『精神(Geistes)の政治学』

(1)権力と理性の共犯関係

テオドール・アドルノとM・ホルクハイマーは、ナチスの政権掌握とともに、アメリカ・カルフォルニア州に亡命し、共同執筆と形で『啓蒙の弁証法』(岩波書店、<セレクション21>、徳永恂訳)を書いた。そこでは、啓蒙は神話から脱却し、自然支配を図る操作的態度と捉えられており、社会の政治・経済・宗教的領域における自由と解放を促すものとして評価されている。啓蒙とは、文字どおり「明るくすること」を語源とするだけに、それは当然のことだが、その進歩によって人間の野蛮さが消失するのではなく、逆説的に啓蒙による理智の増大化が、野蛮さの増大を招いてしまうと主張する点が重要である。
啓蒙の弁証法』によれば、「文明の歴史とは、供犠の内面化の歴史である。」とされ、近代人の理性の中に、サクリフィスの原理が組み込まれていることを暴露する。近代理性は、自立的=自律的なものから、道具的なものに変質し、理性もまた権力の機能の一部を担うものに転化している。そのため、全員一致で一人を殺すという供犠の仕掛け(その仕掛けの分析には、ルネ・ジラールの一連の仕事、例えば『身代わりの山羊』(法政大学出版会)が詳しい。)に、正当化の言葉を与える場合もある。また、理性は外的自然の支配に留まらず、人間の内部をも支配・管理するに至り、人間の自我は理性によって支配・管理・対象化しようとする自我と、支配・管理・対象化される具体的・経験的自我とに分裂し、最終的には、自分自身による自分自身の道具化へと行き着くに至る。理性による世界の支配は、市民社会による資本制(資本主義社会は厳密に言えば、主義ではなく、制度である。)において交換原理という形で浸透し、定着した。交換原理とは、一切を一元的な量的価値である貨幣に還元することによって、等価のモノ(単にマテリアルな物だけでなく、記号的な意味を付与されているため、ここではモノと表記する。)を交換ならしめる原理であり、交換原理は人間をも巻き込み、交換可能な人間、すなわち物象化された人間を生み出してゆくことに繋がる。近代市民社会の内部を貫徹するのは、同一性の価値観であり、質的差異を包含するのを許さない。質的差異を有するモノは、社会システムの第三項排除効果(供犠の原理を拡張し、資本制社会をも貫徹する第三項排除効果の原理として把握する学説については、今村仁司の『排除の構造』(ちくま学芸文庫)を参照されたい。)により排除される。質的差異を持つモノは、貨幣という量的差異に変換されることで、いわば毒を薄められるかたちで、社会システムの内部にエクスプロイット(開発=利用=搾取)される。この質的差異をなし崩しにしてゆくエクスプロイットの原理を、浅田彰は<クラインの壷>モデルで表現した。(浅田彰『構造と力~記号論をこえて』(勁草書房)参照。)

アドルノとホルクハイマーが抵抗しようとした従来の啓蒙観とは何か。啓蒙とは、イヌマエル・カントに従えば「人間が自らにその責任がある未成熟状態から脱却することである。未成熟とは他人の指導なしに自分の悟性を用いることのできない無能力である。」と規定される(『啓蒙とは何か』(岩波文庫)参照。)啓蒙とは、既成の社会的制度や慣習に対して、理性による批判の光を当てることであり、それによってホモ・サピエンスとして自律的=自立的に考え、行動できると考えられたのである。このような近代啓蒙主義は、生産主義的思考様式と手を携え、今日の科学の進歩と物質的繁栄を実現させるための進歩的イデオロギーとして機能してきた。生産主義的理性の信奉者からすれば、人間の持つ野蛮な側面は、何よりも無知が原因であり、啓蒙によって理性的な考え方が主流を占めるようになれば、野蛮ではなくなるだろう、ということになる。人々が労働を尊び、豊かな生活を築き、教育制度を万全なものにすれば、人間を苦しめてきた様々な問題(貧困・犯罪・戦争・病苦…)は、すべて消失し、明るい未来が待っているというのが、近代啓蒙主義と生産主義を支持する大多数の人々の考え方なのである。
アドルノとホルクハイマーは、ナチズムとファシズムの問題に直面し、これらを啓蒙の未完成段階におけるアクシデントにすることも、啓蒙の一時的錯誤とすることも拒否して、理性による人類の無限の進歩というイデオロギーに疑問符を投げかけたのである。理性の否定を唱えているわけではない。理性の中に、権力と共犯関係を持つ「同一性」の哲学が含まれていることが問題なのである。「同一性」の哲学は、共同体から差異=多様性を駆逐する。「同一性」の哲学は、突き詰めていえば全体主義の方向と矛盾しない。ここで、重要なのは、理性の体系、すなわち「同一性」の哲学を、他ならぬ理性の論理を突き詰め、形式化を徹底することによって(これは「形式化の諸問題」の頃の柄谷行人の主題でもある。)、理性の体系を内部から自己崩壊させること、それも単なる体系の破壊(ディストラクション)ではなく、その中から開かれた「差異性」の反哲学を救い出すことである。ここで、私はアドルノとホルクハイマーの議論を、彼らのフランクフルト学派の後継者であるハーバーマスの方でなく(ハーバーマスの議論は、共同体と対話による理性への信頼に支えられており、明らかなアドルノとホルクハイマーの議論の水準からの後退である。東浩紀風に言えば、それは自分の出した郵便物が確実に相手に届くという根拠のない信仰に基づいた議論である。)、ジャック・デリダ脱構築(ディコンストラクション)の考え方とその政治的実践版であるドゥルーズ=ガタリノマドジー的戦争機械に繋げてゆくことで、解決の糸口を探りたいのだが、議論を急がずに、心理学者フランクルの言葉をもとに、もう少しナチズムについて考えてみることにしよう。
心理学者ヴィクトール・フランクルは、ナチスによる強制収容所の体験記録『夜と霧~ドイツ強制収容所の体験記録』(みすず書房、霜山徳爾訳)の著者として、またロゴテラピーという実存分析療法を始めたことで知られる人物である。彼は『精神医学的人間像』(みすず書房宮本忠雄小田晋訳、45頁)の中で、次のように発言している。「アウシュビッツも、トレブリンカも、そしてマイダネックも、根本的にはベルリンの閣僚たちによって準備されたものではなく、まえもってニヒリスティクな科学者や哲学者の机の上や講堂のなかで準備されていたのです。」と。(参考:アラン・レネ監督作品『夜と霧』、北壮夫『夜と霧の隅で』)
これは何を言いたいのかというと、ナチスユダヤ人の大量虐殺を実行したのは、人間は血と土、要するに遺伝と環境で決まるという間違った考え方があったからだ、ということである。このように、人間を遺伝と環境の産物に過ぎないとか、条件反射のロボットに過ぎないとか、性的衝動を持った機械に過ぎないとか、あるいは経済的生産関係で全部決まってしまう存在に過ぎないとか、人間を抽象化・卑小化して「~に過ぎないもの」として理解することを、フランクルゲーテの『ファウスト』(岩波文庫他)のホムンクリスから取った造語ホムンクリスムス(人造人間合成術)=本質主義として批判する。フランクルの立場は、人間は主体的に自分自身を決定するという実存主義的立場であり、自己の内部でロゴスを開示させることによって、自己の本来性に目覚めさせ、実存的コンプレックス(自己実現を達成していないという不満)から来る神経症から患者を解放しようとしたのである。

