それに対し、どう振る舞いどう生きるかは、各人の理性と悟性(知性)の判断の領域であり、法律からモラルまで個人の行動に責任が伴う事になる。

ちなみに、伴田良輔『独身者の科学―愛の傾向と対策』の一部は、当初、浅田彰四方田犬彦伊藤俊治責任編集『GSたのしい知識Vol.2 特集ポリセクシュアル』に掲載されていた。アーバンギャルドの公式ファンクラブ会報の「たのしい前衛」―こちらは薄い本だが―は、おそらく「GSたのしい知識」―こちらは電話帳のような厚さの季刊誌だったが―を意識していると推測する。

ラブハラスメント」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・Andrews Kimbell、編曲:Noy Sirikullaya)。「Blood,Semen,and Death.」と並んで、アルバム『松永天馬』の基本コンセプトを明らかにした問題作であり、愛の告白自体が「ハラスメント」とされ、犯罪とされてしまうかも知れない時代に向けた反時代的な曲といえる。現在、好きな人の自宅の周辺をうろつくと、ストーカー規制法 第2条第1項第1号で言う「つきまとい」等と見做されたり、交際を迫ると、同法 第2条第1項第3号に該当すると見做されるかも知れない。実際、「つきまとい」等を行うストーカーによって犯罪に巻き込まれたりする事例が多いので、セキュリティーを考慮すると、この法律には理があるのは確かである。しかし、更に極端に進んで、愛の告白をしようとすると、取り押さえられ、逮捕されるとするとどうなるのか。この世界から、愛の成就は不可能になり、人類は滅ぶのではないか。「ラブハラスメント」は、自己演劇化と諧謔の要素を含んだ歌だが、同時に重いテーマを含んでいる。ラブハラスメントは、セキュリティーの思想と自由の相克の問題のヴァリエーションとして捉えなおすこともできる。管理社会は、監視社会でもあって、規律訓練型権力よりも、環境管理型権力が優勢になってきている。監視カメラとAIを組み合わせた環境管理システムは、人々の生活の安全と社会の秩序の維持のために必要であるとされ、監視されない自由の主張は自分勝手な主張と見做されがちで、現代では圧倒的に不利である。(東浩紀は「情報自由論」で、自由の側に立って論を展開しようとしたが、セキュリティー面から見た監視社会肯定論を覆すに足りるロジックを展開できず、この論は未完に終わる。それほど、この議論は難しい。)「ラブハラスメント」する人は、人間の根源的な自由に関係しており、環境管理型権力による監視社会を脅かす存在であることは明らかである。

「天馬のかぞえうた」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:Noy Sirikullaya)。「かぞえうた」の形式で語られるが、だいぶ無頼派で、ハードボイルドである(ちなみに、「三つ数えろ」は、レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』をハワード・ホークスが映画化したサスペンス映画。また、ヤプーズのアルバム『ダイヤルYを廻せ!』にも「3つ数えろ」という曲が収録されている)。死と重ね合わせの生を生きろ、と言っているようである。また、「妊娠しろよ」と言った直後に、「出産するな」と言っており、だいぶ自分勝手であり、そんな自分を茶化してもいる。全体的に「自慰」「明るい家族計画」「少子化」「妊娠」「出産」と、性にまつわる言葉が頻出するが、無頼派系ハードボイルドで、いつ死んでもいい覚悟で、大胆に生きろ、と言っているように聴こえる。

「ぼくらの七日間恋愛」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:Noy Sirikullaya)。天気予報のように、ニュースが明日から戦争が始まると告げ、ミサイルが降るでしょう、と告げる。そんなあり得るかも知れない近未来SF設定のなかで、「ぼくらの七日間恋愛」が始まる。タイトルは宗田理ぼくらの七日間戦争』を意識したものだが、ぼくらがなぞろうとしているのは、神様による七日間にわたる世界創造である。滅びの光景と、新たなる創世記が重なる時、ぼくらは新世代のアダムとイブになる。

「ハートマーク/心臓」(作詩:松永天馬、作曲・編曲:大谷能生)。再び、大谷能生の音楽を背景に、ポエトリーリーディングが行われる。またしても自慰行為が語られ(だんだん、聞く方の頭がおかしくなってくる)、「生まれることのなかった」「子ども」あるいは「言葉」への夢想が行われる。

「身体と歌だけの関係」(作詞・作曲:もりばやしみほ、編曲:Noy Sirikullaya、© 1995 by TV ASAHI MUSIC CO.,LTD)。『松永天馬』のなかで、唯一のカバー曲である。原曲は、1994年のもりばやしみほと近藤研二のユニットHi Posiの曲。不思議な事に、もりばやしみほによる曲の世界観が、松永天馬の世界観とかぶる。「がんがんやって早くあきてね」とあるので、この曲の話者は、実は身体の関係に執着していない。それは、諸行無常で、滅びるものだと思っているから、そこにこだわっていない。あたかも、アルフレッド・ジャリの『超男性』のように完全な性のマシーンと化し、私は無化される。一切は時とともに流れていくものだと思っているので、いま・ここを楽しむだけで終わるものだと思っている。で、最後に残るものは、歌だけだと考える。これは、「あした地震がおこったら」と同じ構造である。「あした地震がおこったら」も、都会のビルも、都会の生活も、諸行無常で、いつか崩壊するものだと思っている。そして「コンクリートガール」のように「歌だけが残る」とされる。

Disk2 DVD

短編映画 「血、精液、そして死」。監督・主演:松永天馬、助演:冨手麻妙、撮影監督:Ali(anttkc)=Takashi Alimuraが収められている。

◆松永天馬 CDアルバム『松永天馬』通常盤(FBAC-026FABTONE.Ink)2017年7月26日リリース

通常盤の収録曲は、初回盤と同じだが、DVDがついていない。

◆『松永天馬』TOWER RECORDS特典:オリジナルCD「あなたが歌う松永天馬」

タワーレコードの購入特典CDには、「ラブハラスメント(instrumental)」「Blood,Semen and Death. (instrumental)」が収録されている。

◆『松永天馬』VILLAGE VANGUARD特典:オリジナルZINE「転載禁止!血、精液、そして死。シナリオ」

ヴィレッジヴァンガードの購入特典は、初回DVD収録の映画の完全版シナリオ。

◆『松永天馬』AMAZON特典:オリジナルDVDPoemVideo映像詩集」

アマゾンの購入特典は、「キスマーク/唇」「ハートマーク/心臓」の朗読の映像を記録したもの。

◆おおくぼけい CDアルバム『20世紀のように』(FBAC-035FABTONE.Ink)2017年10月25日リリース

おおくぼけいは、アーバンギャルド以前に、ザ・キャプテンズのケイ伯爵として活動し、現在もトーキョーキラーのメンバーとしての活動も行っていることから、ソロ・アルバムはグループ・サウンズ的な内容ではないかと予想したが、予想は完全に外れ、実際は前衛的なテクノポップAORなどバラエティに富んだ内容で、ジャンルとしては坂本龍一の『音楽図鑑』や『NEO GEO』を思わせるようなソフィスケーティッドな音楽に思われた。TVアニメ『覆面系ノイズ』のピアノから、園子温監督作品「うふふん下北沢」の音楽協力、キノコホテル、KEYTALKの楽曲への参加など、おおくぼけいの音楽は実に幅広く、かつピアノの演奏者として様々なアーティストから信頼されていると思う。

「Fuge」(作曲・編曲:おおくぼけい)。『20世紀のように』の冒頭の曲「Fuge」は、通常の人間の聴力では聴くことのできない音で作曲されていて、リスナーは再生機器の表示する波形で、無音ではない事を知ることになる。これの意図は、音楽における人間中心主義の解体にあり、ジョン・ケージが1952年に作曲した「4分33秒」(4分33秒の無音状態が続く。演奏者は、メトロノーム4分33秒を計測しつつ、さも演奏に着手するかのようなポーズを取りつつ、演奏しない。その意図は、ジョン・ケージが、東洋の禅や易経に関心を寄せていた事に由来すると考えられる)を思わせるほどの前衛性をみせる。なお、各店舗の購入特典のCDに収録されている「Fuge(目覚めない為にver.)」「Fuge(夢をみない為にver.)」「Fuge(夢をみる為にver.)」は、聴き取り可能な音域に設定されている。

