「荒野のヒーロー」、何を間違ったか、お気に入りランキング(週間):34位(全12,303曲中)

http://players.music-eclub.com/players/Song_detail.php3?song_id=50401
昨日の順位でも驚いていたのですが、今日確認するとさらに伸びていました。
お気に入りランキング(週間):34位
というわけで、今日ならば
http://players.music-eclub.com/players/Song_ranking.php3?original=1&ranking=1&genre=&genre_category=&page=2
に入っています。(明日は知りません。)
ちなみに、「荒野のヒーロー」より上位の曲で、2曲ほど私自身がお気に入りに選んでいる曲があります。しかしながら、これらをお気に入りから外す予定は、今のところありません。
お気に入りランキング(累計):4,358位
試聴ランキング(週間):214位
試聴ランキング(累計):11,601位
公開開始が2005年1月5日なので、まだ一週間に達していないわけですが。
ページを確認していただければわかるように、別に楽しい歌でも、それほどロマンチツクな歌でもありません。
ということは、作曲(5拍子のラップ・ミュージック)が良かったということになります。

アレクセイの花園 http://8010.teacup.com/aleksey/bbs に、「幻視のリレーを引き継ぐものは?」を投稿。

以下は、その原文。
埴谷雄高著『幻視の詩学〜わたしのなかの詩と詩人』(思潮社・詩の森文庫)の解説は、齋藤慎爾さんがされていますが、二箇所に渉って笠井潔さんの評論を引用されています。一箇所目は埴谷さんが『死霊』の完成に注いだ60年という年月は、ゲーテが『ファウスト』、プルーストが『失われた時を求めて』に費やした年月を凌駕するという趣旨のもので、二箇所目は「全宇宙に匹敵する特権的な<その一語>」を求めようとするマラルメ的願望を埴谷さんが持っていたというものです。

中井英夫全集[1]虚無への供物』(創元ライブラリ)の付録3にも、埴谷さんの『虚無への供物』の推薦文「文学の特別席」とならんで、齋藤さんの「塔晶夫へのオード」が並んでおり、齋藤さんが三島由紀夫澁澤龍彦埴谷雄高中井英夫らの文学を高く評価していることが伺えます。笠井さんは、『テロルの現象学』の時から、埴谷さんの評論についてテロリズムの難問に取り組み、それを克服しようとした思想ということで言及しており、その後も『死霊』について一冊の本の中に全世界の意味を封じ込めようとする試みとしてたびたび論及しており、齋藤さんの目を引くことになったのだと思います。
テロルの現象学―観念批判論序説

テロルの現象学―観念批判論序説

死霊(1) (講談社文芸文庫)

死霊(1) (講談社文芸文庫)

齋藤さんの文章を読みながら考えたことは、例えば笠井さんが『天使/黙示/薔薇』(矢吹駆初期三部作)と『テロルの現象学』だけを書いただけで夭折していれば、埴谷雄高中井英夫らの系譜に立つマイナーな作家として評価することも可能だったのかも知れませんが、現在のポジションはそれとは正反対の本格ミステリ界のインサイダーであり、理論を用いて本格ミステリ界を組織化しておこうという立場であり、権力として機能してしまっているということです。
天使/黙示/薔薇
天使・黙示・薔薇―笠井潔探偵小説集

天使・黙示・薔薇―笠井潔探偵小説集

吉本隆明さんの『悪人正機』(聞き手:糸井重里)に、次のようなくだりがあります。
悪人正機
悪人正機 (新潮文庫)

悪人正機 (新潮文庫)

「詩の世界って、たくさん賞があるんです。もういろいろあってさ。で、他のジャンルではそんなことはないんだけど、選者が自分たちでもらっちゃうんだよ。かわりばんこみたいにして。
この貧しさがかなわねえなって。」(新潮文庫版、P75参照のこと)
これを次のように、改ざんして読んでみましょう。
「ミステリの世界って、たくさん賞があるんです。もういろいろあってさ。詩のジャンルだけじゃないんですよ。賞を制定した人たちが自分たちでもらっちゃうんだよ。かわりぱんこみたいにして。
この卑劣さがかなわねぇなって。」

