はて、何回目の「虚構と現実の境界線のなしくずし現象」なのか

竹本健治の『匣の中の失楽』は、小説の地と柄が反転を繰り返す物語であった。彼の『ウロボロス偽書』から始まるウロボロスシリーズは、虚構と現実の境界線をなしくずしにしてゆくメタ・フィクションである。
笠井潔は、『天啓の宴』からはじまる天啓シリーズは、竹本健治ウロボロスシリーズを意識したメタ「メタ・フィクション」である。
小森健太朗の『コミケ殺人事件』は、コミケというメタ化が進行してゆく世界を扱い、これをメタ・ミステリに仕立て上げた。ここでは、内容における模造の増殖と、ミステリの形式におけるメタ化の増殖が対応するものとなっている。
P・K・ディックの世界も、現実と思われた世界が崩壊する現象を繰り返し描いている。『ヴァリス』連作は、そうした世界にあって、なおも絶対的なものを希求してしまう人間存在を描いている。
ピエール・クロソウスキーは、オリジナルと切り離された模造が増殖する世界を描いている。(ジル・ドゥルーズの哲学は、ピエール・クロソウスキーなしに考えられない。)
アレハンドロ・ホドロフスキーの映画『ホーリー・マウンテン』は、最後にこれは虚構であると宣言し、セットを壊し始める。
寺山修司天井桟敷は、最終的に観客と舞台の壁を取り壊す方向に進んだ。
ウィリアム・S・バロウズは、既成のテクストをカット・アップやホールド・インすることで、新たな世界を創出した。そのやり方は、既成の便器にサインをして、「泉」というタイトルをつけたマルセル・デュシャンに似ている。
ジャン=リュック・ゴダールは、さまざまな映画・名画・テクストを引用し、それを批評的に使用する。
ドゥシャン・マカヴェイエフは、ドキュメンタリー映像を、その虚構の物語のなかに引用する。
どれもこれも、私の関心を引く領域で「虚構と現実の境界線のなしくずし現象」と関わりのない事柄はない。そして、ネット上でも……このなしくずし現象の波から、身を守るすべはない。
中沢新一は、『チベットモーツァルト』で、向こう側の世界を知ったからといって、今度は向こう側の世界に釘付けになる、そんなことは空性の理解とはいえない、空とは向こう側にもこちら側にも着地しないことと述べている。
(ところで、吉本隆明が、糸井重里との共著『悪人正機』(新潮文庫)で、中沢新一の評価をしていました。昔の人が考えていたことを、実際に体験しようとした人としてです。吉本隆明は、ニューアカで登場したばかりの頃の中沢新一は、評価していませんでした。現代思想のタームが頻出するあの書法が、単にこれだけ知っているというひけらかしと見えたのでしょうね。もういちど、読み直してみて、この人はまじめにチベットの人々が考えたことを追体験しようとしているとわかったといいます。わかりやすい書き方をしないと、誤解されるということです。自戒せねば。)