 

(2)ハイデッガーの罪

だからといって、実存主義者と呼ばれた人のすべてが、反全体主義・反国家社会主義だったわけではない。カール・ヤスパースは一生涯リベラリストだったし、サルトルはその晩年マオ派のピエール・ヴィクトールと共同作業することになった(参考:シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『別れの儀式人文書院)のだが、一方、マルティン・ハイデッガーは、明らかに生粋のナチ、ファシストだった。ヴィクトル・ファリアスの『ハイデッガーとナチズム』(名古屋大学出版会、山本尤訳、118頁)というスキャンダラスな本を紐解けば、ハイデッガー国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)に入党したのが、1933年5月1日で、党員番号が3125894(バーデン地区)、1945年まで党員だった事実が分かるだろう。問題は時代と状況から仕方なくではなく、彼の哲学体系の深いところで結びついていたということである。
ハイデッガー自身は、自分の哲学を実存主義哲学ではないと考えていた。それゆえに『実存主義ヒューマニズムである』(人文書院)というジャン=ポール・サルトルに対して、『ヒューマニズムとはなにか』(角川文庫・ちくま学芸文庫)で反駁せねばならなかったのである。ハイデッガーの主著『存在と時間』(岩波文庫、桑木務訳)(中央公論社<中公バックス>原佑訳)(ちくま学芸文庫)は、あくまで基礎的存在論の構築が目的で執筆されたのであって、現存在(ダーザイン)の分析はそのための方法的手段に過ぎなかったのである。
ハイデッガーの抱えていた問いは、<存在スル>とは何を意味するかということであった。彼のテクニカル タームでは、存在者と存在(ザイン)が区別されており、存在者の中には現存在(すなわち私たち)や道具的存在など、すべての存在するものが含まれているコンセプトであるが、存在は存在者を存在者として存在せしめるもののことを示す。要するに、ハイデッガーサルトルによって無神論実存主義者に分類されたけれども、実は<存在>という哲学用語で、存在者の超越的根拠を、その体系の中に残していたのである。
ところで、存在は存在者とは異なり、己を秘匿し、隠蔽する性格があるので、存在について漠然としながらも了解している存在者、すなわち現存在=人間を取り上げ、現象学的分析にかけるというのが、ハイデッガーの選んだ方法である。その結果、現存在は世界内存在として世界に投げ込まれて存在しているという性格や、道具的存在や事物的存在との差異が明らかにされるとともに、現存在が他者とのかかわりのなかで、いつしか他者の支配に委ねられ、自己の本来性を忘れて世人(ダス・マン)に頽落する可能性が説かれる。ここで重要なのが、普段現存在は空談や好奇心にうつつを抜かして、自己の本来性を喪失し、他人と交換可能な誰でもいい誰かに陥っているが、自分が死なねばならないという限界意識と決意性に覚醒すると、自己の本来性に立ち返ると指摘していることである。すなわち、ハイデッガーは、存在とは何かという究極的な問いに答えるために、絶えず自分から危機を招き寄せ、張り詰めた空気の中で、極限の自由を感じなければならないということである。(ここで連想するのは三島由紀夫のケースである。彼は被虐性に快感を覚える聖セバスチャン・コンプレックスと男色嗜好を持っており、その自我は自分の生まれた光景を覚えているというほど虚偽で塗り固められた模造であり、世間体を守るために仮面をつけ偽装する狡猾さも備えていた。特攻隊に遅れてきた彼は空虚な自我を確信に変えるために、政治の場をパフォーマンスの場として利用し、嘘を真実だと自分に言い聞かせるべく自決を行うのである。)ハイデッガーは<死は最も高次な法廷である>とするが、それこそハイデッガーをナチの突撃隊SSに心理的に接近させている確信でもあるのだ。ヒットラーもまた自己拡大に取り憑かれていた。トゥーレ協会や地政学者ハウスホッファーの影響で、黒魔術にふけり、やがて黒魔術と占星術の知識を独占するためにオカルティストの禁圧に走るのである。ある意味でナチの中でもよりナチであったハイデッガーは、ナチスの不徹底ぶりのために党員を辞めた戦後も、ドイツの深い森の中で、アメリカナイズされ、故郷=存在を喪失した文化を断罪するのである。(『形而上学入門』(平凡社ライブラリー)参照。)
ハイデッガーの存在概念は、ドイツ文化の伝統への回帰という指向と、故郷への土着
性重視という側面を持っており、大地への属領化が彼を反動的にしたのである。ハイデッガーの哲学が、ナチズムに帰結したのは、必然と言わなければならない。今、必要なことは、資本制の自己解体システムより早く、かつファシズムを回避して未来を切り開くか、(この点で美学史におけるイタリア未来派が興味深い。彼らは強烈なポストモダン指向を持っていたが、ファシズムの美学に回収されてしまった。)である。その点で、ハイデッガーのケースは、反面教師として学ぶべきところがある。ジャン=フランソワ・リオタールの「漂流」の思想、ミッシェル・セールの「離脱」の思想、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの「逃走」の思想は、ハイデッガーの「存在」の思想とは逆の大地・体系的思考・共同体からの離脱と脱属領化のベクトルを持っている点で評価されなければならない。
ただ、ここで考えておくべきことは、私たちにとってはナチズムやファシズムを自明の悪であり、全人類に対する犯罪であるが、ハイデッガーのようなナチス党員やファシストは、自分の実践している大量虐殺・無差別攻撃・拷問・テロリズムは、選ばれた人間の至高の行為にして<善>として確信しているし、中には殺害それ自体に悦楽を感じる(言うまでもなく、脳内麻薬物質であるドーパミンがA10神経を走るからだが)ことに誇りすら持っている人間もいたはずだということである。(例えば、いまだに太平洋戦争当時の日本を、帝国主義的・(欧州諸国より一歩遅れた)植民地主義的領土拡大政策としてではなく、列国からの環太平洋・亜細亜地域の解放として正当化するロジックの内側にいる人がいるように。私は彼らを日本の恥辱と考えるが、ロジックの内部にいる彼らには、たとえ大量死の事実を突き付けたとしても見えないだろうし、外の論理など理解不能であろう。)一体、人間を呪縛する観念とは何か?観念=幻想の外部に脱出する可能性はあるのか?
私の考えでは、ほとんどの人間は観念に操られる自由を奪われた機械であり、主体性
を持たない(実存主義の前提の放棄)。正確に言えば、人は主体的であろうとすればするほど、自由ではなくなるというパラドキシカルな存在であるということだ。なぜなら、主体性とは、自分で自分を監視=管理すること(ここで私はルイ・アルチュセールAIE論やミシェル・フーコーパノプティコンを念頭において考えているのだ。)であり、自分の持っている観念に対して、忠実に、疑うこともせず、ロボットと化すことだからである。「人間は機械であり、<為すこと>ができない」と言ったのはロシアの神秘主義グルジェフであった。もし、人間が機械であることを止めようとするならば、自分が機械であることを知り、機械の法則を解読すると同時に、法則の裏をかく戦術をとらねばならない(主義ではない単なる実存的単独者としての再生)。システムの呪縛から逃れるために、絶えず自明とされてきた前提を疑い、外部に出るために移動し続けること。