Coliwiki http://www.wikihouse.com/coliwiki/index.php?Coliwiki にウスペンスキーの項を執筆。

以下は、その原文。
ビョートル・デミアノヴィッチ・ウスペンスキー。神秘思想家。1878年5月5日、モスクワ生まれ。両親は知識階級、父は測量工務関係の役人だったらしい。5歳頃からツルゲーネフレールモントフの文学を読み出す。学校になじめず、中等学校を中途退学。モスクワ大学等で聴講生として自然科学関係の講義を受講する。正規の大卒資格はなく、彼の自然科学・数学・神秘学の教養は独学によるもの。1905年、新聞社に就職。1907年、神智学協会に接触、文献を読む。1906年、友人と中近東、トルコ、ギリシア、エジプト旅行。その後、ペテルスブルグに住居を移転、神智学協会に加入。1909年『第四次元』を刊行、これに続き『超人論』、『ヨーガとは何か』、『タロットのシンボリズム』を発表。これらは、後に加筆・訂正され、『新しい宇宙像』して再編集される。1912年『ターシャム・オルガヌム[第三の思考規範]』を刊行。これはアリストテレスの『オルガノン(論理学)』、フランシス・ベーコンの『ノヴム・オルガヌム(新オルガノン)』に続く第三オルガノンとして構想され、数学における第四次元の思想と、高次の宇宙意識に至る神秘主義を結びつける試みである。
次第に欧米にも知られるようになり、1913年に『タロットのシンボリズム』が英訳される。1913年、取材目的で新聞社から資金を受け取り、東方旅行。パリ、ジェノヴァ、カイロ、セイロン、インド、ボンペイ、アグラ、デリーを転々とする。旅の途中、ロンドンで神智学協会会員のA・R・オレージと会う。神智学協会本部のあるマドラス郊外アディヤールに滞在したり、ラーマクリシュナの信奉者のスクールなどに立ち寄る。1914年末、第一次世界大戦が勃発、コロンボよりロシアに緊急帰国。1915年、G・I・グルジェフの主宰するスクールに加わる。(G・I・グルジェフは、1913年頃からモスクワで活動を開始していた。)
ロシア革命が起き、神秘主義関係の研究を発表することができなくなったウスペンスキーは、1920年イギリスに亡命する。同年、『ターシャーム・オルガヌム』の英訳が刊行される。1921年、ロンドンで講演を数多く行い、『ニュー・エイジ』編集長A・R・オレージ、評論家ジョン・M・マリー、その妻で作家のキャサリンマンスフィールド、作家J・B・プリーストリー、作家オルダス・ハックスレーらが聴講。A・R・オレージとキャサリンマンスフィールドは、ウスペンスキーの影響で、フォンテーヌブローのG・I・グルジェフのもとに向かい、A・R・オレージはG・I・グルジェフの思想のアメリカへの紹介者になり、キャサリンマンスフィールドは生涯フォンテーヌブローで暮らすようになる。
1924年、G・I・グルジェフと離反、ウスペンスキーはロンドンでワークを続けた。その後、弟子が増え、1935年南英サリー州ヴァージン・ウォーターに移住、リン・プレイスという屋敷に住む。『奇蹟を求めて』、『イワン・オソーキンの不思議な一生』、『人間に可能な進化の心理学』を執筆。1940年、アメリカでワークを指導。1947年、イギリスに帰国、10月2日、リン・プレイスで死去。
[主要著作]
『奇蹟を求めて グルジェフの神秘宇宙論』(浅井雅志訳/平河出版社)
『ターシャム・オルガヌム 第三の思考規範 世界の謎への鍵』(高橋弘泰訳/小森健太朗解説/コスモス・ライブラリー)
『新しい宇宙像 上・下』(高橋弘泰訳/コスモス・ライブラリー)
『人間に可能な進化の心理学』(前田樹子訳/めるくまーる社)
[関連HP]
P.D.ウスペンスキーの世界 http://homepage1.nifty.com/pdo/ 高橋弘泰氏のHP