「20世紀のように」(作詞:Jon Underdown、作曲・編曲:おおくぼけい)。20世紀に起きた事件、事象が英語で羅列され、リスナーは20世紀を回顧しつつ、音楽を愉しむ。このような歌詞としては、Billy Joel の「We Didn't Start the Fire」を想起する。「We Didn't Start the Fire」は、アメリカの事件・事象史をキーワードで綴る。

「Green」(作詞:Jon Underdown、作曲・編曲:おおくぼけい)。賃金を得るために、時間と競争するような毎日を送り、貪欲さと妬みが人間性を占めるようになってしまった人に、心を開いて、本当に自分から楽しめる道に軌道修正をしなさいと諭すAOR(Adult-Oriented Rock)。

「建築」(作曲・編曲:おおくぼけい)。「かがくの夢」(作曲・編曲:おおくぼけい)。歌詞のない曲が続く。眼を閉じて、イメージの翼を広げてみよう。

「20世紀みたいに」(作詞・作曲・編曲:おおくぼけい)。楽曲に乗せて、戸川純による味わい深い朗読を堪能できる。朗読する歌詞には、多数の20世紀を代表する知識人、哲学者、思想家、文学者たちの名前が含まれている。フリードリヒ・ニーチェ(『善悪の彼岸』『ツァラトゥストラかく語りき』。文献学者として出発し、『悲劇の誕生』でアポロンとデュオニュソスの対立図式を提示、一時ワーグナーに傾倒するが、その楽劇が世評や形骸化したキリスト教と結託をしていると見るや、ワーグナーを断罪。『ツァラトゥストラかく語りき』をもって良識を破壊、ハンマーを持って哲学することを主張。やがて発狂した。実存主義の先駆者であるばかりか、ポスト構造主義にも影響を及ぼしている。)、エドムント・フッサール(『イデーン』。ブレンターノとともに、現象学の祖とされ、意識の指向性を主張。現象学ハイデッガー存在論の基盤となり、サルトルやモーリス・メルロ=ポンティらの実存主義哲学に継承された。)、ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』『青色本』。分析哲学。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」として形而上学の終焉を主張。)、ジャン=ポール・サルトル(『存在と無』や『実存主義ヒューマニズムである』で、未来に向けてアンガージュマンすることで、自らが自らをつくる行動主義的な実存主義のモラルを提唱するだけでなく、『嘔吐』『自由への道』『悪魔と神』で作家・劇作家としても活躍。晩年『弁証法的理性批判』『反逆は正しい』で、政治的に先鋭化していった。)、カール・マルクスエンゲルスとともに共産主義の理論的完成者。ヘーゲル左派として、初期の人間中心主義的な『経済学・哲学草稿』からスタートし、『ドイツ・イデオロギー』を機に、認識論的切断が行われ、人間を経済的諸関係の総体としてみる『経済学批判』『資本論』の世界にシフトしていった。)、ジークムント・フロイト(『精神分析入門』『夢判断』。ブロイアーとともに精神分析学を創始。潜在意識に着目、人間の行動の奥にリビドーがあり、抑圧により神経症の症状が出ると考えた。家族におけるエディプス・コンプレックスタナトスの欲望などの仮説を考えた。)、カール・グスタフユング(分析心理学の祖。外向性と内向性の分類から始まり、分裂症を癒すマンダラ等の丸いシンボルの持つ効果や、古今東西の神秘哲学の持つ癒しの効果に着目。集合的無意識シンクロニシティの仮説を唱えた。)、クロード・レヴィ=ストロース(構造人類学者。『今日のトーテミズム』『野生の思考』で、歴史の観念を持たない未開とされている民族に着目し、彼らが西欧とは異なるが、別様の野生の自然と親和性のある高度な知と思考を持っているとし、婚姻に関する複雑なルールを含む親族の基本構造を明らかにし、サルトルの『弁証法的理性批判』の歴史観を批判した。晩年は『神話論理』で、西欧の音楽のように複雑な神話の世界の構造の解明に向かった。)、マルティン・ハイデッガー(『存在と時間』。フッサール現象学を利用して、基礎的存在論を構築しようとして、存在についておぼろげながらも了解しているとして現存在=人間存在の解明に向かった。結果として、これが実存主義の哲学に基礎的な基盤を与えることにつながった。)、ロラン・バルト(『零度のエクリチュール』で、ヌーヴェル・クリティックや記号論の世界を開示。『S/Z』で物語の構造分析を行うが、やがて自由な読解を肯定する『テクストの快楽』を提唱するようになる。晩年は『明るい部屋』で、写真論にまで評論の領域を拡大させた。)、フランツ・カフカ(代表作は『変身』『審判(訴訟)』『城』。実存主義文学として世界に影響を与えたが、シュルレアリスティックな寓話でもある。)、ミシェル・フーコー(狂気の排除をテーマとした『狂気の歴史』で頭角を現し、『言葉と物』の「人間は死んだ」という発言でスキャンダルを巻き起こし、構造概念を使わない構造主義者と評される。ニーチェのアルケオロジーの方法に影響を受けており、事後的に知の古層を掘り起こし、その時代のエピステーメーを明らかにできると考えている。一方、未来を予言的に語るマルクス主義には否定的である。『監獄の誕生』で、パノプティコン=一望監視装置に着目、権力装置のメカニズムに関心を寄せるようになる。晩年は『性の歴史』を執筆、権力論としての展開が予想されたが、方向性を転換し、ギリシャの倫理の研究から節制などの自己のテクノロジー、および自己超越に関心が向かう)、ジャック・デリダ(『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』で、ディコンストラクション=脱構築を唱え、ポスト構造主義への道を開いた。)、ヴァルター・ベンヤミン(『パサージュ論』や『複製技術時代の芸術作品』で知られ、アドルノらのフランクフルト学派に影響を与えた。)。

「漂流」(作詞:Jon Underdown、作曲・編曲:おおくぼけい)。電子音楽の子守り歌に包まれながら、漂流していくイメージが綴られる。YMO細野晴臣が作曲した「コズミック・サーフィン」や、細野晴臣の著作『地平線の階段』の延長線上にあるような、電子音楽と一元論的で白魔術的な自然宗教めいたものの融合が感じられる。電子音楽の起源を辿ると、ヒッピーの文化と、シリコン・ヴァレーのコンピュータ文化、ハッカーのテクノロジーの邂逅に突き当たるように思う。

「抜糸」(作曲・編曲:おおくぼけい)。椎名ぴかりんの声が入っている。2018年には、映画『少女ピカレスク』の主演・椎名ひかりとして、松永天馬と共演する、その縁が始まっている。

カナリア」(作詞:Jon Underdown・おおくぼけい、作曲・編曲:おおくぼけい)。カナリアのように、歌が届けられる。歌の本質が、伝わる事に置かれている。

Rampo」(作曲・編曲:おおくぼけい)。歌詞のない楽曲。江戸川乱歩を題材にした映画「Rampo」をイメージしたものだろうか。

「Vocalise No.1」(作曲・編曲:おおくぼけい)。再び「20世紀みたいに」で使われた戸川純の朗読が、新たな音楽とともに使用される。数々の知識人の名前が、21世紀に向けられたエコーのように思われてくる。

◆『20世紀のように』TOWER RECORDS特典:オリジナルCD「目覚めない為に」

「放物線」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「ペンギン」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「Fuge(目覚めない為にver.)」(作曲・編曲:おおくぼけい)

ハジメテノコト」(作曲・編曲:おおくぼけい)

◆『20世紀のようにVILLAGE VANGUARD特典: オリジナルCD「夢をみない為に」

「ゴルジ体」(作曲・編曲:おおくぼけい)ゴルジ体は細胞の中の脂質膜でできた袋状の槽が積み重なった形をした器官で、タンパク質の合成に関与している。

「象の国」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「Fuge(夢をみない為にver.)」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「雨、午後、君、いない」(作曲・編曲:おおくぼけい)