 

(3)精神(ガイスト)の政治学とは

精神(ガイスト)の政治学が導入されるのは、人間が観念の操り人形であることに反旗
を翻した瞬間からである。いうまでもなく、精神(ガイスト)の政治学は、ヘーゲルの精神(ガイスト)の現象学に、権力装置批判の視点を導入し、内部から覆すという目論見ゆえの呼称である。観念はヴィールスのように、人間のインナーワールドに侵入し、増殖を繰り返し、やがては人間の全行動を支配するに至る(ウィリアム・S・バロウズのSF的視点)。この観念を析出し、社会システムのなかで人間をどのように配置しているかを明らかにし、反国家装置の立場から観念批判を企てるのが、精神(ガイスト)の政治学の役割である。
精神(ガイスト)の政治学は、権力の所在ではなく、権力がどのように機能しているか(それは『監獄の誕生』のフーコーの視点と基本的に同一である。)、欲望をいかにコード化しているか(それはドゥルーズ=ガタリやリオタールの立場と基本的に同一である。)、権力のエコノミーを明らかにしようとする。そのため精神(ガイスト)の政治学は、コギト=人間主体を学問の出発点とすることを拒否する。なぜなら、人間主体は権力の効果として形作られ、国家装置の中で機能しているという見逃すことのできない側面を有しているからである。
このような国家のイデオロギー装置(AIE)の側面に注目する視点は、ルイ・アルチュセールの『国家と国家のイデオロギー装置』(邦題:『国家とイデオロギー』福村出版、西川長夫訳)の延長線上にある考え方でもある。(アルチュセールは『マルクスのために』(人文書院平凡社ライブラリー)および『資本論を読む(バリバールらとの共著)』(合同出版、ちくま学芸文庫今村仁司訳)によってマルクスの新しい読み方を導入した。その方法とは人間中心主義的な初期マルクスと『ドイツ・イデオロギー』以降の後期マルクスとの間に<認識論的切断>があるとして「構造」論的パースペクティヴを導入した点にある。ただし、アルチュセール自身は知の組み合わせイデオロギーとしての構造主義を否定していた。『資本論を読む』の頃のアルチュセールは、やや理論偏重に傾いており、当時ジガ・ヴェルトフ集団で『東風』を撮っていたジャン=リュック・ゴダールに『資本論』第一巻を飛ばして読むように言った点を揶揄されている。『国家と国家のイデオロギー装置』は、その点に対する自己批判後の実践的な著作である。)
アルチュセールは、イデオロギーを(1)思想家などが自覚的・体系的に展開する理論的イデオロギーと、(2)日常の生活=実践と一体になっているために通常自覚されない実践的イデオロギーイデオロギー一般)と大別し、実践的イデオロギーを「諸個人の現実的な存在[生活]諸条件にたいするかれらの想像的関係の[についての]《表象》である。」とし、現実を「歪曲」するものとして捉える。アルチュセールの実践的イデオロギーの定義には、構造主義精神分析学者ジャック・ラカン象徴界想像界現実界という図式と、主体の生成に関する《鏡像段階》理論が大きく影響を与えている。ところで、観念的・想像的表象であるイデオロギーについて「物質的存在をもっている」という指摘をしていることに注目せねばならない。ヒトは日常的実践において、様々な慣習や儀礼を行っているが、これらの慣習や儀礼をあたり前のこととして、何の疑問もなくスムーズに機能させるのが、実践的イデオロギーの役割なのである。
アルチュセールは、国家を国家権力と国家装置に分ける。そして国家装置を物質的・
制度的抑圧装置と、国家のイデオロギー装置に分ける。国家の物質的・制度的抑圧装
置とは、政府・議会・裁判所・軍隊・警察などを指し、法的に統一されていることが特徴である。それに対して、国家のイデオロギー装置は、宗教的装置(日本の例:靖国神社護国神社)が・教育的装置・家族的装置・法律的装置・政治的装置・文化的装置等を示す。
これらには一見何の統一性もないが、これらすべてが一体となり機能を果たすとき、国家の抑圧装置が滑らかに進行することになる。
アルチュセールは、国家のイデオロギー装置の社会的・政治的機能を、生産関係と社
会的諸関係の再生産プロセスと、近代市民社会と国家との分離の再生産を円滑に進行
させることにあるとした。すなわち、教会・学校・家族などを通じて、ヒトは近代資本制型人間になるべく、主体化=内面化=隷属化されるのである。(生産がモノをつくることであるのに対し、再生産は子供をつくることと教育することを意味する。例えばマルクス主義フェミニスト上野千鶴子が、『資本制と家事労働』(海鳴社)で主に問題にするのは再生産の方である。)
アルチュセールが国家装置のイデオロギー機能面に光を当てたのは、非常に興味深いが、国家装置の本質を抑圧的と看做すマルクス主義的独断には、私は疑問を抱く。現
代の消費社会は、欲望の抑圧ではなく、逆にフェティシズムによって人間の欲望を引き出し、利潤に結びつけるということが行われている。精神(ガイスト)の政治学を打ち立てるには、社会における欲望の抑圧ではなく、社会はいかに欲望を扇動し、社会システムとそれを支える人間主体の再生産のために、欲望の開発=利用=搾取が行われているかが、問わなければならない。
私が主張する精神(ガイスト)の政治学は、ナチズム・ファシズムスターリン主義帝国主義植民地主義民族主義的ウルトラナショナリズム・カルト宗教の排他的選民主義等の権力思想を対象化する批判理論の総体である。アルチュセールは、マルクス主義弁証法=権力知の呪縛から解放するために、下部構造から上部構造への「重層的決定性」の理論や、マルクスへの影響関係で、ヘーゲルとは異なるエピクロススピノザのラインを強調したのだが、未だマルクス主義圏内の思想家であった人物であった。アルチュセールは、マルクス主義以外の思想を、冷静にイデオロギーに算入し、マルクス主義だけを特権視して、批判対象から除外するが、私はそのようなマルクス無誤謬主義とは無縁である。徹底した権力批判論=イデオロギー装置批判のためには、特別視する思想があってはならない。

 

