アレクセイの花園 http://8010.teacup.com/aleksey/bbs に、「死と救済と」を投稿。

以下は、そのダイジェスト。
人の死は、人間を深く考え込ませるもので、ここ数日の花園のログを見ながら、自分の身内の死に直面した場合に、園主さまのように冷静に自分を客観視して振舞えるだろうかとか、自分の死といういつか来る不可避の宿命に対し、どう考えるべきなのか、あるいはまた、自分の死という究極のアポリアに対して、果たして既成の宗教は人間に救済を与えることができるのか、等について考え込みました。
私の場合、自分が生後5ヶ月目のときに、父親を亡くしました。そのため、父親と対話した想い出というものはないのですが、不在の父を意識するたびに、死という人間の限界というものを考えずにいられませんでした。私は、子供時分から、「平凡な日常生活の中にも、絶えず危機の意識を持て。」と絶えず自分に言い聞かせる奇妙な子でした。この世界の幸福というものは、さまざまな条件に支えられて成り立っており、いつか瓦解するはかないものだと考えていました。その後に、「メメント・モリ(死を忘れるな)」という格言や、死の問題を扱ったトルストイの『イワン・イリッチの死』に出会い、この問題についてますます考えるようになりました。
イワン・イリッチというのは、ごく平凡なロシア人です。彼は家庭にも恵まれて、物質的にはなにひとつ申し分のない暮らしを送っているのですが、あるとき自分が不治の病に侵されていることを知ります。それ以来、周りの幸せな風景と隔絶した孤独な内面生活が始まります。彼はこういう事態になって、癒されない自分の精神に気づきます。彼が死ぬとき、周りの人は「終わった」といいますが、彼の意識は「始まった」と考えます。トルストイは『生命について(「人生論」という題で日本で親しまれてきた本)』の中で、エゴイスティックな動物的個我による生存と、利他主義的な理性による生命を区別し、前者は死によって終わるが、後者は不滅で永遠であるとしています。イワン・イリッチの「始まった」という言葉は、肉体を離れた霊的な生活のはじまりを指しています。
トルストイという人は、世俗にまみれていない原始キリスト教を理想にした人で、当時のキリスト教の制度に批判的でした。人間にとって、救済とはなにかということを追求してゆくと、どうしても既成の宗教に飽き足らなくなる場合が多いようです。
ただ、トルストイのいう永遠の生命というものが、私には彼が考えるかくあるべし(当為)、つまり願望思考に過ぎず、実際の世界(存在)がそうである保証はどこにもないように思われ、不満でした。私のその後の精神生活は、この不満が出発点になっているように思います。