◆『20世紀のように』HMVライブ会場限定特典: オリジナルCD「夢をみる為に」

「スケッチブック」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「午後一時の庭」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「Fuge(夢をみる為にver.)」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「Vocalise No.2」(作曲・編曲:おおくぼけい)

◆双子の魔法使い リコとグリ CDアルバム『アーモンドの涙』(TKPR-068TSUKINO)2017年10月27日リリース

リーゼ[CV:石川界人]による歌、「アーモンドの涙」(作詞:松永天馬、作曲:田中屋元、編曲:瀬々信)および「おかしな魔法、おかしな夢」(作詞:inn、作曲:田中屋元、編曲:inn)の2曲が収録されている。「リコとグリ」からわかるように、江崎グリコ関連の企画CDである。「アーモンドの涙」の歌詞も、クライアントの意向なのか、「カリッと青春」「チョコレート」「一粒で楽しく」とある。タイトルから「アーモンド・グリコ」を思い浮かべたが、歌詞をみるとアーモンド入りチョコレートのようである。

◆『ファンクラブ会報:たのしい前衛2017 特集 KEKKONしようよ。』2017年11月発行

 

第2部『アーバンギャルド☆クロニクル【資料篇】・20102017

2010年

◆CDアルバム 浜崎容子『Film noir』(ZETO-004/前衛都市)2010年4月25日リリース

「樹海の国のアリス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)

「暗くなるまで待って」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)

印象派」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)

ブルークリスマス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)

「フィルムノワール」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)

思春の森」(作詞・作曲・編曲:浜崎容子)

◆CDシングル『傷だらけのマリア』(初回限定盤ZETO-005/前衛都市)2010年7月9日リリース

MUSIC DISC

「傷だらけのマリア」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「あした地震がおこったら」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「ファミリーソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「セーラー服を脱がないで RAVEMAN(Aural Vampire)remix」(作詞・作曲:松永天馬、再構築:レイブマン(オーラルヴァンパイア))

VIDEO DISC

「傷だらけのマリア OFF AIR VERSION(無修正)」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「傷だらけのマリア ON AIR VERSION(修正済)」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

◆CDシングル『傷だらけのマリア』(通常盤ZETO-006/前衛都市)2010年7月9日リリース

「傷だらけのマリア」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「あした地震がおこったら」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「ファミリーソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「女の子戦争 YOKOTAN remix」(作詞・作曲:松永天馬、再構築:浜崎容子)

「傷だらけのマリア(KARAOKE)」(作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

◆『傷だらけのマリア』TOWER特典:よこたんきせかえ 傷だらけのマリアVer MARIMO

◆『傷だらけのマリア』HMV特典:巨大キューピーペーパークラフト

◆『傷だらけのマリア』ディスクユニオン特典:せいしくんペーパークラフト

◆CDアルバム 『ソワカちゃんアーバンギャルド』(ZETO-007/前衛都市)2010年8月14日リリース

MUSIC DISK

「ブラスティック・チェリー・ボム」(kihirohito & アーバンギャルド) (作詞・作曲:kihirohito、編曲:瀬々信・谷地村啓・kihirohito)

「水玉病」(hihirohito ver.) (作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・谷地村啓、編曲:kihirohito)

護法少女ソワカちゃん」(アーバンギャルド ver.) (作詞・作曲:kihirohito、編曲:谷地村啓)

「リボン運動」(hihirohito ver.) (作詞・作曲:松永天馬、編曲:kihirohito)

千々石ミゲル友の会のテーマ」(アーバンギャルド ver.) (作詞・作曲:kihirohito、編曲:瀬々信)

「ブラスティック・チェリー・ボム」(hihirohito archetype ver.) (作詞・作曲・編曲:kihirohito)

VIDEO DISK

「ブラスティック・チェリー・ボム」(kihirohito & そうまあきら)

千々石ミゲル友の会のテーマ~唯一人劇団リモコキッヒ『リモコキッヒの大贖罪』より」(アーバンギャルド

◆CDアルバム 『少女の証明』(ZETO-008/前衛都市)2010年10月8日リリース

「プリント・クラブ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「傷だらけのマリア(proof mix)」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「前髪ぱっつんオペラ」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)

「保健室で会った人なの」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「スナッフフィルム」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)

「プロテストソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

あたま山荘事件」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:瀬々信・谷地村啓)

「リセヱンヌ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:浜崎容子、ストリングスアレンジ:谷地村啓)

「タブルバインド」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)

「救生軍」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

◆CDアルバム サエキけんぞう&Boogie the マッハモータース『21世紀さん sings ハルメンズ』(VICL-63567ビクターエンタテインメント)2010年10月20日リリース

「ノスタル爺 featuring 浜崎容子 from アーバンギャルド」(作詞:サエキけんぞう、作曲:Boogie the マッハモータース)

「趣味の時代 featuring 浜崎容子 from アーバンギャルド」(作詞:佐伯健三、作曲:比賀江隆男)収録。

◆CDアルバム GROOVE  UNCHANTNOTRE MUSIQUE』(ORGR-36ORANGE RECORDS)2010年12月1日リリース

「鏡の中の十月 feat.浜崎容子(アーバンギャルド) (French Version)」(作詞:売野雅勇、作曲・編曲:YMO細野晴臣高橋幸宏坂本龍一)、フランス語訳:江部知子)収録。

 

2011年

◆CDアルバム ムーンライダーズ『カメラ=万年筆 スペシャル・エディション』(CRCP-20472/3NIPPON CROWN)2011年4月6日リリース

Disk2に「狂ったバカンス Remixed by アーバンギャルド」(作詞・作曲:かしぶち哲郎)収録。

◆5月15日、クラフト・美術担当の藤井亮二が脱退する。

◆『SFマガジン2011年7月号、Vol.52、No.664 特集:伊藤計劃以降』(早川書房)2011年7月1日発行

高柳カヨ子による評論「アーバンギャルドの「少女の王国」」掲載。

◆CDシングル『スカート革命』(UPCH-5708UNIVERSAL J)2011年7月20日リリース

「スカート革命」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルドホッピー神山

「プラモデル」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「スカート革命(instrumental)」(作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルドホッピー神山

「プラモデル(instrumental)」(作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

◆『スカート革命』TOWER特典:よこたんきせかえ スカート革命Ver  真理藻

◆『スカート革命』HMV特典:松永天馬 掌編小説 「スカート革命」

◆CDシングル『ときめきに死す』(UPCH-5716UNIVERSAL J)2011年9月28日リリース

ときめきに死す」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓、編曲:アーバンギャルド

「その少女、人形につき」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

ときめきに死す(instrumental)」(作曲:谷地村啓、編曲:アーバンギャルド

「その少女、人形につき(instrumental)」(作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

◆『ときめきに死すTOWER特典:よこたんきせかえ ときめきVer  真理藻

◆『ときめきに死すHMV特典:松永天馬 掌編小説 「その少女、人形につき」

◆『ときめきに死すTSUTAYA特典:BAD都市夫シール  

◆CDアルバム『メンタルヘルズ』(初回限定盤UPCH-9691/通常盤UPCH-1849UNIVERSAL J)2011年10月26日リリース

「堕天使ポップ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「スカート革命」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルドホッピー神山

「子どもの恋愛」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「墜落論」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド

「バースデーソング」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド

ヴァガボンド・ヴァージン」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信・谷地村啓、編曲:アーバンギャルド

「雨音はシャロンの調べ」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド

ゴーストライター」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「粉の女」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

ときめきに死す(Hell’s mix)」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓、編曲:アーバンギャルド

「ももいろクロニクル」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓・松永天馬、編曲:アーバンギャルド

※初回限定盤 DVD(Disk2)

「子どもの恋愛」PROPAGANDA VIDEO (作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

 

2012年

◆DVD『プロパガンダヴィデオ2012』(UPBH1301UNIVERSAL J 2012年1月25日リリース

【A.D. SIDE】

「スカート革命」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルドホッピー神山

「堕天使ポップ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「子どもの恋愛(2012 Edit)」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

