『僕の叔父さん 網野善彦』を読む

現在、中沢新一による『僕の叔父さん 網野善彦』を読み終えたところです。思想書でありながら、読んだあとにじーんと心に染みてくるのは、この文章が追悼文が発展してできたからでしょうか。網野さんとの初めての出会いから、トランセンデンタルなものへの異様な関心を持つ中沢家の人々との議論から、前人未到の新しい史学が誕生してゆく過程がえがかれてゆきます。

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

いくつか印象に残った事柄を書きとめておきます。
(1)1968年1月中沢新一の父厚は、佐世保に入港するエンタープライズを阻止しようとして、反代々木系の学生と労働者がヘルメットと角材で武装して、機動隊ともみ合うニュース映像を眼にします。ここで、中沢厚は、学生と労働者がとった過激な行動、投石に心を奪われます。この投石は、厚に子供の頃の危険な遊びを思い出させます。そして、探求の結果、民俗学でいう「菖蒲切り」であることをつきとめます。この話を妹の結婚した相手にあたる網野善彦に話すと、網野は中世の飛礫(つぶて)を連想し、それが悪党といわれる人の闘い方であると言います。網野は、その後、飛礫(つぶて)による石戦の歴史の研究を行い、それが人類の原始の野生にまで根を下ろした深いものであるがわかってゆきます。この研究が『蒙古襲来』に実を結んでゆきます。
蒙古襲来―転換する社会 (小学館文庫)

蒙古襲来―転換する社会 (小学館文庫)

(2)網野善彦の研究は、日本の中世に存在したアジールの研究に向かってゆきます。アジールとは、権力の浸透を許さない独自の自由な空間、つまりサンクチュアリのことです。例えば、罪人といえども、この空間に入り込むと、当時の政治権力といえども手出しができない聖なる空間です。戦前の平泉澄の研究『中世に於ける社寺と社会との関係』は、アジールの存在に気づきながらも、最後は皇国史観の立場から、これを異常な畸形的なものと見做し、最後は国家の力でこれを無くすべきとします。網野は、これらのアジールが、非常に古代から続いてきたものであり、人間のトランセンデンタルなものへの欲求が生み出した普遍的なものであると考えます。ここから、網野史学の代表作となる『無縁・公界・楽』が誕生します。(3)唯物史観などを信じる進歩的知識人のなかには、天皇制を、デモクラシーの啓蒙によって消滅させることができるとする人がいますが、網野はそうは考えません。網野は武家政治の時代になっても、当時の権力者がなぜ天皇制を残したのか考え、後醍醐天皇南北朝時代に着目します。そこでは天皇はふたつの顔をもっており、表で農耕民と結びついており、五穀豊穣を祈願する神道の行事をとり行うわけですが、もう一方では非農耕民と結びついており、二重の支配構造をしているわけです。網野は、天皇制の構造と探求すると同時に、差別の起源に迫ります。ここでの成果は、『異形の王権』です。
異形の王権 (平凡社ライブラリー)

異形の王権 (平凡社ライブラリー)

『僕の叔父さん 網野善彦』が描き出す網野善彦像は、絶えず中世を研究対象にしながら、その背後に精神の古層に辿りつこうとする姿勢を持った人であったということです。網野は、精神の古層にまで遡り、そこから時代の作り出した「人間」や「日本人」や「常民」といった概念が、いかに人間を歪めているか、天皇制と結びついた「国体」概念が、いかにCountry's Beingを縛っているかを明らかにし、そこから解放しようとする姿勢を持っていたということです。中沢新一のこの本は、そんな網野のエッセンスを伝える良い本です。しかし、網野の凄いところは、そんな途方もない理想を実現するために、膨大な古文書を読み、立証する努力の人であったことです。私は、この本を読んで、深い感動を覚えました。