(4)マルクス主義パラドックス

プラトン以来の西欧形而上学については、ジャック・デリダが「ロゴス中心主義=音声文字中心主義」のディコンストラクションという形で批判理論を展開しているが、ここではマルクス主義について再考してみたい。なぜなら、マルクス主義に基ずく国家のみが、地上に具現した哲学国家であり、近代理性を総結集してつくりあげたユートピア思想が、実は極限のアンチ・ユートピアを実現してしまうというパラドックスを顕在化させた実例だったからである。東欧の民主化ソ連の崩壊がなされた現在においても、北朝鮮などにおいて全体主義統制と専制君主的個人崇拝を正当化するイデオロギーとして機能しているという問題が残存している。
言うまでもなく、マルクスの弟子たちは、ソヴィエトにおいて、クロンシュタット等の民衆叛乱の弾圧・他党派の暴力による解体・一党独裁による恐怖政治・独裁者スターリンによる血の粛清・農業の強制集団化・「絶滅=労働収容所」(ソルジェニーツィン収容所群島新潮文庫木村浩訳、第三巻第三部参照)の形成、等々のテロリズムを「革命」の大義名分のもとで、無限に繰り返してきた。ソ連以外に眼を移しても、中国・ヴェトナム・カンボジア社会主義国間戦争や、カンボジアのポル=ポト派による大量虐殺、日本における連合赤軍事件に至るまで、現代マルクス主義の歴史は、おびただしい血の歴史だったということが了解できるだろう。(参考:笠井潔『テロルの現象学』作品社もしくはちくま学芸文庫、序章「観念の廃墟」)このようなマルクス主義の犯罪は、スターリンへの個人崇拝に還元できるものではなく、スターリンのような独裁者の出現を許し、一切のテロリズムを正当化してしまうマルクスの哲学体系に、究極的には人間の際限のない暴力にも、歴史主義的意味づけをし、倫理的にも絶対的な善として、それを成すことを人に強要する弁証法的思想に責任を追及すべきことなのである。
マルクス主義は、近代合理主義の頂点を成すヘーゲルの観念弁証法を、唯物論的に転倒させることで成立した社会思想である。ヘーゲル弁証法が、極限の自由の追求から思考を始めたとは裏腹に、最終的にはプロイセン国家の御教哲学として、絶対精神による無限の専制の正当化に論理的必然性をもって帰結したように、マルクス弁証法も、労働者がプロレタリアート化(対自的な階級意識を持ち、階級として一体化する段階に至ること)することによって、資本制社会の下部構造からの根源的変革=革命を企てようとするが、最終的には一党独裁による恐怖政治の歴史主義的観点からの全面的肯定に帰結してしまうのである。  

ここで、私はマルクス主義は、マルクス自身の当初のねらいに反して、最終的に必然性を持って、スターリンがいなければスターリンを作り出し、強制収容所を生み出すという見解を表明しておきたい。かつて、SF作家フィリップ・K・ディックは『聖なる侵入』(サンリオSF文庫、大瀧啓裕訳)(創元推理文庫、大瀧啓裕訳)において、カトリック教会と共産党が共同支配する地球に、神の子が再度侵入を試みるという設定を描いた。もし、マルクスが生き返って、再度自らのヴィジョンに基づいて作られた強制収容所国家を訪れたならば、真っ先に逮捕され、発言する前に死刑執行されるだろう。
ポル=ポト派による大虐殺や連合赤軍事件のようなテロリズムは、加害者による精神錯乱に原因があるのではなく、民衆憎悪・生活憎悪・肉体憎悪に裏打ちされた倫理的な強迫観念がそうさせたと考えるべきなのである。民衆のための革命が挫折することによって、民衆を憎悪し、暴力の矛先を民衆に向けることが、ラディカルな革命理念を体現するものに思われてくるのならば、その人は、観念的倒錯に陥っていると診断されるべきなのである。
すでに1870年代に、ドストエフスキーは、無神論的革命思想を、人間に取り憑く悪霊」に見立てて長編小説を描いている。その中の登場人物ピョートルの言葉を借りて、ドストエフスキー社会主義の戯画を描いている。(ドストエフスキー『悪霊』新潮文庫江川卓訳)(岩波文庫)(参考1:埴谷雄高ドストエフスキー』日本放送教会、143頁)(参考2:新潮社版カミュ全集第10巻121頁「悪霊」翻案)
「まず何より彼らに効果があるのは…他でもない官僚式です。(中略)それに次ぐ力
はもちろん感傷主義です。ねぇ、ロシアに社会主義が広まったのは、主として感傷主義
のためですからね。(中略)ところで、最後に最も重要な力は…他でもありません。自分自身の意見に対する羞恥です…これは一切を結合させるセメントです。」
ドストエフスキーは、社会主義の理念を「無限の自由から出発し」、「無限の専制主義をもって論を結」ぶものとして捉え、「十分の一だけの人が個性の自由を得て、残りの十分の九に対する無限の権力を享有する。そして、これらの十分の九はことごとく個性を失って、一種羊の群のようなものに化してしまい、絶対の服従裡に幾代かの改造を経たあと、ついに原始的天真爛漫の心境に到達」することを企てるものとして把握するのである。
私はマルクスに取り憑いた「悪霊」を、ヘーゲルテロリズムであると考える。ヘーゲルテロリズムとは、権力知としての弁証法である。弁証法的知的操作においては、「多様態」を、分裂し疎外された状態とネガティヴに捉え、再度「一」の状態=統一された状態を回復させようとする。しかし、「多様態」の方が自然本来の生産性を示す概念だとしたら、「一」の方が人工的秩序・権力の側となり、真の疎外態となる。弁証法的な思考の運動においては、絶えず差異・多様性・非同一性は、知のシステムの外部に排除され、排除された事実を含め抹消される。これが権力に奉仕すること以外の何を意味するというのか。
アルベール・カミュは『反抗的人間』(新潮社版カミュ全集第6巻)の中で、反抗的人間は、原則的に死に反対すると説き、《神》の代わりに、今度は《歴史》を絶対的価値にして、未来の人間の幸福の為ならば、今日何千、何万の人々の死もやむを得ないとするマルクス主義歴史観を批判した。問題はこのように殺人を正当化し、倫理的に殺人を要請する思想の基盤が、弁証法にあるということである。なぜなら、弁証法だけが歴史に目的があるかのような幻想を与え、なおかつ各人が社会の交換可能な歯車として、没個性化する代償として、社会の発展と進歩を推進しているという欺瞞的な生存根拠を与えることができるからである。  

マルクス主義をいかに始末するかというアポリアを抱えている吉本隆明ですら、『世界認識の方法』(中公文庫、98頁)を見ると、マルクス主義による抑圧的な社会体制を、マルクスの思想のレーニンらによるロシア的変形や、<アジア的>専制の残存のせいにして、マルクス自身の思想については責任を問わないという不徹底ぶりが見られる。第一、アジア的という概念自体、吉本も言うように「世界史の発展段階として、原始社会と古代社会の中間に位置する概念」であり、歴史主義的発展段階説を前提にしている概念である。それどころか「ヘーゲルの意志論の全領域は、社会の自然史的な考察の上にあるものとしてマルクスはそういうふうに整理付けた」として「マルクスヘーゲルをすこしも始末したり排除したりしないで、全部考察の対象として残していること」(同掲書、10頁)を評価するに至っては、私の持論であるテロリズムの原因をヘーゲルに見出す立場と正反対であり、幻想=観念に呪縛された人間を解放する指針としてはなり得ないように思われる。
ともかく、神なしに地上に楽園を創り出そうという社会主義の実験は失敗した。ここで「歴史の無意識としては、資本主義は、最高の作品である。」という吉本隆明の発言(F・ガタリとの対談『善悪を超えた「資本主義」の遊び方」』(『マリ・クレール』1987年4月号、中央公論社、303頁)や『いま、吉本隆明25時』(弓立社、383頁、もしくはカセットブック吉本隆明『文学論』弓立社Ⅱ-B)での発言)に同意してもいい。ただし、資本主義が社会主義との比較で、相対的に欲望の脱コード化が進んでいるという点からの評価であって、資本主義が絶対的に優れているということではない。第一、マルクス主義アポリアは、資本主義の脱コード化プロセスの極限として共産主義社会という夢をマルクスが思い描いたにもかかわらず、その教えに忠実に従った弟子たちが行ったのは、際限なく増大してゆく国家権力による欲望の超コード化だったという逆説にあるのではなかったか。
サルトルが掲げたテーゼ<マルクス主義はわれわれの時代の状況が乗り越えられない限り、乗り越え不可能な哲学でありつづける>を訂正するためには、マルクス主義を超える新たな一般システム論が提出されなければならない。
例えば、マルクス主義は国家権力として体現されるとともに、強制収容所を生み出す
というヌーヴォー・フィロゾフ=新哲学派(彼らの多くは、1968年5月のフランス5月革命の闘士であり、ソルジェニーツィンの『収容所群島』の衝撃から転向した人々である。
アンドレ・グリュックスマン、ベルナール・アンリ・レヴィらが該当する。)や、その日本版であるマルクス葬送派の立場は、一面では真実であるけれど、マルクス主義に代わる何かについては理論的に無内容であるために、単なる現状追認イデオロギーに堕する危険性をはらんでいる。要するに、ソ連崩壊と東欧の民主化によって、資本主義勢力の勝利と、政治理念と体制の選択をめぐって情熱が蕩尽される歴史が終焉し、後は退屈で凡庸な利害の技術的・計量的処理が残るだけというフランシス・フクヤマ(フランスのヘーゲル学者アレクサンドル・コジェーヴの弟子であり、アメリ国務省のイデオローグ)のような立場に、アンチテーゼをつきつけることができない点が問題なのである。