ときめきに死す(2012 Edit)」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓、編曲:アーバンギャルド

「その少女、人形につき」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

【B.C. SIDE】

「セーラー服を脱がないで」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「修正主義者」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「水玉病」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・谷地村啓、編曲:谷地村啓)

「コマーシャルソング」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:瀬々信・谷地村啓)

「四月戦争」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)

「コンクリートガール」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「恋をしに行く」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

ラヴクラフトの世界」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「傷だらけのマリア(OFF AIR ver.)」(作詞・作曲:松永天馬)

「プリント・クラブ(OFF AIR ver.)」(作詞・作曲:松永天馬)

「恋をしに行く(afternoon ver.)」(作詞・作曲:松永天馬)

「ももいろクロニクル(ending roll)」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓・松永天馬)

【Bonus Tracks】

「堕天使ポップ(BAND Perfomance ver.)」(作詞・作曲:松永天馬)

「おうちでできる!アーバンダンスレッスン(水玉病・女の子戦争・ロボットと私編)」

「おそとでできる!アーバンダンスレッスン(スカート革命・ときめきに死すヴァガボンド・ヴァージン編)」

◆CDシングル『生まれてみたい』(UPCH-5739UNIVERSAL J)2012年3月7日リリース

「生まれてみたい」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・浜崎容子、編曲:アーバンギャルド

「u星より愛をこめて」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「生まれてみたい(instrumental)」(作曲:松永天馬・浜崎容子)

「u星より愛をこめて(instrumental)」(作曲:松永天馬)

◆CDシングル『病めるアイドル』(UPCH-5752UNIVERSAL J)2012年6月20日リリース

「病めるアイドル」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「萌えてろよ feat.ぱすぽ☆」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド

「スカート革命(French pop ver.)」(作詞・作曲:松永天馬、フランス語訳詞:ヒキタマリ)

「病めるアイドル(instrumental)」(作曲:松永天馬)

「萌えてろよ(instrumental)」(作曲:浜崎容子)

◆『病めるアイドル』TOWER RECORDS特典:よこたんきせかえ 病めるアイドルVer  真理藻

◆『病めるアイドル』HMV特典:松永天馬 掌編小説 「病めるアイドル」

◆DVD『アーバンギャルドSHIBUYA-AXは、病気』(UPBH9489UNIVERSAL J)2012年6月20日リリース

「堕天使ポップ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「スカート革命」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルドホッピー神山

「子どもの恋愛」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「ベビーブーム」(作詞・作曲:松永天馬)

「保健室で会った人なの」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「プラモデル」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「あした地震がおこったら」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「都市夫は死ぬことにした(男だらけのアーバンギャルド)」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:瀬々信・谷地村啓)

「傷だらけのマリア」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「前髪ぱっつんオペラ」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)

「水玉病」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・谷地村啓、編曲:谷地村啓)

「その少女、人形につき」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「粉の女」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「修正主義者」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

ときめきに死す」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓、編曲:アーバンギャルド

「ももいろクロニクル」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓・松永天馬)

「生まれてみたい」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・浜崎容子、編曲:アーバンギャルド

「四月戦争」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)

「セーラー服を脱がないで」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

【映像特典】

「都市夫、渋谷にあらわる」「よこたんカメラ@SHIBIYA-AX(Leg fetish angle)」

◆CDミニアルバム『不良少女のアーバンギャルド』2012年6月20日リリース 『アーバンギャルドSHIBUYA-AXは、病気』付録

「セーラー服を脱がないで」(2012年日本語ロック論争のための新録) (作詞・作曲:松永天馬、再構築:アーバンギャルド

「水玉病」(谷地村啓による、1984年のリセチフス報告) (作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・谷地村啓、再構築:谷地村啓)

「女の子戦争」(瀬々信による、手首を戦場に変えるヴィヴィアンガールズのために) (作詞・作曲:松永天馬、再構築:瀬々信)

「東京生まれ」(鍵山喬一による、捏造されたクール・ジャパンを聴く) (作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓、再構築:鍵山喬一)

「傷だらけのマリア」(浜崎容子による、現代のアンセム、またの名をテクノポップ) (作詞・作曲:松永天馬、再構築:浜崎容子)

「テロル」(病気の原点、新録) (作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

コスプレイヤー」(脱衣のための新曲) (作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

◆新・チロリン CDアルバム『Chit Chat Chiroline~おしゃべりチロリン』(VALB-1002valb)2012年8月8日リリース

「涙は少女の武器」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、プロデュース:岡田徹ムーンライダーズ)、歌:新・チロリン

「POST!POST!POST!」(作詞・作曲:松永天馬、プロデュース:岡田徹ムーンライダーズ)、歌:新・チロリン

◆CDシングル『さよならサブカルチャー』(UPCH-5769UNIVERSAL J)2012年9月19日リリース

「さよならサブカルチャー」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:アーバンギャルド

「なんとなく、カタルシス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:アーバンギャルド

「子どもの恋愛(OTONA remix)」(作詞・作曲:松永天馬)

「さよならサブカルチャー(instrumental)」(作曲:アーバンギャルド

「なんとなく、カタルシス(instrumental)」(作曲:アーバンギャルド

◆CDアルバム『ガイガーカウンターカルチャー』(初回限定盤UPCH-9787/通常盤UPCH-1894UNIVERSAL J)2012年10月24日リリース

魔法少女と呼ばないで」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「さよならサブカルチャー」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:アーバンギャルド

「病めるアイドル」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「処女の奇妙な冒険」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド

コミック雑誌なんかILLかい」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド

「生まれてみたい」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・浜崎容子、編曲:アーバンギャルド

「眼帯譚」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「血文字系」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド

「トーキョー・天使の詩」(作詞:松永天馬、作曲:鍵山喬一、編曲:アーバンギャルド

ガイガーカウンターの夜」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓、編曲:アーバンギャルド

「ノンフィクションソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

※初回限定盤 DVD(Disk2)

「さよならサブカルチャー」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:アーバンギャルド

「病めるアイドル」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

「生まれてみたい」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・浜崎容子、編曲:アーバンギャルド

「「病めるアイドル」本人だけど踊ってみた」

◆『ガイガーカウンターカルチャー』TSUTAYA特典:ガイガーカウンターカルチャー・カウンセリングディスク~メンバーによるアルバム全曲解説コメント入りCD

◆CDアルバム PASSPO☆『One World』(UNIVERSAL J)2012年11月14日リリース

「ピンクのパラシュート」(作詞・作曲:松永天馬)収録。

 

2013年

◆CDシングル PASSPO☆『サクラ小町』(UNIVERSAL J)2013年2月13日リリース

「サクラ小町」(作詞:ベンネとアラビアータ、作曲:瀬戸信、編曲:福井昌彦)収録。

◆『SFマガジン2013年6月号、Vol.54、No.687 特集:日本作家特集・寺田克也特集』(早川書房)2013年6月1日発行

松永天馬による小説「死んでれら、灰をかぶれ」掲載。

◆CDベストアルバム『恋と革命とアーバンギャルド』(UPCH-1935UNIVERSAL J)2013年6月19日リリース

「初恋地獄変」(作詞・作曲:松永天馬)

都会のアリス」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子)

「女の子戦争」(作詞・作曲:松永天馬)

「セーラー服を脱がないで」(作詞・作曲:松永天馬)

「ベビーブーム」(作詞・作曲:松永天馬)

「水玉病」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・谷地村啓)

「コンクリートガール」(作詞・作曲:松永天馬)

「修正主義者」(作詞・作曲:松永天馬)

「傷だらけのマリア」(作詞・作曲:松永天馬)

「あした地震がおこったら」(作詞・作曲:松永天馬)

「スカート革命」(作詞・作曲:松永天馬)

ときめきに死す」(作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓)

「生まれてみたい」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・浜崎容子)

「病めるアイドル」(作詞・作曲:松永天馬)

「さよならサブカルチャー」(作詞:松永天馬、作曲:アーバンギャルド

「ももいろクロニクル」(前衛都市学園合唱団mix) (作詞:松永天馬、作曲:谷地村啓・松永天馬)

