千葉雅也著『動きすぎてはいけない』書評

初出掲載:http://ameblo.jp/le-corps-sans-organes/entry-11737680081.html

◆関連URL
東浩紀×千葉雅也 新著『動きすぎてはいけない』をめぐるやりとり
http://togetter.com/li/584338
ツイッターで、私が「千葉雅也氏の『動きすぎてはいけない』の帯に、東浩紀氏が「本書は『存在論的、郵便的』の、15年後に生まれた存在論的継承者だ。」と書いているのですが、郵便的継承者ではなく、存在論的継承者としているのが引っかかります。いや、なに、あの本では郵便的の方が肯定的な意味を持たされていたので。」と書いたことから始まった東浩紀氏と千葉雅也氏の対話の記録。

【論壇女子部が行く!(2)】 千葉雅也(上)――自分が楽しいということを譲らない
http://astand.asahi.com/magazine/wrculture/special/2012032100011.html

【論壇女子部が行く!(2)】 千葉雅也(中)―― 技術と思想は一体でなければいけない
http://astand.asahi.com/magazine/wrculture/special/2012032800002.html

【論壇女子部が行く!(2)】 千葉雅也(下)―― まっとうであることを引き受けすぎない
http://astand.asahi.com/magazine/wrculture/special/2012040600013.html?iref=webronza

◆1◆ 概論
 浅田彰『構造と力』(1983)は、構造主義(実体論批判と関係論へのパラダイム・シフト)−文化記号論(構造とその外部の弁証法)−ポスト構造主義(構造から機械・装置へ)と、三段階でドゥルーズ=ガタリの哲学に至る道を示したのに対し、東浩紀存在論的、郵便的』(1998)は、ポスト構造主義を、論理的・存在論脱構築(ハイデッガーゲーデル)と郵便的脱構築フロイトデリダ)に峻別し、前者の否定神学システムを批判すると同時に、後者が切り開く複数的超越論性に着目するものだった。
 では、千葉雅也『動きすぎてはいけない』(2013)は、いかなるバースペクティヴを開示するのか。『動きすぎてはいけない』は、従来のジル・ドゥルーズ解釈が、アンリ・ベルクソン由来の差異や連続性、そして接続を重視する解釈に偏っていたとし、デイヴィッド・ヒューム由来の切断の哲学の面もあるのだと修正を加える。(ドゥルーズベルクソン論としては『差異について』『ベルクソンの哲学』があり、ヒューム論としては『ヒューム』『経験論と主体性』がある。)『動きすぎてはいけない』は、浅田の『構造と力』と同様、ドゥルーズ派の著作である。但し、『構造と力』の後、東の否定神学システム批判があり、バディウ存在論ファシズム批判があった。千葉は、それらの批判を受け止めた上で、切断の哲学を強調することで、批判の当て嵌まらないドゥルーズ哲学の可能性の中心を示し、ポスト・ポスト構造主義の領域を切り開こうとする。
本書の導きの糸となっているのは、ドゥルーズの「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という言葉である。動きすぎで接続過剰となり、諸関係に絡め取られて、逆に動けなくなるのではなく、何かと何かを接続したり、切断したりする「と(et、and)」のあり方を変えてゆくことによって、セルフエンジョイメントに至る生き生きとした動的世界が始まるのである。

