雨宮処凛の『暴力恋愛』(講談社文庫)について

雨宮処凛の『暴力恋愛』を購入したのですが、引越のダンボール箱のどこに格納したのかわかりません。毎日、ここをチェックしている人ならお分かりのように、3月1日付異動と勘違いし、片っ端から箱づめをしてしまったのです。今日、改めて確認したのですが、総務だけでなく、異動の内示をした人からして3月1日付異動と勘違いしていたようです。実際は、3月15日付異動のようです。正式な辞令はまだです。本当は、正式な辞令の前に言うなと言われており、こっそりと引越業者の見積を取るのに苦慮したりしているのですが、私の実物を知る人で、ここを見ている人はいないはずですので、こうしてあけっぴろげでもいいのです。

暴力恋愛 (講談社文庫)

暴力恋愛 (講談社文庫)

というわけで、文庫は現在捜索中ですが、単行本を先に読んでいるので、内容の方はしっかりと把握しています。
暴力恋愛

暴力恋愛

雨宮処凛は、元いじめられっ子で、アトピーの悩みを持ち、リストカットオーバードーズをくり返していました。自分だけの何かを探して、ビジュアル系の追っかけをするようになり、次第に自己表現に目覚め、天野可淡の影響で人形づくりを始めますが、アトピーのせいで断念します。
雨宮処凛の特徴は、いつも生きることの意味への癒しがたい渇きがあり、それが激烈な選択に導いてゆきます。民族派右翼に接近し、「超国家主義『民族の意志』同盟」の女闘士・活動家としてミニスカ右翼の異名を取り、民族派パンクロックグループ「姫処凛」「維新赤誠塾」「大日本テロル」のボーカリストになります。転機となったのはドキュメンタリー映画『新しい神様』の題材となったことです。
新しい神様 [DVD]

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このドキュメンタリー映画で、土屋豊監督は、悩み、逡巡し、リアルな生の手触りを探してあがく雨宮の生の姿を映し出します。この映画をきっかけに、雨宮は自身を語った『生き地獄天国』を書きます。
生き地獄天国

生き地獄天国

ここから、雨宮の作家生活が始まります。雨宮の作品は、ジャーナリスティックな作品と文学作品に分かれます。『自殺のコスト』では、恐るべき取材能力で、自殺にまつわる損得勘定をリアルに暴きだします。この本には、自殺をするなとは一言も書かれていませんが、これを徹底的に読み込んだ人は、自殺が不可能になるのではないでしょうか。
自殺のコスト

自殺のコスト

『暴力恋愛』は、雨宮の初の文芸作品です。この作品で、ドキュメンタリー映画監督とその被写体となった女性の恋愛心理が描かれます。この女性の精神の中に、確かなものはなにもないという深い虚無があり、その自覚が暴力的なほどの激しい意味の希求に繋がります。
この路線で、雨宮は『EXIT』を書いています。これは、自傷ネット掲示板に書き込む若者の生態を描いています。掲示板という装置のおかげで、派手な自傷で、見るものの関心を奪うことが快楽となり、投稿者間で競争が始まり、自傷行為エスカレートしていきます。そして、回復不能な悲劇が起きます。
EXIT

EXIT

また『友だち刑』がいずれ単行本化されると思います。
ジャーナリスティックな作品としては、自身のアトピー体験を語った『アトピーの女王』があり、巻末に包帯ぐるぐる巻き状態の雨宮の写真が載っています。
アトピーの女王

アトピーの女王

また、政治問題を扱った作品に『悪の枢軸を訪ねて』があります。
悪の枢軸を訪ねて

悪の枢軸を訪ねて

悪の枢軸を訪ねて (幻冬舎文庫)

悪の枢軸を訪ねて (幻冬舎文庫)

この作品は、体験的ドキュメンタリーで、北朝鮮イラクへの訪問記となっています。ここで、雨宮は「悪の枢軸」と呼ばれる国の本当の姿を報告すると同時に、罪のない人々が為政者の都合による戦争や飢餓、全体主義的統制によって殺されているとし、「偉大な主席」や「民族の誇り」、「アラブの大義」といったスローガンに疑問を投げかけています。
また、『戦場へ行こう!〜雨宮処凛流・地球の歩き方〜』も、警察によるガサ入れ体験を語ることから始まり(というのは、よど号の子供たちの帰国に雨宮が関与したからである)、戦争直前のイラクに突入するといった破天荒な生き方が描かれます。
戦場へ行こう!!雨宮処凛流・地球の歩き方

戦場へ行こう!!雨宮処凛流・地球の歩き方

さて、私が雨宮をどのように評価しているか、を書きます。
(1)雨宮処凛は、実存者(単独者)の文学をやっているということです。実存主義者ではなく、実存者(単独者)です。実存論的ではなく、実存的です。ハイデッガーサルトルは実存論的です。彼らは実存的に生きることについて学問的に追求している。しかし、ニーチェキルケゴールは、単に実存的です。生きることが問題であって、生きることに関して学を打ち立てることは二の次なのです。また、サルトル実存主義的です。実存を武器として、手段として使っているわけです。しかし、ニーチェキルケゴールは、単に実存的に、生々しく生きることだけがテーマなのです。
雨宮の意味への渇望は、実存者(単独者)だからです。雨宮の悩みは、実存的なのです。雨宮は、絶えず壁にぶつかり、変わり続けます。
雨宮のそれぞれの時点での結論、民族派右翼とか、靖国に関する意見とかに関しては、私は評価していません。正反対の意見の持ち主というべきです。しかし、雨宮が重視しているのは、「偉大な主席」や「民族の誇り」よりも具体的な人々の生なので、この視点を見失わない限り、大きく道を間違えることはないと考えます。
(2)雨宮処凛は、文体が優れています。ぐいぐいと読ませる力を持っています。『暴力恋愛』を読んで連想したのは、松浦理英子の『セバスチャン』(河出文庫)です。これは、最大級の評価です。出来れば、ジャーナリスティックな文章も面白いのですが、文学作品に力を注いで欲しいです。永く残るのは、文芸作品ではないかと思うからです。