◆映画DVD 木村承子監督作品『恋に至る病』(アメイジングD.C. 2013年7月13日リリース

出演: 我妻三輪子斉藤陽一郎佐津川愛美染谷将太  音楽:アーバンギャルド  配給: マジックアワー

◆『SFマガジン2013年8月号、Vol.54、No.689 特集:日本ファンタジイの現在』(早川書房)2013年8月1日発行

松永天馬による小説「モデル」掲載。

◆9月、キーボード担当の谷地村啓が脱退する。

◆『夜想 特集:少女』(ステュデイオ・パラボリカ)2013年10月21日発行

高柳カヨ子による評論「少女という病 関係性からみるアーバンギャルド小論」掲載。

◆CDアルバム ムーンライダーズMODERN MUSIC スペシャル・エディション』(CRCP-20502/3NIPPON CROWN)2013年11月6日リリース

Disk2に「グルーピーに気をつけろ Remixed by アーバンギャルド」(作詞:鈴木博文、作曲:岡田徹)収録。

◆CDシングル 野佐怜奈『涙でできたクリスマス サンタクロース・コンプレックス』(ERCD10003Emission Entertainment)2013年11月20日リリース

「涙でできたクリスマス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:ハジメタル

「サンタクロース・コンプレックス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:ハジメタル)収録。

◆CDアルバム PASSPO☆『JE JE JE JET!!』(UPCH-9904UNIVERSAL J)2013年12月11日リリース

「サクラ小町」(作詞:ベンネとアラビアータ、作曲:瀬戸信、編曲:福井昌彦)

「Shang Shang シャンデリア」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)収録。

 

2014年

YouTube 松永天馬とエアインチョコ 「身体と歌だけの関係」https://youtu.be/Bo67BGYKmoY 2014年1月31日アップロード

松永天馬(VO from アーバンギャルド)、鍵山喬一(DRUMS from 当時アーバンギャルド)、大久保敬(PIANO from 当時ザ・キャプテンズ

YouTube松永天馬とエアインチョコ Blood,Semen,and Death.https://youtu.be/dgobpIBaDB0 2014年1月31日アップロード

松永天馬(VO from アーバンギャルド)、鍵山喬一(DRUMS from 当時アーバンギャルド)、大久保敬(PIANO from 当時ザ・キャプテンズ

◆『SFマガジン2014年2月号、Vol.54、No.695 特集:日本作家特集』(早川書房)2014年2月1日発行

松永天馬による小説「自撮者たち」掲載。

◆CDアルバム ナンバタタン(南波志帆+タルトタタン)『ガールズ・レテル・トーク』(ERCD23003Emission Entertainment)2014年2月5日リリース

「ズレズレニーソックス」(作詞:松永天馬、作曲:山本奨)収録。

◆CDシングル 上坂すみれパララックス・ビュー』(KICM91506他/KING RECORDS)2014年3月5日リリース

すみれコード」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)収録。

◆公式ファンクラブ「前衛都市学園」会報『たのしい前衛』創刊号(アーバンギャルド公式ファンクラブ前衛都市学園/TK BROS/ビジョンライツ) 2014年4月9日刊行

特集 スクールカーストツァーの果てに~前衛都市教育の現在

アーバンギャルド(松永天馬、浜崎容子、瀬々信、鍵山喬一)、名鹿祥史

ゲスト連載:口枷屋モイラ、木村承子、原田忠男

◆5月24日、松永天馬、北海道湧別町で開かれた「選抜式 詩のボクシング全国大会」で優勝する。

◆CDアルバム『鬱くしい国』(初回限定盤TKCA-74110/通常盤TKCA-74115/徳間ジャパン)2014年6月18日リリース

「ワンピース心中」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一・大久保敬)

「さくらメメント」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「生教育」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一・大久保敬)

「君にハラキリ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一・大久保敬)

ロリィタ服と機関銃」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「自撮入門」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

アガペーソング」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:大久保敬)

「ガールズコレクション」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「戦争を知りたい子供たちfeat.大槻ケンヂ」(作詞:松永天馬、作曲:鍵山喬一、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

R.I.P.スティック」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「僕が世」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

※初回限定盤 DVD(Disk2)

「さくらメメント」(PROPAGANDA VIDEO) (作詞・作曲:松永天馬)

「さくらメメント 少女たちを踊らせてみた」

「さくらメメント」(PROPAGANDA VIDEO SIDE-B) (作詞・作曲:松永天馬)

◆BOOK『夜想#アーバンギャルド』(ステュディオ・パラボリカ)2014年7月17日刊行

アーバンギャルド(松永天馬、浜崎容子、瀬々信、鍵山喬一)、西島大介蜷川実花大槻ケンヂ神林長平冲方丁千野帽子会田誠、高柳カヨ子、Trevor Brown、山本タカト、今井キラ、安蘭、真珠子、森夜ユカ、青木美沙子上坂すみれきくち伸ケラリーノ・サンドロヴィッチサエキけんぞう四方宏明鈴木慶一月乃光司辻村深月中田クルミ南波志帆新島進根岸愛、ハナエ、福田花音古屋兎丸小谷真理大谷能生今野裕一

◆公式ファンクラブ「前衛都市学園」会報『たのしい前衛』第二号(アーバンギャルド公式ファンクラブ前衛都市学園/TK BROS/ビジョンライツ) 2014年秋刊行

特集 アーバンギャル脳 洗脳計画

アーバンギャルド(松永天馬、浜崎容子、瀬々信、鍵山喬一)、うどん脳

ゲスト連載:口枷屋モイラ、木村承子、原田忠男

◆10月4日、ドラムス担当の鍵山喬一が脱退。

◆CDアルバム 筋肉少女帯THE SHOW MUST GO ON』(TKCA74148徳間ジャパンコミュニケーションズ)2014年10月8日リリース

霊媒少女キャリー」(作詞:大槻ケンヂ、作曲:橋高文彦、編曲:筋肉少女帯)に浜崎容子参加。

◆BOOK『月刊松永天馬』(しまうまプリント/自主制作)2014年12月6日刊行

◆CDアルバム『a tribute to Tetsuroh Kashibuchi ハバロフスクを訪ねて』(PCD-18779/80P-VINE RECORDS)2014年12月17日リリース

アーバンギャルド「スカーレットの誓い」(作詞・作曲:橿淵哲郎・”薔薇”by佐藤奈々子)収録。

 

2015年

◆DVD『アーバンギャルドのクリスマス~SANTACLAUS IS DEAD~』(ZETO009/前衛都市/TK-BROS) 2015年4月1日リリース

「子どもの恋愛」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

ラヴクラフトの世界」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「ヌーヴォーロマン」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「ワンピース心中」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一・大久保敬)

「プリント・クラブ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「自撮入門」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「スカート革命」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルドホッピー神山

「戦争を知りたい子供たち」(ジャズVer) (作詞:松永天馬、作曲:鍵山喬一)

「月へ行くつもりじゃなかった」(アコースティックVer) (作詞・作曲:松永天馬)

「君にハラキリ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一・大久保敬)

「水玉病」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・谷地村啓、編曲:谷地村啓)

ヴァガボンド・ヴァージン」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信・谷地村啓、編曲:アーバンギャルド

都会のアリス」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子)

「救生軍」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)

「オペラ・オペラシオネル」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)

「ベビーブーム」(クリスマスver) (作詞・作曲:松永天馬)

「スカーレットの誓い」(作詞・作曲:橿淵哲郎・”薔薇”by佐藤奈々子

「さくらメメント」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

  • 映像特典:前衛都市のビデオノート

◆CDミニアルバム『少女KAITAI KAI版]』(ZETO-010/前衛都市)2015年5月2日リリース、ライヴ会場限定販売

「コインローカーベイビース」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子・大智、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「原爆の恋」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「ファンクラブソング」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「いちご売れ」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「生まれてみたい YOKOTAN REMIX」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・浜崎容子)

◆CDミニアルバム『少女KAITAI TAI版]』(ZETO-011/前衛都市)2015年5月2日リリース、ライヴ会場限定販売

「コインローカーベイビース」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子・大智、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「原爆の恋」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「ファンクラブソング」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「いちご売れ」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

