国家民営化論、あるいは弱肉強食の肯定

笠井潔の『テロルの現象学』は、マルクス葬送派の論客であることを表明した著作であり、マルクス主義による、「絶滅=労働収容所」群島を、集合観念の噴出によって転覆させようとするねらいを持っていた。しかし、集合観念による革命のヴィジョンは、笠井自身『ユートピアの冒険』(毎日新聞社)で認めているように、閃光花火革命論であり、永続的なものではなかった。集合観念という観念による観念の浄化は、永続化によって新たな制度に転化する。ゆえに、笠井潔のヴィジョンでは、自身のポジションの絶えざる移動による新たな集合観念の噴出が必要とされた。

国家民営化論―ラディカルな自由社会を構想する (知恵の森文庫)

国家民営化論―ラディカルな自由社会を構想する (知恵の森文庫)


笠井潔ユートピア論が新たな展開は、本書『国家民営化論』にみられる。本書でみられる見解は、一言でいえばアナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)である。
まず、笠井はマルクス主義活動家時代の自分は勿論、その後のマルクス葬送派としての自分の批評活動も「理想のために死ぬ」ことを是とする、つまり「理想のために殺せ」に転化する武士の論理であったとして、本書をもって「文の商人」に転向したと宣言する。つまり、このときから笠井潔は資本主義を是とし、ゼニのために仕事をする人間となったのである。
『国家民営化論』は、あらゆる国家の機能を、民営分割化し、資本主義的競争原理を持ち込もうとする。『国家民営化論』の価値体系は、国家ではなく、貨幣が第一に価値があるものとされる。
本書で主張される民営分割化の対象は、教育・警察・刑務所・議会・裁判所……要するに国家の機能のすべてである。警察が民営分割化するということはどういうことか。それは複数の警備会社が乱立し、市場原理によってサーピスの悪い会社が淘汰される世界である。裁判所も私立になり、個人には武装自衛権と決闘権が与えられる。つまり、犯罪の被害者の親族は、加害者に対し、自力制裁をする権利を有するということである。
笠井潔は、このように国家の全機能を民営分割化していっても、市場原理による淘汰が働くから、サービス面で劣る会社は潰れるので大丈夫だと考える。反面、個人の権利は、先に述べた決闘権は勿論、安楽死や自殺の権利まで保障されている。
笠井が主張するのは、これから市場社会に出ようとする人間は、平等なスタートラインに立つべきだということである。そのために、相続税を相続する遺産の100%に引き上げようとする。つまり、遺産相続を禁止するということである。
笠井潔が「文の商人」に転向した思想的背景には、吉本隆明の「歴史の無意識としては、資本主義は、最高の作品である。」(註)という発言が影響している可能性がある。吉本隆明の周到さは「歴史の無意識としては」という但し書きをつけていることである。これは、これまで歴史上に現れたあらゆる社会システム(専制君主制、全体主義体制、スターリン主義体制、等)と比較しての話だということである。しかしながら、吉本のこの発言は、この但し書きをつけるのを忘れる人が多いという問題がある。
確かに、「絶滅=労働収容所」群島よりは、資本主義の方が自由があり、評価できる。しかし、これは他の社会システムと比較しての相対的な評価であって、資本主義に欠陥がないわけではない。笠井潔の『国家民営化論』が適用された場合、実現するのは弱肉強食の過酷な世界である。いくら復讐の権利が与えられているとはいえ、武術に秀でていない者は返り討ちに会うかも知れず、結局は犯罪を犯しても強者ならば勝てることになるのである。
また、理想ではなく、ゼニが至上価値となることで、倫理的な価値判断の思考停止が起きることになる。「文の商人」と笠井が言うとき、彼は自身の職場である文壇を意識しているわけだが、倫理的な価値判断の思考停止は、売れさえすれば粗悪品でも良いということに繋がる危険性がある。笠井は、これに対し市場原理による淘汰があるから問題は発生しないとするだろうが、粗悪な文学作品を、徒党を組んで価値ありとして、パッケージングをして市場に売り、消費者をだますという悪徳商法が成り立つのである。(たとえば、面白くもない緊張感もなく冗長なだけのミステリ作品を、ミステリの大賞をとった優れた作品であると広告して売るというようなケースが成り立つ。)
したがって、笠井のこの本は思考実験としては面白いが、これはトンデモ本であり、実現された暁には相当なアクシデントが発生されることは間違いないのである。笠井は、この本はアナルコ・キャピタリズムマニフェストであり、具体的な政策は別途上梓するというかも知れないが、原理的な面で弱肉強食、勧悪懲善を含んでいる以上、具体化で解消される欠陥であるとは到底思えないのである。
思考実験ということであれば、笠井が『サマー・アポカリプス』で言及したルドルフ・シュタイナーの方が遥かに魅力的な社会像を提出している。シュタイナーは社会の三層化ということを言っていて、人間の精神生活では自由を第一とする自由主義的立場をとり、経済生活では社会的弱者を救済し、平等が必要とする社会主義的立場をとり、政治生活では個人の人権を重んじる民主主義的立場をとる。ところが、笠井の場合、市場原理をまるで欠陥がひとつもない完璧なシステムであるかのようにして、すべてに適用しようとするのである。そのような絶対的に正しい原理など、この世界にはないとみるべきではないかと思う。
しかしながら、笠井に市場原理を全面適用した際の欠陥が見えていないのは、笠井の行動原理が常にルサンチマンに由来しており、弱者への愛に由来するものではないからではないか、と推察される。笠井は常に至高性という観念に憑かれた書き手であり、民主的であるかは彼の価値判断に含まれていないのである。

(註)吉本隆明はこの発言を繰り返し行っており、以下のテクストで確認できる。
・『マリ・クレール』(中央公論社)1987年4月号303頁に掲載されたフェリックス・ガタリとの対談『善悪を超えた「資本主義」の遊び方」』
・『いま、吉本隆明25時』(弓立社)383頁
・カセットブック吉本隆明『文学論』(弓立社)Ⅱ-B