(5)(フロイト+マルクスニーチェ

私の立場は単純明快である。いかにしてファシズムの誘惑を回避しながら、資本主義的解体=脱コード化をリミットまで推し進めるか、ということである。それを理論化することが《ニーチェフロイトマルクス》から始まった西欧形而上学批判をさらに推し進めることにつながるのである。残念なことに、ジル・ドゥルーズが『ノマド(=遊牧民)的思考』(『現代思想青土社1984年9月号総特集ドゥルーズ=ガタリ、164頁)で指摘しているように、「マルクス主義の場合は、国家による再コード化(諸君は国家によって病んでいる。だから国家によって治るだろう。それは同じ国家ではないだろう。)」という罠に、「フロイト主義は、家族による再コード化(家族のせいで病んでいる。だから家族によって治る。同じ家族ではない。)」という罠に陥ったがゆえに、マルクス主義は「公的な官僚機構」に、フロイト主義は「私的な官僚機構」に道を開き、再度権力と共犯関係にある形而上学の閉域に回収されてしまったのである。従って、現在の課題は「反文明の黎明」である危険な思想家ニーチェの視点を実験的に導入し、国家と家庭を支える無意識のシステムに対して、根源的批判の鉄槌=ハンマーを下すことにある。
ところで、フリードリヒ・ニーチェは、様々な誤解と偏見に晒されてきた。そのため、ニーチェは、二つの像に分裂してしまった。1人めのニーチェ像は、反ユダヤ主義ニーチェの妹エリザベートによって捏造されたニーチェ像である。彼女はニーチェの遺稿を、自らの意図に合うように編集して『権力への意志』(ちくま学芸文庫)を、極端な権力志向と、排他的選民思想の書に仕立て上げてしまった。エリザベートニーチェは、やがてヒットラームッソリーニに愛用され、その後も戦争肯定や民族浄化を正当化する保守反動思想の温床となった。2人めのニーチェは、第二次世界大戦中のレジスタンス(抗独地下運動)のなかで、ファシストどもからニーチェを奪還するためにジョルジュ・バタイユピエール・クロソウスキーらが展開した『アセファル(無頭人)』誌(現代思潮社、兼子正勝・中沢信一・鈴木創士訳)でのニーチェの読み直し作業である。ここで、頭=独裁者=専制君主=神の首を切断するための武器としてのニーチェ哲学に探求の眼が向けられており、やがてバタイユの『無神学大全ニーチェについて』(現代思潮社)やクロソウスキーの『ニーチェと悪循環』(哲学書房、兼子正勝訳)として結実してゆくことになる。彼らの読み直し作業が、後にフーコードゥルーズ(『ニーチェと哲学』国文社および『ニーチェ朝日出版社またはちくま学芸文庫湯浅博雄訳)、ポール・ヴィリリオの仕事に影響を与えることになる。日本のニーチェ学者西尾幹二らが、(どういうわけか、新しい歴史教科書をつくる会とか、戦犯に共感を抱くある種のグループになりやすい傾向があるようだ。)この2つのニーチェ像の違いに自覚的かどうか、それは言うだけ野暮というものだろう。
したがって、ここで導入されるニーチェは、2人めのニーチェの方であるのはいうまでもない。(あるいはお好みに合わせて、ニーチェの代わりに、あらゆる官僚機構の敵としてのフランツ・カフカの視点を導入してもいいだろう。)こうして、フロイトマルクスの切り開いた知の暗黒大陸を、ニーチェ(あるいはカフカ)の視点で再検証する必要が出てきた。

 

