ジャック・デリダを巡るあれこれ

今月の『現代思想』(青土社)の特集は、ジャック・デリダ、『ユリイカ』(青土社)の特集は、宮崎駿とスタジオ・ジブリです。『ユリイカ』の方は、『フリクリ』の監督、鶴巻和哉が登場しているのが注目されます。(ちなみに、先月の『ユリイカ』は、<建築探偵>の藤森照信の建築家としての仕事にスポットを当てたもので、藤森照信中沢新一の対談が収録されていました。) ジャック・デリダの仕事について、少しコメントを書くとすれば、自分が語るのを聴くというロゴス中心主義的な西欧形而上学の閉粋を批判し、論理の徹底化によって、思考の体系の外を目指す脱構築を展開し、構造を支えるゼロ記号を否定し、ポスト構造主義への道を開き……という基本路線に、異議はありません。(現在、teacup出張所で断続的に展開している理論構築の試みは、仏教の因縁論=構造主義的事的世界観の段階まで来ていますが、さらに因縁論を支える普遍的ダルマの否定=ポスト構造主義的ゼロ記号批判を展開する予定です。)しかし、デリダにおいて注目されるべきは、晩年のマルクスへの言及でしょう。今村仁司によれば、デリダ脱構築の思想は、アルチュセールの重層的決定の理論に繋がり、その水脈を辿るとマルクスに至るとのことです。
デリダの理論に関して言えば、コリン・ウィルソンは『知の果てへの旅』で否定的な言及をしています。コリン・ウィルソン構造主義以降の思想動向には、否定的で、構造主義ポスト構造主義もまとめて否認しています。デリダに至っては、ニヒリズムと関連付けて捉えているようです。この論評の仕方は、構造主義も、それを批判的に乗り越えようとするポスト構造主義も、ひとまとめにするところが、乱暴な感じがします。

知の果てへの旅―思想と文学の現在

知の果てへの旅―思想と文学の現在

笠井潔に関して言えば、自身の『テロルの現象学』について、デリダ形而上学に対して行ったことを、自分はマルクス主義に対して行ったのに、日本のニューアカデミズム(ポストモダニズム)は、自身の試みをネクラのパラノとして否定したという言い方をしています。しかし、晩年のデリダの『マルクスの亡霊たち』が示しているように、デリダはポスト・マルクス主義であって、笠井のようにアンチ・マルクス主義ではありません。また、笠井のようにバタイユ主義に傾倒しているわけでもありません。むしろ、笠井とデリダは、対立していると考えるべきです。コリン・ウィルソン笠井潔は『秘儀としての文学』収録の対談でも判るように、その立場は似通ったところがあります。端的にいえば、実存主義現象学パラダイムに立脚しているわけです。
秘儀としての文学―テクストの現象学へ

秘儀としての文学―テクストの現象学へ

実存主義現象学パラダイムは、哲学する契機としては非常に重要だと考えます。しかし、その世界を捉え、様々な諸問題を乗り越え行くためには、そこからの乗り越えが必要だと思われるのです。