◆2◆ 詳論
 第1章では、関係束を分析=分離することによって分子的レベルで組み変わりを起こし、生成変化を可能にする事が追及され、スピノザ的な心身平行論を基に関係の外在性が説く。
 第2章はドゥルーズデイヴィッド・ヒューム論『経験論と主体性』が論じられる。人間の主体は、アプリオリにあるのではなく、経験から得られた情報の連合によって捏造される。この時、問題となるのは関係の外在性であり、関係を構成する項と項の接続あるいは/もしくは切断によって、アレンジメントの再編成が起き、主体が変容する。さらにクァンタン・メイヤスー(Q・メイヤスー、黒木萬代訳「潜勢力と潜在性」が『現代思想2014.vol.42-1現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ』に収録されている)によって極端化されたヒューム主義的偶然性の哲学についても考察される。ドゥルーズは、ベルクソンを基に差異の存在論を打ち立てたが、それは生気論的ホーリズムであり、アラン・バディウに言わせると、ドゥルーズ存在論ファシズムを潜在させている。
 第3章のテーマは、アラン・バディウ東浩紀らの批判を踏まえた上でのドゥルーズの可能性の中心は何か、である。生気論的ホーリズムは、ヒューム的な「と」の哲学で対抗できるが、そこには構造主義ホーリズムという別の陥穽がある。構造主義精神分析学者ジャック・ラカンは、ポーの『盗まれた手紙』を論じながら「手紙はつねに宛先に届く」とするが(ラカン佐々木孝次訳 「<盗まれた手紙>についてのゼミナール」は『エクリ1』弘文堂に収録)、デリダは「真実の配達人」(『絵葉書』に収録)でそのような根拠のない特権性の信仰を批判した。『アンチ・オイディプス』で、フェリックス・ガタリは、複数の対象−機械aという概念を創造することで、欠如に従属した構造主義ホーリズムから逸脱しようとする。システムの全体性の欠如を表象するシニフィアンさえもが、唯一の単一性を持つならば、否定神学的な神として超越性の光芒を放つだろう。しかし、複数的な差異の哲学と、変態化する個体の哲学を兼ね備えたドゥルーズ=ガタリの哲学は、そうした否定神学システムに収まりまらない怪物性を持っているのではないか、というのが本書の筋道である。
 第4章では『ニーチェと哲学』が取り上げられ、『スピノザと表現の問題』の延長線上にある肯定を肯定する哲学を、ニーチェ特有の結婚のメタファーで読み解こうとする。ここで課題となるのは樫村晴香の「ドゥルーズのどこが間違っているか?」である。樫村はニーチェは自身の体験・実感に基づいて哲学を語っているのに、ドゥルーズニーチェの言説に魅惑され、ニーチェの病の体験を収集しているだけだとする。樫村の批判を受けながら、千葉はドゥルーズが多なる差異についてのひとつの存在論に向かう傾向があったと認め、ドゥルーズの結婚存在論に、ヘテロの愛による相互承認による共−存在を是認する前提を読み取るが、それと同時にドゥルーズのうちに、婚礼の鏡を器官なき身体で破壊する単独者・独身者の哲学に向かう可能性があるとする。
 第5章は本書全体の狙いを明らかにする。接続を重視する関係主義的ドゥルーズ読解は、生気論的/構造主義ホーリズムに陥ってしまう。ゆえに、切断を重視し、関係づけの過剰をセーブし、複数的多元論を取り、「個体化」を促進させる。第5章ではドゥルーズが『差異と反復』において、一旦はイロニー的潜在性に向かいつつも、くそまじめに逆超越的な彼岸に釘付けにされることを嫌い、ユーモア的個体化に向かったとし、ドゥルーズの思考そのものに、動きすぎを回避する節約のエコノミーが働いていたとする。
 『意味の論理学』を扱う第6章では、ドゥルーズ哲学における「器官なき身体」の位置づけが問題となる。『意味の論理学』の前半部分は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』等の作品が論じられる。前半部分は、ラカン的なシニフィアン(意味するもの)の哲学であり、表層の論理である。これに対し、後半はアントナン・アルトーの『神の裁きと訣別するため』に出てくる「器官なき身体」が浮上し、シニフィアンを失った身体性、表層が崩壊し深層が露呈した状態が追及される。
 表層における言葉遊びは、様々な生成変化の可能性を露呈させる。それは、表層の裂け目であり、ルイス・キャロルの世界では裂け目が駆け巡ることにおいて、かろうじて世界が維持される。キャロルは倒錯者であり、さらに裂け目が大きくなり、深層に墜ちるならばアルトーのように、スキゾフレニーになるだろう。
 精神分析では、超自我/自我/エスラカン派では、さらに象徴界想像界現実界という三層構造を考えるが、身体性を伴った発達段階という観点から考えると、エスから超自我に向けて、肛門的→尿道的→性器的という対応を取る。千葉は第6章で、部分対象を肛門的に、器官なき身体尿道的に対応させる。この対応関係は、接続/切断の切り替えを可能にするヒューム的な「と」と同じポジシオンを、精神分析学および身体論において器官なき身体に与えようとする戦略である。
 ここで私見を述べると、アルトーの「器官なき身体」は、ラジオドラマ『神の裁きと訣別するため』を聴くと、組織化(オルガナイズ)された身体の反対の意味を持つことが判る。アルトーの世界観では、われわれの身体の中身にまで、権力が浸透しているのであり、わたしたちは資本主義や全体主義といったシステムのなかに組み込まれており、アルトーの詩は身体の中にまで浸透した権力を駆逐しようとする呪詛の言葉だと判る。従って、「器官なき身体」は、組織化に抗し、自らを削ぎ落とし個体化に向かう意志のベクトルとして読み解くべきだと思う。
 第7章では、ドゥルーズが論じた文学者ということで、米国の作家ルイス・ウルフソンが取り上げられる。ここでウルフソンが取り上げられるのは、その半端さ、中間性においてである。本書のタイトルは『動きすぎてはいけない』であり、ウルフソンはアルトーのように行き過ぎるのでもなく、器官なき身体を形成する途中で、中途半端に留まっていることによって、逆説的に評価されるのである。(『ドゥルーズの思想』でも、ドゥルーズ英米文学の優位を語っていた。)

