虚無なる「匣の中の匣」http://www5.rocketbbs.com/151/yurufra2.html に、「反民主主義的イデオロギー装置」を投稿。

以下はその原文。
民主党鳩山由紀夫元代表は、「自らの独立と安全を確保するため、自衛軍を保持」することを明記した憲法改正試案の出版を予定している。民主党は、日本国憲法第9条の改憲問題に関しては、右派と左派に分かれているが、改憲自体には肯定的である。
先ごろ行われた国会の論戦でも、鳩山元代表の「自衛軍」を保持するかたちに改憲すべきという意見に、小泉首相は意見を同じくしており、民主党の右派と自民党の共闘により、日本国憲法の根幹が変えられる危険性が出てきた。
国会の中で、護憲派は著しく弱体化しており、論壇においても「戦後民主主義」を標榜しているのは少数派になってきた。その少数派のひとり、大塚英志にせよ、「戦後民主主義」はリハビリテーションが必要だと考えており、デモクラシーは危機的な状況だといえる。
自衛軍」を持ち、憲法レベルで軍事面の政策が正当化されると、次に来るのは人権の制限であり、国家的な統制の強化である。これが「戦後民主主義」と相容れないことはいうまでもない。
守りの論陣だけではつまらないので、こちらも改憲勢力に対してプロブレマティック(問題提起)をしてみよう。
現在、中国とのあいだで靖国問題が浮上している。靖国神社憲法との関係をどう考えればいいのだろうか。
まず、日本国憲法には政教分離の規定があり、政治がある特定の宗教団体に利する行為をしたり、宗教を用いて人間を支配してはならないことになっている。靖国神社は、宗教法人なのであるから、我が国の内閣総理大臣国務大臣が、公的な職務として参拝することには問題がある。参拝中も、内閣総理大臣国務大臣としての公的な業務をやっているというのならば、そういった宗教行為に税金を基にした給与が支払われていることになる。
各人のさまざまな宗教や信条に対し、ある特定の宗教だけを国が持ち上げることには問題がある。「国家神道」以外のキリスト教・仏教・無神論等を信じるものにとって、内閣総理大臣国務大臣による公的な参拝は、不利益な行為である。その特定の宗教を使って、カリスマ支配をしたり、マインド・コントロールをするようになれば、さらに問題である。内閣総理大臣国務大臣による公的な参拝が、現在の日本国憲法政教分離規定に違反する違憲的行為であることは明白である。
しかし、靖国神社護国神社というものは、それだけでなく歴史的な特殊性がある。単にA級戦犯が合祀されていることだけではない。国家によって、普通の宗教の上位にある習俗であるとされ、「国家神道」として再編成され、戦前の日本において、軍事面を支える「国家のイデオロギー装置」(ルイ・アルチュセール)として機能したのである。神道の起源は、アミニズムやシャーマニズムから自然発生的に生まれたものと考えられるが、「国家神道」になると国家政策のプログラムのなかで考え抜かれたものになっており、ファシズムの美学を完成形に導くように再編成されている。
富国強兵をスローガンに、植民地主義帝国主義戦争を展開していた戦前・戦中の「大日本国帝国」にとって、戦没者を神格化する靖国神社護国神社は、なくてはならないイデオロギー機能を果たしていた。仮に、その「国家のイデオロギー装置」としての機能が円滑に働いていないならば、戦没者が戦地で行ったこと(植民地主義的政策のための駒として働き、無辜の民衆を虐殺したこと)や、その悲惨な死が露呈してしまい、厭戦ムードの温床になることだろう。戦前・戦中の靖国神社護国神社は、それらのリアルな死を見えなくさせるために機能していたのである。
戦前・戦中の「大東亜共栄圏」という言葉は、植民地主義的侵略行為を見えなくさせ、西欧の植民地主義から亜細亜と環太平洋地域を防衛するという大義名分を、戦争に与えた。こうして、「大東亜共栄圏」の防衛という正義のために、大量虐殺と破壊行為が正当化された。しかし、当時の「大日本帝国」は、それだけではなく、靖国神社護国神社という「国家のイデオロギー装置」によって、<御国のために死ぬこと>を美化したのである。
つまり、靖国神社護国神社は、日本の国家主義民族主義植民地主義帝国主義・軍事大国主義化を完成させるために用意されたのである。
だから、戦没者のために真剣に祈り、平和を願うのであるならば、彼らを死の淵に追い込んだ靖国神社護国神社に参拝するのではなく、靖国神社護国神社を戦前の日本に復古させる危険性を持った宗教団体であるとして、破壊活動防止法の適用すら真剣に検討すべきなのである。過去の国家政策の一翼を担ったものを、過去の国家政策の遺物というべき人権蹂躙の法律で制限する。これは自己言及的な脱構築的アイデアだと思うが、いかがであろう。