都会のアリス 戸田宏武(新宿ゲバルト)REMIX」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子)

◆『SFマガジン2015年6月号、Vol.56、No.709 特集:ハヤカワ文庫SF総解説PART2』(早川書房)2015年6月1日発行

松永天馬による小説「神待ち」掲載。

◆CDアルバム NO-LIE SENSE鈴木慶一&KERA)『The First Suicide Big Band Show Live 2014』(4R-0005ナゴムレコード)2015年8月26日リリース

「MASAKERU feat.緒川たまき、松永天馬」(作詞・作曲:鈴木慶一&KERA

「だるい人 feat.浜崎容子」(作詞:蛭子能収、作曲:E.D.MORRISON)

DEAD OR ALIVE(FINE FINE) feat.浜崎容子」(作詞:KERA、作曲:鈴木慶一

「大通はメインストリート feat.浜崎容子」(作詞:鈴木慶一、作曲:KERA) を収録。

YouTube新垣隆&吉田隆一+浜崎容子「ゴーストライターhttps://youtu.be/VzYuS-4l_sY  2015年9月10日アップロード

◆『ユリイカ 2015年10月臨時増刊号 KERAケラリーノ・サンドロヴィッチ』(青土社)2015年9月25日発行

松永天馬による「弟たちのナゴムレコード」掲載。

◆10月24日、松永天馬、バロー文化ホール(多治見市文化会館)で行われた「詩のボクシング タイトルマッチ&選抜式全国大会in多治見」で自作朗読日本一となる。

BOOK 松永天馬著『自撮者たち』(早川書房)2015年10月25日初版第一刷発行

電子書籍同日発行

少女

「スカート革命」「死んでれら、灰をかぶれ」「詩に紙」「ショートカット」「少女地獄4’44’’」「幽霊にしか歌えない」「売秋」「濡れませんように」「その少女、人形につき」「実録・あたま山荘事件」

都市

「病めるアイドル」「東京への手紙」「Blood,Semen,and Death」「フクシマ、モナムール」「死者にリボンを」「自撮者たち」「台諷」「僕は吸血鬼か」「男は僕は俺は」「Tのトランク」「君について」

神待ち」「夢精映画」「Costume P”r”ay」「点点天使」「肌色の夢」「墓場にくちづけ」「めくら ないで」「実用詩」「モデル」

墓碑

「文字で書かれたR.I.P.スティック、或いは少女Y」

YouTube Brats「十四歳病」https://youtu.be/WvA6kctcdA4?list=PLRjl5pD07wEnDpqT1qgv-ZBYswF3s4mW3

2015年11月21日アップロード

「十四歳病」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド

◆CDアルバム『昭和九十年』(初回限定盤FAMC-208/通常盤FAMC-209KADOKAWA)2015年12月9日リリース

「くちびるデモクラシー」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子)

「ラブレター燃ゆ」(作詞・作曲:松永天馬)

「コインロッカーベイビース」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子・大智)

「シンジュク・モナムール」(作詞・作曲:松永天馬)

「詩人狩り」(作詞・作曲:松永天馬)

箱男に訊け」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信)

「昭和九十年十二月」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい)

「あいこん哀歌」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子)

「ゾンビパウダー」(作詞・作曲:松永天馬)

「平成死亡遊戯」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい)

「オールダウトニッポン」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信)

※初回限定盤 DVD(Disk2

PROPAGANDA  VIDEO

「くちびるデモクラシー」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子)

「ラブレター燃ゆ」(作詞・作曲:松永天馬)

「コインロッカーベイビース」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子・大智)

「平成死亡遊戯」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい)

LIVE VIDEO

「”アーバンギャルド2015春を売れ!SPRING SALE TOUR “6.20 新宿ReNY(全10曲)」

◆『昭和九十年』HMV特典: CDミニアルバム『アーバンギャルド アコースティック 昭和九十年』(KADOKAWA/前衛都市/TK-BROS

「コインロッカーベイビーズ」(guitar,piano) (作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子・大智)

ロリィタ服と機関銃」(piano)

「ファンクラブソング」(guitar,piano,percussion) (作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい)

都会のアリス」(guitar,piano)

◆『昭和九十年』TOWER RECORDS特典:CDミニアルバム『URBANGARDE MABOROSHINO SHOWA90』(KADOKAWA/前衛都市/TK-BROS

レディメイドソング」(80s OUTTRACK DEMO)

「ラブレター燃ゆ」(00s DEMO) (作詞・作曲:松永天馬)

「ゾンビパウダー」(70s DEMO) (作詞・作曲:松永天馬)

「平成死亡遊戯」(90s DEMO) (作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい)

◆『昭和九十年』VILLAGE VANGUARD特典: DVD『詩劇:アーバンギャルドの新宿に死す』

◆CDシングル たんきゅんデモクラシー『あどれっせんすドレス伝』(SUS-012/櫻梅生徒会)2015年12月16日リリース

「あどれっせんすドレス伝」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:郷拓郎)収録。

◆公式ファンクラブ「前衛都市学園」会報『たのしい前衛』かわら版(アーバンギャルド公式ファンクラブ前衛都市学園/TK BROSFUTURES RAINBOW) 2015年12月刊行

特集 そうだ、地獄へ行こう

アーバンギャルド(松永天馬、浜崎容子、瀬々信、おおくぼけい)

 

2016年

◆CDアルバム 上坂すみれ『20世紀の逆襲』(KICS93337等/KING RECORDS 2016年1月6日リリース

すみれコード」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド)収録。

YouTube 野佐怜奈「早く帰りたい(demo short ver.)」https://youtu.be/wLEJN9xuFS0 2016年1月18日アップロード

Key.おおくぼけい(アーバンギャルド

◆『SFマガジン2016年2月号、Vol.57、No.713 特集:「スター・ウォーズ」』(早川書房)2016年2月1日発行

神林長平×松永天馬(司会:高柳カヨ子)「ぼくたちは言葉で生きていく」掲載。

松永天馬×西田藍「虚構の少女とわたしたち」掲載。

YouTube 野佐怜奈「 H A -T O demo short ver.)」https://youtu.be/EqPTxhP2cNs 2016年2月16日アップロード

Key.おおくぼけい(アーバンギャルド

◆CDシングル 風男塾(ふだんじゅく)『友達と呼べる君へ』(通常盤TECI399テイチクエンタテインメント)2016年2月24日リリース

「ラブメッセンジャー」(作詞:miyakei、作曲:DACHI、編曲:Shinobu Narita、piano:おおくぼけい)収録。

◆BOOK浜崎容子『バラ色の人生』(ロフトブックス)2016年3月5日初版第一刷発行

◆CDミニアルバム『昭和九十一年[サル版]』(ZETO-013/前衛都市/TK-BROS)2016年4月2日リリース、ライヴ会場限定販売

「ふぁむふぁたファンタジー」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「大破壊交響楽」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

マイナンバーソング」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「HALの惑星」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「くちびるデモクラシー GOATBED REMIX」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:石井秀仁)

◆CDミニアルバム『昭和九十一年[ヒト版]』(ZETO-014/前衛都市/TK-BROS)2016年4月2日リリース、ライヴ会場限定販売

「ふぁむふぁたファンタジー」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「大破壊交響楽」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

マイナンバーソング」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

「HALの惑星」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)

箱男に訊け KEISAMA REMIX」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:おおくぼけい)

◆CDアルバム ザ・キャプテンズ『運命盤』(VSCR-003VERY JAPANESE RECORDS) 2016年4月20日リリース

「恋の逆転満塁ホームラン」(作詞・曲:傷彦、編曲:ザ・キャプテンズ、声の出演:松永天馬、ミックス:白石経)

◆BOOK松永天馬『少女か小説か』(集英社文庫)2016年4月25日初版第一刷発行

「セーラー服を脱がないで」「四月戦争」「水玉病」「コンクリートガール」「リボン運動」「プリント・クラブ」「あした地震がおこったら」「前髪ぱっつんオペラ」「救生軍」「子どもの恋愛」「ゴーストライター」「堕天使ポップ」