 ここで連想するのは、中沢新一の「孤独な鳥の条件」(『チベットモーツァルト』に収録)である。カスタネダの『イクストランへの旅』を論じながら、呪術師ドン・ファンの言葉に中沢は注目する。

呪術師ドン・ファン曰く「見ることのない呪術師なら、同じように信じるだろう。だが、見る者は、それを信じることが呪術師の領域に釘づけにされちまうことを知っとる。」(カルロス・カスタネダ『イクストランへの旅』341頁)

カスタネダは、呪術師によって幻覚植物や世界を止めるテクニックによって、この世界とは異なる別のリアリティーがあることを経験するが、それはこの世界に釘づけにされた状態を解体するためであった。しかし、そのために別の世界が本物だと、新たに釘づけにされたら意味がない。呪術師ドン・ファンが連れていこうとしているのは、何ものにも捉われない世界、仏教で言い換えると「空性」を自覚した境地なのだから。
このことは、カスタネダの作品が虚構の部分が含まれているにせよ、なにがしかの真実を含んでいると思われる。
 第8章は、画家のフランシス・ベーコンを論じた『感覚の論理』と、文学者マゾッホを論じた『ザッヘル=マゾッホ紹介(邦題:マゾッホとサド)』を取り上げる。ドゥルーズは、フランシス・ベーコンの絵画は、歪曲された形象を扱いつつも、輪郭が維持されていることに着目する。ドゥルーズにおいては、フランシス・ベーコンを論じつつも、その背景には「法」と「マゾヒズム」がある。それゆえに、『マゾッホ紹介』は、ドゥルーズ哲学の背景となる主題を探る上で重要である。
 『マゾッホ紹介』の重要な論点。 千葉は、『マゾッホ紹介』はマゾヒズム一元論ではないが、サディズムは思弁を急ぎすぎるがゆえに、ドゥルーズ哲学では脇役に追いやられていると解する。急ぎすぎてはいけないということは、動きすぎてはいけないということに繋がる。フランシス・ベーコンのように、フィギュールを維持しつつ、急ぎ過ぎず、生きながらの死を味い、別の仕方の関係束に生成変化させるのである。
 第9章は、動物への生成変化がテーマであり、ドゥルーズが哲学的な単純な生物と考えたダニについての考察が展開される。ドゥルーズ哲学の源泉のひとつにスピノザがいるが、その後継者は「環世界」という概念を提示した動物行動学者ユクスキュルというのが、ドゥルーズの見立てである。ダニは、光と哺乳類の臭いと体温しか感じず、それらに変化があった時だけ動く。接続/切断のスイッチのオンとオフを重視したドゥルーズにとって、ダニはシンプルに必要最小限度のことをやっており、動きすぎない理想と合致したのだろう。
 こうして『動きすぎてはいけない』は、従来のドゥルーズ解釈の「接続」−関係主義的読解の偏向を、「切断」を強調することによって修正しつつ、最後、ドゥルーズが論評を書いたミシェル・トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』の世界に向かう。そこでは、無人島でのロビンソンの変容が、あたかもドゥルーズ哲学を展開するかのように描かれる。

◆3◆ 結語
 『動きすぎてはいけない』を読むことの快楽は、どこから来るのか。
 本書を読みながら連想したのは、浅田彰坂本龍一編集のカセットブック『休業[水牛楽団]』(本本堂)であった。高橋悠治による水牛楽団による音楽や、高橋悠治如月小春による言葉遊びを収録したカセットに、2冊のブックレットがついていて、そのうち一冊が浅田彰坂本龍一の対話である。そこで、浅田彰は、ゴダールについても語っていて、ゴダールには「映画ファンの神経を逆なでするようなザラザラした異物感がある」とした上で、それに対し、坂本龍一が「蓮實重彦の場合は、そこはわかっているが書かないという戦略」だと語っている。
 ヒューム的「切断」を強調する本書を読む際にも、「切断」効果がもたらした「ザラザラとした異物感」があり、アナログ的な滑らかな時間とは違う隙間感やジグザグ感があり、心地よい。
 本書では、生成変化やアレンジメント、器官なき身体が登場したが、願わくば革命的戦争機械と抑圧的国家装置、つまり権力論的観点からのドゥルーズといったテーマについても、いつか書いて欲しいと思う。


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