奥泉光著「モーダルな事象―桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活」

 東大阪のしがない短大の桑潟幸一助教授は、たまたま『日本近代文学者総覧』で、意に反して溝口俊平なる無名の童話作家の項を書いたがゆえに、溝口の新発見の遺稿と称するものの解説を依頼される。溝口の遺稿は、どうみてもくだらない作品であったが、泣ける童話として、発見にまつわるでっちあげられた美談とあいまって、ベストセラーとなる。しかし、この遺稿の出版に関わった編集者が、首なし死体として発見され……。
 本書の探偵役は、ジャズミュージシャンの北川アキと、元夫で編集者の諸橋倫敦。こうして、本書は、あたかもミステリの譜面に沿って進行するかに見えるのだが……タイトルにモーダル (modal) とあるように、コードよりもモード(旋法)に沿って進むモダン・ジャズのように、途中からミステリの論理学にそぐわないようなおぞましい悪夢のようなシーンが差し挟まれるようになる。アトランチィスのコイン、ロンギヌス物質、戦時下における非人道的な人体実験(?)、MD世界心霊教会なるカルト集団……近代合理主義をねじ伏せるようなオカルティックな論理は、幻覚なのか、現実なのか。
 この物語は多層構造になっているようにみえる。まず、表面の第一層に、ミステリがあり、絡まった事象を解きほぐそうとする謎解きがある。その下の第二層には、歴史的真実があり、戦時下の日本における人権蹂躙の問題があり、一見そういった日本にアンチを示しているかの如きカルト宗教が、その実、日本的な権力システムを極端化しているのではないかという問題意識がある。さらに、その下には桑潟幸一の行動と思想によって明らかになるコールタールのように、どろっとして、粘りつく、おぞましい現実がある。この最後の層を描きこむことは、本格ミステリのロジックにとって、リスクを伴うと思われる。合理的に解き明かすことのできないロンギヌス物質なるものを、ミステリに導入することは、物語を破綻させかねないからである。なぜ作者は、SF的とも超論理的ともとれる、このような文学的装置を導入することにしたのだろうか。それは、ここに作者の言いたいことが含まれているからである。
 本書が終わったところから、近代日本文学のなかの事件性が問われることになる。桑潟幸一のぶつかる問題は、終始、近代日本文学の問題である。そこには高澤樹江なるポストモダン思想家も出てくれば、鍋直美とか鮭秀実だとか現実世界に実在する批評家を髣髴とされるような人物名が登場してくる。となれば、この物語を、近代日本文学という事件を問うメタ文学として読み替えても、間違いではないのではないか。
 ロンギヌス物質は、粘菌をもとに着想されている。個としての知的生命体を終焉させ、細胞を融合し、複数の核を持つ奇怪な化け物をつくり、「トータルな死の国」を志向する固体に変えること。これは、政治的には共同体への全面的帰属、日本型ファシズムへの志向を意味する。(これに対して、探偵小説の探偵たちは、個の論理で、集団の論理に対抗する。諸橋倫敦のロンドンは、シャーロック・ホームズのロンドン、個人主義のロンドンを連想させる。また、北川アキのフリー・ジャズは、文字通りフリーを連想させる。いずれにせよ、共同体への全面的帰属にそぐわない特性を持っている。)そして、近代日本文学もまた、本居宣長を論じつつ櫻に死の美学を見出すとか、『葉隠』に自刃の悦楽を見出すとか、要するに「死の日本文学史」の一環としてあるのであり、そこには「トータルな死の国」を志向する精神性があるのではないか。そして、情緒的なお涙頂戴の、内容的には無内容のベストセラー文学の多くが、純文学の「トータルな死の国」への志向に無批判・無反省であり、むしろそれを補完し、問題を見えなくさせるイデオロギー効果(いわば、感覚を麻痺させる注射のようだ)を果たしてきたのではないか。では、このような「トータルな死の国」への志向から、日本文学を救出することは可能だろうか。
 このような問題系に対して作者が重視するのは、春狂亭猫介の立場、駄洒落を重視する立場である。現実世界に置き換えると、柳瀬尚紀のような文体だろうか。なるほど、これならば意味を脱臼させ、「トータルな死の国」を志向する真面目な人々に、ぎゃふんと言わせることができるかも知れない。とはいえ、「トータルな死の国」を目指す強力な権力意志と比べると、この戦略はなかなか険しいように思われる。一体、この絶望の淵から逃れるすべはあるのだろうか。