アセファル宣言

 アセファルとは、無頭人である。と、同時に千の仮面を持つ人間でもある。
 エルンストの『百頭女』を超えて、無頭人とは光速で仮面が交替するがゆえに、映像として定着することのない頭を持った人なのだと想像してみよう。
 

百頭女 (河出文庫)

百頭女 (河出文庫)

 ここにおいて、私たちはバタイユの思考圏を逸脱し、新しい領域に踏み出すことになる。
 
無頭人(アセファル) (エートル叢書)

無頭人(アセファル) (エートル叢書)

 
聖なる陰謀―アセファル資料集 (ちくま学芸文庫)

聖なる陰謀―アセファル資料集 (ちくま学芸文庫)

 召喚されるのは、ニーチェ、自己同一性から解き放たれたニーチェであり、アセファルをこう解釈することによって、クロソウスキー的観点を持ち込むことができる。
 アセファル主義とは、無意識の世界から、国家権力や国際政治のレベルに至るまで、あらゆる段階で、われわれをコントロールする頭を切断し、千の顔、すなわち多数多様態を導入しようとする志向を指す。
 この根底にあるものは、生命論である。バタイユの『呪われた部分』とともに、私たちは太陽エネルギーによる生命力の過剰を、論理の出発点にしても良いが、この生命は進化するエラン・ヴィタルでもある。
 
呪われた部分 (ジョルジュ・バタイユ著作集)

呪われた部分 (ジョルジュ・バタイユ著作集)

 
精神のエネルギー (平凡社ライブラリー)

精神のエネルギー (平凡社ライブラリー)

 進化論について、ラマルクの用不用説よりも、ダーウィンの適者生存・生存淘汰説の方が現実味がありそうであるが、一挙に新しい種が出てくることが説明できないがゆえに、レトロウィルスによるウィルス進化論が、説得力のある理論のように思えるが、だとすれば進化の方向が概して環境に適合する方向に向かうケースが多いのはなぜか、ウイルスならば退化も進化も同程度の確率で起こるはずだが、首の低いキリンの化石が少ないのはなぜかという疑問が残る。やはり、生命自体に目的論的な志向性を認めないわけにはいかないのではないか。
 
動物哲学 (岩波文庫)

動物哲学 (岩波文庫)

 
ウイルス進化論―ダーウィン進化論を超えて (ハヤカワ文庫NF)

ウイルス進化論―ダーウィン進化論を超えて (ハヤカワ文庫NF)

 私たちの造りだす社会は、類型的に見ると、三つに分類できる。アルトーの『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』は、その三つの類型を明らかにすると同時に、アセファル主義の方向性を示唆する。
 
ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト (白水Uブックス)

ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト (白水Uブックス)

ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』は、三つの章に分かれていて、「I 精子の揺籃」「II 原理の闘争」「III アナーキー」となっている。「I 精子の揺籃」がコード化された共同体の誕生を描き、「II 原理の闘争」が超コード化された専制君主社会を描き、「III アナーキー」が脱コード化された多数多様な方向への生成を描いている。
 社会を分析する際に、私たちは経済学批判的な視点と精神分析的な視点を手離すことができない。W・ライヒの著作は、非常に粗削りなやり方ではあるが、先駆者として示唆的な内容を含んでいる。私たちはW・ライヒに、構造主義以降の知見を導入し、理論のヴァージョン・アップを図るだろう。
 
オルガスムの機能 (1973年) (W.ライヒ著作集〈1〉)

オルガスムの機能 (1973年) (W.ライヒ著作集〈1〉)

 アルトーの導きによって、私たちは、次の三つの社会のモデルを手に入れることができる。
形態1……(国家以前の)共同体
形態2……専制君主社会
形態3……一定方向の生成という点で制限をかけられた資本主義社会と、その先にあるストッパーを外したアナーキー状態
 形態1は、レヴィ=ストロースが熱力学の比喩を使って、歴史的変動のない「冷たい社会」としたものであるが、私たちはレヴィ=ストロースに対抗して、ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』と見做すだろう。形態1から、形態2への変貌は、国家に抗する力の敗北として捉えられることになる。
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 形態2は、超越的な至高点から、共同体を見下ろす形を取る。この至高点は、第三項であり、第三項としての主体Sからの呼びかけに対して、小文字の主体sが応え、さらには小文字の主体sが自身に呼びかけ、自己が自己を管理する形で、統治のエコノミーが達成させられる。
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 形態2に対して、私たちは「呪われた部分」からのディオニュソス的叛乱を呼びかけるが、この叛乱は排除された第三項としてのスケープゴートになるか、新たなる王として超越的な第三項になるか、である。つまり、形態2に対する抵抗として、私たちは前述のバタイユ『呪われた部分』を提示する。
 しかしながら、叛乱もまた、その社会の規則に従う。別の形態への移行は容易ではない。
 形態2の専制君主社会から、形態3の資本主義社会への移行の説明として、私たちはカール・ポランニーの『大転換』を導入する。
  
 形態3において登場するのは、資本主義社会である。この社会形態は、形態1や2と比較すると自由度が高いが、貨幣という価値に縛られ、その利潤追求という一定方向への生成だけが意味のあることとされるが、人間の欲望の高次化、ここでマズローの欲求の五段階説を想起しても良いが、やがて多種多様な方向への生成を肯定する方向に向かうだろう。
 形態3における最後のストッパーの解除に示唆的なのは、シャルル・フーリエの『四運動の理論』と『愛の新世界』であり、クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』と『生きた貨幣』である。これらは、人類が次なる未知の領域に踏み込む際の鍵となるだろう。
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