◆BOOK『月刊アーバンギャルド×TRMN』(Mファクトリー ROCK PRESS TOKYOE-NET FRONTIER)2016年5月4日初版第一刷発行

◆『SFマガジン2016年6月号、Vol.57、No.715 特集:やくしまるえつこのSF世界』(早川書房)2016年6月1日発行

松永天馬による小説「牡蠣の惑星」掲載。

◆CDアルバム 青山泰山『月の沙漠の最果ての』(青月舎)20166月リリース

おおくぼけいが参加。

iTunes POH PROJECT 「キセキ☆フラグ」(作曲:おおくぼけい、歌:上間江望

201662日リリース

https://itunes.apple.com/jp/album/kiseki-furagu-single/id1119584495?i=1119584638

電子書籍 松永天馬『【電子特別版】少女か小説か』(集英社e文庫)201663日発行iTunes

◆CDソロアルバム 浜崎容子『Blue Forest』(FAMC-228KADOKAWATK-BROS2016615日リリース

「硝子のベッド」(作詞・曲・編曲:浜崎容子)

「雨音はショパンの調べ」(作詞:Paul Mazzolini/松任谷由実 作曲:Pierluigi Giombini 編曲:浜崎容子)

「ANGEL SUFFOCATION」(作詞:菊地成孔 作曲:浜崎容子 編曲:浜崎容子・成田忍)

「誰より好きなのに」(作詞・曲:古内東子 編曲:浜崎容子・おおくぼけい)

「Forever Us」(作詞・曲・編曲:浜崎容子)

「ねぇ」(作詞・曲・編曲:服部峻)

「Lost Blue」(作詞・曲・編曲:浜崎容子)

◆『Blue ForestTOWER RECORDS特典:Acoustic Ver.CD

「雨音はショパンの調べ」

「ANGEL SUFFOCATION」

「Lost Blue」

◆『Blue ForestHMV特典:Instrumental Ver.CD

「雨音はショパンの調べ」

「ANGEL SUFFOCATION」

「Forever Us」

◆『Blue ForestVILLAGE VANGUARD特典:「雨音はショパンの調べ」&「暗くなるまで待って」MusicVideoDVD

◆アーバン・ダンス CDアルバム『U-DNA』(CDSOL-1743/44SOLID RECORDS)2016年7月27日リリース

Disk2 DNA-SIDE、4曲目に浜崎容子による「すべては秘密の夜―Whisper Of My Love―」(作詞:高橋修・沢田雄児、作曲:成田忍)を収録。

◆写真詩集 写真:青山裕企+モデル:浜崎容子+詩:松永天馬『スクールガール・トラウマ』(発行:3時0時、発売:メタ・ブレーン)2016年8月19日初版発行

◆永友タロウ×トーキョーキラー CDアルバム『同級生キラー』(SOTM-001/サオトメレコード)2016年8月24日リリース

永友タロウは、永友聖也(ex.キャプテンストライダム)とカトウタロウ(ナカザタロウetc./ex.BEAT CRUSADERS)による同級生ユニット。トーキョーキラーは、ギター・ケメ(keme、PIGGY BANKS)、ベース・アッコ(PIGGY BANKS、ex GO!GO!7188)、キーボード・ケイ(おおくぼけい、アーバンギャルド、exキャンプテンズ)、ドラム・キョウイチ(鍵山喬一、exアーバンギャルド)から成るインストゥルメンタル・ロック・グループ。おおくぼけいと鍵山喬一、新旧のアーバンギャルドのメンバーが2名入っているということで、注目しておきたい。

収録曲は以下の通り。

「同級生キラー」(作詞・作曲・編曲:永友タロウ×トーキョーキラー)

「パイプライン」(作曲:B.Spickard・B.Carmen、編曲:トーキョーキラー)

銭ゲバ」(作曲:おおくぼけい、編曲:トーキョーキラー)

「既読スルー」(作詞・作曲・編曲:永友タロウ)

「鼻持ちならぬ上司」(作詞・作曲・編曲:永友タロウ)

「はじめまして」(作詞:アッコ(合いの手 永友タロウ)、作曲:ケメ、編曲:永友タロウ×トーキョーキラー)

ハルメンズX CDアルバム『35世紀』(VICL-64637Victor Entertainment)2016年9月21日リリース

17曲目に「レ・おじさん」(作詞:サエキけんぞう、作曲+演奏:サエキけんぞう&吉田仁郎、リミックス:アーバンギャルド、プログラミング&ギター:瀬々信、シンセサイザー:おおくぼけい、Additional Vocal:浜崎容子)を収録。

◆『ケラリーノ・サンドロヴィッチミュージック・アワー・2013【4CD】』(CDSOL-170811ナゴムレコード)2016年9月21日リリース

砂原良徳、ザ・ガンビーズ、初期「有頂天」セッション、中・後期「有頂天」セッション、KERA SOLO UNIT、ケラ&シンセサイザーズ、中原テルヲ feat.KERA&みのすけ、No Lie-Sense、空手バカボン、有頂天、KERA、ロング・バケーション、J・トンプソン商会、ザ・シンセサイザーズ、クレイジー・サーカスの楽曲を収録。

ブックレットに、松永天馬による特別寄稿「KERAが歌う希望の歌」を掲載。

◆公式ファンクラブ「前衛都市学園」会報『たのしい前衛2016』かわら版(アーバンギャルド公式ファンクラブ前衛都市学園/TK BROSFUTURES RAINBOW) 2016年11月刊行、特集 アーバン ハトヤ

アーバンギャルド(松永天馬、浜崎容子、瀬々信、おおくぼけい)

 

2017年

◆CDシングル『あくまで悪魔』初回限定盤[CD+DVD](FBAC-010FABTONE.Ink)2017年1月4日リリース

【CD】

「あくまで悪魔」(作詞:松永天馬、作曲:アーバンギャルド、編曲:アーバンギャルド+杉山圭一)

「天使にしやがれ」(作詞:松永天馬、作曲:アーバンギャルド、編曲:アーバンギャルド+杉山圭一)

【DVD】

「あくまで悪魔」(MUSIC VIDEO)

「あくまで悪魔」(DANCE VIDEO)

「ふぁむふぁたファンタジー」(MUSIC VIDEO)

「LIVE PERFORMANCE from 鬱フェス 2016@TSUTAYA O-EAST

 ワンピース心中/くちびるデモクラシー/ふぁむふぁたファンタジー/シンジュク・モナムール/箱男に訊け/大破壊交響楽/都会のアリス/病めるアイドル

◆CDシングル『あくまで悪魔』通常盤(FBAC-011FABTONE.Ink)2017年1月4日リリース

「あくまで悪魔」(作詞:松永天馬、作曲:アーバンギャルド、編曲:アーバンギャルド+杉山圭一)

「天使にしやがれ」(作詞:松永天馬、作曲:アーバンギャルド、編曲:アーバンギャルド+杉山圭一)

「あくまで悪魔」(Instrumental)

「天使にしやがれ」(Instrumental)

高原英理『ゴシックハート』(立東舎文庫)2017年1月20日初版発行。浜崎容子による解説「誰もが知らぬ間に悲劇のヒロインに抜擢されている」掲載。

ぱぺらぴ子ちゃん(浜崎容子)「キスミーきれいみー」(NHK Let's天才てれびくん挿入歌)。2017年2月、iTunes Storeレコチョクで配信開始。

「キスミーきれいみー」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい、編曲:アーバンギャルド

◆おおくぼけい、園子温監督の スマホで撮ってスマホで観る映画「うふふん下北沢」に音楽で参加。2017年3月。https://chuun.ctv.co.jp/player/1148

