新しいボトルに古い古酒…

BBS「アレクセイの花園」掲載原稿の再録。
「ふたつの話題」
笠井潔著『ヴァンパイヤー戦争』(講談社文庫版)について
講談社文庫版、全11巻が完結しましたので、少しコメントをしたいと思います。
今回、笠井潔は「あとがき」のなかで、東浩紀に『ヴァンパイヤー戦争』が「ライトノベルの先駆的な存在」と言われ、東説を実験的に正しいか確認するためにライトノベル的体裁で再刊してみることを思いついたと書いています。
さらに笠井潔は、講談社文庫版の読者の大多数は、「二十歳前後で、武内崇さんの表紙イラストに抵抗を感じない人たちでしょう」(332頁)と書いています。そのあと「抵抗を感じないどころか、武内イラストに惹かれて……」と続くのですが、なぜ笠井潔はまず「抵抗」ということを考えてしまったのかと、少し怪訝に感じました。
なんだか、精神分析っぽい見方かも知れませんが、笠井潔自身が、<本の中身とパッケージがちょっと一致していないんじゃないか>と、「抵抗」をおぼえたから、こういう推論をしたのではないか、と思ったのです。
「あとがき」の最初の方で、笠井潔永井豪の評価をしていますが、勿論、永井豪武内崇(TYPE−MOON)の描き方はあまりにも違いすぎています。永井豪が本音、武内崇は売るための手段というのが、私の仮説です。
「文の商人」を選んだ人ですから、当然といえば当然ですが。
(備考)
東浩紀のTYPE−MOONの『Fate』について「『エヴァ』以前というか、『ガンダム』以前への回帰」(『美少女ゲームの臨界点』129頁)といっており、TYPE−MOONに対して高い評価をしているとはいえません。

辺見庸×坂本龍一『反定義〜新たなる想像力へ』(朝日文庫)について
辺見庸のジャーナリスト時代の経験を語っている箇所に、衝撃を受けました。彼はバングラデシュで四十人ほどの死者を出したフェリー事故のニュースを、担当デスクとして十五行の記事にさせたことを例に挙げ、新聞の紙面の広さというものが、米国で起きた死亡事故とバングラで起きた死亡事故を同等に扱わないということを指摘します。
アメリカの軍事産業というものが、キリングレイト(殺傷率)という観点から、精密工業化してきているという鋭い指摘には、納得させられます。
9・11を契機とするアメリカによるアフガニスタンの爆撃に関して、世界の知識人は、チョムスキーといったごく少数を除き、ほとんど沈黙したということに対して、深い絶望感が語られています。原因や責任を分散してしまう言説を語ってしまったデリダや、テロからの防衛のため、自由の一部制限もやむなしと語ったサルマン・ラシュディらが名指しで批判されています。ここで、現状に対する批判的な言説を構築しないことが、さらに暴力と破壊の連鎖を生み出すことを指摘しています。
テロリズムの抑止のために、新しい植民地主義が必要だとする恥さらしな主張すら台頭してきていると言っています。
・文庫化に際して、中沢新一の解説がつきました。彼は、ここでポストモダン以降の思想が、なぜ9・11以降のアメリカによるアフガニスタン侵攻に異議申し立てできず、腰抜けになってしまったのかを、考え抜こうとします。彼自身ポストモダンに関わった人間として、です。ポストモダンの思想は、この世の中に絶対的な悪や不正があるとするグノーシス主義的な考えを否定し、スピノザ的な考えに基づき、資本主義もまた人間の脳が生み出した善なるものの現われであると考えます。問題は、この善なる意思が十全に発現できていないからであるとして、資本主義の内部から自由を目指し、システムを開こうとします。結果として、状況の悪に対して対抗する言説を生み出せなくなります。中沢は、こういった事態からの脱却の糸口として、状況への根底的な異議を唱える思考を鍛えようとする辺見や、グローバリズムに対抗して、近代を超えた地点に退却することを考える坂本の方向性に注目します。
・現在、最も考えなければならないことを示してくれる本として、推薦いたします。