(6)哺育器の中のホモ・デメンス

人間は本能の壊れた動物である。リビドーという生の根幹を成す性的エネルギーはあるが、そのエネルギーを発現する行動過程までは、先天的に遺伝情報としてプログラミングされていない。以上の事柄が精神分析学者岸田秀の唱える唯幻論の出発点となる人間認識である。(参考:岸田秀『幻想を語る』河出文庫全2巻)  岸田秀の考え方の基礎となっているのが、フロイト理論である。フロイトは人間の心的領域をsuper ego(超自我・上位自我)/ego(自我)/id・es(欲動)という無意識のレベルを含んだ重層的な構造として捉えていた。ところで精神分析の分野では、Instinkt/Trieb、あるいはinstinct/pulsionというふうに、生物の<本能>と、人間の<欲動>を区別している。本能という言葉は、生態系のシステムにかなう行動に導く有機体の先天的な情報制御機構に基づいた生命エネルギーを示し、欲動という言葉はどちらに走り出したらよいのかわからない錯乱した人間の本能を示している。
このようなペシミスティックな人間理解は、今日様々な学問領域で見られる見解であ
る。社会学者のエドガール・モランは『失われた範例』(法政大学出版会、古田幸男訳、144頁)の中で人間をホモ・デメンス(錯乱のヒト)と規定し、哲学者の中村雄二郎も『精神のトポス』(青土社河合隼雄との対談「夢の破片と夢の構造」、168頁)の中で「<狂った人間だけが頭で考える(プエブロ・インディアン)というのは、ちょっと凄いことですね。」と発現している。このような人間認識には、人間中心主義への反省という想いが込められいるということは言うまでもない。
さて、人間の本能が壊れていることは、いかなる事実から立証できるだろうか。コンラート・ローレンツも指摘していることだが、動物の世界では(例えばオオカミ)同種の動物同士では、威嚇や噛み付き合いは確かにするけれども、互いの優劣関係がはっきりすると、弱者は服従のポーズをとり、強者は攻撃をやめるというふうに、無用な殺戮を回避するプログラムが、あらかじめ本能の中に組み込まれている。それに対し、人間は『旧約聖書』の昔から、アブラハムが神への献身のために、息子を犠牲にしたとされているし、現代においてもナチズム・ファシズムスターリン主義マッカーシズム等々と、制御不能の攻撃性が荒れ狂い、ジェノサイドを現出させることも稀ではないのである。怒りの神を静めるために、または共同体の一致団結のために、スケープゴートを絶えず作り出し、死に追いやり続けてきた人類史の事実は、人間の精神の奥底にある妄想傾向を明らかにする鏡である。人間だけが、自分と同じ種を殺すことを禁ずる先天的プログラムの欠如した欠陥動物なのである。(最近では、この狂ったサルは、牛に人工飼料という形で共食い=カニバリズムをさせて、BSEを発現させてしまった。)
それでは、なぜ人間の本能は壊れてしまったのだろう。原因として考えられるのは、ボルクの幼態成熟(ネオテニー)説や、ポルトマンの早産説が考えられる。アーサー・ケストラーは『JANUS』(邦題『ホロン革命』工作舎田中三彦・吉岡圭子訳、27頁)の中で、人間の進化上の欠陥を「爬虫類型」の脳と「古代哺乳類型」の脳からなる<古い脳>と、人間独自の新皮質との同居から生ずる矛盾があるからだと考えた。洪積世後期に新皮質は爆発的成長を遂げたが、古い構造の中脳と新皮質の間の神経経路は不十分のままで、新皮質は古い脳の上に覆いかぶさってしまったという。人間の脳のニューロンの数と、シナプスの複雑な絡み合いと、ネオテニーのため誕生後もシナプスの多くが形成されるという事実を考え合わせると、人間の本能が壊れたのも無理はないと考えられる。しかし、人間の新皮質の(腫瘍のような)爆発的増殖は何によってなのか?氷河期をサバイバルするために、共食いが必要だったからなのか?筆者は、進化論としては「なるべくしてなった」と見る今西進化論よりも、レトロ(逆転写)ウィルスによる人間の遺伝情報の書き換えに進化の原因をみるウィルス進化論に説得力を感じているが、それならばある種のウィルスが人間の根源的暴力に介在しているのか?
生物一般に関して言えば、本能に従って生きることが、エコシステムの中で共生してゆく道に繋がる。しかし、人間は本能の壊れたホモ・デメンスであるがゆえに、あらかじめエコシステムの中に帰還することを禁じられた存在である。錯乱したヒトは「想像界」で繰広げられる欲動のために、あらゆる事物が多義的なサンス(意味)=シーニュ(記号)を帯びて見えるので、他の生物のように「現実界」を見通すことができない。「現実界」は、人間の心的領域の外部に、カントの物自体のように認識不能なものとして、現実に存在する。しかし、流動する無意識のカオスの渦に巻き込まれたヒトは、恐れと不安を抱かずにいられない。そこで要請されるのは、文化=象徴秩序による欲望のコード化である。ヒトは自らの身体・住居・宇宙に象徴的な秩序の刻印を焼き付けて、人間が住むにふさわしい世界=人間的自然を創造するのである。
文化人類学クロード・レヴィ=ストロースは、『悲しき南回帰線』(講談社文庫、室淳介訳、上巻272頁)の中で、自らの顔に絵を抱く南米のカドゥヴェオ族について報告しているが、彼らの理屈では「人間である証拠に体に絵を描く。自然のままの状態にいるのは畜生と変わりない。」ということになる。文化=象徴秩序の働きが、自然とは異なる人間のコスモロジーを構築する企てであることは、ここからも見てとれる。
一般化するならば、文化=象徴秩序とは幼態成熟(または早産)したホモ・デメンスを、
一生入れておく哺育器であるということになる。その機能は過剰なエネルギーはあるが、ベクトルの向きの定まらない欲望をcコード化し、方向を与えてやることにある。フロイドによれば人間は本来多型倒錯であり、正常は何かということも象徴秩序が後から与える虚構なのである。ポランニー派経済人類学者の栗本慎一郎は『象徴としての経済』(角川文庫、138頁)で、ホモセクシャルの関係を持たない成人男子を「異常」扱いする北アフリカのシワン族のことを報告している。つまり「正常」とは何かはそれ自体で決定されるのではなく、「異常」との差異があって、「正常」の意味内容(シニフィエ)が決定されるのであり、一切は実体のない幻想(=空)なのである。
さらに象徴秩序について分析を続けよう。ルーマニア宗教学者ミルチャ・エリアー
デは『聖と俗』(法政大学出版会、風間敏夫訳)で、宗教的人間の住むことのできる聖なる空間=コスモスは、俗なる空間=カオスと質的差異があると主張する。エリアーデは聖なる力が自らを現すことを聖体示現ヒエロファニーと呼び、未知の土地は世界の中心軸を固有点として、聖なる力によって秩序られることによって、初めて宗教的人間の住むことのできるコスモスになるのだとした。世界の中心軸となることが多いのが、巨大な樹木である。巨大な樹木は、大地から天空に向けて浄化されてゆく過程を象徴的に表すとともに、宇宙を支える柱のイメージをも人間に抱かせるからである。(ここで大江健三郎のレイン・ツリーのイメージをオーバーラップさせてもいい。)コスモスの外部に広がるのは得体の知れないカオスの闇であり、宗教的人間は共同体の外部に不安と恐れを抱かずにいられない。一方、俗なる人間は聖なる力を感じる能力がないため、事物に対しては象徴的な意味付与を行わない。俗なる人間の問題点は、生存の意味の欠如、ニヒリズムによる心の荒廃であろう。  

このようにエリアーデの聖俗理論は、聖=コスモスと、俗=カオスの二元論から成り立っている。だが、社会学の分野では、デュルケムの集合的沸騰=聖=カオスと、世俗的日常=俗=コスモス、マックス・ウェーバーのカリスマ=聖=カオスと、その制度化=俗=コスモスという具合に、世俗的日常の方を秩序立ったコスモスと看做すのが一般的である。そこで、宗教学と社会学を統一的パースペクティヴで捉えるために、上野千鶴子の論文「カオス/コスモス/ノモス」(『構造主義の冒険』勁草書房、27頁に収録)に従って、世俗的日常の構造をノモス、聖なる空間をコスモス、両者のカテゴリーに入らない反構造をカオスとしよう。

 