KEYTALK CDアルバム『PARADISE』(VIZL-1123Getting Better)2017年3月15日リリース

14曲目の「story」に、おおくぼけいがピアノで参加。

◆広島ジュピター少年少女合唱団「命の手紙」(作詞:松永天馬、作曲:寺内大輔)2017年3月19日(日)・20日(月・祝)、広島国際会議場フェニックスホールで行われた第36回全日本少年少女合唱連盟全国大会「広島大会」エンディング曲として公開。

https://youtu.be/ZnOFYzYDYbI

◆おおくぼけい、2017年4月より放送の福山リョウコ原作のTVアニメ『覆面系ノイズ』の音楽(ピアノ)で参加。

◆『ユリイカ 平成29年4月号 特集 大森靖子』(青土社)2017年4月1日発行

松永天馬による「一月二七日、新宿」掲載。

◆CDライブアルバム『天使des悪魔 2016 XMAS SPECIAL HALL LIVE』初回限定特別価格盤(FBAC-020FABTONE.Ink)2017年4月12日リリース

「Overture」「あくまで悪魔」「傷だらけのマリア」「ワンピース心中」「ふぁむふぁたファンタジー」「水玉病」「アガペーソング」「天使にしやがれ」「都会のアリス」「大破壊交響楽」「堕天使ポップ」

◆CDライブアルバム『天使des悪魔 2016 XMAS SPECIAL HALL LIVE』通常盤[CD+DVD](FBAC-021FABTONE.Ink)2017年4月12日リリース

DVD

「Overture」「あくまで悪魔」「傷だらけのマリア」「ワンピース心中」「ふぁむふぁたファンタジー」「自撮入門」「ゾンビパウダー」「水玉病」「アガペーソング」「天使にしやがれ」「マイナンバーソング」「ロリィタ服と機関銃」「都会のアリス」「大破壊交響楽」「堕天使ポップ」「病めるアイドル」「いちご売れ」「あくまで悪魔」(Reprise)

映像特典「フリースタイルバトル:松永天馬VS松永天馬」「詩人狩り

CD

「Overture」「あくまで悪魔」「傷だらけのマリア」「ワンピース心中」「ふぁむふぁたファンタジー」「ゾンビパウダー」「水玉病」「アガペーソング」「天使にしやがれ」「箱男に訊け」「都会のアリス」「大破壊交響楽」「堕天使ポップ」「いちご売れ」「あくまで悪魔」(Reprise)

◆『天使des悪魔』TOWER RECORDS特典:TENSHI-BAN 天使盤

マイナンバーソング」「ロリィタ服と機関銃」のライブ音源

◆『天使des悪魔』Amazon特典:AKUMA-BAN 悪魔盤

「自撮入門」「病めるアイドル」のライブ音源

◆『天使des悪魔』VILLAGE VANGUARD特典:TENMA-BAN 天馬盤

「フリースタイルバトル:松永天馬VS松永天馬」「詩人狩り」のライブ音源

◆写真集 写真:青山裕企+モデル:浜崎容子+リュヌ他 『ネコとフトモモ』(新潮社)2017年4月15日初版発行

Various Artists CDアルバム『NHK Let's天才てれびくん サウンドトラック』(PCCG-01600ポニーキャニオン)2017年5月17日リリース

「キスミーきれいみー」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい、歌:ぱぺらぴこちゃん(浜崎容子))

◆真空ホロウ CDアルバム『いっそやみさえうけいれて』(BNSU-0001/ブランニューミュージック)2017年5月17日リリース

「ハートの噛み痕(feat.UCARY&THE VALENTINE)」(作詞:松永天馬、英詞:UCARY&THE VALENTINE、作曲:松本明人、編曲:真空ホロウ、歌:真空ホロウ)収録。

◆キノコホテル CDアルバム『プレイガール大魔境』初回盤[CD+DVD](KICS-93494KING RECORDS)2017年6月7日リリース

6曲目の「荒野へ」に、おおくぼけいがPIANOで参加。

◆『TV Bros.平成29年7月1日号 祝!創刊30周年記念特集』

松永天馬先生と考える「サブカル(とテレビブロス)のこれから」掲載。

◆松永天馬 CDアルバム『松永天馬』初回盤[CD+DVD](FBAC-025FABTONE.Ink)2017年7月26日リリース

Disk1 CD

「キスマーク/唇」(作詩:松永天馬、作曲・編曲:大谷能生

「Blood,Semen,and Death.」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:Noy Sirikullaya)

ラブハラスメント」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・Andrews Kimbell、編曲:Noy Sirikullaya)

「天馬のかぞえうた」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:Noy Sirikullaya)

「ぼくらの七日間恋愛」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:Noy Sirikullaya)

「ハートマーク/心臓」(作詩:松永天馬、作曲・編曲:大谷能生

「身体と歌だけの関係」(作詞・作曲:もりばやしみほ、編曲:Noy Sirikullaya、© 1995 by TV ASAHI MUSIC CO.,LTD)

Disk2 DVD

短編映画 「血、精液、そして死」

(監督・主演:松永天馬、助演:冨手麻妙、撮影監督:Ali(anttkc)=Takashi Alimura)

◆松永天馬 CDアルバム『松永天馬』通常盤(FBAC-026FABTONE.Ink)2017年7月26日リリース

「キスマーク/唇」(作詩:松永天馬、作曲・編曲:大谷能生

「Blood,Semen,and Death.」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:Noy Sirikullaya)

ラブハラスメント」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬・Andrews Kimbell、編曲:Noy Sirikullaya)

「天馬のかぞえうた」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:Noy Sirikullaya)

「ぼくらの七日間恋愛」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:Noy Sirikullaya)

「ハートマーク/心臓」(作詩:松永天馬、作曲・編曲:大谷能生

「身体と歌だけの関係」(作詞・作曲:もりばやしみほ、編曲:Noy Sirikullaya、© 1995 by TV ASAHI MUSIC CO.,LTD)

◆『松永天馬』TOWER RECORDS特典:オリジナルCD「あなたが歌う松永天馬」

ラブハラスメント(instrumental)」「Blood,Semen and Death. (instrumental)」

◆『松永天馬』VILLAGE VANGUARD特典:オリジナルZINE「転載禁止!血、精液、そして死。シナリオ」

初回DVD収録の映画の完全版シナリオ

◆『松永天馬』AMAZON特典:オリジナルDVDPoemVideo映像詩集」

CD収録「キスマーク/唇」「ハートマーク/心臓」二作朗読の映像化

◆おおくぼけい CDアルバム『20世紀のように』(FBAC-035FABTONE.Ink)2017年10月25日リリース

「Fuge」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「20 世紀のように」(作詞:Jon Underdown、作曲・編曲:おおくぼけい)

「Green」(作詞:Jon Underdown、作曲・編曲:おおくぼけい)

「建築」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「かがくの夢」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「20 世紀みたいに」(作詞・作曲・編曲:おおくぼけい)

「漂流」(作詞:Jon Underdown、作曲・編曲:おおくぼけい)

「抜糸」(作曲・編曲:おおくぼけい)

カナリア」(作詞:Jon Underdown・おおくぼけい、作曲・編曲:おおくぼけい)

Rampo」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「Vocalise No.1」(作曲・編曲:おおくぼけい)

◆『20世紀のように』TOWER RECORDS特典:オリジナルCD「目覚めない為に」

「放物線」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「ペンギン」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「Fuge(目覚めない為にver.)」(作曲・編曲:おおくぼけい)

ハジメテノコト」(作曲・編曲:おおくぼけい)

◆『20世紀のように』VILLAGE VANGUARD特典: オリジナルCD「夢をみない為に」

「ゴルジ体」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「象の国」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「Fuge(夢をみない為にver.)」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「雨、午後、君、いない」(作曲・編曲:おおくぼけい)

◆『20世紀のように』HMVライブ会場限定特典: オリジナルCD「夢をみる為に」

「スケッチブック」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「午後一時の庭」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「Fuge(夢をみる為にver.)」(作曲・編曲:おおくぼけい)

「Vocalise No.2」(作曲・編曲:おおくぼけい)

◆双子の魔法使い リコとグリ CDアルバム『アーモンドの涙』(TKPR-068TSUKINO)2017年10月27日リリース

リーゼ[CV:石川界人]「アーモンドの涙」(作詞:松永天馬、作曲:田中屋元、編曲:瀬々信)

◆『ファンクラブ会報:たのしい前衛2017 特集 KEKKONしようよ。』2017年11月発行

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