(7)構造主義とは何か

さて、文化=象徴秩序はノモスとコスモスに分類できることを述べたが、こうした文化=象徴秩序の解明に最も成果をあげたのが、構造主義的研究方法であった。構造主義
は、文化人類学(レヴィ=ストロース)、哲学・歴史学(フーコー)、精神分析学(ラカン)、マルクス主義(アルチュセール)、新批評ヌーヴェル・クリティック(ロラン・バルト)など多方面に渡っており、その構造概念も一様ではない。研究方法の共通点をあげると、全体に実体があると看做すホーリズムでもなく、個に実体があると看做すアトミズムでもなく、世界を諸関係のネットワークで捉えようとする点があげられる。哲学者廣松渉の術語に言い換えれば、物的世界観(実体論)から、事的世界観(関係論)へのパラダイム シフトを可能にしたのが構造論的アプローチの最大の特徴ということになる。第二にデカルトからサルトルまでの哲学の伝統では、コギト=主体がア・プリオリに存在することから、すべての論理を展開するという物語となっていたが、構造主義では人間主体は何者かに操作されていると看做し、その何者かを言語・無意識・経済的社会的諸関係等の深層構造に見出そうとする。例えばジャック・ラカン鏡像段階理論では、人間主体という幻想は、生後6カ月から18 カ月の幼児が鏡の中の自分の像を、自分のものとして、身体の統一性を想像的に把握することで、後天的に捏造される観念なのである。従って、構造論的アプローチでは、人間主体をかっこで括り、見えない構造を見えるモデルとして提示することにウェイトをおくのである。
  構造主義インパクトを与えたのは、言語学者で記号論の祖であるフェルディナン・ソシュールである。ソシュールは「文化の中の諸記号」ではなく、「文化という記号」を問題にする。ソシュールの思想の重要点は、次の三点である。第一に一つの記号(シーニュ)において、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の関係は恣意的である。例えば、具体的な「犬」に対して、dogという国もあれば、chienという国もあり、具体的な犬という概念と、音声による表現は恣意的であるが、文化の取り決めで恣意的必然に転化しているといえる。なお、シニフィアンシニフィエは分離不能である。第二に、シーニュの意味は、それ自体であるのではなく、シニフィアンシニフィアンの差異性があって意味が析出されてくる。例えば、白と黒という言葉はあるが、その中間の灰色という言葉を持たない民族がいて、灰色も黒という言葉で表現していた場合、その人たちにgrayという言葉を教えるにはどうすればいいのか?おそらく、灰色のものを何百・何千と並べて「これらをgrayと言う。」と教えても、その人たちはgrayを黒のことを意味すると思うだけである。彼らに教えるには、黒いものと灰色のものを例示しながら、blackとgrayの差異性を教えることによって初めて可能であろう。ここから、ソシュールの関係論的見方が出てくるのである。第三に完結した差異の体系は、一挙に与えなければならないので、通時態よりも、共時態を重視する共時言語学の成立根拠となる。以上、「恣意性・差異性・共時性」の三点が、構造主義成立の鍵となった考え方である。なお、晩年のソシュールアナグラムの研究を通して、構造変動論に道を開こうとしてきたことは、フランス文学者・言語学者の丸山圭三郎(竹田青嗣との対談『<現在>との対話2 記号学批判』作品社、10頁)やウランスの社会学者ジャン・ボードリヤール(『象徴交換と死』ちくま学芸文庫)が指摘しているとおりである。
人間は言語に縛られる動物である以上、ソシュールの理論は社会システム論にも敷衍し得るはずである。レヴィ=ストロースは、ソシュールの構造論的パースペクティヴを、未開社会のトーテミスムの解明に応用しようとした。トーテミスムとは、各氏族がある動植物等を自らの祖先とし、氏族を示すシンボルとしたり、トーテムとなった動植物等を礼拝し、殺生を禁じ採食を禁じたりするものである。逆に、祝祭の際には、氏族全員でtotemである動植物を共食し、体内に摂取したり、また、婚姻関係を氏族外の異なるトーテムの男女間で行う規則も見られる。
従来の機能主義学説では、氏族の生存のために、貴重な食料源である動植物を採り過ぎないようにしているとか、トーテム崇拝によって共同体の連帯を高め合ったとかの説明を加えてきた。しかし、トーテムに選ばれるのは、食べ物に限らず「北風」であったり、「ハエ」や「カ」であったりして、機能主義では説明のつかないことが多かった。
レヴィ=ストロースの方法は、もしトーテムが未開社会における記号であるならば、その記号的意味は他の記号との差異で決定されるので、記号の集合全体を検討しなければならないという発想から出発している。例えば、熊をトーテムとしている氏族は、外に眼を向ければ、亀をトーテムとしている氏族や鷹をトーテムとする氏族を含む社会空間の中で生活しているわけで、ここで熊/亀/鷹の三項からなる示差的な記号的意味を解読するならば、陸/水/空をそれぞれ象徴としていることが理解されよう。すなわち、構造主義の方法では、記号は記号として、複雑なものは複雑なまま、考えられた系をそのまま捉えようとする点で、実践の体系である生きられた系に還元して社会現象を理解しようとする機能主義と根本的に異なるのである。


(8)ポスト構造主義の冒険

次に構造主義の方法を発展させて、現代社会の分析を行うポスト(後期)構造主義
試みについて考えてみたい。
ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは『アンチ・オイデイプス』(河出書房新社、市倉宏裕訳、172頁)第三章「野生人・野蛮人・文明人」において、世界史を欲望の脱コード化プロセスとして捉え、社会システムを(1)野生の原始土地機械(コード化社会)、(2)野蛮の専制君主機械(超コード化社会)、(3)文明の資本主義機械(公理系によって制限された脱コード化社会)という三つの理念系に類別し、脱コード化プロセスの極限に、リゾーム=根茎(制限なき脱コード化社会)を掲げてみせた。彼らの描いたヴィジョンでは、様々な社会機械が同時に存在し、社会機械間の戦争や交易を含めた広義の<交通>の場から、事態が進行するという世界観となっている。
レヴィ=ストロースは、熱力学の比喩を使って、自身の構造人類学の扱った未開社会
を歴史的変動のない「冷たい社会」と呼んだ(ジョルジュ・シャンボニエ『レヴィ=ストロースとの対話』みすず書房、多田智満子訳、31頁)が、「熱い社会」である資本主義社会の解明についてはブラック ボックスのままであった。ドゥルーズ=ガタリのいう野生の原始土地機械(コード化社会)は、レヴィ=ストロースの言った「冷たい社会」を指す概念といえる。ただし、ドゥルーズ=ガタリは原始共同体を<国家に抗する社会>として捉えるピエール・クラストルの見解に組しており、一見冷たい社会と見える未開社会にも熱い運動を読み取ろうとしている。  

コード化社会では氏族と氏族の間で、贈与の円環が一般交換として定式化しており、婚姻(=女性の贈与)もまた一般交換の法則にしたがって、氏族から他の氏族に円環状になされるのであり、物品の贈与がこのとき逆方向の円環を描くことになる。氏族内の近親婚が忌避されるのは、女性の交換が規定されいるとするのが、レヴィ=ストロースの立場である。だが、贈物は単なる物ではなく、特殊な力を帯びたモノであり、<贈与の一撃> を加えることで、被贈与者に贈与者に対する負債の意識を持たせることになる。負債の意識からの解放は、他の氏族に対して<贈与の一撃>を加えることで達成される。より大きいダメージを相手に与えるためには、貴重なものを相手に与えたり、重要な生活財を相手の眼の前で破壊したりすればいい。では、このような儀礼的贈与や、北米原住民のポトラッチはどう捉えればいいのか?ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分~普遍経済学の試み』(二見書房、生田耕作訳)では、太陽から供給されるエネルギーは、地上の生命体が成長するのに必要な量より遥かに過剰であり、成長の限界に対すると、逆にエネルギーは生命の破壊方向に働いてしまうので、人間存在は過剰なエネルギーを、戦争や祝祭、生殖と結びつかないエロティシズムの領域で、無意味に、かつ無目的に、消費=蕩尽せねばならないという呪われた宿命があり、儀礼的贈与やポトラッチも過剰な力を消尽する方法と解されるのである。
コード化社会では、人間の過剰な欲動が、平面的に大地に張り付いた形でコード化さ
れている。それに対して超コード化社会では、トゥリー上のハイアラーキーとなっており、三次元の円錐モデルで表現可能である。例えば、ルイ・アルチュセールが『国家と国家のイデオロギー装置』で描いているのは、超コード化社会での主体形成プロセスの説明にふさわしい。
イデオロギーの二重化された反射的な構造は以下の四項目を同時に保証する。一、諸主体としての諸《個人》に呼びかけること。二、かれらを(大文字の)主体に従わせること。三、(小文字の)諸主体と(大文字の)主体の間における、また諸主体自身の間における相互的承認。四、こうしてすべてはうまくいく。また諸主体はかれらが何者であり、したがって何者として振舞っているかを知っているという条件ですべてにうまくいく。つまり《かくあれかし(アーメン)!》となることの絶対的保証。」
アルチュセールの描いている社会装置は、資本主義社会の社会構造であると同時に欲望の再属領化をねらうナショナリストたちのアルカイックな社会モデルといえる。
超コード化社会の円錐の頂点に来るのが、抽象的に言えば超越論的シニフィアンであり、大文字の主体=特権化された第三項である。具体的に言えば、絶対的唯一神であり、絶対君主であり、父権制社会での父である。大文字の主体は、メタ レベルの高み
から、小文字の諸主体のいるオブジェクト レベルの平面に対して作用を及ぼし、各人は絶対者に対しての無限の負債を内面化し、大文字の主体の命ずる自己同一性を受け
入れ、最終的に自分で自分を監視するに至る。こうして超コード化社会は、経済的=効率的に、権力を機能させるのである。
超コード化社会では、普段は日常的でスタティックな秩序が保たれているが、周期的
に非日常的な祝祭が行われ、価値体系が逆転する。すなわち、象徴的な王殺しや、トリックスターによる乱痴気騒ぎなどを通して、古びた社会秩序にショック療法が加えられ、社会システムが再活性化されるのである。これら超コード化社会自体の「死と再生」のサイクルの説明については、文化記号論が成果を収めてきた。例えば、ジュリア・クリステヴァは『詩的言語の革命』(勁草書房)において、記号象徴態(ル・サンボリック)と原記号態(ル・セミオティック)の二元論に基づく弁証法的運動を説いた。ル・セミオティックは鏡像段階以前の想像界における過剰な欲動を記号の生成という観点から捉えた概念であり、ル・サンボリックは象徴秩序=構造のことである。また、文化人類学者の山口昌男は『文化と両義性』(岩波書店、66頁「混沌と秩序の弁証法」、岩波現代文庫)において、中心-周縁理論を確立し、以降、様々な文化事象に対して軽快なフットワークで中心-周縁理論を適用した解明を行ってゆくことになる。彼の中心-周縁理論は、『万延元年のフットボール』(講談社文芸文庫)を上梓していた大江健三郎の四国の森を舞台にした死と再生の物語とoverlapする面が多く、互いに影響を受け合い、日本の戦後文化をリードしてゆくことになる。ところで、山口の周縁概念には、共同体の外部は入っていなかったが、『流行論』(朝日出版社週刊本)で外部を含める修正を行っている。
では、最後に文明の資本主義機械(相対的脱コード化社会)とは、どんな社会システムであろうか?相対的脱コード化社会の最大の特徴は、超越的シニフィアンの不在である。要するに、近代は神が死に、王の首がギロチンにかけられ、父がものわかりのいいパパになったときに誕生したということである。相対的脱code化社会に対して、禁制と侵犯の弁証法も、中心-周縁理論も、ル・サンボリック/ル・セミオティックの弁証法も、もはや変革のインパクトを持ち得ない。なぜなら、資本制社会=消費社会とは、システムの解体を常態化し、日常的に消費生活の場で祝祭を繰広げている怪物のようなシステムだからである。資本制社会はシステムの外部からの侵犯に対して、文化という記号の質的
差異を、貨幣という量的差異からなる価値に還元=翻訳して、無害化し、骨抜きにしたあとで、消費の活性化のために開発=利用=搾取するのである。(この資本主義のモデルを、浅田彰は《クラインの壷》で示したのである。外部と思われたものが、いつのまにか内部に巻き込まれいるという奇妙な立体。)今日、消費拡大のためには、広告における商品の付加イメージの差異化=差別化(記号論的演出)は不可欠であり、差別化の追求の果てに、差別化を行わないこと(派手な広告を一切取り除くとか、反消費的なエコロジーという記号を付加するとか)も、差別化の切り札のひとつとして使用している。
問題は、資本制社会が《公理系》によって相対的な脱コード化に留まっており、絶対
的な脱コード化(リゾーム=根茎)に到達できないことである。《公理系》とは、われわれの欲動の方向を、資本にとって都合のいい方向、利潤を上げる方向だけに縛り付けている不可視の論理のことである。一方、ドゥルーズ=ガタリが掲げたリゾーム=根茎というモデルは、トゥリー(樹木)のように一点から枝分かれしてゆく権力のシステムではなく、脱中心的で複雑に成長してゆく反権力のネットワークのことである。(参考:ドゥルーズ=ガタリリゾーム朝日出版社豊崎光一訳、『エピステーメー』昭和52年10月臨時増刊号および昭和62年6月復刻改訂版、なお現在ではジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『ミル・プラトー河出書房新社の序章として読める。)
資本制社会では、唯一貨幣が価値基準となりうるが、決して金本位制における金のようにメタレベルの高みから、一切を価値の秩序体系に構成するといった性格のものではない。貨幣は貯蔵されるものではなく、オブジェクト レベルに再投資されて商品に化身し、今度はメタ レベルに飛躍して、再度貨幣にならなければならない性格を持っている。兌換貨幣のように金とリンクされていない現在の貨幣は、原理上無限の売りと買いをつづけてゆくという保証はない。だが、明日も、そのまた明日もこの貨幣には一般受容性があるだろうという信仰の為、今のところ何もなかったかのように事態は進行している。
さて、このような資本主義社会にふさわしい人間を再生産しているのが、家族という
制度である。精神分析の立場からすると、人間は本能の壊れた欠陥動物であり、幼児
は出生によって失われた全体性を取り戻すために、母と合一を図る。この主体と外界との間に溝のない母と子の融合状態を、対象のない(対象が分化していない)状態、またはクリステヴァが『恐怖の権力』(法政大学出版局、枝川昌雄訳、60頁)で使った用語を適用すれば「一次的ナルシズム」と名付けよう。前主体が一次的ナルシズムの状態から抜け出さなければば、欲動は表象と結びつかず、語る主体としての一歩が踏み出されないので、ある時点で母と分離・アブジェクシオン(棄却)して、対象として距離を置いて見る原抑圧がなされなければならない。ラカン理論では、そこで父が登場し、父は社会的・文化的規範として、母子の間に介入し、その直接的合一を禁止する。つまり、父は法であり、権威であり、専制君主として家庭内に君臨し、欲動の流れをせき止めようとする。ここから、エディプス コンプレックスが生じるというのが、フロイド派精神分析の立場である。
精神分析は、神経症などの症状に対して、幼年期のトラウマなどを検証し、潜在意識におけるエディプス コンプレックスを、患者本人の意識に再認識させようとする。
これに対し、ドゥルーズ=ガタリのスキゾ・アナリーズでは、家族を欲動の流れを規制する整流器と看做し、家族の三角形の中で内面化=主体化=エディプス化されることで、自己の自己に対する負債を覚え、資本主義型人間にされて、競争社会の中に投入されると考える。彼らの立場からすると、精神分析は資本主義の権力と共犯関係を持ち、反社会的でスキゾフレニックな脱属領化の欲望を、再度システムに回収する制度と捉えられる。